歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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小学館てらこや特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」

今次2回目の講座である。
前回から3週空きの変則開催だったため、教室が変わる。初めての教室もまたいいものだ。

将軍継嗣問題を個人的にも整理したかったので、改めて検討してみた。
どうしても越前松平家の『昨夢紀事』への依存度が高くなるのは致し方ない。中根雪江の詳細な記録・日記が有難い。

将軍継嗣候補が紀州慶福と一橋慶喜だけでなく、5人いたと解説したが、史料を読んでいたら、ほかにも蜂須賀斉裕(徳川家斉の男子)や「加州殿」(人名不明)もいたとあってあわてる(汗)。

水戸斉昭の豪放さが将軍継嗣問題では裏目に出て、むしろ、粗暴、はた迷惑という感じで見られているのがよくわかる。一橋派の内部でも、島津斉彬が松平慶永に斉昭と距離を置くようにアドバイスしているのが興味深かった。

それと、一番面白かったのは井伊家の『井伊家史料 幕末風雲探索書』所収の風聞書。
井伊直弼の諜報網は一橋家にも及んでおり、慶喜側近の平岡円四郎が語ったことが出入りの医師を通じて、井伊側に筒抜けになっている。
そして、将軍継嗣が紀州慶福に決定したとき、慶喜が「呉々も残念」「殊外の御不満」だったことがよくわかる。
慶喜は将軍継嗣問題に消極的だったという通説を覆す内容で、とても面白かった。

次回は来週の6日(火)と一週間空きという変則開催です。
受講生のみなさん、ご注意下さい。
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【2007/10/31 00:02】 | てらこや
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加州殿
ばんない
こんばんは。

加州殿ですが、前田慶寧の可能性はないでしょうか。
ただ、彼の母方祖母であるお美代の方が実権保持のために彼を将軍継嗣にしようとして失敗したようですが…天保年間のことのようです。

天保年間に芽が無くなったはずの前田慶寧が将軍継嗣として浮上していたなら興味深い話です。

前田慶寧
桐野
ばんないさん、こんばんは。

「加州殿」は前田慶寧(よしやす)の可能性がありますか。

私はよく知らないのですが、たしかに前田家当主ですから、加賀守を名乗っていますし、生母が将軍家斉の21女!の偕子ですから、徳川家の血統ではありますね。
ただ、女系ですから、継嗣候補としては本来無理がありますね。

私はほかに加賀守がいないか、『柳営補任』を調べてみましたが、みな譜代大名か旗本ばかりなので、前田慶寧が該当する可能性は高いと思います。

ご指摘有難うございました。

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本日、都内某所で織田信長研究者の谷口氏と会う。
先月にも会ったので、1カ月ぶりである。
来月初め、安土でイベントがあるので、それに合わせての上京である。

比較的最近会ったばかりだが、それでも、話し出すと止まらない。気づいたら、アッという間に4時間たっていた(苦笑)。

例の安土城天主倒壊の一件について、谷口氏の意見をうかがう。
結論からいえば、「ありえたかもしれない」とのこと。
その理由として、通説では安土城天主完成まで時間がかかりすぎていること。天正4年正月に安土城の普請が始まって、1カ月で岐阜から安土に移ったほどなのに、天主完成まで3年以上というのは長すぎると、かねがね思っていたとのこと。
また、陽明本『信長公記』巻9に「安土山御天主の次第」がなぜ入っているのか。このことは必ずしも天正4年に天主が完成したことを意味しないが、『安土日記』が天正7年に入っているのと、なぜ異なるのか、その違いは検討するに値するだろうとのこと。
一概に全面否定する必要はないだろうという意見だった。

余談だが、先日、藤田達生氏と話したときも、この史料は面白いというご意見だった。

谷口氏は現在、織田一族について執筆中とか。
いろいろ苦労話をうかがう。とくに信長以前について説明を受けたが、相変わらず私にはよくわからなかった(爆)。

私の方からは、織田権力のいわゆる「一職支配」のありようについて、具体的に話を聞く。
原田直政の山城守護と一職支配の関係とか、近江を譜代重臣たちが一職支配しながら、外様国人が信長から所領安堵の朱印状を与えられていることの意味など教えてもらう。
また与力・寄子という用語の違いをはっきりすべきで、概念を明確にして用語の混乱を是正すべきだとのご意見には、私も全面的に賛成だった。ぜひこの問題についても論文を書いてもらいたいものだ。

ほかにも、いろいろためになる話をうかがった。

【2007/10/29 22:48】 | 信長
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「安土城、もっと広かった?」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071029/acd0710292010004-n1.htm
安土城にはこんなニュースもでてますね。
詳しい報告が楽しみです。


こんばんは、胡です。最近「室町・戦国期研究を読みなおす」(中世後期研究会/編、思文閣出版)を読みました。その中で「一職支配」をめぐる研究議論が述べられている。

そもそも、脇田修氏が提示して以来、谷口氏らの研究家はみんな引用しているんですが、高木傭太郎氏らが「一職支配」の定義について疑問をした。

つまり、細川藤孝が信長より一職支配の朱印状をもらって西岡にたして支配権を持つはずですが、西岡の国人革島氏には、寄親または、上位にある印象が薄いし、丹後に移る時にも、革島氏が丹後に移らなかったのです。

というと、いったい織田政権の一職支配はどういうものであろうか。


安土城情報
桐野
どなたかわかりませんが、安土城情報有難うございます。
来月3日に安土でイベントがあることは知っておりました。
新しい発見があればいいですね。

一職支配
桐野
胡さん、こんばんは。

ご紹介の本、私も現在取り寄せ中です。
ご紹介、有難うございます。

高木傭太郎氏といえば、かつての戦国大名論集のシリーズ『織田政権の研究』(吉川弘文館)で、信長の「天下」理念について論文を書かれていた方ですね。
脇田修氏の一職支配論の批判的な再検討ということらしいので、私も勉強させてもらいます。

重ねて安土御普請仰せ付けられ
Tm.
桐野先生どうも。
『毛利家文書』の件ではご解説いただきながら、お礼申しそびれすいませんでした。


>また、陽明本『信長公記』巻9に「安土山御天主の次第」がなぜ入っているのか。

という点については自分もかねがね疑問を抱いていたところであり、しかもそれが天正4年7月15日の木津川海戦の後に挿入されていることから、同記の「七月朔日より重ねて安土御普請仰付けられ」という記述は、もしかしたら「石垣普請に続き、建物作事を命じた」ということではないかとも考えていました。
もしそうだとすれば、同6年正月に天主が完成していたとしても不思議はありません。

ただそうなると、『安土日記』の「天正5年8月24日柱立、同11月3日葺上げ」という工程日次は何なのかという問題も生じる訳で、また『兼見』からは既に仮御座所に別の天主が揚げられていたことが知られるので、それほど急ぐ必然性もなかったのではないかとも思われます。
おそらく、天主の造営は行幸に合わせ計画されていたのではないでしょうか。

先に「泰巖宗安記」の方で秀吉の大坂城天守を引き合いに、通説の工期日程が常識的にもほぼ妥当であることを述べましたが、その上で改めて最短工期の可能性を考えると、天正6年中にも計画されていたと考えられる行幸に合わせその完成が予定されていたものの、同年5月の被災により遅れ翌7年にずれ込んでしまったというのが真相ではなかったと推察します。

この問題については建築史分野からの反応に興味が待たれるところなのですが、先生の元には何か伝わって来ておられるのでしょうか?


とくに何も
桐野
Tm. さん、こんばんは。

いろいろご意見有難うございます。

建築史分野の方とは縁がございませんので、とくに何も来ておりません。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第30回
―「人斬り」新兵衛も眠る―

拙コラムが更新されました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回は田中新兵衛について書きました。
文久年間の「人斬り」として有名な人です。

新兵衛は身分が町人出身とか郷士とかいわれますが、正確には「私領士」(門閥家臣の家来)だと思います。
藩当局の布達が「島津織部家来」と書いているので間違いないでしょう。

新兵衛の足跡については、不明な点があります。
まず、文久2年(1862)の島津久光の率兵上京に同行したのかどうか。
同行したとすれば、島津織部に従ってのものでしょう。
一方、別に上京して森山新蔵の世話になったという説もあります。
しかし、『官武通紀』所収の「風説書」には、新兵衛を「去年関東へ之勅使大原卿へ付来候薩人之由」としており、新兵衛は前年に江戸下向した久光主従のなかにいた可能性もあります。

今回、私が注目したのは、薩摩藩が自害した新兵衛をどのように扱ったかという点です。新兵衛が関与したとされる朔平門外の姉小路公知暗殺事件により、薩摩藩は大きな政治的打撃を蒙りました。そこまで追い込まれた原因は新兵衛の自害にほかなりません。

にもかかわらず、薩摩藩は新兵衛を罪人扱いしておりません。
薩摩藩の公式菩提所である即宗院に葬っていることが何よりの証拠です。
あるいは、罪人として処遇すれば、暗殺が薩摩藩の密命によるものだと認めてしまうことになるので、そうできなかったのでしょうか。いろいろ憶測は出来そうです。

一方、時期を前後する寺田屋事件では、鎮撫方として闘死した道島五郎兵衛は即宗院に葬られましたが、有馬新七など上意討ちされた側は即宗院ではなく、伏見大黒寺にひそかに葬られています。
道島と有馬などとでは、明らかに薩摩藩の扱いが異なります。有馬らが即宗院に葬られなかったのは、藩命に従わなかったために「反逆」とされたからでしょう。

同じ京都で亡くなっても、即宗院に葬られるか否かで、その死に処遇の差が生じ、死の意味も異なったのです。その点が書きたいことでした。

次回は、新兵衛と対照的に即宗院に葬られなかった有馬新七とその父四郎兵衛正直のことを書きたいと思います。



【2007/10/27 18:36】 | さつま人国誌
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雨の中、久しぶりにW大学大学院のK保ゼミに参加。
後期になって3回目だが、私は今回が初めて。過去2回は仕事の都合で行けなかった。

戦国島津氏の基本史料である『上井覚兼日記』をテキストにしている。
相変わらず天正2年である。
これまで同様、川上久隅の藺牟田地頭を辞める辞めないの綱引きがつづき、一方で、島津忠長と平田宗張の贓物をめぐる訴訟沙汰も解決していない。

大名「公儀」としての島津義久の裁定に、みななかなか従おうとしない。家中の一揆構造がなお強固な印象だ。義久は生涯、家中の揉め事に悩まされたつづけたように思える。

私から少し質問したのが、「御老中」と「寄合中」の違いについて。
ほぼ同義ではないかとされていたが、やはり使い分けてある以上、意味が違うのではないかと思った。
他のメンバーやK保先生からも、事例をもう少し集めるべきだが、どうやら構成員が違う。老中に覚兼など奏者(御使衆)を加えたのが「寄合中」ではないかという意見あり。

この方面の先行研究である福島金治氏『戦国大名島津氏の領国形成』(吉川弘文館)にも「寄合中」についての分析はとくにないように思う。

もし「寄合中」が老中に奏者を加えた構成員なら、島津氏の意思決定過程における位置づけがそれなりに必要かもしれない。
とくに奏者の役割が問題になるだろう。奏者はたとえば、訴訟沙汰で当事者たちの意見を聴取して、それを老中に報告したり、あるいは老中の評定結果を大名の義久に報告し、その下知を仰いで、さらに老中に伝達したりする。

とくに義久と老中の間に介して、その意思疎通を円滑にする役割はありそうだ。あるいは、義久に直属していることで、大名当主による老中への規制・監視の役割も想定すべきなのか。
いろいろ検討することが多そうである。

あと興味深かったのが、「御小人弥三郎殿」という人物。
報告でも誰だかよくわからない。ほかに登場しないとのこと。
おそらく義久の小姓ではないか、義久が就寝中か何かの都合で、覚兼ら奏者が対面できなかったので、弥三郎が取り次いだということではないかと意見を述べてみた。
K保先生から、弥三郎が義久の意図を忖度するなど、ある程度力を持っていた可能性もあるとの指摘に、なるほどと思った。

それと、ちょっと疑問を呈するだけの勇気がなかったが、報告レジュメのなかで、「小人」の意味が日国から挙げられており、そのなかに「男色の相手の少年」というのがあった。じつはこれではないかと思っていたが、勇気がなくて、あえて指摘できなかった(爆)。

これが「源三郎殿」だったら、明らかに川上久朗だったのにと思ったのだが、「弥三郎殿」が誰だか、すぐ思い浮かばない。
武田信玄と春日源助の例を持ち出すまでもなく、義久の場合もそのようなことを想定してもおかしくないのではと思ったが……。

【2007/10/26 22:57】 | 戦国島津
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寄合中と談合
たべのむらじ
はじめてコメントさせていただきます。中世後期の南九州を多少研究しておるものです。
『上井覚兼日記』に頻出する「寄合中」について、老中+奏者とのご意見ですが、「寄合」と似た表現で「談合」も頻出します。この「談合」の参加者については、山口研一さんが論文(「戦国期島津氏の家臣団編成」『史報』8,1987年)の中で、地頭以上、老中・奏者・御一家までをも含むと規定されています。「寄合中」と「談合」参加者とは分けて考えておられるのでしょうか?もしよろしかったら御教示下さい。


「史報」
桐野
たべのむらじさん、こんにちは。

貴重なコメント有難うございます。
そうでしたね。「談合」もありました。
山口さんによれば、地頭以上・老中・奏者・御一家まで含むととのこと。相当広い範囲ですね。
『上井覚兼日記』の天正2年条あたりでは、「寄合中」はそこまで広い範囲だとは読み取れません。そんなに多人数が集まっているようには見えないのです。

「談合」の場合は、よほど重大な案件を協議する場なのでしょうか?

なお、ご紹介の山口論文、私も存在は知っておりましたが、「史報」なる雑誌の居所が諸データベースでもつかめずにおりました。
日本史学大学院合同発表大会実行委員会編纂の雑誌のことでしょうか?
ついでで申し訳ないのですが、所蔵先や入手方法などご存じなら、ご教示いただければ有難いです。

義久の男色
御座候
近衛前久が島津義久に対して「若衆」を斡旋している書状が『薩藩旧記雑録』に収録されています。

近世の薩摩では男色文化が盛んであったことは有名ですが、そのハシリはこの辺りにあるのでしょうか?(笑)

若衆
桐野
御座候さん、こんばんは。

旧記雑録にもそんな記事がありましたか。
おそらく天正4年の前久の来薩のときでしょうかね。


史報
たべのむらじ
>「談合」の場合は、よほど重大な案件を協議する場なのでしょうか?

豊後侵攻や豊臣政権への対応を協議したのは「談合」だったと記憶しております。

>日本史学大学院合同発表大会実行委員会編纂の雑誌のことでしょうか?

そうです。私は10年以上前に入手したのですが、国立国会図書館から取り寄せたと記憶しております。

御礼
桐野
たべのむらじさん、こんばんは。

ご教示の文献、国会図書館のデータベースから探せました。有難うございます。
通常のやり方とは少し違うやり方で行ったら、ヒットしました。

「談合」はやはり重大問題の協議の場合に招集されるみたいですね。豊後攻めでは「談合」と「鬮取り」を併用しての意思決定だったのではないかと思います。かなり試行錯誤というか、蛇行しながらの決断だったように思います。
こちらもご教示有難うございました。

だいぶ後の記事になりますが
御座候
天正18年、島津義久上洛時の出来事です。

有難うございます
桐野
御座候さん、こんばんは。

天正18年でしたか。
確認してみます。
ご教示有難うございました。

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原口清著作集2『王政復古への道』(岩田書院)が刊行された。

全巻予約は8掛という特典付きだったから有難い。
詳しくは岩田書院サイトへ。

この巻には孝明天皇の死因についての論考がある。もっとも、すでに既刊のものだが、再録されたものをもう一度じっくり読んでみたいと、前から楽しみにしていた。

とりあえず、目次の章を掲げておく。おそらくこれが収録された論文のタイトルだと思う。

禁門の変の一考察
孝明天皇と岩倉具視
孝明天皇の死因について
医学と歴史学
慶応三年前半期の政治情勢
明治太政官制成立の政治的背景
王政復古小考
王政復古と摂関体制小考
明治維新研究と私


このなかの論文は私もほとんどもっていた。
「孝明天皇の死因について」もむろん興味深い論文だが、「孝明天皇と岩倉具視」がその前提を考えるうえでなお面白い。原口氏が勤務先の大学紀要に執筆されたものだが、ものすごく長い論文だった記憶がある。

岩倉が孝明天皇に敬意を表していただけでなく(個人的動機としても暗殺はありえない)、孝明天皇の死去前後にいわゆる討幕派なるものは存在しないこと、当時の岩倉もまた討幕派ではなかったことを論証しており、孝明天皇=討幕の阻害物という既成観念がそもそもフィクションであり、成立しないことを明らかにしたものである。

岩倉の立場に関連して、最近の研究では、岩倉が近習小番だったことが明らかにされている。孝明天皇の最側近の一人なのである。詳しくはここです。
そうした天皇との濃密な関係や当時の主従観念からして、岩倉による暗殺など、まず考えにくい。
このように、別の視角からの研究によっても、孝明天皇の死に岩倉が関与するはずもなかったという見方が補強されつつある。

この著作集1もまだ読み切れていないので、じっくり読んでみたいが、なかなか時間がとれない。自分の関心のあるもの、自分の仕事との関連で読む必要に迫られているものを優先的に読んでいくしかないだろうな。

おそらく、リンク先のパルティア・ホースカラーさんのサイトで紹介されると思うから、そちらでまた勉強させていただこう。

【2007/10/25 23:55】 | 新刊
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こんばんは
パルティアホースカラー
私も今月はじめに「もうすぐ刊行」ということで本書を紹介しましたが、ついに刊行されましたね。私も収録論文の多くを読んだことがありますが、また改めて読んでみたくなりますね。ご指摘のとおり、原口氏の論文にはかなり長いものがあるので、なかなか大変ですが。

「孝明天皇と岩倉具視」などで主張されている、孝明天皇死去の時点で岩倉は討幕派ではなかったという見解は、ほかの研究者にも結構受け継ますよね。もちろん、ほかの収録論文も多くの幕末研究者に影響を与えているので、刊行されたことを喜びたいですね。

有難うございます
桐野
パルティア・ホースカラーさん、こんばんは。

わざわざコメントいただき有難うございます。
何か、呼び出したうえに下駄を預けてしまった感じですみません。

ご指摘のとおり、原口氏の研究は後進の研究者に影響を与えていますね。
原口氏自身は、服部之総・羽仁五郎・遠山茂樹・井上清の4氏の影響を受けたと書いておられました。どれも錚々たる方々ですな。

最近の歴史評論691号に、

友田昌宏「幕末政治史研究の現状と課題」

という論文が収録されていました。
幕末維新史とくに政治史の研究現状が手際よくまとめてあったように思います。
そのなかで、近年、実証が格段に精緻になった反面、その後の時代との関係に注意が払われていないと指摘しています。
また、共同研究と人物研究も重要ではないかという提起もありました。

私も共同研究の必要性を感じています。
とりわけ、基礎研究上の便宜として、新しい『明治維新人名辞典』の刊行に取りかかってもらいたいと思います。
前作から30年近く経っています。その後の研究の蓄積によって、幕府系や草莽系の人物がたくさん発掘されていますし、できれば、新選組隊士なども含めて、より網羅的な人名辞典を作ってもらいたいものです。


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先週の土曜日(20日)、表題の法要に出席。

榎本武揚の墓所は文京区本駒込の吉祥寺にある。
おそらく界隈で一番大きな寺院墓所ではないだろうか。

武蔵野大学の連続講座で、子孫の榎本隆充氏と懇意にさせていただき、声をかけてもらった。
私の講座「てらこや」の受講生が受付をされていて、びっくり。
ほかにも、M川さん、S井さん、I股さん、幕末研究会の小美濃さんなど、知り合いのお顔もちらほら。

控え室で、重富島津家の島津晴久氏にお会いする。討幕派は私たちだけじゃないかと苦笑。
控え室の床の間に、榎本の揮毫の掛け軸が飾ってあった。
何と、オランダ語の書である。
横文字の掛け軸というのは、初めて見た。
待ち時間に参列者を退屈させないようにと、榎本さんはサービス精神が旺盛である。

土方歳三の子孫や佐藤彦五郎の子孫など、新選組関係者も多い。
また北海道からも、はるばるバスで支援者の方が駆けつけていて驚く。
箱館・江差・鷲ノ木などであろうか。

法要は大きな本堂で盛大に執り行われる。
200人以上参列したのではないか。

焼香をさせていただき、別用のため辞去。

法要の前に、境内の有名人の墓を見て回った。

榎本武揚夫妻の墓のほか、振袖大火で有名な八百屋お七と吉三の比翼塚がある。比翼とは、男女の深い契りのこと。二人は来世で結ばれたということか。

二宮尊徳、幕末の老中として有名な板倉勝静、天保の妖怪の鳥居燿蔵、蘭方医の林洞海などの墓があった。
安場保和

驚いたのは、安場保和の墓があったこと(上記写真)。安場については、以前紹介した。ここです。横井小楠門下で四天王といわれた人物です。

【2007/10/25 09:02】 | イベント
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一昨日深夜からネットが繋がらなくなりました。
先ほどようやく復旧しました。

コメントで不義理しております。
なるべく早く対応します。

【2007/10/22 02:56】 | 雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第29回
―西郷隆盛と月照の密会―

連載が更新になりました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回から3回にわたって、京都五山のひとつ、東福寺の塔頭・即宗院にまつわる話を書く予定です。

今回は即宗院の紹介と、西郷が揮毫した「東征戦亡の碑」ができるまでを書きました。
即宗院をはじめて訪れたとき、驚いたのはこの巨大な石碑群でした。
供養碑が5基、西郷の揮毫碑が1基、計6基が居並ぶ姿は壮観です。
戊辰戦争の薩軍戦死者すべての名前が刻まれています。
戊辰戦争の戦死者をもっとも畏敬し、明治政府の官吏の腐敗堕落を嘆いたのは西郷その人でした。戦死者名をすべて刻んだことには、西郷の意向が影響しているかもしれません。

次回は、「人斬り」新兵衛こと、田中新兵衛について書く予定です。

【2007/10/20 19:01】 | さつま人国誌
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まいたけ
 いよいよ即宗院のはじまりですね!

 即宗院は、11月が特別公開でしたから、タイミングがいいですね。特別公開を意識したのでしょうか?(笑)

 東福寺は紅葉も名所で、その一番奥まったところにある即宗院の紅葉も、きっとステキでしょうね。
 
 即宗院にまつわる連載、あと二回も楽しみにしています!

 リクエスト
 中井桜洲も取り上げてくださ~い。
 
 



中井桜洲は
桐野
まいたけさん、こんばんは。

即宗院は3回の予定です。
田中新兵衛と有村新七の父上を書かないといけません。
そうなると……。

中井については、脱藩や後藤象二郎との関係に興味があるんですけどね。別立てで考えます。




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本日、霞会館に出かける。

重富島津家の当主晴久氏からのお誘い。
私の郷里の先輩で、私に会いたいという方を紹介して下さる。
南日本新聞の連載で薩州島津家のことを書いたのを目に止めていただいたらしい。

霞会館は改装されて、雰囲気が変わっていた。
フロントの位置なども変わっており、少し戸惑う。

薩州家や島津本家の話などで、時間の経つのも忘れるくらい話し込む。
薩州島津家について、郷里の方からいろいろな話を教えてもらう。
史料と伝承のはざまにある逸話で、果たしてどこまで確かめられるか。
垂水島津家の家譜があるらしいとも聞く。ぜひ見たいものだ。

興味深かったのは、薩州島津家の6代義虎の叔父とされる島津忠兼の墓(出水市龍光寺墓地)が「イボの神様」として信仰されている件。
『出水の歴史と物語』によれば、忠兼は義虎にだまし討ちされて非業の最期を遂げたことになっている。
しかし、薩州家の系図には義虎の叔父(6代実久の弟)に該当者がいない。それはともあれ、非業の死を遂げたとされるようなことはあったのかもしれない。

そして、興味深いのはそれが「イボの神様」に転化している現象。そこからひとつの連想が働いた。

太守義久の家督を家久と争った垂水島津家の忠仍の子で、新城島津家の久章は島津本家の系図を持ち出して出奔し高野山にこもるが、家久側に発見されて、谷山(現・鹿児島市下福元町)の清泉寺に幽閉され、乱心を理由に殺害された。これにより、義久系統の男子は途絶えた。

この久章の墓が江戸時代以降、疱瘡の神様として祀られているのである。
島津忠兼といい、島津久章といい、非業の死を遂げたことと、その後、病気を治す神様に転化している共通点は単なる偶然ではないのではないか。

そのような話を、民俗学に造詣の深い晴久氏にしたら、盛んに頷かれて同意された。

たとえば、菅原道真・崇徳上皇・早良親王などのような、一種の祟り神信仰というか、御霊信仰に近いのではないだろうか。


それはともあれ、さすがに霞会館だと思ったのは、いろいろな有名人の子孫がおられることだ。
とくに晴久氏にお二人をご紹介していただき、感激した。

一人は松平春嶽のご子孫。
現在、福井市郷土歴史博物館の名誉館長をされている。春嶽と養嗣子茂昭の往復書簡を収めた『松平春嶽未公刊書簡集』について、少しお話しできた。

もう一人は、『兼見卿記』で有名な吉田兼見のご子孫。
何というか、いま『兼見卿記』の未公刊分の日記の輪読会をやっているだけに感無量だった。今度、拙著を送る約束をさせてもらう。

というわけで、意外な出会いがあった一日だった。

【2007/10/17 21:28】 | 雑記
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「垂水島津家家譜」
ばんない
…の原本でしょうか?
先日『垂水市史料集』のコピーを取り寄せたときには垂水島津家の家譜原本の所在は不詳となっていました。なので、『垂水市史料集』所収の「垂水島津家家譜」は写本から起こした物とのこと。
もし原本が出てきたとしたら、その流出ルートも含めて興味深いのですが…。

「イボ取りの神様」といえば、島津歳久にも類似の伝説が伝わっているようですね。なぜか安産の神様だとか(汗)

垂水島津家家譜
桐野
ばんないさん、こんばんは。

このところドタバタでレスが遅れてすみません。

~家譜ですが、私が聞いたのはそれとは別で、まだ活字化されていないのではないかと思います。所蔵先もはっきりしているのかどうか……。鹿児島のある研究者はご存じかもしれませんが。

金吾どんは安産の神様ですか。思わず笑ってしまいました。
さて、どういう連想でそうなるのでしょうね?



ばんない
こんばんは。追記ありがとうございます。

『垂水市史料集』所収の物とは違う家譜ですか。ということはまだ知られていない情報が載っている可能性もあるということですね。興味深いです。でも所蔵先もはっきりしていないとは…活字化するにしても先は遠そうですね…。

島津歳久安産の神様伝説は『宮之城町史』p.132に載っています。同じ話を他の郷土誌でも見たことがあります。


宮之城町史
桐野
ばんないさん、こんにちは。

レス遅れがちですみません。

「宮之城町史」は未見です。紹介有難うございました。

宮之城町は合併したんでしたっけね?



ばんない
こんばんは。

宮之城町は合併したと記憶していますが『宮之城町史』タイトルは合併してません(苦笑)確か合併直前に作られたものだとか聞いたことがあります。
小さな町の町史ですが、内容はかなり意欲的に作られていて、「宮之城島津家系図」の翻刻全文所収など、見所が多かった記憶があります。
ただ、国立国会図書館でも所蔵がなくて、私も鹿児島の図書館から取り寄せて読んだので、かなりの稀覯本かも知れません…。

お仕事お忙しいようで、余りコメントも無理なさらないで下さいませ。

取り寄せ!
桐野
ばんばいさん、こんばんは。

「宮之城町史」、念のため国会図書館データベースで検索しましたが、たしかにないですね。自治体史はふつう同館に献本する決まりになっているのではないかと思いますが……。

今度、帰鹿した折りにでも、県立図書館で探してみます。

ちょっと気になったのは、鹿児島の図書館から取り寄せられたとのこと。それって、図書館同士でのやりとりということでしょうか? 


ばんない
こんばんは。チャットモードになってきましたね(苦笑)

>ちょっと気になったのは、鹿児島の図書館から取り寄せられ
>たとのこと。それって、図書館同士でのやりとりということ
>でしょうか?
その通りでございます。
以前住んでいたところの図書館はなかなか力のある図書館?だったようで、無料で取り寄せしてもらってました。但し貸し出し不可でしたが。 今住んでいるところの図書館は権力無いのか、送料を実費で徴収されます。納得いかない…。


サービス進んでますね
桐野
ばんないさん、こんばんは。

チャットもまた楽しですね(笑)。

そうですか。最近はそんなサービスもありますか。
時間や手間がかかりますけど、利用者にとっては有難いですね。
私は以前、某国立大学が所蔵している史料の複写を申請したら、大学とか研究機関の図書館からなら何の問題もないのに、そうした所属のない一市民にはまったく便宜を図ってくれないですね。
公共施設なので、一応、居住先の自治体にある図書館からでも申請できるというエクスキューズをされたのですが、最寄りの区立図書館に問い合わせたら、ダメだといわれました。東京だと区立中央図書館クラスでないとダメなようで。

個人的には、所属のある研究者とそうでない一般人との差別を何とかしてくれないかなと思うことがたびたびです。



差別は憲法違反です(爆)
ばんない
…図書館の方でも、身元をはっきり把握している人にしか貸したくない本もあるんでしょうけど。たまにものすごく書き込み(しかもボールペン!)されて私物化されている本とかも見ますしねぇ…。それはまだましな方で、ページがごっそり抜けている本とかも見たことがあります。そこを読みたかったのに(涙)

ある本の取り寄せが不可能で、某研究所図書館にあることが判明したのですが、地元の図書館で申請して紹介状をもらってくれば見せてくれるとのこと。
…ここまで調べたんですが、その研究所の場所がすごく僻地で。…鹿児島に飛行機で飛ぶよりは遙かにましとは言え、どうも足が(^^;)

金子拓氏の報告について
市野澤 永
こんばんわ。


書き込みが続いて、お忙しい中で申し訳ございません。

川戸貴史氏の掲示板でも、ご紹介なされている

中世史研究会12月例会(名古屋)
日時 2010年12月17日(金)
時間 18:30~21:00(開場18:00)
会場 国鉄会館7階「桜・梅」(JR名古屋駅太閤通口から南に徒歩4分)
報告 金子拓氏
題目 「『兼見卿記』天正十年正本・別本をめぐって―吉田兼見の記憶と日記執筆作―」

行かれますか?
題目と報告者が目に留まり、桐野さんの守備範囲であり、
金子拓氏とご交友がおありなので、
事前に簡単な内容をお聞きしているのではとお尋ねした次第です。

既に終了していますが、
竹田市立歴史資料館様で企画展「『中川氏御年譜』とその時代」
が10月30日~11月14日まで行なわれていました。

1540年~19世紀後半までの岡藩内の災害・社会状況など
の出来事を事細かに記録している岡藩研究には欠かせない「中川氏御年譜」を中心に、
企画展では岡藩の祖・中川清秀に中国地方に1・2ヶ国与えることを約束する
織田信長からの朱印状や、豊臣秀吉が1594年(文禄3年)中川清秀の次男・秀成に、
三木城より豊後国岡への転封を命じた朱印状など約50点が展示されているそうです。
図録は1冊1,000円、送料290円。現金書留のみ。

◇竹田市立歴史資料館◇
住所 竹田市大字竹田1980番地
電話 0974-63-1923
開館 9:00~16:30
休館 月曜日(月曜日が祝日にあたる時は翌日休館)

【交通手段】
<電車>
JR:豊肥本線 豊後竹田 から 徒歩15分

桐野さんがご関心のある展示物は
・中川清秀肖像模本
・織田信長朱印状
・豊臣秀吉朱印状
といったところでしょうか。

それでは失礼します。



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江戸城

江戸城天守台跡から本丸御殿方向を見る。手前の芝生周辺が大奥跡

小学館「てらこや」特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」第1回
詳しい案内はここにあります。

先週の9日に今次のテーマで開講。このところ、他の話題が多くて触れずじまいだった。
パート1は定員一杯で教室が窮屈だったが、今次は少し減って受講生のみなさんもゆったりして受講できるのではないか。

パート1では、薩摩藩側から見た視点だったが、今回は幕府側からだったり、歴史的な背景を追ったりしてみたいと思っている。
第1回は表題のタイトルの講義。

篤姫の生活空間だった大奥とはどんなところだったのか、大奥というスペースの空間構成、江戸城本丸御殿の3つの区画のなかで、他の表向や中奥との関係などをまず見ていく。

大奥もさらに3つの区画―御殿向(将軍御台所の居所)・広敷向(大奥事務所)・長局向(女性たちの居所)―に分かれている。とくに男性の諸役人も詰めていることを理解してもらう。

また将軍御台所を頂点する大奥女性たちの身分構成、お目見え以上と以下の階層別構成などを見ていく。とくに将軍の側室(御部屋様)になれるのが、御中臈と呼ばれる侍女たちであることを確認する。

次に、江戸城本丸御殿の表向という男性世界もかいま見る。
主に参考にさせてもらったのは次の論文。

松尾美恵子「大名の殿席と家格」(『徳川林政史研究所研究紀要』通号昭和55年度、1981年)

将軍の儀礼の場である白書院・黒書院を中心に、諸大名の控えの間である「殿席」というキーワードによって、幕藩体制の視覚的な縮図ともいえる空間構成を理解してもらう。
大名の殿席が家格の高い順から、

大廊下・溜間・大広間・帝鑑間・柳間・雁間・菊間

という7種からなっており、その特徴や家格との対応関係を見ていった。家格・官位・役職・石高・城地などの違いによって、殿席が異なること、また必ずしも殿席は固定的ではなく、大名のキャリアによって変更される場合があることを確認する。
島津家がその典型例で、従来、外様国持の殿席だった大広間から、御三家と同じ大廊下に移ったのが重豪のとき。その一女茂姫が将軍家斉の御台所となり、将軍家と親戚になったことが殿席移動の理由であることを確認した。

殿席配置の特徴のひとつして、溜間・帝鑑間・雁間・菊間という家門・譜代大名の殿席が白書院・黒書院を囲むように配置され、外様大名の殿席である大広間や柳間より将軍居所との位置関係が相対的に近いことを確認した。

もっとも、松尾氏も留保しているように、たとえば、帝鑑間と雁間に詰める譜代大名の条件・家格の違いがいまひとつ曖昧で、よくわからなかった。

江戸城本丸の平面図(カラーコピーも含めて2点)を見ながら解説したので、ある程度理解してもらえたのではないかと思う。

次回は何にするかまだ決めていない。
幕末史の重要事件で、篤姫や大奥に関わるものを時系列に沿って見ていったほうがいいと思っている。
となると、次は将軍継嗣問題あたりか。

そうそう、次回日程は少し変則的で3週空いて、30日(火)です。お間違えのないように>受講生のみなさん。

【2007/10/15 20:19】 | てらこや
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最近、ちょっとはまっているのが、時代劇専門チャンネルで再放映している表題のドラマ

直木三十五『南国太平記』を、市川森一が脚色したもの。
幕末薩摩藩のお由羅騒動を中心に描いた作品である。NHKが1979~80年にかけて放映した。もう30年近く前の作品である。

主人公は仙波小太郎(勝野洋)だが、やはり、変幻自在の活躍をする益満休之助(西田敏行)が異彩を放つ。

主なキャストは、島津斉彬が津川雅彦、お由羅の方が南田洋子、調所笑左衛門が中村伸郎である。とくに中村伸郎の薩摩弁が味があってよい。熟練で権謀の家老役に打ってつけである。

見ていて気づいたのは、必ずしも単純な善悪二元論に立っていないことである。
一方で、斉彬の家臣使い捨てや幕閣の阿部正弘と結んだ謀略もちゃんと描いているし、他方で、調所の財政改革の苦労ぶりも描く。また呪詛調伏の兵道家、牧仲太郎(柳生博)の兵道家としての意地も共感的に描かれている。

可憐なる紅一点は、やはり小太郎の妹役で出ている故・夏目雅子である。調所と結んだ大阪の蔵元、薩摩屋に潜入する間諜役。その儚げで愁いに満ちたまさざしが印象的である。

この頃の時代劇は雰囲気があり、チャラチャラしていなくて重厚で、役者がいかにも役者然としていて、安心して見ていられる。

と褒めるだけ褒めながら何だが、このドラマの原作には、以前から抱いていた素朴で根本的な疑問がある。益満休之助のことだ。

たとえば、昨日の放映分は、島津斉彬がまだ世子の頃で、お由羅騒動前夜の時期である。斉彬の長男寛之助が夭折した直後だから、嘉永元年(1848)前後である。

ところが、斉昭の密偵として活躍している益満休之助は天保12年(1841)生まれである。どう考えても年代が合わないのだ。
直木三十五がこの作品を書いた時点で、益満の生没年を知らなかったわけでもあるまい。それでも、あえて年代を無視して重要な役どころにしたのはなぜなのだろうか。これが以前から解けない疑問である。

【2007/10/14 12:01】 | 雑記
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南国太平記
調所
私も南国太平記は世間で言うほどご先祖のこと悪く書いてないと思います。伝わり方は悪家老でしたが。祖父広良が鹿児島から笑左以降の墓を、まだ鹿児島にも家があったのに東京の九品仏に持ってきたのが昭和六年七月でした。南国太平記のヒットが前年なのが何かを物語っていそうではありますが。

時期が一致?
桐野
調所さん、こんばんは。

南国太平記はベストセラーになったらしいことは知っていますが、何せ戦前のことなので、感覚的によくわかりません。
でも、調所さんの家で、墓を移した時期と重なっているのは単なる偶然ではないのかもしれませんね。

いやはや、すごい話です。

ドラマでも、ご先祖は悪人というよりも、陰影のある、静かな使命感に燃えた人物に造形されていて、知的なインテリ役が似合った中村伸郎がいい味を出していますけどねえ。


秘剣
9/22に鹿児島福昌寺の笑左墓前にて、演武を奉納してまいりました。調所家につたわり、縁あっていま手元に置かせていただいている波平にての抜刀です。
その縁がなければ、薬丸流の復興はなかったといっても過言ではありません。長いそして深い縁に感謝しています。
来年の大河、平幹二郎の笑左が、ちゃんとバランスをとった描写になるように願っているところです。


調所
秘剣さん、有難うございました。福昌寺の墓は平成十三年に九品仏浄真寺から分骨改葬したものなんです。今後とも宜しくお願い致します。

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何と、本欄でも度々紹介している山口のマツノ書店(リンク欄参照)が、今年の菊池寛賞を受賞したという知らせが届いた。詳しくはここ

受賞理由は、

「地方の一個人古書店でありながら、明治維新史に関する貴重な文献の復刻出版などすでに二百点以上を刊行、社会的文化的貢献をおこなっている」

とのこと。
同店の地道な復刻出版活動が認められて、まことにおめでたい。

取り急ぎ、心よりお祝い申し上げます。

【2007/10/13 15:47】 | 雑記
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まいたけ

うわ! 松村さんすご~い!!

わたしも、お祝い申上げます。

授賞式
桐野
まいたけさん、こんにちは。

松村さんにお祝いの電話をしたところ、知らせをうけたのは一昨日で、四国に旅行中だったとか。
まだ戸惑っておられる感じでしたね。
授賞式は12月上旬だそうです。


かじやちょう
かじやちょうです

おめでとうございます。
マツノ書店さんの地道な活動を受賞理由にできる菊地寛賞って
すばらしいですね。感動しました。
賞に対する見方が変わりそうです。

読売新聞
橋場
本日の読売新聞「編集手帳」が全文マツノ書店の賞賛でした。
メディア業界に身を置く人にとってはたしかに尊敬に値する事業ですが、菊池寛賞受賞で初めて「編集手帳」氏はマツノ書店の事を知ったのではないかという疑念がなきにしもあらず(笑)。

編集手帳
桐野
橋場殿下、こんばんは。

編集手帳、さっそくサイトから読みました。
すごい褒めようですね(笑)。
ただ、25.000円とか15.000円とかいう定価を何のてらいもなく書いてあります。
一般読者の相場感覚とは違いますので、かえって引かれるかもしれませんね(笑)。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第28回
―鎧を着けて「志気凛々」―

今月の第4日曜日に挙行される妙円寺参りに関連することを書きました。
大久保利通が若い頃、妙円寺参りをしたことを日記に書いています。当時の様子がある程度わかる貴重な記録だといえましょう。

とくに、大久保が妙円寺に礼拝したとき、島津義弘の霊を感得したという一節などは興味深いですね。こういう神秘的なことを感じていたのかと、のちの冷徹な合理主義者とのしての大久保を知る者としてはやや意外の感に打たれます。

じつをいうと、この嘉永元年(1848)の日記は『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書)には収録されていません。利通の三男利武氏によって大正10年(1921)に発見されて、『大久保利通文書』に収録され、さらに『鹿児島県史料 大久保利通史料(一)』に再録されたものです。

ちなみに、近々マツノ書店から復刻される『大久保利通日記』には収録されたとのこと。

【2007/10/13 12:56】 | さつま人国誌
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妙円寺参り
調所
南日本新聞拝読致しました!一昨年、私も参加致しましたが、妙円寺参りの歌の歌詞を知らない子供も多く、カセットテープ音ばかりが耳に入り、少し失望しました。

妙円寺参りの歌
桐野
調所さん、こんにちは。
妙円寺参りの歌、私は辛うじて1番を知っている程度です(苦笑)。十数年前、関ヶ原踏破をしたとき、伊集院の子どもたちが歩きながら歌ってましたね。さすが地元だと思いました。


妙円寺参り
かじやちょう
かじやちょうです。

調所さんは一昨年参加されたのですね。
私は今年行ってきます。
桐野さんは1番を歌えるということですが、私は1番すら
歌えません(汗)。
でも楽しみにしています。

今年参加ですか
桐野
かじやちょうさん、こんにちは。

今年参加とは、よくお休みがとれましたね。
歌が覚えられたらいいですね(笑)。
もっとも、鹿児島から歩かないと歌う機会はないかもしれませんね。
かじやちょうさんは地元ですから、小さい頃の参加経験はありますか?



かじやちょう
1泊2日の強行軍で帰りますので、鹿児島から歩く時間はなく、見物するだけになりそうです(笑)。
鹿児島生まれですが、今まで一度も妙円寺参りを見たことがないので楽しみにしています。



リンク報告
カミタク(リンク先は「妙円寺訪問記」)
【リンク報告】
こんにちは。カミタク
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

私が運営しております、鹿児島県内外の観光スポットと温泉を紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「妙円寺訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAX.HTM
ならびに「徳重神社訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAY.HTM
から貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。




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昨日、都内某所にて、某雑誌の取材を受ける。

表題に関連した雑誌企画についての取材。
事前に作品論か、それとも薩摩から見た幕末・近代史か、ちょっととした手違いでよく絞りきれないまま取材に応じる。

やはり筆名とのからみで、桐野利秋のことを詳しく聞かれた。
中村から桐野への改姓事情、西南戦争開戦における桐野の立場はどうだったかなどを話す。
ちなみに、小生の桐野は本名で、下が筆名です。

ほかに司馬作品との出会いや、「翔ぶが如く」を読んだときの感想などを聞かれた。
歴史に興味をもちはじめたきっかけが、中学生のとき、明治維新100年記念のイベントだったこと。また今の仕事をするきっかけになったのも、大河「翔ぶが如く」と関わっていたことなどを話す。

考えてみれば、小生の自己形成において、司馬作品に随所でお世話になったことに改めて気づく。

ついでにいえば、誕生日が大久保利通の命日と同じである。やはり何かと縁があるようである。

【2007/10/12 15:44】 | 幕末維新
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鹿児島へ行ってきました!
ぶるぼん
桐野先生、遅くなりましたが『風林火山』の項にトラックバック貼らせていただきました。よろしくお願いします。
10月9~11日の3日間、鹿児島市内と指宿へ取材に行ってきました。天気に恵まれず桜島が見えたのは最終日だけでした。観光案内所でもらった市内マップを頼りに幕末維新の偉人たちの関連史跡を片っ端から撮ってきました。やはり市電とレンタサイクルが便利ですね。
指宿は篤姫観光ボランティアの案内コースです。観光協会の方は先生の「さつま人国誌」もしっかりスクラップしていました。
ところで先生は鹿児島出身ですが、やはり桐野利秋公の血筋なのでしょうか?

羨ましいですね
桐野
ぶるぼんさん、こんにちは。

いい季節に行かれましたね。

鹿児島市内観光はレンタサイクルもありますか。知りませんでした。どこで貸しているんでしょうか? 料金とかは?

指宿はさぞや観光客が多いことでしょう。今和泉家の墓や海岸近くの仮屋跡なども行かれたのでしょうね。今和泉小学校内のゆかりの樹木(樹名失念)や手水鉢なども見学されたのでしょうか。

私は、桐野利秋とは親戚ではありません。親戚だったらよかったですけどね(笑)。

行ってビックリ!
ぶるぼん
 先生、コメントありがとうございます。最初は鹿児島市内の東横インで宿泊しようと考えていたのでが、駅前にあった看板を見てビックリ!
 鹿児島中央西口から徒歩1分のところに、ドミトリータイプの安宿があったのです。まさに新今宮(あいりん地区)並みの安さで、一泊1500円~(個室2500円)、一ヵ月3万円で東京の家賃より安いです(笑)。レンタサイクルはそこで1日500円で貸し出していました。重い荷物を背負っての行動では機動力を発揮できますね。
 この宿元々は沖縄で一泊1000円~で初めたものですが、ついに鹿児島へも進出したようです。衛生面はよいとはいえず、線路沿いなので快適な環境とはいい難いのですが、結構長期滞在している方も多いようで、外国人バックパッカーも多数みられました。
 谷山駅前にも一泊2500円という看板がありましたし、こういう宿が流行っているのでしょうか。
 あと市電の一日乗車券600円は、市内バスや観光地を周回するシティビューにも乗れて、城山や磯庭園に行くのに大変便利でした。
 あと、指宿で観光ボランティアを予約したのは、やはり学校敷地内にある関連史跡を見学したかったからです。事務員に断れば見学できるとは聞きましたが、やはり見ず知らずのおっさんがいきなり訪問するのは抵抗ありましたしね。伊東祐亨生誕地もそれで諦めました。他の生誕地は敷地内にあってもていねいに外に碑が立っていて撮影できるようになっていましたが。もっと驚いたのは谷山の伝・豊臣秀頼の墓。個人宅の敷地内にありました。ここはさすがに屋敷の方に断って撮影しましたが。


旅慣れてますね
桐野
ぶるぼんさん、こんにちは。

鹿児島中央駅西口といえば、裏手のほうですね。そちらには安宿がたくさんあるようですね。レンタサイクルも安くていいです。市内観光はそれで十分できそうですね。

伝・豊臣秀頼の墓も行かれましたか。すごい。私は未見です。
鎌倉時代の宝篋印塔だったか五輪塔のようですが(笑)。


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敬天愛人

鹿児島の西郷南洲顕彰会が発行する表題の最新号が送られてきた。
会員向けに年1回の発行である。発行元はここ

まだ拾い読みした程度だが、横井小楠研究家で知られる徳永洋氏が

西郷隆盛と横井小楠

と題した一文を寄稿されている。

両者の交流はほとんど知られていないが、横井家に西郷の揮毫を飾った写真が掲載されているのは驚きだった。
小楠は新政府に出仕するとき、自宅の庭で西郷や坂本龍馬からの手紙をすべて焼いたとか。もったいないと思うのは私だけではないだろう。

勝海舟は、西郷と小楠は会っていないだろうと証言しているが、徳永氏によると、安政4年(1857)に熊本で会っているという。
その前後、西郷は長岡監物と交流があったから、そのからみだろう。
西郷が大久保に語った「共和政治」云々は、勝から授かっただけでなく、小楠からも得たものらしい。


【2007/10/12 00:52】 | 新刊
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本日から上野の東京国立博物館で「大徳川展」が始まった。
300点以上の展示物は豪華そのものである。展示品の一覧はここに。

家康や家光や吉宗や慶喜などはもちろん、天璋院篤姫や和宮ゆかりのものも展示されている。

日光東照宮が所蔵する家康の征夷大将軍宣旨やその他の位記・宣旨など官位文書も展示されるとか。これって、家光がすべて作りなおさせたものではないだろうか(豊臣姓を忌避するため)。そのあたりも確かめてみたい。

三大肩衝のうちの二つ、「新田」と「初花」も展示されるとか。
信長や秀吉の愛蔵から今日まで残った名物の本物が見られる。非常に楽しみである。

宮廷のみやび

それも注目だが、本日の夕刊に来年1月からの展示「宮廷のみやび―近衛家1000年の名宝―」の案内が掲載されていた(上記写真参照)。
スケジュール程度の簡単な案内はここにもある。

陽明文庫創立70周年記念特別展である。
近衛家のどんなお宝が展示されるのか今から楽しみである。
藤原道長の自筆日記も展示されるとか。自筆日記といえば、『御堂関白記』だろう。
そういえば、京都国立博物館でも道長展があったな。

個人的には、近衛前久や同信尹関係の史料や、陽明文庫『信長公記』などの展示もあったらうれしい。

【2007/10/10 22:24】 | 雑記
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ばんない
「徳川展」は来年の大河とのタイアップ企画なんでしょうかヾ(^^;)というくらい和宮関連の物が出ているので驚きました。やはり10年近く前に大河「徳川慶喜」タイアップの展覧会があったので見にいったことがあるのですが、和宮関連の道具は散逸していて残ってないと言う話でしたので。

「近衛」展は主催者の一つ/NHKプロモーションの中に、もうちょっとだけ詳しい案内がありました。http://www.nhk-p.co.jp/tenran/konoe/index.html
東京のみの開催なんですかね。地元での開催がないとしたら残念です。

「道長展」は見に行きましたけど…平安時代の政治史とか仏教美術に興味のある人じゃないとつらかったんじゃないか、という内容でしたね(汗)「御堂関白記」とか「中右記」も出てました。



大徳川展
ぼっけ
行きました。素晴らしい資料ばかりで第一展示室から出た段階で、くたくたでした。
これから図録にて再勉強です。
最近、徳川慶喜が撮影した写真集「将軍が撮った明治」を購入したのですが、慶喜の幅広い才能に驚かされました。
大徳川展に関する桐野様の感想がアップされることを楽しみにしています。

ご紹介有難うございます
桐野
ばんないさん、こんばんは。

和宮関係の展示がたしかに多いですね。来年の大河を意識するなら、むしろ天璋院の遺品がたくさんあっても良さそうですが、少なかったですね(1点だけ?)。
和宮の遺品が多いのは、輿入れのとき、たくさんの調度品を持ち込んだのと、幕府や諸大名から膨大な数の祝儀が贈られたからだと思います。

近衛家の展示について、NHKのサイトの紹介有難うございました。
こちらは、芸術作品寄りで、文書などは少なさそうですね。

図録
桐野
ぼっけさん、こんばんは。

もう行かれたのですか。すごいですね。
きっと黒山の見学者だったのではないでしょうか?

図録は分厚い充実したものでしょうか?

私も近いうちに行きたいと思っております。


ぼっけもん新聞
意外と人は、少なかったですよ。
恐らく、週末は入場制限になるだろうと予想しますが・・・

図録は分厚い物です。
国立博物館の図録は、他の博物館に比べて厚い傾向がありますね。
今回は、三千円でした。
入場料を含めると四千五百円。
毎回、重要文化財、国宝だらけの展示内容ですから安いと思います。

見落としがあるかもしれませんが、天璋院物は衣類が一点のみでした。
これに関しては、来年黎明館などで企画展行うのでは、と予想しますので調べて行こうと思います。




やはり平日が
桐野
ぼっけもんさん、こんにちは。

平日に行ったほうがいいみたいですね。
こういうときだけは、自営業でよかったと思います(笑)。

図録3000円ですか。さすがによい値段ですね。





ぼっけもん新聞
ちなみに、まだ自営業ではないですよ。
土日以外ならば、週一で適当に休めるんですよ。
平日休みだと混雑を知らなくてすみます。


いえ、そのう
桐野
私が自営業という意味でした。
わかりにくくて、すみません。

お礼
大徳川展関係者です
このたびはご紹介くださりありがとうございました。おかげさまで連日満員の盛況となってまいりました。また来年の大河狙いではという書き込みもございましたが、残念ながら主催はテレビ朝日ですし、この企画は4年越しのものですので、大河とは全くリンクしておりませんことをお伝え申し上げます。
ご来場お待ち申し上げております。

今日行きました(^^)
町田明広
桐野さん、こんばんは!
ようやく本日伺いました。9:30開門と同時に入場したのですが、もう、メチャ混みでした(^_^;)
しかし、その質量は圧巻でした。午後所用があり、途中焦りましたが、2時間半では不十分な時間でした。
とりわけ、孝明天皇関連には鳥肌が立つ思いでした。中でも、文久4年1月21日家茂宛宸簡のオリジナルは、
論文でもお世話になっているもので、感無量な思いで暫し佇みました。
展示品の入れ替えもあって、もう1度伺うか、思案中です。

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久しぶりに大河ドラマについて。

昨7日は、第40回「三国同盟」というタイトルだったが、個人的には、ガックン景虎の上洛のほうに興味があった。

景虎が上洛したのは、第1次川中島合戦があった天文22年(1553)秋で、景虎24歳のときである。

ドラマで景虎が後奈良天皇に拝謁した場面。景虎が清涼殿らしき場所に昇殿して、御簾の向こうの天皇と対座していた。
しかし、この設定には違和感があった。

景虎は従五位下・弾正少弼。せいぜい諸大夫程度の官位であり、昇殿できる堂上公家ではない。だから、この設定はおかしい。

のちに信長がはじめて参内したとき、弾正忠の僭称で無位無官だった。正親町天皇が小御所の庭で信長を謁見し、天盃を授けている。もっとも、天盃がなかなか出てこなかったので、しびれを切らした信長が辞去してしまうという一幕もあった。
このように、天皇が堂上ではない地下人(じげにん)と対面するときには昇殿という方法をとらない。景虎も同様だろう。

なお、このとき天皇は天盃のほか、御剣も与えた。それは「無銘豊後瓜実御剣」で、現在も上杉家に伝来している。

もうひとつ、勅使とおぼしき広橋大納言(字幕をよく見ていなかったが、兼秀だったか)が景虎に、いわゆる治罰綸旨を与えていた。
この場面も微妙である。この綸旨は上洛したときに与えられたものではない可能性がある。
綸旨の原本は残っておらず、『上杉家御年譜』一にその写しがある。それによれば、日付は4月12日。景虎が上洛する半年も前である。この日付が正しければ、あの場面はおかしい。

この日付どおりだとすれば、第1次川中島合戦の前にあたるわけで、景虎の信州侵攻は村上義清の救援というだけでなく、治罰綸旨に基づく征伐という名分もあったのかもしれない。
ちなみに、綸旨には「任国並隣国の敵心を挟む輩を治罰さるる所也」と書かれている。「任国」って越後のことなんだろうか?

余談ながら、景虎の上洛の下準備をしたのは、家臣の神余親綱である。もっとも、将軍義輝は三好長慶のために近江に退転していたから、対面を設定できず、次善の策として後奈良天皇との対面になった。
親綱が頼りにしたのは、大覚寺門跡義俊である。義俊は関白近衛稙家の弟。のちに稙家の嫡男前嗣(のち前久)が現任の関白のまま越後に下向するのは、このときの近衛家との縁もひとつの要因だろう。


【2007/10/08 17:55】 | 風林火山
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毛利家文書
Tm.
関係のない記事でのコメントすいません。

以前より気になっていた小早川隆景の書状ですが、毛利家文書之三に収録されている838号です。
古文書の読みに知識乏しい自分には正確な釈が出来ません。桐野先生にご教授いただければ幸いです。



ご確認
桐野
Tm. さん、こんにちは。

『毛利家文書』の該当文書、一応確認してみました。

さて、私は物忘れが激しくて、どの記事でのどの議論だったのか、よく思い出せません。申し訳ないですが、記憶を喚起されたく、ご教示願えませんでしょうか。

「不慮ニ将軍中国御動座ニ付而」云々の部分でしたっけ? それとも年次の問題でしたかね?



Tm.
桐野先生、申し訳ありませんでした。
自分でも何時の議論であったか分からなくなっています。

かつて知人より示唆されたのは
「金銀彫さる七塔ヲ有御建立、数寄之座敷御誘候ても、」
の部分であり、それが安土城を意識してのものではないかとのことでした。
その上で『毛利家文書』の年次比定が正しいとすれば、安土での正月の出来事について何らかの情報が伝わり、上記のような計画がなされたのではないかとも思われるのですが如何でしょう。

また大筋の内容としては、元就の遺訓を踏まえ、義昭の動座により俄かに戦意が高揚していることを危惧し、輝元を諌めることを妙壽寺の御床下に依頼したものと存知ますが、不勉強ゆえ、文中に名の挙げられている者たちがどのような人物か存知よりません。

それらを踏まえ、同書状の大意や人物、先生の所感についてご教授願えれば幸いなのですが。





小早川隆景書状
桐野
ご紹介の妙寿寺宛て隆景書状ですが、
宛所の妙寿寺は毛利家の本拠、安芸吉田にある妙寿寺の住持、明叔元楊のことで、おそらく隆景と深い交流があっただけでなく、毛利輝元の学問の師でもあった僧侶だと思われます。

年次は、『毛利家文書』の編者は天正6年(1578)に比定していますが、翌7年ではないかと思います。
まず、書状中に「日頼様以後八ヶ年御家を被保候」とあるのが手がかりで、日頼様こと毛利元就の死去が元亀2年(1571)ですから、それから8年ということですから、同7年(1579)のほうがでいいのでしょう。
また、冒頭にある「市少四」(市川経教)と「杉七」(杉重良)の裏切りについて、隆景が述べています。
2人は大内氏旧臣で毛利に重恩ある国衆ながら、豊後大友氏に寝返っています。その時期はどうやら同7年正月のようですから、同年のほうがよいと思います。

あと、この書状がよく知られているのは、将軍義昭の中国下向について、隆景が毛利氏の前途を不安視している一節で、義昭が毛利家を頼ってきたことを「当代之御面目」としながらも、「乍去、消候ハんとて光増と申事も候」と書いているところです。つまり、消えかかっているロウソクの最後の輝きのようだというわけです。

で、肝心の部分ですが、

「金銀ヲ彫たる七塔ヲ有御建立、数寄之座敷御誘候ても、当家之御名字不続候へは、一時之煙と罷成事候」

先ほど申しましたように、この書状の年次は天正7年が妥当だと思われますが、それでも、大丈夫でしょうか?
また毛利氏が安土城の何に刺激されたとお考えなのかよくわかりません。天正6年も翌7年も、信長は安土城天主を堺衆などに公開していますね。そのことでしょうか?

しかし、毛利氏が寺院建築と城郭を同次元で意識するものでしょうか。ご紹介の部分は、妙寿寺か西堂(人物でしょうが)に関わる寺院建築で、7つの堂宇を建立するということですよね。それが安土城天主と何か関係があったり、毛利氏が意識した所産なのでしょうか? あるいは「七塔」を七重塔とお考えでしょうか? おそらく七重塔ではないと思います。

とりあえずはそれくらいで勘弁して下さい。

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外出したついでに、表題の書店に立ち寄る。

世事に疎く、いつ出来たのか知らない。おそらく最近だと思うが、電車の広告で初めて知った。池袋店より大きいという惹句に惹かれて行ってみた。

驚いた。場所が何と、紀伊國屋書店の真ん前である。
こりゃ、禁断の掟破りかと思った。業界内にもはやタブーや遠慮はないらしい。まさか紀伊國屋書店が後発大型店からターゲットにされる時代が来るとは思わなかった。

見て回ったのは人文系だけだったが、背の高い書棚がずらっと並んでいる。壮観の一言である。
客に媚びない姿勢がよい。読みたい本は自分で探せという展示法が潔くてよい。もっとも、客も冷やかしなら別だが、それなりの覚悟と見識、そして財布が求められるだろうなと思った。
買うつもりはなかったが、ついつい3冊買ってしまった(笑)。

紀伊國屋書店と展示方法が違うし、おそらく客層も違うのではないだろうか。いや、今後は紀伊國屋書店のほうが差別化のために、もっと変わらざるをえなくなるかもと思った。

それにしても、世の移ろいは激しい。絶対はないなと思う。
紀伊國屋書店新宿店といえば老舗中の老舗。大阪の梅田店と並んで、なぜか昔から拙著を厚遇してくれた。長~く長~く平積みしてくれていた。もしかして拙著を贔屓にしてくれる店員がいるのではないかと思ったくらいだ。だから、個人的にも、紀伊國屋書店にはもっともっと頑張ってほしいのだ。

【2007/10/07 17:32】 | 雑記
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玉里邸

島津久光が晩年住んだ玉里邸の庭園

南日本新聞サイト本日付の記事。
詳しくはここです。

重富島津家(越前島津家)は島津一門家(四家)のひとつ。
徳川御三家に相当する。
島津久光が一時期、養子入りして当主(当時、忠教)になったことがある。

久光の2代前の当主忠貫の時代、文化年間(19世紀初め)の奥祐筆の日記が、鹿児島大学附属図書館の玉里文庫から見つかった。久光所蔵の書籍の裏打ち紙になっていたという。

玉里文庫は久光の玉里邸にあった文庫のこと。貴重な古文書や古典籍を所蔵していた。『玉里島津家史料』全10巻でも有名。現在は鹿児島大学の所管。

さっそく、重富島津家の現当主晴久氏に電話したら、まだご存じなかったので、記事を送る。
晴久氏によれば、重富島津家の奥向きがわかる史料は皆無だったので、貴重ではないかとのコメントあり。近いうちに帰鹿したら見てきたいとのこと。


【2007/10/06 22:09】 | 雑記
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町田明広
桐野様
貴重な情報をありがとうございます。非常に興味深い発見と存じます。
また、「没後120年 島津久光 -玩古道人の実像-」にも
猛烈に惹かれます。
いかんせん、遠くて思うようになりませんが。。


玩古老人の実像
桐野
町田さん、こんにちは。

島津久光の展示会も面白そうですね。
図録は作っているのでしょうか? 展示が見られなくても、図録だけでも入手できないかと思いますが。

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ジメサア1

南日本新聞連載「さつま人国誌」第27回
―歴史の敗者の心情投影―

連載コラムが更新されました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

拙コラムも何とか折り返し点まで到達しました。これから来年3月まで後半戦です。

今回は、昨日がジメサアこと、亀寿(島津義久三女、同家久夫人)の命日だったので、この話題を書きました。
ジメサアの伝承の裏側にあるものを史実から拾い上げてみました。伝承がおそらく史実からデフォルメされた形で形成されたのではないかと思っております。

なお、写真はジメサアの写真を使うつもりだったのですが、他の紙面で恒例のお色直し写真が掲載されるらしく、記事ではそちらに譲りました。
ご覧になれない方のために、2年前の写真ですが、掲載しておきます。

次回から京都の即宗院のことを3回連載くらいで書こうと思っているのですが、今月下旬の妙円寺詣り関連も書こうと思っていて、バッティングしているため、スケジュールが調整できていません。

【2007/10/06 11:49】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。
ジメサァ像白塗りの儀式(苦笑)は鹿児島市役所の職員の担当と言うことですが、去年はものすごいブルーのアイシャドウが入っていたような。今年はどういう形で遊ばれちゃうんでしょうか。

それと、桐野さんは既にご存じとは思いますが、「ジメサァ」像は最初から亀寿像と見なされていたわけではなくて、どうも当初は「白地蔵」と呼ばれていたようですね。その後廃仏毀釈で一時行方不明となり、大正時代に今の場所で見つかってから「ジメサァ」と呼ばれるようになったらしいですが…。
そういえば、島津家縁の鶴嶺神社の縁起物に「亀寿様にあやかる紅」なる物があるそうですが、これもいつから取り扱い始まったんでしょう。

>「薩藩旧伝集」補遺
読みようによっては、泰平寺で秀吉と会った島津義久はそんなにブ男だったのか、とも読めるような逸話ですね(苦笑)。義久は肖像画や木像が残ってないですのでなんともいえませんが。

家久(忠恒)は今回、桐野さんが書いた話の通り、あれこれ画策してようやく自分の血統が後継者に確定したのですが、それでも亀寿には含むところがあったのか、亀寿が亡くなったときに詠ったという挽歌は酷い物ですね。あれに家久(忠恒)の性格がすべて出てしまってるように思います。

ジメサアと大乗院
桐野
ばんないさん、こんばんは。

さっそくのコメント有難うございます。

ご指摘のとおり、ジメサアの石像は由来不明のところがありますね。
現在地の前は大乗院(鹿児島市清水町だったか?)にあったとも言われています。大乗院は島津家の祈願所で、とくに貴久、義久と縁が深い密教寺院ですね。

『三国名勝図会』の大乗院の項によれば、持明夫人こと亀寿が、大乗院に本尊千手観音・旁侍勝軍地蔵・毘沙門天と一切経蔵を寄進したとあります。
亀寿が寄進した千手観音が同寺の本尊ですから、亀寿ゆかりのもの、たとえば石像があったとしてもおかしくはありません。ただ、ジメサアは現世利益が強すぎそうで、ちょっと俗っぽい気がしないでもありません。
大乗院に安置されていたから、亀寿と結びつけられたのかどうか、よくわかりませんね。

家久が幕府に国松を養子にほしいと願い出た年次については、義久他界前後の慶長16、17年と、元和2年の両説があって、後者が有力なようです。
そうだとすれば、義久が死んでもなお、家久は幕府に頼らざるをえなかったわけで、亀寿を戴く義久派の勢力がなお侮れなかったものと思われます。
どうも、単に亀寿の聟となるだけでなく、二人の間に男子ができないかぎり、家久には家督継承者としての資格がなく、そのままつなぎで終わった可能性もあるようですね。
幕府に訴え出たのは、側室の子でも後継者にできるよう、幕府のお墨付きを得て、その権威で家中の義久的論理を打ち破ろうとしたのではないかと思われます。

家久もそれなりに大変だったと思われますね(笑)。

家久の亀寿への追悼歌は、よく意味がとれないところがありますね。そのまま読めば、たしかに陰険な歌です(笑)。そんな見え見えのことをするのかなとも思いますが。別の解釈の余地はないですかね?


慶長16年?元和2年?
ばんない
こんばんは。

島津家久(忠恒)の国松養子事件(?)は慶長末年と思っていたのですが、違うのですか?ちなみに慶長説は「持明夫人」(『鹿児島大学法文学部論集』1)の桃園恵真氏による物です。

大乗院には、亀寿はそういう物を寄付していたのですね。御教示ありがとうございます。つくづく明治の廃仏毀釈が惜しまれます。あと西南戦争も。これで島津氏縁の大量の物品が消滅してしまいました。

挽歌は「死人に口無し」だからついホンネが出ちゃったんじゃないでしょうか(爆)。でも、それを送った相手がどうも亀寿につかえていた奥女中らしいというのが引っかかります。

家久養子一件と家久の和歌
桐野
ばんないさん、どうも。

国松養子の件は、私も桃園恵真氏論文を参考にして書きました。
同氏によれば、慶長17、18年説は『大日本史料』が採用しており、桃園氏もこちらを支持していますね。

一方、元和元、2年説は『島津家文書』や『島津国史』などが採用しています。ただ、典拠のひとつとなった家久宛て本多正信書状を元和2年とするのは、正信が同年6月に他界しているので明らかに成立しませんね。

やっぱり桃園説が有力でしょうかね。私は元和元年説が正しいという論文を読んだ覚えもあるのですが、よく覚えていません。山本博文氏だったかな?

ともあれ、両説とも義久死後であることは共通していますね。義久亡きあとも、義弘―家久ラインは一気に優位に立ったわけでもなさそうです。
家久はとにかく男子をつくらないと、家督相続者たる資格に欠けているという家中の空気が強かったのではないでしょうか。かといって、今さら別居している亀寿との間にはつくれない。だから、国松養子という奇想天外な申し入れをして側室を認めてもらうしかなかったようで。
この策を入れ知恵したのはおそらく、家老の伊勢貞昌でしょうね。もっとも、『島津国史』の編者、山本正誼からは、鎌倉以来の島津家の血統を絶やすつもりだったのかと筆誅されていますけど(笑)。

なお、家久の亀寿への追善和歌ですが、問題は「いつはり」ですよね。

あたし世の雲かくれ行神無月
 しくるゝ袖のいつはりもかな

あたし世:あだし世、無常な世の中
神無月:10月、亀寿の命日は10月5日
しくるゝ:しぐれる、晩秋の小雨模様

で、「いつはり」ですが、ふつうなら「偽り」と読みますけど、それだと、流した涙がウソだった、濡らした袖が偽りだったことになります。そんなことはふつう、和歌にしないのではないかと思います。相手(この場合、亀寿)に対する侮辱ですからね。

よくよく考えてみたら、これは「いつ晴り(晴れ)」と読むべきかと。
この場合、「濡らした袖がいつ晴れるだろうか」という詠嘆の意味にとるのが妥当ではないかと。
歌学の決まり事でも、「しぐれ」と「晴り(晴れ)」が対置関係にあって、多少の歌心は表現されているようにも思います。
いかがでしょうか?

もっとも、わざとどっちの意味でも詠めるようにという含意なら、家久はよほどの性悪だと思いますが(爆)。


「晴れ」
ばんない
>「いつ晴り」
文法的にその活用はあり得ないように思うのですが、無理矢理当てはめた可能性もなきにしもあらずでしょうか、何しろ家久(忠恒)のことですから(爆)

「国松養子申請事件」ですが、手紙の内容に
・妻(亀寿)が40になるのにまだ子供がいない
・このままじゃ自分(=忠恒)には跡継ぎがいない
という内容が出てくることから見て、やはり慶長15,6年頃かと。元和以降は側室を最低3人抱えていて子供も何人か産ませていますから、矛盾するように考えます。

文法
桐野
ばんないさん、こんばんは。

たしかに「いつ晴り」では文法的にちょっとおかしいですね。
「いつ晴るるかな」なら、座りがいいんですけどね。
ただ、この場合、「濡れた袖は乾かない」という反語的な意味合いを強調するのが本意のような気がします。「いつ晴るるかな」ではのんびりしているというか、意味が弱いですね。

もっとも、「偽り」と読んでも、ちょっと意味が不自然ではないですかね? とくに「も」が余分な気がします。文法的に間違いではないかもしれませんが、全体的に見れば、変な結びで、意味が通らない気がします。

もしかして、釈文の間違いってことないですよね?



釈文
ばんない
こんにちは。
この和歌の釈文とは『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録」5-331の「よしなきみつくきながら~」で始まる一文のことでしょうか。


そうです
桐野
ばんないさんのご紹介のものです。
ほかにもまだあるのでしょうか?


釈文
ばんない
こんばんは。風邪でダウンしておりまして返事が遅くなりました。

この和歌の釈文は、これしか存じません(^^;)
というか、これしか存在してないと私は考えています。『鹿児島県史料 旧記雑録後編』5-331には「御自筆在鮫島宗仙」「家久公御譜中ニハ正文在藤山慶右衛門トアリ」という補注があり、この補注から見るとこの和歌は(1)鮫島宗仙が持っていたという直筆の本物(2)「家久公御譜」に抜き書きされた写し の2つしか伝来してなく、しかも(1)も(2)も同文だったと推測できるからです。

どうしても「いつはり(偽り)」じゃない可能性を考えると、ズバリ『鹿児島県史料』に書き写す際に字を読み間違った!…ぐらいしか可能性は考えられません。限りなく低い可能性だと思いますが。くずし字の「り」と「れ」は書き手の癖によっては混同するかもと思うのですが…自分で書いておいて何ですが、この推測も苦しいですかねぇ(汗)

「いつはり」
桐野
まあ、『鹿児島県史料』の釈文に間違いがあるとは考えにくいですが。

ただ、仮名文字は意外と間違いやすいのも事実で。

とにかく「いつはり」=「偽り」なら、人倫の道はむろん、歌道にも反するのではないかと思うのですが……。

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黒田清隆1
黒田清隆2

表題の研究会の案内と入会申込書が送られてきた。

黒田清隆の子孫である黒田清揚氏が代表をつとめている。
以前、何かの宴席でご一緒したことがあった。たしか、榎本武揚の子孫、隆允氏と親戚だったと思う。箱館戦争の縁が現代も続いていると思っていた。

いただいたパンフによれば、「黒田清隆国際教育財団」を創設し、奨学金を拡充させて真の国際人育成を第一の目標にするとか。

ご参考までに、パンフを紹介しておきます(写真参照)。

【2007/10/05 17:10】 | 幕末維新
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京王文化セミナー

講演「天璋院篤姫」

もう来年の大河ドラマの関連企画が着々と進行しています。
年内にそのひとつが開催されます。

来る12月13日(木)10:00~12:00に東京新宿・京王プラザホテルにおいて、重富島津家当主の島津晴久氏とともに、お話をすることになりました。
詳しい要領については、上記写真をクリックしてご覧下さい。

平日午前中のうえ有料で心苦しいのですが、関心があって都合のつく方はご検討下さいませ。
往復ハガキ1枚で2名まで申し込めます。京王線沿線に配布しているせいか、すぐ定員一杯になるそうで、その場合、抽選になるとのこと。申し込まれてはずれたら、ごめんなさい。


【2007/10/03 23:50】 | 幕末維新
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町田明広
桐野様
町田です。貴重な情報をありがとうございました。
私の研究守備範囲はかなり限定されておりましたが、
今後周辺にも注意を払う必要が出てまいりました。
今回のセミナーには早速申し込みをいたしました。
また、鹿児島・京都・江戸の探訪ツアーも楽しみに
しております。
今後とも様々ご教示を、よろしくお願いいたします。

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昨日で10万アクセスになりました。
ご覧いただいたみなさんに御礼申し上げます。

昨年11月13日から立ち上げましたので、平均して1カ月でおよそ1万アクセスしていただいたことになります。

仕事の都合で更新できない状態がつづくこともありますが、なるべく更新を心がけたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。

【2007/10/03 20:01】 | 雑記
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すごいですね!
ぶるぼん
1カ月で1万件とはすごいですね。
大変お忙しいのに、先生がいろいろな読者から来たコメントにこまめにレスをされているのもすごいです。
時々参照にさせていただいてますので、トラックバックも貼らせてくださいね。
相乗効果ではありませんが、当ブログのほうは1日10件程度でして……。

トラックバック
桐野
ぶるぼんさん、こんにちは。

改めて貴ブログを拝見しましたが、面白そうですね。
小生も昔、探検家や冒険家やジャーナリストの集まる会議によく出ていたことがあります。自分は全然ダメなので、憧れてみなさんの話を聞いておりました。若い頃の関野吉晴さんとか、いろいろいらっしゃいました。

トラックバックかまいませんよ。

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山岡鉄舟

昨夜、恒例の「薩摩の会」に出席。

加治木島津家の当主、島津義秀氏の上京に合わせて設定されたもの。
神楽坂の日本出版クラブ会館が会場。

今回のサプライズは東京で永年、薩摩琵琶を弾奏されている須田誠舟氏。薩摩琵琶の名手として知られている方。西郷隆盛の命日に近かったので、「城山」を弾かれた。もちろん男性だったが、バチ捌きが非常に妖艶な方だった。
来年の大河「篤姫」では、小松帯刀を演じる瑛太が薩摩琵琶を弾くシーンがあるとかで、その指導をしているという話があった。
小松が薩摩琵琶かあ。何かの逸話や伝承があるのだろうか? 

ほかにも、書籍・映画・TVなどのイベント企画がたくさんあった。
山岡鉄舟の菩提寺である谷中・全生庵の平井住職も参加されていた。
山岡鉄舟といえば、江戸無血開城の立て役者の一人である。薩摩の西郷隆盛・益満休之助との関係は有名だ。
平井住職が最近表題の本を編まれたそうで、会場で販売されていたので購入。
詳しくはここ

興味深いのは、5カ所掲載されている「鐵舟アーカイブズ」。要するに、鉄舟の史料が収録されている。
とくに「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」が面白いだろう。よく知られている駿府での西郷との交渉のいきさつが詳しく書かれている。
そのなかで少し気になったのは、西郷のそば近くに中村半次郎(のち桐野利秋)とともに村田新八がいたこと。
最近、村田は戊辰戦争に出征していない(王政復古の直後、会津藩士と斬り合って負傷のため)との説を聞いていたが、鉄舟の筆記には村田が登場する。西郷のそば近くにいるだけで、戦闘には参加しなかったということだろうか。

それで思い出したが、三田の薩摩藩邸で西郷と勝海舟会談が開かれたとき、隣の間に控えていたのも、中村と村田だったと書いた史料を見たことがあった。村田が東征に加わっていた可能性は高いかもしれない。

会の終了後、来年の「篤姫」関連企画のうち、鹿児島・京都・江戸の探訪ツアーの打ち合わせ。来年5月以降の企画だが、急がないと間に合わないそうだ。あわただしくツアー名のコピー案などを決める。
鹿児島が3泊4日、京都が2泊3日、江戸(東京)が日帰りである。
どうやら、全部ガイド役をやらないといけないらしい。大変だ。

【2007/10/02 23:32】 | 新刊
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最近、表題のものを購入した。
古書は買っても、古文書は原則として買わない主義だったが、西郷文書であること、おそらく新出文書であること、本文が30行近くあるのでそれなりの内容があるだろうこと、そして何より西郷文書にしてはリーズナブルな値段だったことから、買ってしまった。
まさに「病膏肓に入る」である(爆)。

宛所は、大山格之助である。
大山の名乗りは、主に茶坊主時代の正円、文久~慶応年間の格之助、明治以降の綱良と変化する。
大山は同じ精忠組ながら、久光側近だったため、西郷との関係は比較的疎遠である。『西郷隆盛全集』を見ても、安政年間の正円宛てと西南戦争前から戦争中の綱良宛ての書簡はあっても、格之助宛ての書簡はおそらくこれ以外にないのではないかと思う。

現物は巻子仕立てになっていたが、だいぶ傷んでいる。安かった理由がわかった。2行かすれていてほとんど読み取れない個所がある。図録の小さな写真だけでは判断できなかった。

さて、年次や内容がどうなのか、これから検討したいが、何せ、西郷独特のくせ字なので、まず慣れるのに大変そうだ。

【2007/10/01 23:45】 | 幕末維新
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ばんない
こんばんは。

大山格之助(綱良)と大山弥助(巌)は親戚関係じゃないかと間違われますね。私も間違えてましたが(汗)。実際は親戚なのは西郷吉之助(隆盛)と弥助なんですね。綱良はちょっとネットで調べた限りでは人格的に難があって人気は生前より薄かったようですが…。

古文書といえば、先週の『なんでも鑑定団』に三吉慎蔵の曾孫の方が坂本龍馬の手紙4通を持ってきて、6000万円というすごい値段が付いてました…龍馬人気あるんですねぇ。戦前なら隆盛は龍馬以上だったでしょうが、今はどんな物なのでしょうか。

解読、楽しみにしております。蛇が出てくるかも(爆)

龍馬文書
桐野
ばんないさん、こんばんは。

「なんでも鑑定団」は私も見ました。
たしか1点1600万円でしたね(驚)。
まあ、寺田屋で龍馬を救った三吉慎蔵の子孫に伝来するものですから、正真正銘、本物ですからね。
ただ、いくらなんでも値段がインフレ気味かなという気はします。

それに引き替え、小生が買ったものなぞ、ささやかなものですよ。西郷の人気が落ちているのはたしかかもしれませんね。


桐野利秋の刀
市川
こんにちは。
坂本龍馬の手紙が6000万円とは驚きです。やはり歴史上の人物の遺品はその人物の知名度や人気に左右されるものだと改めて認識しました。

ところで、鹿児島県のある焼酎展示店には桐野利秋の刀があるらしいですが、実際これは価値のあるものなんでしょうか……。

桐野利秋の刀
桐野
市川さん、こんばんは。

桐野利秋の刀ですが、果たして本物という証拠はあるんでしょうかね? それがまず一番の疑問です。
仮に存在したとしても、子孫の家に伝わっているはずで、外部に流れたとすれば、それなりの証拠物がないと、本人のものだという確証にはならないと思います。

もし本物なら、それなりの値段だと思いますが、私は刀剣の相場を知らないので、何とも言えませぬ。ごめんなさい。

桐野利秋の刀
中村太郎
はじめまして。

いつも拝見して、勉強させていただいております。

さて、桐野利秋の刀についてですが。
間違えていたならば、お許しください。
市川様のおっしゃる「鹿児島県にある焼酎展示店」が、もし鹿児島空港近くの「バレルバレーPRAHA&GEN」のことならば、それは複製です。
焼酎「薩摩自顕流」のウィンドーに飾ってあり、和泉守兼定二尺八寸の複製ということです。
複製ができたということは本物がどこかにあるわけで、店員さんにこのウィンドーのディスプレーについて聞きましたが、全く分からないということでした。

桐野の刀については、司馬遼太郎氏の「翔ぶがごとく」に高城七之丞の岐阜におられるご子孫が持っていると書かれていましたが。

感謝
市川
桐野先生、中村様、親切なご返答ありがとうございました。

私も人伝えに聞いたことなので詳しいことは分かりませんが、恐らく中村様の言うその店だろうと思います。
わざわざ刀の所在まで教えていただき、ありがとうございました。
考えてみたら、刀や手紙などの価値は他人が判断することではないのかもしれませんね。

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