膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
大河ドラマ「篤姫」第5回「日本一の男」

今回、於一(篤姫)と肝付尚五郎の話は創作全開なので、あえてコメントする必要はないのかもしれませんが、ただ、ひとつだけどうしてもおかしいので、指摘しておきます。

重冨島津家の忠教(のち久光)から持ち込まれた縁談話。
忠教の二男右近だといっていましたね。

この人、のちの図書久治のことです。島津分家のひとつ(八家のひとつ)宮之城島津家を継ぐ人で、慶応年間は首席家老を勤めた人です。
慶応3年(1867)、武力討幕の動きが出たとき、反対派だったため、明治初年の藩政改革で失脚の憂き目に遭います。のちに久光に勘当され、失意のうちに没します。

ドラマの時点では右近久中と名乗っていることになっています。
でも、篤姫よりずっと年下なんです。
天保12年(1841)生まれですから、篤姫や尚五郎より6歳も年下。
どうやら放映時点が嘉永4年(1851)か翌5年の設定ですから、右近は数えで11歳か12歳。
とてもじゃないが、適齢期とはいえそうもないです。17歳の篤姫から見たら、年齢が不釣り合いで、アウトオブ眼中でしょう。現代だと、高校生と小学生の間柄ですからね。
ましてや、的場で弓を引くのは早すぎますね。

じゃあ、忠教の長男又次郎(のちの藩主茂久)ならいいかといえば、これも右近より1歳年上なだけですから、大勢は変わりませんね。どっちにしろ、設定がおかしいです。

それもこれも、お由羅派=忠教、斉彬派=今和泉家という設定に無理があるんでしょうな。だいたい史実に即していないし。

一門四家同士の婚姻や養子などは頻繁に行われており、その実、右近の弟の英之進忠欽は、篤姫の次兄忠敬(岡田義徳)の養子になっていますけどね。

もうひとつ、今回はやたら身分や家柄にこだわっていました。
肝付家の尚五郎が一門の今和泉家より身分が下といっていたけど、それほど卑下するような間柄ではないのでは。
その証拠に、尚五郎の生母は重冨島津家の先々代の当主忠寛の一女です。つまり、一門四家と一所持の間の婚姻や養子のやりとりはよく行われていたということです。
もっとも、尚五郎は三男で部家住だから、その点では気にするのはやむをえないですが。

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以前から、連載中の「さつま人国誌」に書きたいと思っているテーマなのだが、それにふさわしい写真を所持していないために、ずっと書けないでいる。

猪熊事件は御存じの方もおいでだろうが、江戸時代初め、慶長年間に起きた有名な宮廷スキャンダル。
公家の少将猪熊教利らが起こしたので、その名前で呼ばれている。

この事件は、ときの後陽成天皇から関係者が勅勘を受け、徳川幕府も公家や女官を斬罪・配流などの処罰をした。女官は伊豆七島に流されたことは知られている。

そのうちの一人、左少将松木宗信は薩摩の硫黄島に配流と決まったが、島津家久の計らいにより、甑島に配流替えになったという。同じ離島でも、硫黄島より甑島のほうが本土に近く、島も大きく利便性があるという配慮だったのだろうか。

それはともあれ、松木宗信は甑島のうち、上甑島の里村で没している。墓は同村の西昌寺跡にあるらしいというところまではわかっている。もし彼を取り上げるなら、ぜひともこの写真がほしいのだが、残念ながら、甑島は未踏の地で、写真をもっていない。
もし松木宗信の墓の写真をお持ちの方がおいでなら、ぜひご一報下さいませ。相応のお返しをしますので。

それで、彼を取り上げる一番の理由だが、彼の末裔に有名な人物がいるからである。幕末から明治にかけて活躍した松木名字の薩摩藩士といえば……。
もうおわかりでしょう。

余談
島流しつながりでいえば、宇喜多秀家八丈島にある墓の写真をお持ちの方はおいでではないですか? 秀家も島津家に匿われているので、いつか取り上げたいと思っております。

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