歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

京王ニュースのサイト版で表題のツアーを募集しております。
詳しくはここにあります。サイトのずっと下の方にあります。

不肖、私がガイド役です。
今回の目玉は増上寺の和宮・将軍家茂の墓所を拝観することでしょうか。
ほかにも青山墓地などに行きます。

興味のある方は下記の要領に従ってご応募下さい。
いつも応募多数だそうで、抽選に外れた場合はお許し下さい。
秋には、篤姫関係で寛永寺墓所などに行く予定です。

--------------------------------
テーマ:幕末の江戸を探る
―天璋院篤姫―

同行講師 桐野 作人氏
(歴史作家)

開催日 6月8日(日)
コース 新宿=薩摩藩渋谷藩邸跡=江戸城(本丸・二の丸・大奥)=芝増上寺(将軍家茂・和宮廟所・和宮茶室外観)…昼食=薩摩藩芝藩邸跡・西郷・勝会見の地=薩摩藩輪藩邸跡=御殿山・御殿山下台場=青山霊園(大久保利通・伊知地正治・有村兄弟・野津兄弟・川路利良・三島通庸・黒田清隆ほか)=大圓寺(島津家ゆかりの寺)=新宿(17:30頃解散)
集合場所 新宿駅西口(8:45時間厳守)
募集人員 40名様(応募者多数の場合は抽選)
参加費 お一人様 9,300円(食事付)
申込締切 5/16(必着)
申込方法 往復ハガキに申込者全員(1枚につき2名様まで)の住所、氏名(フリガナ)、年齢、電話番号を明記のうえ、〒206-8502多摩市関戸1-9-1京王電鉄文化探訪事務局「幕末の江戸を探る」係までお送りください。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2008/04/30 10:20】 | イベント
トラックバック(0) |
先週24日(木)、名古屋・栄の中日文化センターで、表題の講座に出講。

受講生が60人と予想外に多く、教室も大きいところに変更された。
うれしい悲鳴だが、受講生のみなさんのお顔を覚えきれないうちに、講座が終了するのではないかとやや不安。

今回は、関ヶ原合戦の前提となる太閤秀吉の死の前後を見ていくことにした。
五大老・五奉行制と豊臣政権」というタイトルである。

尊経閣文庫所蔵の関白秀次宛て秀吉朱印状から、秀吉の中華皇帝への真面目な誇大妄想をまず紹介する。秀吉が天皇を北京に移し、自分は日本・朝鮮・明国の三国に君臨しようと本気で考えていたことを確認してもらった。

次に『浅野家文書』所収の秀吉遺言覚書で、いわゆる五大老のなかでも、家康と利家が抜きん出た地位にあり、大老といってもその地位は決して同格ではないと秀吉が認識していたことを理解してもらう。またいわゆる五奉行が、家康・利家ら五大老を監視する役割をもっていたことも確認。

その後、「大老」「奉行」呼称がその政治的立場の違いによって異なることを、堀越祐一氏の研究に依拠しながら紹介した。
受講生の皆さんは、やはり家康が三成らから「奉行」と呼ばれている史料を見て驚いた様子。終了後の質問もこのあたりが多かった。
また三成たちが「年寄衆」と自己規定していることが、家康に優越したい気持ちの表れであったことも説明する。

ただ、論旨をよく展開できなかったというか、別の話題をしたためにうっかりしてしまったのが、豊臣政権と豊臣家という、いわば公私を分けて考えることができるのかどうかという点。
「年寄」は豊臣家の家老という意味あいがあると述べたが、豊臣政権においてどうなのかという点を説明し忘れた。やはり、両者は分離できず一体のもので、三成たちは豊臣政権の「家老」でもあったのではないかと思う。

「奉行」は史料用語であり、学術用語でもあるが、「大老」は史料用語ではなく、学術用語でしかないこと。その意味で、「五大老・五奉行制」も用語の問題も含めて、さらに検討する必要があるだろうというあたりを、とりあえずの結論とした。

レジュメに収録した史料の分量の多寡を受講生に尋ねてみたところ、もっと多くてもよいという意見が多かったように思う。
初めてだったこともあり、古文書塾「てらこや」とくらべると、控え目にしたが、次回は少し多くしようかと思う。

講座終了後、年配の受講生の方から、現地見学会をしてほしいという要望あり。
私も一度やったほうがいいかもと漠然と考えていたが、さっそくの申し出に我が意を得たりだった。
聞くところによると、課外講座は受講生以外の方でも参加できるとのこと。
もし受講生以外で参加されたい方も歓迎です。

なお、レジュメの冒頭に全講座の予定を載せておいたが、うっかり最初の草案段階のものだった。その後、変更があったので、以下のテーマでやります。粗忽でした。

第1回:五大老・五奉行制と豊臣政権
第2回:「直江状」の真偽は?
第3回:小山評定と情報伝達
第4回:石田三成の苦悩
第5回:秀忠軍の遅参とその影響
第6回:島津の退き口の真相


よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/29 10:44】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |

直江状の真偽について
こぐれ。
お世話になっております

第2回の直江状前後の動向については
是非とも伺いたく存じます。

私は中日新聞の記事に目がとまったため申し込んだのですが
今回の講座は歴史小説といわれる小説のどこまでが真実で
どこからが虚構なのかを知ることのできる
良い機会だと思いました。

現地の見学なども機会があれば参加したいものです。


秀吉遺言覚書
とざき
突然おじゃまします。戸崎と申します。
浅野家文書にある「秀吉遺言覚書」は、色々な本で引用されていたのを読みましたが、この「覚書」が豊臣政権の公文書であるのか、浅野家中の備忘録であるのかが引用文ではわかりませんでした。
かりに、秀吉が家康・利家・秀家に遺託した内容をそのまま書き留めておいただけの「公文書化する前のメモ」であったとするなら、この三人と秀忠・利長に期待するという言葉が大半を占めるのは当たり前で、その場に居合わせなかったであろう景勝・輝元への言及が少なくなるのもまた当然だろうと思ってしまったのですが。
お考え、お聞かせいただければ幸いです。

直江状
桐野作人
こぐれ。さん、こんにちは。

それでは次回をお楽しみに。
現地見学会も実現できればよいですね。ぜひ主催者側に要望を上げて下さいませ。

秀吉遺言覚書
桐野作人
とざきさん、初めまして。

ご意見有難うございます。
なるほど、そういう考え方もあるのかと思った次第です。

ただ、例の秀吉遺言覚書のなかで、第九条
「何たる儀も、内府・大納言殿へ御意を得、其の次第相究め候へと、御意成され候事」
が重要だろうと思います。
これは、輝元・景勝が在席していても同様だったのではないでしょうか。
つまりは、あらゆることは家康と利家の御意のとおりに従えということですから、2人が格別の地位にある証左ではないでしょうか。

それと、これが肝心なことですが、秀吉の死の前後、輝元は上方におりますから、秀吉の病床にも付き添っていた可能性が高いですね。
なお、景勝は会津にいましたが、秀吉重篤と知って上京しました。しかし、着京は10月になってからのようで、秀吉の死から2カ月後です。

在伏見の輝元と不在の景勝が同列に扱われていることから、在不在は大きな問題ではないように思われますが、いかがでしょうか。




秀吉遺言覚書
とざき
早速のご教示、ありがとうございます!
どうやら私は、毛利輝元も在国していたものと何故か錯覚していたようで、汗顔の至りです。

コメントを閉じる▲
NHK大河ドラマ「篤姫」第17回「予期せぬ縁組」

昨夜は冒頭の10分間ほどを見逃しました。観た部分だけを書きます。

ドラマ進行時点は安政2年(1855)夏から秋にかけてです。

今回のタイトルは、肝付尚五郎の縁組、小松家への継目養子のことですが、尚五郎の養子入りについては、史料不足で不明な点があります。

ドラマは、尚五郎の江戸行きから養子縁組まで、ほぼ「小松帯刀伝」(鹿児島県史料集21)に従っていたように思います。それには、以下のように記されています。

安政2年5月江戸詰を命ぜられ、18日出発、6月28日江戸着。
同9月3日江戸発、10月8日着。
安政3年正月27日、小松相馬清猷の後嗣となり、詰衆を命ぜられ、小松尚五郎と称す。


尚五郎の江戸行きはけっこう難渋しています。
同書によれば、小倉から船で大坂に着き、途中、鞠子宿(現・静岡市)で大風雨にあい、そのため、増水した安倍川で3日間足留めを喰っています。

これによれば、尚五郎の江戸詰はわずか2カ月強ですね。
なお、尚五郎養子の一件について、島津斉彬の側近、竪山武兵衛の公用日記には、ドラマとは少し違った事情が書かれているので紹介しておきます。

小松清猷が琉球で他界したのは同年6月17日のようです。
江戸の斉彬はその死を7月15日に届いた鹿児島からの便で知らされました。
清猷は軍役奉行として琉球に赴任していましたが、10日後の25日、斉彬は清猷の後任を諏訪数馬(武衛、一所持159石)にしています。正式の役名は「御軍役総頭取兼太鼓役」です。

それから、後嗣のいない小松家をどうするかということになります。
ドラマでは斉彬が尚五郎に養子に行くように命じ、尚五郎は突然のことで驚きます。

ただ、気になるのは、ドラマでは尚五郎を一人息子のように描いており、じつは三男だということをあまり明示していませんね。まあ、肝付家の兄弟まで登場させると、煩雑になるからでしょうが。
逡巡する尚五郎に斉彬が「小松家は桓武天皇以来の名家だぞ」という形で説得しておりましたが、やや筋違いですね。
三男で生家を継げる見込がほとんどない尚五郎にとっては、じつに有難い養子先なのです。ですから、本来は「三男のおぬしには、よい縁組のはずだ」といったほうがベターでしょう。
なお、小松家の出自が桓武天皇以来の桓武平氏だという通説にも疑義がありますが、ここでは触れません。

で、果たして最初から斉彬の意向で尚五郎の小松家相続が決まったのかどうかですが、上記竪山の公用日記には、次のようにあります。

「肝付尚五郎、小松相馬継目養子に内約これある候由」

つまり、「内約」とは小松家と肝付家の間で内々に尚五郎を養子にする約束が成立していた意味だろうと思います。
その内約が小松家→鹿児島の藩当局→江戸の斉彬という順に伝えられて、最終的に斉彬が裁可したという流れだったのではないでしょうか。
両家が清猷死後、すぐさま「内約」を結んだところを見ると、日頃から交流があって親しい間柄だったことがうかがえます。
ただし、過去に両家で何らかの縁組が結ばれたことはないようです。だとすると、鹿児島城下の両家の屋敷がすぐ近くにあり、隣近所の間柄だったことによるものでしょうか。

尚五郎の小松家相続が決まり、奧小姓を免ぜられて帰国になるわけですが、その時期もドラマ通りだったかどうかはよくわかりません。「小松帯刀伝」にはそのように書いてありますが、竪山の公用日記8月19日条には別の趣旨が書かれています。

「御供にて罷り下り候節,御暇下さるとも、また此の涯中御暇にて下さるとも、いずれにても御都合宜しきよう申し上ぐべくくれるよう豊後殿(家老島津豊後)より承り候に付、此の涯御暇下さり候方宜しくあらされまじくかの旨、今朝御出掛けの処にて申し上げ候処、伺い通りに仰せ付けられ候」

つまり、尚五郎の帰国を、斉彬が次の参勤交代で鹿児島に帰るときに御供させるか、それともこの際すぐ帰国させるか、どちらでも都合のよいほうを言上してほしいと家老の島津豊後から承ったので、竪山の私見として、すぐ帰国させるのは都合がよくないのでは(次の参勤交代での帰国に供させたほうがよい)と、斉彬にお伺いを立てたところ、斉彬は伺い通りにせよと仰せになった、という大意です。

もしこのとおりなら、斉彬の意向は、次の参勤交代で、尚五郎を帰国させることにあったはずです。あるいは、その後、10日間ほどで斉彬の気が変わったのでしょうか。
果たして、どちらが正しいのか、ほかに判断材料がないのでよくわかりません。

今回はこの問題だけに絞ってみました。
次回、お近が尚五郎より7歳年上であることを理由のひとつにして、縁組を断る話が出てきます。7歳の姉さん女房説は時代考証の原口泉氏の持説のようですが、どんな史料に基づいているのか、よくわかりません。

「篤姫紀行」、江戸の薩摩藩邸を取り上げていました。
私が前回予想したとおり、篤姫が輿入れした渋谷屋敷ゆかりの常盤松の碑が出ていましたね(笑)。
ただ、薩摩藩邸は5カ所あったとナレーションしていました。「主な~」と限定詞が付いていたでしょうか。
私が調べたところによれば、少なくとも7カ所あります。詳しくはここをご参照下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/28 10:28】 | 篤姫
トラックバック(1) |
先日、定員を満たしたと報告した小松帯刀講演会(来月27日、於:鹿児島市宝山ホール)。

じつはその後も応募が多数あって途切れないため、急遽、午後の部、夜の部と2回に分けて講演会を開くことになりました。恐るべきは大河効果です。

そのため、募集を再開しているそうです。まだの方、あるいは一度定員いっぱいのため断られてしまった方は再度申し込んでいただければ、楽にご覧になれると思います。
これまで申し込んだ方でも午後の部に変更してもかまわないそうです。再告知がお手許に届くと思います。どちらといえば、午後の部のほうが空いていると思います。

午後の部は午後3時から、夜の部は当初予定どおり午後6時開場の予定だそうです。詳しくは正式のお知らせを追ってご紹介します。

宝山ホールのサイトに告知がありますが、以前のままでまだ2回分催の更新はなされていませんので、ご注意下さい。申し込み方法などの確認のためにご利用下さい。

というわけで、私も同日に間を置かず、同じ講演を2回するという初めての経験をすることになりました。
新たな不安が生じておりますが、それでも精いっぱい勤めたいと思います。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2008/04/27 07:57】 | イベント
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第55回
―苛烈な処分と名誉回復―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は表題のとおりで、寺田屋事件の後日談を書きました。
この事件は幕末薩摩藩にとってはあまり語りたくないものかもしれません。
しかし、たとえ暗部であろうと、歴史的事実であるかぎり、直視する必要があると思います。

近年、この事件を単なる藩内の内肛と見るだけでなく、大きな政治的背景をもった事件であり、薩摩藩内の路線闘争だったという指摘もあります。とりわけ、有馬新七らが藩外、とくに長州の尊攘派と結合し、藩の枠を超えた大きな政治運動にしようとしていたことも明らかになっております。それに対して、久光がライバルである長州藩に主導権を奪われる危機感から、断固たる処置に出たのだともいわれております。

今回はそうした政治的背景よりも、事件後のことに焦点を当てました。
次回は、寺田屋事件に関わった藩外人の知られざる悲劇を書きたいと思っております。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/26 12:06】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
小学館古文書塾「てらこや」特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」2

少し時間が空いてしまったが、22日(火)夜、上記に出講。
今シリーズ2回目。

前回のレジュメが半分程度しか消化できなかったので、続きをやる。
結果として、今回もまたすべて消化しきれず、肝心の池田屋事件の具体的な話に入れずじまい。

その代わり、池田屋事件についての長州の木戸準一郎、薩摩の西郷吉之助の意見を比較検討した。
久坂玄瑞に宛てた木戸書簡は、池田屋事件の敗北の一因として、情報漏洩、機密保持の不十分性を挙げていたのが印象的だった。古高俊太郎が血盟書を幕府方に奪われたため、署名した人物が片っ端からローラー作戦で検挙されたとも書いている。
何かと勇ましい長州系尊攘派の面々に対して、木戸の慎重な態度が際立つ。尊攘派の最前線にありながら、明治まで生き延びた秘訣のようなものを見た思いがした。

木戸書簡のなかにある「」が誰を指すか質問があった。
私は、池田屋事件の弾圧に関わった勢力、いわば、のちの一会桑勢力ではないかと答えた。
木戸や長州藩にとって、彼らは君側の奸に見えたということだろう。

一方、西郷は情報収集の名手という印象を受けた。
大久保一蔵宛ての西郷書簡を検討した。
西郷は、園田五助・中村半次郎・松田東園という3人のスパイを長州側に潜入させており、長州側の様子を正確に把握していることがわかった。
3人のなかでは、園田五助は盗みまでやる問題人物で、西郷は二重スパイではないかと疑っている。松田東園は能力が不十分で、西郷を非難させ、尊攘的言論を述べさせて、長州側を信頼させておいてから、情報収集させる手筈だったようだが、「埒明き申さず」と西郷が述べたように、結果を出せなかったようだ。

それに引き替え、西郷を満足させたのが中村半次郎、のちの桐野利秋である。
中村は長州の京都藩邸に出入りして、長州側の内情を詳しく西郷に報告している。これにより、長州側は西郷には丸裸になったも同然だったようである。
中村はさらに長州の国許まで潜入することを希望し、西郷は小松帯刀に相談したうえ、これを許可している。
小松が「本道の暴客に相成るかは知れず候」と、中村が真正の尊攘派になってしまうかもしれないと懸念しながら、それはそれで致し方ない、帰ってきてくれたらもうけものだと述べているくだりなど、じつに秀逸でさえある。
本講座には中村半次郎贔屓の受講生も多く、今回はきっと満足してもらえたのではあるまいか。

また、この西郷書簡には「近比(ちかごろ)長州にては頻りに討幕の説相起り候由」という一節がある。
史料上にあらわれる「討幕」用語としては、かなり早い時期に属すると思う。
西郷がこう書いているからには、長州勢力の間で実際に「討幕」という言葉がよく使われていたことの証左ではないだろうか。時期は元治元年6月14日である。

受講者からこの「討幕」が何を意味するのかと質問され、さらに上記木戸書簡にある「」と対応するのか否かという質問を重ねられた。
ことほどさように当講座の受講生の方はレベルが高く、鋭い。

おそらくこの「討幕」は幕府の完全打倒という意味あいではなく、京都政局を八・一八政変以前に戻し、長州の主導権を回復すること。その阻害物である一会桑勢力を打破するという趣旨ではないかと答えたが、むろん自信がない。

次回は池田屋事件そのものをやれるだろうか。
本当は、そろそろ禁門の変に入ったほうがいいと思うが……。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/25 12:12】 | てらこや
トラックバック(0) |

因縁
ばんない
こんにちは。

3人のスパイのうち、中村半次郎(後の桐野利秋)が一番優秀であると言うところを興味深く拝読させていただきました。以前「さつま人国誌」でもネタにされていたと思いますが、半次郎、この方のご先祖と同じような仕事をしていたんですね。所詮、血は…と書くのは半次郎に対して気の毒なのではばかられますが。

桐野の先祖
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

桐野の先祖は平田増宗暗殺の片棒を担がされますが、もともと入来の郷士です。無理やり案内役をさせられただけで、自覚的に関与したわけではないだろうなと、多少同情しております。

コメントを閉じる▲
NHK大河ドラマ「篤姫」第16回「波乱の花見」

ドラマ進行時点は安政2年(1855)。

物語としては、なかなか面白い筋立てになっていました。

一橋慶喜がほんの少しだけですが、登場しましたね。
演じるのは、調所広郷役だった平幹二郎の息子のようで。目つきや顔形が親父さんにそっくりです。母親の佐久間良子にはあまり似ていなかったような。
そういえば、20年近く前の大河ドラマ「翔ぶが如く」でも、慶喜の初登場は弓矢を射るシーンでした。
そのときの慶喜を演じたのは三田村邦彦でしたね。

今回は何といっても、篤姫と水戸斉昭の対面が見せ場でした。
斉昭が薩摩藩邸を訪問したのは事実です。前回書いたように、先日、斉彬側近の竪山利武の公用日記に書かれているのを見つけたのですが、メモをとっていなかったため、いつのことだったか探し出せずにおります(汗)。
念のため、安政2年の桜の頃、旧暦3~4月を見てみましたが、ありませんでした。

ただ、ひとつ不審だったのは、斉彬がこの花見の宴席をもうける理由を、自分の病気全快を祝うためだとしていた点です。
前回も書きましたが、斉彬は前年(安政元年)7月末に発病して9月には全快しております。
そうであれば、翌年3月頃の花見に全快祝いというのは時間が空きすぎています。まあ、これまでの筋立てからそうするしかなかったのでしょうが。

斉彬と西郷のやりとりについて。
西郷が斉彬に諫言しておりました。じつはこれ、有名な話です。
「西郷隆盛カ諫言ニ対シ斉彬公ノ御弁解」(『斉彬公史料』二所収)という史料があります。一部引用します(読み下し、片仮名を平仮名に直しています)。

「御前(斉彬)にはオランダ好き[洋癖]の御癖あらせらると、皆人評判仕り、特に他藩水戸人なども評し奉る、私にも其の通りと存じ奉る旨言上せしに、 御晒し遊ばされ、手前にも左様に思ふか、水戸人などが評判するは苦しからず、遠からず思ひ当る世となるべし」

といってから、斉彬は滔々と持論を西郷に語ってきかせます。病人と薬の比喩こそありませんが、のちに西郷が「水の流るるが如く御論弁あらせられたり」と述懐しているほどですから、西郷は圧倒されてしまったのでしょうね。
斉彬が西郷の口ごもりに「蘭癖か」と問い質しましたが、上記史料には「洋癖」とあります。まあ、似たような言葉ですが。

ちなみに、このシーンは「翔ぶが如く」でもありました。そちらは男が主役だったせいか、もっと時間をとって、斉彬役の加山雄三が西郷役の西田敏行をこんこんと諭したので、最後は感動した西郷が泣き出してしまいました。

また斉彬が西郷に篤姫入輿の婚礼道具の購入を命じておりましたが、これはどうでしょうか。
たとえば、「竪山利武公用控」安政元年9月2日条に、

「金六百両 右篤姫様御一条に付、色々御道具御取入代として、山田壮右衛門へ相渡す」


とあります。これは「御道具御取入代」とありますから、明らかに篤姫の婚礼道具の購入費用をさします。また、それから4日後の9月6日にも、さらに600両が山田壮右衛門に渡されています。都合1200両ですね。
山田壮右衛門はおそらく小納戸役ですから、いかにもこの役目にふさわしい人物です。
庭方の西郷がそうした表向きの要件をつとめるのは不自然ですね。

花見のあと、将軍家定がようやく御台所の件を了承し、阿部正弘と松平慶永が安堵しておりました。
それと関連するかもしれませんが、「竪山利武公用控」安政2年7月2日条に次のようにあります。

「篤姫様御一条に付ては、来る八月・九月・十月中迄の内にはとふか御発もあらせらるべきやに、極内去る方様より御承知遊ばされ候由」

篤姫の入輿予定日が8~10月中旬頃にどうかという打診があったとのこと。
「去る方様」が誰だかわかりませんが、これまでの斉彬がもっている幕閣ルートの人脈からすれば、奥医師の多紀元堅ではないかと思います。
花見のあとにあった話ですから、ほぼ時系列どおりですね。

最後に、篤姫が小さい姫を膝に乗せて昔話か何かを話してあげていました。
これは義妹、すなわち斉彬の娘と見るべきでしょう。配役をちゃんと見ていなかったので何ともいえませんが、おそらく暐姫(てるひめ)でしょう。
嘉永4年(1851)生まれですから、数えの5歳。
何となくそんな感じでした。
なお、暐姫はのちに斉彬の跡を継いだ藩主茂久(忠義)夫人になります。

次回は安政大地震があるようですね。
「篤姫紀行」は次回か次々回に薩摩藩の渋谷屋敷が出てきそう。あるいは入輿のときかもしれませんが。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/21 00:11】 | 篤姫
トラックバック(1) |

資料
k2
桐野様
毎回大河の記事楽しみにしております。
その日に見て、記事にされるという事は、この場面にはこれと部屋にある資料は、キッチリ整理されてると推察します。
桐野文庫?は凄いものなのでしょうね。
これからも、楽しみに見比べます。

いえいえ
桐野作人
k2さん、こんにちは。

史料を整理しているなんてことありません。
たまたま別件の仕事が時代がだぶっているので、机まわりにその関連の史料が置いてあるだけです。

桐野文庫すごいです。
汚くて、散乱していて……。

歴読最新号出たようです。

コメントを閉じる▲
先日、当ブログで案内したばかりの小松帯刀講演会
このところ、鹿児島の諸メディア(朝日新聞、南日本新聞、NHKラジオなど)で相次いで取り上げたもらったため、定員の1.500人に達した模様。
南日本新聞の告知記事はここです。

今後は申し込みをお断りすることになりそうだという主催者側の話。
申し訳ないやら、有難い限りです。
一時期は、私の知名度不足でどうなるやらと、内心ハラハラしておりましたが、安堵しました。

小松帯刀に絞った大規模な講演会が開かれるのは、鹿児島でも初めてのことだと思います。それだけに責任重大。当日は何とか大役を果たしたいと、気を引き締めているところです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/20 16:52】 | イベント
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第54回
―篤姫 斉彬供養塔を建立―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は東京杉並の大円寺を取り上げました。
以前、当ブログでも訪問記を書いたことがあります。このエントリーです。

篤姫が養父斉彬の一周忌に建立させた供養塔のことです。
前回出かけたとき、見つけられませんでしたが、今回、別件でご住職にお会いできて尋ねたら、やはり島津家が整理してしまったとのこと。
とても残念でした。もし残っていたら、篤姫ゆかりの史跡として注目を浴びたに違いありません。
この供養塔には、篤姫の斉彬への思いが込められていると思います。
わざわざ自筆の写経を納めたのもその証左です。

しかし、大奥にいる篤姫は外出もままならず、江戸城下にあったこの供養塔にも参拝できなかったはずです。
江戸では行動範囲が狭かったので、篤姫ゆかりの史跡は少ないですね。寛永寺の墓所を除けば、本来なら、この供養塔がもっとも篤姫を感じさせてくれるものだったのではないでしょうか。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/19 14:07】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
南日本新聞が拙講演会の案内記事を掲載してくれた。ここです。
同社は講演会の後援もしてくれている。有難い限り。

演題:薩摩の知られざる逸材・小松帯刀-大河ドラマ『篤姫』に寄せて
日時:5月27日(火)午後6:00開場、6:30開演
場所:鹿児島市宝山ホール
入場料:無料


参加申し込み要領は上記記事にあります。
また、宝山ホールサイトにもあります。

鹿児島方面で関心のある方、ご検討下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/18 21:46】 | イベント
トラックバック(0) |
日次記です。

4月15日(火)乙酉、天晴
注文していた新刊や古書が何点か届く。
そのうち紹介したい。

懸案になっていた某雑誌企画。ようやく図版セレクト完了。
でも、これから原稿執筆という肝心の仕事が残っている。相当な枚数なので青息吐息。

歴史読本の連載原稿、今月に2回分を仕上げておかないと、自分の首が絞まってしまうかも(冷汗)。
その前に片づけておかねばならない新書の原稿がある。とにかく急げ、急げ。

大河ドラマ「篤姫」の時代考証を担当している原口泉氏(鹿児島大学教授)より新刊を恵贈される。多謝。しかし、個人的にはショックである。先を越された。


4月16日(水)丙戌、天晴
珍しく、南日本新聞連載の原稿をサクサクと書けた。
今回も篤姫がらみ。ほとんど知られていない話だと思う。乞う御期待。
日向細島で起きた惨劇、寺田屋事件のその後について書かなければと思っている。
ようやく次週は書けそうか。

夕方、学生時代の友人から電話あり。
学生時代の別の友人の訃報だった。
同い年である。
学生時代からバイタリティあふれる奴で、身体も頑健そうだったのに……。
ガンだったそうだ。
明後日の告別式に出席予定。
美濃の郡上八幡である。

私がフリーの編集者をやっていた頃、親身になって教えてくれた先輩の女性編集者がいた。
しかし、彼女も40代半ばで他界。女性特有のガンだった。
そういえば、彼女も郡上八幡出身だったことを思い出した。

郡上八幡は小京都ともいえる小さな城下町。
未知の地で魅力的だが、いささか行くのに気が重い。

明日から一両日留守にします。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/17 00:25】 | 日次記
トラックバック(0) |
日次記です。

4月13日(日)癸未、雨時々曇り
あいにくの雨模様だったが、6月に挙行する篤姫がらみの史跡探訪の下見に主催者と一緒に出かける。
ツアー挙行曜日に合わせて、出発時間、場所もツアー予定通りに出発する。コースの交通事情を調べ、史跡ごとの所要時間を確認するタイムキーピングが重要な仕事のようである。
私も多少場所に自信がないところがあったので、同行した。

主催者の今年のイベントで私が関わるのは、講演会のほか、史跡探訪も江戸2回(日帰り)、京都1回(2泊3日)、鹿児島1回(3泊4日)と、都合4回もある。
じつは、鹿児島ツアーは応募が殺到して、もう1回余分に開催しようとしたけれど、ホテルが確保できずに断念したとのこと。

薩摩藩邸は、渋谷・芝・田町・高輪の4カ所。あと、綱坂、港区郷土資料館なども回った。
ほかにも江戸城本丸、増上寺なども回った。増上寺では、将軍家茂・和宮夫妻の墓所も拝観予定。
最後に、篤姫が養父斉彬の供養塔を建てたという大円寺にもお邪魔する。調所さん(笑左衛門子孫)にお願いして、ご住職にもお会いできた。有難い。
伊皿子(港区芝)から永福町に移転したいきさつなどをうかがう。また境内の墓所も詳しく案内していただいた。ツアーのシメにできたらと思う。

幕末江戸2回目は、10月に上野、谷中、千住方面を回ります。寛永寺にある篤姫の墓所も参拝予定。
関東方面で関心のある方、よろしかったら、ご参加下さい。


4月14日(月)甲申、曇り
某雑誌の特集企画のため、図版の整理。なかなかはかどらない。

夕方、リンク先の橋場殿下夫妻が上京したので、オフ会。
リンク先の豊泉堂雑記さんや雑記@史華堂さんもお見え。10年来の懐かしい友人たちばかりである。
5時間も居つづけても、話が尽きることがなかった。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/15 10:15】 | 日次記
トラックバック(0) |
NHK大河ドラマ「篤姫」第15回「姫、出陣」

ドラマ進行時点:嘉永7年(安政元年、1854)

予想していたとおり、篤姫は高輪屋敷の隠居斉興とお由羅の方のところに乗り込みましたね。芝の上屋敷の噂と断りながら、「呪詛したのではないか」とお由羅にストレートに質していました。
まったくもって、ありえない話ですな(笑)。
だいたい、お姫さま、それも将軍御台所を約束されているお姫さまがそんなことを不躾に口走るなんて、はしたないの一言で、斉興の逆鱗に触れ、篤姫は蟄居か養女縁組解消、幾島も教育不行届でお手討ちになってもおかしくないくらいの事態だと思います。
いくら、篤姫の見せ場をつくろうといっても、あまり無理をしないほうがいいですね。現代人には受けるかもしれないですが、当時の身分秩序や人間関係などを逸脱しすぎています。

ドラマの最初にあった調所広郷邸への乗り込みから始まって、因縁ある有名人物と篤姫とを無理やり関わらせるやり方は脚本・制作側に一貫しているようです。次回は水戸斉昭でしょう。
個人的には、「大河主役御節介症候群」と呼んでますけどね。もっとも、今回に限ったことではないですから、大河ドラマの伝統的手法のひとつかもしれません。

それはさておき、
西郷吉之助(当時は善兵衛と名乗る)が斉彬の庭方に引き立てられ、世子虎寿丸を肩車したりしておりましたが、その虎寿丸も夭逝。その心労がたたってか、斉彬まで寝込んでしまいました。

ただ、斉彬父子の病気と早世の因果関係は必ずしもドラマの通りではないかもしれません。
西郷が国許の友人福島矢三太に宛てた書簡(8月2日付)によれば、斉彬が俄に発病したのは7月晦日のこと。

先々月晦日より太守様(斉彬)俄に御病気、一と通りならざる御煩い、大小用さえ御床の内にて御寝も成らせられず、先年の御煩いの様に相成る模様

大小用も床の中でしなければならないほどの重病とのこと。これも初めての病気ではなく、以前も同様の病気にかかったようですね。
病名が気になるところですが、薩摩藩が幕府に届け出たところによれば、「疝癪」(せんしゃく)とのこと(「竪山利武公用控」)。
辞書によれば、疝癪は「胸・腹・腰などが急にさしこんで痛む病気。さしこみ」とあります。ただ、これは幕府に届け出た表向きの病名なので、実際にそうだったのかどうかは不明です。
なお、斉彬の病気が全快したのは同年9月ですから、2カ月以上寝込んでいたようですね。

一方、世子虎寿丸は閏7月23日の午後零時頃に吐瀉し、昼に12度、夜に25度も吐き、翌24日深夜2時ごろ他界したようです。

虎寿丸は幼児ということもあり、急病を発してほどなく他界したと思われますから、斉彬発病後のことになると思われます。したがって、斉彬は虎寿丸の他界による心労で倒れたのではないかもしれません。

最後の「篤姫紀行」で、西郷ゆかりの地として、目黒不動尊が出ておりました。
これも、上記の福島宛て西郷書簡に出てきますので、紹介しておきます。

太守様にも至極に御気張り遊ばされ候御様子と伺われ申し候、又此の上御煩い重ね候ては誠に暗の世の中に罷り成り候儀と只身の置処を知らず候、只今致方御座なく目黒の不動へ参詣致し、命に替えて祈願をこらし、昼夜祈り入る事に御座候、熟(つらつら)思慮仕り候処、いずれなり奸女をたおし候外望みなき時と伺い居り申し候。

引用中に、目黒不動尊に参詣して祈願したこと、「奸女」(お由羅の方)を打倒するとあります。西郷のお由羅憎しの感情が伝わってきますね。
ドラマではその割に、悪女に描かれていませんでした。あるいはこれからまた別の展開があるのでしょうか?

水戸斉昭の言動も少し不審です。
島津家への警戒心をあらわにしておりましたが、外様と親藩の違いを超えて、両家、両者はむしろ親密な間柄にあります。とくに斉彬と斉昭はペリー来寇以来の非常時において、幕政から排除されている親藩と外様が幕政関与を要求するという点では利害を共有する立場にあります。

また老中阿部が冷静に指摘していたように、息子の慶喜を一橋家の家督とし、姉は関白鷹司政通夫人ですから、島津家と同様、将軍家と摂関家の双方と結んでいます。

それに、斉彬は世子時代から斉昭と交流があり、その一環として、拙稿「さつま人国誌」でも書いたように、斉彬が斉昭に狆(ちん)を贈っている事実もあります。また、水戸藩でも反射炉建設をしようとしていましたが、これにも斉彬が援助しており、集成館の技術者として著名な竹下清右衛門を水戸へ2年間も出向させているほどです。

次回は、篤姫と斉昭の対面があるようです。
これはおそらく、斉昭が薩摩藩邸を訪問した事実と結びつけたものでしょう。

大久保一藏の父利世が配流先の沖永良部島から帰還して、一家は大喜びでしたね。
ただ、ドラマの展開で年が改まったかどうかよくわかりませんでした。改まっていなければ、帰還年次が違うのではないかと思います。
『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」によれば、帰還は翌安政2年3月14日ですね。
ドラマでは、斉彬の病気、虎寿丸の死去から、後半には年が改まっていたでしょうか? どうも記憶があいまいです。

余談ながら、斉彬が篤姫を「篤子」と呼んでいました。
「篤姫」は通称(仮名)であり、「篤子」は実名というとらえ方でしょう。
ただ、「篤子」という実名があったかどうか定かではありません。
これに関しては、疑問を呈している研究者もいます。ここです。
なかなか鋭い意見なので、ご参考までに。

要するに、篤姫の名乗りは

通称:篤姫(斉彬養女)→篤君(近衛忠熈養女)→篤姫君(将軍御台所)

実名:一子(かつこ)→敬子(すみこ、近衛家養女)

実名は一子と敬子だけで、その間に篤子とは名乗っていないのではないかというのが高尾さんの見解だと思います。今後の検討課題にしておきます。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング




【2008/04/13 23:44】 | 篤姫
トラックバック(2) |

管理人のみ閲覧できます
-



高尾
コメントありがとうございました。

コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第53回
―狆が好き、でも猫飼う―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は篤姫とペットというテーマです。
この逸話はだいぶ知られるようになったかもしれません。
三田村鳶魚「御殿女中」に収録された篤姫付のもと中臈、大岡ませ子の談話から採録しました。
篤姫のペット、サト姫のことが面白おかしく描かれています。

ただ、それだけでは面白くないので、篤姫が好きだったという狆(ちん)について、島津斉彬と水戸斉昭の間でのやりとりを付け加えました。
狆は江戸時代、上流階級や富裕な商人層の間で好まれた愛玩動物です。
昨今のペットブームと相通じるところがあるかもしれませんね。

その狆をどうやら薩摩でも飼育していたようです。
いわば、島津家は狆のブリーダーだったと思われます。

膝元にまとわりついて離れない黒狆に、攘夷のご本家、気難しそうな烈公水戸斉昭が「うい奴じゃ」とばかりに目を細めている光景は思わず吹き出しそうです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/12 20:26】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんにちは。

以前にも一度狆ネタがあったような記憶があるのですが、2回目になりますね。確かその時のネタは江戸にあった薩摩藩菩提寺の中に人間様の中にまじってお犬様のお墓があったとかどうとか、じゃなかったでしたっけ?
それにしても豚肉だけじゃなくて狆まで進上させていたとは、水戸家はなかなかわがままいってますね(苦笑)でも確かに狆はなかなか飼育の難しい犬種ではあるようです。伝聞情報ですが奇形が出やすいと言う話があります。おそらく、限定された層に飼われた犬なので、近親交配が多かったことが原因なのではないかと考えていますが…。一般的には遣唐使がつれてきた犬とされていますが、平安時代には貴族層に愛玩されていた記録がないなど、謎な犬ですね。

サト姫の話は大奥マニアならかなり知られている話だと思いますが、一つ疑問があるのは、先代が「ミチ姫」次が「サト姫」ということは、男子禁制の大奥では猫も女じゃないと駄目だったんでしょうか。

サト姫
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

2回目の話題というのは、私がそうだということでしょうか?
狆については、初めて書いたような気がしますが、ほかに書いていたかな? 記憶が定かではなりません。

斉彬は狆を斉昭に贈ったとき、豚肉も贈っていますね。斉昭も食したのでしょうね。

狆の伝来や犬種形成の過程はよくわかりません。
遣唐使が持ち帰ったのなら、中国か西域が原産でしょうか。
現在のシーズーと先祖が一緒なんでしょうかね?

狆のご先祖
ばんない
狆ネタ、この記事のコメントで出てきてました
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-205.html
あのあと、なにかの本(『大江戸の姫さま』(角川選書)だったか、失念)を呼んだときに、そこには「江戸時代の日本に置いて狆と犬とは別の物という概念だった」と言うような話が出ていた記憶があります。犬は食い物(涙)、狆はお金持ちが愛でる物、というところでしょうか。

狆の原産、西域説を出されてましたがさすが鋭いですね。
こちら
http://www.dogfan.jp/zukan/japanese/chin/index.html
に狆の起源についての今のところの通説が出ています。狆の親戚に当たるペキニーズは不肖私の実家でかつて飼っておりました。さすが中国の宮廷で飼われていた犬、全然犬らしくない性格で大変でしたが(爆)狆もそういう感じだったんでしょうかねぇ、人を人と思わず、どちらかというと猫に近い性格という…。

サト姫
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

狆ネタ、前も書いていたんですね。すっかり忘れておりました(笑)。

たしか、薩摩藩の芝屋敷があった近くの港郷土資料館の展示で観たものでした。偶然ですが、一昨日も同館に行きました。たまたま長州屋敷展をやっておりました。長州藩の江戸藩邸は薩摩のそれよりずっと数が多いですね。抱屋敷や町屋敷が圧倒的に多いですけど。

狆と親戚なのはペキニーズなんですね。知りませんでした。
うちは猫派なもので、お許し下さい。
ネットで見てみましたが、ペキニーズは狆そっくりですね。
見た感じ、デリケートで癇がつよそうです。家定みたい(爆)。

前回のばんないさんのコメントで、サト姫など猫に女性名を付けているのはなぜかという疑問があったのを失念しておりました。
私も他の事例を知らないので、ミチ姫、サト姫がよくある命名法なのか、特殊なものなのかよく知りません。

ひとつは、メス猫だったかもしれず、篤姫のペットですから、呼び捨てにはできなかったのかもしれません。

あるいは、将軍家定を憚ってといいますか、男性名を付けると嫉妬されるかもしれないとか(爆)。

そういえば、上記の港郷土資料館の図録「江戸動物図鑑」にペットの墓の拓本が載っております。
それによれば、薩摩藩の芝屋敷大奥で飼われていた狆は「染」という名前ですね。天保6年(1835)に亡くなっています。
同年の藩主は斉興ですから、「染」の飼い主はその関係者ではないでしょうか。斉彬の実母である斉興夫人はすでに他界していますから、お由羅の方が飼っていた可能性もありますね。

ほかにも高輪屋敷で飼われていたのは「白」という名前の狆です。

やはり、大奥の「~姫」は格別のようですね。


コメントを閉じる▲
各紙によれば、イラストレーターの毛利彰氏が亡くなったという。
東京新聞の訃報欄をあげておきます。

毛利さんといえば、一昔前の歴史群像シリーズ、通称「赤本」の表紙のイラストをずっと描いていた方である。おそらく100号分くらいは描かれたのではないか。
このシリーズは毛利さんのイラストによって歴史ムックとして定着し、また売り上げにも貢献したといっても過言ではない。

私も、毛利さんには拙著のイラストをよく描いてもらった。
たとえば、これ。モデルが誰だか、わかる人にはわかるだろう。
毛利さんはそんな遊び心もある人だった。

反太閤記


いつぞや、一献傾けたとき、私のある新書のシリーズの表紙を描くのを楽しみにしていると、洩らされた。
お世辞半分だったろうが、うれしかった。
でも、そのシリーズは完結していない……。

郷里にお帰りになったと聞いてはいたが、このことだけは心残りになってしまった。
お酒の好きだった毛利さんのご冥福を祈ります。合掌。


よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/12 10:50】 | 雑記
トラックバック(0) |
一昨10日、島佐近の名前が出てくる石田三成文書が発見されたというニュースがあった。

各紙のなかで文書がよく見えるのが読売新聞だった。ここです。

少し小さくて見にくいが、ちょっと読んでみた。


免相之■ハ、嶋左近・    ■は「弁」「事」か

山田上野・四岡帯刀・

両三人ニ申付候、右之三

人之儀、勿論誓詞之    

上、可為順路候而、任

其旨可相納候、三人

方へも右之趣申付候也、

 八月廿三日 三成(花押)



かわとさんのご教示をいただき、一部訂正しました。
有難うございます>かわとさん。

内容について。
たしかに「嶋左近」の名前が出てきますが、貢租収納の代官のように見えます。
もし左近が家老なら、このような代官を勤めるのかどうか、やや疑問なきにしもあらずですが。
あるいは、筒井家からの転仕からほどない時期で、まだそれほど家中での地位が高くなかった頃でしょうか?
宛所は誰なんでしょうね? 所蔵者の先祖なんでしょうか?
いずれにしても、興味深いです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/12 00:59】 | 戦国織豊
トラックバック(0) |


かわと
最初の一節は「免相之事」ですかねぇ?
「事」がかなり厳しいですが…。
ちなみに「免相(めんあい)」とは年貢の賦課率のことです。
あと後ろから二行目の「主」は「其」のようです。

免相
桐野作人
かわとさん、こんばんは。

さっそくのご教示有難うございます。

「免相」ですか。術語を知っていないと、すぐには思い付きませんね。「相」の字が木偏には見えなかったもので、誤読してしまいました。
その後ろに出てくる「相納」の「相」はほぼ同じくずし方で、ちゃんと読めているのに(汗)。

ちなみに、「免相」の賦課率は数字で表記するのでしょうか?
たとえば、30%の場合、「三十」とか「三分」と書くのでしょうか。




かわと
「免相」は太閤検地の頃から登場する用語のようですが、近世に一般化する言葉なので、私もあまり馴染みはありません(笑)。
たとえば35%だと、「三ツ五歩」と言ったりするようです。

検索をかけてみると、以下のような論考がありました。

青野春水「近世免相(免)成立史論─免相(免)の再検討─」(『日本歴史』551、1994年)

石田三成文書
板倉丈浩
こんにちは。
こちらの記事が比較的詳しいですね↓
http://ameblo.jp/my-you/entry-10086931444.html

宛所は伊香郡代官(と推定される)・今井清右衛門尉という武士のようです。
文書に出てくる3人は今井よりも地位が上と見られ、重臣クラスと見て良いと思われます。

山田上野は関ヶ原合戦時の佐和山城の守将の一人として軍記物に出て来る人物ですね。
四岡帯刀という名前は見たことありませんが、慶長2年4月20日付け伊香郡落川村百姓中あて三成書状に出てくる「日岡帯刀」と同一人物ではないかと思われます。
こちらの書状は、水田の麦の年貢率などを定めており、「右如此、日岡帯刀ニ申付候間、もし此外ひぶん(非分)なる儀これあらハ、此方ヘ可申上者也」とあります。
同様の文書は浅井郡上八木村あてにも出されており、ここでは日岡の代わりに島津氏との外交で活躍した「安宅三河(秀安)」の名前が見えます。

該当文書の内容ですが、「免相」=年貢率をめぐって農民から訴えがあり、重臣3人を誓詞をとった上で派遣したので指示に従いなさい、というものなのではないかと思料されます。

免相
桐野作人
かわとさん、さらに詳しいご教示有難うございました。
本文の翻刻もご指摘に従って、訂正しておきました。

ご紹介の論文も見てみたいと思います。

「免相」がわからないなんて、やっぱり不勉強ですな(汗)。

安宅秀安
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

いろいろご教示有難うございました。
「近江毎夕新聞」という地方紙は知りませんでした。
以前、滋賀新聞?とかいう地方紙があって取材を受けたことがあり、その後廃刊になったのは知っていたのですが、その再建紙、後続紙なんでしょうかね?

いずれにしろ、地元だけに他紙より詳しい内容ですね。

島佐近らの地位が代官の今井清右衛門尉より上位にあたるとのご指摘、なるほどなと思いました。
左近ら三人は三成の指示を忠実に遂行させる役割を担っているようですね。

また、安宅秀安まで登場したのには驚きました。安宅は島津氏に対する取次で、島津義久・義弘なども彼には従わざるをえないほどの実力者でしたからね。

その安宅と四岡とがほぼ同格ということなら、左近と安宅もほぼ同格という推定も出来そうですね。
もっとも、左近は他家への取次をやっているようには見えませんが。

こんにちは
びわこ
桐野さん、こんにちは。

三成の書状について書かれてたので、遅まきながら。

「免相之弁ハ」というふうに長浜城の太田氏は読まれてますね。

また、「四岡帯刀」なる家臣はいるのか?と太田氏に尋ねられたのですが、私も上記の板倉さんと同じく、慶長2年の麦掟から「日岡帯刀」じゃないかと思ったのですが、この麦掟自体、原文書未確認とありますので、「四岡」か「日岡」かわかりません。
ただ、今回の原文書から太田さんが「四岡」って読まれたんならそうなのかなぁ・・・なんて、思ったりしてます。

最近の彦根は、さこにゃんとか、いしだみつにゃんとか、なんか凄く、妙に盛り上がってます。

免相之弁
桐野作人
びわこさん、お久しぶりです。

「免相之弁」の「弁」は私も最初、そのように思って書いておりましたが、修整後に消してしまいました。
「弁」の意味がややとりにくいですね。
「年貢の賦課率について説明すること」といった意味でしょうか。

「四岡」はそのように読めますので、間違いないでしょう。
「日岡」と同一人物なのかどうかまではわかりませんが、下の名乗りが一緒なので、同一人物の可能性は高いでしょうね。

そうそう、びわこさんのサイトが見られなくなっていますが、URLを変えられたか、やめられたのでしょうか?


びわこ
「免相之弁」の弁の字ですが、桐野さんが最初に読まれてたように「事」のようです。

結構、この「事」の字は曲者のようで、弁と見間違えるようなくずし方があるのだそうです。

以上、長浜歴史博の太田さんより教えていただきました。
太田さんも「訂正せんとあかんなぁ・・・」って言っておられました。



「事」ですか
桐野作人
びわこさん、こんばんは。

太田さんも「事」だと仰せでしたか。
私は最初「弁」と読みましたが、かわとさんが「事」ではないかとアドバイスしてくれました。
くずし字辞典を見ると、「事」の変なくずし方がたしかにありますね。

太田さんにもよろしくお伝え下さいませ。
昨年、安土でお会いしました。

追伸
名古屋の講座で、さっそく現地見学会をしてくれという要望も出たので、主催者側にも相談するつもりです。史跡見学会は受講者でなくても参加できるそうです。
ただ、これから夏に向かいますので、山城跡の見学には不向きですねえ。どうしたものか。

コメントを閉じる▲
吉川弘文館の表題のシリーズ。
以前、いくつか買ったり、寄贈されたりしたが、最近、購入していなかったので、同社からまとめて購入した。

12 西国の合戦
14 一向一揆と石山合戦
16 文禄・慶長の役
17 関ヶ原合戦と大坂の陣
18 戊辰戦争


それと、歴史文化ライブラリーシリーズから

猪飼隆明『西南戦争』も合わせて購入。
サブタイトルに「戦争の大義と動員される民衆」とあり、これまでにない視点から描かれているかもしれないと注目している。

全部、合戦、戦争ものばかりである。

せっかくまとめ買いしながら、

宮島敬一『浅井氏三代』(人物叢書)

を注文するのを忘れていた。やんぬるかな。

同社のサイトを見ていたら、今月の新刊として次の著作を発見。

越前朝倉氏の研究 松原信之著(三秀舎・発行 吉川弘文館・発売) A5判/定価12600円

伊達政宗の研究 小林清治著 A5判/定価12600円


このうち、小林氏は最近亡くなられている。
だから、これは遺作になるのだろうか?
永年、伊達政宗に取り組んでこられた著者にふさわしいテーマの本であるのが、せめてもの供養かもしれない。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/11 09:41】 | 新刊
トラックバック(0) |
小学館古文書塾「てらこや」特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」2第1回

一昨8日(火)から講座が始まった。
前シリーズに引き続き、小松帯刀の大久保一藏宛ての書簡を読む。
今回のテーマは表題のとおりで、元治元年(1864)6月の池田屋事件勃発までの薩摩藩の態度や考え方を小松や西郷吉之助の書簡から読み解いていった。

両者に共通していたのは、幕府の売国的な専制政治への危機感である。
8・18政変で長州勢力を京都から駆逐してから、幕府は専制化を強め、さらに長州藩に追い討ちをかけようとしていた。
しかも、その方法が欧米列強の長州藩への報復を利用しようというもので、小松も「敵を頼み、吟方(味方)を征し候は余り情なき事」と、長州への同情を示す。

幕府は、敵の敵は味方という論理で、欧米列強の長州への報復的軍事行動を黙認するどころか、フランスあたりをけしかけている感じで、そればかりか、侵略される危険のある長州藩に対して諸藩が助力しないよう、徹底した長州孤立策を実現するために朝廷の勅許を得ようとしていた。このような幕府の手前勝手で売国的態度に、さすがに二条関白や朝彦親王は幕府を押し止めたことがわかる。

また、小松書簡と同時期の西郷書簡も面白い。
西郷は、幕府が長州本国を外国に侵略させ、京都では潜伏している長州や尊攘派浪士の徹底弾圧という両面作戦を展開していると読み当てる。
まさに、池田屋事件はそうした幕府の反長州的・売国的専制政治の一環として必然的に生じたものであり、決して偶発的な事件ではないことがわかる。

その一方で、西郷は長州藩を支援しようとする近隣諸藩が存在することも指摘している。その数は12藩に及んでいるという。ただ、藩をあげて支援するのは難しく、有志や脱藩という形での非公式な支援に留まるのではないかとも観測している。
そのなかでも、芸州藩の「六百騎」をはじめ、因州藩や筑前藩なども長州支援の動きを見せていると、西郷は見ている。

また長州藩の京都藩邸に詰める200人もいったん伏見まで退いて、帰国して本国の危機に備えるつもりだったらしいが、方針を変えて再び藩邸に戻り、あくまで在京して戦う決心を固めていると、国許の大久保一藏に知らせている。
西郷は、長州藩の内情に詳しく、独自の情報ルートを持っていたことが察せられる。

池田屋事件前後の緊迫した情勢下で、薩摩藩はどういう態度をとるのか。
公議政体のさきがけともいえる参豫会議をぶち壊し、専制政治に回帰しようとする幕府を支持できるはずがない。
一方で、即今攘夷主義を捨てない長州にも味方できない。
ひたすら、「禁裏御守衛を一筋」という中立的な態度で臨むというのが、小松や西郷の考え方だったことがわかった。

この時点から薩長同盟までまだ1年半ある。
長州藩が即今攘夷論を捨てて、初めて両藩が結びつく条件がととのっていくのではないかという見通しも得られた感じがした。

そのほか、山階宮晃親王と尹宮朝彦親王の兄弟について、少し詳しく触れた。

準備していたテキストも半分しかこなせなかったうえに、時間も予定より30分も超過してしまい、相変わらず、時間配分で進歩が見られないのが反省点。

次回は池田屋事件を詳しく見る予定。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/10 09:42】 | てらこや
トラックバック(0) |

岩国へ届いた池田屋事件
TS

 私は幕末の岩国について調べているんですが、池田屋事件について下記のような史料が残っています。参考になれば幸いです。
「岩邑年代記十一(元治甲子六月の記述)」
「十三日、御本家(毛利家)京河原町御屋敷、去る五日夜、会津と薩摩申し合い騒動これある由、評判これありの候処、実事は池田屋と申す料理屋にて萩藩の者と会津薩州藩との趣の由」
 これは民間記録です。続いて公式記録の藩主宛の書状
「吉川経幹公御東上記第三(京都留守居役横道八郎次発信)」
「六月五日、京都潜伏人一条に御召し捕りこれある趣は、五日夜、会津壬生浪士彦根らの人数を以って潜伏の浪士御詮議これあり。御本家にても途中にて壱人即死、祇園町にて壱人は即死、壱人は召し捕られ、そのほかは怪我人両人くらいこれあり。三条宿屋にて四人即死、四人切腹、三人召し捕られ、そのほかは木屋町あたりより祇園あたりにかけて大騒動、辻々堅め等もこれあり。町々にて死人都合二十八人ほどにこれある由。もっとも三条池田屋にての騒動には長藩は壱人も居申さず由」



岩国
桐野作人
TSさん、こんにちは。

岩国の史料のご紹介有難うございます。
「岩邑年代記」には、薩摩藩も池田屋事件に関与しているように書いてありますね。
誤認情報ですが、八・一八政変には関与しているので、長州側では十把一絡げでそのように見えたのかもしれませんね。

「吉川経幹公御東上記第三」にある「御本家にても途中にて壱人即死」というのは吉田稔麿でしょうかね。

なかなか興味深いものでした。有難うございます。



コメントを閉じる▲
昨日、小学館古文書講座「てらこや」の受講生であるMさんが「見てもらいたい」と、どっと古文書の束を持ってきた。

幕末水戸藩の古文書が100点以上あった。
ほとんどが書簡である。
保存状態もとてもよい。

驚いたのは差出人や宛所の人物。
幕末水戸藩の有名人ばかりである。

戸田蓬軒や会沢正志斎(後期水戸学の学者)

金子孫二郎や稲田重藏(桜田門外の変関係者)

田丸稲之衛門や竹内仙右衛門(天狗党幹部)


ほかにも、箕作阮甫(蘭医)の書簡もある。

とくに安政元年(1854)2月のペリー艦隊2回目の来寇の報告が面白い。
絵入りである。将軍家定に献上したという汽車模型の絵も描いてあった。

私は幕末水戸藩のことはうといが、とにかく興味深い史料ではないかと思った。
しかるべき人に見てもらったほうがいいのではとアドバイスした。
久しぶりに眼福でした。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/08 23:57】 | 幕末維新
トラックバック(0) |
日次記です。

4月4日(金)甲戌、天晴
このところ、断続的に表題の候補作品を読んでいたが、主催者側に選評の結果を伝える。
今回、最終選考に残ったのは2点と、例年より少なかった。
この2点が甲乙つけがたく、他よりず抜けていたためだろう。

作品は独ソ戦ものと南北朝内乱もの。
どれも、私の専門外だったので、慎重に読み進めたから時間がかかった。
専門外といっても、作品の出来映えや完成度はこれまでの経験からだいたい判断できる。
選考結果は他の2人の選考委員と同意見だった。

選考結果は発表を待っていただくとして、今回感心させられたのは、圧倒的な原稿量である。
両者とも、優に1000枚を超し、1500枚近くあった。とにかくその根気と体力には脱帽である。
最近の自分に欠けているものだけに、見倣いたいものである。


4月5日(土)乙亥、天晴
歴史群像シリーズ特別編集「戦国九州三国志」の掲載誌が届く。
詳しくは、ここか、リンク先の「豊泉堂雑記」さんや「橋場の日次記」さんをご覧下さい(手抜き)。

私は島津関係の3本を書いています。

「人物分析 島津四兄弟」
「群雄分析・島津編 秘策「釣り野伏」「繰抜」の実相」
「外伝 九州関ヶ原の戦い」


とくに軍学者の徳田邕興の「島津家御旧制軍法巻鈔」について、今回ある程度まとまって触れられました。イメージ先行で語られることが多い島津家軍法を少し足が地に着いた方向へ修正できたかなと思っております。ご意見などお寄せいただければ幸いです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/07 18:15】 | 日次記
トラックバック(0) |

管理人のみ閲覧できます
-


すごいなあ・・・
汗・・・・。
すごい量ですね^^;私も今趣味で書いてはいますがそんな枚数絶対かけないですー;;よくかけますねー^^;



桐野作人
汗・・・さん、はじめまして。

習作されていますか。ドンドン書いてくださいませ。

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
NHK大河ドラマ「篤姫」第14回「父の願い」

長く数回にわたった嘉永6年(1853)がようやく終わって、同7年(安政元年)に入りました。
しかし、篤姫の入輿まで、まだ2年以上あります。入輿までのさまざまな困難や確執を描くことで、ドラマを盛りあげていくのでしょう。

そして、ついに病弱だった父忠剛が他界しました。享年49でした。
藩主斉宣の五男として江戸で生まれ、江戸で育った人だけに、視野の広さを持ちあわせていたかもしれませんね。
昨年春、指宿・今和泉に行った折、今和泉家の菩提寺光台寺跡に行き、忠剛の墓にも詣ってきました。そのときの写真を掲げておきます。

忠剛墓

忠剛が亡くなった場所は城下の今和泉家本邸ではなく、郊外の磯別邸のようです。
斉彬の側近竪山武兵衛の日記「竪山利武公用控」には死の当日条に「安芸忠剛卒于礒別館」とあります。おそらく、現在の仙巌園(磯庭園)の北奧の高台(竜ヶ水近く)にあった屋敷のことでしょうか。
ちなみに、この磯別邸はのちに藩当局に譲渡され、貨幣鋳造所になります。いわゆる「偽金づくり」の工場になります(ただし、幕府の許可を得ているので、偽金ではありません)。

ちなみに、忠剛の命日は2月27日。
その頃、江戸・浦賀では日米和親条約締結交渉の真っ最中。3月3日に調印しています。
また忠剛の死の4日前の23日には、ペリーが将軍家定に汽車の模型を贈り、実際、横浜で運転を実演しています。

瑣末なことですが、ドラマでは、斉彬が忠剛の訃報を神奈川宿で知ったように描いていました。
斉彬側近の山田為正の日記「安政元年島津斉彬参府御供日記」によれば、斉彬が鹿児島を出立したのは(嘉永7年)正月21日。
神奈川宿着は3月5日ですね。着というより通過です。その日は品川宿に泊まっているようです。
忠剛の死から8日後ですから、国許からの早飛脚でも訃報が間に合ったかどうか微妙ですね。

ちなみに、同日記3月5日条には「昨夜国許より飛脚到着」とあります。前日の4日に届いたようですが、これに訃報が含まれていたかどうか。もっとも、差出人は老女永瀬・園川よりだったそうで、どうも違うような気がします。
野暮な穿鑿はやめましょう。

そうそう、以前から断片的に書いていますが、幾島はずっと京都の近衛家に奉公していて、篤姫が江戸へ下ったのちもずっと在京しています。この点はドラマと史実とでは大いに食い違っています。
このときの斉彬の参府でも、2月20日、山田が行列に先行して伏見に着いたとき、「得浄院は長屋内に参り居られ候付、見廻(見舞)候て御用向申し談じる」とあります。
山田が会った「得浄院」がのちの幾島のこと。当時は主人だった郁姫が他界していたので、得浄院という院号を名乗っており、まだ幾島と称していないのです。また幾島が江戸へ下るのは、御台所になることが決まって近衛家の養女になってからのこと。
要するに、この数回の幾島のシーンは全部フィクションということですね。

これまた瑣末なことですが、肝付尚五郎が出府する西郷吉之助にお守り札を贈っていました。
一瞬だったので、よく見えなかったのですが、「揖宿」とか「一之宮」が見えたように思いました。尚五郎が実家の喜入に近い薩摩国一之宮の御札を贈るのは自然なことでしょう。

ただ、指宿神社と枚聞神社(開聞神社、ひらきき・じんじゃ)は厳密には別ではないかと。現在でも別の場所に立地しております。「一之宮」なら「枚聞神社」のほうがいいのかもしれませんね。

ちなみに、薩摩国の一之宮をめぐっては、古くから枚聞神社と新田神社(薩摩川内市)の間で、その地位をめぐって争っております。古さからいえば、天智天皇時代の創建と伝わる枚聞神社に軍配が上がるか。

本寿院も初めて登場したような?
顔見世程度だったので、そのうちまた書きます。
それにしても、アヒルを引っ張りますね。
いまにも絵から飛び出してきて、「ア○ラック」と鳴き出しそうでしたが……(爆)。

あまり書くことがないので、今日はこの辺で。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/06 22:23】 | 篤姫
トラックバック(1) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第52回
―篤姫見送った渋谷屋敷―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は江戸にある薩摩藩邸を書いてみました。
その実態は、正直なところよくわかりません。
江戸切絵図に現代の地図を重ねた『復元 江戸情報地図』(朝日新聞社)という本がありますが、これには、諸藩の屋敷の広さを示す坪数が表示されています。これが何に基づく数字なのかわかりませんが、重宝なので使っています。

ただ、今回のメインになった薩摩藩の渋谷屋敷については、その本と『鹿児島県史料 斉彬公史料』の数字が食い違っていたので、後者のほうが信頼できると思い、そちらを採用しました。
ことほど左様に、不正確さを免れませんので、あくまで目安ということにしていただければと思います。
渋谷屋敷はおそらく4万坪を超える敷地があったと思います。薩摩藩邸のなかでは、一番広く、芝本邸(上屋敷)の倍ほどあります。安政大地震後は渋谷屋敷が上屋敷の役割を果たしたといえるかもしれません。

なお、渋谷屋敷は現在の国学院大学や青山学院初等部あたりにありました。

分量の関係で拙稿には書きませんでしたが、お由羅の方は桜田屋敷に住んでいたらしく、安政の大地震後、渋谷屋敷に避難してきています。
ですから、篤姫とも同居していたわけですね。どうやら、この同居の事実をドラマの中に取り入れるようです。さて、どのように描くのでしょうか? 
あの篤姫のことですから、ストレートに「呪詛をしたんですか」と聞きそう(爆)。

それと、大井にも屋敷があったことが史料に見えます。
しかし、江戸切絵図には大井は入っていません。おそらく当時は江戸じゃなく、大井村という在だったからでしょう。もっとも、渋谷も村だし、品川も宿場で、本来の江戸の領域には含まれませんが、一応、切絵図には載っております。
『斉彬公史料』その他、薩摩藩の史料を精査すれば、何か書いてあるのかもしれませんが、残念ながら手が回りませんでした。
ご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/05 11:09】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |

大井村の薩摩屋敷
まいたけ
 品川歴史館特別展「しながわの大名下屋敷ーお殿さの別邸生活を探るー」という展示が2003年にありまして、図録だけ入手しています。
 その図録の中に、安政3年の「諸地面向取調書」により作成された「品川区内大名屋敷地一覧」という表がありまして、その表に、薩摩藩の大井村の屋敷のことがでていました。
島津斉彬が藩主であった頃、大井村には、島津斉興が隠居した屋敷があったようです。
 広さは、20,850坪(抱屋敷18,468坪、抱地2,382坪)で、立会川の両側です。土佐藩の山内容堂が隠居していた屋敷の近くです。
 次回の古文書塾に、この図録を持参しますね。



訂正
まいたけ
 すいません。訂正です。
 図録に正誤表が挟まれていました。それによれば、
「諸地面向取調書」ではなく、「諸向地面取調書」が正しいとのこと。



大井屋敷
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

さっそくの貴重な情報有難うございます。
やはり、ちゃんとした記録があるんですね。不勉強を恥じいるばかりです。
江戸切絵図の範囲外ですねえ。
次回講座で見せていただければ助かります。
有難うございました。



まいたけ
 図録をみてゆくと、国立国会図書館には、「抱屋敷寄帳」という幕府の普請方が作った抱屋敷の台帳が所蔵されているそうです。抱地の所有者・借上者・面積が変わると、その都度貼り紙を当該箇所の上に貼っていったそうです。
 探せば、まだいろいろとありそうですね。


 

コメントを閉じる▲
日次記です。

4月2日(水)壬申、天晴
午後から江戸東京博物館の「篤姫展」を見に出かける。
東京での展示が6日まで。今日でないと見られないことがわかったため。
何とか一本原稿を書いてからと思ったが、意外と長びいたため、中途のまま出かけた。

通路横の駐車場に観光バスがたくさん停まっていた。大量のツアー客が降りてくる。平日だからと思ってタカをくくっていた。「しまった。こんなことなら朝一番に出てくればよかった」と思ったが、あとの祭りである。

案の定、館内は人が多い。入口のところからたむろしているので、順繰りに観るのは思い切ってパスして、興味のあるところ、空いているところを観る。とくに観たかったのは文書類。
篤姫や「つぼね」(幾島)の近衛家宛ての書簡がとくに興味深かった。

篤姫が養父近衛忠煕に宛てた書簡は「養君」一件を朝廷が沙汰しないように、私に子どもができないのが悪いといったニュアンスが書かれていて、「貴女のせいじゃないよ」と同情を誘う。
また、宛所が「御もう様」(お父さまの公家言葉)になっていたのが、目を引いた。
いずれにしろ、陽明文庫所蔵の史料はいいのが揃っているなと感じる。

慶応4年の江戸開城時、篤姫が「官軍隊長」に宛てた書簡が、大河ドラマのテーマ曲をバックにナレーションされていた。これは古文書講座「てらこや」でも取り上げたことがある。
なかなか泣かせる内容だが、これを本当に西郷が読んだのかどうかは不明である。だから当然、この書簡が西郷に影響を与え、江戸開城の決定打になったかどうかも疑問。
西郷が勝海舟の要求を呑んだのには、別の要因(とくに英国の圧力)が考えられるが。


4月3日(木)癸酉、天晴
朝、新宿から特急あずさに乗って、下諏訪に向かう。
相楽総三ら赤報隊士の慰霊祭「相楽祭」出席のため。
とくに今年は140年祭である。
車中で、M川さんと合流。
下諏訪に着くと、まず山猫亭で信州蕎麦をいただく。
その後、下諏訪宿の本陣などをしばし見学。
以前、お世話になったお婆様も健在のようで安堵。

そしたら、相楽総三研究者の西澤朱実さんから「もう始まりますよ」という電話あり。
西澤さんは本日の記念講演会の講師の一人。
この間、マツノ書店の「相楽総三・赤報隊史料集」編纂に尽力され、私もお手伝いした。
IMG_9248_640.jpg

行ってみると、魁塚には多くの人が集まっていた。
ほどなく慰霊祭が始まる。神式(写真参照)。
慰霊祭


列席された子孫の方では、相楽の子孫である木村さんがいまなおお元気で安堵した。今年87歳になられるとか。
また、相楽の盟友で、薩邸浪士隊の副総裁だった落合直亮の子孫の方もおいでだった。初めてお目にかかり、ご挨拶させていただく。

慰霊祭の終了後、会場を下諏訪総合文化センターに移して記念講演会。
会場は予想以上の参加者で、レジュメが足りなくなったほど。
講師と演題は以下の通り。

赤報隊研究の先駆者、高木俊輔氏(立正大学教授)
 「『偽官軍事件』から学ぶ」
西澤朱実氏
 「慶応二年の相楽総三」
岩立将史氏(中央大学大学院生)
 「近代における赤報隊の顕彰活動」


高木俊輔


三者三様で面白かった。
西澤氏の講演は、慶応2年(1866)の夏から秋頃、相楽たちは新田氏を奉戴して攘夷挙兵を計画していたのではないかという内容。
時期的に第2次長州戦争と重なっている。
少し視点を変えれば、薩摩藩を介した東からの幕府牽制策の一環という可能性はないのかと感じた。

その後の慰労会で、高木氏と久しぶりにお会いしたので、少しお話をする。
電車の時間になったので、中途で退座させていただく。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2008/04/04 12:39】 | 日次記
トラックバック(0) |
いつの間にか、20万アクセスになっておりました。

このところ、アクセス数も増えており、早期達成できました。
これもみなさんのおかげです。

今後ともよろしくお願いします。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/02 22:38】 | 雑記
トラックバック(0) |
鹿児島市の宝山ホールで開かれる私の講演会。

「薩摩の知られざる逸材・小松帯刀」 
           ~大河ドラマ「篤姫」に寄せて~

5月27日(火) 18:00開場、18:30開演
入場無料、往復ハガキで申込

大会場だけに集客に苦戦しております。
入場無料ですから、鹿児島の方を中心に、お誘い合わせの上、ふるって見に来て下さいませ。
小松帯刀をテーマにしたこのような大イベントは初めてだと思います。
私も、あまり知られていないネタを仕込み中です。

詳しくは、ここ宝山ホールサイトをご覧下さい。


一方、名古屋の中日文化センターで4月24日(木)から始まる講座
「関ヶ原合戦を読み解く」

のほうは予想以上に受講者が多いようです。
教室も大きなところに変更になった由。
まだ少し空きもあるかも。よかったら、ご参加下さい。
詳しくはここです。
「4月スタートの新講座」から「歴史」のカテゴリーをクリックして下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2008/04/01 20:12】 | イベント
トラックバック(0) |

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。