膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第25回
― 独立図り、忠辰で断絶―

連載が更新になりました。
左下のリンク欄からご覧になれます。

今回は、薩州島津家関係の最終回で、薩州家断絶の当主だった忠辰(ただとき)を取りあげました。
忠辰の生涯については以前から関心があって、今から15年前、忠辰の400年忌が郷里出水で開催されたときも参加したことがあります。

忠辰について気になっていることが2つあります。
ひとつは、コラムにも書きましたが、その生年と生母のこと。生年が永禄9年(1566)なら、於平(義久長女)が生母だった可能性がだいぶ高くなります。「薩州氏系図」には、生年は間違っていますが、生母は於平だと書かれています。その後、忠辰が本宗家に反逆する形になったため、その関係が史料から消されていった可能性があります。

もうひとつは、薩州島津家の地位について。
これは豊臣秀吉に帰順したときのいきさつにからんでいて、どうやら、所領安堵を受けたとき、本宗家の義弘宛ての領知朱印状および目録とは別立てになって、秀吉朱印状が出された可能性があるのではないかと思っております。
その傍証のひとつをコラムにも書きましたが、この解釈はこれまで先行研究でなされていないのではないかと思います。ほかの解釈の余地がないわけではないと思いますが、忠辰に秀吉朱印状が本宗家宛てとは別に出されたのではないかと推定してみました。

もうひとつ、その傍証としてコラムには紙数の関係で書けませんでしたが、朝鮮出兵で、秀吉が忠辰を改易した理由を義弘に知らせた朱印状があります。そのなかに「泉又太郎(忠辰)事、其方与力として仰せ付けられ候条」云々という一節があるのが気になっています。

つまり、忠辰は義弘の与力(家来ではなく)という形で出陣したことになります。これは、義弘自身が太守ではなく、あくまで太守義久の名代なので直接の主従関係にはないという意味なのか、あるいは薩州島津家が本宗家から独立しており、秀吉の直臣同様の処遇を受けていたため、陣立上は与力になるのか、どちらか解釈に迷うところではありますが、忠辰が強気なのを見ると、秀吉との直接的なつながりをあてにしていたのではないかという節があります。
そのあたりを盛り込んでみました。