小学館古文書塾「てらこや」の特別講座「大河ドラマ『篤姫』の見方2」
第3回が6日(火)にあったが、少し報告が遅れた。
今回は禁門の変を取り上げ、長州、会津、一橋慶喜、親王・公家(長州系)、薩摩の諸勢力から見てみようという趣旨だった。
視点が複数あるだけに分量も多く、レジュメが11枚、カラーコピーの図版2枚という大部。
案の定、とても時間内に読み切れず、多くを端折らざるをえなかった。もう少し絞るべきだったかもしれない。
とくに読み損なったのが、中岡慎太郎の水野丹後・中村円太(五卿付)に宛てた書簡。あとで読みますといいながら、結局時間オーバーで読めなかった。
じつは意外に面白い書簡だと思っている。
中岡も長州藩に属する浪士隊の一員として従軍している。この書簡は禁門の変から1カ月ほど経ったと思われる時期に書かれたもので、敗戦の痛手からかなり冷静になり、また情報もいろいろ判明したうえで書いている。
長州藩の三家老には罪はないとしきりに弁護しているのは当然だとしても、興味深いのは、会津藩への憎悪が強烈に表現されていること。「薩賊会奸」と並び称された薩摩藩への非難がまったく書かれていない。
たとえば、「根元松平肥後守殿(容保)悪逆之次第、一朝一夕にてはこれなく」とか「天朝并幕府列藩へ肥後守殿悪逆之罪を鳴し、討伐之義公然申達候事と承り及び候」と書いている。
松平容保の悪逆を幕府や諸藩に訴えて討伐を呼びかけているのである。つまり、中岡は会津藩と幕府を別物と考えているわけだ。
また、一橋慶喜だけでなく、薩摩藩への非難が一切ないのも興味深い。
なぜなのか。
ひとつには、中岡ら浪士隊は伏見から北上して入京しようとし、それを塞いだのは大垣藩や会津藩、新選組などで、その方面に薩摩藩はいなかったことがあげられよう。
中岡ほどの人物だから、そうした直接的体験だけでもないだろう。ひとつはやはり、池田屋事件などに明らかなように、会津藩が京都守護職として長州系への強圧姿勢を強めていたことへの反発が一番大きかっただろう。その点では薩摩藩とは利害の対立がない。
会津藩も薩摩藩については開戦前は傍観しているだけだと批判しているし、一方の西郷も今度の一件は「長・会の私闘」と断じているように、当事者意識に濃淡があり、あくまで長州VS会津というのが、禁門の変の基本構図だったということだろう。
この中岡書簡を検討できなかったことは、返す返すも残念である。
なお、次回は前シリーズから要望のあった官位や家格の問題を取り上げるつもりである。