膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
みなさまへ

本日、私のブログが突然、凍結解除となり再開されました。
この間、2回にわたり、問い合わせのメールを送りましたが、梨のつぶてでした。

なお、解除されたあと、運営者から次のようなメールが送られてきました。
明らかに運営者側のミスです。
ミスだけならともかく、この間、以下のような告知を垂れ流され続けました。

>規約上の違反があった
>多数のユーザーに迷惑をかける行為を行った。

これがいかに私の名誉を侵害する一方的なひどい処置であるかは明らかですし、しかも2週間にわたって晒されました。運営者側のやり方には大いに問題があると思います。

私は当然ながら、自分の名誉を回復する権利がありますので、運営者側のメールを公開することによって、雪冤したいと思います。なお、担当者の名前は伏せました。

この間、多くの方々から問い合わせやお気遣い、励ましのメールなどをいただきました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
桐野 様

FC2ユーザサポート○○と申します。
いつもFC2ブログをご利用頂きありがとうございます。

この度は、大変申し訳ございませんでした。
改めて確認をしなおしましたところ、お客様のブログが
誤って凍結されていたことが判明し、解除いたしました。

お問い合わせも頂いておりましたのに、
返答のお返しと解除を行うことが遅れてしまいまして
大変申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。

今後、このようなミスが無い様、一同気を引き締めてまいります。
この度は、多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。

今後ともFC2をよろしくお願い致します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第33回
―神出鬼没の諜報活動も―

私のコラムが更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすれば、ご覧になれます。

今回は桐野利秋の2回目ですが、幕末期における桐野の軌跡を少し追ってみました。
ふつうの藩士とは明らかに異なる動きをしています。はっきりいって、気ままで自由です。これは役目柄なのかどうかわかりません。小松・西郷など在京重役たちの暗黙の了解ということなんでしょうかね。桐野のことがよくわからない理由のひとつです。

あと、当時の桐野の考え方や立場が長州系の尊攘派に近いのではないかと推定してみました。もしそうだとすると、寺田屋事件などもあるように、薩摩藩士としてはなかなか進退が難しい場面もあったかもしれません。とくに文久2年に久光の率兵上京に同行しているとすれば、有馬新七たちに加担する機会はなかったかどうか気になるとことではあります。

次回は、桐野の「人斬り」伝説について書いてみたいと思います。
 
新暦と旧暦の違いはあるが、昨日は坂本龍馬・中岡慎太郎の140回目の祥月命日だった。
そのせいだろうか、こんなネット企画を見つけた。ここです。

右側に「坂本龍馬を暗殺したのは誰だと思いますか?」という投票コーナーがある。その結果だけをのぞいてみたところ、

京都見廻組隊士 39%

薩摩藩士 32%


が群を抜いて多かった。

この現状を何と見るか。
近江屋事件への理解はこの程度なのだろうか。所詮、歴史と伝奇は別物と割り切ってもいいのかもしれないが、何ともやるせない結果だといわざるをえない。

常識的に考えても、見廻組の誰がやったかはすぐ具体名が上がるだろう。何よりその隊士の一人、今井信郎が自らやったと告白しているではないか。そしてその証言や記録はおおかた信頼できると、多くの研究者が指摘している。

では、薩摩藩士は誰なのか、ぜひ具体名をあげてほしいものだ。
中村半次郎だとでもいうのだろうか。
彼の『京在日記』を見てほしい。近江屋事件当日、中村は藩邸の長屋に午後8時頃に帰宅している(事件は午後10時頃)。また龍馬周辺の人物ともとても仲良しだ。

あるいは、西郷・大久保が命令したというのか。
西郷は近江屋事件当日、まだ西国の海上にいる。大久保は当日入京したばかりだったが、事件を知ると、土佐藩の真相究明に積極的に協力しつつ、坂本・中岡が暗殺されたことに義憤を表明し、(新選組が下手人だと信じていたので)近藤勇はその暴虐ゆえに自滅するだろうとまで言い切っている。

吉井幸輔に至っては、近江屋は無防備で危ないから薩摩藩邸に避難するよう、龍馬に忠告までしている。

このような史実や史料の全体を概観してみて、果たしてどこから薩摩藩士説が出てくるのか、私にはとても信じられない。

おそらく、史実を無視した某大河ドラマあたりからこの傾向は強まったと思っているが、まったく困ったものだ。

泉下の坂本・中岡の両人こそ、我々の国事周旋が果たして何のためだったか、まったく理解してもらえていないと、一番困惑し嘆いているのではないか。
 
室町・戦国期研究

リンク先の雑記@史華堂さんのブログで紹介されていた新刊
入手に少し手間取った。

編者である中世後期研究会というのはよく知らないが、若手の研究者の集まりだろうか。

13本の論文が収録されている。執筆者はいずれも若手。ほとんどが70年代生まれの人ばかりで、なかには80年代生まれの人もいる。

すべてを読んだわけではないが、とりあえず、問題関心が近いところからと、

平出真宣「戦国期政治権力論の展開と課題」

を一読。
戦国大名論についての先行研究をじつに手際よくまとめてある。
論点や課題が奈辺にあるのか、よくわかった。
研究がじつに多様性をもっていることを確認。
戦国大名を近世とつながる権力と評価する一方、それを相対化すべきだという見解も少なくない。また村落との対峙という近年重視されている課題、戦国大名がどこに基盤を置いているか、検地論の再検討を通じて最新の成果や問題点もよく浮き彫りになっている。
とくに織豊権力との段階差については、個人的に興味あるところで、大変勉強になった。

一口に戦国大名論といっても、1世紀ほどの長い時間があり、それをひとからげに論じられないというのもよくわかった。
とくに16世紀中葉に、ひとつの画期を認めるべきで、それ以降は戦国大名同士の全国統一戦争の時代に入るという指摘はそのとおりだろうと思った。

ほかにも、織豊期について、

尾下成敏「織田・豊臣政権下の地域支配―「一職支配」論の現在―」

という興味深い論文もある。
「一職支配」については、個人的に興味をもっていたテーマである。
先日、谷口克広氏とお会いしたときも、このテーマを詳しくうかがったほど。
これから読んでみたい。

 
東京で本日発売の週刊朝日11/23号。ここです。
表紙が柴本幸さん。大河ドラマのきつい感じの由布姫とは打ってかわって柔らかい表情です。

で、「週刊司馬遼太郎」の「翔ぶが如く」編の第3回。
不肖、小生も登場しています。
が、恥ずかしい。写真が……。

それよりも、記事中にある川内高城温泉の西郷のマネキン写真は強烈ですね。編集スタッフもそう感じられたらしく、1頁大で強調してあります。この迫力には負けそうです。

ほかにも、坂本龍馬の身長が通説よりも低かったという記事あり。
ただ、鵜呑みにするのはどうか。
念のため付け加えれば、徳富蘇峰・蘆花兄弟の父で龍馬を実見した徳富一敬も、龍馬のことを「色の黒い大男」だと証言しています。
 
先日の上方出張の主な目的はここの博物館に寄託されている『信長記』関係の史料を調査することだった。
着いてみると、じつに近未来的な建築物で、博物館のイメージとあまりに異なっていたからびっくり。噂には聞いていたが、すごい。

ある調査プロジェクトで、私は協力者として末席にいるだけだが、それでも、実地の史料調査は学ぶべき点が多い。
年齢は私より下でも、キャリアははるかに上の研究者たちの動きを見ているだけで面白いもの。

着いてみると、作業室に学芸員のO澤さんがすべて手際よくお膳立てして下さっていた。
『信長記』の筆者太田牛一の子孫の家に伝来する史料群である。『信長記』は15巻本だが、天正10年分の最終巻だけが欠落していたのが残念。いろいろなチェックポイントを調べてみる。

とくに興味深かったのは、太田牛一自筆の『猪熊物語』を実見できたこと。近世初期の宮廷スキャンダルとして知られる猪熊事件を叙述したもの。
成立時期が池田家本『信長記』と同じ年で、当たり前だが、同本と同じ筆跡をじかに見て感動した。

足かけ2日間かけて、所定の調査・撮影などを終了した。
いろいろご手配いただいたO澤さん、寝屋川市教育委員会のO崎さんに感謝である。

大阪歴博

調査風景

初日の夜は、友人でリンク先でもある橋場殿下夫妻とも合流して、宿泊先近くの店で宴席と相成る。お二人には久しぶりにお会いした。

2日目の調査終了後、せっかくなので、同館で開催中の「風林火山」展を見学した。たしか、山梨県立博物館を皮切りに全国を回っている展示会だと思う。

山本勘助の実在を証明したとされる「山本菅助」と書かれた武田晴信書状を初めて見た(「市河文書」)。

面白かったのは、紀州本の「川中島合戦図屏風」。信玄と謙信が川の中で一騎打ちしている変わった図柄のものである。
右隻だったか、下面に林の中から戦場を望見している僧侶とその従者がおり、説明に「天海」とあったので、屏風をよく見ると、「南光坊天海」と書いてあるではないか。
なぜ、天海が川中島合戦を見学しているのだろうか?
天海の没年は寛永20年(1643)。第4次川中島合戦は永禄4年(1561)だから、じつに80年以上前になる。天海が100歳を超している長寿なら、20代ということになるが、にわかには信じがたい。
不勉強でよく知らないが、なぜこの屏風に天海がいるのか、どなたか明らかにしているのだろうか?
越後流軍学と天海に何らかのつながりがあるのか?

ショップで、上杉家関係の史料をいくつか購入したが、またやってしまった。二度買いである。しかも、決して安くないもの。
『国宝 上杉家文書 図説』(泣)

 
永徳展行列

行列の最後尾から。正面に館入口が見えるが、行列は館右手裏まで延々続いている。

先日の上方出張の報告。
2泊3日の旅。メインは2日間の大阪での史料調査。

その前に京都に立ち寄り、京都国立博物館で狩野永徳展を見学。
昼前に着いたが、すでに長蛇の列。入口の案内板に待ち時間130分とあるのを見たときには驚愕した。土日ならともかく、平日なのにこれである。いやはや凄まじい人気だというしかない。
しかも、11月とは思えない暑い日差し。館側で用意してくれていた黄色の日傘の数が足りず、そのまま待ち続けるが、頭がクラクラしてきた。
館の入場口はすぐそこに見えるから、大したことないじゃないかと思ったが、じつは右手から館の裏側までヘビのようにくねった行列が続いていることがあとでわかった。
並んでいるときに救急車が2回も来て、体調の悪くなった人を搬送する光景まで目撃。

結局、90分待ちで入館できたので、少し得した気分になったのが不思議だ。
私が並んだときが最盛期だったみたいで、その後、行列はだいぶ短くなっていた。
もしこれから出かけられる方は、朝早く行かれることをお勧めします。また京博のサイトで待ち時間案内もしています。

展示はまことに素晴らしいものだった。
ただ、事前の行列でやや疲れて目にも影響が出て、細部を鑑賞するのが少し辛かった。

上杉本「洛中洛外図屏風」は、会場のほぼ中央あたりの大きな部屋に単独展示。黒山の人だかりである。
写真ではおなじみだし、図録ももっているが、初めて本物を見た。
写真ではわからなかったことがある。
人物描写がじつに細かいこと。とくに人物の身体や衣裳・道具などの輪郭を少し太く線刻してあるため、人物がくっきりと浮かび上がっている。いまにも動き出しそうだし、語り出しそうといっても過言ではないくらい見事だった。
これを2000人以上も手抜きすることなく、書き込んであるのだからすごい。

隣には、昨年だったか新発見された「洛外名所遊楽図屏風」も初公開されていた。
じつは、この新聞記事を見たとき、永徳の作品とは少し作風が違うのではないかという印象があった。
あくまで素人目だが、間近で見てみて、人物の造形が上杉本とそっくりであることがわかった。このあたりが永徳筆と特定する決め手だったのだろうか。時期的にはこちらが上杉本より少し先行するらしい。将軍義輝が永徳に目をつけて、上杉謙信に贈る屏風絵を依頼したのもわかる気がする。

あとは、教科書にも載っている「唐獅子図屏風」。宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵しているもの。
噂に違わぬ大作で、見る者を圧倒する大迫力である。
屏風になっているが、もとは大坂城か聚楽第に飾られていた障壁画を切り取ったものではないかといわれている。
上杉本などの細密な風俗画との対照的な作風が、同一人物に同居しているのは、まさに天才の天才たる所以だろう。
永徳展パネル

館正面のパネル。

待ち時間が長かっただけに、それ以上の眼福を得た思いだった。

夜は、研究者中村武生氏や永年の友人であるK藤氏と宴を囲む。二次会は中村氏とスナック「R馬」に行き、A尾氏やお龍さんに再会。旧交を温める。

 
週刊朝日2

週刊朝日11/16号で、週刊司馬遼太郎の特集が「翔ぶが如く」に入り2回目になった。表紙が貫地谷しほりちゃんだ。

今回は大久保利通がメインである。西郷隆盛の体躯の大きさ、目の大きさはアーネスト・サトウの証言でもよく知られているが、じつは大久保利通も西郷とほぼ同じ身長で、目も迫力があったという冒頭のエピソードからなかなか読ませてくれる。
特集タイトル「西南の巨人たち」はこの2人の身体的特徴も含意されているに違いない。

本文に登場するのは、大久保甲東の曾孫、利泰氏。拙ブログでも何度かご紹介したことがある。
大久保没後100年で建立された大久保銅像の除幕式出席のため、初めて鹿児島に行かれたとき、緊張したという述懐がリアルである。
また銅像が傷つけられないように除幕式までぐるぐる巻にしてあったということは初めて知った。

ちなみに、銅像制作者は今年の文化勲章受章者である中村晋也氏である。

なお、次回(東京13日発売号)は小生も登場予定。
 
小学館古文書塾「てらこや」の特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」
第3回が6日(火)にあったが、少し報告が遅れた。

今回は禁門の変を取り上げ、長州、会津、一橋慶喜、親王・公家(長州系)、薩摩の諸勢力から見てみようという趣旨だった。

視点が複数あるだけに分量も多く、レジュメが11枚、カラーコピーの図版2枚という大部。
案の定、とても時間内に読み切れず、多くを端折らざるをえなかった。もう少し絞るべきだったかもしれない。

とくに読み損なったのが、中岡慎太郎の水野丹後・中村円太(五卿付)に宛てた書簡。あとで読みますといいながら、結局時間オーバーで読めなかった。
じつは意外に面白い書簡だと思っている。

中岡も長州藩に属する浪士隊の一員として従軍している。この書簡は禁門の変から1カ月ほど経ったと思われる時期に書かれたもので、敗戦の痛手からかなり冷静になり、また情報もいろいろ判明したうえで書いている。
長州藩の三家老には罪はないとしきりに弁護しているのは当然だとしても、興味深いのは、会津藩への憎悪が強烈に表現されていること。「薩賊会奸」と並び称された薩摩藩への非難がまったく書かれていない。

たとえば、「根元松平肥後守殿(容保)悪逆之次第、一朝一夕にてはこれなく」とか「天朝并幕府列藩へ肥後守殿悪逆之罪を鳴し、討伐之義公然申達候事と承り及び候」と書いている。
松平容保の悪逆を幕府や諸藩に訴えて討伐を呼びかけているのである。つまり、中岡は会津藩と幕府を別物と考えているわけだ。
また、一橋慶喜だけでなく、薩摩藩への非難が一切ないのも興味深い。

なぜなのか。
ひとつには、中岡ら浪士隊は伏見から北上して入京しようとし、それを塞いだのは大垣藩や会津藩、新選組などで、その方面に薩摩藩はいなかったことがあげられよう。
中岡ほどの人物だから、そうした直接的体験だけでもないだろう。ひとつはやはり、池田屋事件などに明らかなように、会津藩が京都守護職として長州系への強圧姿勢を強めていたことへの反発が一番大きかっただろう。その点では薩摩藩とは利害の対立がない。

会津藩も薩摩藩については開戦前は傍観しているだけだと批判しているし、一方の西郷も今度の一件は「長・会の私闘」と断じているように、当事者意識に濃淡があり、あくまで長州VS会津というのが、禁門の変の基本構図だったということだろう。

この中岡書簡を検討できなかったことは、返す返すも残念である。

なお、次回は前シリーズから要望のあった官位や家格の問題を取り上げるつもりである。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第32回
―先祖の名誉回復期する―

いつもの連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回からしばらく、桐野利秋を書くことにしました。
名字が一緒ということもあり、以前から注目していた人物でした。せっかく地元紙に書く機会を与えられたので、思うところを書いてみるつもりです。

今回は、桐野の改姓・改名事情について書きました。
意外と知られてないのではないかと思ったからです。
桐野利秋の文書も数は多くありませんが、おそらく数十点はあるのではないかと思います。また桐野のことを書いた薩摩藩士などの文書を併せて、いつから桐野名字が始まるのか年次を検討してみました。

桐野文書を調べてみると、意外にも一番多く所蔵しているのが大久保利通家で、9点あります。いずれも中村半次郎時代です。
ほかにも、近年、鹿児島の黎明館が西南戦争中かその直前の桐野文書を2,3点購入しているとも聞きます。
桐野文書の全貌が明らかになれば、もう少し実像がわかるかもしれません。

次回は幕末期の桐野について書く予定です。


 
しばらく上方に行きます。
その間、更新できません。
コメントをいただいても不義理しますが、悪しからず。
 
週刊朝日
少しご紹介が遅れたが、先月29日からの週発売の「週刊朝日」11月9日号。
表紙は韓流女優のチェ・ジウさんです。詳しくはここ

週刊司馬遼太郎」という司馬作品の舞台を改めて紀行するという企画が、いよいよ『翔ぶが如く』の巻になりました。

初回の鹿児島取材は圧巻です。
文章も薩摩気質をよく拾い上げたものですし、「銅像王国」(勝手な造語です)鹿児島のせいか、銅像をたくさん集めてコラージュっぽくまとめた見開き頁など迫力満点です。
地元の研究者松尾千歳氏(尚古集成館副館長)も登場し、まことに面白いエピソードを語っています。松尾氏は福岡県ご出身ですが、同じ九州でも、鹿児島とのカルチュラルショックに困惑されたこともあった様子がうかがえて興味深かったです。

最後に大河ドラマ「翔ぶが如く」の脚本家、小山内美江子氏のインタビューが載っています。彼女も母上が鹿児島ご出身だったとは知りませんでした。司馬さんとの面白いやりとりを回想されています。

この連載はおそらく6回程度続くのではないかと思います。
私も登場するかもしれず、よろしかったらご覧下さい。

DVD翔ぶが如く
翔ぶが如く2


なお、関連ニュースですが、かつてのNHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の完全収録版DVDの「第壱集」が発売されました。「第弐集」もクリスマス前に発売されるようです。詳しくはここここです。
総集編DVDでは飽き足らなかった方もこれでご満悦でしょう。ただ、値段が……。
 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第31回
―有馬新七 父そばに眠れず―

拙コラムが更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回は、寺田屋事件で闘死した有馬新七とその父正直のことについて書きました。正直は近衛忠熈夫人となった郁姫(島津斉宣の娘、同斉興の養女)の付き人として上京し、在京期間は十数年に及び、京都でなくなり、即宗院に葬られています。

しかし、伏見寺田屋で闘死した新七は「逆臣」とされたため、即宗院には葬られませんでした。

即宗院墓所を訪れたとき、正直の墓の横に、新七と一緒に串刺しになった道島五郎兵衛の墓があるのを、因縁だと感じました。
新七が即宗院に眠れなかったのは無念だったかもしれないという感慨が、今回の執筆動機となりました。


 
今晩、某出版社の方と新しい企画の打ち合わせ。
いろいろご馳走になりました。有難うございます。

企画は戦国島津もの。うまくいくかどうか、まだ五里霧中でわかりません。

新しい企画よりも既存の企画をちゃんとやれ、というお叱りの声があちこちから聞こえてきそうで(汗)。

はい。そちらもちゃんと考えております。

企画はむろんだが、雑談も楽しかった。とくに俳句の話が面白かった。
その方は俳句歴の長いベテランさん。句作をどうするか、どういうきっかけで作るのか、初心者向けにいろいろ教えてもらった。
そういえば、このブログ開設でいろいろお世話になった方も、俳句のブログをやってらした。
たまたま今日来た知り合いからの絵葉書も某放送局で俳句をやるのでよろしくという挨拶状だった。俳句をやっておられるとは知らなかった。しかも、ちゃんと俳号まであるとは……。

最近、散文的な文章ばかり書いている。もともと能力不足なのかもしれないが、少しは味わいのある文章が書けたらと思うことも度々。
俳句は、言葉のセンスを磨くのにいいかもしれないなと思う。
とくに「〜兵どもが夢の跡」ではないが、史跡見学をしたときなど、ちょっとした句作ができれば楽しいだろうなと思ったりする。

「歳時記」でも買おうかな。