膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
南日本新聞連載「さつま人国誌」第56回
―細島の惨劇、久光の密命―

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今回は寺田屋事件の後日談の2回目。
藩外の脱藩士たちに待ち受けていた苛酷な運命について書いてみました。
田中河内介父子・千葉郁太郎・中村主計・海賀宮門の5人が薩摩藩側によってひそかに殺害されました。
田中河内介父子は鹿児島に護送される船中で殺害され、遺骸は播磨灘に投棄され、小豆島に流れついたといわれています。
この一件は、薩摩藩側にとっても後味の悪いものだったらしく、のちに樺山資紀が語っているところによると、田中父子を殺害した海域で、よく亡霊を見たとか、夜な夜なヘンな声を聞いて、とても恐かったそうです。またその海域は海難事故が多かったそうで、田中父子の怨念ではないかと囁かれていた由。

記事の分量の関係で書けなかったことを補足しておきます。
かれら脱藩士や浪人の殺害について、久光の密命があったことを紹介しました。
久光自身は殺害せよと具体的に指示しておりませんが、受令者がそのような趣旨に受け取ったことは間違いないだろうと思われます。現場で裁量したのが誰だかわかりませんが。

なお、このとき、田中河内介は粟田宮(朝彦親王)の令旨と錦の御旗をもっていたとか。
のちに、そのことを西郷が奄美で世話になった木場伝内に書いています。それによると、錦旗は偽物で、人をあざむくものだと西郷は言っています。

それでも、田中が殺害されたことを「私に天朝の人を殺され候儀、実に意恨の事に御座候、もふは勤 王の二字相唱候儀出来申間敷」 とか「頓と是限の芝居にて御座候」とも書いており、中山家の諸大夫だった田中を殺してしまっては、「勤王」の大義が立たないだろうと、西郷は久光のやり方に批判的です。

もっとも、当時、久光の密命があったことを西郷が知っていたかどうか定かではありません。書簡の前段には中山実善(中左衛門)を猛烈に批判しているので、もしかしたら中山の命ではないかと思っていたかも知れません。

なお、田中河内介が奉公した中山家は明治天皇の生母だった中山慶子の実家であり、幼少期の天皇は中山家で養育されたそうで、田中は養育係でもあったようです。

日向細島にある海賀・千葉・中村の三士の墓は宮崎県出身の方から提供していただきました。有難うございます。
三士の墓がある古島(こしま)は細島の湾の入り口あたりにあり、干潮になると陸続きになるそうです(写真参照)。
古島

三士が薩摩藩によって殺害されたとき、その遺骸を地元の黒木庄八という人が見つけて墓碑を建て、供養したそうです。その後も子孫によって代々供養されているとか。

なお、細島(現・日向市)は日向の有名な港で、薩摩藩も参勤交代で、東目(東回り)ルートをとるときには、この港から出航することが多いです。帰路も同様ですね。
細島は幕府の天領でしたが、港のあたりには薩摩藩御用達の旅宿もあり、幕府から薩摩藩はこの港で一定の権益を与えられていたようです。
ですから、天領にもかかわらず、殺害行為ができたのでしょう。本来なら大問題だと思いますが、その後、この事件は地元でどう処理されたのでしょうか。

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