膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第30回
―「人斬り」新兵衛も眠る―

拙コラムが更新されました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回は田中新兵衛について書きました。
文久年間の「人斬り」として有名な人です。

新兵衛は身分が町人出身とか郷士とかいわれますが、正確には「私領士」(門閥家臣の家来)だと思います。
藩当局の布達が「島津織部家来」と書いているので間違いないでしょう。

新兵衛の足跡については、不明な点があります。
まず、文久2年(1862)の島津久光の率兵上京に同行したのかどうか。
同行したとすれば、島津織部に従ってのものでしょう。
一方、別に上京して森山新蔵の世話になったという説もあります。
しかし、『官武通紀』所収の「風説書」には、新兵衛を「去年関東へ之勅使大原卿へ付来候薩人之由」としており、新兵衛は前年に江戸下向した久光主従のなかにいた可能性もあります。

今回、私が注目したのは、薩摩藩が自害した新兵衛をどのように扱ったかという点です。新兵衛が関与したとされる朔平門外の姉小路公知暗殺事件により、薩摩藩は大きな政治的打撃を蒙りました。そこまで追い込まれた原因は新兵衛の自害にほかなりません。

にもかかわらず、薩摩藩は新兵衛を罪人扱いしておりません。
薩摩藩の公式菩提所である即宗院に葬っていることが何よりの証拠です。
あるいは、罪人として処遇すれば、暗殺が薩摩藩の密命によるものだと認めてしまうことになるので、そうできなかったのでしょうか。いろいろ憶測は出来そうです。

一方、時期を前後する寺田屋事件では、鎮撫方として闘死した道島五郎兵衛は即宗院に葬られましたが、有馬新七など上意討ちされた側は即宗院ではなく、伏見大黒寺にひそかに葬られています。
道島と有馬などとでは、明らかに薩摩藩の扱いが異なります。有馬らが即宗院に葬られなかったのは、藩命に従わなかったために「反逆」とされたからでしょう。

同じ京都で亡くなっても、即宗院に葬られるか否かで、その死に処遇の差が生じ、死の意味も異なったのです。その点が書きたいことでした。

次回は、新兵衛と対照的に即宗院に葬られなかった有馬新七とその父四郎兵衛正直のことを書きたいと思います。