南日本新聞連載「さつま人国誌」第36回
―野村忍介との因縁話も―
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今回は桐野利秋編の最終回です。
これまでの連載でもっとも長い5回の連載でした。
それだけ書くことがあるのと、個人的な思い入れもあるからですが、今回は西南戦争で、西郷軍の内部対立、とくに桐野と野村忍介の意見の食い違いについて書きました。
西郷軍の挙兵は、戦略的に見ると、その補給能力からして短期決戦であるべきで、機動力を活かして速やかに九州の外に出て、長州や土佐の反政府士族と合流したり、農民一揆との結合を実現することが勝利への道だったと思いますが、いかんせん、熊本城攻撃と決したことにより、政府軍有利の長期戦へと引きずり込まれてしまいました。
それは、西郷暗殺計画を問責するという挙兵目的(万を超える大軍の挙兵の名分としてはいかがか)に規定されていたともいえましょう。
西郷や桐野は自分たちも参画したがために、明治政府の打倒を呼びかけることができず、それでも挙兵しながら、かつ他の広範な反政府勢力と結合しない(できない)という自己撞着に陥ったようにも思います。
そうした西郷軍の特性(長所・短所)を知り尽くして、短期決戦に活路を見出すという比較的理にかなった戦術眼をもっていたのが野村忍介だったと思います。
野村の献策が実現していたら、西南戦争はもっと違った展開になっていたかもしれません。でも、それは西郷軍の勝利というよりも、さらに泥沼の内戦状態に陥った可能性もあります。
果たして、どちらがよかったのか、歴史の見方に関わる問題かもしれません。
次回は中馬大蔵を書こうかと思っているところです。