雨の中、久しぶりにW大学大学院のK保ゼミに参加。
後期になって3回目だが、私は今回が初めて。過去2回は仕事の都合で行けなかった。
戦国島津氏の基本史料である『上井覚兼日記』をテキストにしている。
相変わらず天正2年である。
これまで同様、川上久隅の藺牟田地頭を辞める辞めないの綱引きがつづき、一方で、島津忠長と平田宗張の贓物をめぐる訴訟沙汰も解決していない。
大名「公儀」としての島津義久の裁定に、みななかなか従おうとしない。家中の一揆構造がなお強固な印象だ。義久は生涯、家中の揉め事に悩まされたつづけたように思える。
私から少し質問したのが、「御老中」と「寄合中」の違いについて。
ほぼ同義ではないかとされていたが、やはり使い分けてある以上、意味が違うのではないかと思った。
他のメンバーやK保先生からも、事例をもう少し集めるべきだが、どうやら構成員が違う。老中に覚兼など奏者(御使衆)を加えたのが「寄合中」ではないかという意見あり。
この方面の先行研究である福島金治氏『戦国大名島津氏の領国形成』(吉川弘文館)にも「寄合中」についての分析はとくにないように思う。
もし「寄合中」が老中に奏者を加えた構成員なら、島津氏の意思決定過程における位置づけがそれなりに必要かもしれない。
とくに奏者の役割が問題になるだろう。奏者はたとえば、訴訟沙汰で当事者たちの意見を聴取して、それを老中に報告したり、あるいは老中の評定結果を大名の義久に報告し、その下知を仰いで、さらに老中に伝達したりする。
とくに義久と老中の間に介して、その意思疎通を円滑にする役割はありそうだ。あるいは、義久に直属していることで、大名当主による老中への規制・監視の役割も想定すべきなのか。
いろいろ検討することが多そうである。
あと興味深かったのが、「御小人弥三郎殿」という人物。
報告でも誰だかよくわからない。ほかに登場しないとのこと。
おそらく義久の小姓ではないか、義久が就寝中か何かの都合で、覚兼ら奏者が対面できなかったので、弥三郎が取り次いだということではないかと意見を述べてみた。
K保先生から、弥三郎が義久の意図を忖度するなど、ある程度力を持っていた可能性もあるとの指摘に、なるほどと思った。
それと、ちょっと疑問を呈するだけの勇気がなかったが、報告レジュメのなかで、「小人」の意味が日国から挙げられており、そのなかに「男色の相手の少年」というのがあった。じつはこれではないかと思っていたが、勇気がなくて、あえて指摘できなかった(爆)。
これが「源三郎殿」だったら、明らかに川上久朗だったのにと思ったのだが、「弥三郎殿」が誰だか、すぐ思い浮かばない。
武田信玄と春日源助の例を持ち出すまでもなく、義久の場合もそのようなことを想定してもおかしくないのではと思ったが……。