膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」の最新回で書いた近衛邸についての関連情報

幕末関係の友人から教えていただいた情報。ここです。

愛知県西尾市所在のNPO法人が京都にあった旧近衛邸を解体移築して、一般に公開しているというちょっといい話。幕末の近衛邸がそのまま保存されているというのがすごい。

で、問題はこの近衛邸は私がコラムで書いた5つの近衛邸のうちのどれかという点。上記サイトには次のような説明が書かれていた。

>摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房邸に嫁いだ婦人の縁で、島津家によって建てられた江戸後期の建物です。

左大臣近衛忠房は関白だった近衛忠熈の嫡男。
文久2年(1862)、故・島津斉彬の養女貞姫を妻に迎えた。
貞姫は久光の養女。実父は一門四家のひとつ、加治木家の島津久長である。

忠房の父、忠熈は左京区聖護院あたりに別業(別宅)をもっていたが、有馬新七の「都日記」によれば、安政年間には空き家になっていたと思われる。新七の父正直は忠熈夫人となった郁姫(島津斉興養女)付として在京していた。新七は亡父のよすがを偲ぶため、安政年間にこの屋敷を訪れ、屋敷の主がいないと書いている。郁姫はここで暮らしたらしいが、郁姫が他界した嘉永3年(1850)以降、忠熈はどこに居住していたものか。
常識的には、今出川の本邸に戻ったか、もともとここに住んでいたかだろう。

それで、忠房が結婚し、家督を継いだのち、忠熈はどこかに移ったと思われる。
コラムにも書いたように、元禄年間の当主、近衛基煕は孫家久の婚姻に伴い、婚家の島津家の援助により、堀川一条の屋敷を得ている。
忠熈も同様の事態になったものと思われるが、それは新たに土地と屋敷を得たのか、それとも郁姫が住んでいた聖護院の屋敷を修築したか、あるいは正徳年間にできた近衛家煕の河原邸(二条河原町)を修築したか。

など、いろいろな可能性が考えられる。
忠熈の屋敷を「桜木御殿」と呼んでいる史料もある。私はこれを今出川本邸ではないかと思っていたが、もしかすると、聖護院か河原邸の別邸かもしれない。

小松屋敷である「御花畑」とは別に、またもうひとつの宿題ができてしまった。

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下記に書きましたが、名古屋出張などで帰宅が遅くなり、今回の「篤姫」は見逃してしまいました。
ですから、土曜日の再放送まで感想が書けません。
当ブログの感想を楽しみにされていた方、申しわけありません。
 
昨日早朝から一泊で名古屋に出張。
恒例の「信長記」調査である。

名古屋市博物館に10時に入館。研究者仲間5人で。
学芸員のT居さん、O村さんに迎えていただき、2日間にわたって親身にお世話していただく。

今回の目的は、信長の弟、有楽斎の子孫宅に伝わる「信長記」その他の史料。
ご当主もおいでになる。有楽流の茶道の家元をされている。ご高齢にもかかわらず、大変お元気で、気さく、話し好きな方だった。

「信長記」調査はなかなかの収穫。
写本の系統もだいたいわかった。
何より、太田牛一の自筆本があったのがすごい。
さらに、首巻の異本かと思われるものもあった。
そして、当織田家の当主長清が編纂した「織田真紀」があった。その草稿本もあって興味深い。
ほかにも、信長文書、足利義昭の御内書、有楽斎書状、豊臣秀次朱印状など、多種多様。

あまりの質量の多さに、結局、2日間ですべて撮影しきれず、新年度になってから再調査することになった。
2日目は織豊研究で著名な三鬼清一郎氏も陣中見舞いにおいでになり、ごあいさつする。

余談
2日目は名古屋国際女子マラソンの日。同博物館の前もコースになっていて、7キロ地点の給水所だった。昼食後、一時、選手たちの応援をする。携帯で撮影してみた。
マラソン


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