膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
本日、霞会館に出かける。

重富島津家の当主晴久氏からのお誘い。
私の郷里の先輩で、私に会いたいという方を紹介して下さる。
南日本新聞の連載で薩州島津家のことを書いたのを目に止めていただいたらしい。

霞会館は改装されて、雰囲気が変わっていた。
フロントの位置なども変わっており、少し戸惑う。

薩州家や島津本家の話などで、時間の経つのも忘れるくらい話し込む。
薩州島津家について、郷里の方からいろいろな話を教えてもらう。
史料と伝承のはざまにある逸話で、果たしてどこまで確かめられるか。
垂水島津家の家譜があるらしいとも聞く。ぜひ見たいものだ。

興味深かったのは、薩州島津家の6代義虎の叔父とされる島津忠兼の墓(出水市龍光寺墓地)が「イボの神様」として信仰されている件。
『出水の歴史と物語』によれば、忠兼は義虎にだまし討ちされて非業の最期を遂げたことになっている。
しかし、薩州家の系図には義虎の叔父(6代実久の弟)に該当者がいない。それはともあれ、非業の死を遂げたとされるようなことはあったのかもしれない。

そして、興味深いのはそれが「イボの神様」に転化している現象。そこからひとつの連想が働いた。

太守義久の家督を家久と争った垂水島津家の忠仍の子で、新城島津家の久章は島津本家の系図を持ち出して出奔し高野山にこもるが、家久側に発見されて、谷山(現・鹿児島市下福元町)の清泉寺に幽閉され、乱心を理由に殺害された。これにより、義久系統の男子は途絶えた。

この久章の墓が江戸時代以降、疱瘡の神様として祀られているのである。
島津忠兼といい、島津久章といい、非業の死を遂げたことと、その後、病気を治す神様に転化している共通点は単なる偶然ではないのではないか。

そのような話を、民俗学に造詣の深い晴久氏にしたら、盛んに頷かれて同意された。

たとえば、菅原道真・崇徳上皇・早良親王などのような、一種の祟り神信仰というか、御霊信仰に近いのではないだろうか。


それはともあれ、さすがに霞会館だと思ったのは、いろいろな有名人の子孫がおられることだ。
とくに晴久氏にお二人をご紹介していただき、感激した。

一人は松平春嶽のご子孫。
現在、福井市郷土歴史博物館の名誉館長をされている。春嶽と養嗣子茂昭の往復書簡を収めた『松平春嶽未公刊書簡集』について、少しお話しできた。

もう一人は、『兼見卿記』で有名な吉田兼見のご子孫。
何というか、いま『兼見卿記』の未公刊分の日記の輪読会をやっているだけに感無量だった。今度、拙著を送る約束をさせてもらう。

というわけで、意外な出会いがあった一日だった。