NHK大河ドラマ「
篤姫」第12回「さらば桜島」
いやあ、惜別の場面、これでもかこれでもかと引っ張りましたね(笑)。
世代的に近い忠剛さんの立場を考えると、多少涙腺も緩むというもの。
忠剛はほどなく半年もしないうちに亡くなりますからね。
だから、それほど書くこともないのですが、2点だけ。
ひとつは、篤姫が近衛家の養女になると斉彬から伝えられたとき、洩らした言葉が気になりました。
「養女の養女になるのですね」この点については、斉彬も苦慮したところ。
実質は養女の養女であることは間違いありません。いわば「又養女」になりますから、将軍御台所の格式としていかがかと、斉彬も考えていたので、幕府に対しては実子届けを出しています。これなら一応、「又養女」にはなりません。
篤姫が鹿児島を出発した嘉永6年(1853)8月、家老の島津久福の名で出された「天璋院殿将軍家家定公ニ結婚ノ発端」には、
篤姫様御事、御国許に於て御出生に候処、此度御産母之儀、思召をもって御前様[斉彬公御簾中]を御生母と遊ばされ、御定め候様仰せ出され候旨、御老中阿部伊勢守様より、御承知遊ばさるこれによれば、篤姫は国許で(側室の子として)生まれ、今度斉彬正室をもって生母とすることにした。老中阿部正弘も承知されている、というわけである。
なお、篤姫を産んだのは、伊集院中二の娘で側女中寿満(すま)ということになっている。
もっとも、門閥の伊集院家は4家あるが、そのいずれにも中二なる当主はいないので、もっと家格の低い伊集院家か、あるいは架空の人物か?
徳永和喜氏によれば、篤姫の生年を含めて、篤姫実子説のための辻褄合わせが行われているとのこと。
以上から、篤姫が実子であるという申し合わせが島津家中はむろん、幕閣まで徹底しているので、篤姫の言葉は不適当というか、不穏当でさえあることになる。まあ、思っていても、口には出していけないことだろう。
次に、篤姫が一門四家や門閥諸家へのお披露目の対面のシーン。
島津忠教(のち久光)だったか、今和泉家とだったかで、篤姫が
「〜仕ります」という言葉を使った。
「仕る」は目上の人に対する謙譲語だから、この場合は逆の用法になり、ふさわしくあるまい。
次回は篤姫の京都滞在、近衛忠熈との対面などがありそうです。
となると、わずか数日の京都滞在のうち、篤姫が訪れたと思われる東福寺塔頭の即宗院(島津家菩提寺)などが、最後の篤姫紀行で紹介されそうですね。楽しみです。
なお、前回の批評について、管理人しか読めないコメントをいただいた。
大変詳しく、的確な質問だった。
ただ、アドレスが書かれていなかったので、メールという形ではお返事できなかった。それゆえ、この場を借りて、お答えとさせて下さい。
質問は主に2点だったと思います。
ひとつは、篤姫の鶴丸城登城日につき、私が嘉永6年6月ではないか、だから、尚五郎と会うのが半年ぶりというのはおかしいと書いた点に対して、ドラマの第7回では、登城日が2月20日になっていたそうで、それなら半年でもおかしくないのではというもの。
私は録画していないので、第7回を確認しようもないのですが、そのようにテロップなり、セリフがあったのなら、たしかにその通りで、私の指摘は的外れだったということになります。
ただ、2月20日登城説の根拠は何なのかという別の疑問も生じました。
これは臆測ですが、同年3月1日に篤姫の実子式が執りおこなわれています。斉彬は参勤で帰国途中ですから不在です。これだと日にちが近いので(それでも10日ずれていますが)、根拠となり得るかもしれません。
ちなみに、『鹿児島県史料 斉彬公史料』一、262号「藩内事蹟総攬」なる史料に、
三月朔日、島津安芸(忠剛)ノ女(一子)、御実子トセラレ、其式ヲ挙ラル、年十九と、実子式のことが書かれています。
次に、将軍家定がエキセントリックだという説への疑問、とくにアヒルを追いかけているというのが水戸斉昭の筋から出ているのは、将軍継嗣問題とからんで、水戸藩側のネガティブキャンペーンであり、実際の家定はもう少しまともだったことを裏づける史料もあると思うというご指摘。
これはなかなか難しいですね。
何をもって、暗君、名君、賢君というか、その定義の問題がありますね。
ただ、どうみても、名君、賢君とはいいがたいのでは。
それは本人の性格・気質などもさることながら、まず将軍在位期間がわずか5年足らずと短いこと、またペリー艦隊の来航、日米条約の締結という外交多難な折、将軍として指導力を発揮した形跡がほとんどないこと。
唯一あるとすれば、大老を井伊直弼と松平慶永のいずれにするかというとき、幕政の慣習に従って、井伊を大老にすると命じたことくらいが、積極的意思表示でしょうか。これとても、幕府政治の常道に従っただけで、さほどのことかという気もします。むしろ、常道に逆らうことのほうが非常時の改革にはふさわしいわけで。
あと、家定本人が子どもをつくれない体質だったことはほぼ間違いありません。これは小姓だった朝比奈閑水などの証言がありますし、結果として、先立った2人の御台所との間にも、篤姫との間にも、お気に入りの側室お志賀との間にも子供は出来ませんでした。一概にネガティブキャンペーンだとはいえないでしょう。
子どもをつくるかつくらないかというのは本人たちの問題だというのは現代人の感覚です。当時としては、その務めを果たすか否かは重要な問題だったのではないかと思います。
そのため、世子時代から次の後継を取り沙汰されるようになったのは、水戸藩側のネガティブキャンペーンだけとはいえないでしょうしね。父である将軍家慶本人が慶喜を気に入って、家定の世子にしようとした形跡さえあるようで。
将軍家定は人間的には温厚で、父や妻への思いやりもあったのではないかと思います。その点を評価するのにやぶさかではありませんが、一般人ならともかく、将軍であるからには、それだけでいいとは決していえないと思うわけであります。
以上、お答えになっているかどうかわかりませんが、とりあえず書かせていただきました。
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