歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
以前も少し紹介した名古屋栄の中日文化センターで、4月から始まる講座をご紹介します。
名古屋・東海方面の方、よろしくお願いします。

詳しくはここをご覧下さい。

【表紙画面】から【4月スタートの新講座はこちら】をクリック → カテゴリーのうち【歴史】を選択すれば、トップから2番目にあるのが小生の講座です。


関ヶ原合戦を読み解く
合戦の知られざる面や後世の徳川史観により歪められた面を再検討し、時代の転換点となったこの事件をより深く掘り下げます。6カ月講座。
●歴史作家 桐野作人
●第4木曜日(昼)1:00~2:30
●6カ月分 12,600円


講座の各回ごとのもう少し詳しい内容は過去エントリーのここにありますので、ご参照下さい。

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【2008/02/29 17:57】 | 中日文化センター
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先日の講座
こぐれ。
僭越ながら、参加させていただきました。

楽しく、有意義な時間を過ごせましたことを
お礼申し上げます。


ありがとうございます
桐野作人
こぐれ。さん、初めまして。

名古屋の講座を受講されたのですね。
今回、わざわざ受講していただき御礼申し上げます。

よろしかったら、ご意見、ご質問などありましたら、書いてくださいませ。メールでも構いません。左下にメールフォームもございますので。

次回、お目にかかるのを楽しみにしています。

講座内容訂正
桐野作人
こぐれ。さん

貴ブログ拝見しました。
各回のテーマ、1回講座で告知したのは草案時のもので、その後変更したのをうっかりしておりました。
以下が正式のものです。
次回は「直江状」の検討です。
ご覧になっていたらよいのですが……。

各回のテーマ予定(6回分)
第一回:五大老・五奉行制と豊臣政権
第二回:「直江状」の真偽は?
第三回:小山評定と情報伝達
第四回:石田三成の苦悩
第五回:秀忠軍の遅参とその影響
第六回:島津の退き口の真相


ありがとうございます。
こぐれ。
お世話になっております。
講座を申し込んだ折に頂いた説明書きとテーマの
順番が異なっておりましたので
開催時に変更されたとばかり思っておりました。

貴ブログはほぼ毎日拝読させていただいております
今回のフォロー記事もありがたく読ませていただきました。


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小学館アカデミー古文書塾「てらこや」
特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」第4回

一昨26日夜、上記講座に出講。
天候のせいか、仕事のプレッシャーのせいか、どうも体調がかんばしくない。肩凝りがひどい。後頭部あたりがどんよりとしている。

72年前のこの日は、2・26事件があった。昔、その方面の本を作ったのを思い出した。
事件当日は大雪だったそうな。打って変わって、生暖かい日で、講座が終わると雨が降り出したほどだった。
たしか、講座会場の近くの毎日新聞社(当時、東京日日新聞)もこの事件に巻き込まれたような。


それはさておき、講座のほうを。
この間受講生から、島津久光の地位をどう理解したらよいか質問が何度かあったので、改めて考えてみることにした。
一言でいって、朝幕改革を目的とする久光とその側近グループ+門閥革新派(小松帯刀)+下級城下士(精忠組中心)の結合体であろうということ、そして構成メンバーの結束と機密性が高かったのではないかといったことを話した。

また久光権力の由来というか正統性は、

①斉彬の遺言
②藩主茂久の「国父」待遇宣言
③幕府の国政補佐の承認

などに基づくのではないかといった感触を語る。
もっとも、幕府が認めたのはあくまで国政(藩政)の補佐であり、京都手入れや率兵上京などの対外的な周旋活動ではない。だから、率兵上京は久光の政治的バクチであり、行きづまる可能性があったが、寺田屋での自藩尊攘派鎮圧により、朝廷の信任を得、勅許を得たことが久光権力の対外的な正統性も高めることになり、その結果、久光の公家成(四位少将)によって、事実上大名の地位を獲得した、といったような話をした。

肝心の小松帯刀のほうは、文久3年(1863)段階は、やはり久光の政治的意図をほぼ忠実に実現する方向での周旋活動を展開している。それが近衛家をはじめ、松平春嶽・尹宮朝彦親王などに認知されるとともに、小松自身の信任へと発展していくような見通しが得られた。

今後の方向性としては、小松が久光から自立していくのか、それが西郷・大久保などとの、いわゆる討幕派の形成とイコールなのかどうか、といったところが政治的に重要だろうという感触がある。

結局、4回の講座で読めた小松文書はわずか13点だけだった。
年次比定などに手間取った。また書簡を書いた時点での小松と文通相手である大久保の居所がどこなのか、特定するのも難しい。「小松帯刀伝」と『大久保利通文書』10所収の大久保年譜を使ったが、精度の面で十分とはいえない感じもした。

その辺を突きつめるには、誰に頼るわけにもいかず、結局、自分でやるしかないのかと暗澹たる気持ちにさせられた。
やはり、幕末の居所論は大事である。近世初期の徳川幕閣要人の居所を調べた共同の先行研究があるが、一人ではやはり大変だろうなと思う。

次回は早くも今次の最終回。
テーマは「小松と女性」をやるつもり。

①近年発見された篤姫付きの侍女が島津家に出した書簡などの紹介。
②小松が国許のお千賀(お近)に出した何点かの書簡の検討。

ができたらいいなと思っているところ。

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【2008/02/28 23:35】 | てらこや
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日次記

2月25日(月)
どうも体調悪し。仕事もはかどらない。
雑用で半日つぶれた。

たまたま原稿に関連する写真を探していたら、面白いのを見つけた。
以前取材したとき、史跡の近くにあった標札である。

鬼柴田


鬼柴田

と、思わず読んでしまった私でした。
たまたま信長関連の史跡だったし、昔は右から読んだからね(爆)。

それにしても、変わった名字です。何と読むんでしょうね?

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【2008/02/25 18:59】 | 日次記
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希少モノ
武藤 臼
そういう事って良くありませんか?(^^;

それにしても、これは珍しいです。
教わらないと読めないです。
http://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-3/1-hishiki.htm

ひしき
桐野作人
って読むんですか。
しかも、いろんなヴァリエーションがあるみたいですね。

ご紹介のサイトにあったように、この標札の方は愛知県、桶狭間古戦場近くでした。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第8回「お姫様教育」

ドラマ進行時点は嘉永6年(1853)です。

いよいよペリー艦隊が浦賀に来ましたね。これ以降の幕末の激動を、この年の干支をとって「癸丑以来」と枕詞のように使われるようになりました。まあ、9・11以来というのと似たような感覚か。

外政多難の一方で、篤姫周辺も本来は御台所問題で大変で、篤姫の実子届けを出したのも束の間、摂関家の二条家から将軍家に縁組申し入れがあり、ライバルの近衛家などは心中穏やかならぬはずですが、斉彬と対面した近衛忠熈はそんなことはおくびにも出しておりませんでしたね。

裏で進行している御台所問題をめぐる駆け引きを描いたほうが、篤姫の入輿までの多難を印象づけられていいのではと思うのですが、そうしないのは原作の縛りゆえでしょうかね?

というのも、宮尾登美子氏の原作が刊行された時点で、御台所問題についての芳即正氏の新説(御台所問題は斉彬の発意ではなく、あくまで将軍家の意向、将軍継嗣問題と篤姫入輿は無関係という説)はまだ公表されていませんでした。

古い原作と新しい学説との齟齬をどう調整するつもりなのか、ずっと注目してみていたつもりですが、やはり、新説は無視という方針のようですね。

で、細かいツッコミをひとつ。
この年の斉彬のお国入りでは、途次、斉彬本人は入京しておらず、伏見屋敷止まりだったと思います。
帰国後、斉彬が近衛忠熈に宛てて、「伏見通行の節は」云々と、近衛家が伏見に贈り物を届けてくれたことを感謝する書簡を出しています。

また斉彬のお供、山田為正がこのときの道中日記を残しています(「嘉永六年島津斉彬下国御供日記」)。
それによれば、5月17日に伏見に到着し、21日まで斉彬はそのまま滞在しているようです。日記の主の山田は斉彬の使者として入京し、近衛家に挨拶に出向きますが、賀茂川が氾濫して三条大橋を渡れずに伏見に引き返しているほどです。考えてみれば、入梅してますね。

ですから、このとき斉彬と近衛忠熈の会見はありません。もちろん、幾島とも会っていないでしょうね。

ちゃんと史実を踏まえているところもあります。
大久保正助が謹慎を解かれて蔵役に復帰したのは、たしかにこの年5月です。
また、ドラマの最後で篤姫が侍女たちに大見得を切った「島津薩摩守」云々の受領名も合っておりました。ただ、斉彬の実名は出さないと思うけど。

あと、鶴丸城内に大奥があったのはたしかです。
大奥といえば、江戸城だけというイメージがありますが、決してそんなことはありません。大名家や上級公家の奥向きも大奥と呼ばれています。
たとえば、上記山田の道中日記には、斉彬に対して近衛家の「大奥」からも贈り物があったと書いています。

余談
それにしても、高橋英樹と松坂慶子のコンビは、「国盗り物語」での信長と帰蝶(濃姫)以来ではないでしょうか。懐かしいですな。
国盗り物語」は1973年放映。じつに35年前ですぞ。
2人とも変わらずに第一線で活躍していて、感無量ですな。

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【2008/02/24 22:32】 | 篤姫
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素朴な疑問
武藤 臼
大奥ものとかでいかにもありそうだなと笑ってみていたのですが
当年すでに18にもなる姫君の挙動について、一介の次女風情が嘲笑する
・・・という設定はありなのでしょうか?

笑う方がかなり年上というならまだしも、自分がほぼ同年代の召使いだったら、とても真似できないのですが。


鹿児島人
桐野先生 御返事ありがとうございます。

篤姫の鹿児島編も残りはあまりないんでしょう
経済効果があって地元が潤えば いいかと思う此の頃です。
先日 鹿児島市に出来ている 篤姫館を見てきました。
入場料500円が高いか安いかは言いませんが
パンフの幕末シンデレラストーリーには ??!?
シンデレラを 調べに行ってきます。
ま、企業の慰安旅行で観光バスで回る方々にはいいのかも。
鹿児島編を 放送している時は篤姫紀行も鹿児島ですよ。
観光客を呼び込む為に鹿児島の史跡をね NHKさま。
(ブログ汚しですみません) 

鶴丸城の奥向き
桐野作人
武藤 臼さん、こんばんは。

鶴丸城の大奥が舞台でしたが、よく考えてみると、ここには、藩主正室はいないんですよね。正室は原則として江戸住まいですから。
ですから、ここにいる女性は側室とその侍女、あるいは側室が産んだ子女がほとんどではないかと思います。

どうも、正室かその娘付きの侍女が分家出の養女をいじめている構図にみえますが、それ自体、成立しません。
篤姫は一応、斉彬の実子ということになっていますから、彼女たちよりはるかに身分が上ですね。だから、ご指摘のように、侍女があからさまに嘲笑するというのは過剰演出という気がしますね。
本家と分家の格差を際立たせようという演出意図でしょうが、篤姫を実子として届け出た時点で、そのような格差は消滅しているわけで。篤姫は気に入らぬ侍女を更迭・追放する権力をもっていると思いますよ。


幕末シンデレラストーリー!?
桐野作人
鹿児島人さん、こんばんは。

篤姫館はそんなキャッチフレーズを謳っておりますか。
しかし、将軍家定が白馬の王子様だとはどうしても思えません。現実問題として、悲惨な結婚生活ですからね。
将軍家定の欠陥はよく知られた話ですから、その史実を知ったうえで、そのように謳うのは罪深いですし、知らずにいるとすれば、不勉強ですね。
「看板に偽りあり」だと思います。

養女いじめ
武藤 臼
なるほど面白いですね。
そうするとあの「頭が高い!」には理があるわけですね。

演出意図という点ではどうもいまひとつピンと来なかったですね。
単に着飾った田舎者をみんなで嘲笑している風に見てました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第46回
―言動、立ち振る舞い新鮮―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

予告したように、今回から小松帯刀をしばらく連載します。
小松の興味深い面を何回かに分けてご紹介します。
紙面の都合上、あまり政治向きの難しい話は書けませんが、面白い逸話がいくつかあります。それを中心にまとめたいと思っています。

今回は、英国外交官アーネスト・サトウの証言を取り上げてみました。

【2008/02/23 11:45】 | さつま人国誌
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鹿児島人
桐野先生 記事拝見いたしました。
次回を、楽しみにしております。

質問なんですが、今 チェストという映画
が出来たそうで、それはそうで御同慶の至りですが、
よくチェストと聞きますが
鹿児島にずっと住んでいて なんか違和感を感じるんです。
自分個人は、示現流等の 掛け声であれば
ちゅえー か きゅえー か文字での表現は難しいですけど
なんか 文語体と口語体がごちゃごちゃになっているようで。
話は変わりますが 私が小さい頃は 祖父母以下明治の人が
多く 存命で 特に 女言葉は やさしい イントネーション
があったと思う此の頃で、 マスコミも極端な男言葉だけを
強調すると 野蛮な南の国 戦国江戸初期は 野蛮という
固定観念があるように思えています。文献証拠を元に
啓蒙が、必要かと。
南種子島に行ったときの女性の丁寧なイントネーションも、なつかしさがありました。
今日より 明日が 西洋的文明は進化しているでししょうが、
さて 文化上は、先人のほうが上かもじゃないかと。

チェスト
桐野作人
鹿児島人さん、こんばんは。

チェストの語源はなかなか大変ですね。外国語が語源ではないかともいわれています。
ただ、史料的に確認できるのは、江戸末期あたりからのようです。鹿児島から流行ったといわれますが、県外でも使われていたようですね。

たしかに、県外の人が鹿児島弁に抱くイメージは、大河ドラマなどの影響で、武士の男言葉に偏っていますね。
私でも、「ごわす」なんて使いませんでした。これは明らかに武家言葉で、明治以降は死語になったと思いますけどね。
「ごわんど」もしくは「ごあんど」は高齢の人が使っていたのは聞いたことがありますが。

野蛮という固定観念というのは同感です。
そのイメージが強すぎますね。
その点、篤姫は女性ですから、多少は中和する効果があればと思いますが、やはり強い薩摩おごじょという視点で描かれそうですね。

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歴史読本4月号の掲載誌が届く

連載ももう4回目となった。
書店にも明日あたり並んでいるかもしれない。

今回は、信長の初期の戦いである赤塚合戦にこだわってみました。
ほとんど知られていない戦いですが、信長の軍事力編成上、重要な位置にあるのではないかと思った次第。

ただ、あわてて作ったため、図版が不十分。
信長が布陣する「三の山」と、山口九郎二郎が布陣する「赤塚」の、2つの地名が載っていない(汗)。
信長のいるところが「三の山」(推定地、現・三王山)で、鳴海城にいた九郎二郎が移動した地点が赤塚です。
あまり見てくれる人はいないでしょうが、一応、ここで補足しておきます。

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【2008/02/22 22:56】 | 信長
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日次記です。

20日(水)
夜、島津晴久氏(重富島津家当主)より電話あり。
18日に江戸東京博物館で、関係者・招待者だけによる「篤姫」展の事前内覧があり、それに参加された報告を聞く。じつはさるお願い事をしており、その結果を伝えていただいた。
何と、その場に、ゲストとして宮崎あおい、瑛太の主役2人も来ていたとか。
事前に知っていたら、何とか潜り込んだのに。

21日(木)
南日本新聞の連載「さつま人国誌」で、しばらく小松帯刀の連載をすることにした。
5月下旬の講演会もあり、その前宣伝の意味と、やはり小松の知られざる面を多くの人に知ってもらいたいためである。
今週土曜日が1回目掲載で、5回つづける予定。

同じく上記連載の新ネタ。
宮崎方面のある史跡写真をブログで知りあった方から送っていただく。
前から関心があった事件だったが、写真がないために書けずにいた。
いい写真をたくさん送ってもらった。
これで書けるメドがたった。
まことに有難い。
最近、ブログを通じたステキなネットワークが構築できているのを実感する。

幕末京都のこの間の懸案事項。
中村武生氏のブログでも話題になっている件。
とある近世朝幕関係史に詳しい研究者に思い切ってお尋ねすることにした。
朗報があればいいな……。

夕刻、「兼見卿記」輪読会。
神保町の某女子大にて。
今回は参加者が多かった。
天正15年(1587)を読んでいるが、なかなか面白い。
ある遠州の僧侶が、霊夢を見たとして賜ったという正親町天皇の古い御製を持参して、そのお墨付きを得ようとした、一種の詐偽事件の記事あり。
けちくさくて面白い。
といっても、読んでいる当人たちでないと、ブログでは伝わらないかもしれない。

新書の初校ゲラの校正が滞ったままである。
早くやらないといけないが、他の仕事があってなかなか手をつけられないでいる。
歴読の連載もすぐ締切が来る。急いで書かねば。
桶狭間合戦に入るかどうか、迷っているところ。

どの仕事も中途半端で、なかなか収拾と区切りがつかない。このどっちつかずの状態を早く何とか立て直したいが、やるっきゃないだろう。

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【2008/02/21 23:53】 | 信長
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日次記です。

19日(火)
元古書店主で、現在、歴史研究家の長岡由秀氏より『新釈 生麦事件』(文藝春秋企画出版部刊)をご恵贈いただく。ここにアマゾンの紹介あり。
長岡氏は長年、生麦事件、とくに英国人リチャードソンを斬ったのが誰なのか、通説の奈良原喜左衛門ではなく、実弟の喜八郎繁の関与もあり、それが何らかの事情で隠されてしまったのではないかという推理を展開している。

奈良原繁といえば、寺田屋事件でも有名だが、生麦事件のとき、島津久光の大名行列のなかにも供目付としてたしかにいた。繁も何らかの行動を起こしたとしてもおかしくなく、それが、その後の兄弟の明暗にも影響しているのではないかという大胆な見通しをもっておられるようだ。とくに兄喜左衛門の墓に刻んである命日が通説と異なっていることも発見している。

私からも、弟繁が生麦事件に関与したかもしれない史料をお礼代わりに贈呈した。

同じく、友人の作家、植松三十里さんからも御高著をいただいた。だいぶ前に頂戴しながら、ご紹介が遅くなった。

天璋院と和宮』(PHP文庫)

まさに旬のテーマである。
大奥での二人の葛藤と和解・相互理解がモチーフになっているようだ。
女性らしい視点と、繊細な描写は、とても私には真似できない。
篤姫と和宮の関係を知りたい方には格好の本だろう。


20日(水)
以前、頼んでいた図録『小西行長』が届いた。
昨年の展示会に合わせて刊行されたもの。
小西行長の支城、八代城があった八代市立博物館未来の森ミュージアムが版元。
行長の発給文書を中心に、キリシタン関係や八代城跡から発掘された遺物なども収録されている。
行長文書は多くが写真付きで有難い。

小西行長

八代城は近世になって、加藤清正から細川氏に領主が移り、とくに細川忠興の重臣、松井佐渡守康之が入部し、幕末まで松井家が城主だった。

八代市立博物館では、現在、「八代城に備あり」と題した特別展示を行っているようである。
サブタイトルが「薩摩境目の城として」とあるように、細川氏にとって、南の島津氏に備える重要な拠点だった。
会期中、村落論で有名な稲葉継陽氏の講演があったようだが、すでに終わっている。残念。一度拝聴したいものである。

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【2008/02/21 13:04】 | 日次記
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小松帯刀と格闘中。

小松が変名を使っていたり、お琴さん以外の第2京都妻がいたりと面白い。
そして、京都の小松邸の場所について新展開。
以前から気になっていた近衛家の「御花畑」の所在地がだいたい判明した。
小松邸の特定は、即、薩長同盟締結地にもなるから、とても重要である。
ただ、目の前に厖大に積まれた小松文書や諸記録、諸文献を見て途方に暮れているのもたしか。


閑話休題

5月下旬、鹿児島市の宝山ホール(県文化センター)で開かれる「文化講演会」
のチラシを主催者から送っていただいた(写真参照)。
表題が講演の演題です。

宝山ホールチラシ

宝山ホールの前庭には、小松帯刀の銅像が立っています。
鶴丸城二の丸の向こう正面にあたり、幕末は小松家の屋敷があったところです。
そんな小松ゆかりの地で話させていただくのは光栄です。
申し遅れました、講師は不肖、私めです(汗)。
小松帯刀について、このような大々的な講演会が開かれるのは、鹿児島でもおそらく初めてではないかと思います。主催者の先見・見識に敬意を表するとともに、小生を講師に選んだ蛮勇に戸惑いつつも感謝です。

期日:5月27日(火)18:30開演
会場:宝山ホール
申込方法:往復ハガキにて(お一人様一枚)
 〒892-0816 鹿児島市山下町5-3 宝山ホール
 「宝山ホール文化講演会」係まで
 *先着1.500名
申込期限:5月7日(水)


宝山ホールのサイトはここです。
講演会の詳細については写真チラシをご覧下さい。


17日(日)の南日本新聞にも大きく広告が出たらしい。親族や友人知人から連絡あり。

共催・後援に鹿児島県、鹿児島市、同教育委員会、南日本新聞社、NHK鹿児島放送局などがずらりと名を連ねていて、恐縮するばかりである。
とにかく、1.500人に来ていただかないと、主催者や協力諸機関に申し訳ない。
鹿児島にお住まいの方、むろん県外の方でも、興味のある方はぜひご参加下さいませ。
入場料は無料です!

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【2008/02/19 16:31】 | 幕末維新
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鹿児島人
小松帯刀像の建立や 小松さんの本を書かれた
瀬野富吉氏は亡なられていますが、
今年の大河に、大好きであった小松帯刀は取り上げられて
あちらで どう思われているのでしょうかなと。
おいおいと微苦笑でしょうか?
うーむーと苦虫を 噛み潰しでおいででしょうか。
諸手でバンザイと 喜ばれているいるようには 思えない私です。

小松連載
桐野作人
鹿児島人さん、こんばんは。

そのような思いを抱いている方は多いのではと思います。
少しでもイメージを払拭できるよう、南日本新聞で小松の連載をすることにしました。
よかったら、ご覧下さい。


鹿児島人
桐野先生 ご返事 ありがとうございます。
連載を期待します。

普通のドラマは 終了後 フィクションですとか事実を基にした、創作です の様な 断りがながれます。
大河ドラマは、そのような断りもなく あまり歴史に詳しくなく、純粋にドラマを楽しむ人々に、間違った先入観、意識を
醸成するんじゃないかと危惧します。
大河も ドラマであるということで あまり瑣末事には批判せずに 楽しめばいいんでしょうが、ちとこのごろは やりすぎ
というか 常軌をいっしているかなと。特に今まで知られていない人物を 扱う時は慎重さが求められると。
篤姫紀行 流す前に 歴史を下敷きにした、創作ドラマですと
表示しないと駄目でしょうと思います。
石坂謙信の天と地と とか 緒方秀吉の太閤記とか 好きで
みていたんですけどね。

「天と地と」「太閤記」
桐野作人
鹿児島人さん、こんにちは。

NHKの場合は時代考証の先生がいるという触れ込みですから、誤解を招きやすいですよね。
実際に時代考証をされた複数の先生にお尋ねしたところ、共通していたのは、史実を無視した無理な要求があるとか、こちらの指摘は聞き入れられないことが多いとのこと(笑)。

どこかでフィクションだと断っておいたほうが実態に即しているし、あれこれ批判、非難されるのも少なくなるのではと思いますが……。

それにしても、「天と地と」や「太閤記」をご覧になっていたということは、私と近い世代の方のようですね(笑)。
去年の大河も「天と地と」を意識していた面があったように感じました。

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本日、中日新聞より取材あり。
この4月から、名古屋の栄・中日文化センターで講座をもつことになりました。
その告知の記事作りのための取材です。
3月5日(水)の中日新聞夕刊に掲載されるとか。

講座は月1回、毎月第4木曜日の午後です。
全6回、半年間。
テーマは「関ヶ原合戦」。
一応、次のようなラインナップを考えています。
東海地方にお住まいで興味のある方はご検討下さい。
むろん、それ以外の地域からのご参加も歓迎です。

なお、同センターの講座の概要はここにあります。
まだ4月期募集の記事はありません。あくまでご参考までに。
正式のリリースになりましたら、日程その他をもう少し詳しくお伝えできると思います。

講座名:関ヶ原合戦を読み解く

【講座の内容】
関ヶ原合戦はあまりにも有名な歴史的事件で、発端や結末は誰でも知っていますが、その経緯や東西両軍の当事者たちの動向について意外と知られていない面や、後世の徳川史観によって歪められたりした面があります。それらを改めて検討し、時代の転換点となったこの事件をより深く掘り下げていきます。

各回のテーマ予定
第1回:五大老・五奉行制と豊臣政権
第2回:「直江状」の真偽は?
第3回:小山評定と情報伝達
第4回:石田三成の苦悩
第5回:秀忠軍の遅参とその影響
第6回:島津の退き口の真相


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【2008/02/18 23:24】 | 中日文化センター
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NHK大河ドラマ「篤姫」第7回「父の涙」

う~ん、老女菊本の死はいくら考えても納得できませんな。
自分の身分が低いことで、篤姫が本家の養女になるのに障りになるという理屈は、原作者のひとりよがりにしか見えませんね。

乳母や老女の身分が低いのは当たり前。
島津斉興の側室お由羅は町人出身ですよ。菊本は痩せても枯れても武家の出でしょうに。

それに徳川将軍家なぞは、謀反人の娘である女性を将軍世子の乳母にしましたぞ。春日局は家光が将軍になったとき、自害しましたっけね? 晴れある将軍になられたからには、謀反人の娘である私が乳母でいることは将軍家の体面を汚すことになると言ったという話はついぞ聞きませんぞ。
あるいは、篤姫が本家の養女(本当は実子扱いですが)になったあと、役作り上で扱いかねたという裏事情でもあるんですかね?

あと、ストーリー的には、篤姫の母がくれた仏像がいまいち活かせなかったのでは。
あの胎内に焼き捨てたはずの菊本の篤姫宛て遺書が隠されているのかと思いましたが、ありませんでしたね。むしろ、ストーリー的にはそのほうが面白いと思いますが、遺書で篤姫を説得できるだけの理屈が拵えられなかったのではないかと邪推してしまいますな。


それはさておき、史実方面に少し触れると、

篤姫の実子届が嘉永6年(1853)3月には幕府に出されます。
島津斉彬がはじめてお国入りした天保6年(1835)に国許でできた実子だという仕掛けです。
この無理やりの帳尻合わせのため、篤姫の生年が翌7年にされている史料もあるから、面白いです。

あと、篤姫を本家に迎え入れる使者として、竪山武兵衛利武が登場しましたね。
この人は斉彬の側用人で、「竪山利武公用控」(『斉彬公史料』四所収)という貴重な記録を残しています。
この記録には「御一条初発より之大意」という史料が含まれています。篤姫の入輿一件についての詳細な記録です。どうも、斉彬本人が書いたようにみえます。

とくに有名な個所は、徳川将軍家が将軍家斉の御台所広大院(島津重豪の娘)の縁辺を世子家祥(のち家定)の継室にしたいという意向を示した部分。「京都の方はお好みにもあらせられず」。要するに、摂関家の御台所2人に相次いで先立たれた家祥が「京都の娘はもうこりごりじゃ」と言ったことが、篤姫入輿につながるわけです。

竪山利武は斉彬死後、茂久(のち忠義)の代に側役まで出世しています。もっとも、政治的には保守派に属したようで、何となく斉興に近い立場のようですね。


肝付尚五郎が最後の挨拶に今和泉家を訪れたとき、提灯の家紋が少し気になりました。
『薩陽武鑑』には、肝付家の家紋が2種類あって、有名な「鶴の丸」と、もうひとつ、丸に4つの渦か雲状の小丸が付いている家紋があるんですが、家紋にはうとくて何という紋なのかわかりません。提灯に付いていた家紋はこちらのほうでしたね。
鶴は肝付家にとって縁起のいいものです。伝承によれば、老松に2羽の鶴が舞いおりてきて、その脚下に赤ん坊が笑っていたそうな。その子が成長して肝付家の祖になったそうです。
また戦国時代、島津家と肝付家が断交したきっかけになったのも、この鶴の家紋でした。よかったら、拙著『島津義久』(PHP文庫)をご覧下さい。

なお、肝付尚五郎の実家の肝付家は上記の肝付家の本家ではありません。
本家は島津家に敵対したこともあって、江戸時代初期に衰退しています。
尚五郎の家は、その分家で、早くから島津家に服属して老中(家老)を出した家柄です。
もっとも、戦国時代、新たな島津宗家となった貴久・義久には一時逆らっていますが、すぐ和睦しました。
肝付家の本家と分家は島津家に対する態度が好対照だったために明暗が分かれました。江戸時代は分家の肝付家のほうが盛大で、代々家老を出し、禄高も5000石以上という立派な門閥家(一所持)です。

もうひとつ、今和泉家の晩餐で、篤姫の兄2人が相伴しておりました。
長男忠冬と、三男忠敬です。
忠敬はよく出てきましたが、忠冬は珍しかったですね。たしか病弱な人だったと思います。

じつは、篤姫にはもう一人の兄、又七郎久敬がいます。二男だったと思われます。
でも、出ていませんでしたね。
時期はよくわかりませんが、久敬は永吉島津家の養子になっています。
永吉家はご存じの方もおいででしょうが、戦国期の島津四兄弟の末弟、中務大輔家久の子孫の家です。その子豊久が関ヶ原で討死して、いったん佐土原島津家は断絶しましたが、永吉島津家という形で再興されました。
この久敬、じつは相当の放蕩者だったようで、藩命により強制的に隠居させられています。
『島津斉彬言行録』(岩波文庫)に次のような記述があります。

「久敬、初め造酒又七郎、実は今和泉郷の領主島津忠剛二男なり、この者倫理を乱りたる罪により退隠命ぜられ、而して末家島津権五郎久籌に相続命ぜられたり」

これは斉彬が家中の門閥家の風紀が乱れているのを粛正した事例として挙げられています。事例は篤姫の兄久敬だけですから、よほど目立った不祥事だったのでしょう。ですから、今和泉家にも養子先の永吉家にも相当不名誉だったと思われます。
まあ、この兄が出てこないわけもよくわかりますね(笑)。

次回から江戸行きですね。
ペリー艦隊が来るし、将軍家慶は亡くなるし、安政の大地震は起きるし、御台所になるまでの篤姫の前途は多難です。

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【2008/02/17 22:29】 | 篤姫
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知られざる島津家「永吉島津家」幕末編
ばんない
今晩は。観賞お疲れさまです

篤姫の次兄の話、興味深く拝見しました。…酷い人だったようで(苦笑)。
永吉島津家は明治維新後も他の一門衆が華族になる中、華族になれずに(たぶん領地返上前の石高が1万石に達していなかったからだと思われますが)、その後口永良部島に一族移住してしまったと言う、かなり異色の島津分家ですね。現在のご子孫がどうしているかまでは調査が及ばず存じません。しかし、離島への移住という決断をした背景には、篤姫次兄の放蕩などもあったのでしょうか。


口永良部島!
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

永吉家は口永良部島まで行ってしまったのですか。
知りませんでした。どんな事情があるんでしょうね。

それはさておいても、永吉家は爵位を与えられる資格はもともとなかったと思います。
島津家で爵位を得られたのは、宗家、久光家、佐土原家のほかは、いわゆる八家(一門四家と宮之城・都城・日置・花岡)、それに久光と忠義の庶子のみです。
あっ、それに種子島家も別格の家柄ということで、爵位をもらってます。

永吉家は八家より家格が下ですしね。

なお、八家のうちで、花岡家だけが爵位(男爵)をもらえる資格があったのに、事情があって放棄してますね。


口永良部島
ばんない
こんばんは。

永吉島津家の口永良部島移住は『「さつま」の姓氏』(川口大十著)に出てくる話で、その事情にどんな物があったのかは記述が無く不明です。
以前、「佐多」さんが伊勢氏の零落についてこのブログのコメントで詳細に書かれていましたが、アレと似通った事情があったのではないかと推測します。
爵位拝領の件ですが、最初から枠から外れていたのですね。御教示ありがとうございました。それにしても島津四兄弟の中で日置島津家に比べて悪い扱いですねぇ。中書家久と豊久がなければ島津家があそこまで興隆したかアヤシイ物ですのに。
花岡島津家も一門衆の中では特異な家ですね。ここの創設は開発の遅れていた大隅半島内陸の開拓と関係があるとか何かの本に書いてあったように思いますが…。

ところで、最初「口永良部島」と「沖永良部島」を混同していたのはここだけの内緒です(爆)

まちがえた
ばんない
1つ前の「管理人しか見られないコメント」はおそらく私が間違って送信してしまった物です。
桐野様、お手数ですが、消去して下さりますと助かります。ご迷惑をおかけします。

永吉島津家
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

『「さつま」の姓氏』の永吉家の項を見てみました。
12代久陽が口永良部島の初代代官をつとめたのち、明治5年に同島に移住と書いてありますね。
口永良部島には幕末になるまで代官が置かれていなかったようですね。外国船が出没するようになったための措置でしょうか?
廃藩置県の直後に12代は移住したようですね。本家は東京に行くことになりましたし、島津一族にも明暗があったのかどうか。気になるところです。

なお、13代の事跡が省略されていますが、これが篤姫の次兄ですね(笑)。14代久籌は霧島神宮宮司を務めたりして、本土に残っている感じですね。隠居の12代だけが島に行ったように見えますが……。

○○も出たー(失礼)
ばんない
私は残念ながら見られなかったのですが、10/27放送分の「鶴瓶の家族に乾杯」で、久敬の曾孫という方が出演しておられたようです。現職はお寺の住職だそうです。

興味深い話だったので、古い記事ではありますがこちらにコメントさせていただきます。

久敬の曾孫!
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

その番組、先週に引きつづいて観ていません。
バラエティ番組だと思っていましたが、ある人に聞いたところによれば、ほかにもけっこう貴重な情報が流れていたようですね。
久敬の子孫もいるとは驚きです。

今年は雨後の竹の子のように(といったら失礼か)、いろんな家や人が出てきますね。
でも、これをきっかけに、幕末島津家臣団の研究が進むかもしれませんし。

再放送
ばんない
こんばんは。
私もバラエティ(しかも国営放送のバラエティはいまいち笑え…以下自粛)ということで、全く見てなかったのですが、ネット上で番組の話を偶然見つけてビックリしました。「その時歴史が動いた」はよく大河とのタイアップをしていますが、バラエティも便乗とは驚きました。

ということで、来週早速再放送があるようです。但しBS2、しかも時間がよろしくない(11/4(火)の夕方16:30~)ですが。

再放送
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

再放送のお知らせ、有難うございます。
個人的な関心事もあるものですから、何とか見れたらと思っています。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第45回
―北越戦争で治療を拒絶―

連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

中原猶介の3回目である。
砲術家としての中原の活躍と最期を書きました。
禁門の変、伏見戦争、北越戦争を1回分にまとめるのは、案の定、ひと苦労でした。

中原が蒸気船購入などにも奔走したり、慶応2年(1866)、英国臨時公使一行が薩摩藩を表敬訪問したとき、中原が砲術操練の演武を示す栄誉に預かり、英国人の度肝を抜いた話など面白いところがあったのですが、割愛せざるをえませんでした。

前回書いた薩英戦争での中原の建言書に神瀬の砲台建設が急務だという提案があったのですが、やはり戦争前に着工する余裕がなかったらしく、戦後すぐ着工にとりかかり、完成しています。その迅速さを見ると、中原が予言したとおり、実戦において神瀬に砲台がない弱点を薩摩藩要路が痛感したものと思われます。

今回、面白いのは、中原と勝海舟の意外な交流だと思います。
禁門の変での中原の砲隊はどうやら神戸海軍操練所の生徒たち(おそらく薩摩藩士)で成り立っていたようです。大砲まで勝から借りたのではないかと推定してみました。
勝海舟日記を見ると、禁門の変の前に中原が勝を訪問して蘭書などを拝借しています。2人は親しい間柄だったようです。

中原の活動や人脈が多様で面白いことがわかりました。
また写真の謎も興味深いです。
ほかにも紹介できなかった中原の史料や逸話もまだありますので、もっと詳しく掘り下げてみたい人物です。

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【2008/02/16 13:03】 | さつま人国誌
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崎陽・織田
桐野先生、こんばんわ。
中原猶介のこと、ますます興味深い人物ですね。勝とも交流があったとは驚きました。早速、勝日記を読んでみると、確かに随所に登場しますね。勝から英書を借り受けているところから、中原の興味は既に英学の方に向いていたのでしょうか。
中原写真の件も、今後、ご研究を続けてください。先生が取り上げられた写真とは別種のものが、「甦る幕末」に掲載されていました。たぶん長崎で、西洋人により撮影されたものと思います。中原は戸外で椅子に腰掛けています。

「甦る幕末」
桐野作人
崎陽・織田さん、こんばんは。

中原の交友関係はかなり多彩だと思います。
佐久間象山とか川路聖謨なんかとも知り合いだった可能性がありますね。

「甦る幕末」にも、中原の写真が載っているのは知っているのですが、どこにしまい込んだのか見付け出せずにおります。


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韓国の国宝第1号の南大門が放火で焼失した。
わが国でいえば、室町時代に建立されたもので、いわば、金閣寺が焼けたようなものだ(実際、金閣寺も焼けているが)。
正式には「崇礼門」というらしい。

容疑者が逮捕されたが、もう元には戻らない。
おそらく再建されるだろうが、在りし日の姿を記憶に留めておきたいと思う。
たまたま古いポジフィルムをスキャナでデジタル化の作業中だった。
少し角度を変えた2点を。
南大門1


南大門2



ついでに、わが国にもなじみのある写真もあげておきます。
まず、これもすでに消滅した、旧朝鮮総督府。博物館になっていたので、中に入りましたが、総大理石造りで、素晴らしかったです。もっとも、向こうにとっては日帝35年の象徴ですが。
総督府


伊藤博文を暗殺した安重根は向こうでは英雄です。
安重根


これからは朝鮮出兵=壬辰倭乱・丁酉再乱関係を何点か。
何といっても、救国の英雄=李舜臣。釜山にあるものです。日本側を向いているとか(笑)。
李舜臣


李舜臣が乗っていた有名な軍船・亀甲船(復元)。これは釜山にて。
亀甲船


加藤清正が苦戦した蔚山城の石垣
蔚山


小西行長が孤立した倭城の順天城石垣。
島津義弘が救出のため、援軍で駆け付け、李舜臣の水軍と激戦を展開し、李舜臣が戦死したことは有名。義弘の軍船も沈没しました。
順天


10日くらいかけて韓国中を回りました。ほんの一部ですが、個人的には非常に懐かしい写真です。

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【2008/02/15 03:26】 | 雑記
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鹿児島人
桐野先生こんばんわ

文化財がなくなったといえば
鹿児島では、廃仏毀釈で禅宗系佛寺が徹底的に
破壊され で近世の地方の細かい部分がわからなくなっているとききます。
反対に 地方政庁の場所を ほとんど学校にする行動
幕末の鹿児島人々の考えとはどうだったんでしょう?
薩摩琵琶を弾き
漢詩を創り
人形浄瑠璃(宮崎山之口他)を催したり
庭を造って めでる
文化を あっというまに破壊する狂気の裏には 何があるのでしょうか
衣食足りて礼節を知るなんでしょうかね

西郷さんは  陽明学に造詣が深かったとか。
そのあたりにも げんいんがあるのかな
暇が あったら上辺だけ勉強してみます。




廃仏毀釈
桐野作人
鹿児島人さん、おはようございます。

鹿児島の廃仏毀釈の嵐は凄まじく、島津家の菩提寺、福昌寺さえ例外ではありませんでしたね。
破壊されたのが禅宗系寺院に偏っているのは、薩摩藩では、臨済・曹洞の2宗派が島津家に厚く保護される一方、一向宗禁制をはじめ、他宗派が肩身の狭い思いをしていたことも一因でしょう。

廃仏毀釈はその藩、その地域の特殊事情も考慮しないといけないと思います。
他藩においては、やはり国学者主導によるものが多く、江戸時代、ずっと抑圧されてきた神社・神主の寺院・僧侶への逆襲、報復という面もあります。そして、宗門人別帳をはじめ、寺院が人民支配の末端となって抑圧的だったことが、庶民の怒りを買い、幕府の崩壊とともに、庇護を失った寺院に攻撃をかけたという面もあったと思います。ある面、庶民の憤激の発露でしょうから、致し方ないところもありますが、文化財が破壊されたのは残念です。
まあ、中国の文化大革命や、アフガンでのタリバンの仏像破壊などともどこか似ているかもしれませんね。共通している思想は、自分を絶対視し、他に非寛容な「原理主義」だという点でしょう。

薩摩藩の個別特殊事情はどのあたりにあるか、私も調べたことがないので、臆測で書きますが、ひとつは国学者勢力や神社勢力がそんなに強かったとは思いません。
ではなぜ、あのような徹底的破壊が行われたのか、なかなかその背景が思い浮かびませんが、ひとつは藩当局の煽動があったのかどうかという点。
この場合は、明治2年の藩政、軍制改革が廃仏毀釈と時期を同じくしている点が単なる偶然なのかどうか。この改革の主体勢力は戊辰戦争帰りの下級城下士(御小姓与中心)です。彼らは門閥層を追い落とし、藩の実権を掌握しました。その過程で、門閥制や封建制への素朴な反感が寺院破壊に向けられたかどうか。この時期、藩政史料も厖大に破棄されていますから、それとの関連があるのかどうか、興味深いところです。

もう一点は、仏教の他宗派による禅宗系寺院への逆襲、報復という観点ですね。これはあまり言われていないかもしれません。とくに弾圧されていた浄土真宗系門徒が我が世の春と謳歌した禅宗系寺院に憎悪を向けた可能性はあるのかないのか。
とくに維新直後、一向宗の禁制が解かれるなどの政策転換があったとすれば、これがきっかけになって、一向宗の反撃が始まった可能性はあるかもしれません。

いずれも、先行研究や史料を無視した私の臆測ですので、読み流して下さい。


鹿児島人
桐野先生 ありがとうございます。

明治維新から西南政争への鹿児島の歴史は維新までが
よく語られるわりには、あまり広くは語られないように思います。
語られる時は、西郷さん一筋愛調な話が多い様にも思います。
私も西郷さんは、好きです。が 歴史の必然なのでしょうが、
何千人の人々が死んで 経済文化の壊滅破滅までいってしまったのが、止められなかったのかの研究、発表が必要かなあと。
あまりにも 西郷さんの人格が、すばらしくて、そのために
悲劇性も美談になるんですよね。

あんみつ篤姫を某放送局が大々的にやると また歴史の本質、多様性を無視するのではと恐れます。駄文すみません。

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小学館古文書講座てらこや特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」第3回

昨日、出講する。

前回に引きつづいて、『大久保利通関係文書』所収の小松帯刀文書を読む。
表題のとおり、文久3年をまだうろうろしている。

さっそく年次比定で引っかかる。
「御贈官之口 宣」とあるのが、誰への贈官なのか。久光か、茂久か、あるいは故・斉彬か。
一応、編者は文久3年に比定していた。
文書中で、久光を「三郎様」と呼んでいる。
無位無官だった久光は元治元年正月13日に従四位下・左近衛権少将に叙任されている。それ以降、「少将様」とか「大隅守様」と呼ばれる。だから、文久3年というわけだろう。
ただ、小松が在国しているなら、京都からの知らせと実際の口宣案到着が3カ月遅れたとして、元治元年の可能性もあることになるが、あいにく小松は在京している。
それでは、茂久かというと、彼も斉彬死後の襲封直後の安政6年に従四位下・左近衛権少将に叙任しているから該当しない。
それで、文久2年11月12日、故・斉彬へ従三位・権中納言が追贈されているから、その口宣案ではないかということに落ち着いた。

さらに、年次不明文書で、同日付の大久保宛て小松書簡があった。上記書簡と同日だが、『忠義公史料』では、文久3年に比定していた。
しかし、同日に大久保宛てに2通書くのか。仮に書いたとしても、後便のほうに前便云々の文言があってもおかしくないが、それがない。しかも、同日に書いた割には書簡の雰囲気がどうも違うし、常套的な文言も異なる。
結局、結論が出なかった。

あとで、受講者の方から、同年同日のものでよいのではないかというメールをいただいた。その理由が説得的なので、私も検討してみたい。

というわけで、年次比定ですっかりつまずいてしまった。

姉小路事件についての小松の布達などもなかなか興味深い。
田中新兵衛の出自について、やや詳しく説明。
でも、興味をもってもらえたかは不明。
薩英戦争の解説も時間不足でしり切れトンボで終わってしまった。
事前の準備不足で、時間配分などがうまくいかなかった。
反省することしかりである。

次回は禁門の変になるだろう。
ようやく小松像がある程度の輪郭をもって姿を現すと思う。

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【2008/02/13 23:18】 | てらこや
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自分で紹介しておきながら、うっかりしておりました。

JR鹿児島中央駅前に立つ「若き薩摩の群像を完成させる会」のサイトをリンクしました。
署名運動をしております。
関心のある方、のぞいてみて下さい。



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【2008/02/12 23:53】 | 幕末維新
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日次記です。

2月9日(土)
南日本新聞連載「さつま人国誌」を見た中原猶介の子孫の方から、南洲顕彰会経由で連絡あり。
連絡がとれて、電話で少し話をうかがう。中原猶介がつくったと思われる写真原版があるとか。もし本物ならすごい。安政年間のものである可能性があるからだ。
ほかにも、戊辰戦争や箱館戦争に出征した兵具隊の小隊長某氏の史料などもあるとうかがう。『薩藩出軍戦状』にその部隊の戦闘報告書があるが、おそらくそれとは別の戦闘日誌ではないかと思われた。食指が動いた。
次回、帰鹿のとき、お目にかかるかもしれない。

同じく中原猶介関係で、コラムで掲載した中原の写真に関して、新聞社経由で質問が寄せられていた。幕末古写真関係では有名な先生らしい。
写真の撮影者・撮影場所・撮影時などについての確認の問い合わせだった。
私は中原の子孫が編んだ伝記の写真説明をそのまま付したが、少し疑問があるらしい。いろいろ調べてみたが、撮影時期は慶応3年ではないかもしれない。
また撮影場所も長崎の可能性がある。時期は文久3年か?

その先生から港区立港郷土資料館が刊行した井関コレクション『写真集 近代日本を支えた人々』のなかに、私が掲載した写真とよく似た中原の写真があると教えてもらった。
その写真集はちゃんと持っていたのに、把握していなかったのは、まことに迂闊である(汗)。
改めてよく見てみると、同じ場所(同じ書斎)で撮影されたのは明らか。若干角度が異なっている。中原が姿勢を少し変えたのだろう。
先生からの教示によれば、中原に限らず、幕末には撮影した自影を名刺代わりにして、相手に渡していたという。なかには着色されたものもある。中原もそうして写真を配ったので、似たようなものが何点か残存しているらしい。

ちなみに、伝記に収録されていた写真は、英国の提督(海軍大将)が所持していた写真を中原の子孫が譲り受けたもの。その提督は明治30年頃来日し、写真の裏に「Satsuma admiral」と書いてあるのを手がかりに、旧薩摩藩関係者に写真を見せて回って人物の特定をしようとした。誰もわからなかったが、松方正義だけが覚えていて、その主は中原猶介という勇者だったが、戊辰戦争で戦死したと告げたので、提督はいたく残念がったという逸話が残っている。

私は古写真を史料的に解読するのはまったくの門外漢なので、何ともいえないが、中原の史料を突きあわせることで、ある程度、時期と場所を絞り込めるのではないかと思う。
新しい見方を教えていただいて感謝。

2月10日(日)
 午前中、橋場殿下から突然電話あり。安土からだった。いま安土では展示会が開かれている。知ってはいたが、とても行けそうもない。
殿下からは、図録が必要なら余分に購入しておくがという有難いお申し出。せっかくのご好意なので、お願いする。わざわざ思い出していただき有難いかぎり。
殿下の桶狭間合戦の論考についても、紹介しようかと思っているが、なかなかできないでいる。なかなか興味深い結論になっている。

 友人の研究者、西澤朱実氏より相楽総三史料集の仮ゲラが届く。
私にとっては足かけ4年になる仕事である(西澤氏は何年だろうか)。最初、戦前に刊行された諏訪教育会の相楽史料集の復刻を山口のマツノ書店に提案したのがきっかけだった。どうせなら、ただの復刻だけでは面白くないので、相楽総三をずっと追いかけている西澤氏の力を借りて、新出史料を補遺という形で追録しようということだった。

でも、主客転倒というか、西澤氏が精魂込めて集めた史料は厖大で、むしろそちらをメインにして、復刻分は付録ということになった。
西澤氏とは諏訪の魁塚(相楽たちの慰霊碑)に一緒に行ったり、佐倉の歴史民俗博物館、伊那、世田谷区郷土資料館、学習院大学文書館、国会図書館憲政資料室その他、あちこちに史料を探しに行き、撮影もした。難解なくずし字の地方文書の翻刻に2人して頭を抱えたこともあった。
また関東の草莽に並々ならぬ関心をお持ちの幕末維新史の大家、宮地正人先生にも、お知恵を拝借したり、佐倉の歴博にある平田家の史料などでもお世話になった。推薦文のお願いもして、もう出来ていると聞く。

仮ゲラを見て、いろんな思いが込み上げてきた。
じつは、刊行予定のボリュームより、実際に収集した史料量が圧倒的に多い。涙を呑んで割愛してある。
そして本当は、今年4月の魁塚の慰霊祭に間に合わせたかった。今年は相楽らが処刑されてから、ちょうど140周年にあたっている。相楽子孫の木村さんに、いち早く献呈したかった。でも、日程的に4月刊行は難しそうだ。6月くらいになりそう。
相楽総三や赤報隊、出流山事件、慶応3年の薩邸焼討事件などについての、画期的な史料集になるのは間違いない。西澤氏の永年の努力と執念が結実しそうである。頭が下がる思いだ。
私も推薦文を書くことになっている。この史料集の出来上がるプロセスを、西澤氏の奮闘ぶりを記録に留めておくべきだろう。

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【2008/02/11 22:40】 | 日次記
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大河ドラマ「篤姫」第6回「女の道」

今回、ドラマの本筋にはあまり関心がない。篤姫に菊本なる乳母がいたかどうか不明だし、ましてや自害など、原作のフィクションだから、無視。

史実と筋立てとのからみで、なかなか微妙で面白いコラボになっていたように思う。ただ、前回からそうだったが、時系列で多少の混乱があった。

ひとつは、ドラマの進行時点の年次が混乱していることである。
嘉永4年(1851)なのか、翌5年なのかという点。
斉彬の襲封は4年だし、ジョン万が琉球から薩摩の山川に上陸して、斉彬からじきじきに事情聴取されたのも、同4年である。
しかし、一方で、西郷吉之助が伊集院兼寛の姉と結婚するのは翌5年のことである。
わずか1年違いだが、同時進行しているのはやや奇異である。西郷の結婚の月日が明確ではないから、この程度の誤差は致し方ないかもしれないが。

今回、気づいた点。斉彬を中心になかなか興味深いセリフがあった。

1,斉彬が6人の子を失った点
 斉彬のしみじみとしたセリフだった。これは事実である。突っ込まれないように万全な手配がしてあった(笑)。亡くなった子どもたちの内訳。上から、

長男菊三郎:1歳(生後1カ月ほど)
長女澄姫:4歳
二女邦姫:3歳
二男寛之助:4歳
三男盛之進:4歳
四男篤之助:2歳

ことごとく、夭逝である。斉彬がお由羅の呪詛を信じたくなるのもわかる。
健在だったのは、

五男虎寿丸:3歳 斉彬襲封と共に世子となる
三女暐姫:嘉永4年だから生まれたばかり

虎寿丸は歴代島津家では世子に付ける幼名だが、斉彬の期待も空しく、3年後に没。
なお、暐姫は健在で、斉彬の跡を継いだ茂久(のち忠義)と婚姻。


2,斉彬の母、賢章院夫人
 斉彬が篤姫に「母に似ている、賢明で本好きで自分の甲冑まで持っていた」と懐かしそうに話していた。その母が賢章院夫人で、因幡鳥取藩主池田斉邦の妹・弥姫。
 この話はほぼ史実だろう。池田俊彦『島津斉彬公伝』(中公文庫)には次のようにある(出典はおそらく『賢章院夫人遺芳録』だと思うが、未見)。

「賢章院夫人の島津家に入輿ありし折、島津家の役人達を驚かさしめしたことは、その持参せる道具の中に本箱がたくさんありて、中に四書、左伝、史記、漢書など経書史伝の漢籍の書余多(あまた)ありし外に、鎧櫃に具足まで入れてあったことである」

「当時の諸侯や高貴の家庭においては、子供の生るるやいずれも乳母を置きて子女の養育を託するのが一般の習いであったので斉彬の生れし時も、奧女中をはじめとして御側役の人々、いずれも乳母を置くことを勧めたが、賢章院はその勧めを斥けて、お乳を呑ませることから、おむつを取り換えることまで一切を自身でなされたということである」


また斉彬の元服から、たしか3年後に賢章院夫人が亡くなったと語っていたが、これも史実である。


3,島津忠教の重富引きこもり 
 斉彬と忠教(のち久光)兄弟のかなり率直な、本音をぶつけた会話があった。そんな会話をしたのかどうかわからないが、忠教が役職を辞して重富に引きこもると言い出し、斉彬が慰留していた。斉彬が気にしていたのは、養女に忠教の一女哲姫ではなく篤姫を選んだことと、ジョン万の海防策を採用して、忠教の策を斥けたことの2点だったように思う。

哲姫の一件については、斉彬も気にしている形跡がある。斉彬が幕府奥医師の多紀元堅に宛てた書簡には「周防(忠教)娘を差し置き、安芸(忠剛)娘実子届の処、同苗(斉興)の所存計り難し」とあり、哲姫を選ばなかったことに隠居の斉興が気を悪くするのではないかと考えていたようである。

哲姫こと於哲は篤姫と同年代くらいに描かれていたが、篤姫より4歳年下だから13歳。そのように見えたかどうか微妙だった。篤姫が養女となった以上、もう出番はないだろう。

もう一点の海防策だが、果たしてあそこまでジョン万の意見が取り入れられたばかりか、藩内の砲台建設まで従事したかどうかは疑問。
忠教については、まだ斉興が藩主だった頃、嘉永元年(1848)4月に家老座出仕が許され、席次も城代家老の上席という最高位だった。
さらに同年11月、藩主斉興が江戸在府のときは、忠教が名代として「海岸防禦筋之儀」を指揮するよう命じられている(『島津久光公実紀』一)。
これは、当時、琉球に英仏の艦船が寄航したばかりか、乗組員がずっと上陸したまま逗留していることを幕府が重視しており、薩摩藩に海防強化を命じていたことが背景にあると思われる。

斉彬が襲封し、在国している以上、忠教はその任を自然と解かれたのではないかと思われるが、於哲の一件やジョン万のもつ海外事情とを結びつけたのは、なかなかの筋立てだったように思える。


4,篤姫は実子届
 そしてこれが一番肝心な点だが、上に述べたように、篤姫は実子として幕府に届けられた。それは篤姫を御台所に入れたいという斉彬の野望ゆえであろう。もし斉彬の養女なら、御台所になる場合、広大院(将軍家斉の御台所)の先例のように近衛家の養女となったとき、「又養女」になることが、御台所の格式として不足だという判断だったからである。
したがって、斉彬は以後、篤姫を実子として押し通し、家中にも箝口令を敷くことになる。

養女か実子届かというのは非常に重要な点なので、それが描かれなかったのはやや不満。次回にどのように描かれるか注目したい。

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【2008/02/10 22:11】 | 篤姫
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斉彬の子供達と斉彬の幼名
ばんない
こんばんは。
斉彬の子供達についての話題がでたので便乗して、かなり初心者な疑問があります。

「虎寿丸」は確かに島津家嫡子につけられる幼名なのですが、
斉彬は正室腹の長男で正真正銘の嫡子なのに、確かこの幼名ではなかったと記憶しています。その理由は判明しているのでしょうか。

また、斉彬は5番目の男子にようやくこの嫡子につける幼名をつけるのですが、この5番目の男子の母親が一橋家から来た正室だったんでしょうか。
1番目の男子が、島津忠良の幼名と同じ菊三郎というのも気になります。こちらのほうは深く考えすぎでしょうかね?


トラックバックの理由
ぶるぼん
桐野先生、再びトラックバックが貼れるようになりました。
理由はよくわからないのですが、先生のアドレスを本文中に入れると、トラックバックがはじかれずにすむのです。
ということで当会ブログのアクセス増にご協力ください。
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島津家の命名法
桐野作人
ばんないさん、おはようございます。

島津家の子弟についての命名法、たしかに一部よく分からない点はありますね。
ご指摘の斉彬の幼名も虎寿丸ではなくて、邦丸なのはやや不審です。

島津家の場合、世子の命名法の規範として史料的に遡れる先例は貴久の虎寿丸→又三郎だと思います。何といっても、伊作=相州島津家が守護職を継いだ吉例ですからね。

その後、正真正銘の世子(必ずしも正室腹とは限りません)は原則として、虎寿丸→又三郎と命名されるという一種の法則性があります。江戸時代だと、光久・綱久(襲封せず)・綱貴・斉宣あたりが該当します。

面白いのは斉興で、当初幼名は憲之助ですが、ほどなく虎寿丸となり、元服して又三郎を名乗ります。幼名が2つあるのは、斉興が鹿児島で生まれた側室腹で、しばらくたってから世子とされたため、虎寿丸に幼名変更がなされたのだと思います。

このように、法則性といっても逸脱や例外はあるようです。では、斉彬の事例はどうかということですが、正室腹で江戸生まれという正真正銘の世子なのに、虎寿丸を名乗らなかった理由は何かということになりますね。

ひとつ考えられるのは、たとえ嫡男とはいえ、虎寿丸と名づけられるのは、世子として心身共に健やかなであることを、ある程度時間の経過により見定めてから命名されるかもしれないという点と、斉彬の場合は世子となったのがわずか3歳と、異常に早い点を考える必要があるかも。

世子のほとんどが10歳を過ぎて元服し、又三郎を名乗ってから世子となっているのにくらべると、斉彬の早さが際立ちます。
それだけ、斉興の斉彬への期待が高かったことをうかがわせます。あるいは曾祖父重豪の意向かもしれませんが。
世子指名が早かったというのが邦丸→又三郎という逸脱となり、虎寿丸を名乗るいとまがなかったのかもと考えますが、どうでしょうかね。

あと、斉彬の男子についてですが、
長男菊三郎は正室腹ですから、虎寿丸と名乗っていいはずですが、名乗っていません。考えるに、わずか40日足らずで夭逝したからではないかと。おそらく菊三郎は没後の命名じゃないかと思います。没した時点で世子ではなくなるので、当然虎寿丸は付けられなかったのでは。
その後、寛之助、盛之進、篤之助と生まれますが、いずれも側室腹で、虎寿丸候補ではなかったと思います。

そして、五男虎寿丸は側室腹(田宮氏)ではありますが、4人の男子に先立たれた斉彬も今度こそは是が非でも跡取りにという、なりふり構わぬ願いを込めて、命名されたのではないでしょうか。これも親の心がなせる逸脱ではないかと思います。

そして末子で六男の哲丸ですが、わずか2歳(実質半年)で世子に指名されます。これも斉彬のワラをもすがる思いでしょうね。これも斉彬の事例と同じように、世子したのが早かったので、虎寿丸と命名するいとまがなかったのでは……。

法則性からはずれる逸脱や例外をとりあえず、以上のような大胆な臆測で書いてみました。
ばんないさんのご意見をお聞かせ願えればと思います。


トラックバック
桐野作人
ぶるぼんさん、こんにちは。

私には仕組みがよくわかりませんが、とにかくトラックバックが張れる方法がわかってよかったですね。
これからもよろしくお願いします。


三郎
ばんない
特に反論はありません、というか余りその辺りは詳しくないのでつっこまれても反論のしようがない(汗)ご返答ありがとうございました。

桐野さんご指摘の斉興は、興味深い事例と考えます。他の「虎寿丸」が正室腹、或いは比較的身分の高い側室出生などであるのに対し、斉興の生母・鈴木氏女は江戸の浪人の娘であり(勿論その前にしかるべき旗本の養女になっていますが)、それが家臣の間でやり玉に挙がったこともあるようです。
また、先日『お家相続』(大森映子著 角川新書)という本を読んだのですが、江戸大名は早々と世子を指名すると、彼が夭折した場合に末期養子を指名しにくくなる、下手すると御家取りつぶしにつながりかねないなどの弊害があるため、なかなか実子の披露も出来にくかったという事情が紹介されていました。なので、正室出生とはいえ、斉彬が3歳で公式に世子となったのはかなり珍しい例になるのでしょうね。ただ、世子になったときは「虎寿丸」改名の機会だったのに、という疑問は残ります。

ところで、「虎寿丸」と共に島津家世子を象徴する名前であった字「又三郎」ですが、島津久光が一時期「三郎」という字を名乗っていますね。既にこの点については個人サイト(URL参照)など、指摘されている方は多いようですが、これについて学術的な検証がされたことはあるのでしょうか。

陪臣名乗りはイヤ
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

久光の「和泉」から「三郎」への改称について。
一言でいえば、理由は表題のとおりだと思います。

『島津久光公実紀』一、文久2年5月11日条に記事があります。
「近衛家ノ垂示」により改めたとあり、その理由はやはり老中水野和泉守(忠精)と重複するので改めたらどうかと言われたからとあります。
ただ、近衛家からの提案は文書ではなく、「口述」だったとして、それを書き留めています。史料的な信頼性としてはやや?です。

それで一応、『~実紀』には「三郎」が「島津家嫡統ノ通称ナリ」とたしかに書いてあります。
しかし、「嫡統ノ通称」というのはどうですかね。貴久以降は前回書いたように、「又三郎」こそ「嫡統」ですし、貴久以前は「又三郎」と「三郎左衛門尉」が混在しています。
おそらく「三郎左衛門尉」の略称という位置づけのつもりだったのでしょうか? そして世子が名乗る「又三郎」を名乗れないがゆえの、苦肉の選択だったのではないでしょうか。

しかし、私はそこに問題の本質はないと思っています。要するに、久光が薩摩守や修理大夫はおろか、大隅守も名乗れない点こそが重要だと思います。

この問題は、近世武家官位制の視点から見るべきだと思っています。本来なら、修理大夫や薩摩守は島津家が排他的に独占する名乗り(通称官名)ですから、よそからあれこれ言われる筋合いはありません。
久光が藩主でないから、それらの名乗りが不可能であることと、「和泉」が「和泉守」ではないことが重要です。
「~守」といった受領名は通称官名で、五位(叙爵)の諸大夫か、侍従以上の公家成の大名や一部旗本の名乗りです。

久光は島津一門つまり、徳川将軍家から見たら陪臣なので、叙爵できず、「~守」と名乗れないのです。「和泉」はあくまで国名であり、国司名ではありません。そして、国名の名乗りは大名家の一門や家老といった陪臣を表象する通称です。

問題の本質はここにあります。「和泉」がダメなら、なぜ「薩摩」なり他の国名(国司名ではなく)を名乗らなかったのか。答えは簡単です。「薩摩」も国名であり、陪臣の称号であることには変わりないからです。

だから、こうした近世武家官位制の規制から離脱するために、久光は「三郎」を名乗ったのだと思います。
これだと、大名か陪臣かの区別がにわかにはつきません。もっとも、ふつう大名か世子が三郎もしくは三郎左衛門といった通称を名乗るのは将軍に御目見する以前の若年の通称なんですけど、久光はそれでも、陪臣扱いよりましだという判断で、三郎を名乗ったのだと思います。
そして、後づけの理屈として、「三郎(左衛門尉)」は「島津家嫡統ノ通称」だと正当化する必要が生じたのではないでしょうか。

以上が私の考えているところです。



ばんない
ご返答ありがとうございます。

息子で藩主の茂久(後の忠義)にかわって京や江戸に出張っている出たがりで気位の高い(苦笑)久光ですから、陪臣の名乗りがイヤだったというのは分かるんです。
桐野さんは大した問題ではないと思ってらっしゃるようですが、些末なことかもしれませんが「一郎」などではなく、嫡子名の「又三郎」「三郎左衛門尉」を発想させる「三郎」を選んだその真意が気になります。私程度の人間でも気になるのですから、当時の藩士にはかちんと来た人も多かったのではないかと思うのですが、考えすぎでしょうか。「三男だったから三郎なんだよ」と久光なら言いそうですが、実際は五男だったと思うのですが。「五郎」は嫌だったんでしょうかね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第44回
―薩英戦争への深い洞察―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は中原猶介の2回目。
中原は蘭学を独学で学びながら、化学・造船・砲術などの諸知識を貪欲に吸収した、なかなかの学者である。
とくに新しい知識を求めるために、藩の枠にとらわれずに行動しているところが、あまり薩摩藩士らしくなくて、いい。斉彬が存命だったなら、欧米にいち早く留学したに違いない。

本当は今回、禁門の変での活躍まで書くつもりだったが、その前の薩英戦争で終わってしまった。
次回は、禁門の変、鳥羽・伏見の戦い、北越戦争と、3つも盛りこまないといけない。果たして大丈夫か。
あとの祭りだが、少し構成の塩梅を間違えたかもしれないな。

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【2008/02/09 12:29】 | さつま人国誌
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崎陽・織田
桐野先生、こんばんは。
中原猶介、なかなか興味深い人物ですね。
実は、私が中原の名前を知ったのは、『甦る幕末』という写真集に、その写真が収められていたためです。薩摩藩士らしい精悍な風貌が印象に残っています。機会があれば、調べてみたいと思います。
追伸 今晩の「篤姫」を見ましたが、どうも今回の大河ドラマは、朝ドラの製作路線で行くようですね。平幹二郎の調所廣郷がとてもよかったので、できればもっと出番をふやして欲しかったと思います。

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京王パンフ

本日、京王電鉄主催の文化探訪企画の打ち合わせ。

年間スケジュールが決定し、私の担当分の詳細を打ち合わせた。
昨年暮れ、京王プラザホテルで開かれた京王文化セミナー「天璋院篤姫」の続編。
月一のペースで、講演会・セミナー・史跡探訪などの諸行事が開かれる。

私は、鹿児島、京都、江戸(2回分)の計4回の史跡探訪を担当しなけらばならなくなった。
みなさんにもお勧めしたいが、料金が決して安くないので二の足を踏んでいました。もし余裕のある方はご検討下さい。

とりあえず、私の担当分をご紹介しておきます。

●5/13(火)~16(金) 
薩摩を深める。 ↑パンフ写真参照
薩摩隼人の在所に姶良の土魂を探る旅
―坊津 鑑真和上と天璋院篤姫の風土を歩く―
宿泊先:霧島、鹿児島市内、指宿

●6/8(日)
幕末の江戸を探る①
江戸の薩摩藩もしくは幕末関係の史跡探訪
(江戸城、芝・高輪・渋谷の諸藩邸、大圓寺、千駄ヶ谷の篤姫終焉の地など)

●10/7(火)~9(木)
京都・天璋院篤姫が御座した幕末の京を探る
(京都御苑、二本松・錦小路藩邸跡、伏見、鳥羽伏見戦跡など)

●11/9(日)
幕末の江戸を探る②
(青山墓地、千住小塚原、寛永寺墓所など)

とくに力が入っているのは、鹿児島の3泊4日の探訪でしょうか。

初日:鹿児島神宮、隼人塚、大隅国分寺跡、姶良町歴史民俗資料館、上野原縄文の森、島津義久墓所

2日目:霧島神宮、日置南洲窯(西郷隆盛子孫)、大乗寺跡(日置島津家墓所)、園林寺跡(小松家菩提寺、小松帯刀墓所)、美山沈寿官窯、調所広郷招墓、岩崎谷洞窟、西郷南洲顕彰館・南洲墓地、篤姫生誕の地、福昌寺跡(島津家菩提寺跡)など

3日目:加治屋町、鶴丸城跡、黎明館、尚古集成館・仙巌園、異人館、今和泉(今和泉島津家墓所、同仮屋跡、隼人松原など)、池田湖

4日目:坊津・輝津館、一乗院跡、近衛信尹配所跡、密貿易屋敷跡、秋目・鑑真記念館、知覧特攻平和会館、知覧武家屋敷群など


詳細はまた告知します。
どうしてもという方は、左のメールフォームから御一報下さい。

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【2008/02/08 21:07】 | イベント
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こんにちは
宮崎路子
京王でご一緒した宮崎です。今、娘に教わりながら打ってます。朝の30分の勉強です。これがやっとです。


桐野作人
宮崎路子さん、こんにちは。

篤姫ツアーはいろいろ参加していただき、有難うございました。
いよいよPC、ネットデビューですか。
早く使いこなせるよう頑張って下さいね。



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日次記

2月7日(木)
今日は終日外出だった。
京都の友人中村武生氏が所用で東下してきたので、一緒に表題の2館をめぐる。
彼のブログ(左のリンク欄「歴史と地理な日々(新版)」参照)に書いている篤姫関係のある史料探しである。私も関心がありながら、刊本史料では見つけられなかったので、ここは呉越同舟と相成る。

まず竹橋の国立公文書館に行く。個人的には内閣文庫といったほうがなじみがある。
最近久しぶりに来たが、以前のアナログ状況がまったく一新されて、整然とデジタル化されているのに驚く。

中村氏がくだんの史料を閲覧している間に、私は懸案になっていた、ある信長関係の史料を探す。某雑誌企画のために、どうしても事前に確認しておきたいものだった。
閲覧してみたら、推測どおりだった。勘の悪い私にしては珍しいくらい、ど真ん中ストライクのビンゴだった。うれしくなって、全10冊の複写を申請した。

受付に閲覧申し込みをしたとき、デスクの女性がどこかで見た方だと思っていたら、先方から「桐野先生」と声を掛けられた。先生なんてご大層な身分ではないがと思いつつ、記憶を辿ってようやく思い当たった。
私の古文書講座の受講生の友人の方で、昨年、一席を共にした方だった。あまりの奇遇に驚く。最近、奇遇ばかりだ。
おかげで、私のほうは成果があった。

そして、帰ってきてから思い出したが、ここには、以前当ブログで話題になった「別本川角太閤記」を所蔵しているのだった。それを見てくるのを忘れた。もっとも、時間がなかったので、じっくり見る余裕はなかったと思うが。

だが、中村氏のほうは、史料が年次違いでヒットせず。

その後、すぐ近くの江戸城本丸へと行く。
天守台跡が目の前にあった。
大奥跡や松之廊下跡の写真を撮り、中村氏と二人で記念撮影。

お互い、あまり時間がなかったが、乗りかかった船なので、国会図書館まで足を伸ばす。
同館内の憲政資料室にある、ある有名な幕末島津氏史料にあたるため。
事前に目録で当たりをつけ、受付からマイクロフィルムのリールを何本か借り出し、リーダーをしこしこ回す。
これだという史料名にぶつかったが、残念ながら、これまたはずれだった。諦めずに、さらに何本かセットして探してみたが、結局見つからず。
それでも、いくつか副産物があった。篤姫の明治以降の動静がわかる史料もあって、それなりに興味深かった。

しかし、肝心の史料は一体どこにあるのだろうか。
宿題を残したまま、最寄り駅で上洛する中村氏と別れた。


その後、拙宅近くの喫茶店で、横浜の某博物館の学芸員さんと打ち合わせ。
以前から講演を依頼されており、わざわざ横浜からおいでになった。
ある戦国史関係の研究会でかつてご一緒したことがあったが、いつも礼儀正しい方である。
信長や秀吉の新出文書についても、さりげなく情報を提供して下さった。

いつもお世話になっているので、少しはご恩をお返ししようと、不肖ながらお引き受けした。
テーマは信長の馬揃えである。
5月の連休明けの日程である。
正式に決まったら、またお知らせします。

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【2008/02/07 22:19】 | 日次記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第42回、「石河確太郎と英国留学生」というタイトルで書きました。ここです。

また、それについての当ブログで、その記事の告知と若干の補足を述べました。ここです。

そのなかで、英国留学生に選ばれた一人である町田猛彦が出港前、串木野の羽島で「変死」したと書きました。
これは、見知らぬ異文化と向かい合わねばならぬ英国留学生たちの不安と苦悩の極端な一例を示すものとして取り上げました。ある新書の記事をもとにして書きましたが、「変死」の出典が明記されておらず、英国留学生研究では権威ある著者を信用して、出典の裏づけをとる作業を怠ってしまいました。

また、町田猛彦なる人物はどのような出自なのか。留学生仲間の同姓である町田三兄弟(民部・申四郎・清蔵)と縁者なのか否かという別の疑問も提示しておきました。

それらの疑問を一気に解決してくれそうな史料がありました。
友人のM川さんからご教示を受けたものです。

「財部実行回顧談」 『新修 森有礼全集』第4巻所収 文泉堂書店 1999年

という史料です。
財部実行は、留学した町田兄弟の一人、町田清蔵のことで、養子になったので名字が変わっています。
この回顧談に当然、英国留学の思い出が述べられているのですが、次のような記述がありました。

「一行十七人(内一人に民部の三弟は羽島と云ふ所にて罹病し渡英を免ぜらる)」

町田兄弟は、上から民部、申四郎、清蔵という順です。
「三弟」といえば、清蔵になりますが、清蔵こと財部実行は回顧談の主で渡英していますから、該当しません。それなら誰かということになります。

同姓の町田猛彦だと考えるほかないのではないかと思います。

もしそうなら、当初渡英する予定の町田兄弟は四兄弟だったことになります。

そして、町田猛彦は病気にはなったけど、「変死」していなかったことになります。
直前に病気のせいで渡航できなかったことを恥として、死んだことにしたのでしょうか?

なお、M川さんによれば、別の史料(長崎にある名簿)の慶応2年(1866)条に、町田猛彦の名前があるとのこと。猛彦は英国渡航ならず、その後、長崎に行ったのかもしれません。

貴重なご教示をいただいたM川さんに謹んで御礼申し上げます。

【お願い】
なお、この連載で取り上げた蘭学者・石河確太郎について、管理者しか見られないコメントをいただきました。九州方面の研究者で、永年、石河を追っている方です。非常に貴重な情報をいただいたのですが、メールアドレスがなくて、御礼のしようがありません。
もし、この書き込みをご覧になったら、左下のメールフォームからもう一度、空メールでもいただければ有難いです。御礼とともにお尋ねしたいこともありますので、お手数ですが、ご検討下さい。

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【2008/02/07 00:46】 | さつま人国誌
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先日、「猪熊事件と松木宗信」というエントリーを書きました。

そのなかで、上甑島にある松木宗信の墓と、八丈島で他界した宇喜多秀家の墓の写真を探していると書いたところ、さっそく反応がありました。

松木宗信については、私の出身高校の先輩から弟さんが松木の墓のある里村に公務員として勤務していたので、何かあるはずだというお返事。
甑島は上甑・中甑・下甑の三つに分かれ、かなり大きな島嶼なのですが、まさに墓のある里村(上甑島)におられたとは、と驚きました。

また、宇喜多秀家については、たまたま八丈島に観光に行ったという古い友人2人からほぼ同時に返事をいただきました。共通するのは2人とも研究者だという点。一人は新選組、もう一人は織豊期です。
とくに後者の方は、私がエントリーをアップしたその日に八丈島に在島されていたそうで、その奇遇に驚いております。

ネットのよさを実感させられた出来事でした。
改めて御礼申しあげます。

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【2008/02/05 19:48】 | 雑記
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昨日の大河ドラマに登場した重富島津家の右近君(のち図書久治)。
おそらく出番は昨日の1回だけでしょう。
その画像がありますので、ご紹介しておきます。TVの役者ととてもよく似ています。いかにも、坊ちゃんで勝ち気そうな性格が出ていますね。

図書久治_320



久しぶりに古書の紹介でも。
もっとも、中味よりも周辺情報のほうが面白い。

田中鉄軒『薩藩戦史考証』 皆兵社 1913年刊

江戸時代後期、薩摩藩の軍学者として知られる徳田邕興(1738~1804)が創始した合伝流についての解説書です。
徳田は藩主島津重豪の風紀改善政策を痛烈に批判して島流しになったほどの異端児。
この頃、薩摩藩の軍制が甲州流軍学に切り替えられようとする動きに対して、同流は机上の空論であり、鉄炮使用前の軍学など有名無実と厳しく批判しております。もっともな理屈だと思います。

余談ながら、合伝流は幕末になって、伊知地正治に受け継がれたことは有名です。西郷従道・三島通庸・高崎五六・渕辺高照らは伊知地の門弟でした。

で、中味より興味深いのは、見返しに題箋風に書かれた謹呈先。

「奉呈 山縣公閣下」

とあります。
おそらく元勲・山県有朋(1838~1922)に贈ったのではないかと思います。

山県公_320


この本の発行年には、山県は75歳ながら、まだ健在です。
山県に贈呈されたとすれば、当然、パラパラ程度にはめくったのではないかと。
そう考えると、山県が触れたかもしれない本がめぐりめぐって、私の手許にあるというのは、なかなか感慨深いものがあります。

もっとも、この本が流出したとすれば、山県家からということになりますが、さて……。

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【2008/02/04 19:15】 | 古書
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大河ドラマ「篤姫」第5回「日本一の男」

今回、於一(篤姫)と肝付尚五郎の話は創作全開なので、あえてコメントする必要はないのかもしれませんが、ただ、ひとつだけどうしてもおかしいので、指摘しておきます。

重冨島津家の忠教(のち久光)から持ち込まれた縁談話。
忠教の二男右近だといっていましたね。

この人、のちの図書久治のことです。島津分家のひとつ(八家のひとつ)宮之城島津家を継ぐ人で、慶応年間は首席家老を勤めた人です。
慶応3年(1867)、武力討幕の動きが出たとき、反対派だったため、明治初年の藩政改革で失脚の憂き目に遭います。のちに久光に勘当され、失意のうちに没します。

ドラマの時点では右近久中と名乗っていることになっています。
でも、篤姫よりずっと年下なんです。
天保12年(1841)生まれですから、篤姫や尚五郎より6歳も年下。
どうやら放映時点が嘉永4年(1851)か翌5年の設定ですから、右近は数えで11歳か12歳。
とてもじゃないが、適齢期とはいえそうもないです。17歳の篤姫から見たら、年齢が不釣り合いで、アウトオブ眼中でしょう。現代だと、高校生と小学生の間柄ですからね。
ましてや、的場で弓を引くのは早すぎますね。

じゃあ、忠教の長男又次郎(のちの藩主茂久)ならいいかといえば、これも右近より1歳年上なだけですから、大勢は変わりませんね。どっちにしろ、設定がおかしいです。

それもこれも、お由羅派=忠教、斉彬派=今和泉家という設定に無理があるんでしょうな。だいたい史実に即していないし。

一門四家同士の婚姻や養子などは頻繁に行われており、その実、右近の弟の英之進忠欽は、篤姫の次兄忠敬(岡田義徳)の養子になっていますけどね。

もうひとつ、今回はやたら身分や家柄にこだわっていました。
肝付家の尚五郎が一門の今和泉家より身分が下といっていたけど、それほど卑下するような間柄ではないのでは。
その証拠に、尚五郎の生母は重冨島津家の先々代の当主忠寛の一女です。つまり、一門四家と一所持の間の婚姻や養子のやりとりはよく行われていたということです。
もっとも、尚五郎は三男で部家住だから、その点では気にするのはやむをえないですが。

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【2008/02/03 23:12】 | 篤姫
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ばんない
日曜夜8時からの苦行お疲れさまでした。

前回では身分を気にせず?大久保家に押し掛けていたのに
今週では気にしてましたか…
その場の乗りさえ良ければいいという人なんでしょうかね?今回の脚本家。

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以前から、連載中の「さつま人国誌」に書きたいと思っているテーマなのだが、それにふさわしい写真を所持していないために、ずっと書けないでいる。

猪熊事件は御存じの方もおいでだろうが、江戸時代初め、慶長年間に起きた有名な宮廷スキャンダル。
公家の少将猪熊教利らが起こしたので、その名前で呼ばれている。

この事件は、ときの後陽成天皇から関係者が勅勘を受け、徳川幕府も公家や女官を斬罪・配流などの処罰をした。女官は伊豆七島に流されたことは知られている。

そのうちの一人、左少将松木宗信は薩摩の硫黄島に配流と決まったが、島津家久の計らいにより、甑島に配流替えになったという。同じ離島でも、硫黄島より甑島のほうが本土に近く、島も大きく利便性があるという配慮だったのだろうか。

それはともあれ、松木宗信は甑島のうち、上甑島の里村で没している。墓は同村の西昌寺跡にあるらしいというところまではわかっている。もし彼を取り上げるなら、ぜひともこの写真がほしいのだが、残念ながら、甑島は未踏の地で、写真をもっていない。
もし松木宗信の墓の写真をお持ちの方がおいでなら、ぜひご一報下さいませ。相応のお返しをしますので。

それで、彼を取り上げる一番の理由だが、彼の末裔に有名な人物がいるからである。幕末から明治にかけて活躍した松木名字の薩摩藩士といえば……。
もうおわかりでしょう。

余談
島流しつながりでいえば、宇喜多秀家八丈島にある墓の写真をお持ちの方はおいでではないですか? 秀家も島津家に匿われているので、いつか取り上げたいと思っております。

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【2008/02/03 11:48】 | 戦国織豊
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崎陽・織田
桐野先生、今晩は。
いつも拝見させていただいております。
毎回、とても勉強になります。
さて、松木弘安の先祖がそんな人物だったとは驚きですが、
個人的には、弘安の養父・松木宗保(雲徳)の方が興味があります。シーボルトの高弟であった彼が、シーボルト事件の後も長崎にいたのは、なぜか。そこに島津重豪の意図があったのかが知りたいところです。面白い人物だとは思うのですが。

「松木」宗信
ばんない
…で調べたら最初分かりませんでした。中御門宗信と同一人物なんですね。猪熊事件は徳川幕府初頭の公家弾圧事件ですが、幕府のパフォーマンスにしたら、結構厳罰だったんですね。ほとんどの人が帰国できなかったとは。

松木宗信の写真はちょっと検索した限りでは出てきませんでしたが、宇喜多秀家は人気武将なので、岡山市の公式HPなどにも写真が載っていますね。八丈島の他に東京本土にもう一箇所招魂墓があるようですが。

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2家の中御門
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

猪熊事件は後陽成天皇が激怒し、穏便に取り計らおうとした幕府に対しても怒って、譲位するとまで言っていますから、家康も厳罰に処せざるをえなくなりましたね。

公家の中御門家は2つありますね。
ひとつは松木の別称をもつ中御門。こちらは系統でいえば、中御門流で「なかのみかど」と読みます。

もうひとつの中御門は文官系の勧修寺流の一流で、「なかみかど」です。

松木も本来は「まつのき」と読みますから、松木弘安も「まつのき・~」と呼ぶべきかもしれません。もっとも、配流ののち、読み方が変わったかもしれません。


宇喜多秀家の供養碑
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

思い出しました。
宇喜多秀家の供養碑は、板橋の近藤勇の墓(永倉新八が建立)の近くにあったと思います。
たしか、明治になってから、秀家の末裔が八丈島から戻ることができて、あの周辺に居住したのではなかったかと思います。

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松木の件
森重和雄
松木宗保は天保四年頃長崎行きを薩摩藩より拝命し天保一〇年以来かねて昵懇の上野俊之丞の旧宅を借りて住んでいました。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第43回
―蘭学から集成館事業へ―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたら、ご覧になれます。

今回は集成館事業の流れから、中原猶介を取り上げました。
おそらくほとんど知られていないと思いますが、蘭学者・化学者にして砲術家です。
早い話、禁門の変で来島又兵衛を撃退したのも、鳥羽伏見の戦いの伏見口で、会津藩や新選組の突撃を阻止したのも、中原の砲隊です。
薩摩藩軍事力の中核といえるような人物です。

惜しむらくは、北越戦争において、長岡で河井継之助と銃砲撃戦の展開中、膝に銃創を負い、それがもとで戦傷死しました。
手当てすれば、おそらく助かったはずですが、治療を拒否して他界しています。
中原は北越戦争では、黒田清隆と並ぶ参謀でした。
西郷・大久保亡きあと、薩閥の中心は黒田になりましたが、中原が存命だったらどうだったのかと思います。

次回は禁門の変での活躍を書いてみたいと思います。

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【2008/02/02 09:50】 | さつま人国誌
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拝読させていただきました
いのまた
私ごとですが、今、宮崎におります。
先ほど宮崎駅まで南日本新聞を買いに行ってきました。
「さつま人国誌」は、いつもネットで見ていましたが、ようやく現物に出会えました。
掲載場所は文化面ということで、今日は、坊津の製氷工場跡の記事や、南方熊楠の記事などもあります。
以上、現場?よりご報告でした。

遅ればせながら、連載延長おめでとうございます。
是非、村田新八を6回くらいでお願いいたしたく…(切望)。

現場
桐野作人
いのまたさん、おはようございます。

いま宮崎ですか。現場からのご報告有難うございます。

宮崎駅でもちゃんと南日本新聞を売っているのですね。わざわざお買い求めいただき、有難うございます。南方熊楠の記事もあるとか。掲載紙が送られてくるのが楽しみです。

村田新八をやるなら、これまでと違った切り口でやりたいですね。何かいいアイデアや史料がありましたら、ご教示下さいませ。



崎陽・織田
桐野先生、こんばんは。
日々の更新が早すぎてついていけないですが、今回は中原が登場しますので、一言。嘉永二年からの長崎遊学の件ですが、このとき長崎で蘭学修行のほかに、西洋砲術の修行を行った可能性はないでしょうか。有名な高島秋帆は獄中ですが、長崎にはその息子の浅五郎や高弟の中島名左衛門がいました。中原の後の経歴から見て、早くから砲術の本格的習得に努めていたのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか。

西洋砲術修業
桐野作人
崎陽・織田さん、こんにちは。

中原猶介が長崎で西洋砲術の修業をしたのではというご意見。
もっともな推定ですね。私も大いにあり得るのではと思っております。ただ、史料不足でそこまでの裏づけがとれませんが。長崎に中原の足跡は残っていないでしょうかね。

当時、長崎は西洋の科学技術の先進地ですから、そこで学ぶのが一番ですね。
さらに臆測すれば、砲術だけでなく、蒸気船建造や操縦術にも関心があったのではないかと思います。
というのは、中原は島津斉彬が建造したわが国初の蒸気船(といっても雛形ですが)である雲行丸の建造にも関わっているからです。

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先日、JR鹿児島中央駅の前に立つ「若き薩摩の群像」に欠けている2体の銅像(土佐の高見弥一と長崎の堀孝之)を完成させるための署名運動のサイト立ち上げを紹介した。ここです。

事務局から連絡があって、さっそく県外から署名用紙が送られてきたとのこと。
サイト立ち上げの効果が表れて、うれしいかぎりである。

サイトは以下にあります。よかったら、のぞいてみて下さい。

若き薩摩の群像を完成させる会

今後とも署名運動への注視・支援をお願いします。
署名用紙はPDFファイルになっていますので、自由にプリントアウトして下さい。
お一人だけの署名でもかまいません。そのお気持ちが有難いです。

私もできるだけ協力したいと思っております。

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【2008/02/01 18:47】 | 幕末維新
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