膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第8回「お姫様教育」

ドラマ進行時点は嘉永6年(1853)です。

いよいよペリー艦隊が浦賀に来ましたね。これ以降の幕末の激動を、この年の干支をとって「癸丑以来」と枕詞のように使われるようになりました。まあ、9・11以来というのと似たような感覚か。

外政多難の一方で、篤姫周辺も本来は御台所問題で大変で、篤姫の実子届けを出したのも束の間、摂関家の二条家から将軍家に縁組申し入れがあり、ライバルの近衛家などは心中穏やかならぬはずですが、斉彬と対面した近衛忠熈はそんなことはおくびにも出しておりませんでしたね。

裏で進行している御台所問題をめぐる駆け引きを描いたほうが、篤姫の入輿までの多難を印象づけられていいのではと思うのですが、そうしないのは原作の縛りゆえでしょうかね?

というのも、宮尾登美子氏の原作が刊行された時点で、御台所問題についての芳即正氏の新説(御台所問題は斉彬の発意ではなく、あくまで将軍家の意向、将軍継嗣問題と篤姫入輿は無関係という説)はまだ公表されていませんでした。

古い原作と新しい学説との齟齬をどう調整するつもりなのか、ずっと注目してみていたつもりですが、やはり、新説は無視という方針のようですね。

で、細かいツッコミをひとつ。
この年の斉彬のお国入りでは、途次、斉彬本人は入京しておらず、伏見屋敷止まりだったと思います。
帰国後、斉彬が近衛忠熈に宛てて、「伏見通行の節は」云々と、近衛家が伏見に贈り物を届けてくれたことを感謝する書簡を出しています。

また斉彬のお供、山田為正がこのときの道中日記を残しています(「嘉永六年島津斉彬下国御供日記」)。
それによれば、5月17日に伏見に到着し、21日まで斉彬はそのまま滞在しているようです。日記の主の山田は斉彬の使者として入京し、近衛家に挨拶に出向きますが、賀茂川が氾濫して三条大橋を渡れずに伏見に引き返しているほどです。考えてみれば、入梅してますね。

ですから、このとき斉彬と近衛忠熈の会見はありません。もちろん、幾島とも会っていないでしょうね。

ちゃんと史実を踏まえているところもあります。
大久保正助が謹慎を解かれて蔵役に復帰したのは、たしかにこの年5月です。
また、ドラマの最後で篤姫が侍女たちに大見得を切った「島津薩摩守」云々の受領名も合っておりました。ただ、斉彬の実名は出さないと思うけど。

あと、鶴丸城内に大奥があったのはたしかです。
大奥といえば、江戸城だけというイメージがありますが、決してそんなことはありません。大名家や上級公家の奥向きも大奥と呼ばれています。
たとえば、上記山田の道中日記には、斉彬に対して近衛家の「大奥」からも贈り物があったと書いています。

余談
それにしても、高橋英樹と松坂慶子のコンビは、「国盗り物語」での信長と帰蝶(濃姫)以来ではないでしょうか。懐かしいですな。
国盗り物語」は1973年放映。じつに35年前ですぞ。
2人とも変わらずに第一線で活躍していて、感無量ですな。

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