膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
小学館古文書塾「てらこや」特別講座「天璋院篤姫と小松帯刀」2第1回

一昨8日(火)から講座が始まった。
前シリーズに引き続き、小松帯刀の大久保一藏宛ての書簡を読む。
今回のテーマは表題のとおりで、元治元年(1864)6月の池田屋事件勃発までの薩摩藩の態度や考え方を小松や西郷吉之助の書簡から読み解いていった。

両者に共通していたのは、幕府の売国的な専制政治への危機感である。
8・18政変で長州勢力を京都から駆逐してから、幕府は専制化を強め、さらに長州藩に追い討ちをかけようとしていた。
しかも、その方法が欧米列強の長州藩への報復を利用しようというもので、小松も「敵を頼み、吟方(味方)を征し候は余り情なき事」と、長州への同情を示す。

幕府は、敵の敵は味方という論理で、欧米列強の長州への報復的軍事行動を黙認するどころか、フランスあたりをけしかけている感じで、そればかりか、侵略される危険のある長州藩に対して諸藩が助力しないよう、徹底した長州孤立策を実現するために朝廷の勅許を得ようとしていた。このような幕府の手前勝手で売国的態度に、さすがに二条関白や朝彦親王は幕府を押し止めたことがわかる。

また、小松書簡と同時期の西郷書簡も面白い。
西郷は、幕府が長州本国を外国に侵略させ、京都では潜伏している長州や尊攘派浪士の徹底弾圧という両面作戦を展開していると読み当てる。
まさに、池田屋事件はそうした幕府の反長州的・売国的専制政治の一環として必然的に生じたものであり、決して偶発的な事件ではないことがわかる。

その一方で、西郷は長州藩を支援しようとする近隣諸藩が存在することも指摘している。その数は12藩に及んでいるという。ただ、藩をあげて支援するのは難しく、有志や脱藩という形での非公式な支援に留まるのではないかとも観測している。
そのなかでも、芸州藩の「六百騎」をはじめ、因州藩や筑前藩なども長州支援の動きを見せていると、西郷は見ている。

また長州藩の京都藩邸に詰める200人もいったん伏見まで退いて、帰国して本国の危機に備えるつもりだったらしいが、方針を変えて再び藩邸に戻り、あくまで在京して戦う決心を固めていると、国許の大久保一藏に知らせている。
西郷は、長州藩の内情に詳しく、独自の情報ルートを持っていたことが察せられる。

池田屋事件前後の緊迫した情勢下で、薩摩藩はどういう態度をとるのか。
公議政体のさきがけともいえる参豫会議をぶち壊し、専制政治に回帰しようとする幕府を支持できるはずがない。
一方で、即今攘夷主義を捨てない長州にも味方できない。
ひたすら、「禁裏御守衛を一筋」という中立的な態度で臨むというのが、小松や西郷の考え方だったことがわかった。

この時点から薩長同盟までまだ1年半ある。
長州藩が即今攘夷論を捨てて、初めて両藩が結びつく条件がととのっていくのではないかという見通しも得られた感じがした。

そのほか、山階宮晃親王と尹宮朝彦親王の兄弟について、少し詳しく触れた。

準備していたテキストも半分しかこなせなかったうえに、時間も予定より30分も超過してしまい、相変わらず、時間配分で進歩が見られないのが反省点。

次回は池田屋事件を詳しく見る予定。

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