膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
小学館てらこや特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」

今次2回目の講座である。
前回から3週空きの変則開催だったため、教室が変わる。初めての教室もまたいいものだ。

将軍継嗣問題を個人的にも整理したかったので、改めて検討してみた。
どうしても越前松平家の『昨夢紀事』への依存度が高くなるのは致し方ない。中根雪江の詳細な記録・日記が有難い。

将軍継嗣候補が紀州慶福と一橋慶喜だけでなく、5人いたと解説したが、史料を読んでいたら、ほかにも蜂須賀斉裕(徳川家斉の男子)や「加州殿」(人名不明)もいたとあってあわてる(汗)。

水戸斉昭の豪放さが将軍継嗣問題では裏目に出て、むしろ、粗暴、はた迷惑という感じで見られているのがよくわかる。一橋派の内部でも、島津斉彬が松平慶永に斉昭と距離を置くようにアドバイスしているのが興味深かった。

それと、一番面白かったのは井伊家の『井伊家史料 幕末風雲探索書』所収の風聞書。
井伊直弼の諜報網は一橋家にも及んでおり、慶喜側近の平岡円四郎が語ったことが出入りの医師を通じて、井伊側に筒抜けになっている。
そして、将軍継嗣が紀州慶福に決定したとき、慶喜が「呉々も残念」「殊外の御不満」だったことがよくわかる。
慶喜は将軍継嗣問題に消極的だったという通説を覆す内容で、とても面白かった。

次回は来週の6日(火)と一週間空きという変則開催です。
受講生のみなさん、ご注意下さい。
 
本日、都内某所で織田信長研究者の谷口氏と会う。
先月にも会ったので、1カ月ぶりである。
来月初め、安土でイベントがあるので、それに合わせての上京である。

比較的最近会ったばかりだが、それでも、話し出すと止まらない。気づいたら、アッという間に4時間たっていた(苦笑)。

例の安土城天主倒壊の一件について、谷口氏の意見をうかがう。
結論からいえば、「ありえたかもしれない」とのこと。
その理由として、通説では安土城天主完成まで時間がかかりすぎていること。天正4年正月に安土城の普請が始まって、1カ月で岐阜から安土に移ったほどなのに、天主完成まで3年以上というのは長すぎると、かねがね思っていたとのこと。
また、陽明本『信長公記』巻9に「安土山御天主の次第」がなぜ入っているのか。このことは必ずしも天正4年に天主が完成したことを意味しないが、『安土日記』が天正7年に入っているのと、なぜ異なるのか、その違いは検討するに値するだろうとのこと。
一概に全面否定する必要はないだろうという意見だった。

余談だが、先日、藤田達生氏と話したときも、この史料は面白いというご意見だった。

谷口氏は現在、織田一族について執筆中とか。
いろいろ苦労話をうかがう。とくに信長以前について説明を受けたが、相変わらず私にはよくわからなかった(爆)。

私の方からは、織田権力のいわゆる「一職支配」のありようについて、具体的に話を聞く。
原田直政の山城守護と一職支配の関係とか、近江を譜代重臣たちが一職支配しながら、外様国人が信長から所領安堵の朱印状を与えられていることの意味など教えてもらう。
また与力・寄子という用語の違いをはっきりすべきで、概念を明確にして用語の混乱を是正すべきだとのご意見には、私も全面的に賛成だった。ぜひこの問題についても論文を書いてもらいたいものだ。

ほかにも、いろいろためになる話をうかがった。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第30回
―「人斬り」新兵衛も眠る―

拙コラムが更新されました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回は田中新兵衛について書きました。
文久年間の「人斬り」として有名な人です。

新兵衛は身分が町人出身とか郷士とかいわれますが、正確には「私領士」(門閥家臣の家来)だと思います。
藩当局の布達が「島津織部家来」と書いているので間違いないでしょう。

新兵衛の足跡については、不明な点があります。
まず、文久2年(1862)の島津久光の率兵上京に同行したのかどうか。
同行したとすれば、島津織部に従ってのものでしょう。
一方、別に上京して森山新蔵の世話になったという説もあります。
しかし、『官武通紀』所収の「風説書」には、新兵衛を「去年関東へ之勅使大原卿へ付来候薩人之由」としており、新兵衛は前年に江戸下向した久光主従のなかにいた可能性もあります。

今回、私が注目したのは、薩摩藩が自害した新兵衛をどのように扱ったかという点です。新兵衛が関与したとされる朔平門外の姉小路公知暗殺事件により、薩摩藩は大きな政治的打撃を蒙りました。そこまで追い込まれた原因は新兵衛の自害にほかなりません。

にもかかわらず、薩摩藩は新兵衛を罪人扱いしておりません。
薩摩藩の公式菩提所である即宗院に葬っていることが何よりの証拠です。
あるいは、罪人として処遇すれば、暗殺が薩摩藩の密命によるものだと認めてしまうことになるので、そうできなかったのでしょうか。いろいろ憶測は出来そうです。

一方、時期を前後する寺田屋事件では、鎮撫方として闘死した道島五郎兵衛は即宗院に葬られましたが、有馬新七など上意討ちされた側は即宗院ではなく、伏見大黒寺にひそかに葬られています。
道島と有馬などとでは、明らかに薩摩藩の扱いが異なります。有馬らが即宗院に葬られなかったのは、藩命に従わなかったために「反逆」とされたからでしょう。

同じ京都で亡くなっても、即宗院に葬られるか否かで、その死に処遇の差が生じ、死の意味も異なったのです。その点が書きたいことでした。

次回は、新兵衛と対照的に即宗院に葬られなかった有馬新七とその父四郎兵衛正直のことを書きたいと思います。


 
雨の中、久しぶりにW大学大学院のK保ゼミに参加。
後期になって3回目だが、私は今回が初めて。過去2回は仕事の都合で行けなかった。

戦国島津氏の基本史料である『上井覚兼日記』をテキストにしている。
相変わらず天正2年である。
これまで同様、川上久隅の藺牟田地頭を辞める辞めないの綱引きがつづき、一方で、島津忠長と平田宗張の贓物をめぐる訴訟沙汰も解決していない。

大名「公儀」としての島津義久の裁定に、みななかなか従おうとしない。家中の一揆構造がなお強固な印象だ。義久は生涯、家中の揉め事に悩まされたつづけたように思える。

私から少し質問したのが、「御老中」と「寄合中」の違いについて。
ほぼ同義ではないかとされていたが、やはり使い分けてある以上、意味が違うのではないかと思った。
他のメンバーやK保先生からも、事例をもう少し集めるべきだが、どうやら構成員が違う。老中に覚兼など奏者(御使衆)を加えたのが「寄合中」ではないかという意見あり。

この方面の先行研究である福島金治氏『戦国大名島津氏の領国形成』(吉川弘文館)にも「寄合中」についての分析はとくにないように思う。

もし「寄合中」が老中に奏者を加えた構成員なら、島津氏の意思決定過程における位置づけがそれなりに必要かもしれない。
とくに奏者の役割が問題になるだろう。奏者はたとえば、訴訟沙汰で当事者たちの意見を聴取して、それを老中に報告したり、あるいは老中の評定結果を大名の義久に報告し、その下知を仰いで、さらに老中に伝達したりする。

とくに義久と老中の間に介して、その意思疎通を円滑にする役割はありそうだ。あるいは、義久に直属していることで、大名当主による老中への規制・監視の役割も想定すべきなのか。
いろいろ検討することが多そうである。

あと興味深かったのが、「御小人弥三郎殿」という人物。
報告でも誰だかよくわからない。ほかに登場しないとのこと。
おそらく義久の小姓ではないか、義久が就寝中か何かの都合で、覚兼ら奏者が対面できなかったので、弥三郎が取り次いだということではないかと意見を述べてみた。
K保先生から、弥三郎が義久の意図を忖度するなど、ある程度力を持っていた可能性もあるとの指摘に、なるほどと思った。

それと、ちょっと疑問を呈するだけの勇気がなかったが、報告レジュメのなかで、「小人」の意味が日国から挙げられており、そのなかに「男色の相手の少年」というのがあった。じつはこれではないかと思っていたが、勇気がなくて、あえて指摘できなかった(爆)。

これが「源三郎殿」だったら、明らかに川上久朗だったのにと思ったのだが、「弥三郎殿」が誰だか、すぐ思い浮かばない。
武田信玄と春日源助の例を持ち出すまでもなく、義久の場合もそのようなことを想定してもおかしくないのではと思ったが……。
 
原口清著作集2『王政復古への道』(岩田書院)が刊行された。

全巻予約は8掛という特典付きだったから有難い。
詳しくは岩田書院サイトへ。

この巻には孝明天皇の死因についての論考がある。もっとも、すでに既刊のものだが、再録されたものをもう一度じっくり読んでみたいと、前から楽しみにしていた。

とりあえず、目次の章を掲げておく。おそらくこれが収録された論文のタイトルだと思う。

禁門の変の一考察
孝明天皇と岩倉具視
孝明天皇の死因について
医学と歴史学
慶応三年前半期の政治情勢
明治太政官制成立の政治的背景
王政復古小考
王政復古と摂関体制小考
明治維新研究と私


このなかの論文は私もほとんどもっていた。
「孝明天皇の死因について」もむろん興味深い論文だが、「孝明天皇と岩倉具視」がその前提を考えるうえでなお面白い。原口氏が勤務先の大学紀要に執筆されたものだが、ものすごく長い論文だった記憶がある。

岩倉が孝明天皇に敬意を表していただけでなく(個人的動機としても暗殺はありえない)、孝明天皇の死去前後にいわゆる討幕派なるものは存在しないこと、当時の岩倉もまた討幕派ではなかったことを論証しており、孝明天皇=討幕の阻害物という既成観念がそもそもフィクションであり、成立しないことを明らかにしたものである。

岩倉の立場に関連して、最近の研究では、岩倉が近習小番だったことが明らかにされている。孝明天皇の最側近の一人なのである。詳しくはここです。
そうした天皇との濃密な関係や当時の主従観念からして、岩倉による暗殺など、まず考えにくい。
このように、別の視角からの研究によっても、孝明天皇の死に岩倉が関与するはずもなかったという見方が補強されつつある。

この著作集1もまだ読み切れていないので、じっくり読んでみたいが、なかなか時間がとれない。自分の関心のあるもの、自分の仕事との関連で読む必要に迫られているものを優先的に読んでいくしかないだろうな。

おそらく、リンク先のパルティア・ホースカラーさんのサイトで紹介されると思うから、そちらでまた勉強させていただこう。
 
先週の土曜日(20日)、表題の法要に出席。

榎本武揚の墓所は文京区本駒込の吉祥寺にある。
おそらく界隈で一番大きな寺院墓所ではないだろうか。

武蔵野大学の連続講座で、子孫の榎本隆充氏と懇意にさせていただき、声をかけてもらった。
私の講座「てらこや」の受講生が受付をされていて、びっくり。
ほかにも、M川さん、S井さん、I股さん、幕末研究会の小美濃さんなど、知り合いのお顔もちらほら。

控え室で、重富島津家の島津晴久氏にお会いする。討幕派は私たちだけじゃないかと苦笑。
控え室の床の間に、榎本の揮毫の掛け軸が飾ってあった。
何と、オランダ語の書である。
横文字の掛け軸というのは、初めて見た。
待ち時間に参列者を退屈させないようにと、榎本さんはサービス精神が旺盛である。

土方歳三の子孫や佐藤彦五郎の子孫など、新選組関係者も多い。
また北海道からも、はるばるバスで支援者の方が駆けつけていて驚く。
箱館・江差・鷲ノ木などであろうか。

法要は大きな本堂で盛大に執り行われる。
200人以上参列したのではないか。

焼香をさせていただき、別用のため辞去。

法要の前に、境内の有名人の墓を見て回った。

榎本武揚夫妻の墓のほか、振袖大火で有名な八百屋お七と吉三の比翼塚がある。比翼とは、男女の深い契りのこと。二人は来世で結ばれたということか。

二宮尊徳、幕末の老中として有名な板倉勝静、天保の妖怪の鳥居燿蔵、蘭方医の林洞海などの墓があった。
安場保和

驚いたのは、安場保和の墓があったこと(上記写真)。安場については、以前紹介した。ここです。横井小楠門下で四天王といわれた人物です。
 
一昨日深夜からネットが繋がらなくなりました。
先ほどようやく復旧しました。

コメントで不義理しております。
なるべく早く対応します。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第29回
―西郷隆盛と月照の密会―

連載が更新になりました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回から3回にわたって、京都五山のひとつ、東福寺の塔頭・即宗院にまつわる話を書く予定です。

今回は即宗院の紹介と、西郷が揮毫した「東征戦亡の碑」ができるまでを書きました。
即宗院をはじめて訪れたとき、驚いたのはこの巨大な石碑群でした。
供養碑が5基、西郷の揮毫碑が1基、計6基が居並ぶ姿は壮観です。
戊辰戦争の薩軍戦死者すべての名前が刻まれています。
戊辰戦争の戦死者をもっとも畏敬し、明治政府の官吏の腐敗堕落を嘆いたのは西郷その人でした。戦死者名をすべて刻んだことには、西郷の意向が影響しているかもしれません。

次回は、「人斬り」新兵衛こと、田中新兵衛について書く予定です。
 
本日、霞会館に出かける。

重富島津家の当主晴久氏からのお誘い。
私の郷里の先輩で、私に会いたいという方を紹介して下さる。
南日本新聞の連載で薩州島津家のことを書いたのを目に止めていただいたらしい。

霞会館は改装されて、雰囲気が変わっていた。
フロントの位置なども変わっており、少し戸惑う。

薩州家や島津本家の話などで、時間の経つのも忘れるくらい話し込む。
薩州島津家について、郷里の方からいろいろな話を教えてもらう。
史料と伝承のはざまにある逸話で、果たしてどこまで確かめられるか。
垂水島津家の家譜があるらしいとも聞く。ぜひ見たいものだ。

興味深かったのは、薩州島津家の6代義虎の叔父とされる島津忠兼の墓(出水市龍光寺墓地)が「イボの神様」として信仰されている件。
『出水の歴史と物語』によれば、忠兼は義虎にだまし討ちされて非業の最期を遂げたことになっている。
しかし、薩州家の系図には義虎の叔父(6代実久の弟)に該当者がいない。それはともあれ、非業の死を遂げたとされるようなことはあったのかもしれない。

そして、興味深いのはそれが「イボの神様」に転化している現象。そこからひとつの連想が働いた。

太守義久の家督を家久と争った垂水島津家の忠仍の子で、新城島津家の久章は島津本家の系図を持ち出して出奔し高野山にこもるが、家久側に発見されて、谷山(現・鹿児島市下福元町)の清泉寺に幽閉され、乱心を理由に殺害された。これにより、義久系統の男子は途絶えた。

この久章の墓が江戸時代以降、疱瘡の神様として祀られているのである。
島津忠兼といい、島津久章といい、非業の死を遂げたことと、その後、病気を治す神様に転化している共通点は単なる偶然ではないのではないか。

そのような話を、民俗学に造詣の深い晴久氏にしたら、盛んに頷かれて同意された。

たとえば、菅原道真・崇徳上皇・早良親王などのような、一種の祟り神信仰というか、御霊信仰に近いのではないだろうか。


それはともあれ、さすがに霞会館だと思ったのは、いろいろな有名人の子孫がおられることだ。
とくに晴久氏にお二人をご紹介していただき、感激した。

一人は松平春嶽のご子孫。
現在、福井市郷土歴史博物館の名誉館長をされている。春嶽と養嗣子茂昭の往復書簡を収めた『松平春嶽未公刊書簡集』について、少しお話しできた。

もう一人は、『兼見卿記』で有名な吉田兼見のご子孫。
何というか、いま『兼見卿記』の未公刊分の日記の輪読会をやっているだけに感無量だった。今度、拙著を送る約束をさせてもらう。

というわけで、意外な出会いがあった一日だった。
 
江戸城

江戸城天守台跡から本丸御殿方向を見る。手前の芝生周辺が大奥跡

小学館「てらこや」特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」第1回
詳しい案内はここにあります。

先週の9日に今次のテーマで開講。このところ、他の話題が多くて触れずじまいだった。
パート1は定員一杯で教室が窮屈だったが、今次は少し減って受講生のみなさんもゆったりして受講できるのではないか。

パート1では、薩摩藩側から見た視点だったが、今回は幕府側からだったり、歴史的な背景を追ったりしてみたいと思っている。
第1回は表題のタイトルの講義。

篤姫の生活空間だった大奥とはどんなところだったのか、大奥というスペースの空間構成、江戸城本丸御殿の3つの区画のなかで、他の表向や中奥との関係などをまず見ていく。

大奥もさらに3つの区画―御殿向(将軍御台所の居所)・広敷向(大奥事務所)・長局向(女性たちの居所)―に分かれている。とくに男性の諸役人も詰めていることを理解してもらう。

また将軍御台所を頂点する大奥女性たちの身分構成、お目見え以上と以下の階層別構成などを見ていく。とくに将軍の側室(御部屋様)になれるのが、御中臈と呼ばれる侍女たちであることを確認する。

次に、江戸城本丸御殿の表向という男性世界もかいま見る。
主に参考にさせてもらったのは次の論文。

松尾美恵子「大名の殿席と家格」(『徳川林政史研究所研究紀要』通号昭和55年度、1981年)

将軍の儀礼の場である白書院・黒書院を中心に、諸大名の控えの間である「殿席」というキーワードによって、幕藩体制の視覚的な縮図ともいえる空間構成を理解してもらう。
大名の殿席が家格の高い順から、

大廊下・溜間・大広間・帝鑑間・柳間・雁間・菊間

という7種からなっており、その特徴や家格との対応関係を見ていった。家格・官位・役職・石高・城地などの違いによって、殿席が異なること、また必ずしも殿席は固定的ではなく、大名のキャリアによって変更される場合があることを確認する。
島津家がその典型例で、従来、外様国持の殿席だった大広間から、御三家と同じ大廊下に移ったのが重豪のとき。その一女茂姫が将軍家斉の御台所となり、将軍家と親戚になったことが殿席移動の理由であることを確認した。

殿席配置の特徴のひとつして、溜間・帝鑑間・雁間・菊間という家門・譜代大名の殿席が白書院・黒書院を囲むように配置され、外様大名の殿席である大広間や柳間より将軍居所との位置関係が相対的に近いことを確認した。

もっとも、松尾氏も留保しているように、たとえば、帝鑑間と雁間に詰める譜代大名の条件・家格の違いがいまひとつ曖昧で、よくわからなかった。

江戸城本丸の平面図(カラーコピーも含めて2点)を見ながら解説したので、ある程度理解してもらえたのではないかと思う。

次回は何にするかまだ決めていない。
幕末史の重要事件で、篤姫や大奥に関わるものを時系列に沿って見ていったほうがいいと思っている。
となると、次は将軍継嗣問題あたりか。

そうそう、次回日程は少し変則的で3週空いて、30日(火)です。お間違えのないように>受講生のみなさん。
 
最近、ちょっとはまっているのが、時代劇専門チャンネルで再放映している表題のドラマ

直木三十五『南国太平記』を、市川森一が脚色したもの。
幕末薩摩藩のお由羅騒動を中心に描いた作品である。NHKが1979〜80年にかけて放映した。もう30年近く前の作品である。

主人公は仙波小太郎(勝野洋)だが、やはり、変幻自在の活躍をする益満休之助(西田敏行)が異彩を放つ。

主なキャストは、島津斉彬が津川雅彦、お由羅の方が南田洋子、調所笑左衛門が中村伸郎である。とくに中村伸郎の薩摩弁が味があってよい。熟練で権謀の家老役に打ってつけである。

見ていて気づいたのは、必ずしも単純な善悪二元論に立っていないことである。
一方で、斉彬の家臣使い捨てや幕閣の阿部正弘と結んだ謀略もちゃんと描いているし、他方で、調所の財政改革の苦労ぶりも描く。また呪詛調伏の兵道家、牧仲太郎(柳生博)の兵道家としての意地も共感的に描かれている。

可憐なる紅一点は、やはり小太郎の妹役で出ている故・夏目雅子である。調所と結んだ大阪の蔵元、薩摩屋に潜入する間諜役。その儚げで愁いに満ちたまさざしが印象的である。

この頃の時代劇は雰囲気があり、チャラチャラしていなくて重厚で、役者がいかにも役者然としていて、安心して見ていられる。

と褒めるだけ褒めながら何だが、このドラマの原作には、以前から抱いていた素朴で根本的な疑問がある。益満休之助のことだ。

たとえば、昨日の放映分は、島津斉彬がまだ世子の頃で、お由羅騒動前夜の時期である。斉彬の長男寛之助が夭折した直後だから、嘉永元年(1848)前後である。

ところが、斉昭の密偵として活躍している益満休之助は天保12年(1841)生まれである。どう考えても年代が合わないのだ。
直木三十五がこの作品を書いた時点で、益満の生没年を知らなかったわけでもあるまい。それでも、あえて年代を無視して重要な役どころにしたのはなぜなのだろうか。これが以前から解けない疑問である。
 
何と、本欄でも度々紹介している山口のマツノ書店(リンク欄参照)が、今年の菊池寛賞を受賞したという知らせが届いた。詳しくはここ

受賞理由は、

「地方の一個人古書店でありながら、明治維新史に関する貴重な文献の復刻出版などすでに二百点以上を刊行、社会的文化的貢献をおこなっている」

とのこと。
同店の地道な復刻出版活動が認められて、まことにおめでたい。

取り急ぎ、心よりお祝い申し上げます。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第28回
―鎧を着けて「志気凛々」―

今月の第4日曜日に挙行される妙円寺参りに関連することを書きました。
大久保利通が若い頃、妙円寺参りをしたことを日記に書いています。当時の様子がある程度わかる貴重な記録だといえましょう。

とくに、大久保が妙円寺に礼拝したとき、島津義弘の霊を感得したという一節などは興味深いですね。こういう神秘的なことを感じていたのかと、のちの冷徹な合理主義者とのしての大久保を知る者としてはやや意外の感に打たれます。

じつをいうと、この嘉永元年(1848)の日記は『大久保利通日記』(日本史籍協会叢書)には収録されていません。利通の三男利武氏によって大正10年(1921)に発見されて、『大久保利通文書』に収録され、さらに『鹿児島県史料 大久保利通史料(一)』に再録されたものです。

ちなみに、近々マツノ書店から復刻される『大久保利通日記』には収録されたとのこと。
 
昨日、都内某所にて、某雑誌の取材を受ける。

表題に関連した雑誌企画についての取材。
事前に作品論か、それとも薩摩から見た幕末・近代史か、ちょっととした手違いでよく絞りきれないまま取材に応じる。

やはり筆名とのからみで、桐野利秋のことを詳しく聞かれた。
中村から桐野への改姓事情、西南戦争開戦における桐野の立場はどうだったかなどを話す。
ちなみに、小生の桐野は本名で、下が筆名です。

ほかに司馬作品との出会いや、「翔ぶが如く」を読んだときの感想などを聞かれた。
歴史に興味をもちはじめたきっかけが、中学生のとき、明治維新100年記念のイベントだったこと。また今の仕事をするきっかけになったのも、大河「翔ぶが如く」と関わっていたことなどを話す。

考えてみれば、小生の自己形成において、司馬作品に随所でお世話になったことに改めて気づく。

ついでにいえば、誕生日が大久保利通の命日と同じである。やはり何かと縁があるようである。
 
敬天愛人

鹿児島の西郷南洲顕彰会が発行する表題の最新号が送られてきた。
会員向けに年1回の発行である。発行元はここ

まだ拾い読みした程度だが、横井小楠研究家で知られる徳永洋氏が

西郷隆盛と横井小楠

と題した一文を寄稿されている。

両者の交流はほとんど知られていないが、横井家に西郷の揮毫を飾った写真が掲載されているのは驚きだった。
小楠は新政府に出仕するとき、自宅の庭で西郷や坂本龍馬からの手紙をすべて焼いたとか。もったいないと思うのは私だけではないだろう。

勝海舟は、西郷と小楠は会っていないだろうと証言しているが、徳永氏によると、安政4年(1857)に熊本で会っているという。
その前後、西郷は長岡監物と交流があったから、そのからみだろう。
西郷が大久保に語った「共和政治」云々は、勝から授かっただけでなく、小楠からも得たものらしい。

 
本日から上野の東京国立博物館で「大徳川展」が始まった。
300点以上の展示物は豪華そのものである。展示品の一覧はここに。

家康や家光や吉宗や慶喜などはもちろん、天璋院篤姫や和宮ゆかりのものも展示されている。

日光東照宮が所蔵する家康の征夷大将軍宣旨やその他の位記・宣旨など官位文書も展示されるとか。これって、家光がすべて作りなおさせたものではないだろうか(豊臣姓を忌避するため)。そのあたりも確かめてみたい。

三大肩衝のうちの二つ、「新田」と「初花」も展示されるとか。
信長や秀吉の愛蔵から今日まで残った名物の本物が見られる。非常に楽しみである。

宮廷のみやび

それも注目だが、本日の夕刊に来年1月からの展示「宮廷のみやび―近衛家1000年の名宝―」の案内が掲載されていた(上記写真参照)。
スケジュール程度の簡単な案内はここにもある。

陽明文庫創立70周年記念特別展である。
近衛家のどんなお宝が展示されるのか今から楽しみである。
藤原道長の自筆日記も展示されるとか。自筆日記といえば、『御堂関白記』だろう。
そういえば、京都国立博物館でも道長展があったな。

個人的には、近衛前久や同信尹関係の史料や、陽明文庫『信長公記』などの展示もあったらうれしい。
 
久しぶりに大河ドラマについて。

昨7日は、第40回「三国同盟」というタイトルだったが、個人的には、ガックン景虎の上洛のほうに興味があった。

景虎が上洛したのは、第1次川中島合戦があった天文22年(1553)秋で、景虎24歳のときである。

ドラマで景虎が後奈良天皇に拝謁した場面。景虎が清涼殿らしき場所に昇殿して、御簾の向こうの天皇と対座していた。
しかし、この設定には違和感があった。

景虎は従五位下・弾正少弼。せいぜい諸大夫程度の官位であり、昇殿できる堂上公家ではない。だから、この設定はおかしい。

のちに信長がはじめて参内したとき、弾正忠の僭称で無位無官だった。正親町天皇が小御所の庭で信長を謁見し、天盃を授けている。もっとも、天盃がなかなか出てこなかったので、しびれを切らした信長が辞去してしまうという一幕もあった。
このように、天皇が堂上ではない地下人(じげにん)と対面するときには昇殿という方法をとらない。景虎も同様だろう。

なお、このとき天皇は天盃のほか、御剣も与えた。それは「無銘豊後瓜実御剣」で、現在も上杉家に伝来している。

もうひとつ、勅使とおぼしき広橋大納言(字幕をよく見ていなかったが、兼秀だったか)が景虎に、いわゆる治罰綸旨を与えていた。
この場面も微妙である。この綸旨は上洛したときに与えられたものではない可能性がある。
綸旨の原本は残っておらず、『上杉家御年譜』一にその写しがある。それによれば、日付は4月12日。景虎が上洛する半年も前である。この日付が正しければ、あの場面はおかしい。

この日付どおりだとすれば、第1次川中島合戦の前にあたるわけで、景虎の信州侵攻は村上義清の救援というだけでなく、治罰綸旨に基づく征伐という名分もあったのかもしれない。
ちなみに、綸旨には「任国並隣国の敵心を挟む輩を治罰さるる所也」と書かれている。「任国」って越後のことなんだろうか?

余談ながら、景虎の上洛の下準備をしたのは、家臣の神余親綱である。もっとも、将軍義輝は三好長慶のために近江に退転していたから、対面を設定できず、次善の策として後奈良天皇との対面になった。
親綱が頼りにしたのは、大覚寺門跡義俊である。義俊は関白近衛稙家の弟。のちに稙家の嫡男前嗣(のち前久)が現任の関白のまま越後に下向するのは、このときの近衛家との縁もひとつの要因だろう。

 
外出したついでに、表題の書店に立ち寄る。

世事に疎く、いつ出来たのか知らない。おそらく最近だと思うが、電車の広告で初めて知った。池袋店より大きいという惹句に惹かれて行ってみた。

驚いた。場所が何と、紀伊國屋書店の真ん前である。
こりゃ、禁断の掟破りかと思った。業界内にもはやタブーや遠慮はないらしい。まさか紀伊國屋書店が後発大型店からターゲットにされる時代が来るとは思わなかった。

見て回ったのは人文系だけだったが、背の高い書棚がずらっと並んでいる。壮観の一言である。
客に媚びない姿勢がよい。読みたい本は自分で探せという展示法が潔くてよい。もっとも、客も冷やかしなら別だが、それなりの覚悟と見識、そして財布が求められるだろうなと思った。
買うつもりはなかったが、ついつい3冊買ってしまった(笑)。

紀伊國屋書店と展示方法が違うし、おそらく客層も違うのではないだろうか。いや、今後は紀伊國屋書店のほうが差別化のために、もっと変わらざるをえなくなるかもと思った。

それにしても、世の移ろいは激しい。絶対はないなと思う。
紀伊國屋書店新宿店といえば老舗中の老舗。大阪の梅田店と並んで、なぜか昔から拙著を厚遇してくれた。長〜く長〜く平積みしてくれていた。もしかして拙著を贔屓にしてくれる店員がいるのではないかと思ったくらいだ。だから、個人的にも、紀伊國屋書店にはもっともっと頑張ってほしいのだ。
 
玉里邸

島津久光が晩年住んだ玉里邸の庭園

南日本新聞サイト本日付の記事。
詳しくはここです。

重富島津家(越前島津家)は島津一門家(四家)のひとつ。
徳川御三家に相当する。
島津久光が一時期、養子入りして当主(当時、忠教)になったことがある。

久光の2代前の当主忠貫の時代、文化年間(19世紀初め)の奥祐筆の日記が、鹿児島大学附属図書館の玉里文庫から見つかった。久光所蔵の書籍の裏打ち紙になっていたという。

玉里文庫は久光の玉里邸にあった文庫のこと。貴重な古文書や古典籍を所蔵していた。『玉里島津家史料』全10巻でも有名。現在は鹿児島大学の所管。

さっそく、重富島津家の現当主晴久氏に電話したら、まだご存じなかったので、記事を送る。
晴久氏によれば、重富島津家の奥向きがわかる史料は皆無だったので、貴重ではないかとのコメントあり。近いうちに帰鹿したら見てきたいとのこと。

 
ジメサア1

南日本新聞連載「さつま人国誌」第27回
―歴史の敗者の心情投影―

連載コラムが更新されました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

拙コラムも何とか折り返し点まで到達しました。これから来年3月まで後半戦です。

今回は、昨日がジメサアこと、亀寿(島津義久三女、同家久夫人)の命日だったので、この話題を書きました。
ジメサアの伝承の裏側にあるものを史実から拾い上げてみました。伝承がおそらく史実からデフォルメされた形で形成されたのではないかと思っております。

なお、写真はジメサアの写真を使うつもりだったのですが、他の紙面で恒例のお色直し写真が掲載されるらしく、記事ではそちらに譲りました。
ご覧になれない方のために、2年前の写真ですが、掲載しておきます。

次回から京都の即宗院のことを3回連載くらいで書こうと思っているのですが、今月下旬の妙円寺詣り関連も書こうと思っていて、バッティングしているため、スケジュールが調整できていません。
 
黒田清隆1
黒田清隆2

表題の研究会の案内と入会申込書が送られてきた。

黒田清隆の子孫である黒田清揚氏が代表をつとめている。
以前、何かの宴席でご一緒したことがあった。たしか、榎本武揚の子孫、隆允氏と親戚だったと思う。箱館戦争の縁が現代も続いていると思っていた。

いただいたパンフによれば、「黒田清隆国際教育財団」を創設し、奨学金を拡充させて真の国際人育成を第一の目標にするとか。

ご参考までに、パンフを紹介しておきます(写真参照)。
 
京王文化セミナー

講演「天璋院篤姫」

もう来年の大河ドラマの関連企画が着々と進行しています。
年内にそのひとつが開催されます。

来る12月13日(木)10:00〜12:00に東京新宿・京王プラザホテルにおいて、重富島津家当主の島津晴久氏とともに、お話をすることになりました。
詳しい要領については、上記写真をクリックしてご覧下さい。

平日午前中のうえ有料で心苦しいのですが、関心があって都合のつく方はご検討下さいませ。
往復ハガキ1枚で2名まで申し込めます。京王線沿線に配布しているせいか、すぐ定員一杯になるそうで、その場合、抽選になるとのこと。申し込まれてはずれたら、ごめんなさい。

 
昨日で10万アクセスになりました。
ご覧いただいたみなさんに御礼申し上げます。

昨年11月13日から立ち上げましたので、平均して1カ月でおよそ1万アクセスしていただいたことになります。

仕事の都合で更新できない状態がつづくこともありますが、なるべく更新を心がけたいと思います。
今後ともよろしくお願いします。
 
山岡鉄舟

昨夜、恒例の「薩摩の会」に出席。

加治木島津家の当主、島津義秀氏の上京に合わせて設定されたもの。
神楽坂の日本出版クラブ会館が会場。

今回のサプライズは東京で永年、薩摩琵琶を弾奏されている須田誠舟氏。薩摩琵琶の名手として知られている方。西郷隆盛の命日に近かったので、「城山」を弾かれた。もちろん男性だったが、バチ捌きが非常に妖艶な方だった。
来年の大河「篤姫」では、小松帯刀を演じる瑛太が薩摩琵琶を弾くシーンがあるとかで、その指導をしているという話があった。
小松が薩摩琵琶かあ。何かの逸話や伝承があるのだろうか? 

ほかにも、書籍・映画・TVなどのイベント企画がたくさんあった。
山岡鉄舟の菩提寺である谷中・全生庵の平井住職も参加されていた。
山岡鉄舟といえば、江戸無血開城の立て役者の一人である。薩摩の西郷隆盛・益満休之助との関係は有名だ。
平井住職が最近表題の本を編まれたそうで、会場で販売されていたので購入。
詳しくはここ

興味深いのは、5カ所掲載されている「鐵舟アーカイブズ」。要するに、鉄舟の史料が収録されている。
とくに「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」が面白いだろう。よく知られている駿府での西郷との交渉のいきさつが詳しく書かれている。
そのなかで少し気になったのは、西郷のそば近くに中村半次郎(のち桐野利秋)とともに村田新八がいたこと。
最近、村田は戊辰戦争に出征していない(王政復古の直後、会津藩士と斬り合って負傷のため)との説を聞いていたが、鉄舟の筆記には村田が登場する。西郷のそば近くにいるだけで、戦闘には参加しなかったということだろうか。

それで思い出したが、三田の薩摩藩邸で西郷と勝海舟会談が開かれたとき、隣の間に控えていたのも、中村と村田だったと書いた史料を見たことがあった。村田が東征に加わっていた可能性は高いかもしれない。

会の終了後、来年の「篤姫」関連企画のうち、鹿児島・京都・江戸の探訪ツアーの打ち合わせ。来年5月以降の企画だが、急がないと間に合わないそうだ。あわただしくツアー名のコピー案などを決める。
鹿児島が3泊4日、京都が2泊3日、江戸(東京)が日帰りである。
どうやら、全部ガイド役をやらないといけないらしい。大変だ。
 
最近、表題のものを購入した。
古書は買っても、古文書は原則として買わない主義だったが、西郷文書であること、おそらく新出文書であること、本文が30行近くあるのでそれなりの内容があるだろうこと、そして何より西郷文書にしてはリーズナブルな値段だったことから、買ってしまった。
まさに「病膏肓に入る」である(爆)。

宛所は、大山格之助である。
大山の名乗りは、主に茶坊主時代の正円、文久〜慶応年間の格之助、明治以降の綱良と変化する。
大山は同じ精忠組ながら、久光側近だったため、西郷との関係は比較的疎遠である。『西郷隆盛全集』を見ても、安政年間の正円宛てと西南戦争前から戦争中の綱良宛ての書簡はあっても、格之助宛ての書簡はおそらくこれ以外にないのではないかと思う。

現物は巻子仕立てになっていたが、だいぶ傷んでいる。安かった理由がわかった。2行かすれていてほとんど読み取れない個所がある。図録の小さな写真だけでは判断できなかった。

さて、年次や内容がどうなのか、これから検討したいが、何せ、西郷独特のくせ字なので、まず慣れるのに大変そうだ。