歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
みなさまへ

本日、私のブログが突然、凍結解除となり再開されました。
この間、2回にわたり、問い合わせのメールを送りましたが、梨のつぶてでした。

なお、解除されたあと、運営者から次のようなメールが送られてきました。
明らかに運営者側のミスです。
ミスだけならともかく、この間、以下のような告知を垂れ流され続けました。

>規約上の違反があった
>多数のユーザーに迷惑をかける行為を行った。

これがいかに私の名誉を侵害する一方的なひどい処置であるかは明らかですし、しかも2週間にわたって晒されました。運営者側のやり方には大いに問題があると思います。

私は当然ながら、自分の名誉を回復する権利がありますので、運営者側のメールを公開することによって、雪冤したいと思います。なお、担当者の名前は伏せました。

この間、多くの方々から問い合わせやお気遣い、励ましのメールなどをいただきました。
この場を借りて、厚く御礼申し上げます。

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桐野 様

FC2ユーザサポート○○と申します。
いつもFC2ブログをご利用頂きありがとうございます。

この度は、大変申し訳ございませんでした。
改めて確認をしなおしましたところ、お客様のブログが
誤って凍結されていたことが判明し、解除いたしました。

お問い合わせも頂いておりましたのに、
返答のお返しと解除を行うことが遅れてしまいまして
大変申し訳ございませんでした。心よりお詫び申し上げます。

今後、このようなミスが無い様、一同気を引き締めてまいります。
この度は、多大なるご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございませんでした。

今後ともFC2をよろしくお願い致します。
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【2007/11/30 11:13】 | 未分類
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管理人のみ閲覧できます
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解凍おめでとうございます
ばんない
毎日アクセスしてチェックはしていたのですが、ようやく解凍されましたか。安心しました。

また、桐野さんの記事が読めるようになるのはうれしいです。別の場所に引っ越してもついていきますので(爆)よろしくおねがいします。

よかったです
秘剣
うっかりというには酷いミスでした。
ともかく凍結解除と名誉回復が達せられてよかったです。
桐野利秋のこと、勉強になります。
赤松を斬ったときの「検視」記録があり、切り口がまったく薬丸流の太刀筋と聞きました。抜き即斬の抜刀での初太刀かと思っていましたが右蜻蛉からの打ち込みだったのですね。

おめでとうございます
市川
桐野先生、凍結解除おめでとうございます。
毎回楽しみにブログを拝見していたので、今回の出来事は本当に驚きました。このようなことは珍しいことだと思いますが、これからも頑張ってください。

御礼
桐野作人
みなさま

お気遣い、有難うございます。
これからもよろしくお願いします。

>ばんないさん

そちらのブログでも掩護射撃していただき、有難うございました。
まず、しっかりバックアップをとっておき、他のブログへの移行も視野に入れておきたいと思います。今回の一番の教訓かもしれません。

>秘剣さん

桐野利秋の赤松小三郎斬撃のありさまは『京在日記』に具体的に書かれています。そんなことを日記に書く神経は理解不能ですが、逆にそのおかげで、桐野の太刀筋がわかるという副産物もありますね。
それによれば、桐野が赤松の前に立ちふさがって刀を抜いたら、赤松が短筒に手をかけたので、「左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる」云々と書いています。

ご指摘のように、居合いのような瞬時の動きではなく、いったん、抜刀して蜻蛉に構えてから袈裟懸けに斬ったということなんでしょうね。「打通」(打ち通す)というのは突きのようなイメージもありますが、文脈からは袈裟懸けと理解したほうがいいのでしょうね。

>市川さん

お言葉有難うございます。
これからもよろしく。


再開おめでとうございます!
織田 創
再び桐野先生のブログが読めるようになりうれしいです!
しかし、運営者の単純ミス&対応の遅さは非常に残念ですね。

『歴読』の連載もかかえ大変だと思いますが、あらためてブログの更新頑張ってください!『歴読』も含め楽しみにしています!



ぼっけもん新聞
再会、おめでとございます。
突然の停止が理解できず、毎日このブログの検索を行っていました。
これで、私の楽しい日課が復活です。
これからも楽しみにしています。

ご存知かもしれませんが、渋谷の「タバコと紙の博物館」にてアメリカ大使ハリスの企画展が行われているようです。
私は、来週出かけてみます。
また報告いたします。

再開おめでとうございます
Nezu
良かったですね
友人共々心配していました。
ここが削除なら…どんな基準なのか 嫌がらせなのかと
憤慨!

しばらく冒頭に『運営者』のメールを載せて名誉回復していてください!

でもまたお目にかかれて良かったわ。
めげずに頑張ってください。

再開おめでとうございます
岐阜少将
ご無沙汰しております。
ブログの記事や新刊、雑誌記事は随時拝見していましたが、気が付けば最後にこちらにコメントをさせていただいたのがだいぶ前に(汗)

ブログの閲覧が出来なくなっていたのにはとても驚きましたが、再開されて安心しました。
これからも桐野先生の記事を楽しみにしています。

有難うございます
桐野作人
織田創さん
ぼっけもん新聞さん
Nezuさん
岐阜少将さん

みなさん、お言葉有難うございます。
ご心配をおかけしました。
これからもよろしくお願いします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第33回
―神出鬼没の諜報活動も―

私のコラムが更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすれば、ご覧になれます。

今回は桐野利秋の2回目ですが、幕末期における桐野の軌跡を少し追ってみました。
ふつうの藩士とは明らかに異なる動きをしています。はっきりいって、気ままで自由です。これは役目柄なのかどうかわかりません。小松・西郷など在京重役たちの暗黙の了解ということなんでしょうかね。桐野のことがよくわからない理由のひとつです。

あと、当時の桐野の考え方や立場が長州系の尊攘派に近いのではないかと推定してみました。もしそうだとすると、寺田屋事件などもあるように、薩摩藩士としてはなかなか進退が難しい場面もあったかもしれません。とくに文久2年に久光の率兵上京に同行しているとすれば、有馬新七たちに加担する機会はなかったかどうか気になるとことではあります。

次回は、桐野の「人斬り」伝説について書いてみたいと思います。

【2007/11/17 11:35】 | さつま人国誌
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新暦と旧暦の違いはあるが、昨日は坂本龍馬・中岡慎太郎の140回目の祥月命日だった。
そのせいだろうか、こんなネット企画を見つけた。ここです。

右側に「坂本龍馬を暗殺したのは誰だと思いますか?」という投票コーナーがある。その結果だけをのぞいてみたところ、

京都見廻組隊士 39%

薩摩藩士 32%


が群を抜いて多かった。

この現状を何と見るか。
近江屋事件への理解はこの程度なのだろうか。所詮、歴史と伝奇は別物と割り切ってもいいのかもしれないが、何ともやるせない結果だといわざるをえない。

常識的に考えても、見廻組の誰がやったかはすぐ具体名が上がるだろう。何よりその隊士の一人、今井信郎が自らやったと告白しているではないか。そしてその証言や記録はおおかた信頼できると、多くの研究者が指摘している。

では、薩摩藩士は誰なのか、ぜひ具体名をあげてほしいものだ。
中村半次郎だとでもいうのだろうか。
彼の『京在日記』を見てほしい。近江屋事件当日、中村は藩邸の長屋に午後8時頃に帰宅している(事件は午後10時頃)。また龍馬周辺の人物ともとても仲良しだ。

あるいは、西郷・大久保が命令したというのか。
西郷は近江屋事件当日、まだ西国の海上にいる。大久保は当日入京したばかりだったが、事件を知ると、土佐藩の真相究明に積極的に協力しつつ、坂本・中岡が暗殺されたことに義憤を表明し、(新選組が下手人だと信じていたので)近藤勇はその暴虐ゆえに自滅するだろうとまで言い切っている。

吉井幸輔に至っては、近江屋は無防備で危ないから薩摩藩邸に避難するよう、龍馬に忠告までしている。

このような史実や史料の全体を概観してみて、果たしてどこから薩摩藩士説が出てくるのか、私にはとても信じられない。

おそらく、史実を無視した某大河ドラマあたりからこの傾向は強まったと思っているが、まったく困ったものだ。

泉下の坂本・中岡の両人こそ、我々の国事周旋が果たして何のためだったか、まったく理解してもらえていないと、一番困惑し嘆いているのではないか。

【2007/11/16 10:19】 | 幕末維新
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勉強になりました
市川
こんにちは。
龍馬暗殺事件はテレビなどでよく取り上げられる話題ですが、やはりそれほど謎が深いわけではないのですね。
今井信朗の証言は熊本鎮台の谷干城が反論したと聞きましたが、それは彼の独断偏見によるものだったのでしょうか。

薩摩藩士説でも、剣術の達人である龍馬を殺せるのは中村半次郎だけだとか、西郷が疎ましく思っていたとか……。私にとって、今回のブログは大変勉強になりました。

谷干城
桐野
市川さん、こんにちは。

谷干城は、近江屋事件当時、土佐藩の目付で、この事件の下手人探しの担当者でした。薩摩藩(大久保利通、中村半次郎)との協力で、薩摩藩の伏見藩邸で、高台寺党の生き残りを尋問し、新選組(とくに原田左之助)が犯人だという結論を下した人物です。

それは土佐藩の公式見解となり、それをもとに福岡藤次ら土佐藩重役が幕府の老中板倉勝静や若年寄格の永井尚志らに迫って、新選組が下手人だと認めさせています。

近藤勇が流山で処刑されたのも、近江屋事件の命令を下した罪が主であり、一種の土佐藩側の報復、敵討ちでした。

そのような形で近江屋事件を処理してきた土佐藩、とくにそれにもっとも貢献した谷干城ですから、新選組犯人説を否定した今井信郎証言に猛反発するのは当然です。自分が下した結論も、近藤勇を処刑したことも間違いだったということになるのですから。

細かい議論はともかく、自分の判断と土佐藩の公式見解を否定されたことが、谷干城の批判・反発の根底にあります。そのことを見誤ってはいけません。
要は、すでに決着済みのことを、今さら蒸し返すとは何事だという不快感が大きいのでしょうね。

その谷干城さえ、薩摩藩が犯人だと聞かされたら、バカいうなと一笑に付すでしょうけどね(笑)。


パルティアホースカラー
こんばんは。
私も自分のブログで何度も主張しておりますが、実行犯にせよ黒幕にせよ、龍馬殺害に薩摩藩士の関与はありえないという考えです。

思うに、龍馬暗殺前後の政局認識として、土佐や越前の公議政体派と武力討幕派の対立が決定的なものだったというイメージが一般的に強すぎるんでしょうね。そのイメージがまず先にあって、そこに肥後藩国事史料やら佐々木多門の書状やらが、都合のいい解釈で無批判に使われている気がします。

今井が言っていることの細かい矛盾点や不審な点を厳しく追及して薩摩藩士関与説を唱える人の多くが、肥後藩国事史料などの記述を無批判に信用して、その信憑性に疑問を抱いている人をあまり見かけませんし。今井の言っていることを疑うなら、薩摩藩士の関与を匂わせる史料の内容も疑うべきだと言いたいところです。

今井の助命に西郷が尽力したという今井家の家伝を利用して西郷の龍馬暗殺関与を疑う人も多いですが、それ以前に家伝の内容が真実を伝えているのか検証されて然るべきだと思いますが、それがなされないままに安易に信用されて都合よく使われている気がします。桐野さんも以前おっしゃられていましたが、家伝よりも一次史料を重視すべきだと思います。



龍馬は薩長の邪魔者にあらず
桐野
パルティア・ホースカラーさん、こんばんは。

筋道だったご意見有難うございます。
私も全く同意です。

武力討幕派と公議政体派の対立なるものを必要以上に強調することが、薩摩藩黒幕説の背景にある理論的根拠になっているわけですが、おおかたはそんな理屈よりも、3年ほど前の某大河ドラマをはじめ、近年のTV局が垂れ流している歴史バラエティがほとんど薩摩黒幕説を採用して面白おかしく描いていることによる刷り込みの影響がきわめて大きいのではないかと思っております。

そうした大量宣伝力の前には、所詮、蟷螂の斧かもしれませんが、言うべきことは言っていくべきだと思います。
パルティア・ホースカラーさんもブログで、この件を何度も強調されているのが心強い思いです。

ひとつ、私の方からもいえば、武力討幕派と公議政体派の対立なるもの、より具体的には西郷・大久保と後藤象次郎ら土佐藩の矛盾。これは対立というより食い違いといったほうが適切だと思います。
その矛盾のありようをどう斟酌するか、その想像力の欠如が問題だろうと思っています。

龍馬は土佐藩が遅れてきた後進藩であり、薩長のような先進的な藩でないことを十分承知しており、そのため、土佐藩を何とか薩長に伍していけるようにしたかったと思います。
でも、土佐藩ができうる最大の方策がせいぜい大政奉還建白までであり(徳川家に対して建藩の恩義があるから討幕の立場はとれない)、西郷・大久保に対しても、土佐藩はここまで頑張っている、でもこれが精一杯だ、何とか土佐藩の立場を理解してほしいという形の周旋をしていたと思います。

そして、西郷・大久保も龍馬の気持ちを了承し、土佐藩の立場と限界を斟酌したからこそ、それまでいろいろ食い違いはあったけれど、それを乗り越えて、土佐藩の大政奉還建白の提出に反対しませんでした。

龍馬は脱藩士でいまだ土佐藩の中に身の置き所がなかったけれど、自分の藩と郷里への深い愛情があり、そのためにこそ、大政奉還を後藤に働きかけたわけです。
西郷・大久保も龍馬の心中をわかっていたはずで、10月13日、龍馬が二条城に出かけていく後藤を死ぬ気で頑張ってこいと叱咤激励したのは有名ですが、そのとき、龍馬は後藤がこの建白に失策を犯せば、「小弟また薩長の督責を免れず」と語気を強めています。

この龍馬の真意を理解してあげるべきです。龍馬はもし後藤が失敗すれば、自分は薩長に対して顔向けできない、その責めを負わないといけないという論理で、後藤の尻を叩いているのです。
これは重要な言葉です。龍馬が薩長から、大政奉還建白への一定の賛意を調達したことの何よりの証です。

したがって、龍馬が薩長にとって邪魔者だったという説は、史料的根拠もない、的はずれな見方だといわざるをえません。

研究者も一般の歴史ファンとの歴史意識の乖離を埋めるための労を惜しむべきではないと思います。ぜひこの問題にも積極的に発言してもらいたいものです。

気になったこと二点
鏡川伊一郎
1、「事件は午後10時頃」と書かれていますが、そんな遅い時間ではないでしょう。桐野さんご自身、別の場所では「その時刻は幅はあるが、おおよそ戌の刻(午後8時頃)から半時(1時間)の間だと推定されている」(学研の歴史群像シリーズ「幕末群像」下巻「龍馬暗殺」)と記されていますが、今回はアリバイ成立のために意図的ですか(冗談)。事件はもっと早い時間、ほとんど宵の口、つまり「鳥新」が開店している時間に起きているはずです。(誤解のないように、私は中村半次郎が実行犯だとは思っていませんので、彼のアリバイなどどうでもいいほうです)
2、谷干城に関する誤解と偏見にみちた俗説にくみしておられるのは残念ですね。谷が今井信郎の実歴談(近畿評論)を批判したのは、記事が記者の潤色によってあまりにも事実と異なっていたからで当然のことであります。谷の講演内容は前半部分をカットした抄録史料が多いのですが、ぜひ前半部分を読まれるべきです。龍馬が「誰にやられたかということについては、未だ今に心にかけて詮議中である」と言っております。明治39年にですよ。「大学には歴史専門の諸君もたくさん御在りになさることでありますkら、どうか私が申上げる所を御参考となし下されて、事実の真相を御吟味になれば誠に大慶に存じます」とも言っております。この前半部分にはむしろ谷が微妙に土佐藩の動きに疑惑の目をむけている箇所があります。

御礼
桐野
鏡川伊一郎さん、どうも。

微細な点のご指摘有難うございます。

1,犯行時刻と中村半次郎

近江屋事件を網羅的に調べた菊地明氏によれば、犯行時刻は午後8時から同35分の間だと結論しています。いろいろ矛盾する史料を詳しく読み解いての結論でしょうから、比較的妥当だと思われます。

で、中村の帰邸時刻ですが、『京在日記』の近江屋事件当日の条には、次のようにあります。

「永山士同行、坂元彦右エ門旅宿日光屋迄越し、夜五ツ前帰邸」

「五ツ前帰邸」について。
ご承知のとおり、五ツは当時の時制では、午後8時前後を指します。しかも、「~前」と書いていますから、中村の帰邸時刻は午後7時台であることは間違いありません。
菊地氏の出した結論と照らし合わせて、中村の犯行が時間的・物理的に成立しないことは明らかです。

あまりそれ以上の指摘をされないのですが、中村の日記は別の情報も伝えています。中村は当日、単独行動をしていません。「永山士」(永山弥一郎だと思われる)と一緒に、友人の坂元彦右衛門宅を訪ねて歓談してから帰っているわけで、当日の行動を偽装できようはずもありません。

いずれにせよ、些細な勘違いはありましたが、前回書いたことは私の意見の趣旨を変えるほどの間違いではありませんので、悪しからず。

2,谷干城の真意

これについても同様ですね。
今井信郎の証言には矛盾したり背馳したりする部分があるのは慥かでしょう。それは長い時間の経過による記憶違い(私なんかご指摘のように数年前のことも忘れていますから)だけでなく、自己保身や韜晦、さらには自己顕示欲も混じっているからでして。
だからといって、その証言の主要部分まで否定し去ることはできないと思います。

谷干城は、今井証言の矛盾を突くことで、今井の卑劣な功名心だと非難し、自説の正当性を主張したいのが本意でしょう。
谷が自説に固執していることは随所にうかがえます。たとえば現場に落ちていた鞘を原田左之助のものだというくだりで、

「斯う云ふことに私共に一斉に極めて居る」
「紀州人が新選組を唆かして新選組の者が斬りにきた。鞘は全く原田左之助の鞘と、斯う云ふことになって居る」

と、何度も同じことを一方的に決めつけて強調していることでも明らかでしょう。この部分は、今井証言への反駁のための生命線ですから、谷も譲れないはずですからね。

ご指摘のような部分は、谷の講演の場が龍馬・慎太郎の40年忌だったため、さまざまな聴衆に自説の押しつけにならないように気をつかって、付けたり的に加えただけで、いわば、刺身のつまでしょう。
むしろ、今井証言の出現で、谷が自説の堅持に動揺的になっているとさえ見えないこともないです。


おはようございます
鏡川伊一郎
ブログ凍結、ご受難でしたね。解除されてなによりです。

凍結中に、私は自分のブログの方に、時刻の件は書かせていただいております。私宛の桐野さんのコメント、いま拝見したところですが、殺人事件の時刻の特定は決して「微細な」問題ではないとだけ申し上げておきましょう。
谷に関しては、これも以前に自分のブログに「谷干城は誤解されていないか」を書き、自分なりに検証したつもりです。ところで新撰組犯人説が土佐藩公認説という桐野さんの主張はどこに根拠があるのでしょうか。

土佐藩の公式見解
桐野作人
鏡川さん

土佐藩が新選組犯行説を正式の結論としたのは、いろいろ史料がありますよ。あえて私の論拠を問うまでもないと思いますが……。
まずは網羅的に史料を掲載してある『坂本龍馬日記』下(新人物往来社)をご覧下さい。

また、上記で引用してある『谷干城遺稿』にも、紀州藩(三浦久太郎)が新選組を煽動してやらせたと書いていますね。そして原田左之助が実行犯の一人であると。谷は高台寺党を尋問した本人ですから、間違いないでしょう。谷(と毛利恭助)の尋問結果が土佐藩の公式見解の基礎になったということでしょう。だから、谷は40年経っても、それを主張しているわけでしょう。

ほかにも『神山郡廉日記』『嵯峨実愛手記』『贈従一位池田慶徳公御伝記』などに、土佐藩重役の後藤象二郎や福岡孝弟が新選組が犯人だとして幕閣の永井尚志などに抗議していると書いてありますよ。永井もそれを受けて近藤勇を尋問しています。

なお、拙稿「龍馬遭難事件の新視角」1~3(『歴史読本』2006年7~9月号)に上記史料を使って書いています。よかったら、ご覧下さい。




鏡川伊一郎
ご丁寧にありがとうございます。
ちょっと舌足らずなお問合せでしたから、やはり時点がすれ違いましたね。土佐藩が新選組の仕業だと幕府に告発し、永井尚志が近藤勇を取り調べ、関与は否定されています。当然、土佐藩はそのことを承知しているわけですから、この時点で、明治までひきずる土佐藩の公式見解というものはないわけです。謎のまま放置されたのです。そのことを言いたかったのです。

そうでしょうか
桐野作人
鏡川さん

幕府は新選組の関与を否定していませんよ。大政奉還とのからみで、土佐藩を怒らせたくなかったので、土佐藩の抗議を丸飲みして認めています。王政復古政変がなければ、近藤か新選組への処分があったかもしれません。
ですから、土佐藩は幕府も認めたからこそ、新選組犯行説を公式見解として維持していたと思います。薩摩藩の反対を押し切ってまで、流山で近藤を処刑したのも、それゆえでしょう。
谷干城はその処置への自負と確信があったから、40年後も同じ立場を堅持していたのでしょう。
私は先に紹介した拙稿でそのことを書いたんですけどね。


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室町・戦国期研究

リンク先の雑記@史華堂さんのブログで紹介されていた新刊
入手に少し手間取った。

編者である中世後期研究会というのはよく知らないが、若手の研究者の集まりだろうか。

13本の論文が収録されている。執筆者はいずれも若手。ほとんどが70年代生まれの人ばかりで、なかには80年代生まれの人もいる。

すべてを読んだわけではないが、とりあえず、問題関心が近いところからと、

平出真宣「戦国期政治権力論の展開と課題」

を一読。
戦国大名論についての先行研究をじつに手際よくまとめてある。
論点や課題が奈辺にあるのか、よくわかった。
研究がじつに多様性をもっていることを確認。
戦国大名を近世とつながる権力と評価する一方、それを相対化すべきだという見解も少なくない。また村落との対峙という近年重視されている課題、戦国大名がどこに基盤を置いているか、検地論の再検討を通じて最新の成果や問題点もよく浮き彫りになっている。
とくに織豊権力との段階差については、個人的に興味あるところで、大変勉強になった。

一口に戦国大名論といっても、1世紀ほどの長い時間があり、それをひとからげに論じられないというのもよくわかった。
とくに16世紀中葉に、ひとつの画期を認めるべきで、それ以降は戦国大名同士の全国統一戦争の時代に入るという指摘はそのとおりだろうと思った。

ほかにも、織豊期について、

尾下成敏「織田・豊臣政権下の地域支配―「一職支配」論の現在―」

という興味深い論文もある。
「一職支配」については、個人的に興味をもっていたテーマである。
先日、谷口克広氏とお会いしたときも、このテーマを詳しくうかがったほど。
これから読んでみたい。


【2007/11/15 23:03】 | 新刊
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中世後期研究会
御座候
>編者である中世後期研究会というのはよく知らないが、若手の研究者の集まりだろうか。

京大の早島・尾下・平出の3氏を創立メンバーとする「文殊の会」という、京阪の若手研究者たちによる研究会があるそうです。本書の執筆者の多くは、この「文殊の会」のメンバーらしいです。
ただ、メンバー以外の方にも声をかけて執筆してもらった関係上、「文殊の会編」と銘打つわけにもいかなくなり、急遽「中世後期研究会編」となったものと思われます。

ご教示多謝
桐野
御座候さん、こんばんは。

会の趣旨をご紹介いただき有難うございます。
御座候さんも参加されているのでしょうか。

残念ながら
御座候
基本的に関西圏で行われている研究会ですので、
東京在住の私は参加しておりません。


上に書いた情報は、伝聞情報です。




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東京で本日発売の週刊朝日11/23号。ここです。
表紙が柴本幸さん。大河ドラマのきつい感じの由布姫とは打ってかわって柔らかい表情です。

で、「週刊司馬遼太郎」の「翔ぶが如く」編の第3回。
不肖、小生も登場しています。
が、恥ずかしい。写真が……。

それよりも、記事中にある川内高城温泉の西郷のマネキン写真は強烈ですね。編集スタッフもそう感じられたらしく、1頁大で強調してあります。この迫力には負けそうです。

ほかにも、坂本龍馬の身長が通説よりも低かったという記事あり。
ただ、鵜呑みにするのはどうか。
念のため付け加えれば、徳富蘇峰・蘆花兄弟の父で龍馬を実見した徳富一敬も、龍馬のことを「色の黒い大男」だと証言しています。

【2007/11/13 16:04】 | 幕末維新
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東京龍馬会の小名です。
週刊朝日、見ました。
私も、大河ドラマ「国取り物語」見ていました。高橋英樹の織田信長は、いまでも記憶に残っています。
また、東京龍馬会でお会いできることを楽しみにしています。

昔の人の身長
ばんない
龍馬の身長の話、全国紙でも話題になりましたが、web上にはあまり残ってないようです(URLはスポーツニッポンの記事です)。
江戸時代の人は日本史上最低の低身長だったようですから、そういう一般人から見ると推測169cmでも大男に見えたかも知れません。
ただ、着物の襟巾も身長同様変化しています。鎌倉時代の着物は約17cm、安土桃山時代の物は約13cmです。

そういえば西郷隆盛も大久保利通も180cmクラスだそうですから、平均的江戸時代人から見るとキングコング並の怪物に見えたでしょうね。

こちらこそ
桐野
小名さん、こんばんは。

コメント有難うございます。
久しくご無沙汰ですね。またお会いできるのを楽しみに。

龍馬の身長
桐野
ばんないさん、こんばんは。

龍馬の身長を推定する方法としては、龍馬が着用した羽織・袴が残っていますから、それからの計測が一番妥当性があると思います。
襟幅からの推定は誤差が大きいのではないかと思います。


ばんない
大昔の記事へのコメント申し訳ありません。

本日、今年最終の図書館通いをしてきました。
そこでようやく、この号を拝見して、「木崎原の島津義弘像」に匹敵する「温泉西郷像」なども拝見して爆笑(図書館だったので、心の中だけで)してきたのですが…




初めてご尊顔を拝見できたのですが、ちょっと想像と違っていたな、と(汗)失礼しました。

想像?
桐野作人
ばんないさん、おはようございます。

週刊朝日、ご覧になったのですね。恥ずかしい限りです。むしろ、その後に出た号でのコメントのほうが内容があったのですが(汗)。

あの高城温泉のイケメン西郷はすごいですねえ(笑)。
一体誰がつくったのか?

私の写真、どんな想像をされていたのかどうか不明ですが、もうこの話はなかったことにしましょう(笑)。

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先日の上方出張の主な目的はここの博物館に寄託されている『信長記』関係の史料を調査することだった。
着いてみると、じつに近未来的な建築物で、博物館のイメージとあまりに異なっていたからびっくり。噂には聞いていたが、すごい。

ある調査プロジェクトで、私は協力者として末席にいるだけだが、それでも、実地の史料調査は学ぶべき点が多い。
年齢は私より下でも、キャリアははるかに上の研究者たちの動きを見ているだけで面白いもの。

着いてみると、作業室に学芸員のO澤さんがすべて手際よくお膳立てして下さっていた。
『信長記』の筆者太田牛一の子孫の家に伝来する史料群である。『信長記』は15巻本だが、天正10年分の最終巻だけが欠落していたのが残念。いろいろなチェックポイントを調べてみる。

とくに興味深かったのは、太田牛一自筆の『猪熊物語』を実見できたこと。近世初期の宮廷スキャンダルとして知られる猪熊事件を叙述したもの。
成立時期が池田家本『信長記』と同じ年で、当たり前だが、同本と同じ筆跡をじかに見て感動した。

足かけ2日間かけて、所定の調査・撮影などを終了した。
いろいろご手配いただいたO澤さん、寝屋川市教育委員会のO崎さんに感謝である。

大阪歴博

調査風景

初日の夜は、友人でリンク先でもある橋場殿下夫妻とも合流して、宿泊先近くの店で宴席と相成る。お二人には久しぶりにお会いした。

2日目の調査終了後、せっかくなので、同館で開催中の「風林火山」展を見学した。たしか、山梨県立博物館を皮切りに全国を回っている展示会だと思う。

山本勘助の実在を証明したとされる「山本菅助」と書かれた武田晴信書状を初めて見た(「市河文書」)。

面白かったのは、紀州本の「川中島合戦図屏風」。信玄と謙信が川の中で一騎打ちしている変わった図柄のものである。
右隻だったか、下面に林の中から戦場を望見している僧侶とその従者がおり、説明に「天海」とあったので、屏風をよく見ると、「南光坊天海」と書いてあるではないか。
なぜ、天海が川中島合戦を見学しているのだろうか?
天海の没年は寛永20年(1643)。第4次川中島合戦は永禄4年(1561)だから、じつに80年以上前になる。天海が100歳を超している長寿なら、20代ということになるが、にわかには信じがたい。
不勉強でよく知らないが、なぜこの屏風に天海がいるのか、どなたか明らかにしているのだろうか?
越後流軍学と天海に何らかのつながりがあるのか?

ショップで、上杉家関係の史料をいくつか購入したが、またやってしまった。二度買いである。しかも、決して安くないもの。
『国宝 上杉家文書 図説』(泣)


【2007/11/12 23:08】 | 信長
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天海
橋場
先日は有り難うございました。
天海の件ですが、彼には明智光秀同一人物説の他にもうさんくさい伝承が多々ありまして、出典は忘れましたが晩年「若い頃川中島合戦を見た」と周囲に話していたそうです。まさにホラふきドンドン(byジョージ秋山)状態ですが、それによると天文五年(一○五歳という驚異の没年から逆算)生まれの彼は青年時代武田氏の祈祷僧にもなり、信玄・謙信一騎打ちについても触れ、あとで信玄にその事を話したら「誰にも言うな」と釘をさされたと言っています。実際、武田側は一騎打ちなどは認めていませんが、近衛前久の謙信宛「自身太刀打ちに及ばれ」という有名な書状ともリンクしてまことしやかに一騎打ち実在派に使われる事となりました。
その説に乗っかったのが紀州徳川家御用達の越後流軍学の宇佐美定佑です。一騎打ちが本当にあり、いくさも上杉方が優勢だったのだと主張する宇佐美は『北越軍記』だかを著した上、おそらくはこの紀州本川中島合戦図屏風作成にも参画して「一騎打ちの目撃者」たる天海を絵の中に描かせて「一騎打ち実在」をダメ押ししたのでしょう。

天海
戸矢学
飛び込みの初参陣にて失礼いたします。
「紀州本川中島合戦図屏風」は正確さには欠けるものの、絵師の空想だけでは天海は登場させられないので、どこかに情報源があったことは確かでしょう。当時は、けっこう知られた話だったのかもしれません。
ちなみに天海の経歴については、武田に一時期身を寄せていたと、寛永寺の記録があります。晩年の天海が語るままに弟子の聞き書きという体裁を採っています。前後関係から判断すると、当時の年齢は19歳前後と推定(私見)されます。
ただし、天海という名は天正18年からで、それ以前は随風ですから、川中島の時に「天海」であるはずはありません。しかし「随風」という名も、いつから名乗っているか確定されてはおりません。これは、そもそも天海がどこの何者か、出自が明らかでないことによっています。天海自身が出自を隠そうとしていたとも解釈できるくだりが記録にあります。芦名氏に生まれ、幼名が兵太郎であったとの説もありますが、これについて問われた際に当人は諾否いずれとも応じておりません。芦名兵太郎は天文15年に会津・龍興寺で仏門に入り、この時に随風という名を受けたという記録はあるのですが、この随風と天海の随風が同一人であるか否かは難しいところです。
ご参考までに、拙著『天眼-光秀風水綺譚』(河出書房新社)において、信玄に仕えた陰陽道の知恵者が、その後、光秀・天海へと変成して行く話を小説仕立てにしております。川中島合戦を望見するシーンも描いています。それなりに裏取りしておりますので、この辺りの関連にご関心の向きは、ぜひ、ご一読を! そしてご批判を!

太田家伝来史料群
磯部
桐野先生、おつかれさまでした。
太田牛一の子孫の家に伝来する史料群が、現在、大阪歴史博物館に寄託されていることは知りませんでした。ご学恩に感謝致します。これらの史料群は大学や研究機関に在職する研究者にしか公開されていないのでしょうか、「ある調査プロジェクト」の内容が気になるところです。太田家蔵『信長記』について、詳細な報告がなされることを期待しております。


天海
桐野
橋場殿下、こんばんは。

ご教示有難うございます。
そういえば、高橋修『【異説】もうひとつの川中島合戦図屏風』(洋泉社新書y)というのがありましたが、たしか越後流軍学の宇佐美定祐の意図を分析したものでしたね。持っているのですが、ちゃんと読んでいませんでした(爆)。

殿下のお説を要約すると、

川中島合戦では謙信が勝った→越後流軍学は優秀である←天海が実際に見ている

という形で、自流派の優越を紀州徳川家(頼宣か)に売り込んだのでしょうね。

天海は武田家に?
桐野
戸矢学さん、こんばんは。

先日はご高著、寄贈いただき有難うございました。
天海についても、ご教示有難うございます。

天海(随風)が武田家に寄寓していたという寛永寺の記録は何というものなんでしょうか?

天海については、伝承や伝奇が多くて、私にはよくわかりません(汗)。

太田家史料
桐野
磯部さん、こんばんは。

太田家史料はおそらく寄託史料で、所蔵者がおいでですから、閲覧などは所蔵者の許可が必要だと思います。それをクリアされれば、閲覧は原則的にはどなたでも可能だと思います。
ただ、原則は原則で、現実問題としてはいろいろ難しい面もありますね。磯部さんが所属のある研究者なら、何とかなるかもしれませんが。
私も所属がないし駆け出しなので、このグループに加えてもらったのは有難いかぎりです。
『信長記』諸本については、これからも調べていきたいと思っております。

高橋氏著書
橋場
さいわいご指摘の高橋氏の本が出る直前に偶然にも「歴群」でそのあたりの事情を先に書く事ができました。そんな事もあるのですね。

失礼しました
桐野
橋場殿下

殿下のご論考をちゃんと紹介せず、失礼しました。

前コメントの→を使ったチャートの部分は殿下のお説を自分なりに咀嚼して書いたことを付け加えておきます。


いえいえ
橋場
拙文は天海の件には全く触れておりません(笑)。
あくまで「軍師・宇佐美定行」誕生の経緯についてのものでしかありませんので、どうぞお気遣いなく。
高橋氏の著書の話が出たので、笑い話としてコメントさせて戴いただけです。

天海関連文書
戸矢学
『慈恵慈眼両大師伝記』
『東叡山開山慈眼大師縁起』
いずれも、弟子の胤海が著したものです。

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永徳展行列

行列の最後尾から。正面に館入口が見えるが、行列は館右手裏まで延々続いている。

先日の上方出張の報告。
2泊3日の旅。メインは2日間の大阪での史料調査。

その前に京都に立ち寄り、京都国立博物館で狩野永徳展を見学。
昼前に着いたが、すでに長蛇の列。入口の案内板に待ち時間130分とあるのを見たときには驚愕した。土日ならともかく、平日なのにこれである。いやはや凄まじい人気だというしかない。
しかも、11月とは思えない暑い日差し。館側で用意してくれていた黄色の日傘の数が足りず、そのまま待ち続けるが、頭がクラクラしてきた。
館の入場口はすぐそこに見えるから、大したことないじゃないかと思ったが、じつは右手から館の裏側までヘビのようにくねった行列が続いていることがあとでわかった。
並んでいるときに救急車が2回も来て、体調の悪くなった人を搬送する光景まで目撃。

結局、90分待ちで入館できたので、少し得した気分になったのが不思議だ。
私が並んだときが最盛期だったみたいで、その後、行列はだいぶ短くなっていた。
もしこれから出かけられる方は、朝早く行かれることをお勧めします。また京博のサイトで待ち時間案内もしています。

展示はまことに素晴らしいものだった。
ただ、事前の行列でやや疲れて目にも影響が出て、細部を鑑賞するのが少し辛かった。

上杉本「洛中洛外図屏風」は、会場のほぼ中央あたりの大きな部屋に単独展示。黒山の人だかりである。
写真ではおなじみだし、図録ももっているが、初めて本物を見た。
写真ではわからなかったことがある。
人物描写がじつに細かいこと。とくに人物の身体や衣裳・道具などの輪郭を少し太く線刻してあるため、人物がくっきりと浮かび上がっている。いまにも動き出しそうだし、語り出しそうといっても過言ではないくらい見事だった。
これを2000人以上も手抜きすることなく、書き込んであるのだからすごい。

隣には、昨年だったか新発見された「洛外名所遊楽図屏風」も初公開されていた。
じつは、この新聞記事を見たとき、永徳の作品とは少し作風が違うのではないかという印象があった。
あくまで素人目だが、間近で見てみて、人物の造形が上杉本とそっくりであることがわかった。このあたりが永徳筆と特定する決め手だったのだろうか。時期的にはこちらが上杉本より少し先行するらしい。将軍義輝が永徳に目をつけて、上杉謙信に贈る屏風絵を依頼したのもわかる気がする。

あとは、教科書にも載っている「唐獅子図屏風」。宮内庁三の丸尚蔵館が所蔵しているもの。
噂に違わぬ大作で、見る者を圧倒する大迫力である。
屏風になっているが、もとは大坂城か聚楽第に飾られていた障壁画を切り取ったものではないかといわれている。
上杉本などの細密な風俗画との対照的な作風が、同一人物に同居しているのは、まさに天才の天才たる所以だろう。
永徳展パネル

館正面のパネル。

待ち時間が長かっただけに、それ以上の眼福を得た思いだった。

夜は、研究者中村武生氏や永年の友人であるK藤氏と宴を囲む。二次会は中村氏とスナック「R馬」に行き、A尾氏やお龍さんに再会。旧交を温める。


【2007/11/12 09:26】 | イベント
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永徳展
ばんない
お疲れさまでした…。
18日で最終日を迎える今週は更にすごいことになるでしょうね。
「唐獅子図屏風」は最後の部屋に「檜図」と共に展示されていましたが、まだ国宝指定されてないようで驚きました。他の絵はみんなガラスギリギリまで寄って見ているのに、あそこだけみんな遠巻きに見ていて、私は前の方にはじき出されてしまい、獅子に見下ろされる形になって圧倒されました。
若いときの作品といわれる聚光院の襖などは、「唐獅子」に代表される永徳の絵とは違って繊細な印象がありました。
あと、大友宗麟の有名な肖像画も狩野派の手になる物とのこと…それに比べて島津家といえば(苦笑)

今回の展覧会で恥ずかしながら初めて知ったのですが、狩野家の本業は扇屋で、親戚に土佐家がいたんですね…。

大友宗麟
桐野
ばんないさん、こんばんは。

ばんないさんも行かれたんですね。
上杉本洛中洛外図屏風はガラスにくっついて見ましたけど、唐獅子図屏風は私も離れてみました(笑)。離れないと、あの迫力は実感できませんね。

大友宗麟は狩野派と縁があったようですね。
元亀年間、永徳は父松栄と豊後に下向しています。大徳寺塔頭の瑞峯院が所蔵している宗麟画像は松栄作ではないかとも言われているようですが。
島津家は狩野派とは縁遠かったのでしょうね。



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週刊朝日2

週刊朝日11/16号で、週刊司馬遼太郎の特集が「翔ぶが如く」に入り2回目になった。表紙が貫地谷しほりちゃんだ。

今回は大久保利通がメインである。西郷隆盛の体躯の大きさ、目の大きさはアーネスト・サトウの証言でもよく知られているが、じつは大久保利通も西郷とほぼ同じ身長で、目も迫力があったという冒頭のエピソードからなかなか読ませてくれる。
特集タイトル「西南の巨人たち」はこの2人の身体的特徴も含意されているに違いない。

本文に登場するのは、大久保甲東の曾孫、利泰氏。拙ブログでも何度かご紹介したことがある。
大久保没後100年で建立された大久保銅像の除幕式出席のため、初めて鹿児島に行かれたとき、緊張したという述懐がリアルである。
また銅像が傷つけられないように除幕式までぐるぐる巻にしてあったということは初めて知った。

ちなみに、銅像制作者は今年の文化勲章受章者である中村晋也氏である。

なお、次回(東京13日発売号)は小生も登場予定。

【2007/11/11 11:36】 | 幕末維新
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まいたけ
大久保利通関係文書が重文指定された際、黎明館で大久保利通の企画展が開催されましたが、あのときですら、大久保利通像の原型のブロンズ像はガラスケースに入って展示されてましたね。
またまだ大久保に対する屈折した感情が一部の鹿児島県民には残っているようで、寂しい気がします。

今度の火曜日発売の週刊朝日、購入しま~す。



屈折
桐野
まいたけさん、こんばんは。

大久保への屈折した感情、たしかに鹿児島にはまだ残っていますね。
私は誤解の積み重ねもあると思っています。

まず、征韓論で対立したとはいえ、大久保は西郷を追放するつもりはなかったこと。時期を見ての西郷復帰の可能性も排除していなかったでしょう。
第二に、西郷暗殺計画なるものは存在しなかった可能性が高いと思っています。
第三に、大久保は木戸孝允に突き上げられるほど、鹿児島に気をつかっていたこと。

以上から、西南戦争を起こしたかったのはどちら側だったか、ある程度明らかだと思いますが、これで大久保が恨まれているとしたら、少し可哀相ですね。

火曜日の記事、少し心配ではありますが……。

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小学館古文書塾「てらこや」の特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」
第3回が6日(火)にあったが、少し報告が遅れた。

今回は禁門の変を取り上げ、長州、会津、一橋慶喜、親王・公家(長州系)、薩摩の諸勢力から見てみようという趣旨だった。

視点が複数あるだけに分量も多く、レジュメが11枚、カラーコピーの図版2枚という大部。
案の定、とても時間内に読み切れず、多くを端折らざるをえなかった。もう少し絞るべきだったかもしれない。

とくに読み損なったのが、中岡慎太郎の水野丹後・中村円太(五卿付)に宛てた書簡。あとで読みますといいながら、結局時間オーバーで読めなかった。
じつは意外に面白い書簡だと思っている。

中岡も長州藩に属する浪士隊の一員として従軍している。この書簡は禁門の変から1カ月ほど経ったと思われる時期に書かれたもので、敗戦の痛手からかなり冷静になり、また情報もいろいろ判明したうえで書いている。
長州藩の三家老には罪はないとしきりに弁護しているのは当然だとしても、興味深いのは、会津藩への憎悪が強烈に表現されていること。「薩賊会奸」と並び称された薩摩藩への非難がまったく書かれていない。

たとえば、「根元松平肥後守殿(容保)悪逆之次第、一朝一夕にてはこれなく」とか「天朝并幕府列藩へ肥後守殿悪逆之罪を鳴し、討伐之義公然申達候事と承り及び候」と書いている。
松平容保の悪逆を幕府や諸藩に訴えて討伐を呼びかけているのである。つまり、中岡は会津藩と幕府を別物と考えているわけだ。
また、一橋慶喜だけでなく、薩摩藩への非難が一切ないのも興味深い。

なぜなのか。
ひとつには、中岡ら浪士隊は伏見から北上して入京しようとし、それを塞いだのは大垣藩や会津藩、新選組などで、その方面に薩摩藩はいなかったことがあげられよう。
中岡ほどの人物だから、そうした直接的体験だけでもないだろう。ひとつはやはり、池田屋事件などに明らかなように、会津藩が京都守護職として長州系への強圧姿勢を強めていたことへの反発が一番大きかっただろう。その点では薩摩藩とは利害の対立がない。

会津藩も薩摩藩については開戦前は傍観しているだけだと批判しているし、一方の西郷も今度の一件は「長・会の私闘」と断じているように、当事者意識に濃淡があり、あくまで長州VS会津というのが、禁門の変の基本構図だったということだろう。

この中岡書簡を検討できなかったことは、返す返すも残念である。

なお、次回は前シリーズから要望のあった官位や家格の問題を取り上げるつもりである。

【2007/11/10 21:45】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第32回
―先祖の名誉回復期する―

いつもの連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回からしばらく、桐野利秋を書くことにしました。
名字が一緒ということもあり、以前から注目していた人物でした。せっかく地元紙に書く機会を与えられたので、思うところを書いてみるつもりです。

今回は、桐野の改姓・改名事情について書きました。
意外と知られてないのではないかと思ったからです。
桐野利秋の文書も数は多くありませんが、おそらく数十点はあるのではないかと思います。また桐野のことを書いた薩摩藩士などの文書を併せて、いつから桐野名字が始まるのか年次を検討してみました。

桐野文書を調べてみると、意外にも一番多く所蔵しているのが大久保利通家で、9点あります。いずれも中村半次郎時代です。
ほかにも、近年、鹿児島の黎明館が西南戦争中かその直前の桐野文書を2,3点購入しているとも聞きます。
桐野文書の全貌が明らかになれば、もう少し実像がわかるかもしれません。

次回は幕末期の桐野について書く予定です。



【2007/11/10 13:48】 | さつま人国誌
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島津家版「ゴルゴ十三」と汚れ仕事
ばんない
こんにちは。本文の方も拝読しました。桐野利秋の先祖が島津家家督争いに絡んでいたとは知りませんでした。

改めて「本藩人物志」の「押川讃岐守」の押川強兵衛の話を読むと協力者として”桐野九郎左衛門”なる武士の名前が見えますね。
押川は非常に島津義弘に近い武将で、朝鮮出兵、伏見城攻めや関ヶ原の合戦、そしてこの平田増宗暗殺と、スナイパーとして活躍した人物のようです。その後も義弘の命により代官となったり、病気になったときには70石あまりしかもらってない中下級武士であるにもかかわらず島津家久(忠恒)直々に見舞いをされているなどの丁重な扱いを受けていますが、ここからも「押川の平田増宗暗殺」が義弘・家久(忠恒)親子にとってどれほど重要度の高い事件だったのかが伺い知れるような気がします。ただ、私は旧記雑録の内容から、この事件には家久(忠恒)の方が積極的に関わって義弘の方は余り気が進まなかったんじゃないかという印象を持っています。

話が脱線しましたが、「桐野九郎左衛門」も「本藩人物志」に記載がありますが、押川強兵衛に比べると一時金銀子と御切米10石と軽い扱いですね。あと、桐野さんの指摘通り外戚の「中村」に改名してますが、その理由については触れてませんでした。

中村(桐野)家についてはともかくとして、押川家もその後は余り出世した形跡がないようですから、島津本宗家としては汚れ仕事に関わった”影の仕事人”は早く消えて欲しかったのがホンネなのかも知れませんね。

平田増宗暗殺と伊集院忠真暗殺の類似性
桐野
ばんないさん、こんばんは。

押川強兵衛に指令を下したのは、私も家久の可能性が高いと思います。
たしか、家久はあのとき、川内の久見崎から上洛のため出航しています。増宗はその見送りに行き、帰途、所領に立ち寄ったところで暗殺されました。

自分のアリバイを作っているから疑われないというわけですが、かえって怪しいですね。
上洛にこと寄せて、政敵を暗殺するというのは伊集院忠真のときと同じパターンですから、家久の手口と見ていいかもしれませんね。

桐野九郎左衛門の子について
レギオン・ペリクレス
 桐野九郎左衛門の子を桐野源之亟のちに中村与兵衛といいますが、『寛永13年鹿児島衆中屋敷御検地帳』の『新堀の下』の住人で薬丸伴左衛門や東郷肥後守の近所に『中村源之允・与兵衛』という人物がいますが、この人ではないかとおもうのですが?
 といいますのも「三州御治世要覧」の「当事役人」で児玉早之丞を「早之允」と書いていますし、「丞」も「允」もほぼ同意らしいので。

お礼
桐野作人
レギオン・ペリクレスさん

ご教示有難うございます。
今後の参考にさせていただきます。

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しばらく上方に行きます。
その間、更新できません。
コメントをいただいても不義理しますが、悪しからず。

【2007/11/07 01:26】 | 雑記
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週刊朝日
少しご紹介が遅れたが、先月29日からの週発売の「週刊朝日」11月9日号。
表紙は韓流女優のチェ・ジウさんです。詳しくはここ

週刊司馬遼太郎」という司馬作品の舞台を改めて紀行するという企画が、いよいよ『翔ぶが如く』の巻になりました。

初回の鹿児島取材は圧巻です。
文章も薩摩気質をよく拾い上げたものですし、「銅像王国」(勝手な造語です)鹿児島のせいか、銅像をたくさん集めてコラージュっぽくまとめた見開き頁など迫力満点です。
地元の研究者松尾千歳氏(尚古集成館副館長)も登場し、まことに面白いエピソードを語っています。松尾氏は福岡県ご出身ですが、同じ九州でも、鹿児島とのカルチュラルショックに困惑されたこともあった様子がうかがえて興味深かったです。

最後に大河ドラマ「翔ぶが如く」の脚本家、小山内美江子氏のインタビューが載っています。彼女も母上が鹿児島ご出身だったとは知りませんでした。司馬さんとの面白いやりとりを回想されています。

この連載はおそらく6回程度続くのではないかと思います。
私も登場するかもしれず、よろしかったらご覧下さい。

DVD翔ぶが如く
翔ぶが如く2


なお、関連ニュースですが、かつてのNHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の完全収録版DVDの「第壱集」が発売されました。「第弐集」もクリスマス前に発売されるようです。詳しくはここここです。
総集編DVDでは飽き足らなかった方もこれでご満悦でしょう。ただ、値段が……。

【2007/11/04 09:43】 | 幕末維新
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銅像王国薩摩
ぼっけもん新聞
 先日、友人が鹿児島旅行に出かけてきました。
友人の感想の中に「銅像王国」がありました。
鹿児島県人以外から見ると、不気味だったとのこと。
新鮮な意見でした。
 最近の私は、薩摩人以外が記している書籍を読むようにしています。
もちろんアーネストサトウなど外国人物も含めてです。
 彼らの視点の方が、客観視しているので面白く思えます。
 良い書籍をご存知であれば、教えてください。
「飛ぶが如く」のDVD、欲しいですが、高いですね。
アマゾンなどで早々に中古品がでることを祈ります。



調所
そういえば私の知人に熊本県出身の人がいて、福岡県や大分県など九州各地を回ったが、鹿児島県に来て初めて何か違和感を感じた。と申しておりました。

客観的視点
桐野
ぼっけもんさん、こんばんは。

友人の方は「銅像王国」を不気味に感じられましたか(笑)。
じつは、私の友人(東京在住)も初めて鹿児島二行き、銅像が多いのにびっくりしたと言っておりました。でも、それは不快感とか違和感のニュアンスではなかったです。料理がおいしかったらしく、また行きたいと言っておりました。

客観的な視点というのは大事ですね。
アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)をご覧になったのでしょうか?
サトウはいかにも外国人らしい興味で書いており、まことに面白いですが、根底には薩摩や薩摩人への「愛」が感じられますね。外国人のサトウにそう感じさせたものは何だったのでしょうね。


お帰りなさい
桐野
調所さん、こんばんは。

無事帰京されたようですね。お疲れさまでした。

熊本県の人さえ違和感を覚えますか。
やっぱりどこか違うところがあるんでしょうね。
それは県民性とか独自の特質なんでしょうけど、それをプラスと見るか、マイナスと見るか、難しいところです。
他と一緒もつまらないですが、かといってただの頑固でもという気もしますね。


ぼっけもん新聞
『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)を読みました。
日本語を巧みに操るサトウだからこそ、偏見に凝り固まらず、他藩との違いを冷静に判断できたのでしょうね。
 今は、宮本常一の「忘れられた日本人」を読んでいます。
西南戦争で熊本城下が焼失した後の復興に関わった長州の増田伊太郎の話(征韓論賛成派で大法螺吹の村長の話など)当時の民間人の視点が面白く感じます。
また、阿井景子「西郷家の女たち」は、西郷の良い部分だけで構成された小説とは一味違った視点が、人間西郷を描いていて面白く感じました。
 まだまだ所持しているだけで、読んでいない可哀想な書籍がありますので一冊づつ大切に読んでいきたいと思います。

 そうえいば「銅像王国」を不気味に感じた友人でしたが、格安料金の温泉に感動したので、また行きたいと話していました。
鹿児島の魅力は、歴史だけではなく「食」と「温泉」もありますからね。

銅像王国?
ばんない
銅像過疎国から(汗)こんばんは。そういえば以前住んでいたところも今住んでいるところも代表的な駅の前に銅像がありません。銅像といえば小学校の校庭にたたずむ薪をしょったお兄ちゃんしか印象がありません(爆)
○○年鹿児島に行ったことがないので気にもしてなかったのですが、そんなに鹿児島は銅像所有比率が高いのでしょうか。『週刊朝日』読んでみますね。

銅像は旧共産国のレーニン像や記憶に新しいところではイラクのフセイン大統領像など独裁強権国家のイメージが強いですし、個人的には余りいい印象がないですね。

鹿児島に銅像が多いというのは、どうも廃仏毀釈で過去につながる物を一切失ったことに関係がありそうな気がします。ただ、そのかわりに作った物が上記に述べたような性格を持つ「銅像」と言うところに鹿児島の気質というのが見えるような。

廃仏毀釈か
桐野
ばんないさん、こんばんは。

鹿児島に銅像が多いのは廃仏毀釈の影響でしょうか。

ただ、銅像は幕末系が多くて、ほとんどが廃仏毀釈のあとのような気もします。
問題は、廃仏毀釈以前、とくに戦国時代でしょうか。

なんやかやといいながら、鹿児島でも戦国以前は無視されているのでは。銅像は義弘だけじゃないですかね?
忠久の銅像もないですよね。


過去へのノスタルジー
ばんない
こんにちは。

ご意見ありがとうございます。肝心の『週刊朝日』を荒天で本屋or図書館にたどり着けず未だに読めてませんが(汗)

いろんな国とか民族とか地域でも過去の歴史への執着というかノスタルジーがある物だと思うのですが、鹿児島の場合は廃仏毀釈だけじゃなくて、西南戦争、わずかに残った物も第二次世界大戦の空襲などでほとんど丸焼けになってます。地元出身の名士達の史料も東京の博物館や図書館などの所蔵になっていて、地元には余り残ってないですし…墓も地元・鹿児島に作ってない方が多いですね。その代わりの「銅像」なんじゃないかという印象があります。
維新関連を自慢すると言えば山口県なんかすごい、というより酷い(苦笑)に近い物がありましたが、鹿児島ほど銅像王国じゃないと思います。思い返すと山口県は高杉晋作の旧邸などいろんな史跡や建物が残ってるんですよね。

鹿児島県の史跡が維新ばかりを強調してそれ以前がどーでも良くなっているのは、やっぱり秀吉に負けて降伏したというラストシーンがかっこよくない…と思っている人が鹿児島県民には多いのでは、という意見をどこかで見た記憶があります。それに比べると明治維新~西南戦争の流れは栄光と破滅的な終末までドラマとしてもかっこいいですし(事実大河ドラマになりましたが)。
あと、私が思うには西目(薩摩半島)と東目(大隅半島)の対立も影を落としているように考えます。維新は西目も東目も関係ないですから。

島津家も修久氏のご子息が帰郷されたようですが、今後の活動は維新ネタを中心にされるようですね。戦国ネタは最後の辺りで沖縄も絡んでくるし、いろいろとややこしいからでしょうか。


とおりすがりk
昔 太平洋戦争後 西郷さんの銅像のサーベルを折って
盗んで 売った馬鹿者がいたそうです。
鹿児島には、多分その後生活はできなかったんじゃないかと。
川路大警視像は県警本部の前にあるので いたずらなんぞすれば 重大事件でしょうw

御紹介の京都の事は 学生のあまえ、選民意識、変な特権意識を感じる田舎の凡人でした。

削除
ばんない
当方のコメントに対し、不快感を示される方がいらっしゃったようなので、削除させていただきました。
御覧に為られた方にはお目汚し失礼しました。
質疑のある方はこの記事ではなくURLにある拙ブログまでお願いします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第31回
―有馬新七 父そばに眠れず―

拙コラムが更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回は、寺田屋事件で闘死した有馬新七とその父正直のことについて書きました。正直は近衛忠熈夫人となった郁姫(島津斉宣の娘、同斉興の養女)の付き人として上京し、在京期間は十数年に及び、京都でなくなり、即宗院に葬られています。

しかし、伏見寺田屋で闘死した新七は「逆臣」とされたため、即宗院には葬られませんでした。

即宗院墓所を訪れたとき、正直の墓の横に、新七と一緒に串刺しになった道島五郎兵衛の墓があるのを、因縁だと感じました。
新七が即宗院に眠れなかったのは無念だったかもしれないという感慨が、今回の執筆動機となりました。



【2007/11/03 19:48】 | さつま人国誌
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大阪福島の妙徳寺も書いてくれ
アリア・ヴァレリ
 畿内の菩提寺もいいですが、大阪福島の妙徳寺について書く予定ありませんか?。といいますのも大久保利通の祖父大久保正左衛門や享和2年死亡の山本権兵衛の祖父七郎盛賢が埋葬されたそうですから。

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今晩、某出版社の方と新しい企画の打ち合わせ。
いろいろご馳走になりました。有難うございます。

企画は戦国島津もの。うまくいくかどうか、まだ五里霧中でわかりません。

新しい企画よりも既存の企画をちゃんとやれ、というお叱りの声があちこちから聞こえてきそうで(汗)。

はい。そちらもちゃんと考えております。

企画はむろんだが、雑談も楽しかった。とくに俳句の話が面白かった。
その方は俳句歴の長いベテランさん。句作をどうするか、どういうきっかけで作るのか、初心者向けにいろいろ教えてもらった。
そういえば、このブログ開設でいろいろお世話になった方も、俳句のブログをやってらした。
たまたま今日来た知り合いからの絵葉書も某放送局で俳句をやるのでよろしくという挨拶状だった。俳句をやっておられるとは知らなかった。しかも、ちゃんと俳号まであるとは……。

最近、散文的な文章ばかり書いている。もともと能力不足なのかもしれないが、少しは味わいのある文章が書けたらと思うことも度々。
俳句は、言葉のセンスを磨くのにいいかもしれないなと思う。
とくに「~兵どもが夢の跡」ではないが、史跡見学をしたときなど、ちょっとした句作ができれば楽しいだろうなと思ったりする。

「歳時記」でも買おうかな。

【2007/11/02 23:30】 | 雑記
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茶々の映画
市川
こんにちは
私は今年の12月に浅井茶々が主人公の『茶々 天涯の貴妃』が全国東映系で公開されることを知りました。
内容も配役もまあ今までの歴史的な印象通りといった感じを受けます。ですが最近の生と死、もしくは昭和を意識した映画よりはまだ興味はあります。あの茶々をどこまで良く描くか、監督の冒険性に期待しています。

茶々
桐野
市川さん、こんにちは。

新作映画のご紹介有難うございました。
私も上方方面の友人からの情報やブログで、伏見周辺でその映画と思われるロケが行われたらしいことは耳にしておりました。

タイトルは「淀殿」ではなく「浅井茶々~」なんですね。
浅井にこだわるのは、はやり信長やお市の方との血縁を強調したがためでしょうね。

ご紹介有難うございます。

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