膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
日次記

2月7日(木)
今日は終日外出だった。
京都の友人中村武生氏が所用で東下してきたので、一緒に表題の2館をめぐる。
彼のブログ(左のリンク欄「歴史と地理な日々(新版)」参照)に書いている篤姫関係のある史料探しである。私も関心がありながら、刊本史料では見つけられなかったので、ここは呉越同舟と相成る。

まず竹橋の国立公文書館に行く。個人的には内閣文庫といったほうがなじみがある。
最近久しぶりに来たが、以前のアナログ状況がまったく一新されて、整然とデジタル化されているのに驚く。

中村氏がくだんの史料を閲覧している間に、私は懸案になっていた、ある信長関係の史料を探す。某雑誌企画のために、どうしても事前に確認しておきたいものだった。
閲覧してみたら、推測どおりだった。勘の悪い私にしては珍しいくらい、ど真ん中ストライクのビンゴだった。うれしくなって、全10冊の複写を申請した。

受付に閲覧申し込みをしたとき、デスクの女性がどこかで見た方だと思っていたら、先方から「桐野先生」と声を掛けられた。先生なんてご大層な身分ではないがと思いつつ、記憶を辿ってようやく思い当たった。
私の古文書講座の受講生の友人の方で、昨年、一席を共にした方だった。あまりの奇遇に驚く。最近、奇遇ばかりだ。
おかげで、私のほうは成果があった。

そして、帰ってきてから思い出したが、ここには、以前当ブログで話題になった「別本川角太閤記」を所蔵しているのだった。それを見てくるのを忘れた。もっとも、時間がなかったので、じっくり見る余裕はなかったと思うが。

だが、中村氏のほうは、史料が年次違いでヒットせず。

その後、すぐ近くの江戸城本丸へと行く。
天守台跡が目の前にあった。
大奥跡や松之廊下跡の写真を撮り、中村氏と二人で記念撮影。

お互い、あまり時間がなかったが、乗りかかった船なので、国会図書館まで足を伸ばす。
同館内の憲政資料室にある、ある有名な幕末島津氏史料にあたるため。
事前に目録で当たりをつけ、受付からマイクロフィルムのリールを何本か借り出し、リーダーをしこしこ回す。
これだという史料名にぶつかったが、残念ながら、これまたはずれだった。諦めずに、さらに何本かセットして探してみたが、結局見つからず。
それでも、いくつか副産物があった。篤姫の明治以降の動静がわかる史料もあって、それなりに興味深かった。

しかし、肝心の史料は一体どこにあるのだろうか。
宿題を残したまま、最寄り駅で上洛する中村氏と別れた。


その後、拙宅近くの喫茶店で、横浜の某博物館の学芸員さんと打ち合わせ。
以前から講演を依頼されており、わざわざ横浜からおいでになった。
ある戦国史関係の研究会でかつてご一緒したことがあったが、いつも礼儀正しい方である。
信長や秀吉の新出文書についても、さりげなく情報を提供して下さった。

いつもお世話になっているので、少しはご恩をお返ししようと、不肖ながらお引き受けした。
テーマは信長の馬揃えである。
5月の連休明けの日程である。
正式に決まったら、またお知らせします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第42回、「石河確太郎と英国留学生」というタイトルで書きました。ここです。

また、それについての当ブログで、その記事の告知と若干の補足を述べました。ここです。

そのなかで、英国留学生に選ばれた一人である町田猛彦が出港前、串木野の羽島で「変死」したと書きました。
これは、見知らぬ異文化と向かい合わねばならぬ英国留学生たちの不安と苦悩の極端な一例を示すものとして取り上げました。ある新書の記事をもとにして書きましたが、「変死」の出典が明記されておらず、英国留学生研究では権威ある著者を信用して、出典の裏づけをとる作業を怠ってしまいました。

また、町田猛彦なる人物はどのような出自なのか。留学生仲間の同姓である町田三兄弟(民部・申四郎・清蔵)と縁者なのか否かという別の疑問も提示しておきました。

それらの疑問を一気に解決してくれそうな史料がありました。
友人のM川さんからご教示を受けたものです。

「財部実行回顧談」 『新修 森有礼全集』第4巻所収 文泉堂書店 1999年

という史料です。
財部実行は、留学した町田兄弟の一人、町田清蔵のことで、養子になったので名字が変わっています。
この回顧談に当然、英国留学の思い出が述べられているのですが、次のような記述がありました。

「一行十七人(内一人に民部の三弟は羽島と云ふ所にて罹病し渡英を免ぜらる)」

町田兄弟は、上から民部、申四郎、清蔵という順です。
「三弟」といえば、清蔵になりますが、清蔵こと財部実行は回顧談の主で渡英していますから、該当しません。それなら誰かということになります。

同姓の町田猛彦だと考えるほかないのではないかと思います。

もしそうなら、当初渡英する予定の町田兄弟は四兄弟だったことになります。

そして、町田猛彦は病気にはなったけど、「変死」していなかったことになります。
直前に病気のせいで渡航できなかったことを恥として、死んだことにしたのでしょうか?

なお、M川さんによれば、別の史料(長崎にある名簿)の慶応2年(1866)条に、町田猛彦の名前があるとのこと。猛彦は英国渡航ならず、その後、長崎に行ったのかもしれません。

貴重なご教示をいただいたM川さんに謹んで御礼申し上げます。

【お願い】
なお、この連載で取り上げた蘭学者・石河確太郎について、管理者しか見られないコメントをいただきました。九州方面の研究者で、永年、石河を追っている方です。非常に貴重な情報をいただいたのですが、メールアドレスがなくて、御礼のしようがありません。
もし、この書き込みをご覧になったら、左下のメールフォームからもう一度、空メールでもいただければ有難いです。御礼とともにお尋ねしたいこともありますので、お手数ですが、ご検討下さい。

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