南日本新聞連載「さつま人国誌」第39回
―坊津に多くの伝承残す―
小生の連載が更新になりました。
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今回は、前回に引き続き、近衛父子の薩摩下向の2回目です。
息子の近衛信尹の坊津配流について書きました。
もっとも、配流に至る過程を書かないといけなかったので、坊津時代をあまり書けませんでした。
分量の関係で書けなかったことについて補足。
関白就任の望みを絶たれた信尹が急に朝鮮出兵への従軍を志願したことは、『多聞院日記』が「物狂」と評したほど、不審に思われたわけですが、これは「関白相論」をきっかけとする秀吉の関白就任だけが理由なのかどうか。
たしかに、秀吉が秀次に関白を譲ってからの「物狂」ですから、タイミング的には合っているのですけど、信尹が一時的とはいえ、近衛名字を捨てて「岡ノ屋」(近衛家領の名)と名乗ったことが気になっています。
従軍するのに、近衛名字は不要だったともいえましょうが、もしかして、よく知られている父龍山(前久)との所領争いは、この件と果たして無関係なのかどうか。
それと、素朴な疑問ですが、信尹が従軍するのは「物狂」と非難されるほど不審、不自然なんでしょうかね?
父龍山は信長時代、何度も兵を率いて従軍しています。また信長には陣参公家衆という、室町殿の昵近公家衆の系譜を引いて軍事をもって奉公する公家衆もおりました。
秀吉時代、この陣参公家衆はどうなったのか。武張ったことが好きな日野輝資などは従軍しようとはしなかったのでしょうか?
私は、前久が信長時代の陣参公家衆の統括者だと考えていますが、秀吉時代は信尹がその任を引き継いだとしてもおかしくない。つまり、従軍じたいはそれほど不自然ではないのではないかという感触もあるのですが。
余談でした。