膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第13回「江戸の母君」

いよいよ江戸行きになりました。東目筋の日向から海路をとっていましたが、史実では西目筋(肥後口)の陸路をとったはずです。篤姫の一行が肥後藩細川家領を通過した史料がちゃんと残っていますから。

それはともかくとして、篤姫の御座船には島津家の家紋入りの幔幕がかかっていました。
一瞬だけだったので、よく確認できなかったのですが、家紋は3種類あったような。丸十紋と島津牡丹はあったと思います。あとひとつあったとすれば、五七の桐紋か。

上京して近衛忠煕と対面し、茘枝(ライチー)を贈っていました。
忠熈が好きだったかどうかはわかりませんが、島津家から近衛家に贈答していたのは史実です。
加工法としては蜜漬か乾実だったようです。画面で見た感じでは水分がありそうでしたから、蜜漬だった可能性が高いですね。
茘枝は中国か琉球産かといえばそうではなく、山川や佐多の薬園で栽培していたようです。

江戸下りの途中、今度は富士山に向かって叫んでましたね。
鹿児島を出るときには桜島にも(笑)。
お姫さまはふつう、あんなはしたないことはしないでしょう。
何というか、わかりやすいといえば、わかりやすいですが、説明的な処理のしかたで、あまり情緒が感じられませんね。スポ根ドラマのノリに近いのでは。この先、ずっとこうなのでしょうか?
仕草や表情、目線など、言葉を使わない演技もあると思うのですが、このドラマの脚本は全体的に説明調で、何でもセリフにしないと気がすまないようですね。

篤姫が入った薩摩藩邸はとくにどの屋敷かテロップも出ませんでしたが、芝藩邸です。ここが一応、当時の上屋敷ですから、藩主夫妻が住んでいます。とくに正室英姫はずっとこの藩邸で過ごしています。隠居の斉興は高輪の屋敷にいたと思います。

それにしても、斉彬の正室英姫。
いわくありげな登場でしたね。
英姫の読みを「ひさひめ」としていましたが、芳即正『島津斉彬』(人物叢書)では「ふさひめ」としています。私も「ふさひめ」だと記憶しておりましたが、さて、どちらなんでしょう?
それと、細かいことですが、英姫は恒姫(つねひめ)と改名しています。その時期はわかりませんが、このとき、すでにそうだったのではないでしょうかね?

英姫は斉彬より4歳年上とのこと。ドラマ進行時点の嘉永6年(1853)では、49歳ですね。
余貴美子さんの実年齢に近いのでは。

英姫は御三卿の一橋家から嫁いできた姫君です。父斉敦は将軍家斉の弟ですから、英姫はその姪にあたります。この縁組は斉彬の曾祖父の重豪と、将軍家斉の実父の一橋治済(はるさだ)の間で取り決められたもの。重豪の一女茂姫が将軍家斉の御台所になっていますから、その延長線上で、島津家と徳川宗家・一橋家の関係強化が図られたのでしょう。
将軍家斉以来、将軍家は一橋系が続いています。ですから、英姫の気位が高いというのは何となくわかります。
ただ、あそこまで斉彬を虚仮にできたのかどうかははなはだ疑問ですが。

英姫の異様な装束ですが、一説によれば、若い頃、疱瘡にかかったため、人前に出るのを憚り、対面も御簾を通して行ったとか。

幾島がしみじみともらしていた郁姫(近衛忠煕夫人)。
島津斉興の養女という形で忠煕に嫁ぎましたが、実際は斉興の父斉宣の娘です。斉宣がその父重豪の逆鱗に触れて強制的に隠居されられたため、斉興の養女ということになったのでしょう。
生没年は文化4年(1807)〜嘉永3年(1850)で享年44。
ドラマ進行時点の3年前に亡くなっていることになりますね。
郁姫は聖護院近くの近衛家別邸に住んでいたようです。
この別邸は現存しており、現在、愛知県西尾市の西尾市歴史公園に移築・保存されています。
幾島もここに住んでいたことになりますね。

全体を通じて、いわゆる大奥ものの定番にだいぶ近くなってきました。
定番とは、いじめ、嫉妬などが渦巻く世界をいかにも興味本位に描くことですが、これまでの質実な薩摩編からトーンが次第に変わっていく感じですね。

最後の篤姫紀行、やはり東福寺塔頭の即宗院が登場していました。
ただ、山門と庭だけのほんの数秒しかなかったのが残念です。
有名人の墓所や西郷の揮毫した戊辰戦争戦死者の石碑などもあるんですけどね。

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