膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第9回「篤姫誕生」

今回は、松坂慶子演じる幾島の独壇場でしたね。
何となく、数年前の大河ドラマ「毛利元就」でのお杉の方の役回りと似ていると思ったのは私だけでしょうか。

幾島は薩摩出身で、先代藩主斉興の養女郁姫(先々代藩主斉宣の娘)の近衛家入輿に伴い上京して京都暮らしが長い。幾島がどのような家に生まれたかはよくわからない。

なぜ郁姫の父が藩主なのに兄斉興の養女となったのかといえば、父斉宣が祖父重豪の逆鱗に触れて隠居に追い込まれたため。
郁姫が斉興の養女となったのは文化12年(1815)で9歳のとき。父斉宣の隠居とほぼ同じ時期である。

郁姫は、ドラマでは小朝が演じている近衛忠熈(嘉永6年当時は右大臣)の正室となった。
ドラマ進行時点の3年前の嘉永3年(1850)3月に他界している。享年44。

幾島は郁君付きの侍女だったとき、藤田という名前だったという。
そして、郁姫の他界とともに、得浄院という院号を名乗っている(徳永和喜『天璋院篤姫』)。
院号を名乗れるくらいだから、身分的には高いことになる。こうした侍女が院号を名乗る場合、不勉強でよく知らないが、剃髪しないのだろうか。
そして、ドラマ進行時点では、幾島ではなく、得浄院と名乗るのが本筋だと思う。
ちょうど同じ時期、参勤で帰国途中(伏見)の斉彬が城代家老の島津豊後(久宝)に書簡を出している。

一、右府様より信君様を虎寿丸え縁組の儀、内々得浄院をもって仰せ下され候

とある。

篤姫が入輿に先立ち近衛家の養女になる話と、忠熈の一女と斉彬の世子虎寿丸の縁組話も同時進行していた。もっとも、虎寿丸は翌年早世するが。
斉彬が近衛家との関係を二重に強化しようとしていることがわかる。

そして、引用中にある「得浄院」が幾島のこと。
だから、ドラマ進行時点では幾島とは名乗っていない。
幾島と名乗るのは、篤姫が近衛家の養女となり、江戸に乗りこむとき。得浄院は還俗したものか。
篤姫入輿に伴い、幾島は近衛家家司の今大路家の娘という形で篤姫付きとなる。
本来は得浄院と名乗るべきだろうが、混乱を避けるためには致し方ないか。

もうひとつの疑問は、おそらく幾島は鹿児島に下向していないのではないか。
篤姫上京に先立ち、江戸に下って篤姫の到着を迎えたとされている(寺尾美保『天璋院篤姫』)。

また、幾島は「こぶ」というあだ名でも呼ばれていたようである。当然、顔にこぶがあったのだろう。
だが、松坂慶子にはこぶがなかった。
20年前の大河「翔ぶが如く」では、樹木希林が幾島を演じたが、このときもこぶはなかったような。
上記寺尾氏によれば、「こぶ」の話は越前松平家の『昨夢紀事』に書かれているとのことだが、何せ大部の史料ゆえ、まだ探せ出せていない。

篤姫誕生というのは、今和泉家時代の於一(おかつ)から島津宗家の姫としての名乗り。
斉彬が曾祖父重豪の一女茂姫が将軍家斉の御台所となった先例をあげて、茂姫が「篤」と名乗ったのにあやかって、「篤姫」と命名したと語っていた。
茂姫はたしかに「於篤」と呼ばれていた。また「篤」は「とく」と読んだというのは初めて知った。『島津氏正統系図』などの史料にはルビが振ってないから知らなかった。勉強させてもらいました。

ただ、「於篤」は篤姫こと「於一」と同様、幼名ではないのかなと思う。両者に「篤」の字が共通しているのは承知していたが、そのような関連があるのかどうか、不勉強でよくわからない。島津宗家にそのような読みとして伝わっているのかもしれないが。

なお、篤姫は近衛家の養女となったとき、「篤君」という君号と、「敬子」(すみこ)という実名に改名する。摂関家の姫は〜君と君号で呼ばれる。

将軍世子家祥(のち家定)の最初の御台所は鷹司家出身の「有君」、実名は任子(ただこ)。
有君死後の継室は一条家の「明君」(あけきみ)、実名は「秀子」

篤君−敬子もそれらと対応した名乗りである。

さて、篤姫の未来の夫、家祥さんはまたエキセントリックぶりを発揮していましたね。
ちゃんと家祥(いえさち)としていました。史実どおりです。
このあと、将軍補任とともに家定に改名します。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング