膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
宮崎駿の有名なアニメ。
黒柳徹子によく似た湯婆婆が「千尋」の名前を「」に変えてしまう場面。
実名の剥奪は人格の消失へとつながるという呪術的な観念をよく表している。

で、中近世の史料では、この実名(じつみょう)を避けて官名や通称(仮名<けみょう>)で呼ばれたり、書かれたりすることが多い。いわゆる「実名敬避俗」という風習である。
「実名」は、他人が勝手に使用できない、げに大切なものだった。

時代劇や歴史小説で、よく実名を使うが、これは上記の「実名敬避俗」の原則に抵触しているわけで、時代考証からすれば、禁じ手である。
とはいっても、実名を使わないと、なじみのない官名や通称では人物を特定したり、認識できないといううらみもあるから、痛し痒しである。

前置きが長くなった。
何がいいたいかというと、たとえば、信長や秀吉をはじめ大名たちの書状や判物には実名の署名(その下に花押や印判)があるのを、「実名敬避俗」の立場からどう考えたらいいのかという点。
本来隠しておくべき実名を自ら明らかにし、相手に呼び捨てにされてもよいとする行為を、私は相手・宛所に対する誠意や謙譲の表現なのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
考えてみれば、誇り高い信長が家臣に対して謙譲の態度をとるはずがないではないか。

そんな素朴な疑問に対する回答があった。
歴史をよむ』(東京大学出版会)に収録された

高橋修「実名―呼び捨ての習慣はいつ終わったか」

という一文を読んで、目からウロコだった。

そうか。信長や秀吉が書状などに実名を署名するのは、自分の存在や武功を広く世に知らしめるため、名誉を求めるためだったのか。戦場での名乗りと同様に、自らの実力を誇示する行為だったというのだ。

そのことで連想したのが、『信長公記』で、太田牛一が最初、「信長」と呼び捨てにし、途中(天正5年あたり)から「信長公」と呼び方を変えている点。
これについて、信長の大臣(内大臣)任官を境として、それ以前は呼び捨てで、以後は尊称にしたと考えていた。

どうも違うらしい。「信長」という、一見呼び捨てに見える表記も、じつは尊敬表現だと、高橋氏はいう。
高橋氏は家康の家臣である松平家忠の日記『家忠日記』の「家康」表記の事例を調べている。
それによれば、天正5年(1577)から同14年まで、ほとんど「家康」で、同13、14年あたりから「家康様」「殿様」「大納言様」という表記に変わっていく。

「家康」という表記が呼び捨てで無礼な表現かといえばそうではない。家忠は同輩たち、たとえば石川数正を「石川伯耆」、井伊直政を「井兵部輔」と仮名(通称官名)で呼び、ときには「〜殿」さえ付けている。
家忠は、同輩たちには敬意を示して、主君たる家康を呼び捨てにしていると考えるのはおかしいだろうと、高橋氏は指摘する。
つまり、「家康」表記は呼び捨てではなく、敬意表現と考えないと理解できないというわけだ。

それが変化するようになるのは、家康が豊臣政権に包摂されて官位を得てからである。
つまり、それまで実力の表象としての敬意表現だった「家康」が、官位制原理に基づく「家康様」「大納言様」に取って代わられる。
下剋上的な実力主義よりも、秩序維持のための儀礼制が重んじられる平和な時代になったことが、表記の変化の背景にあるというのだ。

う〜ん、勉強になるな。
表面的な理解ではいけないことを痛感させられた。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第13回「江戸の母君」

いよいよ江戸行きになりました。東目筋の日向から海路をとっていましたが、史実では西目筋(肥後口)の陸路をとったはずです。篤姫の一行が肥後藩細川家領を通過した史料がちゃんと残っていますから。

それはともかくとして、篤姫の御座船には島津家の家紋入りの幔幕がかかっていました。
一瞬だけだったので、よく確認できなかったのですが、家紋は3種類あったような。丸十紋と島津牡丹はあったと思います。あとひとつあったとすれば、五七の桐紋か。

上京して近衛忠煕と対面し、茘枝(ライチー)を贈っていました。
忠熈が好きだったかどうかはわかりませんが、島津家から近衛家に贈答していたのは史実です。
加工法としては蜜漬か乾実だったようです。画面で見た感じでは水分がありそうでしたから、蜜漬だった可能性が高いですね。
茘枝は中国か琉球産かといえばそうではなく、山川や佐多の薬園で栽培していたようです。

江戸下りの途中、今度は富士山に向かって叫んでましたね。
鹿児島を出るときには桜島にも(笑)。
お姫さまはふつう、あんなはしたないことはしないでしょう。
何というか、わかりやすいといえば、わかりやすいですが、説明的な処理のしかたで、あまり情緒が感じられませんね。スポ根ドラマのノリに近いのでは。この先、ずっとこうなのでしょうか?
仕草や表情、目線など、言葉を使わない演技もあると思うのですが、このドラマの脚本は全体的に説明調で、何でもセリフにしないと気がすまないようですね。

篤姫が入った薩摩藩邸はとくにどの屋敷かテロップも出ませんでしたが、芝藩邸です。ここが一応、当時の上屋敷ですから、藩主夫妻が住んでいます。とくに正室英姫はずっとこの藩邸で過ごしています。隠居の斉興は高輪の屋敷にいたと思います。

それにしても、斉彬の正室英姫。
いわくありげな登場でしたね。
英姫の読みを「ひさひめ」としていましたが、芳即正『島津斉彬』(人物叢書)では「ふさひめ」としています。私も「ふさひめ」だと記憶しておりましたが、さて、どちらなんでしょう?
それと、細かいことですが、英姫は恒姫(つねひめ)と改名しています。その時期はわかりませんが、このとき、すでにそうだったのではないでしょうかね?

英姫は斉彬より4歳年上とのこと。ドラマ進行時点の嘉永6年(1853)では、49歳ですね。
余貴美子さんの実年齢に近いのでは。

英姫は御三卿の一橋家から嫁いできた姫君です。父斉敦は将軍家斉の弟ですから、英姫はその姪にあたります。この縁組は斉彬の曾祖父の重豪と、将軍家斉の実父の一橋治済(はるさだ)の間で取り決められたもの。重豪の一女茂姫が将軍家斉の御台所になっていますから、その延長線上で、島津家と徳川宗家・一橋家の関係強化が図られたのでしょう。
将軍家斉以来、将軍家は一橋系が続いています。ですから、英姫の気位が高いというのは何となくわかります。
ただ、あそこまで斉彬を虚仮にできたのかどうかははなはだ疑問ですが。

英姫の異様な装束ですが、一説によれば、若い頃、疱瘡にかかったため、人前に出るのを憚り、対面も御簾を通して行ったとか。

幾島がしみじみともらしていた郁姫(近衛忠煕夫人)。
島津斉興の養女という形で忠煕に嫁ぎましたが、実際は斉興の父斉宣の娘です。斉宣がその父重豪の逆鱗に触れて強制的に隠居されられたため、斉興の養女ということになったのでしょう。
生没年は文化4年(1807)〜嘉永3年(1850)で享年44。
ドラマ進行時点の3年前に亡くなっていることになりますね。
郁姫は聖護院近くの近衛家別邸に住んでいたようです。
この別邸は現存しており、現在、愛知県西尾市の西尾市歴史公園に移築・保存されています。
幾島もここに住んでいたことになりますね。

全体を通じて、いわゆる大奥ものの定番にだいぶ近くなってきました。
定番とは、いじめ、嫉妬などが渦巻く世界をいかにも興味本位に描くことですが、これまでの質実な薩摩編からトーンが次第に変わっていく感じですね。

最後の篤姫紀行、やはり東福寺塔頭の即宗院が登場していました。
ただ、山門と庭だけのほんの数秒しかなかったのが残念です。
有名人の墓所や西郷の揮毫した戊辰戦争戦死者の石碑などもあるんですけどね。

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日次記です。

3月28日(金)天晴のち雨
歴史読本の連載「信長」、次号分ようやく脱稿。
いつもは当月号の掲載誌が送られてくる前に脱稿できているのだが、今回はもう3日前に掲載誌が届いていた(汗)。桶狭間合戦に入るようで、なかなか入らない。
次回のメインは岩倉城攻防。

やりながら思ったのは『武功夜話』の評価の是非だ。
前野長康が信長に仕えたことはちゃんと『信長記』にも出てくる。『武功夜話』とそれほど矛盾していない。岩倉城攻防あたりの同書の記述は活かせるのではないだろうか?
斎藤道三が長良川合戦で討死したとき、信長が救援に出かけるが、間に合わなかったことはよく知られている。このとき、斎籐義龍方の追撃を受ける部分、陽明本と天理本で記述が少し異なっていた。文章が前後している部分がある。天理本の方が面白い。

3月29日(土)天晴
井の頭公園

桜が都内各所で満開だとニュースで知り、近場の井の頭公園に出かける。
近場といっても、往復10キロある。気分転換も兼ねて久しぶりに歩いた。
昼頃だったが、桜は満開、人ごみも凄まじい。平らなところには一面に青色のシートが敷いてある。夜になったら、すごいだろうなと思った。
せっかくのなので、写真を紹介しておきます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第51回
―養子へ「英語より和漢」―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

小松帯刀を6回にわたって連載してきました。今回が小松の最終回です。
小松の家族について書きました。
おそらく意外なことが書かれていると思われたのではないでしょうか。
話の中心は小松の養子となった町田申四郎への訓戒状です。
英国留学生として渡欧し、西洋文明に接した申四郎に対して、小松が和漢の学の重要性を説いています。
少し舌足らずな書き方だったかもしれませんが、小松が言いたいことはおそらく、英語がダメで和漢が大事というのではなく、英語だけではダメだ、和漢もやらないといけないという趣旨だろうと思います。

藩営の洋学校である開成所の創設に関わり、アーネスト・サトウとも親交のある小松ですから、外国語の重要性は十分認識しているわけで、ただそれだけでは足りないということでしょうね。

ちなみに、申四郎はのちに養子縁組を解消しています。小松に実子安千代がいたからです。
その後の申四郎はどうなったのか、不勉強で知りません。もしご存じの方がおいでなら、ご教示願えたら幸いです。

次回は篤姫関係を少し書きます。
また、寺田屋事件の余波として、日向細島での悲劇についても近いうちに書く予定です。

なお、小松帯刀については、来る5月27日に鹿児島市の宝山ホールで講演を行います。
鹿児島方面で興味のある方は足をお運び下さい。入場無料です。
詳しくは、ここにあります。

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新刊の紹介です。
最近、寄贈していただいたものです。
感謝の気持ちを込めて紹介します。

寺尾美保『みんなの篤姫』 南方新社 2008年
詳しくは、ここにあります。

寺尾さんは鹿児島の尚古集成館の学芸員。
この本は、子どもや歴史初心者向けです。活字も大きく、総ルビになっているのが大きな特徴。
小学生でも読めますね。
しかも、写真や図版が豊富で、とても面白そうです。
ドラマの篤姫を見て、興味をもった子どもたちに、さらに深く知ってもらうには最適ですね。
なお、寺尾さんは昨年は『天璋院篤姫』(高城書房)も刊行されて、篤姫の本格的な伝記として好評を博しました。

植松三十里『お龍』 新人物往来社 2008年
詳しくはここをご覧下さい。

お龍はもちろん、坂本龍馬の妻だった人です。
史料が少ないので、小説にするのはなかなか難しいですが、植松さんはそれにチャレンジされました。まだ目を通しきれていませんが、龍馬死後の分量が半分近くあるようです。そこに著者の意図するところもあるのではないかと推察されます。お龍にとっては、長い後半生でしたからね。
植松さんは近年、精力的に新刊を公表されています。見倣わなくてはいけません。


ほかにも、リンク先のむとうすさんから、泉州堺についてのガイドブックをいただきました。
なかなか使えそうです。
むとうすさんは先日上京され、一献傾けました。
楽しい一時でした。

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講演会のお知らせです。

横浜・根岸にある「馬の博物館」(根岸競馬記念公苑内)で、5月の連休明けにお話をすることになりました。

同館では、この時期、春季特別展「ホースパレード 〜華やかなる日本の行列〜」を開催する予定で、それにちなんだ講演ということになり、織田信長の馬揃えの話をすることになった次第です。

要領は以下の通りです。

日時:5月10日(土)14:00〜
演題:「信長の馬揃え〜その意図と意味〜」 

信長の馬揃えというのは、天正9年(1581)2月、洛中で盛大に挙行されたものです。『信長公記』巻14に、その様子が詳しく書かれています。
この馬揃えがどのような経緯で行われることになったのか。信長は何か特別な狙いを秘めていたのか、よく議論されます。
とくに、信長が朝廷に軍事的圧力をかけたのだという説がありますね。
でも、それはどうかなと思っています。それに、朝廷に圧力をかける理由が信長にあったのでしょうか?
馬揃えの直後、朝廷は信長に左大臣にしたいと申し出ています。これはなかなか重要な一件だと思います。
そのあたり、馬揃えの背景にあるものなども少し検討してみたいと思っております。

詳しくは馬の博物館のサイトをご覧下さい。ここです。

東京・横浜はじめ関東圏の方々のご参加をお待ちしております。

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昨夜、小学館古文書塾「てらこや」の体験講座に出講。

テーマは表題にした。
新しい受講者を集める体験講座のはずなのに、私の講座の常連さんが半数以上。これって……?

最初は過去にやった講座で、比較的好評だったものをもう一度やろうかと思っていたが、途中で常連さんが多いと知り、急遽予定変更になった次第。

「花の天保6年組」(1835年生まれ)とでもいうべき4人の書簡や建白書を取り上げた。

1,小松帯刀
2,坂本龍馬
3,土方歳三
4,松平容保


自分で選んでおいて何だが、1については、この間の懸案である小松の京都屋敷の所在地についての情報が含まれているのではないかと気づいた。
もしかしたら、堂々めぐりになりそうな予感がしてきた(苦笑)。

坂本龍馬の書簡は、暗殺される1カ月近く前に、古い友人の望月清平に宛てたもの。
龍馬の身辺に危険が迫っているのを本人も感じているのがよくわかる。
龍馬は土佐藩邸には入れず、吉井幸輔に薩摩藩邸に入るよう勧められるが、これも断った。その代わり、どこか別の安全な旅宿を探していることがわかる。
「松山下陣」がどこなのか、「松山」とは何か。
一応、伊予松山藩かとしてみたが、もちろん確定ではない。またそれらの藩邸に入るという意味でもないだろう。
講座が終わったあと、松山藩の京都屋敷があるのかどうか調べてみたら、それらしきものがあったが、よくわからない。

土方の書簡は郷里多摩の小島鹿之助に宛てたもので、芸妓にもてると自慢している有名なもの。

松平容保は第2次征長戦争を解兵した徳川慶喜に対する抗議の建白書。
容保はほんとに生真面目な人だなと感じる。

さて、4月8日(火)から、新講座が始まる。
前回の続きで、小松帯刀書簡を中心に進めていくつもり。
興味のある方は、こちらをご覧下さい。
ただし、まだ更新されていないので、連絡先や申し込み方法などの確認にご利用下さい。

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一応、私の新刊が出ているようです。
校正をしたのが、かなり前だったので、すっかり失念しておりました。

長く塩漬けになっていたので読者のみなさんには申し訳なく思っておりましたが、何とか完結できました。

まだ、告知が出揃っていないですが、とりあえずはここにあります。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第12回「さらば桜島」

いやあ、惜別の場面、これでもかこれでもかと引っ張りましたね(笑)。
世代的に近い忠剛さんの立場を考えると、多少涙腺も緩むというもの。
忠剛はほどなく半年もしないうちに亡くなりますからね。

だから、それほど書くこともないのですが、2点だけ。

ひとつは、篤姫が近衛家の養女になると斉彬から伝えられたとき、洩らした言葉が気になりました。

「養女の養女になるのですね」

この点については、斉彬も苦慮したところ。
実質は養女の養女であることは間違いありません。いわば「又養女」になりますから、将軍御台所の格式としていかがかと、斉彬も考えていたので、幕府に対しては実子届けを出しています。これなら一応、「又養女」にはなりません。
篤姫が鹿児島を出発した嘉永6年(1853)8月、家老の島津久福の名で出された「天璋院殿将軍家家定公ニ結婚ノ発端」には、

篤姫様御事、御国許に於て御出生に候処、此度御産母之儀、思召をもって御前様[斉彬公御簾中]を御生母と遊ばされ、御定め候様仰せ出され候旨、御老中阿部伊勢守様より、御承知遊ばさる

これによれば、篤姫は国許で(側室の子として)生まれ、今度斉彬正室をもって生母とすることにした。老中阿部正弘も承知されている、というわけである。

なお、篤姫を産んだのは、伊集院中二の娘で側女中寿満(すま)ということになっている。
もっとも、門閥の伊集院家は4家あるが、そのいずれにも中二なる当主はいないので、もっと家格の低い伊集院家か、あるいは架空の人物か?

徳永和喜氏によれば、篤姫の生年を含めて、篤姫実子説のための辻褄合わせが行われているとのこと。

以上から、篤姫が実子であるという申し合わせが島津家中はむろん、幕閣まで徹底しているので、篤姫の言葉は不適当というか、不穏当でさえあることになる。まあ、思っていても、口には出していけないことだろう。

次に、篤姫が一門四家や門閥諸家へのお披露目の対面のシーン。
島津忠教(のち久光)だったか、今和泉家とだったかで、篤姫が「〜仕ります」という言葉を使った。
「仕る」は目上の人に対する謙譲語だから、この場合は逆の用法になり、ふさわしくあるまい。

次回は篤姫の京都滞在、近衛忠熈との対面などがありそうです。
となると、わずか数日の京都滞在のうち、篤姫が訪れたと思われる東福寺塔頭の即宗院(島津家菩提寺)などが、最後の篤姫紀行で紹介されそうですね。楽しみです。



なお、前回の批評について、管理人しか読めないコメントをいただいた。
大変詳しく、的確な質問だった。
ただ、アドレスが書かれていなかったので、メールという形ではお返事できなかった。それゆえ、この場を借りて、お答えとさせて下さい。

質問は主に2点だったと思います。

ひとつは、篤姫の鶴丸城登城日につき、私が嘉永6年6月ではないか、だから、尚五郎と会うのが半年ぶりというのはおかしいと書いた点に対して、ドラマの第7回では、登城日が2月20日になっていたそうで、それなら半年でもおかしくないのではというもの。

私は録画していないので、第7回を確認しようもないのですが、そのようにテロップなり、セリフがあったのなら、たしかにその通りで、私の指摘は的外れだったということになります。

ただ、2月20日登城説の根拠は何なのかという別の疑問も生じました。
これは臆測ですが、同年3月1日に篤姫の実子式が執りおこなわれています。斉彬は参勤で帰国途中ですから不在です。これだと日にちが近いので(それでも10日ずれていますが)、根拠となり得るかもしれません。
ちなみに、『鹿児島県史料 斉彬公史料』一、262号「藩内事蹟総攬」なる史料に、

三月朔日、島津安芸(忠剛)ノ女(一子)、御実子トセラレ、其式ヲ挙ラル、年十九

と、実子式のことが書かれています。

次に、将軍家定がエキセントリックだという説への疑問、とくにアヒルを追いかけているというのが水戸斉昭の筋から出ているのは、将軍継嗣問題とからんで、水戸藩側のネガティブキャンペーンであり、実際の家定はもう少しまともだったことを裏づける史料もあると思うというご指摘。

これはなかなか難しいですね。
何をもって、暗君、名君、賢君というか、その定義の問題がありますね。
ただ、どうみても、名君、賢君とはいいがたいのでは。
それは本人の性格・気質などもさることながら、まず将軍在位期間がわずか5年足らずと短いこと、またペリー艦隊の来航、日米条約の締結という外交多難な折、将軍として指導力を発揮した形跡がほとんどないこと。
唯一あるとすれば、大老を井伊直弼と松平慶永のいずれにするかというとき、幕政の慣習に従って、井伊を大老にすると命じたことくらいが、積極的意思表示でしょうか。これとても、幕府政治の常道に従っただけで、さほどのことかという気もします。むしろ、常道に逆らうことのほうが非常時の改革にはふさわしいわけで。

あと、家定本人が子どもをつくれない体質だったことはほぼ間違いありません。これは小姓だった朝比奈閑水などの証言がありますし、結果として、先立った2人の御台所との間にも、篤姫との間にも、お気に入りの側室お志賀との間にも子供は出来ませんでした。一概にネガティブキャンペーンだとはいえないでしょう。

子どもをつくるかつくらないかというのは本人たちの問題だというのは現代人の感覚です。当時としては、その務めを果たすか否かは重要な問題だったのではないかと思います。
そのため、世子時代から次の後継を取り沙汰されるようになったのは、水戸藩側のネガティブキャンペーンだけとはいえないでしょうしね。父である将軍家慶本人が慶喜を気に入って、家定の世子にしようとした形跡さえあるようで。

将軍家定は人間的には温厚で、父や妻への思いやりもあったのではないかと思います。その点を評価するのにやぶさかではありませんが、一般人ならともかく、将軍であるからには、それだけでいいとは決していえないと思うわけであります。

以上、お答えになっているかどうかわかりませんが、とりあえず書かせていただきました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第50回
―「足痛」が政治活動制約―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすると、ご覧になれます。

今回は、小松帯刀の宿痾となった「足痛」と、それが小松の政治活動に与えた影響について書きました。発症はかなり早いですが、とりわけ、大政奉還直後からの発症と王政復古政変への不参加は足痛によるものであり、このことが、西郷・大久保に後塵を拝することになった端緒になったように思います。

後藤象二郎と松平春嶽が、小松の足痛をどのように受け止めたかも書きました。彼らが小松の上京にどれだけの期待を寄せていたかがよくわかります。

小松については当初5回連載の予定でしたが、まだ書き切れていないこともありますので、次回もつづけます。

連載も今回でちょうど50回。
よくぞさほどのトラブルもなく書きつづけられたものです。
これも、新聞読者やみなさんのおかげです。
連載はあと1年つづきますので、何とか体調管理をして無事に完遂できればと思っています。

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日次記です。

3月18日(火) 天晴、暖かなり
午後から霞会館に出かける。大久保利泰氏(利通曾孫)にお会いする。
5月の会の打ち合わせ。
京都・石薬師の利通邸について、昭和30年代に行かれたときの話を聞く。
記憶されていることをいろいろ教えてもらう。貴重な収穫。
当時、意外にも母家のほうが女学生の寮になっていたために、あまり入れなかったとのこと。「女学生」は大久保さんの言葉。懐かしい響き。
鹿児島で戦前に刊行された利通の本を拝借。多謝。
ネットでもまずヒットしない稀覯本のようである。読むのが楽しみ。

3月19日(水) 天晴
執筆中の新書の関係で、諸書を読みくらべ。
そのうちのひとつ、『史談会速記録』に収録された市来四郎の談話を読んでいたら、面白くて止まらなくなった。
維新から30年くらい経過した時点でのオーラルの史料だが、その扱い方が難しいと感じている。
同時代の史料、たとえば書簡や日記などには、出来事や人物についての説明など書いてないのがふつう。それが後日談という形であとから明らかになることが多い。
その際、証言者の立場や記憶の程度によって、当然、バイアスがかかる。その判断が難しいが、他の史料と突き合わせて、精度を高めていくしかないのか。
それでも、貴重な示唆が得られた。

ある薩摩藩士の日記を読んでいたら、小松の京都屋敷の情報が含まれていた。慶応3年(1867)夏の頃である。
残念ながら、場所がどこなのか書かれていないが、それでも、小松邸が二階建てだったことがわかる。またそこへ同僚たちが集まってきて、二階から大文字焼きを見ながら、酒宴を張っている。如意ヶ嶽の方角だろうか?

また、別の薩摩藩士の記録に、鹿児島の小松別邸のことが書かれており、坂本龍馬夫妻が来たことと、お龍の動静が伝承として残っているのを発見。興味深い。

あれやこれや、史料も頭の中も千々に乱れているが、少しずつまとまる気配。頑張るしかない。

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時代劇チャンネルでずっと放映していた大河ドラマ「翔ぶが如く」が今夜、最終回だった。
西南戦争はわずか2回とちょっと(3回目冒頭が城山と西郷の最期)で、原作とくらべれば、著しく時間配分がアンバランスだが、こればっかりは、予算的な制約があったろうから致し方あるまい。

それにしても、よく出来たドラマだった。18年前にも見たはずだが、記憶が薄れているというだけでなく、新たな発見がたくさんあり、史料や史実をうまく消化して制作していたことに感心させられた。

後半の重要な脇役で、熊本民権党の宮崎八郎を彷彿とさせる矢崎八郎太(堤真一)と、その恋人で会津藩の女性をイメージさせる芦名千絵(有森也美)は創作されたキャラクターで、18年前に観たときには、この2人が全体から浮き上がっている感じがして鼻についた記憶があったが、今回はそう感じなかった。むしろ、薩摩人の世界に異質な2人を放り込むことで明治初期の別の面を醸し出す効果があった。

とくに大久保を演じた鹿賀丈史が回を追うごとに容貌が似てきて、大久保に成り切っていくように感じられ、快心の演技だったと思う。


ところで、鹿児島の老舗書店、春苑堂書店から恒例の『鹿児島県史料』の配刊あり。今回は次の2点。

1,西南戦争 第4巻

2,旧記雑録拾遺 家わけ11


1は、一見して古い既刊の『西南の役薩軍口供書』(吉川弘文館、1967)と同じかと思ったが、薩軍兵士の配列が違っていた。

2は「桂家文書」「末川家文書」「末川家文書 家譜」の3種が収録されている。
このうち、「桂家文書」はほんのわずかで、ほとんどが末川家関係である。

末川家といってもなじみがないかもしれないが、明治になってからの名乗りで、近世は新城島津家と呼ばれた家。
新城島津家といえば、垂水島津家の分流ながら、島津義久の血統を保持していた家で、近世初期、藩祖島津家久に対抗し、知る人ぞ知る特異な立場にあった。
それだけに、とても興味深い。読むのが楽しみである。

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久しぶりに新刊の紹介です。

『木戸孝允関係文書』の刊行がようやく第3巻まで漕ぎつけた。詳しくはここです。
たしか予定より2,3カ月遅れたはず。
関係文書だから、木戸家が所蔵する木戸宛ての書簡の集成で、五十音順の配列になっており、当巻「か」(何礼之)から「く」(黒田益之丞)まで80人分が収録されている。

じつは、当巻が「こ」まで収録されるのではないか、つまり、小松帯刀からの書簡もあるのではないかと期待していたが、残念ながら次巻まわしになったようである。

それでも、柏村信(広沢真臣の兄)、桂太郎、楫取素彦、来島又兵衛、木戸松子(幾松)、久坂玄瑞、来原良蔵など注目すべき人物の書簡が相当含まれている。

最近、買った書籍では、西日本新聞社が刊行している「西日本人物誌」なるシリーズを遅ればせながら知り、何点か購入。刊行順で、

7 三浦明彦『黒田如水』
9 武野要子『神屋宗湛』
13 河村哲夫『立花宗茂』
18 大園隆二郎『大隈重信』


比較的体系だって読みやすい伝記に仕上がっている。

この間電車の中で一気に読み通したのが、

小島毅『足利義満 消された日本国王』 光文社新書 2008年

気鋭の東アジア思想史家の新刊で、なかなかスリリングだった。
『老子』の易姓革命説(とくに放伐論)の再検討など、面白い。やはり日本には換骨奪胎して伝わったらしい。日本史研究者は儒教をちゃんと勉強していないという指摘も痛烈。
義満暗殺も可能性としてはないわけではない、という立場も興味深い。
義満に次ぐ「日本国王」として、信長にも挑戦したいと、あとがきにあったのが目を引いた。

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日次記です。

3月16日(日) 天晴
午後から高田馬場に出かけた。
韓国留学生のキム君と会うためである。

キム君とはW大学の大学院のK保先生のゼミで知り合った。
このゼミは『上井覚兼日記』を読んでおり、私も特別に参加させていただいていた。
キム君は島津氏を研究テーマにしようと思っていたらしく、このゼミに研究生として参加していた。
ゼミコンパで席が隣り合って親しく話したことから、その後もメールのやりとりなどしていた。
彼からは島津氏関係の史料について何度か質問があったので、私もできるかぎり答えた。

何といっても、韓国人の彼が秀吉の朝鮮侵略で「鬼石曼子」(鬼島津)と恐れられた島津氏を研究するというのだから、痛快である。私が「何と奇特な人だ」と関心を抱くのも無理からぬところ。彼の関心が奈辺にあるのか、いろいろ聞き出したものである。

彼は日本で大学院への進学を希望していたが、やはり日本語とくずし字が難関だったらしく、叶わなかった。
それで、いったん国へ帰り、国の大学院に入るという。まだ若いから、これからもチャンスがあるだろう。
離日が迫っていて、彼から一度会いたいと電話をもらったので、会うことにした。

一緒に食事をしながら、いろいろ話した。
彼は島津氏のほかに、漢字に非常に興味を持っていて、中国・韓国・日本で漢字の意味や使い方に微妙なズレがあるのを発見して、これを比較検討できないかといった話をしてくれた。
彼の詳細なメモを見せてもらったが、難しい漢字がびっしり書かれていて、ハングルのお国ながら、漢字にかなり精通しているようだった。

「面白いんですよ」と言って彼が話してくれたのが、悪い道から更生することを、日本では「足を洗う」というけど、韓国や中国では「手を洗う」というとか。
その他、面白い事例をたくさん話してくれた。また日本語の微妙なニュアンスの違いを聞かれたので、私見を述べたりした。

帰国にあたって、『上井覚兼日記』だけでなく、『島津家文書』3巻、『本藩人物誌』など、島津氏関係の多くの本を買い込んで荷作りのまっ最中だという。

彼から、意外なプレゼントがあった。ゼミコンパで私がお気に入りの韓流女優の話をしたのを覚えていてくれたらしく、彼女の動画や写真がいっぱい入ったCDをプレゼントしてくれた。感激!!
私も自署した拙著を贈った。また島津氏関係でわからないことがあったら、遠慮なくメールしてと伝え、日本か韓国での再会を誓って別れた。

彼の前途が開けることを祈るのみ。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第11回「七夕の再会」

なかなか江戸へ行きませんねえ(笑)。
ようやく来週は行くようですが。

篤姫が肝付尚五郎と再会したとき、「半年ぶりですね」と言っていましたが、そんなに長くないはず。
前回も書いたように、篤姫が鶴丸城に登ったのは、嘉永6年(1853)6月5日。
江戸へ向けて出発する日は8月21日。

篤姫と尚五郎は篤姫の初登城の日に、お守りの見せっこをしているし、今回の時点で、出発まであと1カ月と言っていた。つまり、今回のドラマ進行時点は同年7月20日過ぎ頃。
2人が別れてから、まだ1カ月半しか経っていないのだが……。
だけど、「七夕の再会」だとすれば、またちょっとずれるが……。

まっ、いいか。
ある程度時間が経過していないと、再会の感動が盛り上がらないし。
尚五郎を篤姫と対面させたのは、斉彬の粋な計らいにみえるが、その実、家祥のことを篤姫にわざと明かしていない後ろめたさと篤姫の不憫さを思い遣ってという設定なんだろうな。一応、ドラマでの筋は通っている。

尚五郎が島津斉彬と対面したとき、西郷吉之助の名前が出てきた。
これはほぼ史実に近いだろう。
斉彬が藩主になって初めてお国入りしたのが同年6月21日。
同年後半、斉彬は精力的に領内の巡見をしている。その過程で、西郷の意見書が目に触れたのだろう。
西郷は同年5月頃に郡方書役助という地方支配の下級役職になっている。
そして翌安政元年(1854)正月、西郷は中小姓に抜擢され、斉彬の参勤出府に随行する。
その途次の休憩時、斉彬が「西郷吉之助はおるか」と、じきじきのお声がかりで、西郷を引見したのは有名な話。
だから、時系列はピッタリ合う。

お近のやっている香道もなかなか興味深いが、門外漢なので論評できない。
ただ、のちに小松帯刀夫人となるお近が香道を嗜んでいたという史料はあるのだろうか? あるいは小松家の遺品のなかに残っているのか? 個人的にはそれを知りたいが。

最後の「篤姫紀行」が、一見、ドラマ内容と関係ない坊津だったが、鑑真和上と沈香の輸入の話になって、納得。
今年の5月、同所にある資料館「輝津館」に初めて行けそうだ。
じつは、昔の大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990年放映)の雑誌取材で、坊津に行ったことがある。
でも、その頃はまだ輝津館はできていなかったと思う。行くのが楽しみだ。
近衛信尹の寓居跡も行けたらいいな。信尹については、ここを参照して下さい。

補足
前回、将軍世子家祥(のち家定)がアヒルを捕まえようとするシーンがあった。
創作ではないかという書き込みをどこかで見たが、そうではない。史実だと思われる。

公家の三条実万(実美の父)の史料『三条実万手録』一(日本史籍協会叢書)に、水戸斉昭が太閤鷹司政通夫人(水戸斉昭の姉)の用人石河徳五郎に宛てた書簡があり、そのなかで、将軍家定の行状を次のように書いている。

「御庭の鵞鳥(ガチョウ)・家鴨(アヒル)など追っかけ給ふ哉、または御側にて豆などを煎り、または菓子などを製して下され候位が御慰のよし」

なお、斉昭書簡は安政3年(1856)9月16日付だから、家祥が将軍になってからのこと。ドラマ進行時点から3年後のことであるが。

なお、書簡の続きには、「異国船などの事はいっさい御分りもなく候て恐入事のみなり、徳川の天下は御失にあい成るとも、やむなく候」云々ともあり、将軍家定の不甲斐なさに、斉昭の嘆きが聞こえてくるようだ。

斉昭といえば、篤姫入輿一件でも、仇の外様大名の娘に、御三家が頭を下げよというのかと激怒した逸話も有名だが、近いうちにドラマでも見られるだろうか。
いまの江守徹のキレ具合からすれば、確実にありそうだが。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第10回「御台所への決心」

本日、ようやく再放送を見る。
1週間遅れの感想です。

ドラマ進行時点は、ここ数回、ずっと嘉永6年(1853)。
篤姫が今和泉家から鶴丸城に入ったのが同年6月。
江戸へ向かうため、鹿児島を発するのが8月。

そのわずか3カ月弱をずっとやっているわけで、停滞感がある。
だから、こちとらもあまり書くことがないというのが正直なところ。

相変わらず、時系列の乱れがある。
今回、ようやく二条家からの御簾中申し入れを幕府が断ったと、斉彬が幾島に話していた。
しかし、これは前回か前々回に書いたように、斉彬が江戸から鹿児島への帰国の途中、京都あたりで知らされたものである。

家祥の御簾中はこれまで鷹司家と一条家から迎えたが、相次いで早世している。そのため、家祥は「京都はお好み遊ばされず」(「摂関家の姫はもうこりごりじゃ」と読むべし)という意志を表明していたし、首席老中阿部正弘もすでに斉彬とともに篤姫入輿工作に加担していたから、そもそも二条家からの申し入れが成功する見込みはなかった。

番組では、この一件を斉彬は鹿児島で阿部からの知らせで聞いたことになっていた。
ようやく前回あたりから、篤姫の入輿工作を明らかにしていたから、このタイミングじゃないと、この一件は活かせないだろうなという気はするが……。

まあ、幾島と篤姫のその後の結束のための下地づくりや、篤姫の御台所を決意するまでの動揺・困惑や覚悟のほどを描いて、後半への伏線をつくる必要があるから、このダラダラも致し方ないか。

気になったのは、斉彬が幾島の進言により、入輿の一件を明らかにしたときの篤姫の反応。
斉彬に利用されるのではなく、自分の意志で決めたい云々というセリフがあった。
当時、政略結婚では、当人とくに女性の意志などほとんど考慮されない。だから、篤姫の啖呵はおかしいけれど、それをあげつらうつもりはない。

のち、大奥入りした篤姫に対して、斉彬の密命が伝えられ、篤姫は将軍継嗣問題で斉彬の意に沿う形で動こうとするが、たちまち、家定生母の本寿院にぴしゃりとやり込められる。残念ながら、「母は強し」で、嫁の篤姫には出る幕がなかったというのが真相。

それだけではない。その後、篤姫は斉彬の意に反する方向に動き出す。紀州慶福の承認であり、明らかに斉彬を裏切る形になる。

その意味では、篤姫は斉彬に利用されたのではなく、まさに「自分の意志」で嫁いだことになる。

このあたりを史実に忠実に克明に描いたら、篤姫は本寿院側に取り込まれ、極端に言えば「洗脳」されてしまい、為す術もなかったということになってしまう。そうすると、「幕末のスーパーファーストレディ」という番組のコンセプト自体が脆くも崩壊してしまうことになる。

だから、史実通りには描けないだろうし、むしろ、史実とは逆に描かざるをえないだろうな。養父斉彬の密命と夫への愛の板挟みになって、後者を選択するというあたりが落としどころか?
制作側にはなかなか苦しいところである。

篤姫の啖呵に込められた意図は、まさか、そんな伏線ではなく、私の妄想だろうなとは思うが……。
あまり書くことがなくて、先走ってしまった点、失礼。

余談
家祥がアヒルを追いかけるシーンにはあおいちゃんの有名なCMを思い出して笑ってしまった。
アヒルの色が白じゃなく茶色というところに制作側の苦労が察せられた。
篤姫を掴まえられない家祥という暗示じゃないと思うが……。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第49回
―大政奉還の陰の功労者―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、小松帯刀と大政奉還の関わりについて書きました。
大政奉還といえば、土佐藩の関与が大きいことは周知のことですが、徳川慶喜が大政返上を表明してから、実際にそのための実務が動き出すにあたっては、小松の働きが非常に大きいです。
とくに、慶喜と直談判して、将軍辞職などの言質をとって実行させたことは特筆すべきでしょう。
のちの諸侯会議招集から王政復古へのシナリオは小松が描いたといっても過言ではありません。

このプロセスと討幕の密勅がどのように関わるかまで書きたかったのですが、紙数の都合で書けませんでした。

次回は小松の痛恨事「足痛」について、その真相を書くつもりです。

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日次記です。

3月12日(水) 天晴
午後3時頃から雑誌や新聞連載で使う写真の撮影にでかける。
春分の日も近いから、陽もだいぶ長くなったので、この時間帯でも大丈夫だと思った。

まず、比較的近場にありながら、なかなか行けずにいた杉並区永福町の大円寺に行く。
ここは島津家の江戸での菩提寺。
江戸初期の藩主、島津光久の嫡男綱久が他界して、同寺に葬られたのがきっかけで、以後、島津家ゆかりの寺となった。

もっとも、もともとは徳川家ゆかりの寺である。
最初、赤坂溜池あたりにあったが、伊皿子に移転している。
伊皿子は現在の港区三田3丁目と高輪2丁目あたり。
つまり、三田(芝)の薩摩藩上屋敷の近くにある。
綱久がここに葬られたのは、藩邸に近かったのと、島津家の鹿児島の菩提寺である福昌寺と同じ宗派(曹洞宗)だったからだろう。

その後、永福町に移転したのは、関東大震災か先の戦災のためだろうか。
よく知らないので、ご教示いただければ幸いである。

井の頭線永福町駅から徒歩10分くらいのところにあった。
面白かったのは、本堂正面に付いている家紋。
葵紋と丸十紋が仲よく同居している(写真参照)。
これだと、丸十紋が優勢だが、山門の瓦の紋は葵紋だったので、五分五分である。
葵紋

墓所には、戊辰戦争で戦死した薩摩藩士75名の名を刻んだ慰霊碑が建っている(写真参照)。
戦死者碑

碑の土台にプレートが嵌め込まれていたが、そのなかには、

益満休之助

肝付十郎

など、知られた名前もある。
益満


杉並区が立てた案内プレートには、ほかにも

横山安武(森有礼の兄、太政官政府に抗議の割腹自殺をした人)

八田知紀(歌人)

の墓もあるとあったが、探し出せなかった。

この寺に天璋院篤姫が養父斉彬と義理の祖父斉興を供養するために石塔を建てたということが『旧記雑録追録』に書かれている。
篤姫の入輿後、ほどなく斉彬は他界する。江戸城大奥にいては、斉彬の供養もままならないから、せめてもと大円寺に供養塔を建てたものか。もっとも、本人は参拝に行けず、代参だったろうなと思う。
じつは、その供養塔を探すのがいちばんの目的だったが、それらしいのは見当たらなかった。
もしかして山門を入って、すぐ右手にある高い宝篋印塔がそれだったのだろうか? ご存じの方がおいでなら、教えて下さいまし。

その代わり、西郷隆盛の三男、午次郎とその一族の墓を見つけた。

墓所の奧には、保科家の墓もあった。巨大な五輪塔が立っていた。保科正之以前のもののようだった。


その後、井の頭線で渋谷まで行く。
薩摩藩の渋谷藩邸跡に行くため。
ここは島津斉彬が外国船の攻撃から難を避けるために購入した下屋敷。
斉彬はここで電信の実験をしたことが記録に残っている。
また江戸入りした篤姫が最初に入った邸もここ。入輿するときも、ここを発して江戸城に入っている。

ここは以前も取材で行ったことがあったが、そのときはゆかりの碑の存在を知らず、撮影できずにいたので、それを押さえに行った。

それはともかく、K学院大学キャンパスの景観の変貌ぶりに驚く。
5、6年前までここの大学院棟でよく輪読会をしていたが、その建物は壊され、立派な建物が建設中。
本キャンパスにはW木タワーと呼ばれる超高層のビルが……。
近日中に、このタワーで勉強会があるが、これほどまで変わってしまうとは……。

で、その先の坂を下ったところに、例の碑があった。
碑そのものは「常盤松」の碑といって、源義朝の側室、常盤が植えたという伝説がある。
このあたりに鎌倉時代、渋谷城があり、渋谷一族が住んでいたという。
のちに彼らは薩摩に下ることになるが。

その後、千駄ヶ谷まで移動し、天璋院篤姫が晩年を過ごした千駄ヶ谷の徳川屋敷周辺を彷徨う。
何か碑でも立っていないかと、ひとしきり探したが、見当たらなかった。
もしご存じの方がおいでなら教えて下さい。

わずか3時間足らずだったが、久しぶりによく歩いた。
心なしか体も軽くなったような気がした。

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小学館アカデミー古文書塾「てらこや」
特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」第5回

一昨11日が今次の最終回だった。
前回まで、小松書簡の検討はせいぜい元治年間までしか進んでいなかったが、最終回なので、少し趣向を変えて、小松が家族に宛てた書簡を取り上げてみた。

本論に入る前に、篤姫周辺の書状を2点紹介した。
以前、TVに出演したとき、私のアイデアが採用されなかったと書いたことがあるが、そのときの典拠となった史料である。講座名に篤姫云々とうたっているだけに、少しそちらも触れておくべきだと思った。

山本博文氏が紹介した「薩摩藩奧女中文書」に収録されているものである。
2点とも、「つぼね」なる篤姫付の老女が薩摩藩の江戸藩邸の老女花川などに送った消息。
「つぼね」は大河ドラマにも登場している老女幾島ではないかとされている。

とくに面白い一節を紹介すると、

「お国(薩摩)から送られてきた赤味噌が払底し、(篤姫付の)中年寄衆からどうか送ってくれるようにと頼まれたので、お願いする。どうも味噌については、天璋院さまは赤味噌だと食事をお召し上がりになるが、ほかの味噌だと手をつけられない。たびたびのおねだりで申し訳ないが、よろしく」

篤姫は国許の赤味噌でなければ、食事をとらなかったという。ふるさとの味というのは今も昔も変わらないのか。この逸話がドラマで活かされるかどうかも注目したい。

もう1点は、高輪の藩邸で収穫した高菜の漬物をまた送っていただき有難うという短い書簡。
これも篤姫の好物だったのかどうかはよくわからない。侍女同士の贈答行為だけかもしれない。


それから、本論に入る。
小松が家族に宛てた書簡11点を取り上げた。そのうち、9点が妻のお近宛て。
ほとんどが文久3年(1863)と翌元治元年に集中している。

平凡ながら特徴的だったのは、冒頭の挨拶文がほとんど同じで、時候の挨拶と小松が元気でいることを繰り替えし強調している点。
おそらく国許のお近が病弱な小松の体調を心配して、それを案じる文面を書いていたからだろうと思った。
内容的に面白かったのは、元治元年4月の書簡で、ほぼ同文のものがお近宛てと、於時宛ての2点ある。於時も小松かお近の縁者だと思われるが、続柄がよくわからない。
これは、小松が老中水野忠精に二条城に呼び出されて、上洛中だった将軍家茂に拝謁する栄にあずかったことを知らせたもの。

長さ3メートル以上という長い書簡で、将軍拝謁の模様を詳しく書いている。
薩摩藩では門閥ながら、将軍から見たら陪臣であり、通常なら、じかの拝謁など不可能である。それが叶ったのだから、小松も「かような先例もなき事」とひとしお感動している。それが3メートルの長い書簡になったのだろう。

拝謁は二条城白書院で行われ、時服なども下賜された。
しかも、将軍側近の奏者番が退出し、小松は家茂と向かい合って親しく会話し、家茂から「在京国事周旋」に満足している旨告げられたので、小松も「上意何とも恐れ入り候次第」と感激している。
おそらく参預会議の周旋を賞せられたものか。

書簡にはなかったが、このとき、高崎猪太郎(五六)・同佐太郎(正風)の両高崎も同伴している。両高崎も家茂に拝謁したかどうかは不明。

あと、お近が豚肉・牛肉・玉子を送ってくれたことへのお礼の書簡も面白い。豚肉はともかく牛肉まで食していたことに驚かされる。おそらく病弱な夫のために滋養強壮の思いを込めたものだろう。そのうちの豚肉は一橋慶喜に贈られたと思われる。

異色だったのは、小松が養子申四郎に宛てた訓戒状のような書簡。
申四郎は同じ門閥の町田家の男子。町田久成の弟である。
久成や申四郎の生母は小松家(先々代清穆の娘)から来ている。その縁で、庶弟の申四郎が、子供のいない小松夫妻の養子になったものか。申四郎はお近の甥にあたる。
訓戒の内容は面白いので、私の連載で紹介します。
なお、書簡中に出てきながら、調べ忘れていた町田家の当主は久長でした。

とりあえず、そんな感じで今次は終了。
次シリーズも小松をやることになりそうだが、もう少し工夫が必要かも。

【お知らせ】
今月25日(火)午後7時から、てらこやの体験講座があります。
講師は私です。
当講座に関心のある方は聴講してみませんか。受講料は1.000円です。
あくまで1回限りの体験講座ですから、面白くなかったら、本講座を受講する必要はありません。
お気軽にご参加下さい。
お問い合せ・申し込みはここですが、サイトが更新されていませんので要注意。
連絡先や会場の確認などにご利用下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」の最新回で書いた近衛邸についての関連情報

幕末関係の友人から教えていただいた情報。ここです。

愛知県西尾市所在のNPO法人が京都にあった旧近衛邸を解体移築して、一般に公開しているというちょっといい話。幕末の近衛邸がそのまま保存されているというのがすごい。

で、問題はこの近衛邸は私がコラムで書いた5つの近衛邸のうちのどれかという点。上記サイトには次のような説明が書かれていた。

>摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房邸に嫁いだ婦人の縁で、島津家によって建てられた江戸後期の建物です。

左大臣近衛忠房は関白だった近衛忠熈の嫡男。
文久2年(1862)、故・島津斉彬の養女貞姫を妻に迎えた。
貞姫は久光の養女。実父は一門四家のひとつ、加治木家の島津久長である。

忠房の父、忠熈は左京区聖護院あたりに別業(別宅)をもっていたが、有馬新七の「都日記」によれば、安政年間には空き家になっていたと思われる。新七の父正直は忠熈夫人となった郁姫(島津斉興養女)付として在京していた。新七は亡父のよすがを偲ぶため、安政年間にこの屋敷を訪れ、屋敷の主がいないと書いている。郁姫はここで暮らしたらしいが、郁姫が他界した嘉永3年(1850)以降、忠熈はどこに居住していたものか。
常識的には、今出川の本邸に戻ったか、もともとここに住んでいたかだろう。

それで、忠房が結婚し、家督を継いだのち、忠熈はどこかに移ったと思われる。
コラムにも書いたように、元禄年間の当主、近衛基煕は孫家久の婚姻に伴い、婚家の島津家の援助により、堀川一条の屋敷を得ている。
忠熈も同様の事態になったものと思われるが、それは新たに土地と屋敷を得たのか、それとも郁姫が住んでいた聖護院の屋敷を修築したか、あるいは正徳年間にできた近衛家煕の河原邸(二条河原町)を修築したか。

など、いろいろな可能性が考えられる。
忠熈の屋敷を「桜木御殿」と呼んでいる史料もある。私はこれを今出川本邸ではないかと思っていたが、もしかすると、聖護院か河原邸の別邸かもしれない。

小松屋敷である「御花畑」とは別に、またもうひとつの宿題ができてしまった。

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下記に書きましたが、名古屋出張などで帰宅が遅くなり、今回の「篤姫」は見逃してしまいました。
ですから、土曜日の再放送まで感想が書けません。
当ブログの感想を楽しみにされていた方、申しわけありません。
 
昨日早朝から一泊で名古屋に出張。
恒例の「信長記」調査である。

名古屋市博物館に10時に入館。研究者仲間5人で。
学芸員のT居さん、O村さんに迎えていただき、2日間にわたって親身にお世話していただく。

今回の目的は、信長の弟、有楽斎の子孫宅に伝わる「信長記」その他の史料。
ご当主もおいでになる。有楽流の茶道の家元をされている。ご高齢にもかかわらず、大変お元気で、気さく、話し好きな方だった。

「信長記」調査はなかなかの収穫。
写本の系統もだいたいわかった。
何より、太田牛一の自筆本があったのがすごい。
さらに、首巻の異本かと思われるものもあった。
そして、当織田家の当主長清が編纂した「織田真紀」があった。その草稿本もあって興味深い。
ほかにも、信長文書、足利義昭の御内書、有楽斎書状、豊臣秀次朱印状など、多種多様。

あまりの質量の多さに、結局、2日間ですべて撮影しきれず、新年度になってから再調査することになった。
2日目は織豊研究で著名な三鬼清一郎氏も陣中見舞いにおいでになり、ごあいさつする。

余談
2日目は名古屋国際女子マラソンの日。同博物館の前もコースになっていて、7キロ地点の給水所だった。昼食後、一時、選手たちの応援をする。携帯で撮影してみた。
マラソン


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第48回
―再考・小松の京都屋敷―

早暁に書いています。
本日昼前には連載が更新になるはずですので、お知らせしておきます。

今回は、以前も触れたことがある小松帯刀の京都屋敷の所在についてです。
「近衛殿御花畑」がどこかのか、新知見を書いておりますので、ご覧下さい。
右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

本日から明日まで名古屋出張です。

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ようやくアクセスできた。

最近、夜11:00から01:00にかけて、ほとんど当ブログにアクセスできない。

おそらく私だけではないはずで、運営者のサーバの容量に問題があるのでは?

いちばんアクセスしてもらえる時間帯なので、何とかしてほしいものだ。


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日次記です。

3月3日(月)
NHK大河ドラマ「篤姫」の監修者である原口泉氏(鹿児島大学教授)の上京に合わせた囲む会に誘われたので、友人のM川さん、I股さんと一緒に参加。
船上パーティという触れ込みに惹かれたわけで(笑)。

参加者の多くが、原口氏の出身高校であるK南高校の同窓生、それと東京の自顕流関係者だった。お知り合いの顔も二、三あった。昨年暮れ講演した京王電鉄の重役さんもおいでで、先方から挨拶されて恐縮する。

汐留の電通ビルで待ち合わせたが、暗いせいか目的地がよくわからず、辿り着くのに少し苦労した。
浜離宮近くのハーバーに碇泊している船に乗り込む。
定員の関係から30人ほどに限定の会だった。

鹿児島出身者が圧倒的に多いが、みなさん、東京生活が長いせいか、鹿児島弁はさほと飛び交わなかった。
とくに、原口氏の同級生で、世界を股にかけてクルージングのガイドをされている方の話は圧巻だった。
地中海の東半分、アラスカ沖、北欧のフィヨルドそしてカリブ海のユカタン半島寄りがクルージングにはお勧めとのこと。憧れるが、縁がなさそう(笑)。

そして、日本人や鹿児島県人は知らないが、錦江湾は世界有数のクルージング地だそうだ。
山川から湾に入って右手に雄大な桜島が見えてくると、外国人は「ブラボー」と歓声をあげるとか。
ナポリとヴェスヴィオス火山にも優るとも劣らぬ景観で、それを鹿児島県人が知らないのはもったいないという話には、うなずくことしきり。

地中海は無理でも、錦江湾クルーズなら現実性があるなと思った。
地元でやっているところはないのだろうか?

東京湾クルーズのはずが、主賓の原口氏が飛行機の遅れで到着が遅れに遅れて、なかなか出航できずに碇泊したまま。
ようやく到着されたときは9時を回っていた。
旬な「篤姫」制作上の裏話や、18年前の大河「翔ぶが如く」との比較など、軽妙に話されて爆笑の渦だった。

原口氏は以前、龍馬会全国大会が霧島で開催されたとき、挨拶されたのを遠くから眺めたことはあるが、実際に挨拶するのは初めてだった。
名刺を差し出したら、「おおっ、君か。前から会いたいと思っていたんだ」と噂に聞いていたとおり、人たらしである(笑)。
近刊の著書に私が書いたものを使わせてもらったからと、お礼を言われた。
「義弘じゃなく、義久に着目したのもなかなかだ」
と誉めていただき、恐縮する。

その他、郷里出水の郷士、伊藤祐徳の話で、しばし盛りあがる。伊藤祐徳と出水郷士団が西南戦争でどのような去就を示したのかを私が詳しく知ったのは、原口氏が25年ほど前に出演したNHKの歴史番組「歴史への招待」でだった。またそれがきっかけで郷土史に関心をもつようにもなった。そのいきさつを話したら、原口氏が伊藤家の歴代当主の名前をずらりと列挙されて驚かされる。私は祐徳とその孫の信夫氏しか知らないが(汗)。
ちなみに、祐徳の子孫が現・鹿児島県知事である。

そんなこんなの初対面だった。

結局、クルーズに出航したのは9時半を回ってからだったか。
東京タワーやレインボーブリッジ、お台場などがよく見えた。
次回は少し明るいうちから出港できたらいいなと思った。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第9回「篤姫誕生」

今回は、松坂慶子演じる幾島の独壇場でしたね。
何となく、数年前の大河ドラマ「毛利元就」でのお杉の方の役回りと似ていると思ったのは私だけでしょうか。

幾島は薩摩出身で、先代藩主斉興の養女郁姫(先々代藩主斉宣の娘)の近衛家入輿に伴い上京して京都暮らしが長い。幾島がどのような家に生まれたかはよくわからない。

なぜ郁姫の父が藩主なのに兄斉興の養女となったのかといえば、父斉宣が祖父重豪の逆鱗に触れて隠居に追い込まれたため。
郁姫が斉興の養女となったのは文化12年(1815)で9歳のとき。父斉宣の隠居とほぼ同じ時期である。

郁姫は、ドラマでは小朝が演じている近衛忠熈(嘉永6年当時は右大臣)の正室となった。
ドラマ進行時点の3年前の嘉永3年(1850)3月に他界している。享年44。

幾島は郁君付きの侍女だったとき、藤田という名前だったという。
そして、郁姫の他界とともに、得浄院という院号を名乗っている(徳永和喜『天璋院篤姫』)。
院号を名乗れるくらいだから、身分的には高いことになる。こうした侍女が院号を名乗る場合、不勉強でよく