歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
昨日、武蔵野大学でオムニバス歴史講座「薩摩と明治維新Ⅱ」の第4回講座を拝聴に行く。私も2回目を担当した講座の続きである。

この回が最後で、大久保利通の曾孫、利泰氏の講演だった。表題が演題である。4つのエピソードから成っていた。

1:ヨーロッパに急報された訃報と葬儀余話
2:大久保利通の素顔
3:日常生活
4:岩倉使節団こぼれ話

とくに面白かったのは、岩倉使節団から帰国後、大久保の生活様式がすべて西洋式になったこと。
和服から洋服へ、火鉢からストーブへ、和食から洋食へ、という具合。
利通が毎朝飲んでいたのが、ブランデーに生卵とハチミツを入れてかき混ぜたもの。何か、精がつきそうな飲み物である。今風にいえば、ドリンク剤だろうか。内務卿という激務なるゆえか。

今回は、関連する史料や写真などをスクリーンで大きく見せられたのがよかったと思う。
小さな写真では気づかなかったが、大久保が横浜で撮影したという写真が大写しになった。右手に蝙蝠傘みたいなものを持っているのに気づいた。だから何なんだといわれると困るが、とにかく興味深かった。

講座終了後、南日本新聞に連載している拙コラムを毎回読んでいるという方から挨拶される。二本松の薩摩藩邸跡にある大学を卒業されたとかで、小松屋敷や西郷屋敷の話は興味深かったとか。また拙著も読まれたそうで、持参されていた。有難い。
また、友人の研究者、町田明広氏もおいでだった。『日本歴史』(07年10月、通巻713号)に掲載された最新論文をいただく。多謝。

「幕末中央政局における朔平門外の変―その背景と影響について―」

というもので、要するに、姉小路公知暗殺事件の真相を解明するとともに、その政治上の意義を考察したものである。随所に鋭い考察がある。この事件から8・18政変に至る薩摩藩の動向を知るよすがになると思う。
私も、田中新兵衛のことを近々書こうと思っていたので、さっそく参考にさせていただこうと思う。

なお、論文中に在京の薩摩藩士本田親雄の報告が引用されている。それには、現場に落とされていた刀(鞘か)を「薩刀ラシキ拵」とある。要するに、独特な「薩摩拵」だったと思われる。他藩でも、すぐさま薩摩藩士のものだと確認できるほど、当時から有名だったことがわかる。
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【2007/09/30 16:42】 | 幕末維新
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昨日はありがとうございました。
町田明広
桐野様
昨日は大久保利泰氏をご紹介いただき、誠にありがとうございました。
お話も家内、また、拙稿もお渡しでき、貴重な得がたい時間となりました。
拙稿も早速ご紹介いただき、重ねて御礼申し上げます。なお、掲載誌は『日本歴史』2007年10月号(713)となります。

中川宮
桐野
町田明広さん、こんにちは。

ご論考の発行月、号数を教えていただき有難うございます。さっそく本文を訂正しておきました。

一読させていただき、とくに中川宮朝彦親王の政治的立場の変化(変節か)と関連づけて論じられた点が興味深く、その後の8・18政変の伏線になったことがとてもよく理解できました。

また黒幕とされる滋野井公寿・西四辻公業のうち、滋野井はその後、慶応4年、滋野井隊という草莽隊のリーダーに祭り上げられています。彼がなぜこのような行動に及んだのか、唐突に感じていたのですが、文久年間からの筋金入りの過激派公家だったことがわかり、個人的に納得です。

多くの示唆を与えていただいた論文でした。有難うございます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第26回
―左手には手綱か生首か―

連載が更新されました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回は西南戦争終結の9月24日に近いので、西南戦争の話題を書きました。
民謡「田原坂」で「馬上豊かな美少年」のモデルとされる村田岩熊(村田新八の長男)について、福地源一郎に拾われた手帳は岩熊のものかどうかの検証など、エピソード的なものをまとめてみました。

次回は、ジメサアの命日(10月5日)がやってくるので、これを書きたいと思います。
ジメサアは持明様の鹿児島訛りですが、数奇な運命を辿った島津義久の三女亀寿のことです。お楽しみに。

【2007/09/29 10:53】 | さつま人国誌
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篤姫

別冊歴史読本の新刊です。発売されたばかりです。
詳しくはここです。

小生は「青年宰相小松帯刀―薩摩藩改革派の若き大立者―」と題した一文を書いております。

一応、小松の生涯が追えるような構成になっております。
大政奉還から王政復古政変あたりをもう少し詳しく書きたかったのですが、紙数の関係で概略だけになったのが多少心残りです。

本誌は古写真をはじめ、日頃あまり見たことがない写真がたくさん収録されています。写真だけでも見どころがありそうです。

よかったら、書店でご覧になって下さい。

【2007/09/28 20:16】 | 新刊
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購入しました。
くみ
昨日、偶然目にして早速購入しました。
これからじっくり読ませていただきます。

10月に購入します
まいたけ
 わたしも本屋で見ました。
 でも、維新祭りで買おうと思い、そのまま棚に戻しました(笑)

読ませていただきます
パルティアホースカラー
こんばんは。
表題の本が発売されたのは存じておりましたが、まだ確認しておりませんでした。

今度、拝読させていただきます。小松帯刀は興味のある人物なので、非常に楽しみです。

写真いろいろ
桐野
くみさん、まいたけさん、パルティア・ホースカラーさん

ご購読いただいたり、目に止めていただいたり、有難うございます。
篤姫や和宮に関連する古写真がいいですね。
和宮終焉の地だった箱根・塔ノ沢の温泉宿や早川が写った写真もあります。
先日のてらこや講座が視覚的にイメージできそうです。
小松についても、福井市立郷土歴史博物館が所蔵する集合写真があり、小松が写っています。よく知っている写真と似ているような、いないような(笑)。

じつは、小松の写真がこのほかに、もう1点あるのを把握しております。

しゅうごうしゃしん
まいたけ
本屋では、中身をちゃんとみてなかったのですが、箱根の和宮終焉の地などの写真もあるのですか!それは楽しみです!

小松の写っている福井の集合写真というのは、港区立港郷土資料館所蔵の「井関盛艮旧蔵コレクション」の集合写真とは違う写真ですか? 井関コレクションの集合写真は、中井弘や上野景範なども写っている写真ですが、、、

小松の写真
桐野
まいたけさん、こんにちは。

箱根塔ノ沢は明治の古写真で、和宮が宿泊したと思われる温泉宿も写っています。中田屋という宿だったみたいですね。手前を流れる早川の川底の石がよけてあるのが興味深かったです。たしか、和宮は早川の水音がうるさいと苦情をもらしたような(笑)。

小松の写真ですが、ご指摘のとおり、私が見たのは港区立港郷土資料館の図録「江戸動物図鑑」で見た写真です。これって色が着けてありました。3人で写っていて、前の2人が椅子に座っており、後ろに立っているのが小松ではないかと思います。中井弘だけでなく、上野景範も写っているというのは興味深いですね。じつは私、少しこの人のことを調べようかと思っています。開成館出の英語が出来るエリートですよね。

一方、福井市立がもっているのは、5人写っていて、みな、縁台のようなものに坐っていますね。小松は右端にいるようで、なぜか、「小松帯刀」という後世のものと思われる書き込みがあります。

同じコレクションなのかどうか、どんな関係にある写真なのか、私にはわかりません。もしご存じのことがあったら、教えて下さいませ。


まいたけ

 港区の小松・中井・上野が写っている写真は、一番左に小松がおりますので、もしかしたら、福井市立郷土歴史博物館所蔵の写真と同じかもしれません。
 五人写しの写真で、左から

   中弁 山口範蔵(山口尚芳)
   鉱山司 朝倉省吾(田中静州)薩人
   中井弘蔵(中井弘)
   上野敬介(上野景範)
   小松玄蕃
 
 このような順で掲載されているようです。 


これは、港区立港郷土資料館『写真集 近代日本を支えた人々 井関盛艮旧蔵コレクション』に載っています。

 上野でしたら、この図録には、下記の銘柄の酒をどうじ!
    上野敬助僕 左衛エ
    上野民部大丞



まいたけ

すぐ前の発言ですが、下から3行目意味不明ですね(冷汗)
図録には、上野の単独写真や下僕の写真も載っていることをお伝えしたかったのです。

この図録、桐野さんもご所蔵ではないかと思います。


写真集
桐野
まいたけさん、こんにちは。

港区の写真集、もしかして以前購入したということでしょうか? いろいろ探してみましたが、現段階では見つかっておりません(泣)。どこで購入しましたね?

港区と福井の小松を含む集合写真ですが、港区のものは小松が後ろに立っており、福井のは右端に坐っています。
小松の写り方が違うので、同じ写真の左半と右半というわけではないようです。
あるいは、同じコレクションの中の、別ヴァージョンということでしょうか?


まいたけ

 どうやら、港区の資料館には、小松が写っている写真が2枚あるようですね。1枚は、桐野さんがお持ちの図録に掲載されている写真。もう一枚は、福井にある写真と同じ写真。

 井関コレクションの写真集を再度確認したら、小松を含む3人写しの写真も、この中にありました。それによれば、右は島津修理太夫弟、真ん中で立っているのが小松、左は英国のアドミアール・キン(キングのこと)だそうです。

この3人写しの写真の右には、なんと、中原直助(猶介)の写真が載っていました。外国で撮影したらしき写真です。
その上には、島津忠義の単独写真、それから、島津の若様(?)の写真らしきものもありました。薩人では、男前の町田久成、有川矢九郎、新納七郎などもあります。他藩人では、井関が宇和島藩なので宇和島藩関係者、勝海舟、近藤勇、榎本武揚、大久保一翁、板倉勝静などの幕府側の人。長州では高杉晋作、井上聞太、木戸孝允、遠藤謹助、伊藤博文など。土佐では、山内容堂、後藤象二郎、北代正臣。外国人の写真もアーネスト・サトウやナポレオンなど多くあります。
 
 

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群像


これまで何度か紹介した、幕末薩摩の英国留学生を記念した鹿児島の銅像の追加建立問題。

「~完成させる会」が立ち上がり、メディアもこれを積極的に取りあげた。
及ばずながら、小生も連載コラムで、高見弥一と堀孝之の2人が銅像から除外されていることは理由がないことを書いたり、メディアにも追加建立をすべきであるという趣旨のコメントをしてきた。

鹿児島市議会でも、この問題が取りあげられ、市当局から2人も薩摩藩士であることを事実上認める答弁を引き出すなど、一歩前進したように思われた。

しかし、先日、「~完成させる会」発起人有志が市長に面会して追加建立を訴えたところ、市長は曖昧な態度に終始して、この問題に取り組む熱意を見せなかったという。
市長がこれでは、市当局のこれまでの事なかれ主義を変えることは難しいかも知れないという声があがっている。
今後の新たな展開を期待したいが、難しそうな形勢である。

鹿児島市民はこの問題をどう考えているのか、あるいは無関心なのか、東京にいてはよくわからないけれど、県外から見れば、これはすぐれて鹿児島の見識や歴史意識が問われる課題だと思う。

小生も鹿児島産だけに、この問題が将来にわたって、禍根を残すことになるのではないかと恐れている。現状のまま放置しておくことは、決して鹿児島のためにならない。
何とか打開策はないのだろうか。

【2007/09/27 16:27】 | 幕末維新
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藤田達生氏より表題の新書をご恵贈いただいた。多謝。
詳しくはここです。

さて、後半の惣無事令まではまだ読んでいないが、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)と関係あるところだけ拾い読みした。

感想を一言でいうと、年次比定や史料解釈で納得できないところがある。とくに、四国(阿波)をめぐる秀吉と光秀の競合という視点はやはり受け容れがたい。
その論拠とされるのは、秀次の三好康長への養子入りだが、その時期をめぐって、藤田説と拙説・谷口克広説とで大きく異なっている。前者は本能寺の変以前、最近では天正7年(1579)まで遡らせている。後者は本能寺の変以降だとする。

藤田説に従えば、秀次ののち、信孝も養子になったわけで、身分の違いから康長の後継者になるのは明らかに信孝である。つまり、阿波に勢力を拡大したい秀吉の当てははずれてしまう。それどころか、将来、秀次VS信孝の競合さえ想定される。そうした文脈は藤田説の視点とは食い違うのではないかという素朴な疑問が拭いきれない。

藤田説の最大の典拠は、三好孫七郎(秀次)宛て羽柴秀吉書状(福尾猛市郎氏所蔵文書)である(87頁)。私は天正7年ではなく、11年の賤ヶ岳合戦後だと考えたほうがまだしも自然だと思っている。
天正7年に納得できないのは、秀次が当時わずか12歳で、元服さえしていない可能性があること。2城の接収と「政道已下堅く申し付くべく候」といった仕事がその年齢でできるとは思えないのである。

また、秀次の前名である宮部次兵衛尉吉継署名による天正9年の判物写しが存在し、谷口氏が指摘しているように、『惟任謀反記』に山崎合戦直後の近江平定で、やはり宮部次兵衛尉が出てくる。
つまり、秀次の康長への養子入りは本能寺の変後だと思われる。少なくとも、天正7年という年次比定はこれらの反証史料と整合しない。これを無視するのは強引すぎないか。

ほかにも、いろいろ論点はあると思うが、最後に1点だけ述べる。
果たして、天正9年に秀吉の阿波進出はあったのかどうか、もう一度全面的に再検討する必要を感じている。これは拙著の自省も込めてである。
『信長公記』巻14には、11月17日条に秀吉と池田元助が淡路平定に兵を出したことが書かれている。それもわずか3日間だけである。これ以外に秀吉が阿波に関与したことは書かれていない。秀吉が関与したのは淡路島までだったのではないのか。

この点をもっと重視すべきではないか。同年に秀吉が黒田孝高を大将に阿波に水軍を送ったという典拠は『黒田家文書』所収の秀吉文書の年次比定だけである。それを批判的に検討する要はないのか。要するに、天正13年の長宗我部攻めのものと混同している可能性はないのかを洗う必要があると思っている。

秀吉は当時、鳥取城攻めに全力を挙げており、黒田孝高に1万もの大軍を預けるだけの余力があったのかどうか、また孝高はその時期、播磨から淡路島にいることが確認できるのか、逆にいえば、鳥取にいる可能性はないのかという素朴な疑問から明らかにしたほうがいいと思っている。

まずはそれらの作業が大事だと思った。
そうした基礎作業なしに、グランドデザインは描けないだろうと思う。
そのようなことを考えさせてくれた本だった。

【2007/09/26 16:30】 | 新刊
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Yamamoto
あなたは人の本を批判する程の本を書いていない。

耳が痛い
かわい
>Yamamoto様
 その理屈でいえば、私などは何も批判できませんね(^_^;。
 よろしければ、私のブログにでも「人の批判を批判する程の批判」というやつをぜひ書いていただきたいですな。ご一考ください。

感想
板倉丈浩
こんばんは。
藤田氏の新著ですが、早速購入、読了しました。
本能寺の変に関する部分は、最近発表された論文『織田政権と謀反』(ヒストリア206、2007.9)とほぼ同内容でした(この論文では清水宗治が義昭奉公衆であったという指摘が興味深かったです)。
ちょっと気になったのは、この論文の付記で新著で桐野さんに反批判すると書いていたのに、ほとんど言及がなかったことですね(私が見落としているだけなんでしょうか・・・?)。

あと、問題の三好孫七郎(秀次)あて羽柴秀吉書状については、『三田市史』では天正8年5月ではないかとしていました。うーん。。。
確かに三田城主・荒木重堅(木下平太夫)の秀吉軍の将としての初出が天正8年6月ですので(信長公記)、5月に三田城の接収があったというのは十分あり得る話かなあと。
秀次も13歳で、この年齢なら元服している武将は珍しくないですし、何より天正8年は三好家にとって再興に向けた転機となった年でした。
・・・というわけで、私は天正8年5月説を支持することにします(^^;

ただ、秀次の養子入りが本能寺以前だったとしても、長宗我部氏と秀吉の取次を斎藤利三(光秀重臣)が務めている事実もあり、四国政策で秀吉と光秀の派閥抗争があったとは思えないことは、桐野さんの仰るとおりだと思います。
この本の後半で論じている「惣無事令」への異論や「構造改革」の部分もそうですが、藤田氏は派閥抗争とか権力闘争の側面を重視しすぎな印象を受けますね。
だから、天正10年の時点でも信長は討幕戦争をしていた、ということになってしまうわけです。

本能寺の変については、藤田氏は自分は「足利義昭黒幕説」ではないとしており、義昭推戴の蓋然性を強調するために、嘉吉の乱で赤松氏が足利直冬の孫を擁立した件を持ち出すなど、もう(最初から?)義昭主導のクーデターとは考えておられないようです。

むしろ藤田氏としては、本能寺の変を中・近世政治史における織田政権論として位置づけ問題提起したのに、その肝心な部分の議論が深まらないことに対する不満があるようで、特に些末な指摘ばかりして「嗤う」などと書いたあの本に対しては憤懣やるかたないという感じですね。
このへん、歴史的意義を重視する研究者と、犯人(黒幕)探しに関心が集中する現状にギャップがあるのかなあと、そんな感想を持ちました。


次兵衛&二兵衛
桐野
板倉さん、こんばんは。

藤田達生氏の論文「織田政権と謀反」は、ご本人から頂戴しましたが、投稿時期が拙著発刊より前だったと思います。だから、谷口克広氏の歴史評論論文批判に重きが置かれたのではないかと推測しておりますが。

あと、返事が遅くなったのは、『宇野主水日記』と『兼見卿記』に、秀次の前名である「次兵衛」「二兵衛」の記事があったのを探していて、今のところ探せていません(汗)。
以前、拙著執筆の際には見つけられたのに、メモが出てきません。しかたなく、史料にあたっていて時間がかかってしまいました。
記憶しているのは、たしか天正11年かそれ以降の段階でも「次兵衛」と呼ばれていたもので、兼見か宇野主水が三好名字に変わっていたのを知らずに、前名のまま記したという文脈じゃなかったかと思います。
うろ覚えなので、探してからまた正式に返事します。
もう少しお待ち下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第25回
― 独立図り、忠辰で断絶―

連載が更新になりました。
左下のリンク欄からご覧になれます。

今回は、薩州島津家関係の最終回で、薩州家断絶の当主だった忠辰(ただとき)を取りあげました。
忠辰の生涯については以前から関心があって、今から15年前、忠辰の400年忌が郷里出水で開催されたときも参加したことがあります。

忠辰について気になっていることが2つあります。
ひとつは、コラムにも書きましたが、その生年と生母のこと。生年が永禄9年(1566)なら、於平(義久長女)が生母だった可能性がだいぶ高くなります。「薩州氏系図」には、生年は間違っていますが、生母は於平だと書かれています。その後、忠辰が本宗家に反逆する形になったため、その関係が史料から消されていった可能性があります。

もうひとつは、薩州島津家の地位について。
これは豊臣秀吉に帰順したときのいきさつにからんでいて、どうやら、所領安堵を受けたとき、本宗家の義弘宛ての領知朱印状および目録とは別立てになって、秀吉朱印状が出された可能性があるのではないかと思っております。
その傍証のひとつをコラムにも書きましたが、この解釈はこれまで先行研究でなされていないのではないかと思います。ほかの解釈の余地がないわけではないと思いますが、忠辰に秀吉朱印状が本宗家宛てとは別に出されたのではないかと推定してみました。

もうひとつ、その傍証としてコラムには紙数の関係で書けませんでしたが、朝鮮出兵で、秀吉が忠辰を改易した理由を義弘に知らせた朱印状があります。そのなかに「泉又太郎(忠辰)事、其方与力として仰せ付けられ候条」云々という一節があるのが気になっています。

つまり、忠辰は義弘の与力(家来ではなく)という形で出陣したことになります。これは、義弘自身が太守ではなく、あくまで太守義久の名代なので直接の主従関係にはないという意味なのか、あるいは薩州島津家が本宗家から独立しており、秀吉の直臣同様の処遇を受けていたため、陣立上は与力になるのか、どちらか解釈に迷うところではありますが、忠辰が強気なのを見ると、秀吉との直接的なつながりをあてにしていたのではないかという節があります。
そのあたりを盛り込んでみました。


【2007/09/22 14:51】 | さつま人国誌
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島津忠辰の謎
ばんない
こんにちは。昨日は貴ブログを拝見できませんでした。何故でしょう…?(゜_。)?(。_゜)?

さて、「後出しじゃんけん」の件です(^^;)…といっても、前回分で桐野さんが既に指摘されていたように、ポイントは忠辰の生年が2つ(それも大きくかけ離れている!)伝わっている点だと考えています。

御平の生没年は多数の史料に記載があり、父・義久の当時の年齢(御平誕生時18歳)とも矛盾はないと思えますので、天文20年(1551年)生で間違いない物と考えています。
忠辰については
・「諸氏系譜」薩州用久 天文22年
・「本藩人物志」永禄9年 或 天文22年
というデータを今のところ当方では確認しています。今回桐野さんが南日本新聞で挙げられた「薩州氏系図」は「諸氏系譜」所収の薩州用久系図とは違う物なのでしょうか?
「本藩人物志」所収の薩州氏関係のデータは、なかなか興味深い物です。問題の「天文22年生」というデータは「知譜秘略」なる本に「四十一歳ニテ死去」と書いてあるところから持ってきたようですね。この「知譜秘略」という本がどういう本か「本藩人物志」にも説明が無く、現時点では全く分からないのですが…。
また、「諸氏系譜」薩州用久には忠辰らの上に義虎の長女(名前不明)が出ているのですが「他腹」とあります。義虎は御平より七歳上で、御平と結婚する前に別の女性がいたとしても全く不思議ではありません。また「本藩人物志」島津忠清(忠辰の弟)条に
「和泉又太郎忠永 義虎嫡子国賊伝ニ載之又太郎母ハ入来院氏ナルヘシト云々」
という奇妙な書き込みがあります。薩州家は北薩で有力な国人であった渋谷氏一族とはつながりが深く、入来院氏の女性を妻に娶っていても不思議ではないと思われます。

ただ、忠辰を天文二十二年生、母親は御平ではない、とするとそれはそれで大きな疑問が生じます。
(1)忠辰天文二十二年生まれとすると、義虎十歳の時の子供になってしまう
(2)忠辰の母親が御平ではなかったとすると、薩州家の継承に義久初め島津本宗家(相州家)一門が難色を示したのではないかと容易に推測される
という二点です。

話は変わりますが、義虎と於平の間の子供はどちらかというと出来の悪い子供が多かったように見受けられます。忠辰…は実態以上に悪く書かれている可能性がありますので別にして(汗)、次男・忠隣は根白坂の戦いで暴走して結果戦死してますし、島津家久(忠恒)の側室を出した三男・忠清は慶長十四年に島津義久と常久が手引きをするまで何も行動を起こさず加藤清正の元で食客のような生活をしていたようですし、四男・忠栄は世話になっていた島津豊久が戦死した後、豊久の姉と共謀して佐土原領を乗っ取ろうとしています。六男は人質に出された先で早世していますが、薩州家の末路を考えると人質先で酷い目にあってそうなった可能性も考えられる所です。唯一まともだったのが御平の臨終の席に立ち会った五男の忠富(入来院重高)でしょうか。

うーん、何かまとまりが無くなって申し訳ありませんf(^_^;)

忠辰の軍勢
市川
こんにちは。
かなり素朴な疑問ですが、朝鮮に出陣した忠辰の軍勢は大将の死後、薩摩に帰ったんでしょうかね。それともどこかへ合流したんでしょうかね。

入来院氏
桐野
ばんないさん、こんばんは。

昨夜は私も自分のブログが見られませんでした。おそらくブログ運営者のサーバか何かに事故があったのではないかと思います。

「薩州氏系図」はご指摘のように「諸氏系譜三」所収の「薩州用久一流」のことで、そのなかの本家にあたる「薩州氏系図」のつもりで書きましたが、紛らわしかったかもしれません。

本藩人物誌の忠清の項は迂闊にも見てませんでしたね。
忠辰の生母が「入来院氏ナルヘシト云々」とありますが、「入来院文書」末尾にある入来院氏系図を見ても、それらしい女性はいませんね。
あえていえば、12代重朝に女子が一人いて、何もデータが書かれていません。世代的には義虎の夫人もしくは側室になってもおかしくはありませんが、これだけでは何ともいえませんね。

私はコラムでも書いた「島津弥市郎系図」が面白いと思っています。これにより、忠辰の生年は永禄9年でほぼ間違いないのではと思っています。
ただ、同系図は「旧記雑録後編二」に忠辰の部分だけ所載されていて、全容が明らかではありません。「諸氏系譜三」にも収録されていないと思いますが、ばんないさんはご存じですか?

同系図は、於平が忠辰の生母か否かは書いていませんね。どうも、藩政期に作成された系図なので、デリケートな部分はあえて触れなかった可能性がありますね。
「島津弥市郎」は忠栄の子、久基ではないかと推定しましたが、久基は入来院氏16代当主重高(重国)の二男で、忠栄の養子になっていますね。ここには、薩州家と入来院家との縁がありますが、義虎の代はどうだったのか?

さて、あくまで私の妄想ですが、忠辰が於平の子だったとして、島津本宗家の家督問題とまったく無関係だったのかどうかということも気になっております。
最初から、義弘流だけが候補だったのかどうか。血統的には近いかもしれませんが、於平は長女ですから、その長男という血筋は男子のなかった義久にとって無視してよい存在だったのかどうか。あるいは実久の孫という烙印が刻まれていて最初から問題外だったかもしれませんが……。

三百塚
桐野
市川さん、こんばんは。

忠辰の死後、その家臣団がどうなったのか、当然の疑問ですね。果たして朝鮮から帰れたのかどうか。

コラムでは分量の関係でそこまで触れられませんでしたが、家臣団は忠辰の遺骸と共に船で郷里に帰国したようです。はっきりと記録が残っているわけではありませんが、伝承があります。
また「三百塚」という史跡がありまして、忠辰の家来たちが主君に殉じて自害したのを供養したものだといわれています。それだと、300人も殉死したことになるわけですが、さすがに誇大かなと思います。でも、少なくない人数が忠辰のあとを追ったと思われます。

「島津弥市郎系図」
ばんない
こんばんは。

「島津弥市郎系図」は全く初めて聞く名前なので、実はお伺いしようと思っていたところでした。「薩藩旧記雑録 後編」2に載っていると言うことなので、手元にあるコピーをざっと見てみましたが、見落としたのかそこは取ってなかったようです。何頁でしょうか?

歴史研究に「if」は言ってはいけない約束ですが、忠辰が義久の後継者として候補に入っていたかどうかは気になる点です。桃園恵真氏が論文「一向宗禁制と島津家の継承問題」で薩州家系にも義久後継者の資格があったのではないか?というニュアンスの内容を書いてられますが…。

薩州家系は、結局義虎三男の忠清、四男の忠栄、五男の忠富が生きて薩摩に生還しますが、後に入来院氏に婿養子に迎えられた忠富以外は厳しい扱いを受けている印象があります。忠清は娘が家久(忠恒)の側室となり、光久を儲けたにもかかわらず、忠清の息子は跡を嗣がずに新納氏に養子に出されています。忠栄は先述したように佐土原領を横領しようしたと言う前科がありますから、厳しい扱いも致し方ないことかも知れません。ただ、忠栄の後を嗣いだ島津弥市郎(久基?)は実は忠栄の実子ではなくて養子(弟・忠富の子)なんですよね。「諸氏系譜」所収の系図を見る限りでは忠栄には子供もおらず正室・側室もいなかったようです。何故なんでしょう…。
「本藩人物志」国賊伝忠辰には「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」とあり、秀吉に取りつぶされたのが薩州家が未来永劫に再興されなかった理由としていますが…。

あと、市川さんの質問に便乗しますが(汗)、『出水市史』か何かで読んだのですが、忠辰には妻子がいて、秀吉の配下に虐殺された云々という話が伝わっているらしいのですが…。

旧記雑録前編でした
桐野
ばんないさん、こんばんは。

「島津弥市郎系図」の所載先、私が勘違いしてました。後編ではなく前編でした。

『旧記雑録前編二』2704号(906頁)

弥市郎ではなく弥一郎なら、忠辰の五弟、忠富がそう名乗っていました。ただ、忠富はのちに入来院家に養子に入っていますね。関ヶ原で討死した入来院重時の一女の婿になっています。前のコメントで述べた入来院重高(重国)でしたね。うっかりしてました。
この忠富改め重高の子「弥市郎」久基が伯父忠栄の養子になったという関係みたいですね。

あと、忠辰の妻子が処刑されたというのは、『出水市史』はあくまで伝承で記録はないとし、『出水の歴史と物語』は「忠辰の子供は殺され、奥方虎御前は追放され」云々とあります。殺されたのは子供だけで、夫人はそうではないようです。ただ、あくまで伝承です。

秀吉が義弘に宛てた朱印状には、忠辰の処分が次のように書かれています。

「則ち御成敗を加えらるべく候えども、命の儀助け置かれ、知行召し上げられ、其の身は小西摂津守に預け置きなされ候」

忠辰さえ助命されたわけですから、その妻子が殺される理由はないと思います。もっとも、この朱印状ののち、加罰された可能性もありますが。
子供が処刑されたとすれば、豊臣公儀というより、むしろ島津本宗家の命じゃないですかね。義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたいですから、その可能性のある子供を抹殺した。夫人は関係ないので追放に止めたと考えられないこともありません。もっとも、忠辰が義久の孫なら、その子は曾孫になるわけですが……。




ばんない
こんにちは。
「旧記雑録 前編」2ということですね。そこもしっかりコピーを取ってなかった(汗)ので、また機会があるときに取ってきます…。
島津忠栄→久基の系列はその後「島津仲」家として中堅の家老家として残っていったようですから、仲家の所領があった場所の郷土誌に系図が載っているかも知れないです。…所領どこにあったのか分かりませんが_| ̄|○

忠辰の妻子についても御教示ありがとうございました。忠辰の年齢から考えても妻子がいた方が自然ですが、妻の名前はかろうじて伝わっている物のその出身家なども全く未詳だったと記憶しています。
ところで
>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい
具体的な史料名が分かれば教えて下さいますか。江戸時代以後もしばらく薩州家の扱いが余り良くなかったようなのは私もコメントで何回も書いていますが、それが義久の遺言による物なのかどうか気になります。


島津仲家
桐野
ばんないさん、こんばんは。

薩州家の系統には、久基が二人いるのではないかと思います。

○忠清流(忠辰三弟)
忠清の死後、新納家からの養子が久基。事実上のお家再興だと思います。これがご指摘の島津仲家だと思います。
家格は寄合だと思います。寄合といっても、『薩陽武鑑』だと、わずか108石ですね。果たして知行地があったのかどうか、疑問ではあります。
ただ、幕末にも島津仲の名前は出てきますので、忠義公史料あたりに何か手がかりがあるかもしれません。今度調べてみます。

○忠栄流(忠辰四弟)
忠栄の養子で、入来院家から来た久基。
こちらは薩州准二男家で、一所持格ですね。

>義久は相当怒っており、薩州家は断絶させると言っていたみたい

この件については、前回のばんないさんのコメントを読み落としてしまったのですが、ほぼ同趣旨のことを書かれていましたね。私も『諸氏系譜三』の「薩州用久一流」にある忠辰譜から書いただけのものです。


久基違い
ばんない
こんにちは。
まず、「義久の怒り?」の根拠について、回答ありがとうございました。
「又太郎(=忠辰)事従 公儀断絶ノ事ニ候ヘハ重テ右一筋御取立被成間敷由 龍伯公(=義久)御譜ノ内ニ相見ヘ候由ニテ候」
が、根拠と言うことですね。

そして、島津仲家の久基は別人でしたか。うーん、実に恥ずかしい。ご指摘ありがとうございました。

島津忠栄の領地ですが、何かきっかけにならないかと思ってもう一度調べてみました。
「諸氏系譜」「本藩人物志」ともに母・御平の領地(の一部)を継いだとあります。「本藩人物志」ではこれが当初は中津川村(おそらく、今のさつま町?)に1200石だったのですが、その後時期不明ながら飯野末永村(今のえびの市?)に替えられたとしています。「諸氏系譜」では微妙に書き方が異なり、中津川村→末永村→牛根(今の垂水市)地頭を務めたとなっています。
死んだ場所は両書とも「牛根」で一致していますが、牛根には忠栄の墓などの関連史跡は残ってないようです、先日『垂水市史』をざっと読んだ限りの情報ですが。何か情報があるとしたら『えびの市史』とか『薩摩町郷土誌』あたりでしょうか。

薩州家は謎が多いですが、この忠栄という人物も島津家久・豊久の系統に微妙な絡み方をしてなかなか怪しげな人物です。しかし他の薩州家出身者同様、情報が乏しいですね。

島津越前守忠栄の墓
佐多
島津越前守忠栄の墓は牛根麓にあります。

http://www2.jomon-no-mori.jp/gis/map_result.asp?Cpage=3&str=SELECT+%2A+FROM+vHdhp+WHERE+%5B%3C%8Es%92%AC%91%BA%5D%3D11+ORDER+BY+%94%D4%8D%86%82P%2C+%94%D4%8D%86%82Q

画像もどこかにあったような気がします。

加世田市史には島津国久は用久の弟とか忠国の子供だとかの伝承があり、謎の多い家ですね。又、立久公より国久へ守護職を譲るのを固辞したとかの伝承もあるようです。いずれも確実な史料は無いもようですが。

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明日22日発売の歴史読本11月号。

先日紹介した朝日新聞の安土城天主倒壊についての史料紹介と解説記事が掲載されます。執筆者は和田裕弘氏。
興味のある方は読んでみて下さい。地域によっては、店頭に並ぶのが若干遅れるかもしれません。

なお、小生も関連記事として「一乗院門跡尊勢得度と織田権力」を書いております。併せてご覧いただければ幸いです。
記事は、前関白近衛前久の長男尊勢(尊政とも)が興福寺の門跡寺院・一乗院に入室・得度・受戒したいきさつと、織田権力の関わり。とくに明智光秀とその妹「ツマ木殿」の役割についてが中心です。ほかにも九鬼水軍の大船や天正十年閏月問題にも少し触れています。

先日の朝日新聞記事で書かれていない史料の概要をもう一度ご紹介しておきます。

「松雲公採集遺編類纂 記録部」
 金沢市立玉川図書館近世史料館「加越能文庫」所蔵。
 同史料「記録部」第86冊が「東大寺大仏殿尺寸方并牒状奥ニ私之日記在之」という長いタイトルで、このなかに安土城天主倒壊の記事があります。
東大寺云々とあるので、東大寺の記録かといえばそうではなく、興福寺の僧侶が書いた私日記の写しです。松永久秀に東大寺が焼き打ちされたため、当時でも、その再建工事が続けられていました。東大寺が古代からの国家鎮護の寺院なので、興福寺もその再建に協力したときの記録だと思います。

先日、みなさんからいろいろご意見をいただきましたが、私が疑問に思っているのは、考古学的な検証は果たして可能なのかという点です。
 朝日新聞の記事では、木戸雅寿氏が文献と考古学の双方の見地から(倒壊は)ありえないというコメントを寄せています。
 しかし、安土城発掘の現状から見て、考古学的にありえないと断言できるでしょうか。
 現・安土城天主では、天守台の中央、礎石のない部分がわずかに発掘されただけで、天守台内部の全面的な発掘が行われたわけではありません。そんな状況で、考古学的にありえないと断言できるのかどうか。また天主の上部構造物の部材である木材や瓦なども、再建のために片づけられるか再利用されるはずで、痕跡が残るとは思えません。
 また、今後発掘が進展したとしても、倒壊したか否かの痕跡を見出すのはとても難しいのではないかという気がします。

とりあえず、文献上の検討が重要ではないかと思っている次第です。


【2007/09/21 18:22】 | 信長
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考古学的成果と既知の文献情報の優越性への疑問
中村武生
桐野さま
中村武生です
 コメントがおくれて申し訳ありません。

 考古学的成果に関するご意見、まったく賛成です。
 全面発掘ができていないという点ももちろんですが、安土の天守が倒壊していたという視点がまったくなかったうえでの調査ですので、木戸雅寿さんには失礼かと存じまずが(お許しください)「何か」があったとしても見落とされている可能性があると思います。

 文献に関しても、これまで知られていたものに記載されていないというのが反論の大筋かと理解しましたが、何らかの事情で記録されなかった可能性はやはり否定できないと思います。

 まずは新出データの発見をすなおに喜び、是非の判断は今後の課題のひとつにして、既知の史料の再検討やあらたな史料発見をめざすというのが建設的かと存じます。

 見当はずれの節はお見逃しください。

有難うございます
桐野
中村武生さん、こんばんは。

ご意見有難うございます。
新出史料の発見を喜び、既存史料の再検討や新たな史料発見をめざすべきとのご意見、納得することしきりです。
またご教示いただければ幸いです。


天正6年の古記録
桐野
今回の安土天主倒壊の記事が他の史料で裏付けがとれないという点について、少し具体的に述べておきます。

天正前半のこの時期は、文書はともかく、日記類の古記録は決して多くありません。とくに上方事情が系統的にわかるものはほとんどが公家の日記で、それに多聞院日記など僧侶の日記があるくらいです。

たとえば、天正10年(1582)、本能寺の変ののちの安土城炎上についても、『兼見卿記』に「安土放火云々」とあるだけです。これだけでは天主が炎上・倒壊したかはわからないのが実情です。

なお、安土城「上部」が炎上したことがわかるのは外国人が書いた『フロイス日本史』だけです。ほかに編纂史料ですが、『華頂要略』門跡伝第24、青蓮院門跡の項に「安土町為兵火一円滅亡」とありますが、これも天主が燃えたかどうかはわかりません。

ことほどさように、公家や僧侶は武家の城郭の天主に、今日の私たちが抱くほどの関心や思い入れを必ずしももっているわけではないのです。

今回の天主倒壊記事のあった天正6年5月の記事がある現存の古記録は、

多聞院日記
天王寺屋会記
兼見卿記
家忠日記

の4点しかありません。このうち、天王寺屋会記と家忠日記は京都や安土のことを系統的に記述していません。
ですから、兼見卿記と多聞院日記だけが、天主倒壊を記す可能性が高かった史料ですが、「希代」(兼見)の大雨のため、自分たちの身の回りのことが精一杯で、日記も途切れがちです。
同年5月で記載されている日を見ると、

兼見:1,5,6,7,12,16,22
多聞院:1,2,3,13,14,15,16

天主倒壊があったと思われる5月12日前後の記事が手薄です。
本来なら、太田牛一「信長記」諸本に書かれる可能性が一番高いというべきかもしれませんが、ご存じのとおり現在発見されているものには書かれていません。もっとも、本能寺の変後の安土炎上についても、牛一は書いていませんから、似たり寄ったりといえましょう。

これらから、他の史料で裏付けがとれないというのは、有効な反論にはなりえないのではないかと思います。

私はむしろ、前田綱紀が蒐集したこの興福寺関係の記録は、同寺の多聞院日記に匹敵し、その抄録的な史料に位置づけるべきではないかと思っております。




史料の解釈
磯部
桐野先生、こんばんは。
このたび発見された史料は、興福寺の僧が書いたものということですから、たぶん、記録主も天主の倒壊を実見したわけではないでしょう。天正6年当時、安土の天主が倒壊したといううわさがあったことを伝える史料とは言えるでしょう。しかし、情報の出所は不明です。当時、地震などの天災があったことは指摘されていますが、史料的にはこの1点のみをもって、天主倒壊を事実であると考えるのは難しいのではないかと思いました。また、この記述の前の部分が気になります。
ただし、後世の天守では、松本城のように傾いた実例がありますし、秀吉時代の大坂城天守は一度建て直された(改築)という説もありますから、天守倒壊自体はありえないことではないと思います。
『歴史読本』所収の記事では、詳細な分析がなされているものと思いますので、桐野先生の担当記事とともに楽しみにしております。

興福寺などの様子
桐野
磯部さん、こんにちは。

ご意見有難うございます。
気になっていらっしゃる部分というのは、天主倒壊の記事の前に何が書かれているかということですね?

同年4月26日から安土天主倒壊までが一つ書きになっていて、とくに5月12日から大雨が降って、興福寺内の子院はむろん、各所で被害が出ていると書かれています。
朝日新聞記事で引用されていた「堂塔坊舎破却」は三井寺の被害のことです。写真版が2行しか掲載されなかったので、その部分が載っておりません。

なお、本日発売の歴史読本には、その前半部分も含めて史料写真を掲載し、釈文も添えてありますので、ご覧になって下さい。

天主倒壊の可能性
Tm.
桐野先生、どうも。
歴読11月号の記事、拝読しました。

まずは『松雲公採集遺編類纂 記録』についてですが、今回、新たに光秀の妹「ツマキ」の役割の一端が明らかになったことだけでも十分注目に値するばかりか、加えて「暦問題」の背景にも新たな一面が見えてきたことで、ある意味、同史料は戦国史を塗り替えるのではないかと思われ、今後、更なるご研究を期待申しあげます。

で本筋?とも言うべき「安土城天主の倒壊問題」についてですが、問題記事の前文を拝見したことで一つの疑問が浮かんだのですが、「同アツチ之天主タヲレ畢」に続く「人民死畢」は、単に安土城の件を指しているのではなく、一連の災害に伴ない多くの死者が出たということを述べているのではないでしょうか。もしそうだとすると、「同アツチ之天主タヲレ畢」のもつ重要性もかなり違ってくるのではないかと思われます。

と言うのも、もし本当に天主が倒壊し多くの死者が出たとなれば、たとえ牛一が隠蔽を図ったとしても人々の噂に上ったであろうことは疑いようもなく、繰り返しになりますが、フロイスまでもそれに口を噤んだとは考えられません。ましてや和田さんが「安土宗論」をそれに関連付けていることには大いに疑問がもたれます。

しかも「私之日記」に記されているくらいですから、後代の編纂史料、例えば『当代記』などに記されていたとしても良さそうなものであり、他にそれが見られないということは、実際にはそれほどの大惨事ではなかったと言えるのではないでしょうか。

それに現実問題として、巨大な天主が倒壊したとすれば周囲への被害も小さくなく、ましてや大雨により地盤が緩んでいた処へ地震が襲ったとすれば城内他所にも甚大な被害を及ばしたハズで、それらを含め、僅か半年ばかりで自慢げに公開するまでに復興するのは、如何に信長の強権を以ってしても不可能でしょう。

そこで改めて「同アツチ之天主タヲレ畢」について考えるに、そのこと自体は日記主にとって然程、身近かつ世間を揺るがすような事件ではなかったが故に、何らかの破損や小規模な事故の誤聞であったものの、結果として訂正に至らなかったのではないでしょうか。

今回のこの問題については、今後寄せられるであろう反論に対して、如何に説得力のある反証を提示できるかが重要なポイントなのですが、考古学的には天正10年の焼失や廃城後の石材転用などによって破壊された部分もあり、やはり立証は不可能だと思われます。

ちなみに天主台については、「蛇石」の所在探索もあって地質レーダーによる調査が行なわれていたハズで、地下に別の天主台が埋まっているような報告はありません。


いささか長文になりましたが。


平行線だと思いますが
桐野
Tm. さん、こんばんは。

歴読誌、読んでいただき有難うございます。

個別の議論をしても、おそらく平行線だと思うので、とりあえず史料に即した点だけに絞って申し上げます。

安土宗論との関連については、和田さんの見解なので、私としては答えようがありません。
ただ、天主倒壊とされたときからちょうど一周忌にあたっていたのは事実で、集まった僧侶が法華宗と浄土宗だけかというと、そうでもない気がします。少なくとも五山の禅宗系の僧侶もいるようですから、和田さんもその辺で、何か関連があったのではないかと考えられたかもしれませんね。

「人民死畢」は、安土城天主倒壊に伴う被害だと見るほうが常識的ではないでしょうか。興福寺のことから始まり、奈良のこと、三井寺のこと、安土のことと、各地の被害を述べていますが、いずれも「同(じく)」という接頭辞が付けられておりますので、そのくくりで考えたほうがよいのではないでしょうか。
そこからの連想、推測になりますが、安土城天主付近で死人が出たのは確実だと思われ、それがどの程度の犠牲だったのかはわかりませんが、日記に記したのですから、それほど小さくはなかったのではないかとも考えられます。

考古学的な知見に関しては、こちらは門外漢で関知できないので、あくまで素人なりに考えたところを。
Tm. さんは第一次の天守倒壊があったか否かの考古学的な立証責任が提起したほうに課せられるとお考えでしょうか? そのように読めてしまったもので、誤読だったらお許し下さい。
そうだと仮定してですが、部外者に発掘させてくれるとは思えませんから、技術的に無理ではないでしょうか。むしろ、それなりに信頼できる文献に書かれているわけですから、それを否定する側が考古学的に反証されればよろしいかと思います。

あと天守台の調査に関しては、もし倒壊していたら、天守台丸ごとか、石垣だけは撤去もしくは再利用された可能性もあるわけで、倒壊した残骸が必ずしも天守台下に残っているとは限らないと思います。ただ、地層面に何らかの痕跡が残る可能性は否定しませんが、そのような調査は現段階では行われていないと思います。

あと、性懲りもなく申しますと、仮に第一次倒壊があったとして、同じ場所に再建されたとも限らないと思っています。少なくとも、同じ場所に立てるはずという固定観念からは自由になったほうがよいかと。
リンクさせていただいているブログ「泰巌宗安記」でも、たとえば、伝三の丸はじめ、ほかにも天主候補地があったのではないかという議論もあります。ご参考までに。

それと、これは私の数少なくて狭い城郭見学での知見ですが、かつて浅井氏の小谷城に行ったことがあります。
同城は石垣が少ないのですが、織田方と対陣した面(南側)にたくさん石垣が残っていました。あたかも織田方に誇示するがごとくです。おそらく織田方への視覚的な示威もしくは強がりを意図していたのではないかと思いました。まったくの素人考えかも知れませんが。

一方、安土城ですが、現天主跡は大手門側といいますか、陸地側からは石垣部分などはよく視認できない立地にありませんかね。逆に湖上側からはよく見えるかも知れませんが。
これって、小谷城の事例から見ても、少し不自然ではないでしょうか? 信長ほどの人ですから、自慢の天主の全容を人民に誇示する意図があってもおかしくないと思いますが、現天主がその役割を十全に果たしていたかどうか……。
その意味では、伝三の丸とか、馬場平とか呼ばれる陸地側の尾根部分のほうが、天主のそのような意味での立地条件には適しているといえないこともありません。
あくまで、素朴な疑問としてですが。



人民ではなく、人夫か
横やり失礼します。

もし天主は倒れたら、どうして人民にも波及されたのかと私は考えています。

天主はそのときには、まだ竣工してないし、城下町との距離も遠いのではないでしょうか。そうだとすると、工事中の天主が倒れたとしても、普通に天主ばかりか、武家屋敷にも行けない町民はそれによって死亡したはずはない。

ならば、死んだのは人民ではなく、天主の工場で働いていた人夫とみなしたほうが自然でしょう。つまり、「『人民』死畢」は興福寺僧侶の誤記(人民→人夫)、あるいは誤伝とも言えるでしょう。

安土に移された天主
Tm.
桐野先生どうも。

胡さんからの指摘もありましたが、自分が「人民死畢」を災害全般に係るものと考えたのも、まさに「人民」という表現に違和感を覚えたからで、それこそ「人余多死畢」というのであればまだ納得もいくのですが、他の被害に対しては物的なことしか記されていないこともその理由になりますが如何でしょう。

さて実は今回の問題を考えるなかで、再建云々と別に、果たして天主は一つだけだったのかという疑問を新たに抱いています。おそらく、後々の天守の嚆矢となったのは『信長(公)記』(『安土日記』)に詳細な記録の残されている五層七重のそれであったに違いと思われますが、「泰巌宗安記」でも紹介されているように、築城開始間もない天正4年の3月4日に安土を訪問した吉田兼見は、信長が普請場より戻るのを天主付近で待っていたとその日記に記しています。

いくらなんでもその時点で天主本体が完成していたとは考えられませんから、兼見は天主台付近で待っていたということでしょうか。
そこで改めて「天主」について文献的を当たるに、特に城主の住まう櫓を「天主」と呼んでいたことが窺えます。

その成立背景に疑問がありますが、『信長(公)記・首巻』には信長が清洲城の「北矢蔵天主次の間」にて弟の勘十郎信勝を謀殺したことが記されており、後に信長が将軍義昭の為に築いた「御城」では、「南之楯(櫓)」に続いて西南角に立てられた三重の櫓(『言継卿記』)が「天主」と呼ばれていたことが『兼見卿記』によって知られます。
それらのことからすれば、山頂の主郭部が完成する以前に信長が居所としていた場所に建てられていた櫓もまた「天主」と呼ばれていたのではないでしょうか。

しかも「御城」の天主は安土に移されたらしく(『言継』天正4年9月13日の条)、もしかしたら倒れた「天主」とはその方のことであり、侍女や近習に死者が出たとも考えられないでしょうか。


人夫?
桐野
胡さん、こんにちは。

「人民」という言葉に違和感をお持ちかもしれませんが、この時代、それなりに使われる言葉です。庶民とか、地下人(じげにん)、あるいは支配者に対する被支配者全般を指す言葉だと思います。

この場合の「人民」はご指摘のように、安土城の工事に狩り出されていた人々(人夫)が大多数を占めていたかもしれませんね。
中世や織豊期の武家関係の史料用語で、「人夫」という言葉はけっこう使われていますが、この記録は僧侶が書いていますので、ややもったいぶった表現になっているのではないかと思います。
その意味では、言葉のアヤで、あえてその厳密な違いを追求するほどではないと思っておりますが。


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に2泊で出張したため、更新ができませんでした。

植野美術館

今回の目的は、信長史料の調査。
丹波地方の盆地である。考えてみれば、明智光秀の所領だったところである。
所蔵先は博物館や文書館ではなく美術館。写真のようにオシャレで堅牢な建物だった。

信長文書が2点あった。どちらもあまり知られていないもので、奥野高廣著『織田信長文書の研究』にも収録されていない。

永禄11年(1568)、信長上洛時の「左京大夫」宛て書状(花押)。
天正2年(1574)か3年のもので、長島か越前の一向一揆攻めの頃の信長黒印状。宛所は切れてなかった。

あと、朝鮮陣での加藤清正の織田常真(信雄)宛ての、長~い長~い書状もあった。「咸鏡道」とか「兀良哈」(オランカイ)と出てきたから、文禄元年(1592)のものだろうと思った。
加藤清正は豪快なイメージとうらはらに、性格的に細かい人ではないかと思った。そうでなければ、50万石の大名にはなれないだろう。

ほかにも『信長公記』『総見記』の写本などもあった。これらも片っ端から撮影。

今回の調査で楽しみにしていたのは、某機関の専門家の史料撮影の様子をじっくり見学させてもらうことだった。
プロの撮影は大変だと思った。ライトのせいで何より暑い。途中で、撮影のために和綴じの冊子の頁めくりを手伝ったが、1巻めくっただけで腰が痛くなった。情けなや。
指先で紙がうまくつかめないで撮影ペースが遅かった私にくらべて、プロの速いこと速いこと。もっとも、近世の専門家は手が映るくらい速いそうな。

2次会では、中世や織豊期の研究者ばかりだったから、いろいろな情報が聞けて楽しかった。
もっとも、年長だったためか、古い大河ドラマの話ばかりして、みなを呆れさせていたのは私です(爆)。


【2007/09/20 23:25】 | 信長
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加藤清正
ばんない
熊本県では未だに絶大な人気があるそうですね>清正

精神的に細かい人だったのではないかというのは、トイレに高下駄で入ったという逸話ですべて証明していると思います(爆)

島津義久の隠居所だった富隈城の石垣の石を贈呈した人と伝わっているそうですが、どこで義久とつながりが出来たのか謎です。

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今年発表された論文である。毛利輝元が関ヶ原合戦にどのような立場やビジョンで臨んだのかが述べられている。
従来、優柔不断の日和見主義者と描かれてきた輝元像に修正を迫ろうという意図で書かれたものである。

光成準治「関ヶ原前夜における権力闘争」 『日本歴史』707号 2007年

興味深い点を列挙すると、

1,輝元・三成の連携による大坂城占拠計画
 武断派七将による石田三成襲撃によって、三成が一方的に蟄居・失脚に追い込まれたわけではなく、三成が輝元と結んで反撃をしようとしていたこと。
その計画は、伏見にいる家康に対して、大坂を掌握して対抗しようというもので、奉行衆の増田らが秀頼を奉じ、輝元が尼崎に布陣して西日本の諸大名を結集したうえで、伏見城下に残っている三成と連携して家康を挟撃しようとする計画だった。
 しかし、大坂城が家康派の小出秀政・片桐且元によって占拠され(背後に城中にいた藤堂高虎の工作あり)、失敗に終わったこと。

2,輝元の素早い上坂
 輝元の凡庸さを示すものとして、これまで不用意な上坂が取りあげられてきた。家康の会津出陣ののち、安国寺恵瓊に上坂しないと秀頼への逆心と見なされると脅されて、あわてて上坂したとされているが、どうもそうではなく、輝元はあらかじめ大坂城占拠に備えていたとする。
 その根拠は、毛利秀元が輝元の大坂到着の当日かその2日前に、家康の本拠だった西の丸を占拠して徳川方の留守居を追い出していること。これは当日、上坂した輝元の命によるものか、事前に秀元が輝元から命じられていたか、どちらかとしか考えられず、いずれにしても、輝元が大坂城占拠に積極的だったことを示していること。

3,大坂占拠後の輝元の行動
 これが一番重要だろう。大坂城を占拠して西軍の旗頭となりながら、なぜ輝元は家康との対決に消極的だったのか?
 この点について、光成論文は、輝元はあくまで自己の権益拡大を優先しており、三成ら奉行衆と一体化していたという、従来の二項対立的な理解に収斂させていけないと強調している。
 その代わりに提示するのが、伊予への侵攻、黒田如水の動きを警戒した門司城の占拠、大友吉統の豊後回復支援など、一連の西国での軍事行動。輝元がこのように毛利領国周辺の勢力拡大にこだわった理由を、関白秀次改易後の文禄4年の秀頼宛ての起請文「坂西之儀は輝元并隆景に申し付くべく候」という、秀吉が輝元に西国仕置権を与えたことに求めている。
 また、家康に対しては中立を守り、正面衝突するつもりはなかったが、吉川広家らが家康に与してしまったことは誤算で、計画が挫折してしまったとする。
 しかし、この論法で、輝元像を修正できたことになるかどうか、いささか疑問である。拙著でも、輝元の立場を家康VS三成、武断派VS吏僚派といった二項対立ではとらえられないと書いたことがある。
 家康が豊臣公儀の占拠、掌握を目的として、そのためにもてる力を集中しているのにくらべ、せっかく大坂を占拠し、秀頼を手中にしながら、豊臣公儀の掌握に積極的でない輝元という従来のイメージを変えられたとは思えない。家康との対決を回避して、豊臣公儀の掌握はないだろうに。

それはさておき、この論文には、ほかにも興味深い点が書かれていた。
家康と上杉景勝が縁組みをしようとしていたこと。吉川広家が親徳川だった理由が秀元の領知配分問題で、家康が広家に有利な裁定を下したことなど。

それにしても、大名たちは自分勝手で自己利益ばかり考えているように見える。たとえば、秀元は家康に親近感をもちながら、家康が留守の大坂城西の丸を占拠したり、石田三成の配下だった寺沢広高がいつの間にか東軍に属したり、加藤清正も一時期輝元に味方するかもしれなかったりと、秀吉死後、譜代・外様を問わず諸大名はみな自己の権益維持・拡大を動機に動いている。
むしろ、ほぼ一貫してぶれずに明確な目的意識をもっていたのは、家康と三成だけだったのかもしれないなと感じた。



【2007/09/18 10:49】 | 戦国織豊
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武家
小池
軍事政権は一つ判断を誤る一族滅亡にとどまらず、仕えている関連者全てに影響があるのですから大変です。戦のない世の中を作るための論文誰か書いてください

武家の盛衰
桐野
小池さん、こんばんは。

出張して不在だったため、コメントが遅くなりました。

武家が栄えるか亡びるかは、たしかにそのときの判断ひとつということがありますね。
戦闘員だけならともかく、戦場になった庶民も大変ですし、非戦闘員まで巻き込まれて殺されたり、自害したりします。

そういう世の中はもう御免ですけど、21世紀になっても、戦争はなくなりませんね。人類は全然進歩がないのかもしれません。


大坂占拠後の輝元の行動
板倉丈浩
こんばんは。
別ブログ↓でもコメントしましたが、個人的にちょっと関心を持って調べていたテーマでもあり、非常に興味深い論文でした。
http://d.hatena.ne.jp/sanraku2/20070601

この論文で言及されていない、輝元と増田長盛ら奉行衆との志向の相違については、『毛利史料集』(人物往来社)P272に記載された、9月3日付け長盛書状が気になっています(閥閲録・佐竹三郎右衛門義眞書出)。
毛利家臣あてのこの書状で、長盛は「本丸・二の丸は"御女房衆"がお断りしているので軍勢は入れないこと。本城に無理に入ろうとするなら討ち果たす」と言明しています。
同書に引用された『佐々部一斎留書』では輝元と長盛が互いに息子を人質として交換していたとする記述もあり(P290)、大坂城本丸の長盛と西の丸の輝元が睨み合っていたかのような印象も受けます。

まだまだリサーチ不足ですが(汗)、西軍「公儀」の中心人物は輝元と長盛であり、輝元が大坂城を一歩も動けなかったのは、公儀内部の主導権争いが原因じゃないかなあと考えています。



桐野
板倉さん、こんにちは。

輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。
面白い見方を有難うございました。

おっとっと
夫婦円満計画 夫
寺沢は奉行仲間だが石田の部下じゃないよ
奉行衆だけど列記とした尾張出身者
加藤・福島とは幼馴染だったりします
東軍に組した理由もそこらへん

関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い
市野澤
こんばんは。
先月に光成準治氏の新しい著書が出版されましたね。先週、注文してきました。

光成氏は論文の内容もさることながら、珍しい名字なので印象が強かったです。

『中・近世移行期大名領国の権力』(校倉書房)
『日本歴史』2007年707号所収「関ヶ原前夜における権力闘争」
を元に『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』は一般向けへ読み易い内容となってそうですね。
目次を見たら、新ネタも入っているようで楽しみです。

光成氏を始め、本郷和人氏・白峰旬氏と近年、関ヶ原合戦を従来の見方と違う視点で延べられる研究者が増えたことを嬉しく思います。
その中でも桐野さんが『乾坤 関ヶ原』で輝元にスポット当てたのを懐かしくも、目のつけ所が速いなぁと改めて思います。

新刊紹介感謝
桐野
市野澤さん、こんにちは。

光成氏の新刊紹介、有難うございます。
新聞広告では見ましたが、未見です。
そのうち入手したいと思います。

光成氏の論考、私もすっかり忘れていましたが、関ヶ原合戦よりかなり早い時期に、毛利-上杉-三成ら奉行衆の連携があったという説でしたね。重要な論点だろうと思います。


主導権争い
御座候
>輝元VS長盛による豊臣公儀の主導権争いですか。もしかして、その延長線上に、長盛による輝元暗殺の噂が出てきたのでしょうか。

今回の光成氏の御著書では明記されていませんでしたが、本書の元となったと思われる2004年の史学会大会報告では、秀頼の後見役のような立場で豊臣公儀を主導できると思って大坂城入りした輝元が、案に相違して長盛らの反発を受けたため(長盛らは奉行衆が豊臣公儀を主導するという構想を持っていた)、自らの戦力を温存しつつ奉行衆と家康をぶつけて漁夫の利を占める方針(西国での勢力圏拡大もその一環)に転換した、といった推論を提示されておられた記憶があります。

史料的根拠が弱いと判断して、御著書に載せるのは見送ったんですかね?

増田長盛
桐野
御座候さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
光成さんの報告は史学会であったのですか。

毛利輝元と増田長盛との路線の違いという観点は大変興味深いのですが、果たして増田に毛利と張り合うだけの実力があるのかという気がします。仮にそうだったら。むしろ、家康の別動的立場だったのでしょうかね?

光成さんの日の目を見なかったという漁夫の利説、じつは小生の拙著(小説ですが)と偶然ながら、同じ発想ですね。

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先日、知り合いから『史学雑誌』「2005年・回顧と展望」に拙論が掲載されていると教えられて、遅まきながら見てみた。丸1年も遅れてる(爆)。ちなみに拙論タイトルは、

信長への三職推任・贈官位の再検討」 『歴史評論』665号 2005年

う~ん、これに載るのは2回目だが、何となく認めてもらったようで、うれしいものです。
中野等さん、有難うございます。といっても、どこぞの報告会でお見かけしただけで、挨拶さえしたことがありません。

で、その織豊期分に紹介されていたのが表題の史料集。
小西行長の居城があった熊本県宇土市が刊行しています。
正確には『宇土市史研究』26号です。
興味のある方はここを見て下さい。

ほかにも、『新宇土市史』通史編第2巻(中世・近世)が刊行されたばかりのようです。小西、加藤、細川の各時代を通観できます。天草・島原の乱も注目でしょう。


【2007/09/16 23:11】 | 戦国織豊
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小西行長関連
市野澤
こんばんわ。
やっと、『宇土市史研究』26号を購入できました。
一旦は完売したそうです。
この手の出版物は品切れになると増刷されないものですが、
嬉しい限りです。

一緒に
・『うと教育の日記念シンポジウム小西行長を見直す』パンフレット
・『シンポジウム小西行長を見直す』レジュメ
・『シリーズ再検証・小西行長』①~④のレジュメ
も送って頂きました。
宇土市が小西行長に力を入れて、検証・顕彰しているのが手に取るように分かる内容でした。

桐野さん、ご紹介ありがとうございました。


うらやましい
桐野
市野澤さん、こんばんは。

かねてから希望のものがにゅうしゅできてよかったですね。
驚いたのは、付属のパンフやレジュメ類です。私もほしいです。
これって、まだ残部はあるんでしょうかね?
申し込み方法などがあれば教えて下さい。

管理人のみ閲覧できます
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第24回
―義虎にも将軍から一字―

連載コラムが更新になりました。
左下のリンク欄からご覧になれます。

前回からの続きで、薩州島津家の6代義虎について書きました。
ポイントは2点あります。
ひとつは、太守義久の長女於平を妻に迎えて、新本宗家との和解を実現したことを評価しました。
次に、ほとんど知られていない5代実久と6代義虎の上洛について書きました。2人の上洛については『言継卿記』に断片的な記事があります。義虎の記事のほうが詳しいです。とくに飛鳥井邸で義虎が蹴鞠の会を興行したことは注目されます。
また、義虎は将軍義輝から一字拝領しています。これは太守義久と同様であり、重要な事実だといえます。

ちなみに義虎の実名の変遷は、『旧記雑録拾遺 諸氏系譜三』によれば、次のようになります。

晴久 陽久 義利(義俊) 義虎

なお、義虎と近衛家との交流も重要です。
上洛した義虎は関白近衛前久との交流を深めました。
その関係は、前久が天正3年(1575)暮れに薩摩に下向し、義虎の出水城に3カ月ほど滞在したことに引き継がれます。

前久の出水滞在は重要な出来事ですが、紙数の関係で、これには触れられませんでした。あとで前久の出水滞在中のことを書く予定にしておりますので、そのときにまた触れたいと思います。

次回は7代忠辰のことを書きます。
彼の非業の最期を中心に、於平の実子だったのかどうかという点などを含めて書く予定です。

【2007/09/15 11:38】 | さつま人国誌
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ばんない
今回の記事も興味深く拝見させていただきました。

どうも一般向け?の書籍では島津実久が島津日新斎忠良・貴久親子に負けてから、フェードアウトして行方不明になったような書き方をしているものが多いので、実際は今回の記事にもあるように京に遊びに行ってる(汗)し、見ようによっては悠々自適の晩年を送っている事実は興味深いですね。

実久・義虎親子が上洛した話は知っていたのですが、島津家側に残っている史料では詳しく書いた物がないですね。『言継卿記』に載っているとは知りませんでした。機会があれば読んでみたいと思います。

個人的には来週の内容はより待ち遠しいです。今週分の内容を拝見すると、御平と忠辰の関係について実子説を採ってられるようですが、その結論に至られた課程に興味があります。

島津忠辰
桐野
ばんないさん、こんんばんは。

忠辰が於平の実子かどうかに疑問を向けられるとは、さすがに鋭いですね。
私も実子説を当初は疑っていたのですが、史料の解釈や於平の年齢などから、成立するようにも思えます。
むしろ、ばんないさんのご意見をうかがいたいくらいです。


では、後出しじゃんけんと言うことで(汗)
ばんない
わたしも何が何でも「御平と忠辰は実の親子じゃないんだ!」…というのではないのですが、今わたしが知っている限りの情報では不確定の要素が多いと思いまして。

ということで、来週の桐野さんの記事を楽しみにしています。

忠辰の生年はいつか?
桐野
ばんないさん、こんばんは。

後出しジャンケンですか(笑)。

一応、ポイントは忠辰の生年だと思っています。
「薩州氏系図」は天文22年(1553)説
「本藩人物誌」「「島津弥市郎系図」(薩州家庶家)はともに永禄9年(1566)説を採っていますね。
かなり開きがあります。

永禄9年説だと、あくまで年齢的な見地から、於平の実子として辛うじて成立するかもと思っております。むろん、本宗家と薩州家の間で、婚姻年次を示す史料があるのであれば、その限りではありません。

もっとも、忠辰があのような死に方をしたのと、国賊伝に加えられていることから、本宗家が都合の悪いことを消し去った可能性もないとはいえません。

ちなみに、拙著「島津義久」では、非実子説を採りました。



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ある史料に書かれていた安土城天主のある事実について、明日15日の朝日新聞朝刊の文化面に記事が載る予定です。
信長や安土城に関心をもっている方には、衝撃的なニュースかもしれない。
よかったら、読んで下さい。

友人と一緒に取材を受けたのはもう1カ月以上前。ようやく今週の社会面に掲載予定と聞いていたところ、ご存じのとおり、政局の激震により遅れてしまったのではないかと思う。何より、政局のしわ寄せを喰って記事が吹っ飛ぶのではないかと内心恐れていた。それでも、文化面に何とか掲載に漕ぎつけたようで安堵。

なお、この件については、今月22日発売の歴史読本11月号にも、詳しい記事が掲載される予定です。小生も別件(明智光秀妹「ツマ木殿」や九鬼水軍の鉄張船など)について書いています。こちらもよろしく。

【2007/09/14 20:13】 | 信長
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朝日新聞
Tm.
桐野先生どうも。

いよいよ明日の朝刊に掲載されるのですね。
とかく評判の芳しくない朝日新聞ですが、時折、興味の引かれる歴史関係の記事が掲載されるので、安くはない代金を払い取っていた甲斐も、これであろうかと思われます。
先ずは明朝、配達されてくるのを楽しみにお待ちしております。

それと、資料の整理が出来ていないので所在不明につき詳細をご紹介できませんが、以前、知人より、安土城の評判を伝え聞いた毛利方でもそれに対抗する築城の動きがあったことを伝えるの史料(吉川OR小早川文書)があることを教えられていたのですが、桐野先生はご存知でしょうか?
自分の知る限り、今だかって公(関連書誌)には紹介されていないようなのですが。

ついにですか
中村武生
桐野さま
中村武生です
 心待ちにしておりました。
 どれだけ「ここだけのはなしやけどな」といいかけたか。
 明日からやっと口にすることができます。
 うれしいです。

毛利両川
桐野
Tm. さん、こんばんは。

明日の記事で、安土城天主について曖昧だったり、矛盾しているようにみえた部分がだいぶ氷解するのではないかと思っています。そのうち、ご感想をお聞かせ下さい。

毛利側の史料、吉川家文書、小早川家文書ともあるのですが、全部見ておりません。少し調べてみます。

太閤堤
桐野
中村武生さん、こんばんは。

以前、ご相談に乗っていただき有難うございました。
ようやく形になりそうです。

そういえば、最近発掘された太閤堤?についてのご意見拝察。やはりと思いました。
じつは、私も以前、大坂の陣のとき、大坂方が徳川方を大坂城に近づけないために、太閤堤を切ったという史料をもとに、それが予想外に大規模な水没をもたらしたのではないかと書いたことがあります。
その史料にもたしか、淀川左岸を切ったと書いてありました。もともと、太閤堤は淀川などの河川から、大坂城下を守るために築かれたのではないか(だから、工事は左岸だけ)と思うのですが、どうなのでしょうか?


とりあえずの所感を
Tm.
おはようございます桐野先生。

朝日の記事、早速、拝見いたしました。
安土城天主が一度、倒壊していたとは。かなりショッキングな記事ですね。

ただ木戸雅寿さんは、文献と考古、双方の見地から否定されておられるようですね。多分、大方の研究者の方も同じではないかと思われます。
とはいえ、全くあり得なくもない節もあります。

と言うのも、従来より自分は『信長(公)記』の天正6年と同10年の正月の記事に類似性を感じており、なおかつ、4月に信長が右大臣、右大将を辞し、一端は信忠がそれを受け継ぐことが決まっていた(内々に祝いの茶会あり)のではないかと考えていたからです。

その上、早くから安土への行幸が噂されていたにも拘らず、結局は後年まで実現しなかった経緯も然りです。宗及が信長に見せられた「黄金一万枚ほと」には、後々の聚楽第行幸における秀吉の「金配り」を連想していました。

つまり自分は、本来、天正6年という年は、非常にエポックメイキングな年になるハズであったと考えていた訳で、先の信忠への地位の委譲および行幸の延期の一因に、「天主の倒壊」もあったのではないかとも思われます。

まずは取り急ぎ。



安土城天主と信長辞官
桐野
Tmさん、こんにちは。

記事をさっそくご覧になったようで。

木戸さんは案の定、否定的でしたね。私たちもカウンターコメントの内容は記事になるまで知りませんでしたが、おそらくすぐに賛同を得ることはないだろうと予想しておりました。

文献上はともかく、考古学的にありえないといわれると、こちらは素人なので何ともいえませんが、ひとつありうるとすれば、「初代」と「二代目」の天主が同じ場所に建っていたとは限らないという点も顧慮すべきだと思います。

文献上に関していえば、『宗及他会記』天正6年(1578)正月十二日条に「てんしゆをはじめ方々拝見」とあるように、天正5年末には天主が完成していたので、正月にお披露目があったのではないかという気がします。

あと、安土行幸が中止された一件との関連も重要ですね。橋本政宣氏が「言経卿記紙背文書」の解読から、天正5年に安土行幸が予定されていたことを明らかにしました。むろん、実現しておりません。
行幸日程は大まかに決められただけで、安土城とくに天主の工事の進捗状況に規定されていたのではないかと思われます。
その意味では1年遅れの同6年に行幸があってもよかったのですが、倒壊により実現しなかったという推定もできます。

またTmさんが安土城天主と信長辞官を関連づけられているのも興味深いです。私も三職推任の一件から類推して、あり得ることだと思っていました。
信長が右大臣・右大将を辞官したのは天正6年4月9日です。天主倒壊の1カ月ほど前ですね。
信長が1次天主が完成したと思われる時期と相前後して、両官を辞官しているのは単なる偶然では片づけられないような気がします。

いずれにせよ、1次天主の完成、安土行幸、信長辞官はセットにして考えたほうがいいのかもしれません。



今朝の新聞拝読いたしました。
森 俊弘
こちらのブログでははじめまして。
しばらく失礼いたしております。

今朝の新聞を拝読いたしましたが、そうすると「安土日記」の天正7年に配置されている拝見記事は、どのように考えるべきでしょうか。ここで拝見の記録対象になっているのは当然「再建」天主ということになると思いますが、そこに天正5年後半の柱立・上棟とわざわざその経過を記載しているにもかかわらず、実はその間に「倒壊」「再建」を挟んでいた、というのは少々理解に苦しむような気がいたします。

新史料の性格や全文が完全には不明ですのでもとより断言はできませんが、紙面から読み取れる範囲では、指摘のような地震・水害を背景にした「何らかの安土城内での事故」が、風聞として伝えられこのようなかたちで文字として残された可能性を十分に考慮する必要があるように感じております。

当時の政治的動向との関連付けについては、天主の倒壊でなくてもそうした「事故」によるとして説明しても大きく変わりはないと思いますがいかがでしょうか。

一方的で申し訳ありませんが、それでは。

天主
橋場
天正六年五月に倒壊したとすれば、八月に「御山」に千五百人も集めて相撲興行したという『公記』の記述が物理的に不可能になりそうですね。崩落した石垣や天主木材の片づけ、あるいは再普請の人夫でごった返している筈の城内に部外者が大挙して押し寄せる、というおよそ信じられない情景が見られた事になります。
また、この時期安土普請奉行の丹羽長秀をはじめ、織田家の重臣連がことごとく戦場にいて総責任者たりうる者がいない、というのも天主再建論を展開するには厳しいものがありそうに思いました。

お久しぶりです
桐野
森 俊弘さん、こんばんは。

お久しぶりですね。
いつぞやはお世話になりました。

貴重なご意見有難うございます。
ご指摘のように、太田牛一の『信長公記』『安土日記』が「倒壊」「再建」を記していないのは奇異ではありますが、信長にとって不名誉なことなので、一貫して記載しない方針にしたとは考えられないでしょうか。

天正5年後半以降の安土城天主作事の日程ですが、『安土日記』『宗及他会記』によれば、

天正5年
08/24 柱立
11/03 屋上葺合(上棟か)

天正6年
01/12 津田宗及、「てんしゆなど方々拝見」

天正7年
01/11 宗及「御殿守拝見」「御殿守七重」云々
01/25 村井貞勝・林秀貞「忝御殿主をミさせられ候、御殿主ハ七重」云々
05/11 「御殿主へ被移」

天正9年
09/08 狩野永徳・木村次郎左衛門、諸職人頭へ褒美(全作業完了か)

史料不足ではありますが、気づいた点として、

①柱立から葺合まで2カ月余
  →天主作事は意外と短期間でできるのでは?
②宗及が1年をおいて2回天主を見学していることがやや不自然。
  →天正5年末までに天主は一応完成した可能性はないか
  →1度目は外観だけで、2度目は内装が完成したという理解なのか
③天正6年5月の「倒壊」から宗及の2回目の天主見学まで半年ほど。
  →天主「再建」がひととおり完了するのに時間的には何とか間に合うのでは

など、いろいろ考えられそうではありますが、もう少し検討してみたいと思います。






天主普請・作事
桐野
橋場殿下、こんばんは。

ご意見有難うございます。
天正6年8月8月の相撲興行、「御山」といっても、必ずしも頂上の本丸・天主付近とは限らないのではないでしょうか。
余談ですが、興行の目的も工事促進の景気づけのような意味合いはないのかどうか。

丹羽長秀については、ご指摘のように安土城普請の惣奉行ではありますが、あくまで基礎工事にあたる普請までで、天主作事とは無関係ではないかと思います。谷口克広氏も『~辞典』で、丹羽の役割は天正4年内で終わっていたのではないかという見解のようです。

天主の普請・作事については、普請が木村次郎左衛門、作事が大工棟梁の岡部又右衛門の役割が大きいのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

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山口のマツノ書店から、表題の2点が今秋11月に同時に復刻発売される。
その案内が送られてきたので紹介する。

大久保日記

大久保利通日記』は、言わずと知れた幕末維新史研究の必須史料である。日本史籍協会叢書として、過去何度か復刻されたが、需要が多いためか、ほとんど古書市場にも出回らない。

今回の復刻は、読者にとって大きなメリットが2つある。
ひとつは、新たに人名索引が付いたことである。これは大久保利通と内務省の研究で知られる勝田政治氏編によるもの。この索引により、一層使い勝手がよくなるだろう。

もうひとつは、旧版は安政6年(1859)から日記が始まっていたが、『大久保利通文書』に収録されていた「嘉永元年日記」も転載されたこと。これは利通が20歳前に書いた日記である。日本史籍協会叢書版が発行されたのち発見されたため、これまで収録されていなかった。
これを収録したことにより、大久保日記は初めて完全版になったといえる。
なお、推薦文は索引を作成した勝田政治氏が書かれている。

体裁:A5版 上下2巻+人名索引
   上製箱入 計1.400頁 限定300部(番号入)
定価:25.000円(税込・送料590円)
予約特価:20.000円(税・送料込)
特価締切:9月30日
発売:11月1日



西郷伝

西郷隆盛伝』は『大久保利通伝』でも知られる勝田孫弥の著作。明治中期に刊行された、初めての本格的な西郷伝記である。よく知られる西郷像を形成した基本的な文献だといえるが、今日、その存在がほとんど知られず、一種の幻の本になっていた。

これも当然ながら、古書市場ではめったにお目にかからない稀覯本。たまにあっても古い5分冊のものだったりする。これは5分冊の旧版を1冊にまとめたもの。
不肖、小生が推薦文を書いております。よかったら読んで下さい。

体裁:A5版 上製箱入 920頁 限定300部(番号入)
定価:15.000円(税込・送料450円)
予約特価:12.000円(税・送料込)
特価締切:9月30日
発売:11月1日


興味のある方は上記マツノ書店サイトをご覧になってパンフ請求や予約申し込みなどして下さい。

【2007/09/13 16:18】 | 新刊
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小学館古文書塾てらこや特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方」第5回

昨夜の講座で今次の最終回である。
前回までに篤姫についての主要部分を終えていたので、今回はその周辺の主要な人物として表題の2人を取りあげた。

島津斉彬文書は嘉永2年(1849)正月29日付、側近だった吉井七郎右衛門宛てで、薩摩藩家老・調所広郷の死去を伝えながら、藩主斉興を支える調所派の動揺を詳しく述べたもの。
調所の死因を「吐血」とか「胃血」と書くのみで、服毒自殺とはっきり書いてあるわけではないのが少し気になった。

この書簡で一番面白いというか、異様なのは、お由羅など何人かの人物をローマ字表記の隠語にしている点である。この書状が他に洩れることを警戒しての密書であることは間違いない。
また、宛所の吉井もその返書で、同様に人名をローマ字表記しているのを確認。じつをいうと、吉井は蘭学者杉田成卿(玄白の孫)に学んでおり、斉彬のローマ字の先生でもあった。2人は機密を要する事柄・人名をローマ字表記するほどの親密な間柄だったのである。

そういえば、以前の講座で、水戸斉昭が老中阿部正弘に宛てた神発文字の密書を取りあげたことがあった。これは初歩的な暗号文で、書簡の文字を乱数表に従って読み替えるものである。内容に幕閣批判が含まれていたので、暗号にしたのだろう。
水戸藩内外の抗争の凄まじさを示すものだったが、斉昭がこの暗号を、神州の元気を奮発するという意味で「神発文字」と名づけていたのが、いかにも水戸学の家元だけあって面白かった。

一方の斉彬はローマ字による密書で、斉昭よりもオシャレかも(笑)。一橋派の盟友同士の思想の違いの一端が表れている。
また、斉彬の密書やその言動の激しさから、薩摩藩も水戸藩に劣らず、内部抗争が凄まじかったことを理解してもらえたと思う。

もうひとつ興味深かったのは、斉彬がお由羅派の呪詛を本当に信じ込んでいたことである。斉彬は国許の諏訪明神の神官に、自分と三男・四男の衣服を形代として送っている。お由羅派の呪詛に対抗する祈祷のためである。また斉彬自身も呪詛返しの不動尊祈祷などを真剣に実践していたこともわかった。

お由羅派の呪詛があったかどうかは不明である。仮にあったとしても本当に効力があったとは思えないのだが、斉彬の数人いた男子がすべて夭逝しているのはたしかである。長男と次男を立て続けに亡くした斉彬が呪詛のせいだと信じたくなったのも親心かもしれない。
それはさておき、開明派で合理主義者として知られる斉彬の意外な一面をかいま見たような気がした。

余談ながら、西郷もまたお由羅派の呪詛を信じていた一人である。心酔する主君斉彬が信じ込んでいたのだから、西郷が生涯信じ込んでいたというのもわかる気がする。

小松帯刀文書はまず、「薩道」(英国外交官アーネスト・サトウ)に宛てたもの。
早稲田大学が所蔵している2点の小松文書のうちの1点。新出文書ではないと思うが、永らく一般に公開されいなかったようで、私も初めて見た。ネットでも閲覧できる。ここです。

せっかくなので、釈文を作ったうえで、年次や大意の検討を行う。
キーワードは「御帰港」「下坂」「公使」「病人」「御医師」など。
小松が在京しており、サトウが京都から大坂ないしは兵庫に帰るところで、小松が別れの挨拶をできなかった非礼を詫びるとともに、「御医師」の在京延長を頼んでいる内容である。

外国人禁制の京都にサトウが一時滞在しているわけで、それは慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い以降しかありえない。実際、薩摩藩の負傷者の手当てのために、英医ウィリアム・ウィリスが朝廷の許可を得て入京し、サトウも通訳として付き添ったことは知っていた。「御医師」はウィリスではないかと思った。
だから、第一感で書簡はこのときのものだろうと推定した。そのウラをとるために、『小松帯刀日記』『元帥公爵大山巌』などで傍証を積み上げた。まず年次は慶応4年で間違いないだろう。

ただ、釈文については、疑わしいのが一、二あった。とくに私が「主人よりも申聞」と読んだ一節で、「主」が違うのではないかというご指摘。たしかに私も疑問に思っていたのだが、では何という字だか思いつかなったので、とりあえず留保するしかなかった。

もう1点の小松文書は元治元年(1864)11月19日付、大久保一蔵宛て書簡。
小松が「ジョン万」こと中浜万次郎を薩摩藩で雇用することを伝えている。小松はジョン万の能力、とくに航海術を高く評価していることが書かれていた。
このあたり、小松と蒸気船・海軍方・開成所などとの関わり方をもっと深める必要があると感じた。

5回にわたる講座、お粗末でしたが、熱心に拝聴していただいた受講生のみなさんに感謝します。
次期もパート2をやる予定でいます。大奥のことや、慶応期や江戸開城前後の様子を詳しくやりたいと思っております。

【2007/09/12 12:41】 | てらこや
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「主」
まいたけ
「主」の文字ですが、早稲田大学のサイトから、実物のカラー画像をみると、かなり虫食いが多くある書簡のようですね。この「主」の部分は虫食いのような気がしてきました。
 よくみると、等間隔に同じ形の虫食いが確認できます。
 
 これが「虫食い」だとすれば、そこを黒く塗ると、「主」と読める気がいたします。
 

 

虫損? 紙魚?
桐野
まいたけさん、こんばんは。

虫食いですかね?
紙魚(しみ)には見えるのですが。
「主」でいいとしても、真ん中でくるりと筆が回っていないように見えるのが気になります。

せっかくなので、購入したばかりのくずし字解読ソフトを使って、手書き入力してみましたが、どうもマウス操作がうまくいかず、それらしく書けませんね。

一応、表示された候補字としては、

「至」「玉」「用」「宝」「玄」

などですが、どれもピンと来ません。
トホホです。

大意としては「主人」で意味が通るとは思うのですが……。

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この本は極めて問題あり。桐野の新出史料があるかと期待して購入したが、あにはからんや、羊頭狗肉も極まれりである。

わずか100頁の本が5000円もする。
値打ちのある中身なら、それでも合点がいく。

ところが、さにあらず。
100頁のうち、桐野の遺稿なるものはわずか35頁。
残りは「関係偉人略伝」で、ほとんど幕末の有名人の略伝である。それも、その辺の人物辞典に書かれている程度のもの。

そして、一番の問題は全体の3分の1しかない桐野遺稿なるものが初出ではないということだ。
一応、冒頭で、朝日書房刊『桐野利秋遺稿―憂国の至情』(昭和9年=1934)を底本にして、読みやすく編集した改訂版だとうたっている。
内容は、石川県士族である中村九郎と中村俊次郎が征韓論で下野した桐野との問答をまとめたもの。だが、朝日書房版よりずっと前にこの桐野遺稿とほぼ同じものが世に出ている。

それは、黒龍会編『西南記伝』上-1の附録に「桐野利秋の征韓論に関する実話」として収録されているもの。言い回しや語句がわずかに違うだけで、ほとんど同じ内容である。
私の持っている『西南記伝』は明治百年史叢書として原書房が復刻したものだが、黒龍会編の原本は1908年(明治41年)には刊行されている。朝日書房版がそもそも、その焼き直しに過ぎない。
復刻版とはいえ、わずか35頁を5.000円で売るのはあこぎではあるまいか。

私の周辺ですでに買われた方もおいでかもしれない。その方には高い授業料でしたねというしかない。
これから買おうかと迷っておられる方には、止めたほうがいいですと、アドバイスしておきます。

あえて、表題に×印を付けておきます。
私も中身を見ないでネットで購入してしまったのが悔やまれます。

【2007/09/10 22:19】 | 新刊
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まいたけ
うちにも今日届きました。
樺山資紀情報に期待したのでが、がーーん!そ・それだけ?悲しすぎる内容にがっかりしました(泣)

ろくでもない情報を流してすいませでした(冷汗)>ご購入の方



はずれ
桐野
まいたけさん、おはようございます。

昨日はお疲れさまでした。
例の本は思いっきりはずれでしたね。
樺山のもご愁傷様でした。

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この度、リンクを2つ追加させていただきました。
どちらも私の問題関心と深く関わっているサイト・ブログで、よくのぞかせてもらっています。
左下のリンク欄からご覧になれます。

戦国島津女系図
島津氏の系譜関係でよくコメントをいただくばんないさんのサイトです。
とくに島津一族の女性について非常に詳しいです。歴史紀行も充実しています。

泰巌宗安記
古い友人であるK2さんのブログ。
泰巌は信長の法名の一部ですね。織田一族の系譜や人物について、とくに織田一族の女性について詳しいです。

期せずして、ともに戦国の女性をクローズアップした、貴重なサイト・ブログですね。


【2007/09/10 11:26】 | 雑記
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相互リンクさせていただきました
ばんない
URLにありますようにカテゴリー「島津氏関連」で登録させていただきました。何か不具合・不都合な点がありましたら、修正させていただきますのでご指摘お願い申し上げます。

…で、お褒めにあずかり光栄なのです…が、最近誉められるほど中身のある更新が出来てないので(汗)何とかしないと…。

ばんないさんのHP
かじやちょう
かじやちょうです

ばんないさんのHPは私も好きで、随分前から『お気に入り』に入っています。勉強になります。

相互リンクさせていただきました。
k2
桐野様
あらためまして、今後ともよろしくお願いいたします。

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先日書き込んだ記事について。

一応、インストールして使ってみました。

まず、入力方式が次の2通りあります。

①文字入力検索
②手書き入力検索


①は、だいたい想定できる文字を入力して該当するかどうか調べる場合に使います。これは従来の紙の辞典を使うのと変わりません。利点は紙の辞書で探すよりも、格段に短時間で探せることです。従来は探したい文字を部首か音で見つけて、該当頁にあたるという二度手間でしたが、これは一発で探せます。

また、その文字を含む使用頻度の高い熟語も付随的に一覧が表示されます。該当する熟語かどうか、チェックするのに便利です。また表示される筆文字もきれいで、しかも一覧表示なので、わかりやすいです。
でも、熟語すべてが表示されるわけではなく、該当文字以外の文字が1字ずつしか表示されません。したがって、熟語全体を見ることができません。これは不便です。

②については、従来、くずし字のベタな解読方法としては、一画目の書き方、たとえば、点・横一・縦棒・斜め棒ごとにカテゴリー分類してあるなかから探す方法(昔の近藤出版社版「くずし字解読辞典」など)しかありませんでした。
このソフトでは、手書き入力機能が付いたことで、このやり方が従来より早く、機能的に探せるようになったと思います。
もっとも、手書き入力といっても、マウス入力だと、私のような指先の不器用な者には、不明くずし字を忠実に筆写することができず、認識率がだいぶ下がります。
この弱点を補うには、ペンタブレットを使うとよいかもしれませんが、私は持っていないので、よくわかりません。またそのうち、ペンタブレットが使えるのかどうか試してみたいと思います。

とりあえずの中間報告としては、

・紙の辞書より速く引ける
・筆文字はきれい
・一覧表示が見やすい
・熟語表示に難あり
・手書き入力の使い勝手がまだ未知数

といったところでしょうか。あと追加機能としてほしいのが、

・同一部首の漢字の一覧表示

ですね。これは不明くずし字の部首だけが判明している場合にどうしても必要です。


【2007/09/09 18:15】 | 雑記
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みなぎ
ご無沙汰してます。
これ、うちの職場にもパンフがきてて、かなり話題になってたんですが、思ったより使いよさそうなかんじですね。手書き入力ができるなんて画期的だと思います。ですがみなぎはIMEの手書き入力さえおぼつかない不器用者なので、厳しいのかなぁと思っています。違う字が出てきそう・・・。
もうちょっと値下がりして、もうちょっと機能増えないとうちでは無理かなぁ・・・。
また次の報告を楽しみにしてます♪

お久しぶり
桐野
みなぎさん、おはようございます。

お久しぶりです。
激務ぶりは仄聞しております。体を壊さないようにして下さい。試験頑張って下さい。

くずし字ソフト、現段階では、紙の辞書より速く引けるというのはメリットで、PCの前で仕事するときには重宝かも知れません。ただ、それだけの機能なら、ちょっと高すぎるので、別の付加機能がよくないと、お買い得とはいえないかもしれませんね。
改訂版が出て、別の機能が付け加えられるとか。手書き入力の精度がもっと高くなるとかすれば、買い時かもしれません。もっとも、値段は上がることはあっても、下がらないかも(笑)。


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南日本新聞「さつま人国誌」第23回
―一時守護となった実久―

連載が更新になりました。左下のリンク欄からご覧になれます。

今回から薩州島津家を取りあげます。
薩州島津家は現・島津本宗家の最大のライバルでした。私の郷里である北薩の大領主でした。

日新斎・貴久と同時期の当主実久の頃が最強で、一時期、旧・本宗家の勝久から守護職を相続したことが近年明らかになっています。むろん、実久が勝久に実力で強制したものですが、一応、勝久から「御神判」を得るなど、形式はととのえているようです。

結局、実久は日新斎・貴久方に敗北するわけですが、近世になって島津家の正史が編纂される過程で、現・本宗家への逆心第一の人物として「国賊」筆頭に位置づけられてしまいました。
「国賊」規定は現・島津本宗家にとって都合のよい歴史観、価値基準にすぎません。衰退した旧・本宗家の家督争いが、薩州家と相州家(伊作家含む)の間で実力闘争として展開され、最終的に相州家が勝利したにすぎません。

歴史は常に勝者のそれであるため、敗者が「国賊」にされたわけです。むしろ、この規定は現・本宗家にとって、実久がよほどの強敵であったことを逆に示しているともいえましょう。

戦国乱世に光芒を放った実久のような忘れ去られた存在に光をあててみたいと思った次第です。

次回は義虎や忠辰を取りあげる予定です。

【2007/09/08 10:20】 | さつま人国誌
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歴史の面白さ
市川
桐野先生、こんばんは。
島津実久、島津義虎、川上忠克、川上久朗など、出水は優秀な薩摩武士を輩出している印象があります。特に久朗は18歳で家老や守護代に任命されたというから、すごいです。

もし実久が伊作・相州家に勝っていたら、日新斎や貴久が「国賊」になっていたかもしれない。そう思うと、歴史の面白さを改めて感じます。ただ、どう転んでても島津勝久の評価は低かったでしょう。

島津忠良、貴久父子
国賊と酷評されている実久と同じで、中興の祖と謳われている日新斎忠良も薩摩藩の藩史では正統な家督(当主)と認められないようですね。(儒教の名分論による)

一方、正統な宗家当主と認められている貴久にかかわる評価や著書は少ない、伊作島津氏が宗家を継いで薩摩守家を撃退するのは忠良の功績と認識されていて、貴久が「三州統一」キャンペーンでの功績はその父と四人の子供より少ないと感じる。

以上はいかがですか。

島津勝久
かじやちょう
今回のさつま人国誌も大変興味深く拝見しました。
勝久の評価が上がってこないのは結果論として致し方ない気もしますが、勝久の父親の忠昌は、分家、国人をまとめきれずに自殺したくらいに、当時の島津本宗家の力は衰えていましたので、勝久もパワーバランスでなんとか守護職としての権威を保つように画策するしかなかったのではないかと思います。送っていただいた山口氏の論文の中に、南薩の領地を実久が放棄する代わりに守護職を容認するという提案を忠良がしたという記述がありました。実久が蹴って実現しなかったようですが、そのくらい薩州家の力は強大だったのですね。薩州家と相州家の力の違いに着目してみれば、この時代の情勢はわかりやすくなりますね。

川上久朗など
桐野
市川さん、こんにちは。

川上久朗、川上忠克も出水出身でしょうか?
これは知りませんでした。『本藩人物誌』では、出水と縁があるようには書かれていないのですが……。史料をご存じでしたら教えて下さいませ。

川上久朗については、義久と特殊な関係にあったのではないかと言われていますね。もっとも、菱刈氏との戦いで戦傷死したのは、義久ではなく義弘を庇ってのものですが。13カ所もの深手を負っていたというから、よほどの奮戦だったのでしょうね。


日新斎と貴久
桐野
胡さん、こんにちは。

日新斎は相州島津家の当主ではありましたが、仰せのように、本宗家の当主にはなっていませんね。日新斎が勝久よりも年上だったことが大きいのでしょう。儒教的名分論の影響ともいえるでしょうし、日新斎が本宗家を継げば、いかにも野望ありありに見えて、他の分家や国人の反発を受けたかもしれません。貴久への家督というのは賢明なやり方だったと思います。

貴久については、一応伝記もあります。
伊地知茂七『島津貴久公』、松原神社三百五十年祭典事務所、1920年

日新斎については、いろは歌関係の本が多くて、本格的な伝記はそれほどありませんね。

いずれにしろ、日新斎や貴久の頃の史料が少ないせいだと思います。





本宗家15代実久
桐野
かじやちょうさん、こんにちは。

島津氏の旧・本宗家の衰退に伴う家督争いにすぎず、本来、どちらが正統か否かという問題ではなかったはずですが、江戸時代になると、現・本宗家の歴史と統治を正統化する動きが強くなりますね。とくに重豪の代からそうではないかと思います。鎌倉にわざわざ源頼朝や始祖忠久の墓を建立したりしておりますし。家中の家格秩序が整備されるのも重豪の前後だったと思います。

考えてみれば、実久は一応、勝久から守護職を相続し、10年ほどの統治という既成事実があるわけですから、本来なら、島津氏15代当主と正史に記されてもおかしくないはずです。もっとも、現・本宗家としてはそれを認めるわけにはいかないでしょうね。

もし実久を当主に加えると、代数が一代ずつ後ろにずれることになりますが、義弘と相殺すれば、それ以降は食い違いません(笑)。

日新斎の伝記
ばんない
横やり失礼します。

島津日新斎忠良の伝記といえば
「日新菩薩記」(『島津史料集』所収)
がありますね。もっともこれ自体が江戸時代に書かれた物なので、なかなかさらさらと読めない代物ですが。あと、タイトルで何となく分かりますが、かなり美化されているのは考慮の上読まなければならないですけど。

…で、これ以後、島津日新斎忠良のまとまった伝記というのは書かれてなかったんでしたっけ(汗)

ありがとうございました
お詳しく返答いただき、有難うございます。
将来、チャンスがあったら、貴久や日新斎の書籍をもっと読みたい。

『島津日新公』
桐野
胡さん、ばんないさん

日新斎については、ご紹介の「日新菩薩記」が有名ですが、明治以降の著作としては、

渡辺盛衛『島津日新公』 東京啓発会、1910年

というのがあります。念のため。
ほかにも、まだあるかもしれません。


お詫びと訂正
市川
9月8日のコメントについて。
川上忠克、川上久朗の両名が出水出身であることを示す資料を私は知りません。早とちりで二人を「出水出身」と言ったことを恥ずかしながら訂正させていただきます。

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気分転換も兼ねて、レイアウトを変更してみました。

以前のは少し字が小さかったので、大きめにしました。
カラムも3から2に変更しました。

よろしくお願いします。

【2007/09/07 13:10】 | 雑記
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台風の中、信長研究者の谷口克広氏と久しぶりにお会いする。
以前よりお元気そうで安堵。

さっそく情報交換などする。
最近取り組まれている織田一族の新作について、系図まで含めて教えていただいたが、なかなか頭に入らない。永禄11年(1568)の信長上洛以前はどうも鬼門だ。今後、その鬼門のほうを手がけなければならないのだが、さてどうなることやら。

桶狭間合戦について、信長公記の解釈や史料的な限界についてほとんど意見が一致したが、義元本陣をどこに想定するかについて、谷口氏の個人的見解をうかがって、なるほどと思った。信長公記の記述と矛盾しない。ただ、天理本首巻とはどうか多少気になった。また今川軍前衛部隊の位置がどこだったかについても議論した。
それと、織田方の千秋四郎・佐々隼人正の最初の所在地とその後の所在地、なぜ無謀な突撃を敢行して玉砕したのか、藤井尚夫説と天理本でほぼ明らかにできるのではないかという点で意見が一致した。

北海道にお住まいなので、図書館が充実しておらず、史料探しが大変だという苦労話もうかがう。私の蔵書で手伝えることがあったら、と申し出た。

4時間近く話し込んだが、さすがに台風が気になって散会した。
帰路、駅から自宅までが大変だった。

【2007/09/07 13:08】 | 雑記
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くずし字

くずし字を解読するソフトがようやく届いた。

東京堂出版が発売したもの。7月発売予定だったが、2カ月近くずれ込んだようだ。詳しくはここ
過日の歴研大会で予約していたので、2割引で入手できた。

まだ試していないが、従来のくずし字辞典の引き方ができるのはむろんだが、手書き入力によって、類似語を素早く一覧表示してくれるのが最大の売りだろう。要はその精度にかかっていると思う。それを見極めたい。

これまでのくずし字読解の苦労が少しは軽減できるか。あまり読めない私にも朗報になるかどうか。
そのうち、また試用結果を報告します。

【2007/09/06 10:59】 | 新刊
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秘剣
こういうソフトがあるんですね。
くずし字が自由に読めたらなあと甲斐なきことを思っていたので、気になります。
使用感をいつかお教えください。


調所
早速私も試してみたいですね。手許に残る先祖の手紙は最後の調所笑左衛門廣郷(花押)しか判らないんで。(笑)


桐野
秘剣さん、調所さん、こんばんは。

ちょっと試してみてから、使い勝手をご報告します。
ただ、私はダメもとのつもりで購入したので、いまいちだったときは悪しからず。

調所さん、今度ご先祖の書状見せて下さいませ。
解読に挑戦してみます。


調所
了解致しました。以前ある人にちょっと読んで頂いたのですが、大坂騒動との記述で大塩平八郎の乱のことやらが書いてあるらしいのです。宜しくお願い致します。

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南日本新聞「さつま人国誌」第22回
―藩外人ながら薩摩藩士―

右下のリンク欄からご覧になれます。

先日、南日本新聞でJR鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」から除外された2人(高見弥一・堀孝之)の銅像を完成させようという趣旨の会が発足したことが報じられた。

私も以前、拙ブログでこの問題に触れたことがある。ここです。

この銅像は慶応元年(1865)の薩摩藩英国留学生の記念碑だが、2人だけ除外されたのは「薩摩藩士ではない」という理由から。
このこと自体、開いた口が塞がらない狭量というべきだが、今回のコラムでは2人が藩外出身者ながらも、薩摩藩士だったことを実証する史料を紹介した。とすれば、当初の基準に該当するわけで、除外する理由にはならないことになる。
当時、これらの史料が明らかになっていなかったという制約はあったにせよ、藩外人だから除外するという考え方が、140年前のこの青年たちの雄図に比して、どれだけちっぽけに見えることか。

今回、急に銅像追加再建の動きが出てきたのは、島津本家の当主が動いたということもあろう。
何より、来年の大河ドラマを意識した動きではないかと思われる。来年は観光客が増えるのは間違いない。
鹿児島の玄関口である鹿児島中央駅を降りるとすぐ目の前にある銅像が、薩摩の排他性、独善性の象徴ではないかと、県外に流布されてマイナスイメージが広がったらたまらんという思いがあったのではないかと憶測する。

動機はともあれ、除外された2人のためにも喜ばしい動きである。

【2007/09/01 17:40】 | さつま人国誌
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喜ばしいですが・・・
かじやちょう
かじやちょうです。

飲み会の席では、この二人のことは良く話題にしていましたね(笑)。鹿児島人の感覚は退行しているのでは?という情けない気持ちで一杯でした。
今回、二人の銅像を追加するというのは喜ばしいことですが、最初から抜いてはいけない人達ですから、私の中での評価はプラスにはなりません。むしろ、島津の本家が動いたからとか、大河ドラマ対策とか、一体いつまでそんなことをやっているのか・・・県民のレベルを上げる方が先決かなという印象が強くなりました。
ちょっと辛口ですが、鹿児島が好きなだけに、他地域の人にも納得できるような価値基準をもってほしいです。

退行、退歩
桐野
かじやちょうさん

辛口コメント有難うございます。
仰せの通りだと思いますね。

今回の一件にしても、島津家が動けばニュースになるというのが何とも。今でも、島津家や西郷頼りだということでしょうかね。ふつうの市民の声がもっと形にならないのかという気がしますが。

深読みすれば、この銅像問題が全国ニュースになると、鹿児島全体が大恥をかくだけでなく、観光客の減少にもつながりかねません。長期的に見れば、鹿児島にとって不利益だと思いますがねえ。

何というか、19人のメンバーからわざわざ藩外人を排除するという手続きを「有識者会議」を経て決定したというのですから、その内向きの姿勢と不見識には恐れ入ります。こんなやり方が県外でも通用する理屈だと思っているんですかね。

最近は、わが国の国内問題もアッという間に世界に広まります。国内の一部でしか通用しない特殊な議論など、たちどころに粉砕されるご時世だというのにと思います。

かつて、島津斉彬の時代に対外的危機に非常に敏感で、集成館事業を興すなど、危機への積極的かつ合理的対応をした薩摩人と、現代の鹿児島人を比較してみれば、かじやちょうさんのご指摘も無理もありません。

幕末薩摩は日本の南の玄関口で情報発信できる先進地域という認識があったのに、現代鹿児島はまさにわが国の僻地なんでしょうかね。

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小学館古文書講座「てらこや」特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方」
4回目の講座だった。今回のテーマは表題で、篤姫の生涯でも、いわばクライマックスにあたる時期である。

講義は次の5つの小テーマに沿って進めた。

①篤姫の大奥での生活はどんな様子だったか?
②将軍家定はどんな人だったか?
③いわゆる将軍継嗣問題での篤姫の役割は?
④和宮との関係はどうだったのか?
⑤維新前後の篤姫の動きは?


①②については、将軍家定の小姓をつとめた朝比奈閑水の手記が貴重である。もっともそば近くで仕えただけに、リアルこのうえない。家定が慶喜を嫌う理由が自分より「美麗」だというあたり、凄まじい話である。将軍継嗣問題も最後は感情の問題だったということか。

③については、篤姫が島津斉彬に出したと推定される書簡の写しが松平慶永に送られ、『昨夢紀事』に残っているのを読んだ。篤姫は斉彬から密命を帯びて、夫家定に働きかける機をうかがい、まずは生母の本寿院に話してみて様子をうかがったのがまずかった。誰よりも本寿院が将軍継嗣問題を毛嫌いしていたのである。そうだろう。まだ30歳そこそこの息子に継嗣問題が出ること自体、生母には我慢が出来なかったのである。
篤姫の大奥工作はおそらくこの時点で頓挫したのではあるまいか。

⑤『旧事諮問録』、三田村鳶魚『御殿女中の研究』、勝海舟『海舟余波』『海舟座談』など、オーラルな口述史料を用いた。なかなかリアルな証言が多くて、受講者にも一番関心をもっていただいた部分だろう。とくに、維新後の篤姫が次第に一庶民になっていく過程はほのぼのとしてよかった。

最後に、篤姫が和宮終焉の地である箱根塔ノ沢に立ち寄り、和宮のために手向けた一首を詠みあげて終わる。

君がよはひそめかねたる早川の 水のなかれもうらめしきかな

もっとも、私の解釈は違うのではないかとの受講者からのご意見。和歌はまったく門外漢なので、ご意見を拝聴する。
キーワードは最初の「君がよは」が誰を指すかである。私は明治天皇の治世、明治時代と解したが、受講生からは和宮のことではないかというご指摘だった。
帰宅してからいろいろ考えてみて、「君がよ」は枕詞の一種ではないのかと思った。辞書(日国)で調べてみたら、「君が代に」「君が代の」はたしかに枕詞だったが、「君が代は」は該当しない。
「君がよ(代、世)」には大きく分けて次の2つの意味があるらしい。

①寿命の意味で、あなたの寿命(ただ「君」は男性を指す場合が多い)
②わが君の時代、天皇の治世


私は②で、受講者の方は①で、それぞれ解釈したというわけである。
生命力溢れる早川の水の流れに比して、あなた(和宮)の命のなんと儚いことよ、という意味か?

ともあれ、次回は今次の最終回。
篤姫周辺の人物として、島津斉彬と小松帯刀の史料を取りあげる予定。


【2007/09/01 17:18】 | てらこや
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ひとつの可能性として
かわい
 その両方を掛けているとは考えられませんか。私は単純に一方とするよりも、深い意味を読み取れるように感じましたが。


まいたけ
 生意気な受講生ですいません(冷汗)

 天璋院の日記に、「塔之沢てふ出湯のあたりをみるに 過し頃 宮之君うせ給ひし高殿とて今も残れるに むねふさがり 懐旧のなみだに 袖をしぼり侍りぬ」と書いてあるという解説のあとの追悼和歌でしたので、「君が代」の「君」は、「宮の君」のことではないかと、安易に考えてしまいましたが、いろいろとお調べいただき、ありがとうございました。

 平成15年、江戸東京博物館で開催された『徳川将軍家展』の図録に収載されている小林明「静寛院宮後日譚ー明治期の親子内親王行実抄ー」の最後にも、この和歌が引用されていますが、読み方が少し違うようでして、

 君かよはひととめかねたる早川の
   水のなかれもうらめしきかな

 こちらは、「君が代」ではなく、「君かよはひ」(齢)と読んでありました。わたしは古文書が読めないので、どちらの読みが正しいのかわからないのですが、本展でも天璋院自筆稿本「熱海箱根湯治日記」は展示されており、その作品解説にも、「塔之澤てふ」以下が紹介されていました。天璋院は、この時、二首読んでいますが、もう一首「消ましゝ君が御たまやいかならん かくあさましき家を見つヽも」も書かれていました。また、「君がよはひ、、」は、「君がよはひ(齢)とゞめかねたる早川の」と、小林氏と同じように読んでました。

 小林明氏や展示解読に従うと、「とどめかねたる早川」とは何であろうかと疑問がわき、ヒントが転がっていないかと、この論考をはじめから読んでみました。『実麗卿記』によれば、和宮の病は脚気であったため、橋本実麗と実梁は、温泉による湯治をすすめ、和宮は塔ノ沢での湯治をはじめたそうです。また、湯治場となった元湯中田家の主人暢平の『塔之澤墜道之記』によれば、和宮は階下を流れる早川の水音に悩まされ、暢平は、里人の多くを集めて石を除け、しがらみを掛けて水音を支えたそうです。和宮はいつしか里人に親しみ、中田家の主人たちとの和歌に興じたりもしていたようです。

 小林明氏や展示解説の解読が正しいならば、天璋院は、和宮が早川の水音に悩んでいたことを宿の主人から聞き、そのことも歌に託したとも考えられる気がします。
 古文書も和歌も難しいですねぇ~ (泣)

今年の「大徳川展」にも、来年の大河を控えているので、この日記は展示されるでしょうから、どんな読みをするのか、楽しみにしたいと思います。

釈文が違う
桐野
かわいさん、まいたけさん

ご意見有難うございます。

まいたけさんのご指摘だと、解釈以前の問題として、釈文が違うようですね。

私が図録『皇女和宮』から引用したのは、

君かよは ひそめかねたる 早川の 
  水のなかれも うらめしきかな

まいたけさんのご紹介された図録『徳川将軍家展』では、

君かよはひ とゝめかねたる 早川の
  水のなかれも うらめしきかな

仮名の読み方と区切り方が異なります。「君かよはひ」だと字余りですが、まあ許容範囲でしょうね。

どちらの釈文が正しいのかよくわかりませんが、さしあたっての手がかりは図録『皇女和宮』に掲載されていた天璋院の旅日記しかなく、その該当部分を思い切り拡大してみました。

よく見てみますと、「よはひ」の「は」が「八」の変体仮名のようですね。
そして、一番肝心なのは「ひそめ」か「とゝめ」の部分。「と」の下の踊り字も合わせて一字だと見れば、「そ」にも見えます。これに字余りの一字のために、見事に2つの読み方が成立してしまうようですね。

どちらが正しいかの判断はなかなか難しいです。
天璋院の旅日記にほかにも「そ」が出てきますが、該当部分の字よりも、最後の屈曲部分が思い切り曲がっていて、少し違うかなという気もします。

どちらかといえば「とゝめかねたる」のほうが妥当かなという気がします。まいたけさんが紹介された、早川の水音がうるさい云々とも合致するような気がします。

「君がよはひ(齢)」だとすれば、「君が代」とはまったく異なる文脈になってしまいますね。
 


和宮没後130年の日
まいたけ

 図録を拡大コピーして、解読・検証していただき、ありがとうございました。
 解読によって、おっしゃるように、違った意味になってしまいますね。う~ん(悩)


 先ほど、気がついたのですが、今日(9月2日)は、和宮様のご命日でした。明治10年(1877)のこと。
 今年は、2007年ですから、没後130年になりますね。
 
 このような日と知らずに、和宮の最期をまとめた「静寛院宮後日譚を読んだり、天璋院の和宮を追悼する和歌について考えたりしていたことに驚きました。

 和宮様がご逝去された塔の沢の「元湯」は、現在は、「元湯 環翠楼」といい。国の有形登録文化財になっている名旅館だそうです。
 来年は、大河もあるので、たくさんのお客様が宿泊するのでしょうね。

今日は和宮の命日
桐野
まいたけさん、こんばんは。

今日は和宮の130回忌でしたか。そんな日に、一所懸命和宮や篤姫の話をするとは、まったくの奇遇ですね。

しかも、和宮への挽歌をあれこれ考えているのですから、なおさらです。これも何かの縁で、講座へのご加護だと思っておきましょう(笑)。

じつは、つい先日、箱根湯本まで行ったのですが、塔ノ沢がすぐ近くなのに、行きそびれました。というか、そのときは和宮の終焉の地だとは知りませんでした(爆)。
次回行く機会があったら、ぜひ訪ねてみたいです。早川の流れもどんな音か聴いてみたいですね。

和歌について
トイレ君
和歌の解釈云々で悩んでおられるようですが、
実物は「徳川記念財団」で保管されている、「熱海、箱根湯治日記」からの抜粋のようですね。それによると確かに「君が齢とどめかねたる早川の水の流れもうらめしきかな」なのだそうです。

余りにも早過ぎる和宮の死を悼み、「早過ぎる」死を「早川」に掛けている訳で、「齢とどめかねたる早川の…」となったようです。或る意味流石の鋭い文学センスだ・・!などと言ってしまったら両者に対し失礼でしょうけど、この短歌には唸ってしまいましたよ。悲しさをこんなにも情緒豊かにして綺麗な文章で表す事の出来る天璋院と言う人は、やはり並じゃない事が良く窺われますよね?

常時公開ではないそうですが、NHKで大河ドラマになっていたりしますので、特別に公開されているやも知れませんよ…。

ご教示多謝
桐野作人
トイレ君さん、こんばんは。

天璋院の和歌について、詳しいご説明有難うございました。
早川の流れを和宮の早すぎる死にかけてあるというのは納得でした。


「天璋院篤姫展」
まいたけ
『天璋院篤姫展』を見て参りました。

このブログで話題になった「熱海箱根湯治日記」が展示されていて、とても懐かしく見てまいりました。
本展の音声ガイドは、松坂慶子が幾島として解説をしていましたが、湯治日記の解説では、この和歌を、松坂慶子が情感をこめて「君がよはひ、とどめかねたる早川の、、、」と、詠んでいました。

「篤姫展」は、細かく展示替えがされるものもありますが、3月16日で大きな展示替えをするようですが、この日記は、全期間展示されるようです。
 

君かよはひ とゝめかねたる
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

さっそく篤姫展に行かれたのですね。
以前、問題になった天璋院の和歌、ちゃんと確認していただき、有難うございました。
松坂慶子のナレーションでしたか。一度聞いてみたいものです。
音声ガイドというのは、あの携帯用の器具のことでしょうか? あれは一度も使ったことがなくて、少し苦手です(笑)。

展示替え以前に行けそうもありません(泣)。



北のまじょ
篤姫(天樟院)の和歌をさがしています。お分かりでしたら是非教えて下さい。

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