南日本新聞連載
「さつま人国誌」第45回
―北越戦争で治療を拒絶―連載が更新されました。
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中原猶介の3回目である。
砲術家としての中原の活躍と最期を書きました。
禁門の変、伏見戦争、北越戦争を1回分にまとめるのは、案の定、ひと苦労でした。
中原が蒸気船購入などにも奔走したり、慶応2年(1866)、英国臨時公使一行が薩摩藩を表敬訪問したとき、中原が砲術操練の演武を示す栄誉に預かり、英国人の度肝を抜いた話など面白いところがあったのですが、割愛せざるをえませんでした。
前回書いた薩英戦争での中原の建言書に神瀬の砲台建設が急務だという提案があったのですが、やはり戦争前に着工する余裕がなかったらしく、戦後すぐ着工にとりかかり、完成しています。その迅速さを見ると、中原が予言したとおり、実戦において神瀬に砲台がない弱点を薩摩藩要路が痛感したものと思われます。
今回、面白いのは、中原と勝海舟の意外な交流だと思います。
禁門の変での中原の砲隊はどうやら神戸海軍操練所の生徒たち(おそらく薩摩藩士)で成り立っていたようです。大砲まで勝から借りたのではないかと推定してみました。
勝海舟日記を見ると、禁門の変の前に中原が勝を訪問して蘭書などを拝借しています。2人は親しい間柄だったようです。
中原の活動や人脈が多様で面白いことがわかりました。
また写真の謎も興味深いです。
ほかにも紹介できなかった中原の史料や逸話もまだありますので、もっと詳しく掘り下げてみたい人物です。
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