膏肓記

歴史作家桐野作人のブログ  織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記

 
NHK大河ドラマ「篤姫」第30回「将軍の母」

ドラマ進行時点は、安政5年(1858)9月から11月。

う〜ん、新将軍家茂は当年13歳(数え)なんですが、そう見えますかねえ。
ちょっと無理があると思うのは私だけではないでしょう。
篤姫と義理ながら親密な親子関係を演出するには、イメージが分散する恐れがある子役をいまさら使う余裕はないという事情があるんでしょうね、きっと。

天璋院篤姫が大奥の位牌所で、亡夫家定の位牌に手を合わせておりました。その位牌には、

贈従一位大相国

と書かれていました。
ほんの一瞬だったので、それしかわかりませんでしたが、あとは院号・戒名が書かれていたのでしょう。

「大相国」とは太政大臣のこと。
家定の生前の官職は内大臣でしたが、三階級特進で太政大臣を贈官されています。
これは別段、格別のことではなく、代々のしきたりですね。歴代の徳川将軍の官職は内大臣か右大臣で終わることがほとんどですが、例外的に生前に太政大臣まで進んだのは、たしか家康、秀忠、家斉の3人だけですね。

ドラマでは、篤姫の将軍家茂の後見を強調しており、それを無視する大老井伊直弼との対立を際立たせていますが、もともと表向の政務と大奥との世界の違いを考えると、同列に扱うのはどうかと思います。

とくに、大老井伊が篤姫に対して、「将軍後見職は田安慶頼になったので、ご心配なく」と言って、無視する態度に出ていました。あたかも家定の遺言を無視しているという感じで。

しかし、これは二重の意味でおかしいです。ひとつは日にち、もうひとつは井伊は家定の遺言を無視していないという意味でです。
まず日にちですが、田安慶頼は家茂の将軍就任以前に、じつは将軍後見になっています。
しかも、それは家定の遺言としてです。
「温恭院殿御実紀」によれば、家定薨御の8月8日条に次のようにあります。

「宰相様(家茂)御若年に御座なされ候間、御政事向きの儀、当分の内、田安中納言殿御後見相成り候様にとの御遺言に候」

家茂が若年なので、田安家の当主慶頼に後見させよと、家定が遺言したと書かれています。
これも家定の遺言ですから、井伊も前将軍の意向を尊重しているわけでして。
おそらく、政治向きの将軍後見と、徳川宗家という「イエ」のなかで、若年当主を補佐する女家長としての地位とを混同しているように見えるのですが。
それはおそらく意図的な混同のはずでしょう。なぜかといえば、篤姫が井伊の強圧政治と対立したということにしないと、亡父島津斉彬の密命に背いたことの後ろめたさを合理化できないからでしょう。
だから、篤姫がこれまでの私的な「夫婦愛」から、再び公的な「正義」もしくは「正道」に立ち戻るための補填策として、ドラマは井伊に徹底した悪役であることを強制するしかないのです。
それと同時に、斉彬の「正義」を代表した幾島の役割も終わったということでしょうね。

あと、将軍後見になぜ田安慶頼が推挙されたかというと、ほかに人材がなく、消去法によるものでしょう。
田安慶頼は文政11年(1828)生まれですから、当年31歳という成年です。官職は中納言です。
御三家・御三卿の6人のうち、

尾張慶勝:謹慎処分
紀州慶福:将軍就任
水戸斉昭・慶篤:謹慎処分

一橋慶喜:謹慎処分
清水:明屋形(当主不在)


田安家しか残っていないことがおわかりでしょう。
慶頼はのち文久2年(1862)、島津久光の率兵上京と江戸下りのとき、一橋慶喜が将軍後見職になったとき、解任されています。


一方の薩摩のほうですが、いよいよ月照と西郷の入水事件がありました。しかも、かなり詳しく描かれていました。
また小松が2人の助命に奔走する様子が描かれていましたが、このとき、小松が動いたかどうかは史料では確認できません。おそらく、とくに関与していないのではないかと思われます。

入水以前の京都での出来事ですが、戊午の密勅をきっかけに安政の大獄が始まります。弾圧者は上洛した老中間部詮勝と京都所司代の酒井忠義ですね。
西郷が近衛家老女村岡のところに月照を訪ねておりました。これは史実通りです。月照は清水寺成就院の住持ですが、近衛家の祈祷僧でもありました。

また、近衛家には有馬新七と有村俊斎もひそかに来ていました。
これも史実通りです。いや、より厳密にいえば、もう一人、伊知地正治もいました。有馬新七の日記「都日記」には伊知地の名前も出てきます。

同日記によれば、西郷らが月照を迎えに行ったのは9月10日のこと。
4人で話し合って、月照を親戚のいる奈良に逃すこととし、西郷と有村が同道し、有馬は戊午の密勅の写しをもって江戸へ下る。伊地知は京都に残って情報収集にあたるという分担を決めています。
奈良に行く途中、幕吏に発見されたら、西郷たちは伏見奉行所に斬り込み、斬り死にする覚悟だったと、同日記にあります。

西郷がこの一件で主導的な役割を果たしたように描かれていますが、有馬新七の活動も無視できません。とくに、戊午の密勅の写しと前内大臣三条実万(実美の父)の親書をもって、江戸へ行き、亡き主君斉彬の同志諸侯の山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、蜂須賀斉裕、松平慶徳(鳥取藩主)らに届ける役割を担いました。

余談ですが、有馬の「都日記」はとりあえず手許にある『有馬新七先生伝記及遺稿』と『西郷隆盛伝』収録分を見ていますが、西郷の諱の記述が違います。前者は「隆盛」、後者は「隆永」と書いています。同日記は有馬の死後、何度も書写されたと見えます。当時、西郷の実名が「隆永」だったことを確認できますね。

さて、鹿児島に帰った西郷と月照ですが、苛酷な運命が待っていました。
ドラマでは「永送り」としていました。または「東目送り」ともいいます。「東目」とは薩摩藩領国において東回りルート、すなわち、日向方面を指します。その実、国境で月照を斬るという密命だったとされています。
しかし、異説もあります。『西郷隆盛伝』によると、藩当局、とくに家老新納久仰(にいろ・ひさのり)は西郷の人徳を惜しんでいたので、幕府の手前、表だっては厳罰を下したけれども、じつはひそかに別の場所(日向の法華嶽寺)に潜伏させようとしたけれど、その真意が西郷たちに伝わらなかったということです。もっとも、少し言い訳がましい気がしますが。

入水の一件では、西郷と月照のほかに、平野国臣と月照の従僕重助も同船していたのですが、さすがに登場しませんでしたね(笑)。
入水したのは旧暦の11月16日。新暦だと12月でしょう。
冬で錦江湾の水はかなり冷たかったはずですが、西郷はよく蘇生しましたね。きっと本能的に泳いだのと、同船していた平野らの気転のおかげでしょう。

さて、この一件で誤解されているのは、西郷も藩当局から罰せられたと思われていることです。
そうではありません。西郷が奄美に行くことになったのは、罪を得ての配流ではなく、あくまで幕府の追及を逃れるため、死んだことにして奄美に潜伏させるためでした。その証拠に奄美にいる西郷には年に数十石の扶持が与えられています。罪人ならそんなことはないでしょう。
この点が誤解されているので、念のため、強調しておきます。
現・藩当局も前藩主斉彬の股肱だった西郷を処罰したわけではなかったのです。むしろ、できる範囲で庇ったともいえます。それは斉彬への一定の敬意の表れだったといえましょう。

今回も少し関連写真を載せておきます。主に月照関連です。

月照・信海
清水寺成就院にある月照・弟信海・西郷の顕彰碑

忠僕
月照の従僕重助にちなむ忠僕茶屋(清水寺境内)

月照墓
月照の墓(鹿児島・南林寺由緒墓地)

月照像
月照像(同上)

西郷蘇生
西郷蘇生の地(鹿児島市花倉)




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栄中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」第4回

7月24日(木)、昼前、京都から名古屋へ向かう。
講座も早、4回目。
今回のタイトルは表題どおり。

冒頭に、「出頭人」としての、石田三成と本多正純の類似性、共通性を話した。
出頭人」については、高木昭作氏の論考がある(『日本近世国家史の研究』、岩波書店)。
ふつう、「出頭人」といえば、主君の信任厚い側近、重臣で、主君に変わって権勢を振るう人物という意味でとらえられるのが一般的だった。
しかし、高木氏はそのような一般的な意味だけでなく、のち徳川秀忠の出頭人となった土井利勝の事例から、「出頭人」とは主君の「口真似」をする存在として描かれていたことが印象に残っている。つまり、「出頭人」の口から発せられる言葉はそのまま主君の言葉に等しいことになるわけで、「出頭人」たる所以はそこにあったのである。
もっとも、高木氏は「出頭人」は自ら光を発せず、主人の光を受けて輝く存在とも述べており、出頭人の権勢は主人一代限りでしかないことを喝破している。

まさに三成も太閤秀吉の「出頭人」だったといえる。その点では、徳川家康の「出頭人」だった本多正信・正純父子、とくに正純とよく似ていると思う。
正信は家康と相前後して他界したが、正純は若かったので余命が長かった。
三成と正純は秀吉・家康の存命中、権勢を振るった点が共通しているだけでなく、主人の死後、「出頭人」として没落を宿命づけられているのにもかかわらず、その宿命に抗した点も共通し、結局、宿命に抗えずに没落していった点も共通している。

そして、2人が宿命に抗って権勢を回復するために勢力基盤にしようとしたのが、当該政権の譜代衆(豊家恩顧や徳川譜代)ではなく、外様衆だったことも共通している。
三成は、毛利・上杉・島津などを。
正純は、福島正則を中心とする西国の外様大名を。

そのような意味で、関ヶ原合戦の仕掛け人は三成にほかならないという前提をひとくさり話した。

ここまでで、30分近くかかってしまったのが、三成ならぬ私の誤算だった。ほんの5分くらいのつもりだったのに……。
おかげで、本論部分に大きなしわ寄せが。
とくに、三成が決戦3日前に増田長盛に宛てた書状を詳しく検討する時間がなくなってしまった。

もうひとつのポイントは、三成と上杉景勝・直江兼続の間での共同謀議の有無の検討だった。
このなかで、両者の間の往復書簡のやりとりが、最低でも9回あることを確認した。もっとも、そのなかには偽文書ではないかとされるものも含まれている。
兼続宛て三成書状の2点がそうだが、真正の文書だとしてもおかしくないのではという話をした。
とくに書状中の用語について、先行研究が偽文書の根拠としているが、ほとんどが感覚的な批判にすぎず、三成の他の文書にも同じ言葉、あるいは似た言葉があることから、三成がよく使う言葉だったのではないかと指摘した。

結局、予定を20分以上オーバーし、さらにたくさんの質問があった。
とくに「なぜ偽文書を作る必要があるのか」という質問には、一瞬、どう答えたらよいものやら、言葉に詰まった。
考えてみれば、そうだよね。誰しも疑問に思うことだ。
個人的な考えとして、ある事柄の真相を追究するとき、たとえば、歴史家と小説家では史実のありように対する態度が異なるのと似ているのではないかという趣旨を答えた。
歴史家は真相がわからなければ、わからないとして結論を留保するが、小説家はそれに飽き足らず想像力の翼を拡げて、あえて結論を求めようとする。それは自分が満足できる結論だったり、多くの受け手が望む結論だったりする。偽文書はそのような史実の空白を埋めるために、小説家のような考え方をする者の人為的営為として、どこからともなく登場するのでは、とわかったような、わからないような回答をしたが、満足してもらえたかどうか。

次回は、徳川秀忠軍の動向についてやります。とくに本戦に間に合わなかったとされる「遅参」理由について。

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