膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」特別編
―京都・石薬師の邸宅 激動維新描いた舞台裏―

小生の連載の特別編が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」からご覧になれます。

今回は大久保利通没後130年特別企画用の原稿だったので、更新の枠外かと思っていたが、更新していただいた。これで、鹿児島県外の方もご覧になれます。

京都の寺町石薬師通りにある大久保旧邸に「有待庵」という茶室があった(まだ建物は現存しているという噂もあり)。
この茶室は小松帯刀邸(近衛殿御花畑)から移築してきたもの。西郷隆盛・岩倉具視・木戸孝允など多くの幕末有名人が訪れた茶室である。

この茶室にまつわる秘話をいくつか書きました。
ただ、分量の関係でひとつだけ書けなかったことがあります。それは錦旗調製の一件です。大久保の京都妻おゆうが西陣に錦を買いに行き、それを品川弥二郎に手渡して、山口で2流の錦旗をつくったという逸話を載せられませんでした。
この一件も含めていただければ幸いです。

次回は、1月5日(土)と通常の連載に戻ります。
前回に引き続いて、摂関家の近衛父子の薩摩下向の2回目。近衛信尹の薩摩配流について書いています。
 
宍戸元続といっても、あまり知られている人物ではない。
毛利元就の一女五竜を娶った宍戸隆家の嫡孫にあたる。

ある原稿を執筆中、毛利家中の系譜『近世防長諸家系図綜覧』(防長新聞社刊、マツノ書店復刻)を見ていたら、宍戸家の元続の系譜のなかに興味深い記事を見つけた。

「室 織田内大臣信長公女 生一女 後離縁」

つまり、宍戸元続は信長の一女を妻にし、一女を儲けたのち離縁したというのだ。同系譜によれば、その一女は毛利分家の右田毛利山城守元倶に嫁している。

とりあえず、織田家の系譜『織田家雑録』や岡田正人氏『織田信長総合事典』などを見てみたが、該当する信長の娘を探し出せなかった。
見落とした可能性もあるし、ほかにあたるべき系譜類を見ていないものの、ほとんど聞いたことがない話である。

この信長の娘は誰なのだろうか?
元続は永禄6年(1563)生まれとあるから、世代的には信長の娘を娶ってもおかしくはないが、織田権力と毛利家の対立、信長と元続の地位・家柄の格差を考えると、なかなか想定しにくい。
仮に事実だとしても、明らかに信長死後の天正10年(1582)以降のことだろう。

もし、この信長の娘をご存じの方、あるいはこの縁組が事実であるとご存じの方がおいでなら、ご教示いただければ幸いです。