歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
人気ブログランキングの歴史部門で、ここ数日首位をキープしております。
みなさんのご支援のたまものです。何とか30万アクセスまで続けられたらと思っております。

日次記です。

6月26日(木)丁酉 小雨のち晴れ
名古屋での講座が終了したのち、午後4時、名古屋駅でのぞみに乗車して東京にとんぼ返り。

神保町のK女子大で「兼見卿記」の輪読会。
ここ2回は欠席続きだったので、久しぶりである。

天正15年(1587)秋で、聚楽第が落成し、大坂から秀吉や大政所・北政所などの移徙の行列が洛中を彩っているあたりを読み合わせ。担当はリンク先でもあるK戸さん。
「殿守」の人物比定が興味深かった。そうだったのかという感じ。

27日(金)戊戌、天晴
前日の名古屋の講座のレジュメ作りで無理したためか、午前中は使いものにならなかった。
午後から立て直して、歴読連載分の構想を練りつつ、史料を調べた。
難関だった桶狭間合戦をとにかくクリアしたので、やや気が抜けている感じ。
信長の美濃攻めに入るが、小牧山移転やお市の方と浅井長政の縁組など考えさせられることが多い。

南日本新聞連載分の写真を急遽差し替えをお願いする。比較的きれいな写真が入手できたため。

29日(土)庚子、天晴
別件の原稿に手をつけたが、体調極めて悪し。
ある雑誌から原稿依頼あり。守備範囲だっただけでなく、編集部の考え方が面白かったので受ける。

8月に種子島で鉄砲に関するシンポジウムが開かれるそうで、なぜか、そのパネリストの声がかかった。
じつは、種子島は行ったことがない(汗)。それよりも、私に鉄砲の何が話せるっていうんだ。ミスマッチだと思ったが、コーディネーターが知り合いだったから引き受ける。
今から何を話したらいいか、考えるだに悩ましい。
それはともかく、鉄砲伝来の史跡を回れそうなのは、とてもうれしい。
他のパネリストに知り合いの方もおいで。
村井章介氏の記念講演もあるらしい。楽しみである。

30日(日)辛丑、終日雨
雨のせいだろうか。前日に引き続き、あまり体調が芳しくない。
でも、そうはいっておれないので、仕事をする。ある程度まとまったが、どうもしっくりこない。
締切を過ぎたというのに、焦りまくり。

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【2008/06/30 23:24】 | 日次記
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最近の歴史関係のニュース
市野澤
こんばんわ。
お疲れのご様子。
お手の空いた時で構いませんので、

》小牧山移転

2010年3月10日の毎日新聞の記事で小牧山の発掘調査、
天守閣囲む石垣発見。
信長が長期滞在考えていた?

また、
2010年3月12日の産経新聞において、
信長の命令で廃絶を示す遺構出土が
奈良・筒井城跡から確認された。

桐野さんの守備範囲にして、
ご関心の高い報道と存じます。
ご見解を承りたく、書き込みさせて頂きました。

私の関心分野だと、
3月21日の読売新聞の
土気城跡を「市史跡に」
3月22日の河北新報の
仙台藩重臣・遠藤家の古文書で
鎌倉期史料を確認です。

PCメールが暫しの間、受信できなくなっています。
申し訳ありません。







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NHK大河ドラマ「篤姫」第26回「嵐の建白書」

ドラマ進行時点は、安政4年(1857)12月から翌5年3月頃まで。

いよいよ、小松帯刀が登場しましたね。
これまで、肝付尚五郎、小松尚五郎でしたが、ようやく小松帯刀清廉の名乗りとなりました。

ただ、改名時期がやや微妙だった気がします。
「小松帯刀伝」によれば、帯刀清廉への改名は安政5年(1858)3月1日です。ときに小松、24歳。
ドラマでは、斉彬が幕府に建白書を提出したと、小松に告げていました。建白書提出は前年の4年12月25日ですから、改名はドラマの方が少し早いですね。
もっとも、小松が「帯刀」に改名したのはたしかに3月1日ですが、果たして年次が安政4年なのかどうかは必ずしも明確ではないような気もします。

あと、斉彬が「帯刀清廉」の名乗りを与えたかのように描いていましたが、これもどうか。
「薩藩小松帯刀履歴」には、小松の改名届御免の文書が収録されています。

「       尚五郎事
           小松帯刀
右、継目養子成の御礼に付き、願の通り名替御免なされ候条、申し渡すべき也、
  三月朔日  矢五太夫                                」


これを見るかぎり、改名届は小松家側から藩当局に提出され、許可が出ています。宛所の「矢五太夫」はおそらく小松家の家宰か用人でしょう。

ただ、諱の「清廉」のほうは小松家で決めたか、斉彬が決めたかまでは史料不足でよくわかりませんが、常識的には小松家で決めたのではないでしょうか。

せっかく小松帯刀になったのに、相変わらず、行動基準が篤姫へのこだわりという描き方はいかがなものでしょうね。これじゃ、小松像は矮小化されるばかりではないでしょうか。
篤姫が入輿し、小松もお近さんを娶った以上、そろそろ未練を断ち切った演出にしてもらえませんかねえ。
このような未練たらしい人物に、薩摩藩の若い連中の監督役が果たして勤まるのでしょうか。いささか疑問です。

なお、斉彬が小松に命じた新たな役ですが、果たして何なのか?
「小松帯刀伝」「薩藩小松帯刀履歴」によれば、安政4年12月、小松は当番頭と奏者番兼務の辞令を受けています。時期的にいって、おそらくこれでしょう。

それで、『藩法集』8(鹿児島藩・下)によれば、江戸時代後期、当番頭は単独での役職ではなく、御小姓与番頭(おこしょうぐみ・ばんがしら)と奏者番(そうじゃばん)を兼務するのが慣習だったようです。

ところが、小松については、御小姓与番頭の兼務がありませんね。幕末になって職制が変わったのでしょうか?
御小姓与というのは、西郷・大久保などが属する家柄です。城下士のなかの平士(ひらし)、つまり下級城下士で、城下士ではもっとも家数・人数が多い階層で、約3000家あったといわれています。
この膨大な人数のいる御小姓与を居住地によって、6つの区域に分け、それぞれにそのリーダーとして、番頭を任命しました。つまり、御小姓与番頭は常に6人いることになります。
小松もそれに任命されたとすれば、藩の若い連中を監督してくれという斉彬の指示とも符合します。

あるいは、奏者番のほうが斉彬の指示に合致しているでしょうか。
奏者番は幕府の職制にもあるのはご存じだと思います。将軍の側近であり、これに任ぜられるのは譜代大名のエリートコースに乗ることを意味しました。

薩摩藩の職制も幕府職制にならっています。
薩摩藩では、奏者番は以前、十人衆と称していました。奏者番でも奧(大名の近く)に勤務する奧奏者番は御側御用人も兼務する重職でした。
それはともあれ、上記『藩法集』によれば、奏者番の職務として、以下の4つが挙げられています。

一、講堂勤の事
一、武芸見分の事
一、鬢肩見分の事
一、尊卑の差別・容貌言語等の儀立ち直し候様、下知候事


このうち、最初の2つが斉彬の指示にあった若い連中の監督という仕事にあたりそうです。
残りの2つは風紀の乱れを是正する役目といったらいいでしょうか。
おそらく藩主重豪(斉彬の曾祖父)の治世で取り決められたものでしょう。


今回のタイトルにもなった斉彬の建白書について、最後に少し触れておきます。
この建白書は、私が見た範囲では薩摩藩側の史料には収録されていないようで、『徳川慶喜公伝』史料篇一に収録されています。幕閣に提出されたので、幕府側に残されたということでしょうか。
提出時期は安政4年(1857)12月25日です。

建白書には、開国政策はやむをえないこととしながら、多くの外国人が入国してくるようになったら、人心統一が大事だと述べ、そのためには「西丸建儲之御事」(将軍継嗣問題)が肝心だと述べ、将軍世子がいない状況では人心が不安になるので、一刻も早く「養君」(将軍継嗣)を決めるよう主張しています。
そして、斉彬の将軍継嗣問題への考え方を次のように述べています。

「勿論、お血筋お近き御方当然の御事には御座候え共、かかるご時節に御座候えば、少くもお年増の御方、天下人心の固めにも相成るべし、然れば、一橋殿御事、ご器量・ご年輩・かたがた人望にお叶いなさるべくと存じ奉り候間、第一にこの義仰せ出されたし、もっとも、御台様(篤姫)ご入輿あらせられ候御事ゆえ、ひとえにご出生待ち上げ奉るべく義当然に御座候えども、当時の形勢にては、一日も早く御養君仰せ出されず候てでは、相済がたきご時節と存じ奉り候」

斉彬は将軍継嗣の条件として、血統よりも①器量、②年長、③人望という3つの条件を優先しています。
井伊大老など譜代門閥層の基準はその3つではなく、あくまで血統でしたから、対立するのは必至ですね。

なお、大奥では本寿院が激怒しまくっていました。
その様子は、斉彬が建白書から3カ月ほどのち、松平慶永に宛てた書簡の一節からもわかります(『昨夢紀事』三、安政5年4月3日条)。

「(篤姫が)上の思し召しもいかがと存じ、本寿院様えちょっと相談申し上げ候へば、このほど御咄(おはなし)、ことの外お腹立ちにて何ゆへかよふに大名より申し出候かとの様の事にても、一橋はおいやと、そのうえ奥向き皆々みらひ候ゆへ、この義は叶いがたく」

本寿院はなぜ将軍継嗣問題という徳川家か幕閣の問題に、外様大名が口出しするのかと、腹を立てていますね。
これでは、一橋慶喜は③人望という点でも条件を満たしていなかったようです。
一橋派の敗北は約束されたものだったともいえそうです。

さて、ドラマでは老中堀田正睦が条約勅許を得られませんでした。
厳密に言えば、朝廷は許可しなかったのではなく、もう一度、御三家や大名とよく話し合ってから結論を出してほしいということでした。

そこで、老中堀田はそれを一種のなぞ解きだと理解して、将軍継嗣を一橋慶喜にすれば、朝廷から条約勅許を得られると考え、一橋派にくら替えして、巻き返しを図ろうとするのですが、堀田の望みを断ち切ったのが大老井伊直弼の登場です。

井伊を大老にしたのは、ドラマにも登場していた老中松平忠固(信州上田藩主)ですね。彼が堀田の目論見をうち砕きました。

次回からドラマは新展開ですね。
家定の死、斉彬の死、激動の時代になります。

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【2008/06/29 23:49】 | 信長
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新聞に、歴史上の人物をどの程度知っているのか、小学生のアンケート結果が載っていた。ここです。

大久保利通の最下位には少し驚きましたね(トホホ)。

それよりむしろ、行基・歌川広重・近松門左衛門・本居宣長あたりの知名度72%台というのが驚きです。
高校生でも知っているかどうか怪しいものなのに、小学生が知ってるなんて不思議ですね。
よほど教科書で強調されているんでしょうか?

幕末の人物では、西郷隆盛の50%が最高です。上野の銅像とか大河ドラマという教科書以外の有利な点があっても、その程度です。
それにしても、大久保や木戸孝允が陸奥宗光・小村寿太郎・大隈重信などの後塵を拝しているのは、何とも解せませんな(笑)。所詮、子どもには理解できないんですね、きっと(爆)。

時代でいえば、古代など古い時代の人物ほどよく知られている傾向があります。
これは社会科学習の進行状況も大きいでしょうね。近現代の人物はその分、割を食っていると思います。

あと、坂本龍馬とか新選組が教科書には載っていないようですが、彼らが掲載されていたら、もっと違った結果になったかもしれませんね。

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【2008/06/29 11:09】 | 雑記
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地元の英雄を知るべき
市川
桐野先生、こんにちは。
やはり小中学生にとっては教科書などで習う人物が大変なファクターを閉めているんでしょうか。卑弥呼やザビエルなど。
私個人の意見としては、教科書に当たり前に登場する歴史的人物より、地元の英雄や名士を紹介していただくほうが子供たちも故郷に馴染みが出て良いと思うんですが(笑)。それに他県の人が知らない人物を知っていると、何か得した気分にならないでしょうか……私だけ?
これからの社会や歴史の勉強は、そういった独自性が大切だと思います。


幕末は不人気?
かわと
私もその記事を見ましたが、下の方は見事に幕末維新期が勢揃いしてますね(笑)。
やや飛躍してみれば、今年こそ健闘しているものの、大河の幕末ネタが低視聴率の常連なことと無関係ではないのかもしれません。

有能と有名
hasu
しかし、木戸・大久保・大隈といったあたり、「何をやったか?」と問われて即答できるような「わかりやすい」事績って何がありますでしょうか。大隈は早稲田作ったってのがありますが、これは本筋ではないでしょうし小学生向けのネタではない。

郷土の偉人
桐野作人
市川さん、こんにちは。

郷土の偉人のことを学ぶというのは面白いと思います。
もっとも、試験には役立たないかも。

それと、偉人の定義の問題もありますね。それに、バランス感覚がないと、贔屓の引き倒しにならないかも心配です。そこでは偉人でも、よそでは逆の評価という人物もいますしね。



何をやったか
桐野作人
かわとさん、hasuさん、こんにちは。

幕末ものの大河ドラマの人気がないというのもありそうですね。その場合、どうしても複雑な政治ドラマになってしまい、人物をよくとらえきれないという面はありそうです。

木戸・大久保・大隈が何をやったかたしかに難しいですね。
たとえば、廃藩置県を大久保がやったとも言いきれない。地租改正は大隈の働きが大きいけど、すべてではない。
という具合に、近代以降は社会制度や政策が複雑ですから、ある人物と特定の仕事が直結しないというのは弱味ですね。

その点、文化人や芸術家などは、特定の作品と結び付きやすいから、有利だと思います。

そんな点がアンケート結果にも反映しているかもしれませんね。

桂さん
木暮兼人
木戸孝允は、西郷などの提唱した征韓論にストップをかけた
という偉業があったはずなのですが・・・

新撰組から逃げ回ってた、ということだけでは
若者へのアピールは難しかったのでしょうか
それとも桂小五郎の方が知名度が高いのでしょうか??

幕末は大河ドラマでも不人気なようですよね。
時代が近すぎて、直近の子孫の方々がまだまだご存命で
描き方が難しいのも理由のひとつでしょう

話は変わりますが、やはりお疲れのご様子です
気候も不安定です
とりあえず、お体にご留意ください。

有難うございます
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

征韓論の中止は木戸より、むしろ、大久保の働きが大きいと思いますが、これもほかに岩倉、大隈、黒田、山県なども関わっており、とても一人が代表できるわけではないですね。

集団統治体制は、だれか一人の人格に表現させづらい面がありますね。

幕末もののドラマは子孫の存在が影響を受けるかというと、そうでもないと思います。
たとえば、近年のドラマでは、西郷が坂本龍馬暗殺の黒幕に描かれることが多いですが、子孫が抗議したという話は聞きませんし、制作側が子孫の存在に遠慮したというのも聞いたことがないですね。

ただ、「翔ぶが如く」のときは、原作者の司馬遼太郎が制作側に、地元の感情には留意した方がいいというアドバイスはしたそうです。これは西南戦争の評価をめぐって、とくに西郷軍の子孫の感情を慮ったほうがよいということでしょうね。

そういう事例はあります。

お見舞の言葉痛み入ります。
おかげで、だいぶよくなりました。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第65回
―長崎留学で交流深める―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から2、3回、再び小松帯刀を書く予定です。
その1回目として、小松の長崎留学の話を少し書きました。
これは小松と同じ門閥で、また同じく弁天波止台場の守備隊長だった北郷久信と同行したものです。
期間は2カ月ほどと短いものでしたが、オランダ軍艦に乗船しての伝習は、さぞや驚きの連続だったのではないかと推察されます。

この留学で視野を広げたことが2人のその後にも大きく影響を与えたのではないかと思います。
小松にとっては、ジョン万次郎の招聘や、坂本龍馬など海援隊の面々との交流など、重要な人間関係を構築するきっかけになりました。

北郷久信はあまり知られていません。
だいたい、北郷を「ほんごう」と読める人も少ないでしょう。
北郷氏はもともと島津氏の異姓分家で、日向庄内(現・都城市など)の領主でした。豊臣政権時代、一時、祁答院に転封されて、代わって伊集院幸侃が入部し、庄内の乱になります。
庄内の乱鎮圧後、北郷氏は再び、庄内に復帰し、のちに島津名字を許されました。これが都城島津家で、近世には35.000石という大名並みの禄高を有する、島津分家きっての大身の領主となりました。

薩摩国平佐の北郷家はその分家で、家祖の加賀守三久は幼少の甥忠能の後見・名代でしたが、豊臣秀吉の命で、一家を立てることを許されました。
久信はその13代当主です。

北郷久信は戊辰戦争のとき、みずから軍艦乾行丸の艦長をつとめて、幕府軍艦順動丸と交戦し、擱座させている。

幕末薩摩藩においては、西郷・大久保など下級城下士の働きばかりが注目されるが、小松・北郷など門閥層の役割も無視できない。

岩下方平・桂久武・町田久成・新納刑部・島津伊勢・関山糺

といった名前だけでも、薩摩藩の門閥層にも有能な人物がいたことがうかがわれる。

今年の大河ドラマ「篤姫」は、一門四家のひとつ、今和泉家に焦点を当てることによって、従来の下級城下士中心の維新史観を相対化する効能があったように思われる。
今後、薩摩藩における門閥層の働きや役割にも注目する必要があるのではないか。

そんな作業のきっかけとして、北郷久信を取り上げた次第である。

なお、北郷久信の伝記史料として、次のものがあります。

伊地知茂七編『北郷久信報効事歴並歴代系譜』 私家版 1916年

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【2008/06/28 12:24】 | さつま人国誌
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先日、福昌寺跡墓所に、島津斉興夫人池田氏(賢章院)の墓があるのかないのかという疑問を呈したところ、ばんないさんから、少し離れた別の区域にあることを教えてもらった。

そのとき、島津顕彰会編『島津歴代略記』の末尾にある「長谷場御墓」つまり福昌寺跡墓所の略図を見ていて、あることに気づいた。

島津斉彬夫妻の墓は夫婦墓になっていて、次のように2基並んで立っている。

斉彬墓


ところが、上記略図によれば、この夫婦墓の、向かって右斜め後ろに、じつはもうひとつ、島津斉彬の墓があると記されている(47番)。

福昌寺跡墓所に立っている案内板にも、番号こそ付されていないが、ちゃんと記載されている。
次の案内板の写真のうち、15番が斉彬夫妻の墓だが、その右斜め後ろに、もうひとつ墓があるのがおわかりだろうか。これが上記の47番に該当すると思われる。

案内板


いつも、上の写真の夫婦墓にばかり目がいっていたため、過去に撮影した斉彬のどの写真を見ても、右斜め後ろを撮影していないことにも気づかされた。

迂闊である。
果たして、その場所にどんな墓が立っているのか、写真がないし、記憶を辿っても、まったく覚えていない。

考えてみれば、立派な夫婦墓があるのだから、もうひとつ墓は必要ないはずである。
なぜ、あるのか? 島津家は明治になって神式祭祀を執り行うようになったから、もしかして神式の墓でもあるのか?
しかし、神式の墓だったら、珍しいから写真に撮るなり、記憶していたりするはず。それに、神式といえば、斉彬や島津家にとっては、照国神社や鶴嶺神社もある。あえて、福昌寺跡に建立する理由はない。

そこで、はたと思い当たったことがある。
以前、南日本新聞連載「さつま人国誌」で、天璋院篤姫が斉彬の一周忌に大円寺(江戸における島津家の菩提寺)に斉彬の供養塔と立てたという記事を書いたことがあった。ここです。

明治になってから、島津家が神道祭祀となったため、大円寺にあった島津家関係の墓や位牌をすべて整理して鹿児島に持ち帰ったのではないかといわれている。
ばんないさんによれば、大円寺から移転された墓は福昌寺跡墓所に、あまり整理されない形で配置されているという。

この、もうひとつの斉彬の墓というのは、もしかして大円寺から移転された墓ではないのか?
もしそうだったら、篤姫が建立した供養塔ということになるが……。

あくまで臆測です。
実際にその墓を見ないことには始まりませんね。
また宿題がひとつ増えました(笑)。

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【2008/06/27 23:49】 | 幕末維新
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松裕堂
記事を拝見して、手元に件47番の写真がないかあさってみましたところ、15番を左斜め向いより撮影した写真がありましたのでアップしてみます。
ttp://ossan.fam.cx/up/gazo/src/1214609173603.jpg

・・・でもコレ、石垣がジャマして見えてませんよね? 47番。
とりあえずダメもとながら。



hiken
この夫婦墓の後ろはちょっとした広場になっていて、40年前は玉龍山から落ちる小さな滝があり、小川になっていました。
その脇で薬丸自顕流の宗家がひとり稽古をしていたことを思い出しました。
斉彬公のもうひとつの墓のことはまったく知りませんでした。歴史の襞には様々なことが秘められているものだとこちらを拝読していつも思います。
こんど稽古にいったとき、よく見てみます。


桐野作人
hikenさん、こんにちは。

かつては、斉彬の墓の裏には滝があったのですか。驚きです。
現在はきっとないのでしょうね。

そのような場所で、薬丸自顕流の先生が稽古をされているという光景もまた絵になりますね。

おおっ、すごい
桐野作人
松裕堂さん、こんにちは。

写真紹介、有難うございます。

じつはどなたかが教えて下さるのではないかと、ひそかに期待していたのですが、さっそくご教示いただき感謝です。

斉彬の別墓47番の位置ですが、石垣の手前なのか、あるいは後ろ・奧なのか、判断に迷いますね。

もし手前だとすれば、該当するのが2つあるようにも見えます。
石灯篭を除外すると、黄色の山川石でできた宝篋印塔が、手前に1基、その後ろに2基(これも夫婦墓?)ありますね。
このどちらかが斉彬の別墓とも考えられます。
ただ、篤姫が建立させた供養塔にしては、新しいような気もしております。

もし石垣の奧にあるのなら、改めて現地調査しないといけませんね。

いずれにしろ、貴重な写真を見せていただき、有難うございました。



犀渓 凌
はじめまして 毎週「さつま人国記」を拝見してます。

約一年前の記事なので問題解決してるかもしれませんが
婦人の右後ろはもう一つの斉彬墓。
その奥は3つ並んで、もう一つあります

私も詳細は調べてないので何ともいえませんが

斉彬夫妻墓
桐野作人
犀渓さん、はじめまして。

福昌寺墓地の斉彬夫妻墓のことでご教示有難うございます。
私もまた行ってみないことにはイメージが湧きませんので、機会があればと思っています。

斉彬の墓がほぼ同じ場所に複数あるのは、おそらく南林寺にあった墓を廃仏毀釈後に移転したのではないかと推定しているところです。となると、夫人の墓も2基あるかもしれません。

福昌寺墓地に行ってきました
犀渓 凌
15番右斜め後ろは斉彬墓で夫婦墓より一回り小さめな感じでした。文字の剥落も夫婦墓と同じ感じで、何とか読める程度です。

16番宗信公の隣は女性三人。向かって右から
 心顔貞鏡大姉 長巖知霊姫命 宝暦四甲戌年閏二月初二日
 潛顯妙能日淵大姉 麗稚寛高姫命 元文四年巳未秋八月初五日
 華山妙嚴大姉 雲上華山姫命

その隣子供の墓を挟んで19代光久公長男墓
隣はまた子供の墓でした
 

福昌寺の義久墓
桐野作人
犀渓 凌さん、こんにちは。

報告有難うございました。
じつは私も先月行って見てきました。
斉彬夫妻の墓の右後ろの墓を確認しましたが、かなり磨滅していましたが、法号はおそらく「英徳良雄大居士」、神号も付いていて「~勲照国命」と読めました。このあたりに、この墓の由来の手がかりがありそうですね。


ばんない
法号「英徳良雄大居士」神号「~勲照国命」なら斉彬の墓で確定ですね。法号が書いてあるというならやはりどこかの寺から移転した物でしょうか。

>心顔貞鏡大姉 長巖知霊姫命 宝暦四甲戌年閏二月初二日
島津重年の後室で島津久尚の娘・お村。
>潛顯妙能日淵大姉 麗稚寛高姫命 元文四年巳未秋八月初五日
島津吉貴の正室で桑名藩・松平定重の娘の福姫
>華山妙嚴大姉 雲上華山姫命
島津重豪の後室で甘露寺矩長の娘・綾姫
上記3つは元々大円寺にあったのを後に持ってきたようです(「御祭祀提要」『尚古集成館紀要5』所収)


尚古集成館紀要
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

さすがに島津家の女性については詳しいですね。
ご教示の史料、未見でした。
同紀要はいくつか持っているのですが、欠号がありまして、5号も欠号でした。今度探してみます。
ご教示多謝。

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栄・中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」第3回

午前中、名古屋に向かう。
上記講座へ出講。

東京は雨で寒かったが、名古屋は晴れて暑かった。

講座も3回目を迎えたが、いまいち感触がつかめないでいる。
受講者の人数が多くて非常に有難いのだが、どこに絞って話したらいいのか、いまひとつ手ごたえが得られていないような感じかな。私の努力不足が大きいのかな、やっぱり。


それはともかく、
今回は、東軍が結成されるきっかけになった小山評定を取り上げた。
小山評定は関ヶ原合戦のターニングポイントとしてあまりにも有名だが、じつは不明な点も多い。
ひとつはその日にちがいつか、少なくとも3説ある。
通説は7月24日だが、最近は25日説が有望で、私もそうだと思っていたので、その理由をいくつかの史料に基づいてお話しした。

そして、小山評定において、家康以下の東軍諸将がどのような情報をもとに結束を確認しあったのかを検討した。
小山評定の時点で、西軍の大義名分となった「内府ちかひの条々」がまだ知られておらず、西軍を石田三成と大谷吉継だけだと極めて限定的にとらえたうえで、東軍の意思一致が図られたことを確認した。

もし「内府ちかひの条々」を東軍諸将が知っていたら、西軍が大規模だとわかったわけで、そうすんなりと東軍の結束が図られたかどうか疑問だという話もした。

つまり、関ヶ原合戦という全国的な規模での戦いにおいては、地理的条件による情報伝達のあり方が、要するにタイムラグが大名の判断や意思決定に大きく影響する面があることを確認した。

また、「内府ちかひの条々」は上杉方や佐竹方にも影響を与えたことも同時に見ていった。

これらを検討したからといって、関ヶ原合戦についての画期的な見方ができるわけではない。
しかし、私たちが知っている基本的な史実というものは、決して単線で単純につくられるのではなく、人間の迷いや動揺といった営みの結果でもあること。そしてそうした人間のもつ「ゆらぎ」を発見することに、歴史や人間の面白さがあることを力説したつもりだが、どこまで通じたか、説得力があったかはわからない。

今回もレジュメが多く、B4が9枚に、B5が1枚という大部。
『史料綜覧』の慶長5年6~7月分を丸ごと収録したら、そりゃ、大部になるよなあと思った(爆)。

次回は、「石田三成の苦悩」と題して、三成と上杉・直江の東西挟撃策はあったのかどうか。また決戦前夜における三成の決戦構想と情勢分析について検討します。


【お知らせ】
まだ今期講座は半ばですが、早くも秋10月からの講座(全6回)も開催できる予定。
テーマは「信長と本能寺の変」(仮題)です。
満を持しての講座なので、東海地方の方だけでなく、遠隔地の方も大歓迎。
いろんな面白くて意外な史料も紹介したいと思っています。

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【2008/06/26 23:52】 | 中日文化センター
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昨日の講座
木暮兼人
残念ながら欠席してしまいました
申し訳ありません
毎月のはるばる名古屋へのお越し、お疲れ様です。

秋からの講座も大変魅力的です。
私は、信長というと桶狭間中心の興味でしたので
本能寺の前後のイザコザや諸説はあまり詳しくありません
可能あればぜひとも参加したかったのですが
私の方の都合で不可能なので・・・
またの機会を心待ちにしております。


次回こそ
桐野作人
木暮兼人さん、こんばんは。

一昨日はお見えではなかったですね。残念でした。
次回は石田三成を詳しくやるつもりです。もし大丈夫なら、出席されるのをお待ちしております。

本能寺の変については、正式に決まってからまたお知らせしますが、ご都合が合わないみたいで残念ですが、致し方ありませんね。

そのうち、ぜひ赤塚、三王山にも行きたいと思っています。
そのときにはよろしくお願いします。


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東京では歴史読本8月号が書店に並んでいます。

今回の特集は表題のとおりです。
信長の一代記を「絵本」をもとにまとめたものです。
友人の和田裕弘氏と小生で執筆しました。
これは同誌編集部が所蔵する「絵本拾遺信長記」の写真版などをもとに構成しました。
江戸後期の作品ですから、同時代性や史実の厳密さは望むべくもありませんが、それでも、絵はそれなりに楽しめます。よかったら、読んで下さい。

同誌のサイトはここですが、本日現在でまだ更新されていないようです。

それと、特集には「織田信長研究最前線」と題して、11本の論考も掲載されています。

池 享「『天下布武』とは何か?」
今谷 明「旧本能寺から出土 信長専用の『小御殿』」
藤木久志「雑兵たちのサバイバル・システム」
内藤 昌「『天下統一の空間』安土城天主」
神田千里「石山合戦と織田信長」


など、よく知られた大家の論考が並んでいます。

また、『信長記』の共同研究の仲間である金子拓氏の「『信長記』研究の現在」も注目。太田牛一の『信長記』諸本の全容把握につとめると同時に、伝来経緯の一端が示されていて、従来の研究よりもかなり進んだ調査・研究状況が明らかになっています。

ほかにも、次のような面白い論考もあります。

早島大祐「信長の京都政策と『町組』」
田中秀隆「幻に終わった最後の茶会」
武内善信「雑賀衆と雑賀門徒集団の『石山合戦』」
朝倉慶景「長宗我部氏の四国侵攻と本能寺の変」
和田裕弘「徹底調査 織田信長の”傷病”カルテ」


個人的には、池享氏の論考が興味深かった。

「信長の官職問題について筆者は、朝廷官職に実質はなく国家構想の根幹に関わる問題ではないと考えている

という指摘には同感である。

もっとも、織田権力が公家社会を解体して「武家一統」を実現し、その身分編成原理が「天下」「武篇」に収斂されるというのはどうか。果たして公家社会解体まで信長は考えていたのだろうか?

手前味噌ながら、近年の信長ものの企画では出色の出来ではないかと思います。

なお、小生の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」も8回目で、今回は桶狭間合戦の2回目です。
今川義元の本陣がどこかというのが主題です。この点を今後詰める必要があるかもしれませんね。

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【2008/06/25 12:37】 | 新刊
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義元本陣
板倉丈浩
腫れ物にお苦しみのご様子、心よりお見舞い申し上げます。

さて、遅まきながらくだんの雑誌、拝見いたしました。
ご連載の桶狭間の記事も整理されていて、勉強させていただきました(^^

ただ一点だけ気になったことが・・・。
桐野さんのご見解ではなく、記事中で御紹介があった蓬左文庫「桶狭間合戦之図」の「義元本陣」を漆山に比定している説なんですが、これは疑問に思っています。

といいますのも、この図の真ん中、鳴海城の下あたりに書き込みがあって、そこには「同所ヨリ桶狭間合戦場迄廿三町拾三間」とあるからです。
(なおこの23町13間というのは、江戸前期成立の『武家事紀』の記述と一致しています。因果関係は不明ですが・・・)

鳴海城から約2.53kmですから、この「義元本陣」は漆山ではなく、有松駅南方の丘陵地帯(高根・幕山・生山あたり)に比定するのが妥当なように思います。
本陣西南の「明神森」は有松愛宕、東南の「雨池」は地蔵池か大池が該当するのでしょう。

まあ、史料的価値からして参考程度にすべきなんでしょうけど(^^;、軍事的合理性から考えても(鳴海・中島方面を一望でき、谷筋を押さえる要衝でもある)、上記高地に布陣した可能性は高いのではないかと(現時点では)考えております。

僭越ながら
木暮兼人
史学科など出ておりません、素人の意見で申し訳ないのですが
私も「漆山」説に疑問を持った一人であります。
蓬左文庫「桶狭間合戦之図」は私も見ているのですが
あの義元本陣の位置を漆山とするのは
名古屋市緑区役所が発行した資料からみても厳しいのでは、と
陣の展開についての伝承が有松側にあるらしいのです。

記事としてまとめるべきかどうか、手をつかねておりました。



かぎや散人
始めまして、木暮兼人様
小生、趣味で桶狭間の戦いを探索しているものです。
失礼を顧みず、貴殿のコメントをみて桐野様のブログをかりてお便りさせていただきました。
名古屋市緑区役所が発行した資料とはどのようなもので、何が書いてあるのか、有松側にあるらしいとの陣の展開についての伝承とはどのようなものか教えていただければありがたいのですが、
宜しくお願いします。

この場を借りて、失礼いたします
木暮兼人
>かぎや散人さま
緑区役所地域振興課において配布されている
「緑区散策マップ、桶狭間古戦場コース」
というもので、有松側の桶狭間の史蹟紹介および伝承などをまとめた散策地図です。
所在がはっきりしているのは今川軍先発の瀬名氏俊の表記のみ、など、史料価値が高いとは言えない部分もありますが
火のないところに煙は立たない、と考えればこういった言い伝えも興味深いと思われます。

ただ、有松の桶狭間古戦場公園は、昭和63年の区画整理のタイミング作られており、実際の位置より史蹟が移動しています。
正確な陣地の特定には役に立たないと思われます。


漆山関連資料
かぎや散人
木暮様 さっそくのお知らせ有難うございます。
緑区の観光案内地図の一種ですね。
恐らく、梶野氏が監修されているのではないかと思うのですが、史跡めぐりには大変便利なものでして、氏の説を検証するには格好の案内書だと思います。
小生も、関連するものを一式緑区図書館で入手して拝見しましたが、漆山本陣説を否定することができる手掛りは発見できませんでした。

資料紹介御礼
桐野作人
木暮兼人さん、かぎや散人さん

資料の紹介や漆山説の反証など有難うございます。
勉強になります。
ご紹介の資料入手してみたいと思います。

お二人とも、現地の地理・地勢にお詳しいですね。
何度も現地調査されたのでしょうね。


有松駅南方
桐野作人
板倉丈浩さん

お久しぶりです。
お見舞の言葉、有難うございます。

私も漆山説は全面的に賛成というわけではなく、「信長記」をある程度矛盾なく解釈できるという意味で取り上げたものです。

板倉さんのご指摘のように、有松南方の丘陵地帯が妥当だとすれば、そこから中嶋砦付近は視認できないのではないかと思えますが、どうなのでしょうか?

もし視認できないなら、再検討しないといけないですね。

ご教示有難うございます。

有松中学校
板倉丈浩
おはようございます。

>「信長記」をある程度矛盾なく解釈できる

そうですね。
義元本陣と討死箇所は多少離れていたほうが無理がないと思えます。
ですから、現在の古戦場跡は義元本陣ではなく討死箇所なのではないかという御指摘は当たっているような気がしています。

>そこから中嶋砦付近は視認できないのではないかと思えますが

この丘陵にある有松中学校は非常に眺望のよいところのようなんですが↓
http://www.arimatsu-j.nagoya-c.ed.jp/arimatu/index.htm

ひょっとしたら中島は微妙に隠れてしまう・・・のかな?
そこまで検証していません。すみませんorz
確かご引用の藤井尚夫氏の考察でも、A(通説の桶狭間山)からE(漆山)まで候補を挙げて、A高地からだと鳴海方面は見えないが、それ以外からだと見えるとあったと思います。

ご指摘の有松中学の眺望。
木暮兼人
僭越ながら
割り込み失礼いたします。

おそらく、中島砦はお写真の左側に位置すると思われます
写真内には写りこんでいない可能性があります
 右側の丘陵地帯らしきところは、「鳴海団地」でしょうか

私自身、藤井尚夫氏の著作を確認しておりませんのでお話が見えてない部分があるのですが、
逆に、中島砦(やや低地)から見えるのは確かに漆山とその後方に控える大高緑地公園くらい。
今残っている善照寺砦あとから有松町幕山方面を遠望すると、
これまた大高緑地公園に眺望が阻まれていたような。
 
自分自身が幕山に訪れる機会を今まで逃していて、こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、有松町幕山あたりから中島・善照寺を眺望するのは今現在、難しいのではないでしょうか。


有松神社
板倉丈浩
木暮兼人さん、レスありがとうございます。
地元の方からの情報はありがたいです。

>中島・善照寺を眺望するのは今現在、難しいのではないでしょうか

ネットで調べてみたのですが、有松中学校の裏手の有松神社あたりが付近最高峰で、鳴海・善照寺・中島が一望できるみたいです。
http://enokama.exblog.jp/7956583/

しかし、現地にはデカデカと「布陣図」が張り出されているんですねえ。
地元の郷土史家(梶野渡氏)の説のようですが、各部隊の配置や移動についてはほとんど史料がないのに、ここまで言い切ってしまってよいものかどうか・・・。

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日次記です。

6月15日(日)丙戌、天晴
先週につづき、また幕末江戸史跡ツアーの講師役。
早朝に新宿駅西口に集合。
あまりにも応募者多数だったため、キャンセル待ちの人たちの要望に応えて、再挙行となった次第。
同じコースをたどり、同じ昼食をいただく。
先週と条件が一緒なので、すべて同等にしないといけないらしい。

前回、増上寺にある和宮の茶室を見学しているうちに、最後の私たち数人が全体からはぐれてしまい、食事場所のホテルへの行き方がわからなくなったというお粗末(汗)もあったから、今回は注意した。講師が迷子になってはさまにならないから(爆)。
今回のツアーでは、確認できただけで、4人の鹿児島県出身者がおいでだった。

江戸城二の丸庭園のアヤメやカキツバタ?が色とりどりで、とてもきれいだった。
菖蒲


17日(火)戊子、小雨
夕方から小学館古文書塾「てらこや」に出講。
今次の最終回。
禁門の変を詳しく取り上げる。
また史料が多すぎて、全部はやれなかったが、薩摩、会津、一橋慶喜などの史料にあたる。
とくに、薩摩藩の史料で、小松帯刀と一橋慶喜の親密さが浮かび上がる。
次シリーズは、薩長同盟あたりまでいきたいものである。
詳しくは、ここをご参照のほど。

18日(水)己丑、天晴
午前中にコラム「さつま人国誌」脱稿。
午後から、古文書塾のIさんと打ち合わせ。

19日(木)庚寅、天晴
午後から、歴史街道編集部のNさん来訪。
原稿依頼あり。
手紙など各種発送物を片づける。

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【2008/06/24 11:03】 | 日次記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第25回「母の愛憎」

ドラマ進行時点は安政4年(1857)11月頃。

本寿院が篤姫を家定から遠ざけようとする大奥のゴタゴタはこの際、措いといて(笑)。

今回は、西郷と大久保が熊本の長岡監物を訪問し、大久保が屈辱を味わったという一件を取り上げてみます。

長岡監物(是容、1813~59)は熊本藩の家老です。旧姓を米田(こめだ)といい、祖先は細川藤孝・忠興の頃からの老臣米田求政ですね。求政とその子是季の功労により、主家が一時名乗った長岡名字の名乗りを許されています。
この頃、監物は実学党のメンバーで、熊本藩の改革派のリーダーでしたが、同志の横井小楠とは絶交していました(最後まで和解せず)。
嘉永6年(1853)、浦賀警備の任にあったとき、水戸斉昭・藤田東湖・佐久間象山・吉田松陰とも親交があったといわれています。

西郷・大久保が監物と対面したのは11月4日のことです。
もっとも、西郷は同年4月、参勤交代での帰国の途次、熊本で監物と会っています。この縁から再訪したものでしょう。
西郷が大久保を伴ったのは、むろん、善意からのもので、大久保に藩外の空気を吸わせ、薩摩と熊本両藩の交流に資するためだったと思われます。

ドラマでは、西郷が監物と内密な話に入るとき、大久保に座を外してくれるよう頼み、大久保は西郷の意外な言葉に戸惑いながら、その通りにしたものの、屈辱でいっぱいになります。
それは国事に奔走する西郷と、国許に埋もれる自分との立場の違いを思い知らされるという狙いなんでしょうね。

西郷がそこまで露骨な対応をしたのかどうか、なかなか微妙な問題ですね。

田中惣五郎は「今度出府の折、大久保にも会わせたくて、二人で同行した。人間にほれっぽい、とくに理路整然と大局を論ずる人に頭をさげる西郷のくせである」と評している。
田中説はやや単純すぎる意見で、これだと、西郷が大久保に退出を促すはずもないと思われます。

あと、当時の2人の役職ですが、前回のドラマで斉彬が西郷を徒目付に引き上げておりました。
これは史実で、同年10月1日付で、西郷は徒目付と鳥預り庭方兼務の辞令が出ております。
また辞令が出た直後の10月18日、西郷は江戸出府に際して、「出水筋」からの出府を申請して許可されています。これが大久保を伴う伏線だと思います。

一方、大久保もほぼ同時期に徒目付に任ぜられたという史料もあります。
『大久保利通文書』十所収の「大久保利通年譜」です。それには、

「十一月一日西郷隆盛と共に徒目付と成る」

とあります。
これを信じるなら、西郷と大久保は同役ということになり、西郷が大久保を退出させることはありえないのではと思われます。

もっとも、この史料は信頼できるのかどうか疑問があります。
「西郷と共に」とありますが、徒目付になったのは西郷のほうが1カ月早いですね。
それに、大久保への辞令発令日の11月1日は、西郷・大久保が鹿児島を発して熊本に向かうときです。そんなときに辞令が出たのかどうか。
それに同年譜はほとんどの項目に出典が掲載されているのですが、この項には出典が書かれていません。つまり、どこまで信じていいのかわからない記事だということです。

同年譜によれば、この年、大久保が郡奉行下役と下加治屋町方限取締であったことはたしかだと思います。果たして徒目付に昇進したかどうか。

なお、長岡監物がこのとき、西郷らとどんな話をしたかですが、西郷・大久保と会った当日に、監物は出立しようとする西郷を引き留めて、わざわざ一書をしたため、それを西郷に託しています。
宛所は越前藩の橋本左内。
それによれば、監物は越前藩の村田巳三郎とは交流があったようで、その一節には「薩藩の西郷、御地に於いて深くお交わり申し候との事にて」云々とあり、すでに西郷と左内の間に交流があったことを書いています。
これを読むと、監物もいわゆる一橋派にくくってよい人物かと思われます。

また、監物はこのとき、尾張藩の田宮如雲に対しても、西郷のために紹介状を書いています。西郷について、次のように述べています。

「天下の事に付て君侯の意を受け出府いたし候やに御座候、有志の人にて候」

とあります。
監物が紹介状を書いたのはおそらく西郷の依頼があったものと見え、御三家筆頭である尾張藩の支持を取り付けようとするためだったと思われます。これも斉彬の密命だったかもしれません。

監物の左内宛て書簡にも、水戸藩では「両田」つまり、戸田蓬軒と藤田東湖の2人が安政大地震で亡くなったため、力が衰え、また老中阿部正弘も他界したため、越前・尾張両藩と薩摩藩が頑張るしかないと書いていますから、紀州派に対抗するためにも、一橋派は尾張藩を取り込むことが重要だったと思われます。

また、監物の書簡には、大久保の名前はまったく出てこないのが特徴的です。
これによる限り、監物は西郷を斉彬の意を受けて国事周旋に関わっている人物ととらえ、大久保とは差別化していたと思われます。
ですから、密事に関しては、監物は西郷だけを呼び出して対面したかもしれず、あるいは、ドラマのような場面もまったくなかったとは言いきれないかもしれません。

当時の大久保が西郷とくらべて、まだ水を開けられていたのはたしかだったといえそうです。
ドラマでは「鬼になる」と言っておりましたが、どういう意味でしょうね。
一切感情にはとらわれず、冷徹に生きるという意味でしょうか?

些細なことかもしれませんが、気になったので、少し調べて書いてみました。

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【2008/06/23 10:59】 | 篤姫
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NHK大河ドラマ「篤姫」第24回「許すまじ、篤姫」

遅くなりましたが、一週間前のものを本日、再放送で観ました。
その感想をアップします。

ドラマ進行時点は安政4年(1857)冬、10月頃

今回のメインは何といっても、将軍家定と米国総領事ハリスの対面でしょう。

ときに安政4年10月21日。西暦だと1857年12月7日ですから、もう冬です。

場所は江戸城本丸表向の大広間。
通常は国持など大身の外様大名の詰め所です。

例の畳を積み上げる一件、篤姫の献策だったとは思えませんが、畳を何枚か積み上げてあったのは史実だと思われます。
ハリスの『日本滞在記』下(岩波文庫版)によりますと、

「大君は床から二呎(フィート)ばかり高くなっている席に設けられた椅子にかけていた」

2フィートは約60センチですが、ドラマではもっと高かった感じですね。

一方、日本側の史料「温恭院殿御実紀」には次のように書いてあります。

「大広間江出御。御立烏帽子、御小直衣を召させらる。御先立久世大和守(広周)、御太刀、御刀御小姓これを持つ。御上段へ七重の御厚畳、錦を以て之を包む。四方の角江紅の大総飾を附く。御刀掛これに置き、御曲■(竹かんむり+録、以下同)江着御」)

これによれば、厚畳を7枚重ねたもののようです。
畳1枚の厚さは10センチもないでしょうから、ハリスの観察したように、60センチ前後というのは、ほぼ正確でしょうね。

「御曲■(ろく)とありますから、家定が座った椅子のことでしょうが、「■」の字義は本来、本箱の意で、椅子の意味はないようですが、はて?

畳の高さ:60センチ
「御曲■」の高さ:50センチほど
家定の坐高:80センチほど

と仮定すれば、ハリスと対面したときの坐った家定の高さは190センチ程度となり、6尺(180センチ)近いというハリスより目線が若干高くなるでしょうか。
もしそうなら、辛うじて将軍の面目は立ったことになるのかもしれません。

なお、ハリスの上記本によれば、家定の前には天井から簾がかかっていて、ちょうど家定の額あたりに下端があったので、ハリスは家定の烏帽子を見ることができなかったとも記しています。

そして、ドラマで家定が歌舞伎ばりに大げさな見得を切ったシーン。
ハリスの上記本には次のように書かれています。
ハリスが日米両国の友好を願う旨述べると、

「短い沈黙ののち、大君は自分の頭を、その左肩をこえて、後方へぐいっと反らしはじめた。同時に右足をふみ鳴らした。これが三、四回くりかえされた。それから彼は、よく聞える、気持ちのよい、しっかりした声で、次のような意味のことを言った。
『遠方の国から、使節をもって送られた書翰に満足する。同じく、使節の口上に満足する。両国の交際は、永久につづくであろう』」


家定の言葉を日本側の史料でみると、

「遠境の処、使節を以て書簡差越し、口上の趣、満足せしめ候、猶幾久しく申し通ずべし、此段大統領へ宜しく申し述ぶべし」

まあ、同趣旨ですね。

問題は、家定の所作ですが、たしかに首を左に大きくひねって、右足を何度か踏み鳴らしたところまでは、大見得のようにも見えますが、腕の所作が書かれていませんね。
やはり、もと大奥女中の佐々鎮子が証言した「首を振る癖がありました」という癇癖と合致するのではないでしょうか(『旧事諮問録』)。
ただ、声は明瞭ではっきりしていたといいますから、暗愚説への反証です。

それにしても、この一節を歌舞伎風の大見得に読み換えたのは面白い趣向でしたね。
もっとも、家定が歌舞伎を観たことがあるのかどうかはわかりませんが……。


もうひとつは、一橋慶喜が家定に扈従したか否かという点。

一橋家の御用日記を収めた『新稿 一橋徳川家記』にあるハリス登城の日の条には、

「二十一日 アメリカ使節ハリス登城し、大広間にて将軍家定に謁す。邸よりも布衣以上の役人として、側用人兼番頭平山市郎兵衛、番頭兼用人倉林五郎右衛門・中根長十郎、用人嶋崎一郎右衛門列居す」

とあります。
これによれば、登城したのは一橋家の側用人以下、布衣以上の家来だけのようで、慶喜が登城したとは書かれていませんから、慶喜の扈従は史実ではない可能性が高いです。
なお、布衣(ほい)とは、諸大夫(五位)の下、六位相当の役人で、その着する衣類から転訛した家格です。「公儀」の末端に位置しています。
一橋家の側用人以下の家来はもともと幕臣で、出向してきた者が多く、また一定年数が経過すると他に転任します。

また、「温恭院殿御実紀」も、このとき登城を命じられた大名や役人のことを次のように記しています。

「亜墨利加使節、登城御目見仰せつけらるるに就き、溜詰、御譜代大名、同嫡子、高家、雁之間詰、同嫡子、御奏者番、同嫡子、菊之間縁頬詰、布衣以上の御役人、法印法眼の医師登城」

これによれば、大名でも譜代大名と幕府諸役人が列座したようです。
溜詰(溜間詰)は井伊・酒井など大身の譜代と会津松平・高松などの親藩、老中経験者など。
雁之間詰と菊之間詰は小身の譜代大名です。
なお、帝鑑間詰の比較的大身の譜代大名は召集されなかったようですね。

ハリスの上記本によれば、会見の間に行く途中、「三、四百人ばかりの大名と高位の貴人」がいたと書いています。上記の該当者を合わせれば、それくらいになるでしょうね。

ひとつ疑問があります。ハリスは家定との会見の間で、向かって右手に堀田正睦ほか、5人の閣老(老中)がおり、左手には「大君の三人の兄弟が同様に平伏」していたと書いています。

当時、家定の兄弟はすべて他界していますから、兄弟はおりません。
とすると、この「三人の兄弟」とは、御三家か御三卿でしょうか。
御三卿は将軍家の家族扱いですから、このような公式な行事に居並ぶ可能性は少なく、やはり御三家だと見た方がいいのでしょうね。

なお、当日、ハリスは体調が悪かったようです。
上記本によれば、風邪を引いていて、肺に炎症を起こして悪寒がしていたとか。
家定へ合衆国大統領の代理として語るとき、声が震えているように聞こえたのは、緊張のせいではなく、風邪を引いていたためでしょうか?

将軍家定の見せ場はもう終わってしまいましたね。
あとは、将軍継嗣問題の顛末として、その死を描くことがいちばんの見せ場になりそうです。

余談ですが、篤姫と家定の五目並べ。
あれも創作でしょうね。
ただ、篤姫入輿のとき、島津家からの引出物のなかに碁盤と碁石はあります。
それなんでしょうか?

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【2008/06/21 18:30】 | 篤姫
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御曲■
Holly
桐野様こんばんは。
曲ロクは禅宗の高僧が儀式の時に使用する椅子ですね。鎌倉~室町期の頂相などは必ず曲ロクに着坐し(沓は手前の踏床に脱いだ形で)座禅を組んでいる禅僧の姿が描かれることになっていますが、近世の家定公が公式の場で用いたということは、江戸時代に至っては広い意味で「曲ロク=貴人の椅子」となっていたのでしょうか。
ちなみに現代の臨済宗の寺院にも、法要時の管長猊下用(と一部の高僧の方々用)として法堂や方丈の室中などに置いてありますですよ。黒や朱の漆、精緻な金具が施された、なかなか素敵なお値段の仏具です。

曲ロク
桐野作人
Hollyさん、こんにちは。

曲ロクについて、ご教示有難うございます。
頂相に描かれている僧侶が曲ロクに座っているのは、私も見たことがあります。
禅宗の高僧の坐禅用から、近世には貴人の椅子になったということですね。
有難うございました。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第63回
―婚家存続へ手携え奔走―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は篤姫と和宮のことを書きました。
篤姫が明治13年(1880)、熱海旅行の途次、箱根・塔ノ沢にある和宮終焉の地を訪れて、挽歌を詠んだことを紹介したいと思っておりました。

この挽歌については、字句をめぐって異同があることは以前、拙ブログでも紹介したことがあります。ここです。コメント欄に書かれていますので、ご覧下さい。

なお、和宮の死因が脚気衝心だと書きました。
この病気は脚気の症状が心臓を圧迫して、ついには死に至らしめる病で、当時の上流階級に多いです。白米食だったからでしょう。
和宮の夫、将軍家茂も同じ病気で亡くなっています。この夫婦は食生活が似かよっていたのでしょうね。むしろ、仲睦まじさの表れだったかもしれませんが。

これは余談です。
薩摩藩でも、島津久光が脚気に苦しんでいます。
慶応3年(1867)11月、小松・西郷・大久保らは久光にも上京を促しましたが、病気のため断念し、代わりに藩主茂久の上京となりました。久光の病気とは脚気だった可能性が高いと思っています。
もし、このとき、久光が上京していたら、小御所会議がどうなったか、大久保-岩倉と山内容堂の対立はあったかどうか。いろいろ考えさせられます。

次回からまた、小松帯刀のことを書こうと思っています。

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【2008/06/21 12:41】 | さつま人国誌
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日次記です。

ほんとは5月がイベントが多くて書くことがたくさんあったのですが、いまさらなので、6月分の主な出来事を書いておきます。

6月2日(月)癸酉、曇り時々小雨
信長・信忠の命日。426回忌。

新宿の京王プラザホテルで、茶話会。
打診があったとき、2時間程度ならと引き受けた。
話は明治維新ってよかったのかとか、小松帯刀のことなど。
鹿児島史跡ツアーに一緒に行った企画者に、鹿児島での解説よりも面白かったと言われて、苦笑。
リラックスしていたからでしょう。

3日(火)甲戌、天晴
午後から、某社と仲介の某編集者と新宿で打ち合わせ。
某企画のための顔合わせ。
面白いものになればよいが……。

夕方、古文書塾「てらこや」に出講。
禁門の変前夜における諸勢力の動向を見る。
西郷が長州藩の今の路線は行き詰まるに違いないと、的確に分析していたのが印象的。
けっこうスリリングな内容だったせいか、次回は受講者から禁門の変を具体的にやってほしいという希望が出た。
省略しようかと思っていたが、お客様は神さまなので、予定変更と相成る。

5日(木)丙子、天晴
午後から西東京市の武蔵野大学本部に行く。
同大学の生涯学習センターの特別講師の拝命式。
島津晴久・大久保利泰・榎本隆允の諸氏と。
大学の前学長、現学長や担当理事、その他OB会の方々がおいで。
おのおの10分ほど話せという要請あり。
歴史の複眼思考みたいな話をする。

7日(土)戊寅、天晴
午後から、東大本郷の某所にて、「信長記」研究会。
この間、「信長記」の調査をしている面々との内輪でのもの。
とくにこの会の中心であるK氏と、「信長記」諸本をもっともよく見ているW氏から、この間の調査の成果も含めて報告あり。
この間、あまりに多くの史料を見すぎたため、メンバーの頭の中を整理し、共通認識を構築しようと企図されたものだったが、個人的には、両氏の報告があまりに豊富なうえ、高度すぎて、なかなか頭に入らなかった(汗)。
新たにメンバーに加わったO氏とも挨拶を交わす。
O氏は角川文庫「信長公記」の改訂版の編者。

8日(日)己卯、天晴
京王の幕末江戸史跡ツアー。
朝、新宿駅西口に集合。
バスでの史跡探訪である。
参加者は40名。十数倍の競争率を勝ち抜いてきた方々。
江戸ツアー企画は秋にも計画されているので、今回は江戸の南、薩摩藩邸跡などを中心に回った。
まず渋谷藩邸から江戸城へ、篤姫の入輿コースを辿る。
二の丸庭園のアヤメやカキツバタがとてもきれいだった。
その後、増上寺で、和宮の墓を特別拝観。
秀忠・家宣・家継・家重・家慶・家茂、6人の将軍の墓も見学。
その後、薩摩藩の芝、田町、高輪などの諸藩邸を見学したのち、永福町の大円寺で締めた。

9日(月)庚辰、曇りのち雨
午後から、S社の雑誌「R史読本」の出張校正。
同誌の出張校正は初めてのこと。
それだけ大変だった。
今月下旬発売号は「信長」特集。
そのメインの記事を担当したため、校正が大変だった。
それに、連載記事も重なったため、一心不乱に文字を追う。
夕方にようやく終了。
今回の信長特集は御大の研究者から、若手精鋭まで多彩な執筆陣です。
買いですぞ。
ちなみに、私の連載は桶狭間合戦です。これまでとは少し違ったことを書きました。

14日(土)乙酉、天晴
大阪出張。
午前中、夕陽ヶ丘に行き、小松帯刀の最初の墓所跡を見学。
現在、陸奥宗光の墓所あたりに小松は埋葬されたという。
近くの谷町筋に、小松ゆかりの医者ボードウィンやアーネスト・サトウの史跡も見学。
西郷とサトウの会見地も見たが、当時のお寺が移転してしまい、マンションになっていたのが残念だった。拙連載記事にしようかと思っていたが……。

午後から大阪梅田で、コレクターの某先生と会う。
経済サミット開催のため、駅ターミナルなど厳戒態勢で、コインロッカーが使えず、往生する。
先生は幕末もののコレクターとして、知る人ぞ知る人らしい。
新選組のとある有名な史料も所蔵されている。
薩摩のある人物宛ての書簡が30点もあるというので、見せていただく。
すご~い。
何とかしたいものである。

かなり端折って書きましたが、それでも相当な分量になったので、今日はこれくらいで。

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【2008/06/20 20:04】 | 日次記
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一昨日、古文書塾「てらこや」の今次講座が終了しました。
さっそくですが、来月から次シリーズが始まります。
もし余裕があったら、参加しませんか。
次シリーズは禁門の変以降、薩長同盟あたりまでを考えています。


小学館アカデミー古文書塾「てらこや」~「小松帯刀と幕末薩摩藩」~

~7月開校講座 受講生募集中~

小学館アカデミーのサイトにはこちらです。
ただ、まだ更新されていませんので、ご注意下さい。

■ 特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩ー大河ドラマ「篤姫」シリーズ5ー」

講師 桐野作人(歴史作家)
日程 全5回(7/15、7/29、8/5、
8/19、9/2)火曜日、19:00~20:30(1回90分)
会場 小学館アカデミー
    〒101-0051 東京都千代田区神保町2-14,SP神保町ビル1F
交通:都営地下鉄・東京メトロ半蔵門線「神保町」駅より徒歩約1分、JR「水道橋」駅より徒歩約12分
    >>> 会場案内図はこちらです。
      
【講座内容】
大河ドラマ「篤姫」の関連シリーズ5回目です。引きつづいて、 小松帯刀が大久保利通に宛てた書簡を中心に、薩摩藩の幕末政局への関わりを理解します。
小松は西郷隆盛・大久保利通と並び称された人でしたが、あまり知られておらず、知名度も低いです。
ここでは、篤姫の相手役として、今回はじめて大きくクローズアップされる小松の事績を詳しく見ていきます。
小松のわずかに残っている日記や、200点以上は現存する小松文書を中心に進めていき、小松のことだけでなく幕末薩摩藩や幕末政局への理解を深めたいと思います。

【講師からひとこと】
現在、私が一番関心をもっている人物です。
史料もそれなりに収集しておりますので、その成果の一部を受講者のみなさんに還元し、小松の人物像をより深めていけたらと思います。
幕末薩摩藩の美男の大立物の魅力を味わいましょう。

【受講料】
13,650円(全5回)

【お問い合わせ・お申込み】
小学館アカデミー古文書塾“てらこや”神保町校受付
フリーダイヤル:0120-072-465/FAX:03-3515-6783
受付時間:10:00-20:00、(土日・祝日を除く)

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【2008/06/19 23:42】 | イベント
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このところ、忙しくて各種イベントの報告もできずにいます。
少しずつですが、書いていきます。

先月、5月24日(土)午前11時から、霞が関ビルの霞会館で、甲東130年祭が開かれた。
例年は青山墓地で供養祭のあと、直会が開かれるという形だが、130年という区切りのため、場所を変えて規模の大きな祭祀となった。
甲東の命日は5月14日である。例年、この直近の土日に開催されるが、今年は当日、初めて鹿児島でも130年祭が挙行されることになり、ご当主の大久保利泰氏が鹿児島に行かれたため、少し日程がずれた。

会場正面には甲東とその妻満寿の遺影が掲げられている。
今回は130年祭にちなんで記念講演があり、不肖小生が講師をつとめることになった。
開場よりだいぶ前に会場に入った。
出席者は110名ほどだったと、あとで聞いた。
大久保家とその一族、品川弥二郎その他、幕末の有名人の子孫もおいでだった。

演題は、

大久保甲東と有待庵
 ―幕末から明治初年にかけての京都における維新の舞台裏―」

主題は私案のとおりだが、副題は主催者側が考えたもの。少し長かったかも。

有待庵とは、京都の寺町石薬師の大久保利通邸にあった茶室のこと。
甲東がここに居を構えたのは、薩長同盟が成立した慶応2年(1866)春からで、遷都のため、東京に移転した明治元年(1868)6月まで、約2年間ここに住んでいたという。

有待庵は小松帯刀邸から移築してきたというから、薩長同盟成立時には有待庵は小松邸にあったことになり、同盟の「生き証人」というわけである。
話はそのあたりから入った。

有待庵をめぐる逸話については、甲東三男の大久保利武著『有待庵を繞る維新史談』に負うところが大きい。これには、利武みずから現地で取材した多くの逸話が盛り込まれている。
そのいくつかを紹介したが、とくに「大原女」の逸話が出席者の印象に残ったようだ。
これは岩倉具視と親しかった洛北岩倉村の豪農の娘が大原女に扮装して、大久保との間で密書を何度もやりとりしたという話。その本人の談話だから、迫真性抜群である。
岩倉の密書だったので、大久保本人が必ず受け取ったとか、大久保邸の表から入らないで、裏に回って有待庵で大久保に手渡したとか、大久保からいつも褒美をもらったとか、とても面白い。

そして、いつものことだが、せっかくレジュメに載せたのに、また紹介せずに終わった史料が2点もあった。
ひとつは、勝田孫弥『甲東逸話』に収録されている大山巌の回想。これは大山が西郷の、西郷従道が大久保のボディガードをつとめ、懐にはピストルを忍ばせていたという、いかにも幕末の緊張を伺わせる話である。また大山はまだ書生だったせいか、西郷が大久保邸を訪ねたときには、邸内に入れてもらえず、隣家に待機していたとかいう話も面白い。

もうひとつが、大久保邸の近くの紙商の談話で、これも利武が取材したもの。
これには、西郷の下宿が大久保邸のすぐ東隣にあったと書かれている。
これについては、かつて「さつま人国誌」でも紹介したことがある。ここです。
この紙商の家の2階には黒田清隆が下宿していたとか、得能良介や税所篤なども来たとか、極めつけは坂本龍馬も遊びに来たと語っている。
この家は現存しており、その子孫の方にもお会いしたことがある。そのことも紹介できなかった(泣)。

講演終了後も、たくさんの質問があり、なかなかにぎやかだった。
とくに甲東の和歌には関心が高く、私が一度詠み上げただけだったので、何度も詠み上げるよう依頼があった。こんなに反響があるなら、レジュメに書いておけばよかったと少し後悔。ついでに書いておきます。

ときにより血汐の浪もたたせずば 濁り果たる御世は澄むまじ

甲東に対しても少しははなむけになったと思う。

会場には、作家の永井路子さんもお見えだった。最近、岩倉具視の著作を上梓された関係からだろう。明治の華族制度の研究で知られる浅見唯男氏もおいでで挨拶された。ほかにも古写真を研究している研究者をはじめ、薩摩藩士の子孫、出版社関係などたくさんの方々がお見えだった。すべての方に挨拶できずに残念だった。

甲東祭終了後、勝田政治先生(国士舘大学教授)をはじめ、薩摩な仲間たちや私の講座「てらこや」のみなさんと、渋谷にて二次会を挙行。
これまた楽しかった。

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【2008/06/17 13:30】 | イベント
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昨日の大河ドラマ「篤姫」、じつは見逃しました。

昨日は幕末江戸史跡探訪のガイドを朝から夕方までつとめ、そのあと、明治維新史学会帰りの研究者たちと一献傾けたため帰宅が遅くなりました。
それでも、22:00のBS放映には間に合ったのですが、疲れのためか、不覚にもそのまま眠り込んでしまい、起きてみたら放映は終わっておりました(泣)。

そんなわけで、感想を書けません。土曜日の再放送を見て書きたいと思います。
たくさんのアクセスをいただいたのに申しわけありません。


その代わりといっては何ですが、関連する話題を少し書きます。
先日12日にアップした「鹿児島をゆく」の記事(これです)についての補足です。

ツアーのなかで、島津家の菩提寺、福昌寺跡墓所を訪れました。
そのとき、島津斉興の墓も拝観したのですが、斉興の墓の右手前に山川石でできた宝篋印塔が鎮座しておりました。以下の写真です。
お由羅の墓


参加者から、この墓の主は誰なのだと尋ねられて、私ははっきりと答えることができず、「おそらく正室賢章院(斉彬生母、鳥取藩主松平斉邦妹)か、お由羅の方ではないかと思う。ただ、お由羅の方は側室なので、正室扱いしたこの建て方と位置はどうかと思う」と答えるにとどまりました。

墓には戒名が刻んでありました。上の写真の戒名部分を拡大したのが以下の写真です。
お由羅戒名


戒名は「妙浄覚忍大禅定尼」と刻んであります。
お由羅の方の戒名をよく知らなかったため、この墓の主がお由羅の方なのかどうか、宿題にさせてもらいました。
最近、この一件を思い出して、少し調べてみましたが、お由羅の方の史料が少なく、戒名の書かれている史料をまだ探せ出せておりません。
なお、一説によれば、「妙深忍大弾定尼」というそうですが、上記写真の戒名とは異なりますね。

さて、島津修久著『島津歴代略記』(島津顕彰会)の末尾に福昌寺跡墓所の見取図と解説が載っています。
それによれば、この墓の主はお由羅の方だとはっきり書いてあります。
さらに注目すべきは「斉興後夫人」と注記されていることです。島津家では、お由羅の方を斉興の側室ではなく、後夫人(いわゆる後妻です)と位置づけているようです。おそらく何らかの根拠があるのでしょう。
後夫人であれば、あの位置にお由羅の方の墓があっても決しておかしくありません。

それで、一応問題は解決しましたが、もうひとつ別の疑問が出てきました。
斉興の最初の夫人である賢章院の墓はどこにあるんでしょうね。賢章院はおそらく江戸で他界したはずですから、江戸の菩提寺である大円寺(現在は杉並区和泉にある)に葬られたのでしょうか。ただ、このお寺には位牌は置くけれど、墓は建てないというならわしがあったようですから、やはり鹿児島につくられた可能性が高いと思われます。
斉興の墓の左横に、いくつか小さな墓が並んでいましたが、そのなかにあるのでしょうか? だとしたら、お由羅の方の墓とくらべて扱いが不当な気もします。やはり、どこか別の所にあるのでしょうか?

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【2008/06/16 15:49】 | 篤姫
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「後夫人」
ばんない
こんにちは。

『島津歴代略記』の「後夫人」についてですが、島津忠義側室の山崎寿満子のように明らかに側室と分かる人にも「後夫人」の敬称をつけているのであてになりません。
島津家久(元「忠恒」)の正室は2人しかいないはずなのに、くだんの本によると福昌寺跡の墓所に家久後夫人の墓は4つか5つぐらいあったはずです。

ただ、斉興正室の池田周子の墓が福昌寺に見あたらないのは気になります。同じく島津修久氏紹介の「御祭祀提要」(『尚古集成館紀要』5)によると、当初大円寺に葬られ、後に鹿児島に改葬されたはずなのですが…。

後夫人?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

やはり、お由羅の方が後夫人というのは怪しいですか。
考えてみれば、例のお由羅の方の墓は立派ではあるのですけど、斉彬夫妻のように、夫婦墓になっておらず別々ですね。そのあたりも引っかかります。

斉興正室の池田氏の墓はどこにあるんでしょうね?
大円寺には、池田氏こと賢章院の名前も刻んだ寺側の宝篋印塔が立ってはいますが……。

賢章院のお墓
ばんない
こんばんは。

本日『島津歴代略記』を改めて読み直すと、「斉興夫人」の記述がありました。島津継豊の墓の隣に島津斉彬の夭折した息子(菊三郎と虎寿丸)の合葬墓があるようなのですが、そこに更に合葬されているようです。…地図を見ると夫・斉興墓や息子・斉彬墓とは別区画にあるようです。
これではそう簡単に見つからないはずですね。

では失礼します。

斉興夫人
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

同書をよく見たら、たしかに斉興夫人がありました。
こちらの見落としでした。

それにしても、斉彬の早世した子どもである菊三郎や虎寿丸と合祀されているというのが何とも。
たしかに孫ではありますが、ちょっと変な組み合わせですね。

あるいは、廃仏毀釈後に適当にまとめられたのでしょうか?

元・福昌寺の墓群は場所取りゲームで早者勝ち?
ばんない
こんばんは。

『島津歴代略記』に載っている地図、別の頁に載っている分かりにくい(失礼!)人物対応表とページをめくりながらにらめっこして考えていたのですが、江戸の大円寺から移された人は、適当にまとめられた印象が否めません。広い墓地とはいえ、江戸から移してきた墓全部それぞれに新たにスペースをさく余裕はなかったのでないかと私は考えています。
ちなみに斉興のそばで単独でどどんと墓を作ってもらっているお由羅は慶長2年でしたか、鹿児島で死んでますね。

ところで、斉興夫人・池田周子は斉興と不仲だったと書いてあるサイトをどこかで見たことがありますが、桐野さんはそういったエピソードはご存じですか?

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第62回
―わが国最初の利用者か―

関西に出張していたため、告知が遅くなりました。
連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすると、ご覧になれます。

今回は篤姫がミシンを器用に使っていたというお話。
ニューヨークタイムズの前身であるニューヨーク新聞の146年前の記事を紹介しました。
篤姫がわが国で初めてミシンを使ったかもしれないというのは、意外で愉快でもありますね。

アメリカ側からの儀礼的なプレゼントに、将軍御台所が興味を示し、自分で実際に使ってみて、使いこなせるようになったというのですから面白いです。

のち明治になってから、篤姫は世話になった勝海舟にシャツを縫ってあげたという逸話が残っていますが、もしかしたら、ミシンで縫ったのかもしれませんね。

将軍御台所という江戸時代のファーストレディは、身のまわりのことはすべて部下がやってくれ、何もしなくていい身分だけに、篤姫の好奇心は破格だといえそうです。

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【2008/06/14 20:44】 | さつま人国誌
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武藤 臼
こんばんわ
なかなか興味深いエピソードですね。
これは・・・
タイミング的には、まだ大河に登場し得る?
・・・のですよね?

出たら面白いですが、足踏み式ですかねぇ。



ばんない
こんにちは。なかなか興味深いエピソード、これは余り知られてない話だと思います。私は初めて知りました。
横山工業というミシン屋のHPで概略が紹介されていました。
http://misinkan.com/history/hisjap.htm#hisjap
こちらのHPにウィルソン社のミシンの写真も載っています。
http://misinkan.com/history/hisame.htm#hisame

どうも篤姫の知られているエピソードは和宮とのケンカといい慶喜とのケンカといい(爆)石頭のおばちゃん(失礼)的な話が多いだけに、このミシンの話は意外ですね。それとも、西洋かぶれの斉彬の養女になるくらいだったから、むしろミシン動かしている方が本性に近かったのでしょうか?

ところで武藤様
ミシンの話、たぶん今回の大河には出てこないと思います。何故かというとこれからどんどん進行が遅くなって、和宮様降嫁が9月ぐらいになりそうなのです。この調子だとミシンの話はやってる余裕がなさそうですが…。でもアヒルも出したぐらいだし、どうなるやら(爆)


うり坊
いつも楽しみに拝見しています。
大河ドラマでもソーイングミシーンはジョン万次郎が篤姫に
お土産に持ってくる設定で収録済みのようですね。
この記事を読ませていただき篤姫の好奇心と受け入れて
自分のものとした聡明さに感心いたしました。

篤姫とミシンのこと
桐野作人
武藤 臼さん、ばんないさん、うり坊さん

コメント有難うございます。
やはりドラマでもミシンを取り上げるということなのでしょうか。だとすれば、面白いです。
ただ、ジョン万次郎のお土産という設定にはやや引っかかります。やはり将軍家定に贈られたものだったのではないかという気がしますが……。
ばんないさんのご紹介のサイトで、ウィラー&ウィルソン社の当時のミシンがどんなものか、見当がつきました。有難うございます。


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先月中旬、京王文化探訪のツアーで鹿児島をめぐった。
遅ればせながら、その報告を簡単に。

最初は篤姫を中心に幕末薩摩の史跡をめぐるのだと考えていたが、じつはそんな単純なものではなかった。ツアーのタイトルが、

「薩摩隼人の在所に姶良の土魂を探る旅」
―坊津鑑真和上と天璋院篤姫の風土を歩く―


とても、ふつうのツアーではないことはおわかりだろう。
タイトルにある「土塊」は「士魂」ではない。あくまで「土」なのだ。
その証拠に、2泊3日のツアーのうち、「土」を採取する場所が2カ所もあった。
ひとつは姶良郡重富のあたりで、シラス台地の崖からシラスの「土」を削るイベント。さすがにみなさん、「なぜ」という顔でキョトンとしていた(笑)。
もうひとつは、坊津の鑑真和上上陸の浜の砂を取ること。これは地元の方が集めて下さり、みなさんでいただいた。素敵な貝殻も混じっていた。多謝。

以下、気になったポイントや印象深いところや面白い写真を紹介します。

1,発掘された隼人塚
だいぶ昔に一度見たことがあったが、そのときと景観が変わっていて驚く。
発掘調査があって、埋まっていた部分が掘り起こされ、四天王像などがきちんと配列されていた。
近くに記念館もできていた。
隼人塚


2,シラス台地の崖と建昌城跡
上記のシラス削りの光景。晴れていたからよかったものの、雨の日だったら、あまり近づきたくない場所。驚いたのは、入口にあった案内板。
シラス台地の上が建昌城跡だったのだ。
建昌城は島津家久がこだわった城。
関ヶ原合戦後、鶴丸城を普請するが、同時に要害堅固な建昌城の普請もやろうとしていた。
結局、財政多難で中途で断念したが。
シラス削り

建昌城


3,小松帯刀の園林寺墓地
日吉町の吉利(現・日置市)にある小松帯刀の墓。
これまで2回行っていたが、大河ドラマの放映後は初めて。
すっかり様変わりしていた。駐車場やトイレもできており、墓所入り口には案内所や看板も。
そして、墓の途中の空き地には「小松の森」といった憩いの場?までできていた(驚)。
小松の森


4,石橋公園
かつて甲突川にかかっていた五橋。安政年間、肥後の石工岩永三五郎がつくった名橋群だったが、十数年前の大洪水で2つの橋(武之橋、新上橋)が流されてしまった。
そして、残りの3橋も、ここ石橋公園に移された。
写真は西田橋。
どこかで見た覚えがありませんか?
そう、大河ドラマで登場しています。
ドラマでは、CG処理で水がたくさん流れているように見えています。
背後には桜島も見えます。
石橋


5,池田湖の大ウナギ
見ての通り。長さ2メートル、太さ20センチくらい。
昔はもっと大きなウナギを見た記憶があります。
大ウナギ


6,坊津一乗院跡
南薩の古刹として有名でしたが、ご多分にもれず、廃仏毀釈でやられました。
それでも、墓や山門にあったと思われる仁王像などがまだ残っていました。
一乗院


7,ハイビスカス
沖縄ではよく見ますが、本土で見たのは初めて。
これは一乗院跡近くに咲いていました。
坊津は薩摩半島の最西端で、最南端にも近いです。
同じ鹿児島でも私の郷里である北薩では、さすがに見たことがありません。
ハイビスカス


9,鑑真上陸地
鑑真和上はここに初めて上陸の一歩を刻みました。
でも、坊津にいたのはわずか一両日で、すぐ大宰府に向かったそうです。
鑑真上陸



初日は、旧隼人町や国分市をめぐり、帖佐の姶良町歴史民俗資料館、上野原遺跡、島津義久の墓や富隈城跡も行き、霧島の温泉泊。
2日目は日置市の小松帯刀関連や南洲窯、美山の薩摩焼、篤姫生誕地、南洲墓地、西郷南洲終焉の地、岩崎谷などをめぐり、霧島観光ホテル泊。
3日目は、尚古集成館、仙巖園などを見てから、指宿方面へ南下し、今和泉で篤姫関連史跡をめぐり、指宿の温泉泊。
4日目は、開聞岳を見ながら、坊津へ。輝津舘や鑑真記念館を見学してから、知覧に行き、特攻記念館や武家屋敷を見学し、鹿児島空港へ。

コースもレアな場所が多かったし、暑くて日焼けしてしまいました。
高校時代のサークル仲間をはじめ、多くの友人知人と会うこともできました。

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【2008/06/12 01:39】 | イベント
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坊津一乗院
黒豚シャブシャブ
坊津歴史資料センター輝津館の絹本著色八相ねはん図は一見の価値があります。飾られているのは複製で、本物は10月に公開するそうですが、機会があれば見たいと思います。

涅槃図
桐野作人
黒豚シャブシャブさん、こんにちは。

輝津舘の涅槃図の複製は、先日見てきました。
本物はもっと素晴らしいのでしょうね。
でも、残念ながら、見られそうもありませんが。
ご紹介有難うございます。

坊津はとってもよい所でした。


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NHK大河ドラマ「篤姫」第23回「器くらべ」

このところ、忙しくてなかなか更新できずにいます。

ドラマの進行時点、安政4年(1857)夏から秋か

今回は、養父斉彬の密命と、夫家定の「慶喜は好かぬ」という一言の間で板挟みになっている篤姫が、思い余って、将軍継嗣の両候補をじかに見て、品定めをしようという趣向。

それにしても、一橋慶喜役の平岳大。
父は平幹二郎、母は佐久間良子というサラブレッドで、容貌は父似かと思っていましたが、昨日の印象では、渡辺謙の若い頃にも似ていましたね。これから飛躍する役者でしょうか。

一方の紀州慶福役の松田翔太。
こちらも劣らず、父は故・松田優作ですね。

ドラマの趣向は、「直球勝負」の篤姫らしさが表れていましたが、いちばんの疑問はやはり、慶福の年齢でしょう。
慶福(のちの家茂)の生没年は1846~66年。享年21。
ドラマ進行時点では数えの12歳です。篤姫は23歳です。
とても12歳には見えず、大人びていましたね。年齢を低く見積もっても、10代後半にしか見えません。
ちょっと無理があったのではないでしょうか。

ちなみに、慶喜は天保8年(1837)生まれなので、21歳。篤姫より2歳年下です。

このような篤姫の品定めが史実かどうかですが、おそらく史実ではないと思われます。
一橋家の御用日記が掲載されている『新稿 一橋徳川家記』(辻達也編、続群書類従完成会)という史料があります。

それには、歴代の一橋家当主の主な行動が記載されています。将軍御台所に大奥に招かれれば、当然記事になってよさそうですが、安政4年にそのような記事はありません。
ですから、篤姫が大奥で慶喜を引見したというのは事実ではないと思います。となると、慶福の引見も同様だったのではないでしょうか。傷んだ和菓子の毒見云々も同様でしょうね。

ちなみに、前回、島津斉彬が慶喜と初めて会見しましたが、それについてはちゃんと記載されています。しかも、2回訪れているようです。同年の3月11日と27日です。ドラマでは老中阿部正弘が同道していましたが、記事には阿部の名前はないので、斉彬一人だったと思われます。

ドラマでは水戸斉昭が幕府に委嘱された海防参与の職を辞す場面がありました。上記御用日記によれば、7月25日条に、実父斉昭に対して、辞職への「歓びの使者」を遣わしています。辞職を喜ぶというのですから、よほど斉昭は嫌気がさしていたのでしょうか。

篤姫がこの時期、慶福をどう思っていたかは不明ですが、将軍家定の慶福評はあります。家定の小姓だった「朝比奈閑水手記」には、閑水が家定に将軍継嗣問題をひそかに尋ねたところ、直答があったとしております。慶喜については「刑部卿様(慶喜)は御いとひ(厭ひ)遊され」という答え。慶福については次のようにあります(『徳川慶喜公伝』史料篇一)。

「紀州様(慶福)は御幼年にて丁度御子様の如く思召さるれば、紀州様の方御好み思召さるゝとの事を伺ひ」云々

家定がこのように慶福を自分の子どものように好意を抱いていたことが、篤姫にも影響を与えたかもしれませんし、また将軍継嗣問題の決着にも影響を与えた要因でしょう。

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【2008/06/09 10:12】 | 篤姫
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立命館大学鹿児島県校友会の西元です。
西元 泰光
こんにちは。
先程、電話をしました立命館大学鹿児島県校友会の西元泰光です。
(「膏肓記」は失礼しました)
S44年産社卒で、県校友会の事務局を預かっています。
「さつま人国史」の桐野作人さんが立命館校友、出水市のご出身とは
県校友の殆んどは知らないようです。近日、県校友会便りで「桐野作人」
さんを紹介させて頂きます。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
私はブログの真似事をして遊んでます。
    :http://miyata.synapse-blog.jp/


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第61回
―赤味噌や高菜、樽柿も―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は篤姫の好物について取り上げました。
いつぞや、フジTVの某番組に出たときの関連で、閑話休題的な話題です。

篤姫が好きだったという薩摩の赤味噌。
じつは鹿児島ではあまり赤味噌は好まれないと思います。
ですから、この赤味噌が何なのか?
いつぞや地元紙に、指宿あたりに赤っぽい油味噌?があり、これではないかという記事があったような記憶もあるのですが、おぼろげだったので、書きませんでした。
もしご存じの方がおいでなら、教えて下さいませ。

次回も篤姫の話題を書きます。
次に小松帯刀の続編を2本ほど書きます。
その次に、これまで正面から取り上げてこなかった西郷隆盛について少し書いてみようかなと思っているところです。

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【2008/06/07 10:15】 | さつま人国誌
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宮地正人氏の最新論文のタイトルである。
副題は「宮和田又左衛門光胤を手掛りとして」

国学院大学・国史学会が刊行する『国史学』195号に掲載されている。じつは今日届いたばかりだ。
国史学会のサイトはここです。

宮地氏は佐倉の歴博を退官されたのちも精力的に論文を発表されている。
とくに歴博が平田家所蔵文書を一括購入したことで、平田国学の研究が飛躍的に進展するきっかけができた。その史料をもとにしながら、宮地氏が提起された「東国勤王派」という概念とが結びついた労作だと思われる
また宮地氏が岩波新書で展開された新選組論がさらに発展させられているのではないだろうか。

新選組と平田国学の結びつきなんて意外に思われるかもしれないが、決してそうではない。
関東における尊攘派の存在形態は、従来考えられているより、ずっと多様で豊かである。対極にあると思われている近藤勇と相楽総三だって、同列に論じられるのだから。
今後、この方面で、稔りある成果が期待できそうだ。

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【2008/06/04 12:22】 | 幕末維新
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NHK大河ドラマ「篤姫」第22回「将軍の秘密」

ドラマ進行時点は、安政4年(1857)2月頃から6月頃。

島津斉彬が一橋慶喜に初めて会ったのが3月27日。
老中阿部正弘の死が6月17日です。

篤姫と将軍家定との仲がいよいよ佳境に入ってきました。

篤姫が家定と腹を割って話すうちに、じつは家定が「英邁」だったという、篤姫の言葉さえ飛び出しましたが、さすがにそれは過大評価ではないかと思いますが……。

個人的には、亡くなった老中阿部正弘を演じた草刈正雄が印象深いですね。
かつての二枚目スターがすっかり演技派になって……。
咳のしかたや脂汗を拭う仕草など秀逸です。

草刈正雄とNHKといえば、水曜時代劇「真田太平記」での幸村役が思い出されます。
果たして、バタ臭い(もう死語?)彼に幸村という大役がつとまるのかと心配しながら見はじめたのですが、大坂の両陣での鬼気迫る演技は素晴らしかったです。

以来、大河ドラマにも出演するようになって、とくに1997年、「毛利元就」で桂広澄を演じ、その死に方が素晴らしかったですね。考えてみれば、このドラマで、松坂慶子がカムバックし、中村梅雀や榎木孝明も出ていましたね。

で、今回は一橋慶喜が初めて本格的に登場しました。
調所広郷を演じた平幹二郎の息子ですが、お父さんによく似ていますね。
画面も逆光気味で暗くして表情があまり見えないようにしてありました。
ドラマでの、その後の慶喜のポジションを暗示しているのでしょう。

慶喜と斉彬の初会見ですが、斉彬が松平春嶽に宛てた書簡に、3月27日に会ったと書いています。
おそらく一橋邸でしょう。ドラマでは老中阿部も同行していましたが、書簡にはとくに書いてありません。おそらく同行しなかったのではないかと思いますが……。

斉彬書簡は『昨夢紀事』二(日本史籍協会叢書)に収録されています。4月2日夜付です。
書簡によれば、斉彬は人払いしてもらって、慶喜と膝詰めで話したようです。

その感想として、「実に早く西城(西の丸=将軍世子のこと)と仰ぎ奉るり候御人物」とし、将軍継嗣にふさわしい人物だという見立てです。
でも、そのあとに「しかし、御慢心の処を折角御つゝしみ御坐候様仰せ上げられ候て然るべしと存じ奉り候」と、注文を付けることも忘れていません。

ときに慶喜21歳。
幼少から英邁をうたわれ、水戸斉昭に英才教育を施された人物ですから、齢相応の生意気というか自負心が顕れたのでしょう。

慶喜の自信過剰を指摘していたのは斉彬だけではありません。
後期水戸学の泰斗、藤田東湖もそうです。
東湖は斉彬より3年早い安政元年(1854)3月、主君斉昭に宛てた書簡のなかで、幕臣川路聖謨から聞いた慶喜の言動を伝えています。それは次のような話です。

「一橋家の用人が木綿の服で慶喜の前に出たところ、慶喜がそれは何と申すものかと尋ねたので、綿服だと答えると、綿服にて出仕するほどなら、娘は踊りの稽古はもうやめたろうなと、慶喜がからかったので、用人は赤面して引き下がった」

東湖は慶喜のこのような態度を君主として「御為に宜しからず」「その気象をば先々おつつみ(お包み)、只々有難き御方様とのみ評判仕り候様に仕りたし」と、斉昭に伝えています。

期せずして、斉彬と東湖の観察は一致しています。
さて、この慶喜が今後、篤姫とどのようにからむのか楽しみではあります。

なお、慶喜は煙管で煙草を吸っておりました。ドラマではほかに老女滝山も吸っていますね。
慶喜の場合、煙草は必ずしも健康に悪いとは考えていなかったと思います。
水戸斉昭は慶喜に直伝の健康法を伝授しています。
それによると、毎日、黒豆100粒ずつ、牛乳も毎日飲みつづけるように指示しています。
一方、湯茶などの水分は極力摂らないようにして、武芸などの鍛練のあとも、湯茶は一口二口だけにして、烟草で紛らわすように忠告しています(大庭邦彦『父より慶喜殿へ』集英社)。

現代医学の観点から見ると、いささか首をかしげたくなりますが、斉昭は大真面目で説いており、慶喜もそれを守っていたのかもしれません。

とりあえず、今日はこれくらいにて。

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【2008/06/01 22:48】 | 篤姫
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