膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
小学館アカデミー古文書塾「てらこや」の新講座が昨日から始まった。
今次は「天璋院篤姫と小松帯刀」というテーマである。
篤姫の名前も冠しているが、ほとんど小松帯刀を中心とした内容になる予定。
新しい受講生の中には、このブログにコメントを下さる方や、わざわざ大阪から参加してくださった方もいて有難い。

テキストは『大久保利通関係文書』所収の小松帯刀文書を中心に、書簡の背景を理解するために他の史料を援用するという形で進める。

第1回は表題のとおりで、肝付尚五郎から小松帯刀に変わる時期と、精忠組(とくに大久保正助)との出会いを中心に見ていった。

とくに、小松が文久元年(1861)前後、どのようないきさつで藩政に登場するのか、非常に興味深い点である。これを市来四郎の談話などで確認する。やはり久光側近の中山中左衛門(実善)の推挙であろう。
また、久光藩政下における小松の地位を考えるにあたって、下級城下士の結社、精忠組との関係は無視できず、その首領である大久保正助(利通)とのつながりがどこまで遡るのかを検討した。

また、小松の受給文書の初出ではないかと思った万里小路博房の書簡(宛所を小松と推定)とその別紙(黒田清綱建言書)を検討した。
建言書が安政4年(1857)9月になっているので、その時期なら、小松受給文書の初出でもおかしくないと思ったが、よく読むと変な感じだった。結果として私の勘違いだったと思う。

以下、宿題となった部分である>受講生のみなさん

受講者のみなさんから、万里小路書簡は少し年代が下り、万里小路が何らかのきっかけで黒田に関心を示したので、小松が黒田の以前の建言書(写し)を見せたのではないかという意見があり、なるほどと思った。
つまり、万里小路書簡と別紙の黒田建言書にはタイムラグがあるということである。

それで、万里小路が黒田に関心を示した理由について、個人的な推測として、第一次征長後、三条実美ら五卿が太宰府に移されたとき、黒田は薩摩藩からの護衛要員の代表だったことと関係があるのではと話した。五卿を幕府が連行しようとしたとき、黒田が身を挺して阻止したことがあった。慶応2年(1866)4月のことである。
それと、万里小路の政治的立場がそのときはよくわからず、おそらく三条実美に近い尊攘派公家ではないかと推測しておいたが、あとで調べてみると案の定そうで、国事御用掛などつとめており、8・18政変で失脚している。復権するのは孝明天皇死去に伴う大赦で、慶応3年1月のこと。
となると、万里小路書簡の年次は慶応3年の可能性が高いのではないかと思われるが、どうだろうか。

今回は小松文書の検討はあまりできなかったが、受講生のみなさんから積極的な意見や質問が出て、充実していたと思う。
とくに、「国父」久光の権力の由来をどのように考えたらよいかという質問は重要な観点だろうと思った。

次回はおそらく久光の率兵上京から8・18政変あたりが中心になると思う。