膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
古文書塾「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩3」

15日(火)から講座が新しく始まった。新しいといっても、前シリーズからの継続である。

今回は禁門の変後、幕府を中心にいわゆる「長州征伐」が遂行されようとしている時期を取り上げた。
小松帯刀や大島吉之助(西郷)も、長州に対しては強硬論者であったことを確認する。とくに、小松については、長州処分の意見具申書を読む。それによれば、「暴論輩の厳重の所置」と「七卿早々差し出し」を条件に、それへの回答がなければ、すぐさま出兵すべきことを進言していた。

しかし、途中で風向きが少し変わってくる。
それは、幕臣勝安房守安芳と、小松や西郷、吉井幸輔が対面したことによる。
西郷がこの会見で、「共和政治」をやるべきだと勧められて感嘆し、佐久間象山以上の人物だと「ひどくほれ申し候」と、勝を絶讃していることは有名である。

その大久保一蔵宛て書簡を読みながら、小松もまた勝と会っていることを、『海舟日記』から確認する。『海舟日記』によれば、おそらく小松からの書簡だと思われるが、8月5日に勝がそれを読んでおり、小松が「海軍之義は必らず誓て興起せむ、君もまた幕府邦家の為捨つること勿あれ」と伝えていることを見る。
小松が薩摩海軍の「興起」を誓っていることがわかり、実際、小松はそのための手を打っていく。

中浜万次郎(ジョン万)の招聘や坂本龍馬など土州浪人の庇護もその一環だったことを小松書簡から確認した。

元治元年秋段階で、薩摩藩の要路である小松や西郷がどのような政権構想をもっていたかについて、少し語ったが、意外と漠然としたもので、確たるビジョンが定まっていなかったのではないか。
小松の腹案としては、閣老の差し換えか、一橋慶喜を中心に「天下之大政」を転換することくらいだったようだ。幕府有力者を「因循」か否かで分けて、「因循」ではないほうを支持するという程度だったと思われる。とくに慶喜への期待の大きさがまだ感じられる。

次回は、薩長同盟の準備段階あたりになるだろうと思う。

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