歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
年末年始進行のため、明日(29日)の連載コラムは1回休みです。次回は1月5日です。

なお、南日本新聞では正月特集として、大久保利通没後130年特集企画があります。
1月3日朝刊で、1面全部使った特集になります。
小生も「さつま人国誌」特別編として、幕末京都の大久保利通邸にあった茶室「有待庵」をめぐる出来事を書きました。有待庵での西郷との密談、討幕の密勅秘話、近江屋事件などを中心にまとめています。通常の2倍の分量ですから、読み応えがあると思います。
なお、利通子孫の利泰氏への特別インタビューもあるそうです。

ご覧になれる環境の方はぜひご覧下さい。
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【2007/12/28 15:37】 | さつま人国誌
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楽しみですね
あさくらゆう
 利通暗殺に使われた刀や遺品等を以前、警視庁資料室で拝見したことがあります。ちょうど行ったのも1月だったのでついコメントしてしまいました。
 来年は薩摩モノですからお忙しいことでしょう。どうか頑張ってくださいね。

警察博物館?
桐野作人
あさくらゆうさん、こんばんは。

警察博物館の展示でしょうか?
じつは私も数年前に観たことがあります。
大久保暗殺の刀のほか、川路利良が戊辰戦争で使った刀や書簡などが展示されていました。おそらく同じ展示を観たのではと思います。

励ましのお言葉、有難うございます。

南日本新聞
くみ
実家から送ってもらうことにします!

近衛桜
桐野作人
くみさん、こんにちは。

もう大晦日ですねえ。
南日本新聞の正月企画、少し読み応えがあると思います。

そうそう、1月5日の「さつま人国誌」は近衛信尹のことを書きましたが、三国名勝図会に載っていた川辺野間の「近衛桜」の逸話も少し紹介しています。こちらはネットで見られますね。

それではよいお年を!

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先日、鹿児島の某財団から小松帯刀についての講演依頼があった。
しかも、会場が小松家の屋敷跡というか、小松の銅像が建っている場所(県文化センター=宝山ホール)である。

最近、小松を調べているし、何かと縁があると思っているので、お引き受けした。
とくに小松銅像の場所で話をさせてもらうというのに惹かれた。

本日、担当者の方がわざわざ上京されて、日程その他を打ち合わせした。

5月27日(火)午後6時30分~

と一応決まる。


小松をメインテーマとした講演会が開かれるとは感無量である。従来、とても考えられなかったことだ。
来年の大河ドラマの影響が大きいが、それはともあれ、小松への注目が県民の間でも高まるのはうれしいことだ。

先日、地元メディアで篤姫のアンケート結果が公表された。
それによれば、篤姫を名前だけでも知っているという人は、県民でも50%程度だった。
大河ドラマの主役である篤姫の知名度さえも、かくのごとし。ましてや県外ではこの数字はもっと低くなるだろう。いわんや、小松においてをや。

不安は会場のキャパ。
果たして、あの大会場を埋められるのか。
こればかりは、瑛太君の熱演に期待するしかない。他力本願だ(爆)。


【2007/12/26 14:32】 | 幕末維新
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楽しみです。
ぼっけもん新聞
私は、その頃、鹿児島ライフを満喫しています。
講演会には、伺います。
再会、楽しみにしています。


よろしく
桐野作人
その頃、鹿児島におられるのですか。
またお会いできればいいですね。

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歴史読本08年2月号
連載第2回:軍事カリスマの原点

そろそろ店頭に並んだ頃だと思います。
よかったらご覧下さい。

今回は10代後半の信長のよく知られた「大うつけ」ぶりを解釈し直してみました。
かなり憶測が入っておりますが。とくに「肉体派・信長」を強調しております。

それと、守護代家(大和守家)の奉行にすぎなかった信秀の覇権がもたらされた理由は何だったのか、また信秀が信長に残した遺産は何だったのかを考察してみました。

この時期は史料が少ないだけでなく、文書の年次比定が難しかったり、史料同士で矛盾していたり、人名比定がよくわからなかったりといった大変な困難が伴います。一つの史料の年次なり解釈を間違えただけで、全体に影響してきます。実際、間違えているかもしれません。
下村信博氏をはじめとする優れた先行研究を参考にさせていただきました。

【2007/12/24 22:00】 | 信長
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一昨日(22日)、共同研究の太田牛一『信長記』調査のために、共同研究のメンバーとともに大阪・吹田市のK氏宅を訪問。
先々月の丹波市、先月の大阪歴史博物館、今月の富山県文書館に引き続いて、今月2度目の調査。
すごいペースでの調査が進んでいる。どこでも、新しい知見が出てきている。

これまでは公共機関所蔵史料が対象だったが、今回は初めて個人所蔵の史料調査。K家は近世に太田牛一の子孫家と姻戚関係になっている。
郊外の庭の広い立派な邸宅だった。あいにくの雨だったが、庭にたわわに実っていた黄色の花梨のほのかな甘い香りがした。

品のよい令夫人の出迎えともてなしに一同恐縮する。K家が高松・小豆島から吹田に移られた経緯などをうかがう。この史料も先代当主が隠居された小豆島に保管されていたために、戦災を免れて現存しているとのこと。貴重な来歴だと感じ入った。

さっそく客間の一室をお借りして調査・撮影となる。
「信長記」のほか、近世文書や絵図などもあり、目的外だったが、まことに興味深かった。K家は近世の庄屋だったようである。

「信長記」そのものもなかなか記述に興味深い点があった。
また貴重な体験をさせてもらった。

来月もまた都内で調査があるらしい。
これも楽しみである。




【2007/12/24 14:33】 | 信長
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信長
武藤 臼
こんばんわ
すっかり押し迫りましたがお忙しいようですね

今月の歴読よみました。
信秀の勢力の消長の話、自分的には初めてのものだったのでとても興味深く読ませて頂きました。

平手政秀についてひとこと書かれていましたが、
数年前くらい?だと確執説なども見受けましたが、
桐野さん的にはあまり重きを置かれておられないのですか?

平手政秀の自害
桐野作人
武藤さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿をさっそく読んでいただき有難うございます。

信長と平手の息子が馬をめぐって争ったということは『信長公記』にも書かれていますね。この記事が平手政秀の自害の直前に書かれているので、自害の一因ではないかと推測されているのだと思います。
おそらく確執説とは、そのことだと思いますが。

むろん、その記事は承知しておりましたが、文脈の関係で省いただけで、考慮していないわけではありません。
同書には一応、信長の不真面目さを悔やんで自害したと書いてありますので、まずはその直接的な原因を優先しただけです。


平手政秀の自害
武藤 臼
早速コメント頂き恐れ入ります
内容了解しました

『信長記』調査
磯部
桐野先生、おはようございます。

先生のおっしゃる通り、『信長記』の調査が進んでおられますね。
K家に所蔵されている『信長記』とは、W氏が、かつて「吹田に残る『信長記』」で紹介された本だと思います。同家所蔵の『太田系図』の内容についても、できれば、ご紹介いただきたいと願っております。
また、富山県での調査については、以前、簡単に触れておられましたが、先生のご調査の目的は小生の推測通りだったようです。ただし、寄託されていることは存じませんでした。ご学恩に感謝申し上げます。
大阪歴史博物館でのご調査を併せて、太田家ゆかりの家に伝来する『信長記』については網羅されたことになりますね。
調査・研究のご報告を期待して待っております。

お詳しいですね
桐野作人
磯部さん、こんばんは。

吹田の「信長記」はご指摘のように、W氏が以前に紹介されたものです。
もちろん、「大田系図」もありました。一応、ざっと目を通しましたが、共同研究ゆえ、内容を私から紹介することができません。お許し下さい。



『中古日本治乱記』と秀吉の書状
Tm.
桐野先生どうも。

『中古日本治乱記』の調査を続けておりますが、本当に秀吉の祐筆であったとされる山中長俊の手になるものかというと疑問もあります。
ただ、やはり明智秀満を「左馬助」と呼んではいるものの、「元ハ濃州ノ住人三宅弥平次ト云」とも記されており、また諱を「秀・矢見」としていたりもします。

ご示唆あった論文の著者の菊池眞一さんにメールでお尋ねしたところ、
  『中古日本治乱記』は手におえず、放り出してしまいました。
  山中長俊について詳細が不明なので、何とも言えません。
  後人の仮託の可能性がかなりあるかと存じます。
  歴史家が扱わない所をみると、歴史家は仮託作と見ているのだと思います。
  日本史・中世史・戦国史・近世史に詳しい方にお尋ねください。
との回答をいただきました。

してみれば、『太平記』の後を承ける形で著されたとのこと(序文)からも、元禄期刊行の『後太平記』との関連が窺われ、『後太平』が『中古』を参照にしているとの論文(西丸桂子・『甲南国文』44)もありますが、その逆もありかなと考えたりもしています。

ただ、明らかに偽作と思われる跋文の主「太田和泉守資方」(序文によれば長俊の朋友)とは太田牛一のことだと考えられ、「方」は「房」の誤記と思われますが、「資房」という諱は一般的(=信定)ではないだけに注目されるのではないでしょうか。
わざわざ牛一の名を持ち出しているあたり、小瀬甫庵への対抗意識が窺えるのではないかと思われます。

つまり『中古』は、『甫庵信長記』の刊行に刺激された長俊の嫡孫が、祖父の素稿に手を加え成立させたものと考えられるのではないでしょうか。

それと同書には、秀吉が信長の出馬を乞い菅谷長頼に送った書状(天正10・5/15付)が収録されているのですが、既知のものでしょうか。やはり偽作なのでしょうか。


菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状
桐野作人
Tm.さん、こんばんは。

『中古日本治乱記』は難物のようですね。
もっとも、織豊移行期だけに絞り込めば、さほどではないかもしれませんが。
ただ、「太田和泉守資方」なる記述を見ると、やはり信頼性という点では?が付きますね。

菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか? 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。



Tm.
桐野先生どうも。

>菅屋長頼宛て秀吉書状ですが、『甫庵太閤記』所収のものと同文でしょうか?
 同文なら、甫庵から転写した可能性が高く、極めて怪しいですね。

これまで『甫太』は読んだことがありませんでしたが、確かに東大史料編纂所のデータベースで検索したところ同じものです。既に同書状への疑問は『真説本能寺』でも述べられていましたね(笑
同じく『後太平記』も読んだことがないのですが、本能寺の変以前で終わっているとのことなので、『中古日本治乱記』はその後を追加補足し成立したものかもしれません。

ただそれが、『甫太』のみならず『川角太閤記』(家康饗応役の一件)や『稲葉家記』『明智軍記』(齋藤利三の処分)そして『元親記』(四国政策の転換)等々と、先の「信長の焦衣」の件を含め多岐に亘っており、あたかも現代の本能寺本を読んでいるようなのですが、他にそうした文献はあるのでしょうか?
何れにしても、同一の逸話の載る各文献との照合が必要なようですから大変です。

それと『中古』では、『川角』のような生魚が腐っていた云々はなく、光秀が不要となった饗応の諸道具を琵琶湖へ投げ捨てたとあるのですが、この一件と『多聞院日記』5月18日の条に見られる「寺門ノハ盃臺不入御意、」は何か関連はないでしょうか?
光秀と大和の関わりを考えるに、「去十五(日)ニ盃臺・樽三荷・小折二合・畑茶[十斤]進上ノ處、」というのが光秀の指示によるものであり、光秀の饗応役解任(予定通り?)と相俟ってそのように伝わったのではないでしょうか。

さらに『中古』ではその一件に続いて、信州出陣中に起きた利三を巡る一件が光秀の謀叛の理由の一つとして述べられているのですが、フロイスが『日本史』で饗応準備中の信長と光秀の確執を伝えているのは、日本側で語られるところのそうした時系列を理解出来ずに、あたかも安土での出来事と誤認していたのではないでしょうか。
密室の出来事ながらフロイスがそれを知り得たのを、イエズス会関係者が織田権力内に云々とするよりも、そう考えるのが自然ではないでしょうか。
以前の議論にも関わることなので・・・・


考えすぎでは
桐野作人
Tm.さん、こんにちは。

『中古~』と『多聞院日記』の記事を結びつけるのは多少強引ではないでしょうか。光秀が興福寺の献上品までいちいちチェックしているとは思えないのです。『多聞院』には光秀の名前は出てきませんし、興福寺側があれこれ工夫を凝らして準備したようにしか読めませんが……。

『多聞院』天正10年5月18日条ですが、これは興福寺の両門跡である大乗院と一乗院の双方から安土へ献上品を贈った記事ですが、大乗院(大門)のほうは「比類無し」と褒められたのに、「寺門」(一乗院か学侶方か)の「盃臺」は信長の「御意に入らず」ということになったわけですね。

これは拙著『真説本能寺』(31頁あたり)にも少し書きましたが、『多聞院』5月12日条にある「従学侶サヰシキノアヤツリ張良[三尺五寸ノ臺]」が信長の気に入らなかったということではないでしょうか。
「臺」というのは、どうやら一種の工芸品のようで、この場合、1メートルくらいのかなり大きい彩色された張良の操り人形のようですね。

なぜ、信長が気に入らなかったのか、多聞院英俊は「張良」と「鞍馬天狗」という能の演目が牛若丸=源義経を賛美するもので、平家の都落ちを描いていることから、平氏を自称する信長の意に添わなかったのではないかという解釈ですね。

これはあくまで英俊の推測であって、信長がそう思っていたかどうかはわかりません。
いずれにしろ、光秀とは無関係の文脈ではないでしょうか。

余談ですが、『中古~』の成立時期はわかっているのでしょうか?
最近、ある資料を読んでいたら、同書の成立が慶長7年(1602)と書かれているのを見ました。それが妥当なのかどうか、不勉強で知りませんが、もしそうなら、太田牛一『信長記』や甫庵『太閤記』よりも早く成立していることになるのでしょうかね。
前回書いた、菅屋長頼宛て羽柴秀吉書状も甫庵→中古へと転写されたというのも、逆だったかもしれませんね。

中山幸俊と黒川道祐
Tm.
桐野先生どうも。

まあ実際に『中古』や『川角』のような出来事があったとは思いませんが、後代そのような咄が作られる一端が『多聞』のそれにあったのではないかと思った次第です。

『中古』の成立時期ですが、齋藤利三の第4子について「後ニハ春日局ト云」とあることからも、最終的には寛永7年(1629)を下るものと思われます。
尤も部分部分で後代の加筆があるのかも知れませんが、少なくとも慶長7年(1602)ではないでしょうね。
その点からも、真の著者は長俊の嫡孫の幸俊ではなかったのかと考える次第です。

ちなみに、幸俊は当初、秀頼に仕え、大坂落城後は一時京に隠棲し、後に安芸浅野家に仕えたとされますが、その浅野家の儒医であったのが『雍州府志』の著者の黒川道祐とのことですから、両者に何らかの交遊があったのではないかとも推測され、先の「信長の焦衣」絡みでそこに『中古』の成立時期を解く鍵があるのではないかと考えています。

また、『中古』と同じ話は『増補信長記』にも記載されているとのことですから、『総見記』や『織田軍記』ではどうなっているのかも確認しなければなりませんね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第38回
―信長に対する不満一因―

小生のコラム連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」からアクセスできます。

今回は織豊期の関白太政大臣・近衛前久を取り上げました。
前久は天正3年(1575)暮れから翌年にかけて、半年ほど薩摩に滞在しています。
とくに薩州家の島津義虎の所領、出水に長期滞在して、その痕跡を今に残しています。
私の郷里だということもあり、ぜひそれを紹介したいと思い、地元の歴史民俗資料館から、前久の揮毫の写真を拝借することができました。

サブタイトルが少し誤解を招くかもしれません。
信長と前久が対立するようにみえてしまいますが、それは本意ではありません。
将軍義昭との不和で出奔した前久は本願寺や丹波に在国しますが、義昭を追放した信長の帰洛要請に応じていったん帰国しました。
それからしばらくして、九州に下向するわけですが、コラムにも書いたように、信長への所領の不満を書いているのは事実です。ただ、それは織田権力内での近衛家の立ち位置が信長との間で一時的に調整できなかったというだけのことで、長期にわたる対立というわけではありません。

個人的には、『歴史読本』誌本年11月号に書いたように、近衛家の家督を信基に継がせたい前久に対して、将軍義昭がそれを認めないという状態が長く続いており、信長との間でもそれがすぐには解決していなかった点が重要ではないかと思っています。

その傍証として、前久が再帰洛すると、信長は信基を自分の二条御新造で元服させて、家督とするとともに、前久には新たに山城普賢寺1500石を与えるという大盤振る舞いをしています。家督問題と所領問題に対する信長の処置によって、前久の不満はすべて解消されたといってよいでしょう。

また、前久の九州下向には信長の暗黙の了解があったのではないかと思います。

次回は、前久の息子、左大臣信尹(旧名信基、信輔、のち関白)の坊津配流を取り上げたいと思います。
親子して薩摩に下向するという変わった摂関家です(笑)。

【2007/12/23 01:41】 | さつま人国誌
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『中古日本治乱記』
Tm.
桐野先生どうも。
久しぶりに信長関連の話題ということでお邪魔します。

歴読最新号はまだ拝見しておりませんが、ついに津本陽氏まで「本能寺の変」本を出されましたね(笑
案の定やれやれの内容でしたが、最近k2さんがブログ(泰巖宗安記)で信長の遺体問題について興味深い史料を紹介されています。

従来『信長公阿弥陀寺由緒之記録』については良く知られており、『信長の棺』のネタ元にもなっていますが、k2さんのご紹介によれば、古くは焼け跡で信長の着ていたと思しき焦衣が発見されていたとする史料(織田家の記録にも)があったようですね。
なかでも『中古日本治乱記』は、秀吉の祐筆であった山中長俊の手になる史書ということで興味が持たれるところなのですが、先生は同書を読まれていらっしゃいますか。

同書についてはなるべく早く読んでみなくてはと思っているのですが、原書?がもし、くずし文字であったとすると、ズブの素人である自分には簡単には読めず難儀しそうに思われます。
それについて、従来なにか同書について、特に史書として採り上げた論文等についてご存知のことがあればお教え願えませんでしょうか。

ご多忙だとは存じますが宜しく願います。

中古日本治乱記
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

表題の史料については、一部複写はもっていたような気がしますが、該当部分ではなかったかもしれません。
それについての論文なども、不勉強で心当たりはありませんが、『甲南女子大学紀要』30号に「『中古日本治乱記』目録」という論文があるようですね(国会図書館雑誌データベース)。もしかしたら解題というか、解説はあるかもしれませんね。

ただ、信長の着物が焼け残っていたというのはどうでしょうか。それだけを見るかぎり、あまり信用できる記事だとは思えないのですが。信長の着衣だと認定できるのであれば、遺体も認定できたということですよね? にわかには信じがたいのですが……。


山科言経の墓参り
Tm.
桐野先生どうも。

確かに事の真偽については疑わしいものの、割と早い時期にそうした噂が上っていたということは自分には初耳であり、これまで表立って取り上げられたことは無かったのではないでしょうか?

<泰巖宗安記>にも述べさせていただきましたが、山科言経が「変」から1ヶ月後の7月11日に阿弥陀寺の信長の墓に参り、以降も度々参っていることを考えると、阿弥陀寺で何かそのように喧伝するところがあったのではないでしょうか。

『中古日本治乱記』の記事も、史料としてのの信憑性は軍記ものの常として差っ引いて考える必要があるかもしれませんが、同時代を生きた人物の記録として一読の価値はあるのではないでしょうか。
そのような訳で一寸、注目しております。

近衛前久の薩摩下向
ばんない
こんばんは。年末も押し迫ってから大きな仕事が目白押しのようで、お体お大事にお過ごし下さい。

ところで近衛前久の薩摩下向ですが、織田信長の内意を受けて九州の大名間の調停を測ったのではと言われていたような(『近世公家社会の研究』橋本政宣)。

信長の「内意」?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。
体調まで心配していただき、恐縮です。今のところ、おかげさまで元気にしております。

ご紹介の論文は、橋本政宣「近衛前久の薩摩下向」ですね。
一応、承知しておりますが、近衛前久の九州下向の目的が信長の内意によって、九州の大名間の調停をするためだったという結論は筋が通っているようにも見えますが、どうも納得できかねる面もあるんですよね。

前久が島津と伊東、島津と相良の和睦調停を行おうとしたことは間違いなく、とくに後者は成就していると思います。

しかし、九州の大名間の調停が信長にとって、直接あるいは喫緊の利害に関わるとはとても思えません。信長はまだ毛利氏を敵にしていない段階ですから、九州をどうするか、積極的に関与しなければならない理由があるとは思えないのです。

むしろ、前久がどうしても九州に行きたいと言いだしたので、しかたなく追認したというところが真相に近いのではないかなと思っております。
まあ、前久に同行した伊勢貞知が信長と前久のどちらに属しているかは意外と重要ではないかと思っていますが、仮に信長に属していたからといって、信長の積極的な関与の傍証になるのかどうか、疑問がないわけでもありません。

前久自身が島津義久宛の書状で述べている「未だ家領等も渡さず、万端不如意」というのが、九州下向の一番の理由だったのではないでしょうか(それがすべてというわけではありませんが)。
おそらく、前久は家領と家督の問題で、信長に対して自分の要求を通すためにダダをこねていたんじゃないか、その手段が九州下向だったのではないかと推測しています。

その後、前久が帰洛することになったのは、信長から帰洛要請があったのがきっかけです。
それはおそらく信長が前久の要求を呑むという回答だったから、前久は帰洛する気になったのではと思います。
その証拠に、前久が帰洛するとすぐさま、信基の元服、山城普賢寺1500石知行がなされています。どうも、九州下向は前久の信長に対する条件闘争だったのではないかと思っているのですが……。

近衛前久の大名間調停
ばんない
こんばんは。

桐野さんは
「前久の九州下向=一種のストライキ(?)」
というふうにお考えなのかと受け取りました。
ただ、そうなるとお話の中にも出てきている大名間の調停を行ったという事実が腑に落ちないのです。泥沼の南九州の戦国大名間の争いの調停は、ストライキの片手間にするには面倒なお仕事に思えますし、事実、この時に相良義陽に修理大夫の官職を約束して、島津義久や大友義鎮の怒りを買ってませんでしたっけ。それとも前久お得意のお節介焼き(汗)に加えて、ただ単に下向するのはプライドが許さないので、そういう理由付けをした上で下向したんでしょうか。

ところで話が前後しますが、義虎御願で前久揮毫の三十六歌仙図の絵は狩野派の絵師なんですね。顔つきが狩野派っぽくないようにも見えますが。この絵師も前久が一緒に連れてきたんでしょうか。

狩野雄尽
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

近衛前久の九州下向は、やはり信長への「ストライキ」という面が強いのではないかと思います。
あとは、摂関家筆頭のプライドでしょうかね。草深い九州まで下向する限りは、前関白の威光を見せつけたいという気持ちもあったのでは。

一方で「万端不如意」ですから、諸大名から金銭その他を獲得する必要もあります。そのためには、大友にも伊東にも相良にも島津にも八方美人的にいい顔をしなければならなくなり、畢竟、みんな仲良くしてねという和睦調停しかないのではと思います。

しかし、諸大名の利害が対立しているわけですから、到底それは無理で、諸大名は前久の面子を立てながらも、その提案を慎重に取捨選択したということでは。
たとえば、島津は相良との和睦は受け容れても、伊東との和睦は受け容れないという具合で、自分の利害に即して判断したということではないでしょうか。

あと、「三十六歌仙絵扁額」の絵師狩野雄尽ですが、どこのどういう人だか、まったくわかりません。忘れられた絵師ではないでしょうか。おそらく狩野永徳かその父、松栄と同時代の絵師ですよね。狩野一族ではなく、弟子筋でしょうね。

また前久一行のメンバーは『旧記雑録後編一』825号に掲載されていますが、狩野雄尽はおりません。

考えられるのは、薩州家の島津義虎が永禄6年(1563)に上洛しています。そのとき、雄尽に絵扁額を描いてもらったのではないでしょうか。
そして、前久が下向したとき、和歌の部分を追筆してもらったのではと推定しております。

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久品仏

一昨日(19日)、世田谷奥沢の九品仏(九品仏浄真寺)で、表題の法要に参列した。

広郷の子孫である調所一郎氏のお誘いによるもの。
じつは昨年も誘われていたが、折悪しくノロウィルスにやられたときで欠席したので、今年は何としてもと思い、参列できてよかった。

九品仏は都心に近い立地ながら、境内が広くて閑静なところである。
増上寺の別院らしいが、じつに風情がよい。近場にあったら、散歩コースにしたいくらいだ。

参列者は調所さんのご家族や、友人知人の方々。
僧侶による読経ののち、墓所での焼香をとりおこなう。

そのあと、控えの間で懇親会となった。
なかには自顕流の関係者も何人かおいでだった。マイミクの秘剣さんもおられた。また作家の上城恒夫さんにもご挨拶する。私の高校の先輩もおられて話がはずむ。拙著「島津義久」を持参された方もおいでで、有難かった。
上城さんのご紹介の餃子屋さんがおいしいらしい。ニンニクを使わない餃子とか。
新年会をそこでやろうということになった。

調所さんのお話によると、来年の大河「篤姫」で調所広郷を演じる平幹二郎さんから丁寧な挨拶状が届いたとのこと。出番は初回と二回目だけで、すでに収録も終わっているそうだが、注意深く演じられたそうな。
どんな調所像になっているのだろうか。今から見るのが楽しみである。

調所広郷は島津久光、川路利良とともに、不当な評価を改める必要がある人物だと思う。

【2007/12/21 13:34】 | 雑記
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御礼
調所
桐野さま 平日の午前から有難うございました。昨年あたりから法事を兼ねた忘年会ノリにしました。鹿児島関係者を軸にした交流の場にした方が笑左の霊も喜ぶのではないかと考えたからです。今年は没後159年でしたから160回忌でしたが、来年は分けた遺骨や遺髪が鹿児島福昌寺跡の墓にもございますので没後160年の行事をささやかに執り行うつもりです。また宜しくお願い申し上げます。

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小学館古文書塾「てらこや」の新しい講座が来年1月から始まります。
大河ドラマに合わせた内容になっています。
興味のある方は参加してみませんか。

■ 特別講座「天璋院篤姫と小松帶刀」

講師:桐野作人(歴史作家)
日程:全5回(1/15、1/29、2/12、2/26、3/11)火曜日、19:00〜20:30(1回90分)
会場:小学館アカデミー
    〒101-0051 東京都千代田区神保町2-14,SP神保町ビル1F
    交通:都営地下鉄・東京メトロ半蔵門線「神保町」駅より徒歩約1分、JR「水
道橋」駅より徒歩約12分
    会場案内図はこちら(別ウインドウで表示されます)

【講座内容】
大河ドラマ「篤姫」の関連シリーズ3回目ですが、今回は趣向を変えて、薩摩藩家老の小松帯刀をメインに取り上げます。
小松は西郷隆盛・大久保利通と並び称された人でしたが、あまり知られておらず、知名度も低いです。ここでは、篤姫の相手役として、今回はじめて大きくクローズアップされる小松の事績を詳しく見ていきます。
小松のわずかに残っている日記や、200点以上現存する小松文書を中心に進めていき、小松のことだけでなく幕末薩摩藩や幕末政局への理解を深めたいと思います。

【講師からひとこと】
現在、私が一番関心をもっている人物です。
史料もそれなりに収集しておりますので、その成果の一部を受講者のみなさんに還元し、小松の人物像をより深めていけたらと思います。
幕末薩摩藩の美男の大立物の魅力を味わいましょう。

【申込先】
小学館アカデミーのサイトにあるフリーダイヤルでお問い合わせ下さい。こちらです(ただし、講座内容はまだ更新されていません)。

【2007/12/17 14:02】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第37回
―義弘食ったぼっけもん―

小生の連載が更新になりました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回まで、幕末の”ぼっけもん”桐野利秋でしたが、今回は戦国の”ぼっけもん”といえる中馬大蔵です。
ご存じの方もおいでかもしれません。
よく知られた逸話を中心にまとめました。じつは、関ヶ原以外のことも書いたのですが、分量オーバーのため、削除せざるをえませんでした。
以前に撮影していた中馬の墓の写真も活用できた。この墓を探すのに苦労した覚えがある。

余談ながら、小生の縁者に中馬の子孫がいる。
古文書や系図などがあるらしい。一度、拝見したいものである。

次回は、親子して薩摩に下向した近衛前久・信尹の逸話か、あるいは幕末に設置された薩摩藩の開成所のどちらを取り上げようかと迷っている。



【2007/12/15 11:54】 | さつま人国誌
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ぼっけもん新聞
ようやく、我が家の故郷小漉のぼっけもんのお出ましですね。
嬉しいです。
もちろん、私の個人新聞の題は、少しでも彼のような「ぼっけもん」に近づければと思い名づけました。
 中馬の逸話を拝見するたびに、薩摩隼人を体現しているように思えて私の内に火がつきます。
 
 質問です。
鹿児島の歴史は、縄文、弥生、熊襲、隼人から突然島津に飛んでいるように思えるのですが・・・
鹿児島を島津が統一する前の歴史が知りたいのですが、何か良い書籍をご存知ではないでしょうか?
ご返答頂ければ幸いです。


『鹿児島県の歴史』
桐野作人
ぼっけもん新聞さん、おはようございます。

中馬大蔵の墓のあるあたりは小漉というんですか?
もう少し別の地名だったような記憶もあるのですが、よく思い出せません……。

お尋ねの件ですが、山川出版社が刊行している県史シリーズのうちの『鹿児島県の歴史』が概説書としてはいいのではないでしょうか。バランスのとれた記述ですし、値段もお手頃(1.900円)です。
島津時代以前のことも詳しく書かれていますよ。


ぼっけもん新聞
中馬の墓は、脇本ですよね。
すいません。
山平家が代々住んでいる場所が、脇本小漉です。
勘違いしました。
 
書籍の件、ありがとうございます。
早速、入手いたします。
また、調べ物に困ったらお尋ねします。
毎回、丁寧な返答、感謝しています。

瀬之浦か
桐野作人
ぼっけもん新聞さん、こんばんは。

ちょっと地図を調べてみたら、中馬大蔵の墓は脇本の瀬之浦だったような気がします。

小漉は、長島に面した海側の方なんですね。
うちの実家から笠山が見えるのですが、その反対側にあたるようですね。
お互い、意外と近いところに住んでいたんですね。
ちなみに、脇本の近くに桐野という地名があります。
小生の名字はその地名にちなんでいるんじゃないかと思っていますが……。

近いですね。
ぼっけもん新聞
 私の家は、壇ノ浦の戦いで落ち延びた平家の落人の末裔と聞いています。
小漉部落を開拓して暮らしていました。
ここの部落には山平の姓が多いです。
また、島津統治時には、名頭として勤めてたそうです。
山平という姓について様々な書籍で調べたのですが、未だにあまり分かりません。
何かご存知ではないでしょうか?


山平氏?
桐野作人
ぼっけもん新聞さん、こんにちは。

山平という名字はあまり聞きませんね。
私が知っているのは、鹿児島の人名を集めた『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川書店)です。おそらく鹿児島の名字のほとんどを網羅しているのではないかと思いますが、山平氏は立項されていませんでした。
平家の落人という特殊性のゆえでしょうか。またそのため、あまり外に向かって出ていかず、集落内に留まることが多かったためでしょうか。
山平の「平」は平家を暗示しているのでしょうかね。


ぼっけもん新聞
「平」は平家を暗示しているそうです。
GHQに獲られる以前は、落人時代から受け継がれていた家宝の刀があったそうです。
山平は、小漉で名頭として「阿久根脇本小学校100年史」だったと思いますが、これにしか記載されていません。
 不思議な家柄です。

名頭
桐野作人
ぼっけもん新聞さん、こんばんは。

ご先祖が小漉で名頭だったとのこと。
名頭は「みょうとう」と読み、薩摩藩独特の村落支配制度である「門割制度」における「門」の代表ですね。「門」は数戸の百姓の家で構成されています。
身分的には百姓であり、武士ではありません。となると、前近代には名字を持たなかった可能性が高いですね。
そうであれば、山平名字は明治以降に新たに作られたのかもしれません。各種の人名辞典に掲載されていない理由とも合致します。


勉強になります。
ぼっけもん新聞
名頭が百姓だったとは、知りませんでした。
門を支配する立場ということは、知っていましたが、農民なのか武士なのか、疑問に思っていました。
明治以降に新たに作られた戸籍という可能性が高いですね。
私も様々な人名辞典で調べましたが、ありませんでした。
薩摩では「生かさず殺さず」の農民ですね。
ご先祖の苦労が偲ばれます。
 母方の祖母は、角野といい正確には忘れましたが、江戸時代は違う苗字だったようです。
ちなみに、祖母の父(私の曾祖父)までは代々、医師だったそうです。
患者に渡す薬袋に○に十の家紋が入っているのが不思議ですが・・・ちなみに墓石にも同じ家紋が入っています。
島津家以外にも使用できたのでしょうか。

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本日午前10時より、西新宿の京王プラザで、表題の講演会に出講。

事前に受講者500人以上と聞かされていた。
主催者は折からの雨のため、受講者が減るのではないかと心配していたが、結局、杞憂に終わったそうだ。

講演は、重富島津家の当主島津晴久氏と、不肖小生が講師となった。
まず、晴久氏が島津本家の歴史を手際よく紹介され、合わせて、重富島津家の成り立ちと、現在までの流れを貴重な古写真も使って解説された。
とくに、鹿児島の本家を囲むように、一門四家(重富・加治木・垂水・今和泉)と、一門を含めた八家の残り四家(日置・花岡・宮之城・都城)が配置されていることを、地図を使って解説された。受講者にもわかりやすかったと思う。

晴久氏が重富島津家と篤姫の実家である今和泉島津家の関係を最後に解説されて、その後を小生が引き取るという形になった。事前に打ち合わせをしていなかったが、晴久氏の巧みな段取りは有難かった。

私は相変わらずレジュメ枚数が多かった(爆)。
与えられた時間は1時間だったが、結局、20分ほどオーバーしたのではないか。時計を最後見なかったので、よくわからない。
島津家と徳川家が関ヶ原以来、良好な関係にあったこと。
竹姫(浄岸院)―茂姫(広大院)―篤姫(天璋院)という3人の女性から、島津家と徳川家を見ていくという形にした。

○島津斉彬が篤姫をどう評していたか?
○篤姫の体格はどうだったか?
○慶応4年(1868)2月、篤姫が薩藩隊長(西郷隆盛の目に触れることを想定)に宛てた徳川家存続を求める嘆願書
○勝海舟と篤姫

などを中心に話す。
あとで聞いたところによると、篤姫の嘆願書が長文にもかかわらず、よかったという声が多かったそうな。

講演終了後、分不相応なサイン会と相成る。
多くの方々に拙著を買っていただき、まことに有難かった。
とくに、私の高校時代の2年先輩という方が2人でおいでになっていたのはびっくりした。要するに同時期に同じキャンパスにいたのである。
とくに鹿児島出身者から声をかけていただいた。

多数の受講者もあり、どうなることやらと思ったが、みなさんに熱心に聴いていただき、何とか終えることができて、ホッとした。



【2007/12/13 20:21】 | 幕末維新
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これまで何度か紹介した週刊朝日の連載「週刊司馬遼太郎」の「翔ぶが如く」編が今週発売号(12/21号)でいよいよ最終回です。詳しくはここ

先週号で小生の出番は終わったと思っていたのですが、今週号でもまたコメントを取り上げていただきました。小生のコメントは2カ所あります。

○大久保が征韓論後、西郷との関係修復を試みたこと。
○榎本武揚らの釈放に見せた西郷の国際感覚。

とくに、トリのコメントにしていただいたのは光栄でした。
何度も取り上げていただき、有難いかぎりです。
担当編集者の方との呼吸や問題意識が共鳴したのかもしれません。

東京は本日発売です。
よかったら、読んで下さいませ。


【2007/12/11 16:27】 | 幕末維新
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調所
今晩は!その西郷ドンの曾孫隆文氏と私達兄弟、昨夜東京の麻布で食事し白金でお茶なんてミーハーな時を過ごしてました。丁度、お互いの先祖は対立してたから、あの世でなんて言って見てるかねー、なんて話が出た所でした。

どうも
桐野作人
調所さん、こんばんは。

西郷隆文さんとご一緒でしたか。もしかしてずっと在京中なんでしょうか?
麻布から白金なんてオシャレな場所でしたね。

先日、CATVの「風の隼人」終わりました。
なかなかよくできたドラマでした。
調所広郷の最期はすごくよかったですね。
斉彬の名君と謀略家の二面性もよく描いていました。


調所
風の隼人は結局見れずに終わって残念です。どなたかフルで録画されてませんでしょうか?

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第36回
―野村忍介との因縁話も―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」にアクセスすればご覧になれます。

今回は桐野利秋編の最終回です。
これまでの連載でもっとも長い5回の連載でした。
それだけ書くことがあるのと、個人的な思い入れもあるからですが、今回は西南戦争で、西郷軍の内部対立、とくに桐野と野村忍介の意見の食い違いについて書きました。

西郷軍の挙兵は、戦略的に見ると、その補給能力からして短期決戦であるべきで、機動力を活かして速やかに九州の外に出て、長州や土佐の反政府士族と合流したり、農民一揆との結合を実現することが勝利への道だったと思いますが、いかんせん、熊本城攻撃と決したことにより、政府軍有利の長期戦へと引きずり込まれてしまいました。
それは、西郷暗殺計画を問責するという挙兵目的(万を超える大軍の挙兵の名分としてはいかがか)に規定されていたともいえましょう。
西郷や桐野は自分たちも参画したがために、明治政府の打倒を呼びかけることができず、それでも挙兵しながら、かつ他の広範な反政府勢力と結合しない(できない)という自己撞着に陥ったようにも思います。

そうした西郷軍の特性(長所・短所)を知り尽くして、短期決戦に活路を見出すという比較的理にかなった戦術眼をもっていたのが野村忍介だったと思います。
野村の献策が実現していたら、西南戦争はもっと違った展開になっていたかもしれません。でも、それは西郷軍の勝利というよりも、さらに泥沼の内戦状態に陥った可能性もあります。
果たして、どちらがよかったのか、歴史の見方に関わる問題かもしれません。

次回は中馬大蔵を書こうかと思っているところです。

【2007/12/08 16:40】 | さつま人国誌
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中村太郎
桐野様

以前一度、コメントさせていただいた者です。
「さつま人国誌」に桐野利秋を5回も連載していただき、感激しています。
利秋と忍介、まだ不勉強で、司馬氏の『翔ぶが如く』以上のことは知りません。
「野村忍介自叙伝写本」は鹿児島県立図書館でコピーしてきたのに未だに読んでいないといった恥ずかしい状態です。
ところで6・7日と出水市に行ってきました。
出水市へは、30年前に利秋の「京在日記」のことで田島秀隆先生にお会いするためにいちど行ったことがあります。
今回はツルがめあてでしたが、感応寺で忠久公はじめ島津氏五代の墓も見学、歴史民族資料館にも参りました。
新幹線の駅舎がツルを模していたのはさすがでした。(笑)
山々がとてもきれいで、桐野様はステキなところでお育ちになられたのですね。
今度は桜の季節にぜひとも行きたいと考えております。




野村忍介自叙伝写本
桐野作人
中村太郎さん、こんばんは。

ハンドル名は桐野の僕からとられたのでしょうか。
「野村忍介自叙伝写本」ですが、県立図書館のデータベースではヒットしなかったので、所蔵していないと思っていたのですが、ありますか。もしかしてだいぶ前からあるんでしょうかね。だったら、不勉強でした。いつもお世話になっているから、ちゃんと問い合わせすべきだったかもしれません。

出水にも行かれたんですね。
「京在日記」を翻刻された田島先生とは、私も親しくさせていただき、いろいろ励ましてもらいましたが、惜しいことに亡くなられましたね。
30年前に行かれたとは、よほどのベテランでいらっしゃるのですね。

感応寺は私も10年ほど前に行ったことがあります。

鹿児島事情にお詳しいようなので、今後ともよろしく。



中村太郎
こんばんは。

お察しのとおり、ハンドル名は利秋の僕の太郎から勝手にいただきました。
利秋が太郎と命名したと聞きますし・・・。

学生時代、利秋について調べるために鹿児島に行き、維新史料編さん所の先生方にいろいろ親切にしていただきました。
まだその頃は桐野の「京在日記」は今ほど"有名"でなく、田島先生にご連絡したところ、会うとおっしゃってくださいました
のでお伺いしました。
就職などで、ずっと利秋と離れていたのですが、ここ数年時間的余裕ができ、また調べなおしています。
でも、いかに学生時代勉強していなかったと反省しきりです。
それと、いい時代になったと思います。
コピーもそうそう取れなくて「写本」していましたから。
住まいは東京なのですが、国会図書館のコピーは高いので、鹿児島へ行くとなるべく県立図書館でコピーしてきます。(笑)
「野村忍介自叙伝写本」は偶然見つけました。
「西南戦争之記録」第2号(2003年11月 西南戦争を記録する会)に載っていて、会の代表者の高橋信武氏が解説しています。

桐野様のおかげで、堂満幸子先生の「吉田清成関係文書の紹介」の存在を知り、また新たな利秋の書簡を見ることができました。どうもありがとうございました。
ところで、「京在日記」の表紙の「京在日記」等の文字が日記中の利秋の筆跡とは違う感じなので、別人が書き入れたと私は推測しているのですが、桐野様はどう思われますか?

利秋が好きなだけで、鹿児島のことはほとんど無知です。
「さつま人国誌」で初めて聞くお名前の多いこと・・・・。
勉強させていただいております。

「西南戦争之記録」
桐野作人
中村太郎さん、こんにちは。

野村忍介の自叙伝はやはり「西南戦争之記録」所収でしたか。
だったら、よかったです。私もその本から使いましたので。
もしかして、だいぶ前から公表されていたのを、知らないでいたのかと思っていたものですから(笑)。

「京在日記」の表紙と本文の文字ですが、たしかに違うような気もしますが、表紙は楷書に近く、本文はくずし字ですから、同一人かどうか判断するのは難しいですね。
個人的には、本文のほうが達筆だと思います。本文が自筆だとすれば、表紙は後世、別人が付けたものでしょうかね。よくわかりません。

堂満さんの「吉田清成関係文書の紹介」の所収先はわかりましたか?




中村太郎
こんばんは。(と言うには遅い時刻ですが・・・・)

「吉田清成関係文書の紹介」について、ご心配いただき、ありがとうございます。
堂満先生の論文なので「黎明館調査研究報告」にあるかもしれないと検索しましたところ、見つけました。
早速、鹿児島県立図書館に複写サービスをおねがいしました。10日間の特別整理休館が途中にはいってしまいましたが、出水から帰ったら届いていました。
書簡の全てが写真掲載されているわけではないのに、その中に利秋の書簡が写真で掲載されていたのは本当にうれしかったです。
あらためて、桐野様に御礼申し上げます。

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本日昼過ぎ、富山での史料調査を終えてから帰京。
東京駅に着くと、その足でホテルオークラへ。

菊池寛賞授賞式(文芸春秋社)に出席のため。
マツノ書店の店主松村久氏の受賞に駆けつけた。
マツノ書店は拙ブログのリンク先でもあり、また度々紹介し、復刻本に何度か推薦文を書かせていただいた。

作品陳列

(受賞したマツノ書店の作品群、隣は小沢昭一氏分)

贈呈式には間に合わなかったが、パーティには間に合った。
着いてみると、ホテルの大広間は立錐の余地がないほど。1.000人以上はいただろう。

会場

人混みのなかを探して、すでに贈呈式から来ておられた大久保利泰(利通ご子孫)、勝田政治(国士舘大学教授、大久保利通研究者)、皆川真理子(東京龍馬会)の諸氏とようやく巡り会う。
そこへ、贈呈式を終えた松村氏も見え、お祝いの言葉を述べる。記念撮影もする。

立食形式だったので、フルコースでたくさん頂戴しました、はい。

大手出版社の文芸春秋社だけに、有名人も多かった。

受賞者では、

小沢昭一、市川団十郎、阿川弘之、桂三枝の諸氏を間近で見た。

作家・評論家は覚えているところで、

立花隆、保阪正康、半藤一利、宮城谷昌光、猪瀬直樹、椎名誠、大沢在昌、西木正明

などの諸氏を見かけた。

江夏豊氏もいた。

とにかくミーハーして、食べてました。


【2007/12/07 22:54】 | 雑記
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スタローン
こんにちは!
現在いろんなブログ応援しています。
応援ポチッ!

はじめまして。
富丸
こんにちは。富山在住の先生のファンなので、思わず書き込みしてしまいました。どのようなことについて調査をされたのか気になります。信長関連ででしょうか?越中は織田・上杉の攻防最前線で、魚津城の戦い、月岡野の戦いなどが興味深いところですが、史料的制約もあってよくわからないことが多いです。本能寺の変直前に光秀の密使が魚津篭城の上杉軍と連絡を取っていたという藤田達生氏の説もありますね。成果を期待しています。

ありがとうございます
桐野作人
富丸さん、はじめまして。

コメントいただき有難うございます。
富山にお住まいでしたか。魚はおいしくて、いい所ですね。
積雪しているのかと思っていたら、まったく雪はなく、東京と同じくらいの暖かでびっくりでした。重装備で行ったのですが(笑)。

目的は県文書館の所蔵する信長関係の史料調査でした。
前田家分家の富山藩には、「信長記」の筆者太田牛一の子孫が仕えていた関係から、史料が残されています。その調査でした。

特急で富山のひとつ前の駅が魚津でした。
私も柴田勝家らの魚津城攻めを思い出しました。
藤田説に関しては、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)で触れています。よかったら、読んで下さいませ。

今後ともご愛顧下さいませ。


富丸
コメントありがとうございます。

地球温暖化の影響でしょうか。最近は暖冬が多いです。北国の住人にとっては助かるのですが・・・

御本は拝読しております。藤田説は書状の日付確定に関して問題があり内容からもおかしいということでしたね。
太田牛一子孫については、おそらくご存知のことと思いますが、何号か失念しましたが『富山史壇』に岡部二郎氏の論考が載っております。谷口先生の「織田信長家臣人名辞典」にも不明とされていた牛一の享年や、最近先生が甫庵本「信長記」の再評価を試みられましたが、牛一の子孫と小瀬甫庵の子孫が養子縁組しているなど意外な事実が載っていて興味深かったです。また「太田」ではなく正しくは「大田」だともありました。ただでさえ牛一の読みが「ぎゅういち」か、「うしかず」かわからないのに(笑)

太田牛一
桐野作人
富丸さん、こんばんは。

はい、その史料を見てきました。情報源はご紹介の岡部氏の論文です。
たしかに、知行安堵状などの宛所が「太田」ではなく「大田」になっていましたね。
牛一の享年も書かれている年譜もありました。
富丸さんは大変お詳しいですね。
もしかして、越中史壇会に属しておられるのでしょうか?
今後、織田・前田・佐々関係の論文や新史料などありましたら、教えて下さいませ(あつかましい)。

富山駅ビル内の書店に拙著をまだ目立つように並べてくれていて、感激でした。


拝復
富丸
恐れ入ります。私は富山史壇会とは縁もゆかりもない素人の好事家に過ぎません。たまに図書館でチェックしてる程度なので、お役に立てることはあまりないと思いますが・・・『富山史壇』の他に『日本海文化研究所紀要』http://www.city.toyama.toyama.jp/division/kyouikuiinkai/nihonkai/tosyo.htmや、『北陸の中世城郭』http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Hinoki/7538/hsiro.htmlなどにも北陸戦国史関係の論文が載りますよ。

ご紹介多謝
桐野作人
富丸さん、こんばんは。

2つの研究会サイトのご紹介有難うございます。
日本海文化研究所の編纂した本を以前買ったような記憶があります。拙ブログのはじめのほうで紹介したような。
どちらも興味深いですね。
今後、参考にさせていただきます。

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本日から1泊で北陸に出張するため、更新ができません。
大雪のようなので、多少心配です。

【2007/12/06 00:35】 | 雑記
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週刊朝日今週発売号(12/14号)の連載「週刊司馬遼太郎」の「翔ぶが如く」編に小生がコメントしています。

西南戦争の開戦経緯や西郷隆盛の真意が奈辺にあったかを語っています。
私の冗長なしゃべりを担当記者の方がよくまとめてくれました。多謝。

なお、インタビュー記事には山口のマツノ書店店主の松村久氏が登場しています。復刻出版の舞台裏がよくわかります。
マツノ書店は今年の菊池寛賞を受賞しました。明後日(7日)は授賞式です。

関心のある方は読んで下さいませ。

【2007/12/05 00:14】 | 幕末維新
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歴史読本08年新年号(現在発売中)から、表題の連載を始めました。
詳しくはここです。

信長の戦争を、戦術・火器全般・軍事組織のあり方から見ていこうというものです。また他の戦国大名のそれと、どこが異なるのか、あるいは同じなのかを具体的に検証していければと考えています。

1回目は総論的なことを書きました。信長の戦争を「軍事革命」という観点から見ていこうというものです。
すでに、言い尽くされているではないかという指摘もあるでしょうし、また近年の織豊権力論や戦国大名論とは異なる部分もあるかもしれません。

何よりも史料と能力の不足から、どこまで書けるかはなはだ心細いかぎりです。
しかも、2年という長丁場、何とか完走できればと思います。
関心のある方は読んで下さいませ。

【2007/12/02 21:10】 | 信長
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Tm.
まずは遅ればせながら、ブログの再開おめでとうございます。色々と気を揉んでおりましたが(笑、うれしい限りです。

歴読08年新年号の御論考、早速拝読させていただきました。
泰巖宗安記でも紹介されていますが、最近、信長を否定的に捉えた出版が相次いでいます。
某書の「信長は小心者だった!」などというコピーは、必ずしも著者の意図を正しく反映したものではないとおもわれますが、それらは明らかに読者の気を惹かんがため、売らんがためのモノであり、結果として、それらに然したる目新しさはありません。

2年に亘る連載には色々とご苦労もあろうかと存じますが、毎号拝読出来ることを楽しみにいたしておりますので、くれぐれもお体ご自愛、健勝ならんこと申し上げます。

PS.以前ご示唆のあった光秀の出自についてですが、女性も後家(出家)の場合、実家ではなく婚家の苗字で呼ばれることもあったようなので、光秀の妹のツマキも妻木某の後家であったのかも知れませんね。

有難うございます
桐野作人
Tm. さん、こんばんは。

お言葉有難うございます。
「泰巖宗安記」さんのブログでも、いろいろご心配をおかけしました。
またよろしくお願いします。

光秀の出自についてですが、おそらく「光秀妹妻木殿」のことですよね。光秀が妻木名字でなかった可能性も考えられるというわけですね。そういう考え方もあるのかもしれませんが、実例はあるのでしょうか?




岐阜少将
『歴史読本』さっそく拝読させていただきました。
2年間の連載ということで、織田権力に興味のある者としては毎月の楽しみが増えて嬉しい限りです。
この間に『信長帝王伝』3巻が刊行されることも期待しております(笑)


Tm.
桐野先生どうも。

以前読んだ本を通勤中に読み直していて気が付いたことなのですが、岡野友彦・著『源氏と日本国王』(/夫婦別姓は日本の伝統?P28~)には、出典は記されていないものの、婚家の苗字で表記されている実例として「久我尼」「相馬尼」という名が挙げられています。

ただし岡野氏曰く、
  婚家の苗字で表記されているのは、夫に先立たれ、
  いわゆる「後家尼」となった時に限られるようである。
とのことであり、ツマキ(妻木)も、『言経』天正七年五月二日の条では小比丘尼(子どもの比丘尼か)の名が一緒に記されていることから、出家(あるいは還俗?)していた可能性も考えられるのではないでしょうか。

また信長の側室であったお鍋の方も、高畠氏の出自とされながら、専ら「小倉」「おくら」「小椋」殿などと婚家の苗字を以って呼ばれています。
彼女の場合、前夫・小倉右京亮との間に二児を儲けていたことが理由として考えられ、ツマキもまた、妻木某との間に子を生していたことから?、信長に仕えるうえで婚家の苗字で呼ばれていたのではないでしょうか。

なるほど
桐野作人
Tm. さん、こんにちは。

婚家の名字を名乗るケースがあるとのこと。
勉強になりました。
「妻木殿」もあまり固定観念で考えないほうがいいかもしれませんね。
ご教示有難うございました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第35回
―龍馬暗殺の究明に奔走―

連載が更新になりました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたらご覧になれます。

桐野利秋シリーズの4回目。
今回は近江屋事件と中村半次郎の関わりについて書きました。
中村半次郎実行犯説もあるようですが、史料を見るかぎり、むしろ逆で、中村は真相究明に奔走しています。強調したいのはその点です。
薩摩藩も大久保利通を筆頭に、龍馬・中岡暗殺の犯人を捜そうとしている土佐藩に全面的に協力しています。薩摩藩黒幕説はどう考えても成立しないと思います。

なお、ブログ凍結中に連載その3も掲載されました。これは「人斬り」の虚実について書きました。
「人斬り」という言葉はおそらく明治以降の造語で、幕末当時は一般的ではなかったと思います。むしろ「天誅」という言葉で正当化したのではないでしょうか。
また、桐野が「天誅」を加えたのは、赤松小三郎だけで、しかもその行為は桐野の日記「京在日記」が公表されてから初めて明らかになりました。
ですから、桐野が「天誅」を実行するような人物だとは知られていなかったわけで、「人斬り半次郎」という呼び方は比較的新しく、同時代にはありえなかったフィクションといわざるをえません。
できれば、今回と前回、合わせてご覧下さい。

じつは、桐野利秋編は4回連載のつもりでしたが、予定変更で5回に延びました。次回が桐野編の最終回で、野村忍助との因縁を書く予定です。

ついでながら、凍結が長かったため、人気ブログランキングもすっかり落ち込んでしまいました。よろしかったら、リンク欄のそれをクリックして下さいませ。

【2007/12/01 12:46】 | さつま人国誌
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鳥追い姉
ちょっと判らないのは、桐野利秋の墓石に、「秋」の文字「火」「禾」が左右逆になっているのはなぜでしょうか?

穐、秋、秌
桐野
鳥追い姉さん

漢和辞典に語源が載っていますね。
もとの字は穐で、その省略形が秋、秌だそうです。
偏と旁が逆になっていますが、同字だと辞典類には書かれていますね。

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