今回の事実上の主役は調所広郷だったといってよいだろう。
篤姫を調所の理解者に仕立て、さらに調所を死に追いやった張本である島津斉彬にさえ、調所を「恩人を追いつめたかもしれぬ」と言わしめ、同情している。だったら、なぜ死なせたんだよというツッコミも入れたくなったが(笑)。
個人的に一番関心があったのは、篤姫の大事な小道具にもなった「贋金」。
「銀座常是」
と刻印してあったから、天保の一分銀だろう。
出目目的の粗悪な改鋳銭である。もっとも、便利だったらしく、全国で流通したという。
でも、調所が一分銀の贋金をつくったという説は本当なのだろうか?
調所の伝記として定評のある芳即正『調所広郷』(人物叢書)には、調所が贋金をつくったとは書いてないと思う。
一方、原口虎雄『幕末の薩摩―悲劇の改革者、調所笑左衛門―』(中公新書)は、それまで悪名高かった調所の復権を意図したおそらく最初の著作だと思うが、ドラマでもあったように、「花倉」(「けくら」と読む)の化物屋敷で、「貨幣に不自由しきった斉興と調所は、大胆にも贋金造りを始めた」と書いている。また「天狗喝し」の怪異現象も書かれている。
ただ、その史料的な典拠が示されていないのが残念だ。一分銀とか、贋金の具体的な話も書かれていないが、典拠は果たして何だろうか。知りたいものである。
なお、今回のドラマの時代考証の原口泉氏は上記虎雄氏のご子息である。
原口泉著『NHK鹿児島歴史散歩』によれば、鋳造工場だった花倉御殿からは金くそが出てくるので、これが贋金づくりの証拠だとしている。ご父君よりは具体的である。
また 贋金は金銀を被せただけの「天プラ金」と呼ばれたという。ただ、何となく時代が下った呼び方ではないだろうか。
ちなみに、薩摩藩で鋳銭事業を始めようとしたのは、むしろ斉彬で、幕府の許可が得られなかったために実現しなかった。
本格化するのは久光時代である。これはその側近だった市来四郎が書いているとおりだ。それは琉球貿易の決済通貨として、琉球通宝の鋳銭を幕府から許可されたもの。
もっとも、琉球通宝は天保通宝とくらべて「天保」が「琉球」になっているのが違うだけで、材質や大きさがまったく同じだったから、ひそかに天保通宝の密造を行って巨利を得ている。
天保通宝は幕府が鋳造を独占したわけではなく、たとえば、会津藩にも鋳造許可が出ているから、けっこう鋳造には鷹揚だったわけで、これを一概に贋金といえるかどうかは微妙だろう。
余談
以前、「化物屋敷」と言われた花倉の屋敷跡(島津斉興別邸という)に友人と行ったことがある。
西郷蘇生の地(月照と入水自殺したとき)から山に登って、鬱蒼たる竹林をくぐり抜けたところにそれはあった。
竹木を伐採してあったので、意外とよく屋敷跡の輪郭がわかった。そのときの写真を載せておきます。写真で低い石垣積みの段差がわかると思うが、これが屋敷の区画(低い方が屋敷地)だろうと思われる。倒れていた石灯籠には「弘化四年」の銘があり。調所の死の一年前である。


調所の服毒自殺の真因はやはり琉球を通じた密貿易にあるといえるだろう。贋金は余分だったかもしれない。
調所の密貿易はご禁制かもしれないが、その実、わが国の幕府による一元的な管理貿易体制を突き崩す革新的な側面をもっていたことも見逃せないだろう。
要は、幕府の貿易独占体制に風穴を開け、一種の自由貿易や規制緩和を実現しようとしたわけで、のちの幕末の開国後の幕府と薩長との貿易をめぐる闘争の前史だったともいえよう。
密貿易と規制緩和はコインの裏表で、どちらの立場から評するかどうかということになる。
芳即正氏の上記著書によれば、調所は琉球でフランスとの貿易を計画し、それを幕閣の阿部正弘さえ許可して実現しそうだったという注目すべきことが書かれている。
弘化元年(1844)、フランス船が琉球の那覇に来航し、貿易や布教を要求するという事件があった。まさに幕閣にとっても薩摩藩にとっても重大な危機だといえたが、これを奇貨として、密貿易を幕府公認の貿易に転化しようとしたのが調所だった。
調所は老中阿部と密談に及び、フランス船の問題は貿易を許可しないと解決しないと説得し、何と、阿部の同意を取りつけている。
調所の理屈は、琉球は薩摩の「附庸」(属国)となっているが、それは国内の論理であって、対外的には清国の冊封国である。もしフランスが清国に琉球の開国を迫れば、アヘン戦争で敗れた清国はこれを拒否でないだろう。そうなれば、わが国は蚊帳の外に置かれてしまう。そうなる前に先手をとって、フランスとの間に通商・貿易を取り決めてしまえばよいと主張した。阿部はこれを受け容れたという。
老中阿部は琉球が薩摩と清国に両属していることの意味をよく知らず、英仏が清国を通じて琉球に開国を迫る回路があることを知らなかったという。
迂闊な話だが、むしろ、調所の機転と先見を褒めるべきではないだろうか。調所は琉球の両属性という矛盾をまさに逆手にとって、薩摩藩の利益を幕府に認めさせようとしたのである。
世子斉彬のお国入りも調所の路線に沿ったもので、この時点では調所と斉彬の政策意図は一致し、それを老中阿部が後押しするという形になっていた。
もっとも、調所がもくろんだ琉球での対仏貿易構想は、ほかならぬ琉球王朝の反対によって挫折したのは皮肉だったといえるが。
やはり、鹿児島の先学の学恩は貴重である。とくに人物叢書はかなりの研究水準に達していると思うことしきりである。
調所の再評価はこういうところから地道に始めていく必要があると思う。
調所ばかり書いたが、それにしても、肝付尚五郎は不甲斐ないことしきりである(笑)。少しずつ篤姫にふさわしい薩摩隼人に変身してくれるのだろうか?