歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
日次記です。

7月29日(火)庚午、天晴のち雷雨
雷雨がやんで、古文書塾「てらこや」出講から帰宅すると、注文した古書がどっと届いていた。同時に、国会図書館に複写依頼していた論文もまとめて届いていた。またまた出費が大変である。
古書は、あるテーマを追って、近代政治史研究者の坂野潤治氏の過去の著作を購入。

『近代日本の国家構想1871-1936』岩波書店
『近代日本の対外態度』佐藤誠三郎・R・ディングマン編、 東京大学出版会


30日(水)辛未、天晴
雑誌連載の原稿に苦吟。書きたいテーマがまとまらないというか、話題が分散していて、全然一貫していない。何とか「論」が立てられないか苦心惨憺。思い切って、何点かの史料と論文を読み込んでまとめていたメモをほとんど全部捨てることにした。これにこだわっていたから、書けないのだ。少し希望が見えてきたが、脱稿できず。

某雑誌から原稿依頼。
上杉謙信である。もう来年の大河企画が始動しているのだ。
そういえば、別の某雑誌からインタビューを受けることになっている。
これもテーマは直江兼続。
来年のことをいえば、鬼がなんとやらだが、今年の摘み残した仕事はどうすればよい(トホホ)。

先日、依頼のあった鹿児島での講演について、スケジュールを含めて具体化する。担当者が上京してくるというので、顔合わせ、打ち合わせに一度会うことになった。
また暑い、もとい熱い鹿児島に乗り込むことになりそうだ。
夜中に新聞連載の原稿何とか仕上げる。今回は先週に引きつづいてユニークなテーマかも。乞うご期待。
数日前、某会の事務局から久々の宴席の案内をいただいたが、義理を欠いていてとても顔向けできない。そんな時間があったら、1枚でも多く原稿を書くべきだろう。

31日(木)壬申、天晴
苦戦の末、雑誌連載原稿、ようやく脱稿。
手作りの図版原稿も出来た。図版といっても、簡単な地図なんだけど。
合間に小松帯刀の史料を整理していたら、意外と重要な記事を見つけたりする。これだから、なかなか進まないのだ。
また、鹿児島の某団体から別件の講演会について打ち合わせ。
テーマが「小松帯刀と坂本龍馬」
かなり大きく出た(笑)。今年と再来年の大河の合体である。

夜、『兼見卿記』の輪読会に出席。
聚楽第竣工や北野の大茶会など、ビッグイベントが目白押しだから、なかなか楽しい。
この輪読会では久々の2次会。夏バテ気味の私の希望で、ギョウザをたくさん注文。
みなさん、夏休みの楽しそうな計画を話していて、少し羨ましい。
仕事が遅い私には夏休みはありそうもない。

帰路、電車の駅をひとつ乗り越し、ビデオ屋に寄って、前から気になっていた映画2本、DVDを借りる。ささやかな夏休みだ。
そういえば、臨川書店から『時慶記』の第3巻刊行の案内届く。
関ヶ原合戦直後の慶長初年だし、また購入せずばなるまい。

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【2008/07/31 23:39】 | 日次記
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兼見卿記の質問
中村邦夫
 私は明智光秀の研究をしている丹波福知山の人間です。突然ながらお願いの義が御座います。
 兼見卿記によれば本能寺の変後、6月9日に五山に銀子500枚を送り、町衆の地子免除をふれたとの事。銀子500枚の記述は兼見卿記上に見つけましたが、地子免除の記述は発見出来ません。該当文面をお教えいただきたく、何卒お願い申し上げます。

地子銭免除
桐野作人
中村邦夫さん、初めまして。

光秀の地子銭免除の一件は、『兼見卿記』に記事はないはずです。
『大日本史料』第11編之1をご覧になれば、356~59頁あたりにまとめて出ています。
天正10年6月9日条です。
史料名としては、

「京都町家旧事記」
「増補筒井家記」
「明智軍記」

などですね。
『大日本史料』は大きな図書館や大学図書館などは所蔵していると思います。


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表題の雑誌に小松帯刀の記事を書いています。
発売日は8月5日とのことで、まだ書店には並んでいないと思いますが、掲載誌が送られてきたので、一足早くご紹介しておきます。

小松帯刀、大政奉還を実現した「周旋」の人

というタイトルです。
よかったら、読んで下さい。

タイトルにもあるように、小松の生涯や政治的活動のなかで、主に大政奉還に絞って書いています。小松の最大の仕事がそれだと思っているからです。
大政奉還は土佐藩の後藤象二郎の建白書がきっかけとなり、将軍慶喜の決断によって宣言されますが、当時の政局から見て、宣言しただけで、それが実現するとは限りませんでした。

まず、幕府内に幕府政治が終わることに対して、激しい反対がありました。親藩・譜代層のほとんどがそうであり、その代表が会津藩でした。彼らは何とか大政奉還を骨抜きにしようと巻き返しを図ります。

一方、薩摩藩内やいわゆる倒幕派陣営においても、大政奉還は将軍慶喜の幕権維持のための策略ではないかと疑っていました。
それは政権を返上しても、朝廷にはその準備も受け皿もないために、慶喜に再び大政再委任という形でブーメランのように政権が戻ってくるかもしれなかったからです。そのことは慶喜が朝廷からの支持を再調達することを意味するわけで、慶喜を中心とする幕府統治に正統性を与えられることを恐れていました。

そのような対立する両派から非難と猜疑で見られていた大政奉還を王政復古の地固めとして、具体化し、まとめあげたのが小松だったといっても過言ではありません。

それほど長い記事ではありませんが、大政奉還についての小松の関与に絞って書いたので、それなりに展開できたと思っています。

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【2008/07/31 00:04】 | 新刊
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小学館古文書塾「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩3

咋29日、その第2回講座に出講。

今回はいわゆる第1次征長について、薩摩藩、長州藩と吉川家の動きについて見ていく。

西郷吉之助(正確には大島吉之助)が征長軍のなかで主導権を確立していく過程が、大久保一蔵宛て書簡から見てとれた。総督の徳川慶勝(尾張藩主)が西郷を頼りにしているさまがよく見える。
また、動員された諸藩が攻め口の担当についてあれこれ差し替えを申し出ていることが尾張藩を悩ませており、その処置を提案した西郷の立場が強化されていくのもわかった。

そのため、西郷の意向が働くことによって、征長が開戦とならずに長州の恭順という方向で戦後処理が進行していくプロセスもわかる。ただ、恭順の条件が3家老と4参謀の首級を差し出すと同時に、減封をどの程度にするか、元治元年(1864)冬の時点ではまだ流動的な様子もわかった。

一方、長州側では、毛利宗家と距離を置く吉川家の立場がクローズアップされることになる。その中立的な立場を活かして、薩摩藩との交渉によって長州藩の危機を救うために、恭順していることを征長軍側に認めてもらおうと奔走している様子を『吉川経幹周旋記』から見ていく。
ひとり大坂に上ってきた同家用人境与一郎の不安な様子が国許への報告から読み取れて興味深かった。

吉川家の周旋によって、毛利の「御両殿様」(敬親・広封親子)も次第に恭順に傾いている。
それに憤激したのが攘夷戦や禁門の変を戦った諸隊である。奇兵隊・御楯隊・膺懲隊・遊撃隊・八幡隊などの諸隊は毛利家ゆかりの常栄寺や鴻峰大神宮社に参籠という名目で立てこもり、藩主父子が誓約した「御国是」(攘夷戦争決行)の死守を嘆願する建白書を提出する。

修訂 防長回天史』から、その建白書の内容を読み解くが、なかなか難解である。
それは、明らかな藩主批判であり、「御国是」に背くことは藩主とはいえ、許されないと痛烈に非難している。もっとも、家来が主君を批判するのはご法度だから、毛利家中興の祖「洞春公」(毛利元就)の名前を持ち出しているあたりが面白かった。

結局、諸隊の抵抗にもかかわらず、長州藩は恭順と定まり、それによって、萩を中心とする門閥保守派のいわゆる「俗論党」の支配が復活する。
しかし、諸隊はなお健在で、攘夷戦争で培った軍事力を保持していたから、のちに功山寺決起をきっかけとする奪権闘争を勝ち抜いていく。
この建白書からは、堂々たる藩主批判をぶてる長州藩内の下からの革命的な雰囲気と、諸隊の実力と気概が示されているのではないかと感じられた。

次回はいよいよ薩長同盟に入れそうな感じである。

帰路、猛烈な豪雨となった。いつもは常連の受講生のみなさんと2次会をしているが、取り止めて早めに帰ることにした。最寄り駅に着いたら、ほとんど雨はやんでいた。コンビニでビニール傘を買ったが、結局、無駄になったのがうらめしい。

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【2008/07/30 09:05】 | てらこや
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NHK大河ドラマ「篤姫」第30回「将軍の母」

ドラマ進行時点は、安政5年(1858)9月から11月。

う~ん、新将軍家茂は当年13歳(数え)なんですが、そう見えますかねえ。
ちょっと無理があると思うのは私だけではないでしょう。
篤姫と義理ながら親密な親子関係を演出するには、イメージが分散する恐れがある子役をいまさら使う余裕はないという事情があるんでしょうね、きっと。

天璋院篤姫が大奥の位牌所で、亡夫家定の位牌に手を合わせておりました。その位牌には、

贈従一位大相国

と書かれていました。
ほんの一瞬だったので、それしかわかりませんでしたが、あとは院号・戒名が書かれていたのでしょう。

「大相国」とは太政大臣のこと。
家定の生前の官職は内大臣でしたが、三階級特進で太政大臣を贈官されています。
これは別段、格別のことではなく、代々のしきたりですね。歴代の徳川将軍の官職は内大臣か右大臣で終わることがほとんどですが、例外的に生前に太政大臣まで進んだのは、たしか家康、秀忠、家斉の3人だけですね。

ドラマでは、篤姫の将軍家茂の後見を強調しており、それを無視する大老井伊直弼との対立を際立たせていますが、もともと表向の政務と大奥との世界の違いを考えると、同列に扱うのはどうかと思います。

とくに、大老井伊が篤姫に対して、「将軍後見職は田安慶頼になったので、ご心配なく」と言って、無視する態度に出ていました。あたかも家定の遺言を無視しているという感じで。

しかし、これは二重の意味でおかしいです。ひとつは日にち、もうひとつは井伊は家定の遺言を無視していないという意味でです。
まず日にちですが、田安慶頼は家茂の将軍就任以前に、じつは将軍後見になっています。
しかも、それは家定の遺言としてです。
「温恭院殿御実紀」によれば、家定薨御の8月8日条に次のようにあります。

「宰相様(家茂)御若年に御座なされ候間、御政事向きの儀、当分の内、田安中納言殿御後見相成り候様にとの御遺言に候」

家茂が若年なので、田安家の当主慶頼に後見させよと、家定が遺言したと書かれています。
これも家定の遺言ですから、井伊も前将軍の意向を尊重しているわけでして。
おそらく、政治向きの将軍後見と、徳川宗家という「イエ」のなかで、若年当主を補佐する女家長としての地位とを混同しているように見えるのですが。
それはおそらく意図的な混同のはずでしょう。なぜかといえば、篤姫が井伊の強圧政治と対立したということにしないと、亡父島津斉彬の密命に背いたことの後ろめたさを合理化できないからでしょう。
だから、篤姫がこれまでの私的な「夫婦愛」から、再び公的な「正義」もしくは「正道」に立ち戻るための補填策として、ドラマは井伊に徹底した悪役であることを強制するしかないのです。
それと同時に、斉彬の「正義」を代表した幾島の役割も終わったということでしょうね。

あと、将軍後見になぜ田安慶頼が推挙されたかというと、ほかに人材がなく、消去法によるものでしょう。
田安慶頼は文政11年(1828)生まれですから、当年31歳という成年です。官職は中納言です。
御三家・御三卿の6人のうち、

尾張慶勝:謹慎処分
紀州慶福:将軍就任
水戸斉昭・慶篤:謹慎処分

一橋慶喜:謹慎処分
清水:明屋形(当主不在)


田安家しか残っていないことがおわかりでしょう。
慶頼はのち文久2年(1862)、島津久光の率兵上京と江戸下りのとき、一橋慶喜が将軍後見職になったとき、解任されています。


一方の薩摩のほうですが、いよいよ月照と西郷の入水事件がありました。しかも、かなり詳しく描かれていました。
また小松が2人の助命に奔走する様子が描かれていましたが、このとき、小松が動いたかどうかは史料では確認できません。おそらく、とくに関与していないのではないかと思われます。

入水以前の京都での出来事ですが、戊午の密勅をきっかけに安政の大獄が始まります。弾圧者は上洛した老中間部詮勝と京都所司代の酒井忠義ですね。
西郷が近衛家老女村岡のところに月照を訪ねておりました。これは史実通りです。月照は清水寺成就院の住持ですが、近衛家の祈祷僧でもありました。

また、近衛家には有馬新七と有村俊斎もひそかに来ていました。
これも史実通りです。いや、より厳密にいえば、もう一人、伊知地正治もいました。有馬新七の日記「都日記」には伊知地の名前も出てきます。

同日記によれば、西郷らが月照を迎えに行ったのは9月10日のこと。
4人で話し合って、月照を親戚のいる奈良に逃すこととし、西郷と有村が同道し、有馬は戊午の密勅の写しをもって江戸へ下る。伊地知は京都に残って情報収集にあたるという分担を決めています。
奈良に行く途中、幕吏に発見されたら、西郷たちは伏見奉行所に斬り込み、斬り死にする覚悟だったと、同日記にあります。

西郷がこの一件で主導的な役割を果たしたように描かれていますが、有馬新七の活動も無視できません。とくに、戊午の密勅の写しと前内大臣三条実万(実美の父)の親書をもって、江戸へ行き、亡き主君斉彬の同志諸侯の山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、蜂須賀斉裕、松平慶徳(鳥取藩主)らに届ける役割を担いました。

余談ですが、有馬の「都日記」はとりあえず手許にある『有馬新七先生伝記及遺稿』と『西郷隆盛伝』収録分を見ていますが、西郷の諱の記述が違います。前者は「隆盛」、後者は「隆永」と書いています。同日記は有馬の死後、何度も書写されたと見えます。当時、西郷の実名が「隆永」だったことを確認できますね。

さて、鹿児島に帰った西郷と月照ですが、苛酷な運命が待っていました。
ドラマでは「永送り」としていました。または「東目送り」ともいいます。「東目」とは薩摩藩領国において東回りルート、すなわち、日向方面を指します。その実、国境で月照を斬るという密命だったとされています。
しかし、異説もあります。『西郷隆盛伝』によると、藩当局、とくに家老新納久仰(にいろ・ひさのり)は西郷の人徳を惜しんでいたので、幕府の手前、表だっては厳罰を下したけれども、じつはひそかに別の場所(日向の法華嶽寺)に潜伏させようとしたけれど、その真意が西郷たちに伝わらなかったということです。もっとも、少し言い訳がましい気がしますが。

入水の一件では、西郷と月照のほかに、平野国臣と月照の従僕重助も同船していたのですが、さすがに登場しませんでしたね(笑)。
入水したのは旧暦の11月16日。新暦だと12月でしょう。
冬で錦江湾の水はかなり冷たかったはずですが、西郷はよく蘇生しましたね。きっと本能的に泳いだのと、同船していた平野らの気転のおかげでしょう。

さて、この一件で誤解されているのは、西郷も藩当局から罰せられたと思われていることです。
そうではありません。西郷が奄美に行くことになったのは、罪を得ての配流ではなく、あくまで幕府の追及を逃れるため、死んだことにして奄美に潜伏させるためでした。その証拠に奄美にいる西郷には年に数十石の扶持が与えられています。罪人ならそんなことはないでしょう。
この点が誤解されているので、念のため、強調しておきます。
現・藩当局も前藩主斉彬の股肱だった西郷を処罰したわけではなかったのです。むしろ、できる範囲で庇ったともいえます。それは斉彬への一定の敬意の表れだったといえましょう。

今回も少し関連写真を載せておきます。主に月照関連です。

月照・信海
清水寺成就院にある月照・弟信海・西郷の顕彰碑

忠僕
月照の従僕重助にちなむ忠僕茶屋(清水寺境内)

月照墓
月照の墓(鹿児島・南林寺由緒墓地)

月照像
月照像(同上)

西郷蘇生
西郷蘇生の地(鹿児島市花倉)




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【2008/07/27 23:22】 | 篤姫
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忠僕茶屋
ばんない
先日は酷暑の京都でお疲れさまでした。

確か近藤正臣氏のご実家も清水寺境内で茶屋やってられましたね。やはり西郷・月照に関係のある人物がご先祖みたいですが。
しかし、近藤正臣氏は幕末大河にはご縁がないようで(苦笑)、20年前に他局(日本テレビ系)の『田原坂』で大久保利通をされたのが数少ない幕末薩摩関連配役みたいですね。

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近藤正臣
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

近藤正臣氏が茶屋の息子だとは聞いていましたが、てっきり祇園とかの茶屋のほうだとばかり思っていました。
清水寺の茶屋だったのですか!
参道にあるお店ではなくて、境内にあるんですね。

近藤正臣の大河出演といえば、何といっても「国盗り物語」の明智光秀役ですが、ほかにも、「黄金の日日」「徳川家康」「太平記」「武藏」「功名が辻」などに出演しているようですが、たしかに幕末ものには出ていないみたいですね。

彼も御年66歳なんですね(驚)。
「柔道一直線」で、足でピアノを弾いたのをリアルタイムで見たのは忘れられません(笑)。



舌切茶屋
ばんない
こんばんは。

近藤正臣氏の実家の茶屋は、かなり有名ですがタイトルのお店です。
名前がすごいのですが、これは近藤氏のご先祖が西郷・月照の逃亡先を幕府側の拷問にも関わらず明かさずに舌を噛みきって自害したところからきた屋号だそうです。忠僕茶屋も舌切茶屋も月照関連で境内での茶屋経営の特権を得たようですね。

足でピアノを弾くシーンはテレビドラマ屈指の迷シーンの一つでしょうね(苦笑)。また、CMですが、キ○チョーリキッドで河童の着ぐるみを着て川に流されるシーンというのも忘れられません(爆)

こんな役もやってました
正之進
はじめまして。南日本新聞のさつま人国誌とともに拝見させていただいております。(実家に帰省した際は、新聞の切り抜きもまとめてしてます。)
近藤正臣氏がそういうつながりのある方だと初めて知りました。幕末ものではありませんが、山田風太郎原作のドラマで川路大警視の役をされていたことがあります。ヒゲの感じとか少し童顔な所は川路利良の写真に似た印象を受けました。

先日、帰省した時は花倉の蘇生の家のあたりは夏草が背の丈ほど茂っていました。車内から見ただけでしたが、ちょっと近寄りがたかったです…。


警視庁草紙?
桐野作人
正之進さん、こんにちは。

川路利良の通称を使っておられるのは、川路のファンか縁者でいらっしゃるのでしょうか。

山田風太郎の原作って「警視庁草紙」じゃなかったでしたっけ? 私もドラマは1,2度観たような記憶があります。たしか、近藤正臣演じる川路は仇役ではなかったですか。

連載の拙稿も読んでいただき、有難うございます。
このコラムは年内に本になる予定です。
そちらもよろしくお願いします。

田安家後見職就任について
アリア・ヴァレリ
田安家を選んだ理由は消去法ということもありますが、他の家が水戸家出身者だったからではないのでしょうか?。正直、この頃、徳川吉宗の直系で徳川家(松平家は含まない)に残存したのは田安家だけだったはずです。基本的に幕府では吉宗直系の、出きれば家斉直系にこだわっていたふしがあります。家茂の将軍就任はそのさいたるものであり、紀州家からの将軍就任自体が御三卿の存在理由を無視したものでした(それ自体に触れた話がないのですが)。
もっとも家斉の子蜂須賀斉ひろや松平斉民が正存していましたが、徳川将軍家に直接松平家が入ることはありえませんし、他氏は問題外でした。加えて大奥では斉明が水戸家に輿入れした峯姫(実は家茂の実父同姉妹)の女中をレイプして子供を生ませたことなどもあって徳川斉明アレルギーがありましたから田安家の後見役就任は完全な水戸家出身者外しの結果だと思いますが。

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栄中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」第4回

7月24日(木)、昼前、京都から名古屋へ向かう。
講座も早、4回目。
今回のタイトルは表題どおり。

冒頭に、「出頭人」としての、石田三成と本多正純の類似性、共通性を話した。
出頭人」については、高木昭作氏の論考がある(『日本近世国家史の研究』、岩波書店)。
ふつう、「出頭人」といえば、主君の信任厚い側近、重臣で、主君に変わって権勢を振るう人物という意味でとらえられるのが一般的だった。
しかし、高木氏はそのような一般的な意味だけでなく、のち徳川秀忠の出頭人となった土井利勝の事例から、「出頭人」とは主君の「口真似」をする存在として描かれていたことが印象に残っている。つまり、「出頭人」の口から発せられる言葉はそのまま主君の言葉に等しいことになるわけで、「出頭人」たる所以はそこにあったのである。
もっとも、高木氏は「出頭人」は自ら光を発せず、主人の光を受けて輝く存在とも述べており、出頭人の権勢は主人一代限りでしかないことを喝破している。

まさに三成も太閤秀吉の「出頭人」だったといえる。その点では、徳川家康の「出頭人」だった本多正信・正純父子、とくに正純とよく似ていると思う。
正信は家康と相前後して他界したが、正純は若かったので余命が長かった。
三成と正純は秀吉・家康の存命中、権勢を振るった点が共通しているだけでなく、主人の死後、「出頭人」として没落を宿命づけられているのにもかかわらず、その宿命に抗した点も共通し、結局、宿命に抗えずに没落していった点も共通している。

そして、2人が宿命に抗って権勢を回復するために勢力基盤にしようとしたのが、当該政権の譜代衆(豊家恩顧や徳川譜代)ではなく、外様衆だったことも共通している。
三成は、毛利・上杉・島津などを。
正純は、福島正則を中心とする西国の外様大名を。

そのような意味で、関ヶ原合戦の仕掛け人は三成にほかならないという前提をひとくさり話した。

ここまでで、30分近くかかってしまったのが、三成ならぬ私の誤算だった。ほんの5分くらいのつもりだったのに……。
おかげで、本論部分に大きなしわ寄せが。
とくに、三成が決戦3日前に増田長盛に宛てた書状を詳しく検討する時間がなくなってしまった。

もうひとつのポイントは、三成と上杉景勝・直江兼続の間での共同謀議の有無の検討だった。
このなかで、両者の間の往復書簡のやりとりが、最低でも9回あることを確認した。もっとも、そのなかには偽文書ではないかとされるものも含まれている。
兼続宛て三成書状の2点がそうだが、真正の文書だとしてもおかしくないのではという話をした。
とくに書状中の用語について、先行研究が偽文書の根拠としているが、ほとんどが感覚的な批判にすぎず、三成の他の文書にも同じ言葉、あるいは似た言葉があることから、三成がよく使う言葉だったのではないかと指摘した。

結局、予定を20分以上オーバーし、さらにたくさんの質問があった。
とくに「なぜ偽文書を作る必要があるのか」という質問には、一瞬、どう答えたらよいものやら、言葉に詰まった。
考えてみれば、そうだよね。誰しも疑問に思うことだ。
個人的な考えとして、ある事柄の真相を追究するとき、たとえば、歴史家と小説家では史実のありように対する態度が異なるのと似ているのではないかという趣旨を答えた。
歴史家は真相がわからなければ、わからないとして結論を留保するが、小説家はそれに飽き足らず想像力の翼を拡げて、あえて結論を求めようとする。それは自分が満足できる結論だったり、多くの受け手が望む結論だったりする。偽文書はそのような史実の空白を埋めるために、小説家のような考え方をする者の人為的営為として、どこからともなく登場するのでは、とわかったような、わからないような回答をしたが、満足してもらえたかどうか。

次回は、徳川秀忠軍の動向についてやります。とくに本戦に間に合わなかったとされる「遅参」理由について。

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【2008/07/27 17:43】 | 中日文化センター
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びわこ
桐野さん、こんにちは。

「出頭人」のこと、先日、木之本で開かれた「石田三成と関ヶ原合戦」という講演で、講師の伊藤真昭氏も同じようなことを話されていました。

桐野さんのお話は、明智光秀と本能寺しか聞いていませんので、がっつりと関ヶ原の話を聞きたいものです。
あぁ、この講座、受講できなかったことが、かえすがえすも悔やまれます・・・

さて、
>史実の空白を埋める

なんか、妙に納得しました。
でも、こういうのが、何年も経つうちに定説になってしまうところがこわいかも。。。


出頭人
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

伊藤真昭氏の講演を拝聴されたんですね。
彼も三成の佐和山領有時期など、いろいろな論考を発表していますね。

「出頭人」という用語は、三成を考えるうえで、重要なキーワードであろうと思います。
たとえば、いわゆる武断派七将による三成襲撃も、秀吉の死によって三成が「出頭人」としての地位をすべり落ちたからこそ実行されたわけで、秀吉健在なら起こりっこありませんね。

三成もまた元「出頭人」としてわずかに残る権勢の余韻を総動員して、西軍の組織化を図ったと思われます。その地位の低下からすれば、予想以上の仕事だったと思います。その点は家康をさぞや驚かしたことと思います。
問題は、三成が西軍の主導権を確立できなかったことですね。「出頭人」としても、もととも無理筋ですし、すでに没落が始まっていますから、なおさら難しく、輝元と秀家に頼るしかなかったのでしょう。
関ヶ原合戦の仕掛け人でありながら、最後まで自分のいくさができなかったことはさぞや無念だったと思います。

第4回の講座につきまして
木暮兼人
出頭人のお話。私は、大変興味深く拝聴いたしました。
そのような見方があったのか、と目からウロコが落ちたような感想を抱きましたが・・・。数分であの話題が終了していても、もったいなかった気がいたします。
講座のお時間がもう少しあれば、と思いました。

石田三成から増田長盛への手紙の件については
自分でもなんとか読んでみたのですが、克明に石田三成の心情が書かれすぎていて、三成の誤算がほとんどすべて読み取れてしまいます。
自分の悩みを書状という形にしてしまったのも、まずかったのではないかと思いますが。こうしたことはこの当時は普通に行われていたのでしょうか?

話は変わりますが「慶長の危機」を証明する一次史料となる書状がみつかった、と今朝の中日新聞に掲載されていました。
古文書や史料の世界というのは、実際に触れてみると、大変興味深いです。

三成書簡
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

出頭人という視点から三成をみれば、その権勢の秘密も、秀吉死後の地位の低下も理解できますね。

増田長盛宛て三成書簡は私信ということもあり、かなり生々しいです。この時代、こういう書簡は珍しいかもしれません。まあ、親子関係かそれに近い関係ならあるでしょうが。

三成はよほど長盛を気が許せる親友だと思っていたんでしょうね。その長盛は家康にも内通するなど、二股膏薬なのに。
そんな人物を信用していた三成も哀れですし、逆に言えば、人物の鑑定には暗かったというか、人間心理がよくわからない人だったのでしょうか。

「慶長の危機」というのも興味深そうですね。
一度拝読したいものです。

<特別展>戦国から江戸を駆け抜けた親子 本多正信・正純・政重
市野澤
こんにちわ。

財団法人 藩老本多蔵品館にて、
平成22年4月23日(金)~7月25日(日) 
徳川家康の重臣として高名な本多正信・正純。
彼らを父兄とする本多政重は加賀藩で五万石の筆頭家老となる。
「加賀八家」本多家のルーツについて。
初公開の史料を含め紹介・展示。

会期中の平成22年5月30日(日)
10:00~12:00
※電話・FAXにて受付中
演題 「藩政初期の本多家」
講師 長谷川孝徳氏(北陸大学教授)
会場 石川県立図書館2階県民交流室
定員 70名
参加費 500円(入館料込み)

だそうです。
去年に開催されていたら、
大河ドラマの相乗効果もあったかと思われますが、
興味深い特別展と推察します。

それでは失礼します。





本多政重
桐野
市野澤さん、こんにちは。

イベント情報、有難うございます。
本多政重なら、たしかに昨年開催したほうがよかったですね(笑)。
いずれにしろ、興味深い人物ですし、あと、なぜあのように遍歴したのか、謎でもあります。
少しはそのあたりの真相がわかるのでしょうか。
もっとも、遠すぎてとても行けそうもありません。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第68回
―騎手で出走、優勝さらう―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、「小西郷」こと、西郷従道の面白いエピソードです。
横浜の根岸競馬場で、従道が「ミカン号」という愛馬にまたがり、外国人騎手と競走します。
そして、日本人騎手として、初めて優勝します。
ときに、明治8年(1875)秋のこと。
それにしても、愛馬のひとつに「ミカン号」と名づけるとは、従道も面白い人ですね。

これが当時の諷刺漫画誌「ジャパン・パンチ」にかかれば、こんな風に描かれるわけです。
説明抜きで、絵をご覧下さい。

この絵は、根岸にある(財)馬の博物館より提供していただきました。
この場を借りて御礼申し上げます。

次回は従道の兄、「大西郷」の外交センスについて書いてみたいと思います。

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【2008/07/26 15:30】 | さつま人国誌
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松裕堂
風刺画をみて、思わず「みかん星人アワー」を思い出しました(笑)。

んであと馬名ですが、JRAの年度代表場なんかをみていると、昭和四十年代あたりから目に見えて馬名の雰囲気も変わってきているような気がしますね。それ以前は相撲の四股名に近い語感の名前がおおいかも。
(もっとも、軍記物語などを例をみるかぎり、相撲の四股名よりむしろ"ああいう名前"の伝統なら馬の方が古いのか)

四股名
桐野作人
松裕堂さん、お久しぶりです。

私もあまり根拠はなかったのですが、馬名と四股名は似ているんじゃないのかと漠然と思っていました。
ただ、馬にはまったく門外漢なもので、確かめる術もなかったのですが。

やはり、競馬馬も昔は四股名風の名前が多かったのですね。
最近は片仮名ばかりですが、四股名も外国風のものが増えました(笑)。

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歴史読本の最新号の掲載誌が届いた。

版元のサイトはまだ更新されていませんが、ここです。

私の連載も9回目になりました。
今回のタイトルは「美濃攻め始まる」。
前回の桶狭間合戦で摘み残した部分も少し追加してます。

尾張(ほぼ)統一、桶狭間合戦の勝利、斎藤義龍の死など、信長に有利な条件がそろっても、美濃一国の平定は困難で、まだ7年もかかります。

今回のポイントは、信長の松平元康と浅井長政との同盟が美濃平定の重要な前提だったことを強調したつもりです。さらに上杉謙信や将軍義輝も巻き込んだ外交戦としても展開されていたという背景事情も加味したつもりです。

とくに浅井長政との同盟は通説よりももっと早かったのではないかと思っております。
それは長政の賢政からの改名と、お市の方との縁組と関わってきます。
近年、宮島敬一氏は『浅井氏三代』(人物叢書)において、お市の方との縁組の年次をかなり遡らせています。なかなか説得力があります。

私もそれに従いながら、浅井氏との同盟が美濃攻めの展開と密接に関連しているという視点で書きました。

次回で、何とか美濃平定まで漕ぎ着けたいと思っています。
そろそろ上洛戦以降に入らないと、今後かなり窮屈になる気がしております。
ともあれ、よかったら読んで下さい。

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【2008/07/25 22:40】 | 新刊
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咋7月23日、京都市上京区堀川通一条東入ルの一角で、表題の建碑の除幕式がありました。

メディアにもいくつか取り上げられました。
京都新聞の記事はここです。
読売新聞関西版はここです。
京都新聞の記事は写真付きで、不肖小生も写っております。

石碑の場所はどこなのか、わかりやすくいえば、堀川通りにある有名な一条戻り橋を東に渡ってすぐの右手(南側)です。
京都にお住まいの方、あるいは京都に行かれる方で、関心のある方はお尋ねになってみて下さい。

この間、小松帯刀を調べていた私ですが、その京都屋敷がどこにあったのかには重要な関心を払ってきました。そしてその成果を公表したこともあります。ここです。

今回の建碑が成ったのは、京都で活躍する歴史地理の研究者で、史蹟論を専門のひとつとする中村武生氏を中心とした京都歴史地理同考会のみなさんの努力と奔走、そして土地を提供していただいた宮本さんのご協力のたまものです。
その経緯については、中村氏のブログをご参照下さい。左のリンク欄「歴史と地理な日々(新版)」をクリックすればご覧になれます。ここです。

私は島津家や大久保利通関係の史料から、小松邸の場所がここだった可能性が高いのではないかと推定したにすぎませんが、中村氏は幕末期の古地図から、当該の近衛家別邸(近衛基煕旧邸)の変遷を確認するなど、その該博な専門知識によって傍証を積み重ねました。

また、当該地は小松邸跡参考地であるだけでなく、『蜻蛉日記』の著者藤原道綱の母の寓居跡であったり、応仁の乱の最初の合戦地でもあったことも、中村氏は調べ上げています。石碑にはそのこともちゃんと刻まれています。

なお、今回、「参考地」という形で断定を避けました。
それでも、いったん石碑が建ったら、建碑者の意図を離れて、既成事実がひとり歩きします。
「参考地」が「特定地」と認識される可能性もあります。
石碑のもつ、そのような「功罪」の責任の一端も引き受けなければならないと覚悟しているところです。

除幕式には、炎暑のなか、70名もの多数の方が駆けつけていただきました。
私は主催者ではありませんが、とてもうれしく、感謝しております。

当ブログで事前に告知しようかとも思っていたのですが、中村氏から私有地と公道のスペースを考えると、多数列席していただくだけの余裕がないとのことで、告知致しませんでした。
もし、事前に知っていたら、駆けつけたのにという方々がおいででしたら、お詫び申し上げるとともに、そのような事情があったことをお汲み取りいただきたく。

当日の除幕式の様子を写真でご紹介しておきます。
建碑1
除幕を待つ石碑

建碑2
除幕式に駆けつけた方々

建碑3
これが石碑です

建碑4
石碑の説明版。総ルビです



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【2008/07/24 22:37】 | イベント
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本日23日早朝から上洛します。
前回お伝えしたイベント出席と、取材・調査のためです。
そのひとつとして、京都御所を回りますが、有栖川宮邸が幕末とそれ以前とでは場所が異なるのではないかと思っております。その辺の確認も兼ねて。
同日は京都泊です。

翌24日は京都から名古屋に向かい、栄中日文化センターで、講座「関ヶ原合戦を読み解く」に出講です。

お会いする関係者のみなさん、よろしくお願いします。

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【2008/07/23 00:20】 | 雑記
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日次記です。

7月20日(日)辛酉、天晴
新暦と旧暦の違いはあれど、小松帯刀の祥月命日でした。
亡くなったのは明治3年(1870)のこの日。
場所は大坂の寓居です。
138年忌ということになります。

享年36。若いですねえ。
もともと病弱で、病気との闘いという生涯でもありましたが、最後はおそらく肺結核で亡くなったと思われます。

小松は最初、大坂の夕陽ヶ丘墓地に葬られました。
この墓は6年後に鹿児島に改葬されたため、もう残っていませんが、現在、もと陸奥宗光の墓があったところが小松の墓の近くだったといわれています(陸奥の墓はのち鎌倉に移転)。
陸奥宗光は海援隊時代、長崎で小松の世話になっています。
そんな縁が何か関係あるのでしょうか。
かつて陸奥の墓のあたりの写真を載せておきます。

夕陽ヶ丘




21日(月)壬戌、天晴
午後から法事。
関東圏に住む伯父が亡くなり、その告別式に出席。
伯父ともしばらく会っていなかった。
平均寿命を越していたとはいえ、哀しいものである。合掌。

久しぶりに多くの親族と会う。
「おじさんが引き合わせてくれた」とか「不幸でもないと会わないね」という感慨の声。
いとこたちはほぼ同世代が多い。
共通の話題が多くて、話が弾んだ。

帰宅後、何とか原稿1本仕上げる。ふうっ。

ある共著本のゲラが送られてきた。
もう半年以上前に書いただけに、修正したい所多数あり。
校正に手間取りそうな予感。

明後日から一泊二日で京都・名古屋出張。
チケット手配や資料準備に追われる。
京都では小松帯刀に関するあるイベントに出席予定。

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【2008/07/21 23:33】 | 日次記
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御上洛
武藤 臼
今週御上洛とのこと、是非迎撃と言いたい所ですが、残念ながら今週は夜の時間が読めません。

目下京都は日々猛暑が続いてます。
お気をつけてお越し下さい。

そのうちまた
桐野作人
武藤 臼さん、こんにちは。

今回の上洛は取材・調査・打ち合わせなどが多いので、私も時間が取れそうもありません。ほかにも不義理しているのですが。
次の機会にまた。

本文訂正
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

不正確な記述だったようですね。
本文を訂正しておきます。
ご指摘有難うございました。

小松の埋葬地
yuki-uta
 おお、そうなんですか、帯刀さんは夕陽丘に葬られたのですか。稱念寺ですね。現在、陸奥宗光についての記述はありますが、小松帯刀に関しては何も無くて。
 地元では、この地に当初、陸奥が葬られたのは、ここに陸奥の父親の墓があったからだと伝えられています。何でもお父さんは「夕陽丘」の命名者・・藤原家隆(歌人です。)の大ファンで、その家隆の墓がここにあるので、この地に葬られるのを望んだとか。で、父親想いの宗光さんも、一緒にとなったそうです。その逸話だけでも驚くのに、小松もですか!すごいじゃないですか、夕陽丘!!
 陸奥が小松との関わりを知っていたどうか・・?むしろ、何ゆえここに小松が葬られたのかが気になります。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第29回「天璋院篤姫」

ドラマ進行時点は安政5年(1858)8月頃

将軍家定の葬儀が終わったあと、8月29日、篤姫は落飾し、「天璋院」の院号を名乗ることになりました。
今回のタイトルはそれにちなんでいます。

院号ははじめ、天皇の追号、太上天皇(上皇)や女院の称号でしたが、のちに社会全体に広まり、将軍や大名はむろん、一般にまで広がりました。

ちなみに、将軍家定の院号はドラマにもあったように、「温恭院」です。

なお、鶴田真由演じる側室のお志賀の方ですが、ドラマのように将軍家定がなくなったのを理由に大奥を去ったわけではないようです。三田村鳶魚『御殿女中』に次のように書かれています。

「家定将軍の御中臈志賀が瓦壊後に、この上は主取りもしない、縁付きもしない、托鉢して暮すと言った」

これを見るかぎり、お志賀の方は江戸開城まで大奥にいたことがうかがえます。
将軍家定が他界した以上、もう出番もありませんから、女優鶴田真由を拘束できないので、お別れの挨拶になったのでしょう(笑)。

なお、お志賀の方の院号は「豊倹院」で、お墓は谷中天王院にあるそうですが、三田村鳶魚は探せなかったそうです。
天王院はいまも、谷中墓地の一角にありますね。もし興味のある方がおいでなら、「豊倹院」の院号を頼りに探されてはいかがでしょうか。もっとも、戒名は違うかも知れませんが。

さて、今回のお題は、本寿院が口走った将軍家定毒殺説の真偽についてです。

その前に気になったのは、本寿院の逆上ぶりです。
いくら実の子がなくなったとはいえ、御台所を折檻するなんてできるはずがありません。御台所は大奥の主人ですから。また逆上する理由が「毒殺」云々というのもかなり飛躍がありますね。
将軍生母とはいい条、身分はせいぜい大奥の年寄格ですから、御台所の家来にすぎません。
ドラマの本寿院のキャラが定まっているだけに、ああいう形になったのでしょうが、大奥の身分秩序からはありえないだろうと思います。

もうひとつ、その前に将軍家定が亡くなった状況を検討しておきたいと思います。
家定が他界したのは、当年7月6日ですが、『旧事諮問録』(岩波文庫)で、もと大奥女中の箕浦はな子と佐々鎮子が将軍不例について、次のように語っています。

「温恭院様(家定)はちょうど宰相様(慶福・家茂)の御広めの時に、御広めが済んで松の御廊下からつかまって御出になる位で、御小座敷で御仆れになったのでございます」

紀州慶福が将軍継嗣と決まったお披露目があったのは6月25日です。このお披露目は御三家・御三卿はじめ、譜代大名や布衣以上の旗本まで対象になっています。

「温恭院御実紀」(続徳川実紀三)によれば、家定は「御座間」で慶福と対面しています。「御座間」は将軍執務室のある中奥にある「御座之間」で、通常の将軍の居室です。その後、表向(政庁空間)に出て、慶福を伴い、大名・旗本のそれぞれの詰の間(殿席)を回ったのでしょうか。あるいは、大広間が接見の間に使われることもあるようですので、そこに行くのに松の廊下を通ったということでしょうか。

そうでなければ、松の廊下あたりで、「(近習に)つかまって御出」にはならないでしょう。松の廊下の近くには大廊下という御三家の詰の間もあります。そのあたりですでに家定は一人で歩行できないくらい弱っていたのですね。

そして、とうとう「御小座敷」で倒れたわけですが、ここは中奥にある将軍の寝所(御小座敷)なのか、それとも大奥の寝室である御小座敷のどちらでしょうか。
名称はどちらも同じですから、ややこしいです。そして10日ほどたってから他界したことになります。

一方、畑尚子『幕末の大奥』(岩波新書)では、家定が大奥で亡くなったとしています。
彦根藩公用方秘録」によれば、脚気衝心の症状が出た家定は「大奥御寝所」で病床にあったため、井伊直弼や老中は大奥に召されたとあります。
大奥御寝所」とは御鈴廊下近くの将軍奧泊まりの寝室である「御小座敷」のことでしょう。
家定が亡くなる2日前の7月4日も井伊は大奥に行き、家定のもとを訪れ政務の話をしたとあります。その時点では症状は安定していたけれど、2日後に急死することになります。

畑氏は「家定は大奥で死去したと考えられる。よって敬子(篤姫のこと)はその病床を見舞い、家定の手を握りしめることもできたのではないだろうか」と書いています。

家定が大奥で亡くなったのなら、篤姫が看病したり、臨終に立ち会い、死を看取ることもできた可能性が高いですね。

『旧事諮問録』のもと大奥女中たちの証言にある「御小座敷」が中奥御小座敷なのか、それとも大奥の御小座敷なのでしょうか?
後者なら、畑説と一致することになり、篤姫が夫を看取れる可能性は高いですね。前者なら、看取れないことになります。
ドラマは前者を採用したということになるのでしょうか。

さて、本寿院が口走った家定暗殺説ですが、これについては、私が知るかぎり、風聞という形で2つの史料があります。

①「野口家文書」
これは畑尚子氏の上記著書に紹介されています。大奥で家定付きの使番女中だった藤波が弟の郁三郎に宛てた書簡で、次のように書かれています。

「御手前さまゆへ極々内々ながら御毒薬にて御わるく成らせられ候、御医師も当番つき居り候、水戸・尾張・一ツ橋・越前、まづケ様なる所皆くみして居り候、外にもこの間しくじり候御老中二人の外にも色々の人御座候」

弟だから内密に話すけれども、家定は「御毒薬」で悪くなったと書いています。
そして毒を盛ったのは、いわゆる一橋派の面々、それに最近失脚した老中2人も加わっていると書かれています。この2人は井伊によって失脚した堀田正睦と松平忠固のことでしょうね。
しかし、これら最低でも6人の諸侯が共謀して毒殺したとは考えられませんね。しかも、将軍継嗣問題は決着してしまったわけで、いまさら家定を暗殺したとしても、大勢が覆るわけではありません。

②『井伊家史料 幕末風雲探索書』上
これは井伊家の密偵の活動をまとめた報告書です。井伊直弼の命で集められた情報ということになります。そのなかに、安政5年7月、彦根藩江戸内目付日下部弥右衛門の探索書「治乱密書」の一節に次のように書かれています。

「人気不穏の処、兼て水戸前中納言殿御計りにて、奥医師岡櫟仙院奧女中一味の者共毒薬を用い、指し上げられ候処、大君様少しも御存知これなく、その薬御上り遊ばされ候処、それを以て御様子一通りならざるゆえ、当時名高き医師の内、町宅致し居り候芸州侯抱え戸塚静海・津山侯抱え遠田長庵・紀州侯抱え伊東玄朴・松平駿河守抱え青山春岱、いずれも早駕にて登城、取り仕切り、御薬指し上げられ候処、御毒を吐き出させられ、少々御快く相見え候。然る処、奧女中一味の四人御全快に相成り候てはとても相叶わずと心得、さっそく自害致し候に付き、すぐさま療治仰せ付けられ候えども、終に事切れに相成り申し候由、右の始終も水府前黄門殿の御計りに相違これなきに付き」

これによれば、水戸斉昭の密命を受けた奥医師岡櫟仙院と奥女中4人がひそかに家定に毒を盛ったけれど、町医者の戸塚静海・伊東玄朴などの手当てによって毒を吐き出したので、事なきを得た。奧女中4人は事が露見したので、自害した。すぐ手当てしてみたが、助からなかったということのようです。
引用のあとに、この一件があったので、尾張殿・水戸殿・越前殿が処罰されたとありますが、彼らが処罰されたのは、不時登城をしたからであり、毒殺の嫌疑ではありません。

どうも一橋派の政敵である井伊家の史料だけに、バイアスがかかっているように読めてしまうのですが。また①も水戸嫌いの大奥女中の手紙だけにどこまで信用できるのかどうか、わかりませんね。

ともあれ、家定毒殺説が風聞とはいえ、根強かった証拠ではあると思いましたので、紹介してみました。

最後に、ドラマで面白かったのは、篤姫付きの中臈が家定が亡くなって、篤姫が未亡人になってしまったことを、「まだ23とお若いのに」と嘆いていました。

篤姫は天保6年(1835)12月19日生まれということですから、この時点で、本来は24歳(数え)になります。
最初、満年齢と数え年を混同したのかと思いましたが、そうではないと気づきました。
島津斉彬が篤姫を実子として幕府に届け出をしたとき、鹿児島滞在中に儲けた子どもだということで辻褄を合わせるために、篤姫の生年月日を少し遅らせて、翌7年2月19日にして届け出たのです。年齢詐称ですね(笑)。

したがって、篤姫は公称で23歳(数え)になるのです。例の中臈はその公称を信じているということになりますね。何げないセリフでしたが、史実を踏まえた細かい芸で、少し感心しました。

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【2008/07/20 23:36】 | 篤姫
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BS11というBS放送「歴史のもしも」という番組。

タイトル通りの番組で、歴史のIFを学術的に、あるいは情熱的に追究しようといういうもの。

出演依頼があったので、本日、午後からそのスタジオ収録に行きました。
番組の詳細は、ここにあります。

司会は麻木久仁子さんと安田清人さん。
安田さんは知り合いの出版ディレクターである。

対論相手は、落合弘樹氏(明治大学教授)だった。
落合氏は『明治国家と士族』『西郷隆盛と士族』(ともに吉川弘文館)などの著書があり、士族問題や秩禄処分を専門にされている。幕末維新史では有力な研究者の一人。
氏とは3年ほど前だったか、鹿児島でご一緒し、焼酎を酌み交わした仲でもあったので、そんなに緊張せずに臨むことができた。

番組内容は、タイトル通り、西郷軍が本州に上陸できたら、どんなことが起こったかということを推理していこうというもの。落合氏の胸を借りてみたものの、氏の簡潔なまとめ方にはとてもかなわない。勉強させてもらいました。
もしこの番組をご覧になれる環境の方は、次のスケジュールで放映されますので、よかったら、ご覧下さい。

■8月31日(日)
 9月3日(水) 再放送

 「もしも西郷軍が本州に上陸していたら」

      ゲスト 桐野作人(作家)
           落合弘樹(明治大学文学部教授)


司会の一人、安田氏も雑誌編集者とは違った面を見せていて、その活躍ぶりが頼もしい。
解説用のパネルやフリップも彼が作成したのだろうが、じつに要領よくまとまっていた。

メイン司会の麻木久仁子さんはいろんなTV番組でおなじみ。
仕切りぶりはお見事の一言。
歴史の蘊蓄がすごい。そして勘のよさと、物事の本質をつかむ能力はただものではないと思った。
あちこちの番組から引っぱりだこになっている理由もわかった。

収録終了後の記念写真。
落合氏からいただく。感謝。
bs11

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【2008/07/19 19:51】 | 幕末維新
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調所
こんばんは。落合先生は私の弟の高校時代の先輩で生徒会で一緒だったそうです。一昨年三人で一杯やりました。来月あたり四人で暑気払いといきましょう!

落合さん
桐野作人
調所さん、こんにちは。
そういえば、弟さんと落合さんは知り合いでしたね。昨日の収録のあと、お互いすぐに帰らなければならなかったので、そんなに話もできませんでした。今度集まれたらいいですね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第67回
―息子たちに真情を吐露―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回予告を変更して、大久保利通の遺書について書きました。
この遺書は『大久保利通文書』にも収録されていますが、これまで「遺書」だという認識はあまりなかったようで、それほど注目されていませんでした。
それを「遺書」だと呼んだのは、佐々木克氏だったでしょうか。

書かれた時期は明治6年(1873)10月頃。
明治6年政変、いわゆる征韓論で西郷隆盛との対決に臨む直前に、米国留学中の2人の息子に宛てて書かれたものです。

2人の息子に宛てたものだけに、決して他人には見せない大久保の真意が書かれているように思います。
とくに大久保が死を覚悟していたことは驚きで、それだけに、遠く離れた米国にいる息子たちには何としても、親としての決意と気持ちを書き残しておこうと思ったのでしょう。
岩倉具視にも木戸孝允にも明かさなかった真意。大久保もまた人の親だったと思います。

この「遺書」は大久保邸が罹災したときに、辛うじて持ち出されたもので、まわりが焼け焦げています。書類が束になっていたせいで、まわりだけ焼けて、全部燃えなかったのが不幸中の幸いでした。

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【2008/07/19 09:54】 | さつま人国誌
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古文書塾「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩3」

15日(火)から講座が新しく始まった。新しいといっても、前シリーズからの継続である。

今回は禁門の変後、幕府を中心にいわゆる「長州征伐」が遂行されようとしている時期を取り上げた。
小松帯刀や大島吉之助(西郷)も、長州に対しては強硬論者であったことを確認する。とくに、小松については、長州処分の意見具申書を読む。それによれば、「暴論輩の厳重の所置」と「七卿早々差し出し」を条件に、それへの回答がなければ、すぐさま出兵すべきことを進言していた。

しかし、途中で風向きが少し変わってくる。
それは、幕臣勝安房守安芳と、小松や西郷、吉井幸輔が対面したことによる。
西郷がこの会見で、「共和政治」をやるべきだと勧められて感嘆し、佐久間象山以上の人物だと「ひどくほれ申し候」と、勝を絶讃していることは有名である。

その大久保一蔵宛て書簡を読みながら、小松もまた勝と会っていることを、『海舟日記』から確認する。『海舟日記』によれば、おそらく小松からの書簡だと思われるが、8月5日に勝がそれを読んでおり、小松が「海軍之義は必らず誓て興起せむ、君もまた幕府邦家の為捨つること勿あれ」と伝えていることを見る。
小松が薩摩海軍の「興起」を誓っていることがわかり、実際、小松はそのための手を打っていく。

中浜万次郎(ジョン万)の招聘や坂本龍馬など土州浪人の庇護もその一環だったことを小松書簡から確認した。

元治元年秋段階で、薩摩藩の要路である小松や西郷がどのような政権構想をもっていたかについて、少し語ったが、意外と漠然としたもので、確たるビジョンが定まっていなかったのではないか。
小松の腹案としては、閣老の差し換えか、一橋慶喜を中心に「天下之大政」を転換することくらいだったようだ。幕府有力者を「因循」か否かで分けて、「因循」ではないほうを支持するという程度だったと思われる。とくに慶喜への期待の大きさがまだ感じられる。

次回は、薩長同盟の準備段階あたりになるだろうと思う。

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【2008/07/18 12:33】 | てらこや
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昨夜の古文書講座から自覚していたが、どうも体調が悪い。
今日は偏頭痛がしてつらかった。暑さのせいだろうか。

さて、本日、谷口克広氏より表題の本を恵贈された。
有難うございます。
アマゾンにも一応載っていますが、表紙写真が未載です。ここです。

谷口氏がこの本を執筆中なのはご本人からうかがっていた。
とくに、尾張時代というか、信長以前の織田一族について苦労しているというお話だった。
あとがきにも、そのように書いてある。

信長の美濃稲葉山計略時期や信長の子弟たちについて、とくに読むのを楽しみにしている。

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【2008/07/16 20:24】 | 新刊
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宮崎あおいちゃんの鹿児島再訪はすごいことになっているらしい。
応募者殺到だそうだ。ここ

しかも、堺雅人の来鹿も決定とか。ここです。

明治天皇の鹿児島行幸はあったけど、公方様の薩摩御成なんて前代未聞である(笑)。

また夫婦一緒になれてよかったですな。

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【2008/07/15 23:31】 | 篤姫
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小学館古文書塾「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」3

本日から始まります。隔週開催、全5回。
前シリーズが禁門の変で終わったというか、終わらせたので、今回はそれ以後になります。

今日のテーマは「第1次幕長戦争と小松帯刀」です。

吉井幸輔、勝海舟、坂本龍馬なども登場予定。

昨日、神保町に出かけたついでに立ち寄ったところ、受講生が多いとうかがう。
常連さんのほか、新人の方もおいでとか。
会場はほぼ満杯になりそうである。
暑いなか、受講生のみなさんには少し窮屈かも。冷房を効かしてもらいましょう。

じつは、いまレジュメを作っていて、ほぼ完成したので、これを書いています。
講座の中味はまたあとでご報告します。

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【2008/07/15 16:12】 | てらこや
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NHK大河ドラマ「篤姫」第28回「ふたつの遺言」

ドラマ進行時点は、安政5年7月から8月頃。

今回は何といっても、タイトル通り、篤姫にとってもっとも大事な2人が相次いで亡くなったことです。
考えてみれば、篤姫も劇的で波瀾万丈の生涯を送っていますね。困難はさらにつづくのですから。

将軍家定が脚気衝心で他界したのは7月6日。享年35。
幕府の公式の発表では8月8日ですが、実際は1カ月ほど前に亡くなっています。
ドラマでも「薨御」という言葉を使っていましたが、適切ですね。家定の伝記「温恭院殿御実紀」も「薨御」と記されています。

一方、島津斉彬が鹿児島天保山の演習ののち寝込み、亡くなったのが7月16日早暁。享年50。
将軍家定の死とわずか10日しか離れていません。


まず、家定の亡くなった7月6日は幕府内の抗争が急転回する微妙な時機でした。
というのは、前日の5日に、不時登城(決められた日以外の登城)を理由に、水戸斉昭はじめ一橋派が隠居や謹慎を命じられております。これで一橋派は一掃されてしまいました。

それに先立つ6月25日には、紀州慶福が「御養君」つまり将軍継嗣として、江戸城で正式にお披露目がありました。
ドラマでもそのシーンがありましたが、気になったのが老中の脇坂安宅(やすおり)です。どこにいたのか、さっぱりわかりませんでした。なぜ気になるかといえば、配役では桜木健一とあったからです。私たちの世代にはなじみですが、往年のスポ根ドラマ「柔道一直線」の一条直也を演じた人です。登場を楽しみにしていたのですが、残念ながら気づきませんでした。

そういえば、彼は大河ドラマ「おんな太閤記」だったでしょうか、豊臣秀次を演じていたような。記憶が定かではありませんが。

また、一橋慶喜と大老井伊直弼の会見の場面。
井伊が「恐れ入ります」ばかり答えていたのは史実ですね。
よくこのシーンを入れたなと思いました。
(矮小ですが、最近の飛騨牛偽装の社長も同じような応対だったような)
かつての大河ドラマ「徳川慶喜」ではもっと詳しくやっておりました。そのときの井伊大老は杉様こと、杉良太郎でしたね。

将軍家定の死因脚気衝心はこの頃の上流階級に多い病気です。白米ばかり食べて、栄養が偏っているからですね。
ちなみに、次の家茂もその夫人和宮も脚気衝心が死因です。

なお、予告編で本寿院が家定が毒殺された云々と叫んでいましたが、たしかにそういう説があります。それは次回にでも書きたいと思います。


薩摩のほうに移ります。

まず、斉彬の臨終場面で久しぶりに、島津忠教(ただゆき、のち久光)が登場していました。
斉彬の遺言を忠教がじかに聞いたのは史実どおりです。
斉彬は忠教の嫡男叉次郎忠徳(のち茂久、忠義)に家督を譲り、末子哲丸を叉次郎の順養子にするよう告げていました。これもほぼ史実通りです。
哲丸は斉彬の最後の男子で、当時わずか2歳です。斉彬はこの子だけはと、4カ月前に世子の届け出を幕府に提出していました。
斉彬の遺言はこの届出を反古にしたものですが、現実問題としては致し方ありませんね。

さらに厳密にいえば、このとき、斉彬は忠教も跡継ぎの一人に考えていたとする説があります。斉彬の側近だった山田為正(壮右衛門)の記録です。
「御遺言ノ趣 山田壮右衛門筆記」がそれです(『鹿児島県史料 斉彬公史料』三所収)。
これには次のように書かれています。

「哲丸様御幼少に付、御跡は周防殿(忠教)、叉次郎殿(忠徳)の間(周防どのは辞せられ、叉次郎殿と定められたりと)、宰相様(斉興公)え伺い奉り候て、御執り究め申し上げ候様、尤も、暐姫様(公の御長女)え御聟養子に遊ばされ、 哲丸様(公の御長男、御年二歳)御順養子に遊ばされたく思し召し候事」

斉彬は跡取りを特定しないで、忠教と叉次郎の間で、ご隠居斉興に相談してどちらかに決めよと言っています。つまり、忠教にも藩主になる可能性があったということです。
しかし、そうしなかったのは、やはりお由羅の子として、藩内の反発を恐れてのことでしょう。その意味では、叉次郎にしたのは順当だったといえそうです。

ただ、叉次郎の家督相続に対しても、条件が2つ付いています。
ひとつは、斉彬が世子とした哲丸を順養子にすること。叉次郎に何かあったら、哲丸が家督を継ぐという意味。
次に、叉次郎は斉彬の長女暐姫の聟養子になること。
叉次郎はこの条件通りにして家督を継ぎますが、哲丸は翌年他界しております。

番組最後の「篤姫紀行」で、斉彬が江戸藩邸にある遺品を篤姫に与えると遺言したというナレーションがありましたが、その典拠も上記の山田の筆記にありますので、ついでに紹介しておきます。

「御道具の内、差し立てたる御品、御城え(御城え云々、天璋院殿)差し上げ候様、尤も、御国許にもこれあり候えども、江戸に多分召し置かれられ候間、一人早々江戸へ差し越し見分け候様」

斉彬は江戸にある道具を篤姫に形見分けしようと、見分のためにすぐ使者を江戸に遣わしたようです。
このくだりは、斉彬の子女へ向けたそれぞれの遺言となっているのですが、家督問題の次に、篤姫のことが最初に書かれているのは、年長とはいえ、篤姫に対する斉彬の配慮を感じさせます。

なお、斉彬は自分の墓のことも遺言しています。それには次のようにあります。

「御石塔は福昌寺・南林寺えも、小さ成る御石塔建て候様(福昌寺へ御骸、南林寺へ御遺髪を産められたり)」

斉彬は島津家の菩提寺である福昌寺だけでなく、南林寺にも石塔を建てるように遺言しています。
南林寺は福昌寺の末寺で、戦国時代の太守島津貴久(大中公)の菩提所です。

これを読んで、ハタと思い当たったことがあります。
以前、福昌寺に斉彬の墓が2つあると書いたことがあります。ここです。
斉彬と英姫の夫婦墓の右後ろにあるもうひとつの斉彬の墓というのは、この南林寺の墓ではないかと。
南林寺は廃仏毀釈でなくなり、現在は松原神社になっています。その一部が南林寺由緒墓地としてわずかに残っていますが、もちろん、そこには斉彬の墓はありません。
南林寺から福昌寺に移転された可能性が高そうな気がしてきました。

今回、ハッとしたことがありました。
斉彬が新式銃を小松帯刀に説明しながら、琉球王の使節の江戸出府か上京の予定があるから、その警固を名目に、新式銃をもった精鋭で上京するつもりだ、と豪語した場面。

斉彬の率兵上京計画があったのか否かは諸説ありますが、私はその名目が何なのかわからないでおりました。その後、西郷が久光の率兵上京のとき、名分がないと批判していることを考えると、斉彬にはそれなりの目算があったのだろうなとは思っていましたが、この手があったのかと。
これに着目したのは、時代考証上、このドラマ始まって以来の快挙かもしれませんね。

じつは、斉彬が病に倒れる直前の9日、琉球王使(王族の伊江王子)を鹿児島城で引見しています。その儀式が無事に終わった直後に、斉彬は倒れてしまうのです。

琉球王の江戸の徳川将軍家への使節は、謝恩使(琉球王の即位の報告)と慶賀使(将軍就任の祝い)の2種類があります。当時の琉球王尚泰の謝恩使はすでに嘉永3年(1850)に派遣されておりますから、安政5年には慶賀使だったことになりますが、遅まきながら家定の将軍就任を祝う使節だったのでしょうか? しかし、その頃には家定は亡くなっているわけで皮肉です。

この琉球使節は当年秋、江戸へ向かう予定でした。慶賀使・謝恩使の江戸出府を案内・警固するのは薩摩藩主の役割です。
斉彬はこれを利用して、率兵上京しようとしていたという解釈だったわけですね。
勉強不足で知らなかったのですが、これは原口泉氏の説なのでしょうか。なかなかだと思います。

もっとも、この琉球使節の鹿児島発の前に、家定の死が鹿児島にも届くはずですから、慶賀使は目的を失い、中止になるでしょうね。そうなると、斉彬は率兵上京の名目を失ってしまうことになり、苦境に立つのは明らかですね。
実際、このときの琉球使節は慶賀使・謝恩使のどちらにもカウントされていないようです(ここです)。やはり中止になったのですね。

最後に、「篤姫紀行」でも紹介された天保山にある史跡の写真をいくつか紹介しておきます。
天保山は天保年間に埋め立てられた区域です。家老調所広郷の仕事でした。その関係で、近年、その一角に調所広郷の坐像も建立されています。

天保山砲台

天保山砲台跡


斉彬陣屋

島津斉彬陣屋跡(現・天保山中学)


図書坐像

調所広郷坐像


新婚旅行

坂本龍馬・お龍新婚旅行の碑(こんなのもあります)

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【2008/07/13 22:35】 | 信長
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御礼
桐野作人
管理人しか見られないコメントをいただいた方

斉彬の琉球使節の政治的利用についての史料をご紹介いただき、有難うございます。
ご紹介いただいた本をさっそく見てみたいと思います。

メルアドがなかったので、この場を借りて御礼申し上げます。



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南日本新聞連載「さつま人国誌」第66回
―2つの相続 周辺に異論も―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、小松帯刀の死後について書きました。
小松には養子右近実子安千代(のち清直)がおりましたから、家督問題には苦慮していたようです。実子がすでに生まれていたのに、養子をもらったのは、久光のじきじきのお声掛かりだったので、断れなかったのでしょう。

そこで、小松は遺言書を作成して、遺産分けをします。遺産といっても、賞典禄1000石のみ。これを実子安千代に800石与えるというのですから、小松の真意がどこにあるかは明らかです。
そして、小松家を2つに分けて、国許の実家を右近に、新たに立てる家を安千代に継がせるという苦肉の策をとったようです。

でも、国許では桂久武や吉井幸輔が遺言書の内容に不満で、やはり右近に継がせるべきだと考えていたようで、結局、右近を後継として届出をします。

その後、伯爵小松家は明らかに安千代の系統で継がれました。国許の小松家がどうなったのか、消滅したのか、安千代系統に統合されたのか、史料不足、勉強不足でわかりませんでした。ご存じの方がおいでなら、ご教示下さいませ。

次回は西郷従道の抱腹絶倒のエピソードを書く予定です。

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【2008/07/12 10:02】 | 信長
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町田君はどこへ行ったのでしょう
ばんない
こんにちは。

前回の予告からタイトルの「町田君」(汗)こと町田申四郎(小松右近)の消息を遂に突き止められたのかと思っていたのですが、やはり駄目でしたか。それにしても借金のために逆に相続を返上できないと言うのは今でもありがちな話ですね。
小松帯刀本人も、薩摩藩における功労者の筆頭を争う人物が、晩年は借金と相続問題で悩みの中に客死したというのが泣けます。今年の大河じゃたぶんそこまでは書けないでしょうけど。

それにしても、そこまで苦慮した実子安千代の系統もその後断絶して、今は来週の主人公・西郷従道のご子孫になっているようで。最近「小松の子孫」としてマスコミ露出の多い某酒造メーカー社長は、今回桐野さんが言及されたごたごたの末引き取られた妹の系統とか聞いたことがあります。

町田申四郎
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

町田申四郎のことはなかなかわかりませんね。
鹿児島の吉利にある小松家墓所に右近の墓があるのかどうか、さしあたってはこれを確認すべきかもしれませんが。
3回も行きながら、墓所の墓の見取図をなぜか1回も撮影していないという体たらくでして(笑)。

でも、墓所の見取図にある小松家当主の代数は清廉から清直で、間になかったような記憶があります。
やはり、途中で家を出たんでしょうかね?


よくわかりません
桐野作人
kuwasukeさん、はじめまして。

お尋ねの件ですが、結論から申してよくわかりません。
小松帯刀の明治以降の系図には、「市朗」「市郎」ともありませんね。この系図は多少簡略化されており、直系しか載っておらず、庶子が省略されているきらいがあるので、何ともいえないのですが。

私よりも、ご祖母がご健在なら、そちらに聞かれたほうが早いのではないでしょうか。あるいはすでにお亡くなりでしょうか。


ありがとうございます
kuwasuke
早速のお返事ありがとうございます。
おっしゃるとおり、祖母は7年ほど前に他界しました。
生前から聞いていたので、もっと詳しく聞いておくべきでした。

お手数をおかけして申し訳ございませんでした。

今後も先生のブログ・作品を楽しみにしております。
ありがとうございました。

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う~ん、九州はおしなべて、篤姫人気に乗りたいみたいですね。

九州国立博物館の島津家文書の展示が明日から始まるみたいです。
最新の告知はこことか、ここですが、最初から展示名に篤姫が入っていましたっけ? 島津家文書には幕末期はないんですけどね。国宝指定された全体では別ですが。

ちなみに、東京大学が所蔵していた国宝指定の島津家文書が初めて九州で展示されることになったのは、現在、東大史料編纂所が耐震工事中で、島津家文書を一時、九州国立博物館に預かってもらっているためです。

そして、本家本元の鹿児島には、篤姫が里帰りだそうで。
宮崎あおいちゃんが再び鹿児島にやってくるそうです。
ここです。
番組後半の盛り上げと、鹿児島の観光振興へのテコ入れでしょうね。

ちなみに、あおいちゃんたちの講演場所は宝山ホール
先々月、私の講演会があったところですね。もう遠い昔のような気がする。懐かしい。
私には分不相応に広い会場でしたが、あおいちゃんにはさぞや狭いことでしょう。応募者殺到は間違いなしです。

篤姫人気もいまや絶頂ですが、出版業界はもう来年の風が吹き始めています……。
焦りまくり。

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【2008/07/11 23:01】 | 信長
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来年は・・・
武藤 臼
東京だと、直江関係ってもうだいぶ動いているんでしょうねえ。
関西にいると来年はネタがなくて困りますね(^^;

坂の上の雲は盛り上がり具合が読めないし、
龍馬はまだ少々先だし・・・

直江関係
桐野作人
武藤臼さん、ご無沙汰しておりました。

直江関係はもうだいぶ動いているようですね。
夏休み明けにはもう書店に単行本が並ぶんじゃないでしょうか。


「愛」の地元
ばんない
こんばんは。

本日放映の『アド街っく天国』で米沢駅が紹介されてましたが
既に「愛」の字が真ん中に大きく印刷されたTシャツとか「愛」の字入りのネクタイとか土産物店で山積みされて販売され…えらいことになってますね(苦笑)

米沢
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

そういえば、昨年だったか、直江が大河に決まった直後、米沢の書店から、前田慶次郎の本を購入したのですが、おまけに上杉景勝の伝記をもらいました。
「米沢は燃えています」と書いてありました。
それから、もう1年以上たっていますから、今はさらにすごいことになっているでしょうね。


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日次記です。

7月8日(火)己酉、天晴
先日の虫さされがどうもひどくなった感じなので、午後から思い切って病院に行く。1時間半も待たされたが、治療時間はわずか5分だけだった。
やはり、チャドクガ(椿系の樹木に付く)でした。
抗ヒスタミン剤や抗生物質の飲み薬と、顔と体用の塗り薬、計4種を処方してもらう。

飲み薬のほうは何となく効果が出て、熱や痒みが収まった。
今回は半袖で露出が多い服装で、軍手も使わずに作業したことを反省。

某広告の監修の仕事舞い込む。
幕末人物伝をやるそうで、小松帯刀について時代考証をしてほしいとのこと。
出来る範囲でならと答える。


9日(水)庚戌、天晴
朝起きてみて、虫さされの経過は良好。
連載コラム「さつま人国誌」を脱稿。
今回は小松帯刀の死後の混乱についてまとめた。
ほとんど知られていない話ばかりだと思うので、読んで下さい。

某BS番組から出演依頼あり。
西南戦争がテーマとか。
対談形式でやるもので、相手は知人の研究者O氏。
うまくやれるといいが、最近、西南戦争をやっていないだけに心配。

来週15日から新たに始まる古文書塾「てらこや」講座の受講者が前回よりも多いとの連絡あり。
これも篤姫効果か。

10日(木)辛亥、曇り
小松帯刀の件で、いろいろまとめる。
校正2本仕上げる。

夕刻、上京中のある新聞記者と歓談。
没後130年のため、大久保利通の連載をするそうで、関係者や研究者に取材しまくっているらしい。
研究者も適切な人を選んでいるなという感じ。
今月下旬から連載が始まるらしい。
楽しみである。

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【2008/07/10 23:28】 | 日次記
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ばんない
その後、ご容体は如何でしょうか。
皮膚科っていつも込んでいますね。アトピーの人が激増しているからでしょうか。最近は皮膚科なのか美容科なのか判別不明な病院もあるようですが(爆)

かくいう我が家も、桐野さんの話を聞いて気になり、庭の茶の木の葉を剪定してみたら…やられてました(涙)。何か黒いつぶつぶ(おそらく孵ったばかりの幼虫)がびっしり付いていた若い枝が4本ぐらいと卵産み付けられていた若葉が10枚ぐらい…ああ気持ち悪かったです。すぐに切り取って土の中に深く生き埋めさせていただきました。合掌。ゴム手袋と長袖の服、防護メガネをつけて作業したのでたぶん大丈夫と思うのですが…それでも油断ならないのがチャドクガですね。本当は作業中に着ていた服も焼却処分するのがいいらしいのですが、放射能作業じゃあるまいし、そこまでは出来ません。

良好です
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

その後、虫さされのほうはほとんど完治しました。痒みも腫れも赤味もとれています。まぶたの腫れが若干残っている程度ですが、塗り薬で治るのは時間の問題でしょう。

さて、そちらもチャドクガがたくさんいたようですね。
この猛暑での完全防備での作業、大変だったことでしょう。
本来はそれくらいの用心で作業しないといけなかったのですね。軽率さが悔やまれます。実質2日くらい時間を無駄にしたような気がするので。

恙ないことをお祈りします。
そういえば、恙ないって、ツツガムシがいないという意味じゃなかったでしたっけ?

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大河ドラマ「篤姫」、以前幾島のことで宿題がありました。
ここです。

ドラマで存在感を発揮する老女幾島ですが、どのような人なのか、越前藩の記録『昨夢紀事』二に詳しい記事がありましたので、紹介します。

書かれたのは安政4年(1857)12月14日です。
西郷吉兵衛(のち隆盛)が薩摩藩の老女小の島宛て幾島書簡を越前藩の中根雪江に見せたもの。中根はそれを全文写し取っています。
そして、幾島の大奥での活動の様子を解説してくれています。貴重な情報だといえるでしょう。

「この人薩摩殿の密旨を受て、御台所の御上はとりすべてまかないものすれば、後宮にてはいみじき勢ひなりけり、其上女丈夫とかいへる類にて、心逞しく胆太とき本性にて黄白を湯水のごとくつかひしものして、後宮の古へより宮仕へする人の権柄を傾け尽したるほどの婦人なり、何処には宿瘤のある故、皆人ものかげにては瘤/\とのみ唱へて恐れ憚る事なりとぞ」

幾島は「薩摩殿の密旨」を受けているとあります。島津斉彬の密命ということですね。「とりすべて」は「執り統べて」でしょうか。すべてを取り仕切るという意味でしょう。
大奥での勢いが盛大で、しかも「女丈夫」であり、「心逞しく胆太き本性」だとあります。何となく、ドラマの幾島像に近いですね。

注目すべきは「黄白湯水のごとくつかひものにて」という部分。
黄白」とは金と銀、つまり金銀のことですね。湯水のように使って、それをもとに「権柄を傾け尽した」とあります。往年の春日局みたいな権勢にたとえられているのでしょうか。

また、以前幾島を紹介したときの宿題だった「」と呼ばれていたという出典はこれだったのですね。
宿瘤」とありますから、ほとんど生まれつきの瘤が「何処か」にあったようです。場所が特定されていません。

幾島が金銀を湯水のように使ったというのは、決して私腹を肥やしたり、自分の権力欲のためではないでしょう。大奥は水戸嫌いで知られていましたから、将軍継嗣問題で一橋慶喜を支持する勢力は少なく、多数派工作のためには金銀を多量に使わざるをえなかったのだと思います。

それもこれも「薩摩殿の密旨」のためだったのですが、ドラマでは、最近、篤姫と幾島の間にすき間風が吹いていますね。
幾島の無念が察せられます。

幾島はその後、大奥からの退去を願い出ますが、使命を果たせなかったからでしょうね。

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【2008/07/09 18:26】 | 篤姫
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日次記です。

7月4日(金)乙巳、天晴
梅雨の晴れ間を縫って垣根の剪定。
あとでとんでもないことに。

5日(土)丙午、天晴
栄中日文化センターの10月からの講座。
そのテーマや各回ごとのタイトルを送付する。
テーマは「本能寺の変を読み解く―信長・光秀・利三の葛藤―」としました。
関心のある方は参加してみませんか。
主催者のサイトはここです。10月からなので、まだ告知されていません。

6日(日)丁未、天晴
一昨日の垣根の剪定作業で、どうやら毛虫に触ったらしい。
顔の右半分と首筋がまっ赤に腫れている。
とても、人前に出られない顔になった(トホホ)。
痒くて集中力が削がれるなか、何とか1本の雑誌原稿をこなす。

7日(月)戊申、小雨のち曇り
昨晩、大河「篤姫」の感想をアップしたせいか、アクセス数が順調に伸び、未明のうちに30万アクセスを突破したようだ。
有難い。しかも、ペースが速くなっている気がする。
これもみなさんのおかげです。

例の腫れ、市販の塗り薬で昨晩は収まったかと思ったが、暑さのせいか、また少しぶり返す。
患部が熱を持っているようなので、氷で冷やしながらやっている。冷たくて気持ちがいいが、早く治ってほしい。外出できないよ。

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【2008/07/07 18:39】 | 日次記
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お気の毒
ばんない
垣根の樹の種類がお話からでは分かりませんが、ツバキ科の物なら「チャドクガ」の可能性があります。これは市販の薬では治らないそうです。早急に皮膚科に行かれることをお奨めします。
チャドクガの毒はすごくて、治療に当たった皮膚科の先生がその抜いた毛で自分もかぶれる、というくらいですから…

暑いときのかゆみと腫れはつらいですね。お大事に。

チャドクガ
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

チャドクガですか。
うちの垣根にサザンカがありました。
もしかしたら、これにいたかもしれませんね。

症状的にはよく似ているような気もします。
市販の薬は抗ヒスタミン系のステロイド剤のようで、何となく効果も出ている気がします。
明日になっても改善しないようだと、皮膚科に行くことも考えます。
ご教示有難うございました。

30万アクセス
木暮兼人
おめでとうございます!
大河ドラマの「篤姫」はあまり真面目に観ておりませんが
桐野先生の記事は毎回楽しく読ませていただいております。

毛虫の針に刺されると、針が抜けるまでちくちくした違和感などが続くはずです・・・
早急に治されるのであればやはり医療機関を受診された方がよろしいかと。

蜂であれば特効薬はアンモニアなのですが。

心配かけます
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

心配していただき恐縮です。
症状が一進一退なので、やはり一度病院に行ってみようかと思っています。


チャドクガ
くみ
サザンカですとチャドクガの可能性もあります!
かぶれだけではなくアレルギー反応を起こす人もいるみたいなので
皮膚科を受診されたほうがいいと思います。
少し前にチャドクガが原因の労災の書類を作成したことがあって、
調べたことがあります。

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チャドクガ
桐野作人
くみさん、こんばんは。

心配かけてすみません。
チャドクガは労災の対象でもあるんですね。

本日、病院に行ってきました。
薬をたくさんもらってきました。
とりあえず、これで大丈夫だと思います。

本能寺を読み解くについて
kiko
こんにちは。
いつも楽しく読んでいます。
織田信長のことは以前から興味を持っていましたが、最近やっと「信長公記」を読み始めたところです。
たくさんの人名が出てくるんですね。調べるだけで時間がかかってます。難しいかなと思っていたのですが、楽しく読んでいるところです。

ところで、10月から名古屋の文化センターで、本能寺を読み解くという講座をされるとのこと!!
ぜひ参加したいのですが、土・日しか行けそうにありません。
講座の曜日は決まっているのでしょうか?できれば土日がいいのですが・・・


残念!
桐野作人
kikoさん、初めまして。

『信長公記』を読み進められていて、面白いとのこと。
ふつう、なかなか読みこなすのは難しいのですが、すごいですね。

名古屋の講座はいつも第4木曜日にやることになっています。
土日ではないんですよね。
熱心な方を一人、受講者として失ってしまったようで、私もとても残念です。

何か別の機会があることをお祈りします。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第27回「徳川の妻」

ドラマの進行時点は安政5年(1858)4月頃。

ハリスとの会見が終わったせいか、将軍家定の見せ場づくりに苦心している感じで、早、死後の伏線が張られていますね。
しかも、家定だけではなく、島津斉彬についても。
それもそのはず、2人は同じ年に、しかも、ドラマ進行時点からわずか3カ月後、10日違いで相前後して他界しますから。

今回のポイントは井伊直弼の大老就任でしたが、そのライバルとして、越前福井藩主・松平慶永がクローズアップされました。
そして、前々回、一橋慶喜と紀州慶喜の品定めと同様、2人の大老候補を、篤姫が家定と共に引見するという趣向。

いかにも創作ですが、気になったのは、はて、引見の場所はどこかという点です。将軍執務室の中奥(なかおく)には、いかに御台所とて入れるわけはありません。
となると、やはり大奥の御殿向(御台所の居住空間)にある御対面所ということになるんでしょうね。
むろん、家定と篤姫が御対面所に直弼と慶永を招き入れたというのは史料には見えません。

それに関連して、篤姫が年寄以下の女中の制止を振り切って大奥を出て、家定のところに押しかけたのは中奥ということになるんでしょうな。どちらにしろ、フィクションなので、とくに説明していませんでしたね。

それで、肝心の慶永の大老職就任の話ですが、ドラマでは斉彬が発案したように見えましたが、そうではないと思います。
幕府の海防掛で一橋派の川路聖謨や岩瀬忠震あたりが老中堀田正睦の上洛に随行しており、おそらく、その間に建議し、堀田もその説に傾いたというあたりが真相かと思われます。

というのは、岩瀬が京都で橋本左内と会ったとき、慶永の「宰輔」就任を説いているからです。岩瀬によれば、「宰輔」とは大老以上の要職で、将軍を補佐し重大政務のみを決裁するというものでした。重大政務として念頭に置かれているのは、条約勅許問題と将軍継嗣問題でしょうね。
職務内容はほとんど大老と変わりませんが、慶永は譜代ではなく家門大名(親藩)ですから、本来、大老に就任する筋ではありません。ですから、「宰輔」なる新たな臨時職をひねり出したのでしょう。
宰輔と大老は違うのですが、ドラマでは面倒なので、その説明は省いたのでしょう。

条約勅許の獲得に失敗した堀田が江戸に帰府したのが4月20日で、家定に謁見するのが翌21日ですが、じつはその間に素早く、井伊の大老就任の根回しが行われました。首謀者は老中松平忠固です。ドラマでは松澤一之でしたね。なかなか一癖ありそうな目つきでした。
堀田が家定に、慶永の大老職就任を建議したところ、家定がはっきりと拒否します。

井伊の腹心である宇津木六之丞の『公用方秘録』には、堀田から聞いた話として、次のように書かれています。

「松平越前守へ御大老仰せ付け然るべき旨伺いに相成り候処、上様御驚、家柄と申し、人物に候へば、彦根を差し置き、越前へ仰せ付けらるべき筋これなし、掃部頭へ仰せ付けらるべしとの上意にて、俄かに御取り極に相成り候」

堀田が慶永を推薦すると、家定が驚き、「家柄といい、人物といい、彦根を差し置いて、越前を任命する筋ではない。掃部頭(井伊)に申し付ける」という答えだったという。

家定にしては、かなりはっきりしたもの言いです。
井伊の大老就任は、つまるところ、紀州慶福の継嗣決定の布石ですから、家定も当然承知していたと見るべきでしょうね。

一方、一橋派、とくに幕府の中堅官僚である海防掛の連中の井伊評はなかなか辛辣です。
たとえば、『昨夢紀事』三には、
越前藩の橋本左内が岩瀬忠震から聞いた言葉として、「児輩に等しき男」
また永井尚志などは「掃部は其器にあらず、かゝる人を薦挙有りて、かゝる艱難の天下の治まるべきや」と老中衆に食ってかかったとか。

まあ、彼らが井伊大老の命で失脚させられるのもむべなるかなですな。

あと、本寿院がすでに何度か口走っていると思いますが、慶喜が将軍継嗣になったら自害すると言っている件。
これも史実ですね。『昨夢紀事』三に、岩瀬忠震の談話中に出てきます。ちょうど井伊が大老に就任する前後のことです。

「彼の例の本寿院の尼公余りに厳しく御拒絶にて三月以来御潔斎にて御願を立らるゝばかりの御事ゆえ 上よりも態と度々は仰せ立かねられしかど、此比(このごろ)、又々仰せ上られしかば、さらば御自殺もあらるべき御決心の由を仰せ立てらる」云々

本寿院は慶喜の継嗣決定を阻止しようと、1カ月以上、毎日潔斎して願掛けをしているというのですから、ただの脅しではなく、本気のようですね。
篤姫が態度を変えたのは、この姑の決死の覚悟に影響された面もあるかもしれませんね。

次回は、篤姫の大事な人である家定と斉彬の双方が他界してしまいます。一大事です。

余談
先日、といってももう3カ月ほど前だったでしょうか。
大河ドラマの時代考証を担当されている原口泉氏が上京されたとき、少し裏話をうかがいました。
そのとき、制作側の意向として、斉彬が入輿後の篤姫と対面する場面を設定したいが、江戸城中は無理なので、浜離宮でひそかに会うという設定にするかもと仰せだったのですが、この分ではカットされたみたいですね。考えてみれば、斉彬は参勤交代で国許にいますから、会える状況にはありません。
その浜離宮が「篤姫紀行」に登場していましたね。

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【2008/07/06 23:42】 | 篤姫
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「ドイツ」とか
ばんない
某所ではその松平慶永がその当時存在してなかったはずの「ドイツ」なんてお国の名前を出されたとか話題になってますが…(汗)
もう一つ、原口先生におかれましては、あのフジテレビ大奥でもやらなかった「御台様のご錠廊下突破」は身を挺してお止めして欲しかったです(苦笑)。まあ、再来週から家茂公の義理の母として西太后もビックリの垂廉政治を篤姫がされても全然おかしくない状況の今年の大河ですけど。

それと、この大河では全然史実と違う人格にされてしまって、見せ場が無くてかわいそうな小松帯刀ですが、この後、篤姫によって大奥にやってくるシーンがあるようです…これが脚本家が精一杯考えた帯刀の見せ場としたら悲しすぎるのですが。また、『時代劇マガジン』という雑誌で、プロデューサーの佐藤峰世氏が小松帯刀の最期について早くもネタばらししているのですが、「また悪いことは全部大久保と西郷のせいにするのか」という内容になっています。

ところで、井伊直弼を大老に推挙した上田藩主・松平忠固という人をちょっとネットで検索してみたら、この後、その恩を売ったはずの直弼に冷や飯を食わされるようですね(ネタバレ?)。松澤一之という配役はいい人選だったかも知れません(汗)。

ドイツ
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

そういえば、「ドイツ」って言ってましたね。
まだ統一されていないし、プロシアぐらいにしておけばよかったかもしれませんね。

小松の今後については、私も先行き不安に思っておりました。
気弱なキャラから脱却できないんじゃないかと。
そうならないように祈るばかりですが……。

家定賢君説?
御座候
先日、彦根城博物館の特別展「政治の時代―井伊直弼と幕末の群像」を見学したのですが、安政5年5月9日に直弼腹心の宇津木景福が京都の長野義言に宛てた書状の中に「(直弼が)段々上慮御伺被遊候処、天下之義深く御愁ひ御討論も御座候処、御賢明ニて御仁憐之御方と被仰候、実ニ可憎ハ奸佞邪智之人ニ御座候」とありました。

もしかすると、この史料も家定賢君説の根拠になっているんでしょうか??
まあ井伊直弼の立場からすると、「将軍が暗愚なのをいいことに幕政を壟断」などと批判されては叶いませんから、是が非でも名君ということにしなければならないわけで、その点は割り引いて考える必要があるのでしょうが・・・

家定は賢君?
桐野
御座候さん、こんにちは。

彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

それでご紹介の書状ですが、まことに興味深い内容ですね。
「御賢明」「御仁憐」ですか……。

まあ、松平春嶽を「宰補」にする話を、家定が拒絶した理由は、徳川家にとっては常識的な考え方ですから、家定には将軍として常識的な意見表明できる能力は十分あったのはたしかなんでしょう。

ただ、常識的なことが「賢君」かといえば、?ですね。
「賢君」とは、やはり常識にとらわれず、何らかの改革をなし遂げた君主ではないかと思いますが……。
家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。
歴代将軍同様の常識人だったということでしょうか。

なかなか面白い展示でした
御座候
>彦根城博物館の展示、存じてはいたのですが、なかなか見に行けません。

書状類が多く出ておりましたので、図録だけでも御覧になられるとよろしいかと愚考致します。
当該文書の写真も掲載されています。



>家定の場合は病弱で短命、将軍在職期間も短いです。それに奇矯な行動を云々されたため、その分、常識的な振る舞いがあれば、相対的に「賢君」に見えるのかもしれませんね。


暗君の噂が流れていたのに、会ってみたら意外にまともだったので「賢君」と評した、ということでしょうか(^_^;)
幕府の権威を取り戻すためにも、家定暗君説を打ち消す必要が直弼にはあったのでしょうが。

なお、この書状には「君上御賢察被遊候間、向後ハ思召之義ハ聊御遠慮なく十分に被仰出候様被仰上、其後ハ追々思召も被仰出候」ともあり、直弼が「公方様は御賢明でいらっしゃいますから、これからはお考えはご遠慮なくおっしゃって下さいませ」と申し上げたところ、その後はだんだん家定が意見表明するようになったことが分かります。
直弼の主張なのでこれも割り引いて考える必要はあるでしょうが、大河ドラマ『篤姫』と異なり、家定―直弼間に信頼関係が醸成されていたと見て良いように思います。

図録
桐野
御座候さん、こんばんは。

図録の紹介も有難うございます。
さっそく注文したいと思います。

家定-直弼の信頼関係が醸成されたのなら、一橋派には一層勝ち目がなかったことになりますね。
家定の再評価の動きがありますが、この図録もその一環ととなりそうですね。
有難うございました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第65回
―長い闘病生活と肺結核―

私の連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたら、ご覧になれます。

今回は表題のとおりです。
小松の死因は意外と知られていないと思います。
私もこれまで講座や雑誌記事などで、「足痛」を強調してきましたから、それではないかと思われたかもしれません。
私も一時はそうじゃないかと思っていました。

でも、違ってました。
肺結核だと思います。

肺結核と「足痛」の因果関係はなさそうにみえますが、「足痛」が糖尿病だったとしたら、免疫力が低下して合併症を引き起こしやすくなるんじゃないかなとも思います。それで結核に罹患してしまったとか。
まったくの門外漢なので、あくまで素人の見たてです。詳しい方がおいでなら、ご教示下さい。

先日、大阪に行ったとき、オランダ人医師ボードウィンの宿舎となった法性寺を拝観してきました。
彼が小松の治療にあたったわけですが、小松はこの寺を訪問する余力はあったのかと気になりました。小松の大久保利通宛て書簡を見ると、自宅療養だったのではないかと思われますが。

ボードウィンは小松をヨーロッパで治療させようとしたようです。
でも、小松に長い船旅に耐えるだけの体力が残っていたとは思えませんし、また無事に着いても、当時の医療水準では、肺結核を完治させるのは難しかったのではないかと思います。
もしかしたら、小松はヨーロッパで客死という可能性もあったわけですね。

次回は、小松の死後のことを書いてみたいと思います。
小松の後継はどうなるのか、実子の安千代と養子の右近(町田申四郎)はどうなるのかといったところです。

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【2008/07/05 11:43】 | さつま人国誌
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サトシ
また拝見させていただきました。
次の更新も楽しみにしています。
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龍馬を超えた男
伊東祐実
原田泉氏の「龍馬を超えた男小松帯刀」では死因は特定されていないので、今回のお話はとても興味深いです。また、これから小松がどのように皆さんに取り上げられて行くのか楽しみです。瑛太君にも頑張ってもらわないと?!

これからの小松帯刀
桐野作人
伊東祐実さん、こんにちは。

小松帯刀が実際に活躍するのは、ドラマの進行時点から4年後のことなので、まだ作りにくい面はあると思います。
ただ、これかでのいきさつから見てどうなるか、やや不安ですね。気弱なキャラクターからずっと抜け出せないような気がします。
それでは困るんですけどね。


リョウ
拝見させていただきました。
もっと詳しくしてほしいです!!
人物調べが宿題なんです(泣)

さつま人国誌
桐野作人
リョウさん

拝見していただき、有難うございます。
もっと詳しくとのことですが、私の新聞連載「さつま人国誌」でかなり詳しく書いております。
左のリンク欄をクリックすれば、小松関係の記事が少なからずありますので、ご参照下さい。

小松の亡くなった場所
yuki-uta
 帯刀さんの亡くなった場所がとっても気になっています。最近、大阪の新聞に載ったのですが、慶応4年5月~7月まで大阪府の知事をしておられたのですね。その縁で、大阪で治療されたのでしょうか。もし、自宅療養なら、大阪の自宅はどちら・・?大河のように、病院で亡くなったとすると、明治3年なら現在の国立病院のある場所に、ボードウィンのいた大阪府病院があったとのことなので、そちらでしょうか。とすれば、大村益次郎と同じ場所になりますが。
 大村の大きな碑がありますけど、小松の碑もぜひ、建てていただきたいものです。

大阪の新聞
桐野作人
yuki-utaさん、こんばんは。

返事遅れてすみません。

小松が一時期、大坂に在勤していたのはたしかですね。
知事といっていいのかどうかはわかりませんが。
後藤象二郎も同僚だったような。

小松が亡くなった場所は、私もよくわかりません。
候補は、ご指摘のとおり、大坂医学校か、お琴の居宅のどちらかだと思います。

探せば、ほかにもまだ史料が出てくるのではないかと思います。

ところで、小松の記事が載った大阪の新聞って何で、日付はいつでしょうか?

小松帯刀終焉の地
yuki-uta
 桐野先生、今晩は。ご丁寧に返信いただきまして、ありがとうございます。感激しています。京都の中村先生の講座に時々お世話になっており、桐野先生のお話をよくお聞きします。

 さて、小松終焉の地、ぜひとも特定できればいいですね。来年の大河に、必ず登場するでしょうし。
 ご指摘の新聞は「大阪日日新聞」、2009年1月23日付けの「澪標」(みおつくし)というコラムです。書かれたのは、大阪府立病院機構副理事長の徳永幸彦先生です。
 住吉大社に初詣され、こちらの島津忠久の誕生石を紹介されています。参勤交代の折には、歴代藩主は必ず、住吉大社に参拝しているとのこと。
 また、篤姫も嘉永6年9月24日堺港に上陸、住吉大社に参拝し、薩摩藩屋敷に5日滞在し、京都を経て江戸へ・・。
 小松に関しては、足の痛みをおして、慶応4年5月から2ヶ月、大阪府2代目知事に就任していて、阪大医学部の前身である大阪仮病院の蘭医ボードウィンの治療を受け、明治3年に没している・・と書かれています。

 先日、滋賀県の草津本陣に行ったら、そちらに大福帳が残されていて、嘉永6年10月に「薩州御姫君一行」が宿泊したと記載されていましたよ。朝、伏見を立って、その夜、草津に宿泊だったようです。篤姫ですね。

 週末に夕陽丘に行きますので、陸奥宗光の墓があったお寺の辺りを探索してきます。ご返信、ありがとうございました。

夕陽ヶ丘
桐野作人
yuki-utaさん、こんばんは。

大阪日日新聞ですね。有難うございます。
ただ、ご存じかと思いますが、住吉大社の逸話は伝承の類で、史実とは別に考えたほうがいいと思います。島津家では信じているようですから、それはそれで尊重しますが。

夕陽ヶ丘の陸奥宗光の墓があった場所あたりが小松の墓所だったと言われているようです。
陸奥は一時期、小松の家来でしたから、興味深いですね。


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拙ブログをご覧の方から、ご自宅所蔵の古文書を見てもらいたいというメールが舞い込んだ。
熊本県在住の方で、村田新八「甲東先生」に宛てた手紙ではないかと仰せ。

村田文書なら、数が少ないから貴重である。期待に胸を膨らませて、写真版を送っていただきたいとお願いする。

さっそく送っていただいたが、残念ながら、村田新八のものではなかった。「頓首九拝」という書止文言のくずし方と多少の虫損が作用して、「新八」に読めたということらしい。

よく見ると、な、なんと木戸孝允の書簡だった。むろん、「甲東先生」こと利通宛てである。すごいのが出てくるものである。

折しも、小学6年生にもっとも知名度の低い2人の組み合わせである(笑)。

年次は明治2年(1869)で決まりだと思う。
待詔院学士任命の件だった。待詔院とは、太政官政府にできた各種建白書を受理して審議する役所。2カ月ほどで消滅したマイナーな役所である。

私でも何とか読めたので、翻刻文をお送りしたあとで、ハタと気づいた。
『木戸孝允文書』(全8巻)をもっていたことを。
日頃使わないから、すっかり忘れていた(汗)。

そしたら、何と、同文書にはその案文のほうが収録されているではないか(同文は『大久保利通関係文書』二にも収録。『木戸孝允文書』からの転載か)。
つまり、木戸は案文を一度書き、それをさらに浄書して大久保に送った。案文はそのまま手許に残したから、木戸家に所蔵されて同文書に収録された。

一方、正文は大久保家には伝来せず、どういう経緯があったのか、人知れず熊本のほうに保管されていて、ずっと世間に知られていなかったという次第。もちろん、同文書に正文は収録されていない。

両者を読みくらべてみたら、少なからぬ文章の異同があった。木戸が待詔院学士の拝命を断りたい理由については、案文のほうが詳しい。
しかし、その部分を削除したのは、言い訳がましかったからだろうか。

ともあれ、木戸孝允文書を本格的に拝見させてもらったのは初めてで、眼福でした。有難うございます。

伝来の経緯が気になるところだが……。
ほかにも、古文書をたくさんお持ちのようである。

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【2008/07/04 09:46】 | 幕末維新
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暑くなった。
昨日はたまらずクーラーをつけた。

このところ、鹿児島での講演の仕事が立てつづけに舞い込んだ。
種子島の鉄砲シンポジウムと合わせると、暑い夏になりそうである。

どれも、5月の鹿児島での小松帯刀講演会の波及効果。
有難いかぎりである。

そのほか、新聞連載の縁で、各種情報提供や、子孫の方からのアプローチがあり、これまた有難い。先日も先祖を調べておられる方から貴重な資料を送っていただいた。島津義久とも関係するだけに、その空白部分がある程度埋められた。

ご縁は大事にしたいものである。

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【2008/07/03 09:30】 | 雑記
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種子島シンポ
びわこ
桐野さん、こんにちは。
それにしても暑いですね。

さて、8月の種子島シンポ、彦根からは赤鬼鉄砲隊が参加します。

先日、鉄砲隊の隊長がそんなこと言ってました。
隊長は、自前の赤備えに自前の種子島を持ってて、井伊直政になりきるから(笑)

種子島で赤備えの鉄砲隊を率いて、「撃て~」とか号令かけてるのがいたら、それは私の知人です。       

種子島シンポ
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

東京も数日前から暑いです。

彦根には赤鬼鉄砲隊というのがあるんですか。
赤備え~ではないんですね。

隊長は某O田さんではないんですよね。
O田さんもパネリストのようです。

赤鬼???
びわこ
じもてぃのくせに失念。(^^;
井伊の赤備えのことを「赤鬼」って言うものですから、赤鬼鉄砲隊って書いてしまいました。

隊長はSさんっていう人です。
そのSさんが、見るからに赤鬼なもんで・・・(なんてこと言ったら叱られるな・笑)



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日次記です。

7月1日(火)壬寅、天晴
今年ももう後半になってしまった。
前半はだいぶ頑張ったつもりだが、それでも肝心の仕事がまだ出来ないでいる。それだけが返す返すも心残りである。
でも、ようやくエンジンがかかってきた。この勢いで走りたいものである。

先週の南日本新聞の連載で、北郷久信を取り上げたところ(ここです)、子孫の方から御礼の電話あり。
過分なお言葉をいただき、かえって恐縮する。
先日、本家筋の都城島津家を訪問された話も伺った。
久信は小松帯刀と交流があった人物で、前から取り上げたいと思っていただけに、ようやく実現できてよかった。

次回は小松帯刀の闘病生活と死因について書くつもり。

小松がらみで、いま雑誌原稿を書いている。おそらく今晩中には脱稿予定。あくまで予定だが(笑)。
小松の業績のなかでも、大政奉還を中心にという依頼で、こちらも望むところだった。

ある企画を持ちかけられるが、どうも時間的な余裕がない。
いまの状況ではとてもできそうもないな。

それとは別に雑誌原稿の依頼。
西南戦争がテーマ。
むろん、引き受ける。
企画書を見たが、執筆者は多士済々。
大河ドラマの西郷と大久保役の俳優へのインタビュー記事もあるらしい。

故あってというか、仕事の必要上、昨晩から萩原延寿『遠い崖』を読んでいる。
通読ではなく、関心のある部分だけの拾い読みだったが、4冊読んだ。
単行本を古書でまとめて安く入手していたのが幸いだった。

アーネスト・サトウから見た幕末維新史はまた興味津々。
先日、サトウの宿舎だった大坂の寺院を訪問したから、なおさらである。
また、岩波文庫版の『一外交官の見た明治維新』の記述と、微妙に違う部分があることにも気づいた。その異同を比較するのも面白かった。

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【2008/07/01 22:31】 | 日次記
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