歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第60回
―今熊野に義久の逆修墓―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

もうというべきか、ようやくというべきか、連載も60回に達しました。
でも、予定ではあと40回もありますね(汗)。

今回は、京都の今熊野観音寺にある島津義久の逆修墓を取り上げました。
一部の島津ファンなら、知る人ぞ知るというべき場所です。
私も存在を知ってはいたのですが、なかなか行けずにおり、最近、名古屋の講座のついでに足を伸ばして訪れました。

彭□

義久

春栄

写真上段:義久の逆修墓下部正面「□□彭□逆修」の刻字
写真中段:義久の逆修墓の右側面「藤原氏島津義久」の刻字
写真下段:義久の右隣の墓
(写真をクリックすれば、拡大してご覧になれます)

いつ、なぜこのような逆修墓が建てられたのか、それは連載記事を読んでいただければわかります。
ひとつ、指摘しておきたいのは、義久の右隣にある墓正面の刻字(写真下段)についてです。

この墓の主について、山田有栄(1578~1668)ではないかとも言われているようです。有栄は関ヶ原の退き口の先陣をつとめ、のちの名乗りである昌厳が有名です。私の郷里出水の地頭を長くつとめ、「出水兵児修養掟」を定めたことでも知られています。
さて、有栄説の根拠は、写真下段の刻字が「□栄」とあり、□が「」と読めるのではないかということらしいですが、私は違うと思います。その理由として、

第一に、写真下段を見ていただくとわかるように、剥落した上の字はうっすらとですが、「」の横3本の「一」が残っていますし、右下へ下がる線も残っています。これらからやはり「春」と読むべきでしょう。
なお、下の字は「」と読んでも差し支えないと思いますけれど、上のかんむり部分が一部剥落しているのでよくわかりませんが、「」と読める可能性はないのか。
つまり、「春栄」か「春宋」のどちらかでしょう。

第二に、義久と左隣の平田増宗の五輪塔では、最下部の方形(地輪)の石に、逆修の対象となる戒名(逆修戒名)が刻まれています。つまり、ここに刻まれるのは戒名ですから、実名すなわち俗名が刻まれることはありません。造主の俗名が刻まれるのは、ここの五輪塔の場合、方形石の上段の石ではないかと思います。平田増宗のも円形石に「薩州住平田太郎左衛門尉増宗」と刻んであります。
したがって、「有栄」という俗名は方形石正面に刻まれないと思うのです。

第三に、山田有栄の戒名は、『本藩人物誌』によれば、「昌厳松繁庵主」です。「春栄」もしくは「春宋」とは一致しません。

以上から、この逆修墓は山田有栄ではないと思います。


それとは別に、私は肝心の島津義久とされる逆修墓について、素朴で根本的な疑問があります。これは自分でも考えがまとめられなかったのと、分量の関係で書かなかったのですが、これは果たして、義久の逆修墓なのかどうかという点です。
まず義久の逆修墓なら、写真上段の最下部方形石に義久の逆修戒名が刻まれなければなりません。実際、何と刻まれているかといえば、次のとおりです。

□□彭□逆修

剥落があって、逆修戒名と思われる部分がよくわかりません。
一方、義久の戒名(法号)は『島津氏正統系図』によれば、「貫明存忠庵主妙谷寺殿」です。これは義久死後、菩提寺が妙谷寺(鹿児島市下伊敷)になった際の法号で、島津家の菩提寺である福昌寺では別の法号があるかもしれませんけれど、とにかく逆修戒名と、実際の法号の字が一致しません。法号に「」の字がないのです。
これが、義久の逆修墓なのかどうかを疑う最大の理由です。

そこで、じつは「」の字を法号にもつ義久の縁者がおります。
ほかならぬ、三女亀寿です。
亀寿の法号は『島津氏正統系図』によれば、「持明彭窗庵主興国寺殿」です。
」の一字が含まれていることがおわかりでしょうか。
なお、「」の下の「」は「窓」の異字です。

一方、福昌寺跡墓所にある亀寿の墓石は、「」の字が少し違っていて、下の写真にあるように、
持明

持明彭菴主

と刻んであります。

ここで、今熊野観音寺の義久逆修墓の上段写真を拡大して、刻字をよく見て下さい。
」の下は「」に見えないでしょうか?
もしこの部分が「彭」だとすれば、その上の2字は「持明」だった可能性が高いのではないかと思います。
つまり、「持明彭逆修」と書かれていたのではないか。

もし私の推定どおりであれば、この逆修墓は亀寿のものだということになります。
ただ、方形石の右側面には「藤原氏島津義久」と刻んであります。この不一致をどう理解するのか。
平田増宗の場合、逆修戒名と俗名が増宗のもので一致しております。これは造主と逆修対象者が同一人物だったことを意味するとすれば、義久逆修墓は造主が義久で、逆修対象者が亀寿だったということになるのか。
もしそうなら、義久が亀寿の長寿繁栄を祈願して建立したということになるのか。

連載記事とはあらぬ方向に話が進んでしまいました(汗)。

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【2008/05/31 11:49】 | さつま人国誌
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剥落
こなみん
「藤原氏島津義久」の下に2~3文字剥落してるようにも見えるのですが、そこに「女亀寿」とかなんとか入ってた可能性ってのはないんですかね?

女亀寿
桐野作人
こなみんさん、こんにちは。

なるほど、そういえば、何か下に字があったようにも見えますね。剥落というより削り取ったようにも見えます。

女性の場合、何と刻むのかよくわかりません。
義久と実名を出すのかどうか。修理大夫などの官途名かもという気がしますが、よくわかりません。
女性の場合の表記のしかたがわかればいいのですが……。

墓石の文字
ばんない
こんにちは。興味深く拝見いたしました。

確かにあの逆修墓は設置された場所といい、謎が多いですね。
安土桃山時代末期は熊野信仰は盛んでは無かったと思いますし(汗)今熊野観音寺の近所には確かに島津氏縁の東福寺がありますけれど…。なんでわざわざ…と思いますね。

島津義久逆修墓本体の墓石ですが、向かって正面右側の欠けは劣化による損壊と思えるのですが、向かって右側「島津義久」の下と向かって正面左側「慶長三年」の下は、どうも人為的に削ったようにも見えます。島津氏関係でこの手の物を人為的に削ったと思える例は、高野山の「朝鮮役敵味方戦没者慰霊碑」があります。http://www.realintegrity.net/~shimadzu/shimadzu-histricsite/kohyasan/shimadzu-korea.htm

女性名の表記例ですが、逆修墓の例ではなく申し訳ないのですが、亀寿(姉・新城の可能性もありますが)が奉納したと思われる義久三回忌の経文末尾には「藤原孝女謹書」と書かれていたようです(「旧記雑録」後編4-984)。
逆修墓の例では、島津義久の上臈であった一の台(国上時通の娘)が霧島市の遠寿寺に築いたもの(「慶長十二年丁未 (中略) 喜見院浩隆 逆修」)というのがあります。
書いていて疑問がわいてきたのですが、慶長3年時点、当然亀寿は出家していないのですが、その時点で法名を定めておくと言うことはありえたのでしょうか?

あと、これは個人的な意見になるのですが、逆修という物の性格を考えると、父・義久が娘・亀寿の逆修をするというのは考えにくい物があるのですが…逆ならありだと思いますが。

戒名・法名
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

高野山の「日本高麗戦没者慰霊碑」の場合、人為的な削り取りの目的ははっきりしていますね。
藤原氏から源氏への氏の変更を隠すための細工ですね。なかなか面白い事例です。そこまでするかという感じで(笑)。
始祖忠久の頼朝庶長子伝説の形成と軌を一にする動きでしょうね。
この改竄時期は江戸初期(「寛永伝」編纂期)か、重豪が鎌倉に頼朝の墓を建立し、忠久の祠をつくった時期か、どちらかでしょうかね。

で、亀寿の戒名・法名ですが、戒名を死後に付けるものと思っている人が多いかもしれませんが、本来は、生前に付けるものです。それは出家の有無とは関係ありません。在家で戒名をもっている人はたくさんいましたし。

たとえば、平田増宗の逆修墓にも「字参覚阿」と読める戒名が刻んであります。『本藩人物誌』には「字参覚阿庵主」とありますので、間違いないでしょう。
つまり、増宗も出家していないのに、生前に戒名をもっています。亀寿も同様だったと思います。

逆修の関係については、たしかに義久の逆修墓を亀寿が建立するというのが自然な気がしますね。その逆はたしかに不自然です。
となると、こなみんさんが指摘されたように、右側面の「藤原氏島津義久」の下に亀寿であることを示す文字が刻んであったのかどうか。

ただ、義久はすでに出家して龍伯と名乗っていますから、俗名を使うのかどうか、やや疑問ではあります。




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先ほど、大雨の鹿児島から帰ってきました。
二泊三日の滞在でした。

昨日、鹿児島市の宝山ホールで、「薩摩の知られざる逸材・小松帯刀」の講演を無事終了してきました。何せ、同日に昼の部と夜の部の2回話をしなければならず、大変でした。

南日本新聞に記事が載っています。写真付きで恥ずかしいです。ここです。

取り急ぎ、帰京報告でした。

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【2008/05/28 21:27】 | イベント
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サトシ
またまた,拝見させていただきました。
応援ポチッ!

ご講演拝聴いたしました!
よよの
熱のこもったお話、お昼の部で前から3~4列目あたりで聴くことができました。昼夜2回の講演となりお疲れになられたことと存じます。ありがとうございました。
小松帯刀のすごさを改めて感じました。今、脚光をあびようとしていることは鹿児島県人として、誇らしいところです!そして体調が良ければ…あともう少し生きることができていたら…と、「もしも」を考えてしまいます。

縁あって、5月最後の土曜日にはまたまた小松家のお墓や仮屋跡の小学校の周辺などを巡って、同行の友人たちと歴史探訪を楽しみました。その中の一人も、桐野先生の講演に出かけたということで、祢寝から小松への話などにわか仕込みの話をしたりして盛り上がりましたー。

また機会がありましたら鹿児島での講演を! 楽しみにしております。ありがとうございました。

有難うございます
桐野作人
よよのさん、こんにちは。

鹿児島での講演の感想、有難うございます。
2回つづけてだったので、多少疲れましたが、ドリンク剤を飲んで何とか乗り切れました。

お友だちとの間でも、少しは刺激になったようでよかったです。これからも小松帯刀に関心をもっていただければ幸いです。
また鹿児島に行くかも知れません。そのときはよろしく。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第21回「妻の戦」

大奥オンリーの話、それも非歴史的な話が多く、ますます書くことがなくなりつつあります。

今回は将軍家定の出番が多かったので、彼の性格や性向について史料に何と書いてあるか、少し書いておきます。

まず、癇癖、癇癪について。

○箕浦はな子・佐々鎮子の証言 『旧事諮問録』 
 2人はもと大奥の中臈と御次

「さよう、御癇癖があったのでございます。しかし、あまり困るような事はございませぬ。ただ御首を振る癖がありました」

○朝比奈閑水手記  『徳川慶喜公伝』史料篇一
 閑水は将軍家慶・家定の小姓

「温廟(温恭院=家定)御癇癪強く、御挙動の常に意外の感もありし」

 奧女中も将軍付の小姓も期せずして、癇癖、癇癪が強いという点で一致しています。
とくに朝比奈閑水のいう「意外な挙動」というのは、ドラマにもよく採り入れられていると思います。
 もっとも、閑水は家定のそうした性格について、さほど異常とは思っていないことも付け加えています。

「世間にては暗愚の君にて甚しきまでに諸書に散見するも、文化・文政・天保の頃なれば、左まで世説も請させまじき」

 つまり、家定時代より半世紀ほど前なら、家定くらいの挙動はさほど話題にもならなかった。その当時なら、家定は普通の将軍だったということでしょう。生まれた時代が悪かったのでしょうね。

次に、家定が子どもができない、つくる気がないと告白した点

○朝比奈閑水手記

「温廟には近年御癇癖にて男女の道にも御障りあり」

これは決定的証言かもしれませんね。
生殖能力がないというより、性行為そのものが不全ということでしょうか。
家定付の小姓の証言ですから、信ぴょう性がありますね。

今回はこれくらいしか書くことがありません。

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【2008/05/25 22:27】 | 篤姫
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第59回
―佐土原藩祖、京都で病没―

昨日、連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は大雲院にある島津以久の墓を書きました。
佐土原島津家の藩祖です。

分量の関係で詳しく書けませんでしたが、以久が島津本家とは別ルートから徳川家康と直接交渉しているのが面白いです。
島津分家なのに、なぜそんなことできるのか?
おそらく以久が豊臣政権の「御朱印衆」で大名に準じているからではないかと思われます。
「御朱印衆」とは、秀吉から大名への領地宛行の朱印状のなかで、とくに一カ条を設けて、所領地や領知高を明記された一門・重臣のことです。
文禄検地の際の秀吉朱印状では、島津本家の義久・義弘のほか、伊集院幸侃とともに以久も名前が挙げられています。

以久は佐土原を拝領したことにより、垂水と二カ所の所領を持つことになりますが、これが島津本家の家督問題とも関わって、その相続問題で揺れることになります。

次回は、今熊野観音寺にある島津義久の逆修墓を書く予定です。

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【2008/05/25 09:30】 | さつま人国誌
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先週の鹿児島史跡ツアーから激ジョブがつづき、更新もままならぬ状態。
とりあえず、日次記で。落ち着いたら、ツアー報告など書きます。


5月18日(日)戊午
本日、歴研大会2日目なるも、参加できず。
レジュメと企画書づくりに追われる。

19日(月)己未
鹿児島の小松帯刀講演会のレジュメづくり。
雑誌原稿を執筆するが、雑用多くて集中できず。

20日(火)庚申、天晴れ
夜の「てらこや」講座のレジュメづくり。意外と早く完成。
その後、雑誌原稿執筆。今回は膨大な量。
夜、「てらこや」講座。禁門の変前夜の史料を読む。
小松帯刀書簡を読んだのち、諸藩の立場や事情を比較検討しようとしたが、結局、読めたのは長州の『防長回天史』のみ。また次回へ持ち越しだ。

某薩摩藩士の書簡を大量にお持ちの方と連絡とる。
今度見せていただくことになった。差出人の名前を聞いただけで垂涎もの。
来月が楽しみである。
篤姫の実家、今和泉島津家の、ある子孫の方から突然メールをいただく。
関東在住とのことで、お会いすることとなるかもしれない。

21日(水)辛酉、天晴れ
週末の甲東祭用の資料づくり。今日出さないと間に合わない。
名古屋の講座のレジュメづくり。
これも、どこまで掲載するか迷う。
しかし、迷っている暇はなく、ほとんど成り行きで作るしかなかった。
でも、「直江状」の全文を読むのかと思うと、少し億劫である。

某雑誌のゲラ校正。幕末諸隊のなかで、「精忠組」を書かせていただいた。
当ブログ経由で都城市関係者からメールをいただき、新知見、新情報を得る。
さっそく「都城市史」通史編を購入することにした。まことに有難いことである。

22日(木)壬戌、天晴れ
朝4時起きで、新聞連載の原稿を脱稿してから、東京駅へ。
中日文化センターの講座「関ヶ原合戦を読み解く」第2回。
会場で、岐阜在住の友人の学芸員さんとばったり会う。
以前、安土で会ったっきりだったので、少し話をする。
前回から受講されているのは知っていた。しかし、学芸員さんが受講されるのは何とも面映ゆい。
講座はやはり、「直江状」16カ条をすべて読破。
そんな講座はほとんどないんじゃないか(笑)。
やはり、みなさん、少し退屈そうだった。
「直江状」の真偽をどう見るか、拙論を少しお話しした。

講座終了後、受講生の方から資料をいただく。
信長の初陣である赤塚合戦についてのもの。
ご近所にお住まいとかで、以前、当ブログでも少し話題になった「三王山」(三之山)と赤塚の地理的関係について、実際に踏破された報告書である。
みずから足で歩かれた資料なので、とても有難い。単行本化のときに活用させていただきたいと思う。多謝。
初回は懇親会をしたが、今回は中止させていただいた。友人たちにはお詫びしたい。

すぐさま名古屋駅に行き、京都へ。
泉涌寺の塔頭、今熊野観音寺の写真撮影に行く。
真言宗のお寺だ。本堂前に柔和な弘法大師と子どもたちの銅像があった。
西国巡礼のお寺らしく、参拝者が多い。
本堂裏のめあての墓にすぐ辿り着いた。
それも、リンク先のばんないさんのサイトにある案内のおかげ。
島津義久の逆修墓。
以前から行きたかったところ。一度近所まで行ったが、時間がなくて断念したところだ。
慶長3年(1598)に建立されている。
太閤秀吉が他界した年だ。義久は上京していたのか……。
義久の左隣には「平田太郎左衛門増宗」の逆修墓もあった。
義久の長命をもっとも望んでいた人物。そして非業の死を遂げた。
これも自分の逆修墓ではなくて、主君の長寿を願ったものだろう。感無量。
『旧記雑録後編』などで調べたいが、なかなか時間がない。


23日(金)癸亥、天晴れ
5月なのに、真夏日の猛暑。
来週の鹿児島での講演のため、いろんな準備をする。
メールや電話だけで20回ほど。
在鹿児島の有志のみなさんやメディアの方々で、前夜、懇親会を開いて下さるというので、その打ち合わせも。私の高校時代の友人も呼ぶことにした。

また、ある有名人の子孫という方からも会いたい旨の連絡あり。
福岡在住だというのに、わざわざ鹿児島までおいでいただくことになった。恐縮。
新聞連載「さつま人国誌」の単行本化についても、打ち合わせすることになった。
しかし、高校時代のサークル仲間との懇親会はどうしても双方の時間が調整できず、お流れ。
先週の鹿児島史跡ツアーで、サークルの後輩が有名な縄文遺跡の解説をしてくれ、盛り上がって同窓会をということになったのに、残念。

南日本新聞連載の先週掲載記事、島津義久後室・種子島氏について、新聞社経由でいくつかお手紙をいただく。そのなかには新城島津家の子孫と思われる方も。貴重な情報ばかりである。私の勉強不足を恥じ入るばかりだが、読者からの反応があるのがうれしい。
『鹿児島県史料』の最新刊に掲載されていた記事だ。買っていたのに見落としていたな。
亀寿だけでよいと思ったが、その姉新城氏も見ておかないといけなかった。
新城氏(義久二女)の名前についても、鹿児島大学の五味克夫先生が考察されているらしい。
『垂水市史』の記事も要再検討か。
もう一度、勉強し直しである。

歴史読本」の掲載誌7月号が届いた。
連載「信長」第7回掲載。今回から桶狭間合戦を取り上げている。
でも、次号の原稿が……。尻に火が付いている。

昨年、講演をした武蔵野大学から生涯学習センターの特別講師を拝命することになった。
その日程の通知がある。
いつぞや、霞会館で、大久保利泰、島津晴久、榎本隆允の諸先生と一緒に、同大学の学長さんを囲んで会食したが、その席でこの話があった。それが実現した形に。
学長じきじきのお話だけに、断るわけにはいかない。

明日は大久保甲東130年祭。
あいにく午後から天気が崩れるらしい。


そんなこんなで、更新が滞っています。お許しを。

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【2008/05/23 20:35】 | 日次記
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ばんない
関西の方は天気がいまいちだったと思いますが、無事到着されたようで何よりでした。

慶長3年には義久は上京中ですね。近衛前久の屋敷で開催されたお正月連歌会に招待されてます(『薩藩旧記雑録』後編3-365)。過去のこのブログの記事でも言及されてますが、慶長4年の3月、あの伊集院忠棟暗殺事件の直前に帰国してますね。
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-192.html

御礼
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

おかげさまで無事行けました。
有難うございます。助かりました。
義久の右隣のはたしかに「有■」でしたが、果たして山田有栄なのかどうか?
この時期、有栄は父有信の代から逼塞状態にあるんじゃなかったかなという気もします。
また、義久の側近というには若すぎる気がして、平田増宗とのバランスがどうかなとも思っています。


有なんとかさん
ばんない
こんばんは。

あの墓参りの時は、秋の一番日の短いときだったので、写真だけ撮るだけ撮って、家に持ち帰って写真を見て文字解読したというかなりぶっつけな物でして(苦笑)。もう一度実物を見ないとはっきりしないかも知れないです。

山田有信なら、後に義久の病気回復を祈願して絶食し、どうもそれが原因で衰弱死したようで(『本藩人物志』など)わからなくもないのですが、有栄はちょっと若すぎるようにも思いますね。

書き込まれた時間が超絶ですね。本当にご多忙とお察しします。お体ご自愛下さい。

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講座を受けてみての感想など
木暮兼人
当方のブログに、掲載させていただきました。
私自身が織田信長と黒田官兵衛のファンである、という以外に
基本的な日本史の知識くらいしかないのがネックな記事になっておりますが
自分がよく知っている内容だけの講座というのも物足りないと思われます

毎回ありがたく拝聴させていただいております。

第2回の講座の肝は
「直江状はしつこいくらいに長い文章で
 くどくどと徳川家に反論している」
事だと思ってしまったのですが・・・

6月は。私はおそらくお休みすることになってしまうと思われます
残念です。

次回残念です
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

前回は貴重なレポート頂戴し、有難うございました。
私もそのうち出かけて、自分の目でたしかめてみたいと思います。

直江状はたしかにしつこいですね。
あれが兼続の性格でしょうか? もっとも、相手を説得するという内容でもないと思いましたが、いかがでしょうか。

次回はご欠席とのこと。
レジュメは後送してもらえるとか、あとで事務局でもらえるとかサービスはあるんでしょうか?


ありがとうございます。
木暮兼人
ご希望であれば、ガイドをつけさせていただきます。

私は、直江状は
「ここまで徳川家に追い詰められた」ことを
表しているのではないかと考えていたところです
あげつらわれた反論を読んでいると、確かに細かいのですが
むしろ精神的な余裕がないような
そういう有形無形の嫌がらせをしつこいほどに
徳川家に受けていたのではないか、と想像いたしました。
売られた喧嘩を買ったかのように読み取れましたが・・・

文化センターには、レジュメをいただけるように交渉してみます。
ありがとうございます
 #おそらく可能と思われます。
 

ガイド有難く
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

ガイド役とても有難いです。
その節はよろしくお願いします。

このところ忙しくて、名古屋の講座や2回の鹿児島行きの報告さえ書けない状態で、申しわけありません。

直江兼続に余裕がないというのはたしかでしょうね。若気の至りなのかどうかわかりません。あるいはご指摘のように、徳川方に追い詰められて焦りがあったのでしょうか。
売られた喧嘩を買ったというのはそのとおりだと思います。

次回欠席は残念ですが、せめてレジュメでもと思います。

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幕末維新史料の復刻で有名なマツノ書店から新刊が2点出ました。
詳しくは、ここをご覧下さい。

西澤朱実編『相楽総三・赤報隊史料集』
この編纂には私も関わりました。推薦文も書いています。上記マツノ書店サイトにパンフレットがPDFファイルで収められています。それを開けば、ご覧になれます。
赤報隊関係の史料だけでなく、岩倉具視や大原重実などの公家、中山道沿道の諸藩や宿場・村などの史料まで目配りが行き届いた史料集で、相楽や出流山挙兵、薩邸焼打事件、赤報隊事件などの基本史料が収録されています。


立教大学日本史研究室編『大久保利通関係文書』全5巻
これは1965年、大久保利通の孫で、幕末維新史の泰斗だった大久保利謙氏が同大学を定年退職する記念に編纂されたもので、大久保家が所蔵する来翰類約4.000点(差出人187人)を収録したもの。
長く絶版になって入手困難だった本書、待望の復刻です。
しかも、大久保利通研究で知られる勝田政治氏(国士舘大学教授)によって、詳細な人名索引が新たに付録として付いているのもお得です。旧版よりはるかに使い勝手がよくなっています。

関心のある方は、マツノ書店に問い合わせれば、パンフレットを送付してくれると思います。
分割払いが可なのも魅力です。

少し根性を入れて史料を読んでみたい人や、本格的に研究してみたい人には、両書とも必須の史料集だと思います。

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【2008/05/19 20:19】 | 新刊
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大河ドラマ「篤姫」第20回「婚礼の夜」

いよいよ、篤姫が御台様におなりになりました。
私としては、女の園になると、だんだん書くことがなくなってきます。
ですから、3つ4つだけ書いてみます。

1,老中が大奥に入れるのか?

老中阿部正弘が大奥に入って篤姫と対面しておりました。
一般に大奥は女人の世界で、男子禁制だと思われておりますが、誤解です。
まず、大奥には広敷向という男性の役人が詰めている役所があります。
また、政治向きや大奥に関わる重大事については、御台所と老中が会見することがありました。
それは御対面所という公的空間です。

大奥は大きく分けて、3つの区画から成り立っています。

①御殿向:御台所の御殿
②広敷向:大奥事務所、男性の広敷役人が勤務
③長局向:女性たちの住居


御対面所は①に属しています。
よく覚えていませんが、老中阿部もここに出向いておりませんでしたっけ?

のちのことですが、篤姫も実際にそうしております。
文久3年(1863)、将軍家茂が上京するとき、幕閣は家茂を海路から進発させようと考えていましたが、それを知った篤姫は政事総裁職の松平春嶽を呼び寄せて、これを陸路に変更させています。

なお、三田村鳶魚『御殿女中の研究』では、篤姫に仕えた中臈の大岡ませ子の談話として、このとき御対面所に呼び寄せたのは、老中の久世広周と小笠原長行(老中格だろう)だとしています。しかし、当該時期、久世は老中ではありませんから、春嶽だったのではないでしょうか。あるいは、老中2人を呼び寄せたのは別の時期だったかもしれません。

2,婚礼の場所は?

篤姫と将軍家定の婚礼の場所は、御対面所だと紹介しておりましたね。
これはその通りだろうと思います。
手許に篤姫の婚礼の史料はありませんが、和宮と家茂の史料(『定本江戸城大奥』)が若干あります。
それによれば、たしかに婚礼は御対面所で行われております。
ただ、2人の席次が少し違っていたような。
和宮・家茂の場合は、家茂が床の向かって右手上座側で、和宮が反対の左手下座ですから、斜向かいの位置関係にあるようです。
ドラマでは、双方が左右に居並んで、下座側を向いておりましたね。

式次第は三三九度ののち、多くの御膳が出てくるので、途中で退座して御対面所の次の間で休息してから、式が再開されるようです。ドラマでも一次休息が入りましたね。
服装についても、双方に決まり事があるようですが、私は不得手なので省略。

3,御台所と将軍の床入り場所

まあ、婚礼の儀式のハイライトでしょう。
2人が床入りするのは、将軍執務室である中奥から大奥につながる御鈴廊下を入って、すぐ左手の御小座敷です。
ここには、上段と下段の間があり、寝所はおそらく上段の間でしょうね。
ドラマでは付き添いの待上臈が寝所と控えの間を区切るために屏風を拡げましたが、実際にそうだったようです。上同書には次のようにあります。

「待上臈一人留まりてかにかくと御世話申し上げ、頓て引き廻はせし屏風外に退りて此に侍べり、暫らくして御祝儀目出度相済みしとのよしを介添へ達するなり」

ただ、ドラマでは茶坊主2人もおりましたね。そのあたりはわかりません。

4,お志賀の方とは?

鶴田真由演じるお志賀の方。
家定の側室として登場していますが、これは史実のようです。
『御殿女中の研究』で大岡ませ子は次のように、お志賀の方について述べている。

「さほど美人というでもなかったのですが、ちょっと奇麗に見えました」
「御台様へのお泊りが一度あれば、自分に二度お泊りがなければ承知しないという風で、他の者などをお側へは出さなかったからでもありましょう」


ちょっと奇麗だったが、独占欲が強かったということらしいです。
さて、ドラマでもそんな展開になりそうですね(笑)。

とりあえず、断片的ながら気づいた点をば書いてみました。

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【2008/05/19 00:14】 | 篤姫
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第58回
―義久の後妻、本能寺に眠る―

連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は表題のとおりで、京都にある島津家ゆかりの墓を訪ねる内容です。

その1として、現・本能寺にある島津義久夫人の供養塔について、施主や建立年代について、少し推定を加えてみました。
候補者は、在京したことのある家族である夫・島津義久か三女亀寿ではないかと考えてみました。
もちろん、ほかの島津家中や種子島氏の関係者の可能性もあります。
しかし、わざわざ京都に建立できるのはある程度限られた人で、在京経験者ではないかと考えてみました。

次回は祇園にある大雲院の島津以久の墓を取り上げてみようかと思っています。

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【2008/05/17 12:30】 | さつま人国誌
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本能寺の円信院妙蓮大姉墓
ばんない
ゲー、大雲院の墓、拙HPで更新する前に抜かされそうです(苦笑)。あそこのお墓も今回紹介した本能寺の墓よりはまだいろいろ分かってそうですが、寺自体が引っ越ししていますから、墓を作った当時の状況のままではないのでしょうね、たぶん。

本能寺の墓
実はかつて京都に住んでいた割にはご縁が無くて、未だに一度もまじまじと見たことはおろか写真も撮影できてないのですが、墓石の形式は安土桃山時代のそれになっているのでしょうか?余り石塔には詳しくないので、他の人のご意見もお伺いしたいです。



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今日から三泊四日で鹿児島に行きます。
ツアーのガイド役です。

しばらく更新ができないかもしれません。
コメントが滞っていますが、お許しのほど。

【2008/05/13 00:11】 | イベント
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NHK大河ドラマ「篤姫」第19回「大奥入城」

ドラマ進行時点は安政3年(1856)11月頃。

いよいよ大奥編の始まりですね。
私は女の世界については門外漢なので、あまりコメントするところはありません。

年寄滝山が大奥の女性たちを引き連れて、篤姫に挨拶した場面。
滝山が年寄はじめ、中年寄、中臈など役職の上から順に紹介しておりました。
また大奥に勤務する人数を、御目見え以上200人、御目見え以下を合わせて1000人だと、篤姫に告げました。

大奥の御広敷詰めの男性役人を合わせれば、それくらいになると思います。
大奥女中は身分的には、男の旗本御家人と同様、御目見え以上と以下に分かれ、また将軍付と御台所付に分かれます。

『定本江戸城大奥』によれば、

御台所付
御目見え以上:91人
御目見え以下:214人

将軍付もほぼ同数

御広敷詰(男性):270人以上

以上を合わせると、およそ1000人内外だと思われます。

それで、滝山の挨拶の場面、滝山の向かって左隣りにいたのは上臈年寄の某だというテロップが出ませんでしたっけ?
うろ覚えなのですが、もし上臈年寄なら、滝山より格上のはずで、本来なら、まん中の座にあるべきかもしれません。
上臈年寄もしくは上臈は、公家の娘がつとめます。御台所は摂関家や宮家からしか選ばれませんから、その入輿のとき、公家の娘がお付きとして同行し、上臈になります。ですから、その名前も姉小路とか飛鳥井とか、実家の名前を名乗ることになります。もっとも、役職上は最上位でも名誉職的で、実権は年寄がにぎっていたようです。

また年寄は別名、老女とも呼ばれました。これは表向(幕府の公儀としての男性世界)の老中に匹敵する役割として、そのように呼ばれました。

さて、滝山と幾島がさっそく言い争いをしておりました。
幾島も近衛家から派遣され、職制的には滝山と同じ年寄になります。
同格の2人の対決です。

細かい点では、篤姫の食事の場面。
御膳で焼き魚を一口食べただけで、御膳が下げられていました。
これはその通りのようですね。
同上書には、次のようにあります。

「御飯を召し上る時、御年寄は御膳の向ふに乗せある柳箸を取りて御肴などをムシリて差し上ぐ。御肴は一箸にても召し上れば直ちに「御換り」と御年寄申し出すを御中臈承はりて、傍なる三方を両手にて目八分に捧げ三膝計り摺り出でゝ御年寄より御下りを受け、元の座に摺り返りて後ろの敷居外に控へたるお次の者へ「何々のお換りを」と申し付くる」

ディテールはよく覚えていませんが、そんな感じだったような。

鹿児島での出来事。
大久保正助が小松尚五郎を訪ねていました。
帯刀と名乗るのはもう少しあと、2年後くらいです。

江戸の西郷からの手紙で、「駿河の下田」に異人が来たとか、大久保が申しておりました。
おそらくタウンゼント・ハリスのことでしょう。

しかし、下田は伊豆国に属しているはずですけどね。
私の聞き違いでなければ、かなりのケアレスミスですね。
下田が静岡県だから駿河と短絡したのでしょうか?

これは脚本通りだから、原田泰造のせいではないと思います。
でも、若き大久保利通としては、少し気が抜けているというか間延びしているというか、どうも実像と一致しませんね。
これから、少しはビシッとするのかどうかわかりませんがね。

今回は大して書くことがなかったので、関連写真を載せておきます。


上から江戸城天守台、大奥跡、下田の玉泉寺(ハリスの住んだ米国領事館)
大奥


大奥


玉泉tera


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【2008/05/12 00:37】 | 篤姫
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播磨の一の谷
丹波3号
初めて、コメントを投稿します。
NHKも結構やりますよ、この程度は。大河ドラマ「義経」の初回、テロップで「播磨・一の谷」となっていました。正解は「摂津」ですよね。また、「風林火山」の何回目だったか、その回には出演していないキャストの名前が出ていたときもありました。あれだけスタッフがいて、試写の段階で誰も気がつかないのでしょうかね。

NHKが間違いを認めました
ばんない
以下引用

<お知らせ> 第19回「大奥入城」 5月11日(日)の放送について
5月11日(日)の放送内で、大久保正助(原田泰造さん)のセリフで、「伊豆の下田」とすべきところを、「駿河の下田」と誤って放送してしまいました。5月17日(土)の再放送では修正して放送します。

そういえば「功名が辻」でも強烈な間違いがありましたね。最後の方でしたが、浅野ゆう子演じる高台院が慶長8年に「太閤殿下がお亡くなりに為られて 10年 」とか…(苦笑)


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第57回
―米国初プレーの日本人か―

昨日、連載が更新になりました。
右のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は大久保利通の長男利和(としなか)と二男牧野伸顕がわが国の野球黎明期に野球をしていたという面白い話です。

わが国で野球が始まったのは明治5年(1872)のことで、東京一ツ橋の開成学校(のち東京帝国大学)のアメリカ人教師だったウィルソンが伝えたとされています。

大久保兄弟は明治4年11月、岩倉使節団に同行して渡米、フィラデルフィアの寄宿舎に入ります。帰国したのは同7年。兄弟は開成学校に入学し、そこでウィルソンと一緒に野球をした由。
大久保兄弟はわが国で最初に野球をした何人かの生徒の二人だったわけです。

ただ、牧野伸顕の回顧によれば、フィラデルフィア時代にも野球をやったと語っております。
その年代がわかりませんが、もっとも早いと、明治5年だと思われ、開成学校の生徒たちと同じ年に、海の向こうで野球をしたことになります。さて、どちらが早かったのでしょうか?

コラムに掲載した大久保兄弟の写真はいかにも武士の子らしい、背筋を伸ばした凛々しさと、同時に年相応の可愛さがあります。
甲東曾孫の利泰氏から、じつは別ヴァージョンで1人ずつ写った写真もお借りしました。こちらはさらに鮮明だったのですが、やはり2人一緒に写っているのがよいと思って、そちらを載せました。

なお、コラムの中で触れた一ツ橋の学士会館の前庭にある「日本野球発祥の地」ブロンズ像も載せておきます。
近くを通りかかったら、ご覧下さい。
野球発祥


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【2008/05/11 11:18】 | さつま人国誌
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日次記です。

5月7日(水)丁未 天晴
午前中、霞会館に行く。
大久保利泰氏と面談。
甲東祭の資料写真を見せていただく。昭和30年代の大久保家旧邸が鮮やかに蘇っていた。
新聞連載の関係で、大久保利通の長男利和と二男牧野伸顕の幼少の頃の写真を拝借した。
岩倉使節団で渡米したときのフィラデルフィア時代のもの。
13歳と11歳で、凛々しいながら、とてもかわいい。
10日(土)の「さつま人国誌」に掲載予定。

5月8日(木)庚戌 天晴
10日の馬の博物館での講演レジュメに四苦八苦。
結局、枚数が多くなってしまった。主催者側にも、聴講者のみなさんにも負担をかけそう。
でも、馬揃えの意義を語るには、左大臣推任や譲位問題に触れないわけにはいかず、致し方ない。諒としていただきたい。

5月10日(金)己酉 天晴
来週火曜日から鹿児島への史跡ツアーが始まる。そのための細々とした準備に忙殺された。
来週はほとんど自宅にいないから、あらかじめ来週分の仕事を済ましておかないといけない。てんてこ舞いとはこのこと。

息抜きに自宅庭にたわわに稔ったサクランボを収穫。
お隣さんの敷地に枝が伸びていたので、その分を剪定し、実を付けたまま差し上げる。迷惑料として。
通りがかりのおばさんが興味津々で尋ねてくるので、次々に差し上げる。どっちにしろ、食べきれないのだ。
あとは鳥が食べてくれるだろう。でも、完熟期を狙って、カラスが大群でやってくるのは何とも。いつぞや樹がまっ黒になっていたのには驚いた。

京王のツアーが応募者殺到で、いくつか追加興行と相成る。
有難い話だが、何かと大変である。

信長ものの企画も大変だ。
最近はレジュメか企画書かガイドブックばかり書いているような気がする(爆)。

ネットで申し込んでいた古書やCDが届く。
CDは懐かしの70年代ものが多い。ベスト盤なのは致し方ないが、意外とリーズナブルだった。

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【2008/05/09 18:02】 | 日次記
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ぶるぼん
桐野先生、このたびは急な締め切りが入ってしまい、馬の博物館の講演会に行けず申し訳ありませんでした。
せっかくお会いできるチャンスだったのですが。別の機会でぜひお会いできることを期待しています。

御料所代官の交替要求
Tm.
桐野先生、講演お疲れ様でした。

今回のお話のなかでは特に、『お湯殿』天正9年1月4日の条に正親町天皇の側室格であるべき大典侍・万理小路房子について「女院」との表記が見られるとご指摘に興味が惹かれました。
そのことからも先生は、誠仁親王(房子の子)が当時既に実質的に「天皇」として見られていたことの例証に挙げられておられましたが、ただ『お湯殿』の場合は宮中女房の記録ということで、房子に対する天皇の寵愛が一際深かかったことが反映され、薨去した彼女を実質的に「女御」であったと見てそのような表現がなされたものであり、親王に対する巷間の認識とはまた別のものではないかとも思われますが如何でしょう。

親王が実質的にも「天皇」として(天皇は「上皇」?として)振舞っていたのも事実でしょうが、一方で『お湯殿』は親王を「宮の御かた」と記していることも事実であり、譲位が成されていない上ではあくまで「東宮(皇太子)」であり、それだけに朝廷としても一刻も早い譲位、即位が望まれていたのでしょね。

さて質問の際には上手く説明できなかった「腹立事件」の流れでの「御料所代官の交替要求」についてですが、『お湯殿』天正8年8月15日の条に次ぎのようにあります。
  むら井より御れい所のたいくわんともみな(みな)かへのよし申。
  よへ御れい所の事に。宮のかたより文しん大すけとのまてまいる。
  御きもいりに上せうゐんをニてうへまいらせるヽ。
元は言えば、この問題は3年前に端を発するもののようであり(『お湯殿』天正5年2月7-8日の条)、そのときには天皇の意向によって代官の交替が行なわれています。
村井貞勝はその折の「三ねんきうあん(阿野休庵)もち(待ち)」との約定を実行したものと考えられますが問題は何故それが「腹立事件」直後に持ち出されているのかということです。

そもそも「休庵の三年待ち」というのが誰の意向なのかということもあり、自分はどうも貞勝の調停ではなかったのかと考えますが、よしんば天皇の裁定であったとしても、「安土山図屏風」を高覧に供し賛辞の勅書を要求した翌日にそのような要求を申し入れるというのは唐突過ぎるやに思われますし、何よりそれが信長が大坂への検分に下る当日であったというのも気にかかります。
しかも、交替させられる公家公家の八人の半数(※飛鳥井雅継は不明)が親王の側近であり、それが親王から大典侍への書状に関わるのではないかと推察されます。
それはすなわち、「腹立事件」でこじれた?関係の修復と言うより、逆に信長が主権の再確認を迫った行為であったと見るべきではないでしょうか。

実際に「腹立事件」が何時起きたかは不明ですが、同じころに石山本願寺が焼失するという事件が起きており、それを落ち度に(それだけではないのですが)佐久間親子が追放され、続いて三人の重臣たちの追放までもが行われているなかでそうした出来事があった訳ですから、このときの信長は不機嫌の極みにあったのではないかと思われます。
また、信長が嫡男・信忠から能道具や津田宗及から文琳の茶壷を取り上げたのはそれから程なくしてのことと思われ、信忠との和解が翌9年7月に(『お湯殿』)、そして宗及への返還が8月と伝えられている(『宗及茶会記』)ことも見過ごせません。

つまり自分としては、馬揃の背景はそう単純なものではなく、信長自身が人間関係に様々な問題を抱えているなかでそれらを解決すべく行ったのではないかと考えるものです。


また長々と愚見を述べてしまいましたが、今後もまた講演(信長関連でですが)のあることを楽しみにしております。


講演、お疲れ様でした!
織田 創
地元神奈川で桐野先生の講演ということで、参加させていただきました。数分遅刻しての入場申し訳ありませんでした。

普段あまり目にすることの出来ない史料に解説も加えていただきいろいろと勉強になりました。ありがとうございます。
また、このような講演が開かれるのを楽しみにしています。

講演拝聴しました
ぴえーる
先日の講演、途中からですが拝聴しました。
馬揃えとその周辺の話題に関して知らなかった史料や事実を多々学ぶことができました。
時間も無く、馬揃えからも離れる話題なので質問は控えたのですが、譲位や金神を持ち出してまで信長が左大臣任官を避けたのはなぜなのか、お考えを伺いたいです。
講演の中ではその辺の説明が無かったように記憶していますので(記憶違いでしたら申し訳ありません)。

『お湯殿』2月1日の条
Tm.
追申です。

改めて「馬揃」について論じた論文に目を通したところ、今回のレジュメには採録されていなかったのですが、『お湯殿』2月1日の条に、中山親綱が誠仁親王に「こんと馬のりのふれのかきたて」を見せたところ、親王もまた「御うれしきよし申」されたとの記述がありました。
橋本政宣氏(『近世公家社会の研究』)によれば、「かきたて」とは例の光秀宛ての朱印状ではないかとのことであり、とすれば、親王もまた「馬揃」を楽しみにしていたのは間違いないようですね。

ただその上でなお指摘すべき点があるとすれば、3月5日の2回目の「馬揃」を見物する皇族、公家衆の描写について『信長(公)記』と『兼見』に相違が見られることであり、前者が前回同様であったように伝えるのに対し、後者の記述からは前回とは打って変わって簡素なものであっと見られ、親王も忍んでまて見たかったというより、そうせざるを得なかったと見るべきでなのではないかと思われます。
『お湯殿』が「むまそろへひんかしにてあり」と素っ気無い記述に止めているのも、2回目の「馬揃」が必ずしも望まれたものではなかったことを物語っているのではないでしょうか。

つまり、2回目の「馬揃」には1回目のそれとは異なる意図が込められており、と言うより、本来、秘められていた意図を全面に打ち出して行われたものであり、朝廷方でもそれを感じ取っていたことが『兼見』の如き状況に現れているのではないでしょうか。


講演お疲れさまでした
板倉丈浩
いつもお世話になっております。
さて、レジュメが厚くなったと聞いて(笑)、急遽参加・拝聴させていただきました。
期待に違わず充実した内容で、特に『言継卿記』永禄13年(元亀元年)3月17日の記事にある、徳川家臣50人の騎乗披露(見物人2万人!)が先例となっていたのではないかという指摘は、管見の限りこれまでに無いもので、非常に斬新なものでした。

長文で恐縮ですが、レジュメの項目ごとに気になった点を列挙しておきます。

(1)明智光秀あて信長朱印状の異同について

史料を丁寧に読む桐野さんならではの指摘だなあと感心して聞いておりました。
ただ、帰宅して関連書籍を読み返しておりましたら、橋本政宣氏が『近世公家社会の研究』p175~176で同様な指摘をしていましたね(^^;
(追記)立花京子氏の『信長権力と朝廷 第二版』のp280にも同様な指摘がありました。

(2)戦場に出る公家衆:陣参公家衆

信長政権は朝廷と室町幕府の関係を引き継いでいる側面があり、「馬揃え」は公家衆や旧公方衆も含めた軍事力再編成でもあったということで、なるほどと思いました。

ただ、禅宗五山住持への公帖発給のように、追放された将軍義昭が権限を保持し続けている分野もあったこと、秀吉政権には陣参公家衆に相当するものが存在しなかったことも指摘しておきたいと思います。

(3)馬揃の発端は何か

史料的には朝廷側の自発的希望とあるが、信長側にも生母の死に悲しむ誠仁親王を励ます意図があったのではないかという堀新氏の説に沿ったご説明でした。

ちょっと思い出したのは、戦国期の左義長(三毬打)というのは朝廷と京都民衆を結びつける重要行事であったという清水克行氏の指摘でして(「戦国期における禁裏空間と都市民衆」日本史研究426)、親王個人への激励というよりは「何か派手なイベントをやってほしい」という一般的なニーズがあったようにも思えますがいかがでしょう。

(4)信長が目指したものは何か

左大臣推任と譲位問題は随伴事象であって、譲位は朝廷側の希望であり、「金神により譲位延期」を申し出たのは信長側だった、という立花京子氏や堀新氏の説に沿ったご説明だったと思います。

以前から引っかかっていたのは、ではなぜ朝廷側が熱望する譲位が実現しなかったのかということなんですが、立花氏や堀氏はこの点あまり明確ではありません。
橋本政宣氏は譲位に伴う財政負担を理由に挙げていますが、問題が提起されてから実に10年近くも先送りを繰り返すのは、それなりの政治的理由があったと考えるべきでしょう。
桐野さんは統一戦争による多忙が理由ではないかというご説明でしたが、後の秀吉政権下において天下統一前の天正14年に譲位が実現していることをどう考えるか。

で、ここからは私見ですが、

・戦国期の室町幕府が一貫して生前譲位を認めていなかったこと
・正親町天皇の即位が将軍不在により、なかなかできなかったこと
・秀吉による五山公帖発給(前述)の開始と正親町天皇の譲位実現がほぼ同時期であること

を併せて考えると、室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを信長は躊躇していたように思えます。
譲位問題については、「誠仁親王の即位」「義昭の引退」「義尋(義昭の子)の将軍襲職」を同時に実現する構想を信長が持っており、それゆえになかなか実現しなかったのだとする朝尾直弘氏の説に魅力を感じています。


Tm.
板倉さんこんにちは。
当日は、事前の準備もちゃんとせず要点を得ない質問で、余計なお時間を摂らせてすいませんでした(笑

家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり、何方かの論文で知ったのかも知れませんが思い出せません。
かなりの評判を呼んだようですが『信長(公)記』には記されておらず、信長がそれを如何に思ったか興味を持たれるところですが、後々の「馬揃」に繋がっていたのではないかと自分も思っています。


>室町幕府を完全に否定して自分が取って代わることを
 信長は躊躇していたように思えます。

とのことですが、おそらく信長も義昭追放直後はその様に考えていたと思います。ただ、蘭奢待の切り取り辺りから義尋の擁立については考えを改め、信長は自身の政権創りを模索し始めたと考えられます。信雄の将軍任官が噂(『尋憲記』天正2年3月24日の条)されたのもそれを窺わせるものと存じます。

その上で譲位が遅々として進まなかった理由としては、信忠の官位昇進が絡んでいると自分は考えます。信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう。
天正10年の三職推任の際に晴豊が特に将軍を推したのも、そうした経緯を察してのことだ思います。

ただ朝廷としては信忠を将軍に任官する名分がなく、信長もそれを強要出来なかったことが譲位の進まなかった真の理由だと思います。


レスありがとうございます
板倉丈浩
Tm. さん、こんばんは。
熱心に質問されている後姿を拝見しましたが、よく調べていらっしゃいますねえ。

>家康の「馬揃」については、以前ヤフーの掲示板の方でも触れたことがあり

これも全然知りませんでした(汗)

>信長としては、息子の信忠を将軍とした上で譲位を図る心算があったのでしょう

確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったことから見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかったのに対し、朝廷は信長を早く将軍にして譲位(=朝家再興)を実現したいと考えており、そのへんに行き違いがあったんじゃないかという印象を私は持っています。

中将さま 被成御光儀候
Tm.
板倉さんどうも。

>確かに信長が天正6年に右大臣を辞したときに信忠への顕職譲与を要望していますが、
 その後も信忠は全く昇進しておらず、信長の後継者として礼遇されているものの、
 昇進は話題にすら上っていませんので、結局は建前論だったのではないでしょうか。

安土城天主倒壊?の件で述べたかと思いますが、本来、天正6年という年は織田政権?にとって一大転機となるハズではなかったかと自分は考えています。

4月9日に信長が両官を辞任する直前、信忠は連枝衆、滝川一益、明智光秀ら重臣、近江、若狭、五畿内の軍勢を率い大坂へ出陣していますか、それは当に顕職譲与の為のアピールなのではないでしょうか。
また、『宗及茶湯日記』の4月20日の記述によれば、その日、妙覚寺で信忠主催の茶会が行われ、佐久間親子から献上された茶道具のお開きが行われていますが、それらは先の出馬を受け、顕職譲与(内定)を祝うものであったのではないかと思われます。

結局、直後に出陣した播磨攻略が思わしくなく、荒木村重の謀叛などもあり西国平定が膠着状態に陥り、その後も佐久間親子の処分を巡ってと思われる信長と不和もあり、信忠への顕職譲与(昇進)は実行されなかったのではないかと推察されます。

誠仁親王のへの譲位もまた、それに吊られる形で延びてしまったものと考えています。


>このへんは意見が分かれるでしょうが、敵対し続けた義昭が最後まで解官されなかったこと
 から見ても、信長が朝廷と協調しながらも義昭との和解という選択肢を棄てきれなかった
 のに対し、

先に「信忠を将軍に」と述べましたが、実際のところ信長は征夷大将軍という肩書きにはそれ程こだわっていなかったのではないでしょうか?
出典は不明なのですが、藤田さんの『謎とき本能寺の変』に、信長が義昭について「西国の公方になられるべきである」と言ったということが記されており、そのことが窺わせられます。

またもし信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが、その点いいがでしょうか。

まぁその意味でも、将軍にこだわっていたのは朝廷側であったのかも知れませんが。



信長・義昭の和解
板倉丈浩
Tm. さん、こんばんは。
ブログ主さんをさておいてこれ以上議論するのも何なので、手短に。

>信長が義昭との和解を望んでいたとしたら、天正2年以降も何かにつけて義尋を立てていてもよさそうな気がしますが

そうなんですけど、それは義昭あっての義尋ということであって、還京交渉が再開すれば、その存在が再浮上したのではないでしょうか。
義昭は信長以外の大名には「京都に帰りたいから尽力せよ」と訴えまくっていますから、信長としてはもうしばらく待てば自分に泣きついてくるという読みがあって、放置プレイを決め込んでいたということなのではないかと。

うーん。。。手短になっていませんね(汗)。
「西国公方」の典拠については、私もちょっとわかりません・・・。

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横浜市根岸にある馬の博物館(根岸競馬記念公苑)。

現在、次の展示を開催中です。

春季特別展「ホースパレード ~華やかなる日本の行列~」  第2・3展示室

展示会の概要については、ここをご覧下さい。

なお、今月10日(土)午後2時から、同館で私の講演もあります。
関東方面で時間と関心のある方は、ご出席下さいませ。

詳しくはここにあります。

天正9年(1581)、洛中で挙行された信長の馬揃えについてお話します。
馬揃えは信長が正親町天皇の希望に応えて開催したものだと思いますが、研究者によっては、そうではなく、信長が朝廷に軍事的圧力をかける目的で行ったのだという見解もあります。織田権力期における公武対立の重大事件というとらえ方です。
そうした見方は果たしてどうでしょうか。まあ、馬揃えが実際に開かれるいきさつなどを考えれば、おのずからわかることだと思います。

なお、この馬揃えは朝廷の左大臣推任と、それに対する信長の譲位取り計らいという、織田権力末期の重要な公武交渉のきっかけにもなりました。むろん、そのあたりにも触れる予定です。

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【2008/05/06 21:37】 | イベント
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腹立事件と馬揃え
Tm.
お久しぶりです桐野先生。
歴読の連載、毎号楽しみに拝読させていただいております。
10日の講演には是非とも出席させていただきたいと思っていますが、事前に愚見を延べさせていただきたいと思います。

>馬揃えは信長が正親町天皇の希望に応えて開催したもの
 だと思いますが、

とのことですが、立花さんの「左義長から馬揃えへのすり替え」論については明らかに飛躍し過ぎた発想であり、自分もそれが、信長が朝廷=正親町天皇に対して軍事的圧力をかける目的行なったとは思っていません。ただしかし、「天皇の希望」が本当に天皇の自発によるものと断じることが出来るのでしょうか。

『お湯殿』によれば織田方に「天皇の希望」が伝えられたのは天正9年の1月24日のことですが、その前日には光秀に対し「京都馬揃え」への指示が出されており、同日には安土での爆竹(左義長)に参加した近衛前久の息子・信基が参賀していることからすれば、天皇の希望の以前に「織田方の開催希望」があり、前年暮れの新大典侍薨去による重苦しい雰囲気の払拭を望んでいた天皇の思いと一致し、結果、「天皇の希望」の申し入れになったというのが真相なのではないでしょうか。

その場合に考えるべきなのが「織田方の開催希望」の意図であり、京都での馬揃えに、広く天下に織田権力の権勢を誇示する目的があったことは言うまでもありませんが、何故それがその時にであったのでしょうか。織田方にも朝廷側と同じ思いが有ったのでしょうか。

一つには、前年に石山本願寺との和睦が成り天下平定の障害の一つが取り除かれたことが挙げられのかも知れませんが、自分は、その際に起きた誠仁親王への「立腹事件」が関連しているのではないかと考えております。
信長としては自分の意に異を唱えた親王に対し何らかの態度を示す必要がり、また同じ頃、嫡男・信忠との間にも不和を生じていたことから、親王の父である天皇の意向(威光)を利用することは一石二鳥の効果があったのではないでしょうか。


>なお、この馬揃えは朝廷の左大臣推任と、それに対する信長の
 譲位取り計らいという、織田権力末期の重要な公武交渉の
 きっかけにもなりました。

「金神」の件も研究者によって見解が分かれていますが、信長は親王に対し「即位」をちら尽かし、結局は延期=取り消すことで追い討ち?を掛けたのではないかと思います。
天皇のアンコールによって行なわれたハズの二回目の馬揃えの様子と、それに対する『お湯殿』の素っ気無い記述が、真さにその辺を物語っているのではないでしょうか。


長々と愚考を述べさせていただきましたが、10日の講演、楽しみにしております。

自発
桐野作人
Tm.さん、こんばんは。

コメントいただいた件ですが、講演内容に関わることなので、先走るのもどうかと思います。

ただ、正親町天皇の「自発」か否かという点について、前提となる点を確認しておきます。
信長のやる左義長は宮廷でやる左義長とは異なっているのは明らかで、正親町天皇もあらかじめ、その違いを認識していいたはずで、誰かがそれを天皇の耳に入れたということでしょう。
そのとき、単に情報伝達だけでなく、よろしかったら気晴らしにご覧になったらどうですかといった慫慂があったとして、それが「強制」と同義だとは限らないと思います。

仮に強制があったとしても、健康上や服喪などを理由に、天皇はいくらでも断れるはずですから。

とりあえず、この場ではこれくらいで。
土曜日は参加されるそうで、有難うございます。


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歴史読本連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第6回

現在発売中の6月号掲載分です。
先月下旬には発売されていましたから、少し紹介が遅れました。

今回のタイトルは表題の通りです。
~前夜で、なかなか桶狭間合戦に入れません。
このペースでは2年間で書ききれなくなる恐れもあります。
もう少しペース配分を考えたほうがいいと思いますが、桶狭間合戦だけはゆるがせにできないので、痛し痒しです。

さて、今回は岩倉城の伊勢守織田家との最終的な対決を書きました。
信長と岩倉方が戦った浮野合戦について、『信長公記』首巻の記述だけではとてももの足りないので、『甫庵信長記』『武功夜話』などを援用してみました。
これらの軍記物は史料的な信頼性という点では少し疑問符がつきますが、慎重に補足的に使用してもよいのではと思っています。
とくに『武功夜話』に関しては、近年、筆誅されておりますが、少なくとも浮野合戦で織田方が付城を築いたという記事は首巻には見えませんが、この合戦の不明な点を補う典拠になるのではと思っています。
というのも、同書における前野長康の記事が、首巻とも合致しているように見えるからです。

あと、首巻は天理本も紹介しました。
斎藤道三が討死した長良川合戦で、信長は救援に赴きますが、間に合いませんでした。
織田軍は美濃太良というところに陣を構えていましたが、そこからの退却戦の様子が、陽明本と天理本では異なります。
とくに天理本の記述が面白いです。
信長は家来たちを先に退却させたうえで、自分一人残って殿(しんがり)します。そして鉄砲を放って斎藤方を撃退するというかっこよさです。
天理本には「御一人残り候」とありますが、おそらく助手というか、弾込めする中間か小者も随伴していたはずで、信長は何挺かの鉄砲を装填させながら、次々と発射したものでしょう。橋本一巴に習った腕前は相当なものだったと想像されます。斎藤方が撃退されたというのがそのことを示しています。

といったような内容を書いております。

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【2008/05/05 23:25】 | 信長
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桶狭間合戦
木暮兼人
実は私の家と実家は桶狭間合戦の史蹟が
点在している真ん中にありまして
そのご縁で少しばかり史蹟を取材したこともあります。

勉強不足がバレてしまうので詳しくは書きませんが
赤塚の合戦(織田VS今川の小競り合い)から
桶狭間への流れはとても興味深いです。

赤塚のあたりは今は墓地なのは古戦場だからだろうかと
子供のころにぼんやりと思ったことがあります。

いいところ
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

桶狭間の近くにお住まいなのですね。
うらやましい。

赤塚は私も行ったことがなく、原稿は史料だけ見て書きました。とくに「三の山」の比定地については確認したわけではありません。
木暮さんは「三之山」という現地名のあたりは行かれたことがあるでしょうか?

またいろいろ教えて下さい。

僭越ながら
木暮兼人
生まれてこの方、ほぼ緑区の鳴海地区在住で
当地での生活は正味30年くらいでしょうか(笑)

作家の方々が現地に赴いて取材をされて
その上でお話を展開されるのは難しいことなのでしょうね
某作家さんなどは「イメージが壊れるから訪れない」とまで
おっしゃっておられました

「三の山」という表現の地名には私は覚えがありませんが
「三王山」という土地は確かに存在します
地元では赤塚合戦よりも松尾芭蕉にちなんだ史蹟で
有名なところだと記憶しています
「千句塚公園」と言うのですが、鳴海城の北側につらなる
丘陵地帯の一端に存在します
同じ敷地内に「鉾の木貝塚」、という史蹟もあるくらいで
旧石器時代は海に面していた土地と私は想像しています。

三王山
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

前回のコメント、うっかりしておりました。
「三王山」でした。訂正していただき、有難うございます。
松尾芭蕉で有名とは知りませんでした。
鳴海城の北側に連なる丘陵地帯とのこと。
多少、比高はあるというか、小高い丘という感じなのでしょうか? そこから東方の赤塚あたりは見えるんでしょうかね?
赤塚も小高い丘のような気もしますが。

地元の方と知り、質問ばかりですみません。

三王山
木暮兼人
いえ、こちらこそ、知ってることしか書くことが出来ず
却って申し訳ありません。

三王山は周辺に比べれば盛り上がった土地ですが
赤塚まで距離があることと、
現状、間に住宅地が挟まっていて
#ここも多少、小高かった記憶があります
本当に三王山から赤塚が俯瞰できるかというと疑問です

多少お時間をいただければ、写真など撮ってまいりますが。
ご希望の地点や方角などおありでしょうか。
ネットで検索した限りでは三王山から赤塚方面を撮影した
写真は見つかりませんでした。

余談になりますが。
緑区在住の有志の方が作成された、鳴海宿の散策コースの地図
(公的に発行された・鳴海の史蹟の地図)は
等高線の書かれた地図がベースになっています。
千句塚公園関連で、三王山も含まれているのですが
それによると三王山と赤塚の間の「山の根」あたりが
多少、小高そうです。
地図をみて「三王山」と「山の根」のつらなりは
どうなっているのかが気になりました。

山王山
かぎや散人
三王山(さんおうやま) 三王社を祀った山ですから、三ノ山とも書かれますが山王山が正しいとされています。
明治二十四年の1/20000地形図によれば、三王山から鳴海城は十分に俯瞰できます。赤塚は新海池の西側辺りをいうわけですが、三王山から尾根続きで同等高線の陰になっているので、尾根を下りれば見通すことはできません。当時の鳴海城から完全に行軍を秘匿して赤塚に九郎次郎が赤塚に集結するには、善照寺砦の南側からその東へ回り込み、そこから北上するコースが可能だったかも知れません。

簡単にこの辺りの地形をいいますと、「。?」型をした尾根をもつ丘陵でして、?の始点が山王山、天辺が標高33mの最高点、弧の右肩が赤塚でその右(東)が新海池、?の点が善照寺砦で、それから左に離れて孤立した「。」が鳴海城です。

ですから、山王山を攻めるには尾根伝いに行くのが最も簡単な攻撃路なのです。迂回でも何でもありません。兵法の常套経路です。おそらく、当時の道も鳴海城から花井~光正寺(光正寺貝塚、室町以前の寺)~赤塚という丘陵上を通っていたものと考えてもよいのではないでしょうか。
しかも三王山には既に信長が付城に相当する陣城(幅5m以上、深さ2m超の堀を有す)を築いていたらしいと『名古屋市史』では考えていますから、それを攻撃するとなると、尾根続きになる赤塚から行くのが自然な選択だと思います。
迂回したわけではありません。山上の砦を下から攻めるよりも、同一標高の尾根から攻めるほうが攻撃正面は狭くなっても、攻めやすいからです。
そう考えますと、九郎次郎は既存の道を通ったとしますと、山王山の信長はこれを知ることができたわけです。

いかがでしょうか?

三王山-赤塚の補足
木暮兼人
歴史読本の方がまだ手に入っていなかったので
お話が見えてない部分がありました。申し訳ありません。

地形についての説明は、かぎや数人様の上記の説明は
大変わかりやすい。
丘の点在する丘陵地帯をどう説明したものか、悩んでおりました。
ただ、鳴海城から赤塚への移動は今の「乙子山」を経由しては
いないでしょうか?
それとも今の地名でいう「光正寺」周辺から「丹下」へ展開したのでしょうか?
右側へ展開したのであれば「乙子山」経由のはずですが
当方、なにより当該の記事を読んでおりませんので・・・
申し訳ありません、取り急ぎ手に入れるようにします。

今日明日あたりで、名古屋市の図書館で史料を紐解いて見ます。


名古屋市史
桐野作人
かぎや散人さん、こんにちは。

三王山についての詳しいご教示有難うございます。
それで、出典の「名古屋市史」ですが、最近刊行された「新修~」ではなく、旧版のほうでしょうか?
もし旧版ならチェック洩れでした。
やはり先行研究でもやられていたのですね。
三王山に付城が築かれたのは、赤塚合戦の頃なのでしょうか? 付城は当然鳴海城が対象ですよね?

三王山に関して管見の限り、目につかなかったので不勉強を恥じ入るばかりです。

山王山陣城
かぎや散人
ご無沙汰しました。
先生の連載は毎号楽しみにしています。

名古屋市史ですが新修の第二巻第五節p622で、丹下砦が築かれるまで機能したと考えられているようです。

赤塚 その2
かぎや散人
最近、江戸期の村絵図を見ていて次のような記載がありましたので、先のコメントを撤回して考え直します。

天保十二年(1841)丑五月の愛知郡鳴海村絵図によると、鳴海神社の北側で現在の乙子山(オトコヤマ)という辺りが「赤塚」となっており、その北が「大塚」、その北が「娵(嫁)ケ茶屋」、その北が「田知山」(その後、伝次山や田地山とも書いた)となっており、その東側が「新海池」とあります。

三ノ山は「三王山」という表示になっています。

問題は、桶狭間合戦当時も同様な地名であったかということと、牛一の書く距離と合致しないことがあります。この場合にはどちらからも600m程度しかありません。

鳴海神社は天武天皇朱鳥元年尊とその御東征を翼賛した尾張氏祖とを併せ祀ってこの所に創建されたとされ、延喜五年制定の律令書「延喜式神名帳」には尾張国愛知郡成海神社と登録せられ、文治二年の「尾張国内神名帳」には従三位上成海天神と称えられています。戦国時代当初の応永年中に、足利氏の武将・安原宗範が字「城」の地に築城するため成海神社を乙子山の現在地に奉遷したともいいます。

ともあれ、戦国時代の「赤塚」が乙子山だとしますと、信長と九郎次郎は山王山と鳴海城のちょうど真ん中あたりで戦ったことになるわけです。

すると、『信長公記』の記事は次のようにも解釈できると思います。

信長は、鳴海城を攻撃するためにその後彼の常套手段となる付城を拵えるために、昔砦があって工事のし易い山王山に陣城を築くために出陣した。

それを見た九郎次郎が、工事を妨害すべく出動してきたために、信長はそうはさせじと、これを迎え撃ったことになるわけです。

つまり、九郎次郎は信長を笠寺の駿河勢と挟撃する目的で出陣したわけなどではないというわけです。

この場合の信長は、笠寺や中村などにも付城を築かせて、山口左馬助や駿河勢を封じ込めていた可能性もあります。たとえば、『尾張徇行記』によれば南区岩戸町の白毫寺のある場所には山崎砦があったといいますが、これなどは桜中村城の山口左馬助を押さえるために佐久間信盛によって築かれたとものとも考えられるかもしれません。つまり、山口氏の寝返りによって大幅に西え伸びた義元の勢力も、中国大陸での日本帝国軍のように、点と線だけの支配であったのかも知れないわけです。

もう一つの問題は、赤塚の地名が移動した時期と謂れです。何方か御存じの方が居られましたら教えていただきたくお願いします。


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NHK大河ドラマ「篤姫」第18回「斉彬の密命」

ドラマ進行時点は安政2年(1855)10月から翌3年11月。

嘉永6年(1853)あたりは1年を数回もかけましたが、今回は1年を1回と進行が早く、一気に入輿までいきましたね。

斉彬や篤姫は渋谷藩邸に移っているはずですが、屋敷の各所で普請をしており、そういう描き方ではなかったですね。
安政3年夏には、斉彬が渋谷の藩邸で電信や電気の実験をしているのですが、そんな興味深いエピソードもスルーでした。

今回もあまり書くことはありませんので、2,3指摘するに留めます。

○7歳年上女房?
肝付尚五郎が小松家の継目養子となり、ついにお近と縁組することになりました。
尚五郎が小松家を正式に継いだのは安政3年(1856)正月27日ですから、縁組もその前後でしょう。
それで、お近が尚五郎よりも7歳年上だとナレーションがありました。
これは時代考証担当の原口泉氏の持説だと思われます。近刊でもそのように書かれているのですが、その出典が示されていません。何か史料があってのことだと思われますが……。

ただ、7歳年上説は微妙ではあります。
琉球で客死した先代の小松清猷は文政10年(1827)正月24日生まれで、安政2年(1855)6月17日に没していますから、享年29です。
一方、小松は天保6年(1835)生まれで、安政3年(1856)には数えの22歳になったばかり。
お近はそれより7歳年上ですから、当年29歳。
清猷とお近は1歳違いの兄妹だったことになります。
まあ、ありえないことはありませんし、清猷の生誕月が正月ですから、実質2歳近く離れていることもありえるわけで。
可能性としてはありえますが、出典がわからないものですかね。

○近衛邸への使者は?
京都の近衛邸に島津伯耆が使者となって,篤姫養女縁組の御礼をしておりました。
島津伯耆はこの年、安政3年6月23日に家老となっているので、新米の家老ということになります。
諱は久福。知覧に所領がある佐多島津氏の当主です。幕末期には所領6700余石の大身で、もちろん、門閥である一所持の家格です。

ただ、このような使者に家老が命ぜられるのはやや不審です。
実際、このとき、近衛家の使者に立ったのは家老より役職が下の者です。
斉彬の側近の竪山武兵衛の日記「竪山利武公用控」安政3年6月10日条に次のようにあります。

「又京都えの御使者、肝付左門并に梶原清右衛門義は仰せ渡さるにより、両三日の内出立仰せ付けらるべき哉」

使者を命じられたのは肝付左門と梶原清右衛門の2名です。
肝付左門は諱が兼両。ほかならぬ尚五郎の長兄です。この時期の役職はわかりません。
ただ、その後変更があったようで、実際に使者になったのは梶原だけだったようです。

○「篤君」と呼ぶべき
近衛忠煕との養女縁組により、篤姫の呼称は「篤君」になります。これは摂関家の姫には通例の君号です。近衛家から正式の君号が書面で送られています。そして、島津家中でも「篤君」と呼ぶよう布告が出されています。
ですから、本来ならその時点から「篤君」と呼ぶべきです。しかし、そうではなかったですね。まあ、ドラマのタイトルが「篤姫」ですから、呼称で混乱を起こしたくないのでしょうが、それなら、斉彬がよく使った「篤子」も問題ありなわけですが。「於篤」くらいが一番無難だったでしょう。

最後に、大奥からの迎えの使者として、老女滝山が登場しましたね。
のちに、大奥で最大の宿敵になる人です。
稲森いずみ、老女役だからなのでしょうか、2年ほど前の大河「義経」での常盤御前より老けて見えたのは気のせいか。

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【2008/05/04 23:31】 | 篤姫
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サトシ
また拝見させていただきました。
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なるほどです
アキ
ちょくちょく拝見しています。継続して更新凄いです。僕も努力しないと・・・。最近寒いので体に気をつけて下さい。また覗きに来ます。

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いささか旧聞に属するが、大河ドラマ「篤姫」の数回前の「篤姫紀行」で、島津氏発祥の地を出水市だと紹介したことに対して、旧島津荘があった都城市が抗議するといういきさつがあった。

この問題について、何をもって「発祥の地」とするか、その定義が曖昧なままで事態が進行したように感じていた。
当ブログでも、島津氏祖の惟宗忠久の生誕をもって島津氏発祥とするなら、京都だったという議論も成り立つだろうといったやりとりもあった。

地元紙南日本新聞4月16日付で、薩摩の中世史に詳しい三木靖氏(鹿児島国際大学短期大学部名誉教授)がこの問題について表題のタイトルで寄稿している。簡潔でとてもわかりやすい記事である。
前から紹介しようと思ったが、忙しさにかまけてできないでいた。遅ればせながら、要約して紹介したい。なお、同社サイトには転載されなかったようである。


惟宗忠久は1185年(寿永4年)、源頼朝から薩摩・大隅・日向にまたがる荘園島津荘の下司職に任命され、その後、薩隅日のほか、諸国で守護や郡地頭職に任命されている。そのなかで、もっとも広大な島津荘を本貫にしようと、「島津」姓を名乗った。

これだけだと、島津荘の中心地だった都城市が発祥地のようにみえるが、忠久は現地に赴任したわけではない。三木氏も「惟宗を名乗っていた時代を含めた「島津家」の発祥地は京都と考えることもできるし、島津を名乗った時点を発祥とすると鎌倉とも言える」と指摘している。

問題は島津氏がいつ南九州に土着化したかという点。その伝承のとらえ方によって、出水説と都城説が派生したと、三木氏は指摘している。
忠久の南九州移住の伝承を形成した端緒は、どうやら『山田聖栄自記』(鹿児島県史料集Ⅶ)らしい。15世紀後半に書かれたものだが、忠久の移住について次のように記している。

「先薩摩山門院に御下、夫より嶋津之御荘ニ御移、嶋津之(御)庄ハ庄内也、三ヶ国を庄内為懐依り在所也、去程庄内南郷内御住所城(堀)内ニ嶋津御所作有て御座候訖」

【出水説】
冒頭にある「山門院」(やまといん)は出水のことである。これをもとに、『島津国史』(江戸後期成立)は1186年(文治2年)に忠久が木牟礼城(現・出水市)に入ったとし、『三国名勝図会』(江戸後期成立)も、忠久以降、島津5代が木牟礼城にいたとする。
一度失脚した忠久が1213年(建保元年)、薩摩国守護職に再任されたとき、薩摩国内に守護所を設けたとされ、これが出水発祥説の根拠となっているようである。
また出水市(旧・野田町)の感応寺に忠久から貞久まで5代の墓があるが、これも島津氏が建立したかどうかわからないと、三木氏は指摘する。はっきりとは言われないが、『島津国史』や『三国名勝図会』などで唱えられた木牟礼城説に従って拵えられた墓かもしれないということか。

【都城説】
この説も同様に、先の『山田聖栄自記』の記事に基づく。忠久が山門院から島津荘の堀之内御所に移ったという部分である。それを敷衍したのが『三国名勝図会』で、1196年(建久7年)、山門院から日向島津院の祝吉御所(いわいよし~)に入り、その後、堀之内御所に移ったとする。
現在、島津氏発祥地の碑が建っているのは、祝吉御所跡伝承地だという。

しかし、史実として忠久が出水にも都城にも移住したとは認められないと三木氏は指摘し、出水説、都城説のいずれも伝承にすぎないと一蹴している。

島津氏は、初代忠久が鎌倉で活動してそこで生涯を終え、二代忠時も同様に鎌倉で没し、三代久経は元寇のとき、北九州で没している。四代忠宗も北九州にいたことが確認されている。
島津家当主で南九州に土着したことが確認できるのは五代貞久以降である。碇山城(現・薩摩川内市)に貞久の守護所が置かれていたという。となると、ここも発祥の候補地ということにならないか。

いずれにしろ、これらの史実に基づかない伝承の根源は『山田聖栄自記』にあるようだ。なかなか定評のある史料だが、一面、忠久の源頼朝庶長子説(ただし三男とする)の端緒ではないかとも思われることから、島津氏発祥や出自に関しては、何かとお騒がせな史料でもあることがわかった。

また、島津氏の出自の扮飾や島津発祥地の伝承が『島津国史』や『三国名勝図会』などの影響力に預かっているのは無視できない。どうも、そうした伝承が形成されたのは江戸時代後期、とくに重豪時代の顕著な特徴ではないかという気がする。重豪が鎌倉に源頼朝と島津忠久の墓を建立したのもそうした動きの一環だろう。

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【2008/05/04 14:38】 | 戦国島津
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リンク報告
カミタク(リンク先は「感応寺訪問記」)
【リンク報告】
いつもお世話になっております。カミタクこと神山卓也
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

 さて、私が運営しております、鹿児島県内外の観光と温泉を紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「感応寺(感応禅寺),五廟社訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAW.HTM
から、貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。



了解しました
桐野
カミタクさん

リンクの件、了解しました。
ご健闘をお祈りします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第56回
―細島の惨劇、久光の密命―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は寺田屋事件の後日談の2回目。
藩外の脱藩士たちに待ち受けていた苛酷な運命について書いてみました。
田中河内介父子・千葉郁太郎・中村主計・海賀宮門の5人が薩摩藩側によってひそかに殺害されました。
田中河内介父子は鹿児島に護送される船中で殺害され、遺骸は播磨灘に投棄され、小豆島に流れついたといわれています。
この一件は、薩摩藩側にとっても後味の悪いものだったらしく、のちに樺山資紀が語っているところによると、田中父子を殺害した海域で、よく亡霊を見たとか、夜な夜なヘンな声を聞いて、とても恐かったそうです。またその海域は海難事故が多かったそうで、田中父子の怨念ではないかと囁かれていた由。

記事の分量の関係で書けなかったことを補足しておきます。
かれら脱藩士や浪人の殺害について、久光の密命があったことを紹介しました。
久光自身は殺害せよと具体的に指示しておりませんが、受令者がそのような趣旨に受け取ったことは間違いないだろうと思われます。現場で裁量したのが誰だかわかりませんが。

なお、このとき、田中河内介は粟田宮(朝彦親王)の令旨と錦の御旗をもっていたとか。
のちに、そのことを西郷が奄美で世話になった木場伝内に書いています。それによると、錦旗は偽物で、人をあざむくものだと西郷は言っています。

それでも、田中が殺害されたことを「私に天朝の人を殺され候儀、実に意恨の事に御座候、もふは勤 王の二字相唱候儀出来申間敷」 とか「頓と是限の芝居にて御座候」とも書いており、中山家の諸大夫だった田中を殺してしまっては、「勤王」の大義が立たないだろうと、西郷は久光のやり方に批判的です。

もっとも、当時、久光の密命があったことを西郷が知っていたかどうか定かではありません。書簡の前段には中山実善(中左衛門)を猛烈に批判しているので、もしかしたら中山の命ではないかと思っていたかも知れません。

なお、田中河内介が奉公した中山家は明治天皇の生母だった中山慶子の実家であり、幼少期の天皇は中山家で養育されたそうで、田中は養育係でもあったようです。

日向細島にある海賀・千葉・中村の三士の墓は宮崎県出身の方から提供していただきました。有難うございます。
三士の墓がある古島(こしま)は細島の湾の入り口あたりにあり、干潮になると陸続きになるそうです(写真参照)。
古島

三士が薩摩藩によって殺害されたとき、その遺骸を地元の黒木庄八という人が見つけて墓碑を建て、供養したそうです。その後も子孫によって代々供養されているとか。

なお、細島(現・日向市)は日向の有名な港で、薩摩藩も参勤交代で、東目(東回り)ルートをとるときには、この港から出航することが多いです。帰路も同様ですね。
細島は幕府の天領でしたが、港のあたりには薩摩藩御用達の旅宿もあり、幕府から薩摩藩はこの港で一定の権益を与えられていたようです。
ですから、天領にもかかわらず、殺害行為ができたのでしょう。本来なら大問題だと思いますが、その後、この事件は地元でどう処理されたのでしょうか。

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【2008/05/03 12:52】 | さつま人国誌
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松裕堂
御存知かもしれませんが、一昨日付で下記↓のような記事を見掛けました。
【田中河内介父子ゆかりの小豆島 思いはせ志士たちしのぶ】
http://sankei.jp.msn.com/region/shikoku/kagawa/080502/kgw0805020216002-n1.htm

不特定多数の方が見ていらっしゃる桐野作人さんの「膏肓記」ですので、関連の話題ということもあり、知らない方もいればとりあえずと。

御礼
桐野作人
松裕堂さん、こんにちは。

記事紹介有難うございます。
拙稿が掲載された日は田中河内介父子の命日に近かったのですね(旧暦と新暦の違いはありますが)。
偶然の一致で、気づきませんでした。
やはり、何かの導きだったかもしれません(笑)。

小豆島と細島の間で交流があると知って、少しうれしくなりました。これからも連携した慰霊祭が継続されることを祈ります。

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日次記です。

もう5月ですね。正月はつい先日だったような気がしますが……。
光陰矢の如し、歳月人を待たず、原稿牛歩の如し(爆)

5月1日(木)辛丑 天晴
北海道は真夏日だったそうである。
京都に本部がある日本史研究会に遅ればせながら入会した。サイトはここです。

同会は他の学会誌とくらべて幕末維新関係の投稿が多い。現在もホットな論争が続けられているので、時流に遅れないようにと思った。
もちろん、維新史に関しては明治維新史学会があるが、こちらは会誌が年1回なので、もう少し頻繁に学会情報にアクセスしたほうがよいと思ったのが動機。

サイトの入会案内フォームに「興味のある分野」を書く欄があり、その方面のバックナンバーを見本誌として送ってくれるというので、幕末維新史と書いた。
そしたら、少し古いが、457号(2000年9月)を送ってくれた。そのなかには次の論文が収録されていた。

高橋秀直「討幕の密勅と見合わせ沙汰書」

個人的には粋な計らいだった。
同氏は昨年惜しくも故人となられたが、もともと著名な近代史研究者だった。近年、維新史学会にも彗星のように登場された方で、衝撃的な論文をたくさん発表された。

上記論文はコピーも持っているし、その後、著作(遺作)も上梓されて、それにも収録されている論文だが、発表当時の学会誌で拝読するのもまた感慨が新たになる。

現在、入会している学会はほかに明治維新史学会、歴史科学協議会(歴史評論)、織豊期研究会(織豊期研究)、国史学会(国学院大学「国史学」)、戦国史研究会(戦国史研究)だったかな?


これは戯言ですが、
私のような専門の研究者ではない自由業の立場から言わせていただければ、日本史関係の学会ではおしなべて、入会の際、専門分野や業績・出身大学・大学院などをこと細かく書かせる傾向があるように感じる。
日本史研究会はそうでもなかったが、いかがなものであろうか。
諸学会では会員数が減少する傾向にあるという。そんなとき、日本史専攻の学部生や院生、専門研究者だけを対象にしていてよいのだろうかという気がする。

これらの記載欄があるために、せっかく学会誌を読んで勉強したいと思っている一般の人でも、敷居が高いと感じ、「業績」がないとダメなのかと尻込みして入会を思い止まるケースが多いように思う。実際、そんな感想を聞いたことがある。

その点、日本史研究会の入会フォームは「入会・講読のご案内」となっていたし、「専門分野」なんて堅苦しいことを書かないで「興味のある分野」となっていた。これはハードルを高く感じさせない表現で、とてもよいと思う。
専門的に研究論文を発表しなくても、関心のある論文は読んでみたいという人は多いのではないか。そのような人々を講読者という形で取り込む工夫をしてもよいのではないか、そうすれば会員の増加にもつながるのではないかと、かねがね感じていた。妄言失礼。

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【2008/05/02 07:16】 | 日次記
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吉川弘文館より、近刊を何点か入手。
先日、購入した際に注文し忘れたものが多い。

小林清治『伊達政宗の研究』
久保貴子『徳川和子』(人物叢書)
宮島敬一『浅井氏三代』(人物叢書)
江後迪子『信長のおもてなし』(歴史文化ライブラリー)
木戸雅寿『よみがえる安土城』(歴史文化ライブラリー)


このうち、小林氏は『伊達政宗』(人物叢書)や『秀吉権力の形成』などで知られているが、この著書は遺作となった。
「あとがき」に著者の当初の構成案が書かれているが、幕藩体制下の政宗など予定されていて、書かれなかった章も多いのは惜しまれる。
しかし、著者の畢生の作品であることは間違いない。

気になったところだけ斜め読みしたが、支倉六右衛門の通説的な諱である「常長」については、一次史料にはなく、遣欧使節のときに名乗った「長経」が本当の諱だとされるようになった。
これに対して、著者は「常長」は「支倉家譜」にしか見えないが、父飛騨常成をはじめ、支倉氏が「常」を通字としているのを考えれば、「常長」も父飛騨の切腹以前の名乗りで、遣欧使節の頃に「長経」に改名したのではないかと述べている。
一次史料にはない通説的な考え方も、それなりに尊重すべきだという見解のようである。

あと、政宗は自筆の書状が多いという点も興味深い。秀吉に服属する天正19年(1591)までの現存する書状で、筆跡を判別できるもの334点のうち、半分以上の171点が政宗自筆だという。
弱冠25歳までの政宗の大名権力のありようを考えるうえで興味深い。信長文書千数百点のうち、自筆はわずか数点とされるのとは対照的である。その違いは何に基づくものなのだろうか。

『徳川和子』の著者とは旧知で、以前、輪読会などでご一緒したことがある。近世朝幕関係の専門家として、近年、相次いで論著を公表されている。
「まえがき」に、タイトルを「徳川和子」「東福門院」のどちらにするか迷った話が書かれていて、興味深かった。なかなか難しい問題だと思う。
ミネルヴァ書房の「日本評伝選」シリーズでも『後水尾天皇』を上梓されている。
最近、江戸時代の近衛家についてご教示を得て大変参考になった。これからも、さらなる活躍を祈ります。

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【2008/05/01 12:22】 | 新刊
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