膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
大河ドラマ第4回「名君怒る」

嘉永4年(1851)、島津斉彬の藩主となって初めてのお国入りが中心だった。

ドラマでは一門四家の家族が城中に呼ばれて、斉彬が引見したシーンがあった。ほぼ史実どおりだと思う。
『斉彬公史料』一によれば、5月10日に「一門四家の夫妻を城中に呼び、祝宴を開き玉ふ」とある(174号)。しかし、夫妻以外の子女が呼ばれたとは書いてない。
ちなみに、一門四家とは、重冨・加治木・垂水・今和泉の4家。このうち、今和泉家が序列的には四番目だろう。筆頭は重冨か加治木か議論があるが、この場合は、斉彬実弟の忠教(のち久光)が当主の重冨家だろう。
子女はおそらく引見されなかったと思うが、於哲(久光一女)をさりげなく登場させて、その後のライバル関係となる伏線にしたのだろう。

もっとも、すでに御台所問題は前年から持ち上がっている。世子家祥(のち将軍家定)が2人の御台所に相次いで先立たれたため、京都の宮家・摂関家以外から御台所を選ぼうとしており、家祥生母の本寿院は将軍家斉の御台所だった島津家出身の広大院(島津重豪の娘)の家系から候補者選定を始めていた。

当然、斉彬はそのことを知っているから、家中に御台所にふさわしい姫がいるかどうか、品定めしてもおかしくない。どうせ史料にはない子女の祗候を描くなら、その狙いで描いたほうが、ずっとドラマの趣旨に沿い、篤姫と於哲のライバル関係も際立ったのではないか。画竜点睛を欠いた惜しまれる演出である。

ところで、翌11日、今度は「大身分」(たいしんぶん)と呼ばれる門閥家の23家が呼ばれて引見され、祝宴が張られた。この23家はいわゆる一所持である。

じつは、そのなかにドラマにも出てきた小松清猷(沢村一樹)がいないのである。
小松家は堂々たる一所持なのに、なぜいないかといえば、理由は簡単。

「五月八日 太守斉彬公御家督御着城之礼として、徳川将軍家へ御使者相勤る」(189号「小松家系図」)

清猷(きよみち)は斉彬帰郷を幕府に知らせる使者として、5月8日、斉彬と入れ替わるように出府していた。
だから、ドラマで登場してはいけないはずだが、まあ、それを指摘するのは野暮だろう。
清猷がそのような使者に選ばれたことは、斉彬の信任が厚いととらえたほうがいいのかどうか。史料不足でよくわからない。

前からそうだったが、篤姫の言葉が一段と現代語に近くなった。
わかりやすく親しみやすくという狙いだろうが、果たしてどうか。ドラマ後半は重厚・沈鬱になることが多いだろうから、それとのコントラストを出すという演出だろうか。

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今朝の南日本新聞サイトに面白い記事があった。ここです。

わが国最初の新婚旅行は、慶応2年(1866)、坂本龍馬とお龍夫妻による霧島湯治だといわれているが、それよりも前に小松帯刀夫妻が同じ霧島の栄之尾温泉に湯治旅行しており、これが龍馬夫妻より早いという主張のようである。

たしかに『小松帯刀日記』安政3年(1856)4月19日条に次のように書かれている。

「一、御トヽ様ニハ今日ヨリ踊之内栄之尾温泉エ御湯治トシテ六ツ過御船ヨリ御出ナリ、尤チカ(お近)ニモ御同道申上、差越候事、拙者ニハ来ル廿二日方ヨリ差越賦(つもり)ナリ」

小松の義父清穆が霧島の栄之尾温泉に湯治に出かけるので、お近も同道し、小松もあとから追いかけるという意味だろう。
実際、小松は22日に出かけ、5月5日まで湯治している。その後、2人とは別行動をとって、都城・安永・福山などを見学している。清穆とお近の父娘は5月10日まで栄之尾温泉で湯治してから帰郷したようである。

小松帯刀とお近が婚姻したのは安政3年正月頃と思われる。この霧島湯治はそれから3カ月後なので、新婚旅行といってもよいというわけだろう。もしそうなら、龍馬夫妻より10年も早いことになる。

ただ、この湯治じたい、小松の義父清穆のために企画されたもので、それに娘のお近と婿の帯刀が同道することになっただけで、夫婦2人の水入らずというわけではない。このあたりが少し弱いかもしれない。

もっとも、龍馬夫妻の鹿児島下向がそもそも新婚旅行なのか、またわが国初の新婚旅行なのか、疑問がないわけではない。
夫婦して湯治に出かけた事例は近世どころか、中世まで遡ってもあるのではないだろうか。

どっちが最初でもいいが、これを機に、歴史に興味をもったり、実際に史料にあたってみようという人が1人でも増えればいいなと思う。

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