歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
本日、小生が出演したBS11の番組「歴史のもしも」が放映されたようだが、観られる環境にないので観ていない。
もしご覧になった方がおいでなら、感想などお寄せ下さい。

そして本日の「篤姫」も未見。終日外出していたため、22:00のBS放映も観られなかった。
仕事が立て込んでいて、なかなか難しい状態です。
何とか立て直したいと思っています。

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【2008/08/31 23:48】 | 雑記
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拝見しました
野りんご
はじめまして。
昨日放送の「歴史のもしも」を拝見いたしました。
大変に興味深く、放送時間が短く感じられました。
もっともっと知りたい!と思いました。
歴史の授業で平面的に学習したことではなく、歴史上の人物たちが生身の人間として感じられたことが、最も楽しくわくわくしたところです。



桐野作人
野りんごさん、はじめまして。

さっそく感想を寄せていただき、有難うございます。
過分なお言葉で恐縮です。
1時間ではなかなか語り尽くせないテーマでした。

これからもよろしくお願いします。

再放送拝見
かわい
面白かったですよ。前に武田信玄が上洛に成功していたら(だったかな?)というテーマの回を観たことがあって、そのときも感じたのですが、民放の歴史番組では出色のできですね。「もしも」という色物な切り口から出発している割には、地味に史実を押さえたコメントでまとめてくるところに意外性があるのかもしれません。
桐野先生の秀逸で示唆的なコメントも非常に楽しめました。機会があったらまた出演してください。別なテーマも観てみたいです。

有難うございます
桐野作人
かわいさん、こんばんは。

ご覧いただいたようで、有難うございます。
お誉めの言葉を頂戴し、恐縮です。

次回があるかどうかはわかりません。
考えてみれば、最初に声をかけてもらったのは、このテーマではなく、本能寺の変がらみで、信忠が生き残ったらというものでした。
まことにコアなテーマで私も乗り気だったのですが、いかんせん、スケジュールの都合がつかず出演できませんでした。
そのうち、かわいさんも出たらどうですか?




ご参考になりましたら
宮の元婚約者・有栖川宮熾仁親王から高く評価され、勲章もらった無名の村長がいた。秋田の高橋正作。天保のききんで高橋正作は全私財を、なげうって食料を求め、村人を餓死から救った。時に院内銀山が燃料の炭不足で営業停止状態。正作は村人に炭焼きをさせ、銀山を復活。日本一の銀産出量を記録。文久3年、19歳の石川理紀之助が正作と出会い、人間の大きさに感激し、熱く師事。『村守る、命かけても 聖農・高橋正作・伝』秋田魁新報社TEL 018-888-1859


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第73回
―西郷との「関繋」背景に―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は村田新八がなぜ西郷と一蓮托生になったのかを書きました。
結論からいって、よくわかりません。

ご存じの通り、村田は岩倉使節団の一員として渡航しており、西洋文明の何たるかを肌身で感じた一人です。
また大久保利通との関係も良好で、村田の団員抜擢には大久保の意向が働いていたのではないかと思っています。
明治六年政変ののちに帰国した村田が西郷に会うといって帰郷するのを、大久保は必死になって止めていますが、無理でした。
おそらく、この時点で村田の心底は決していたような気がします。
しかし、史料上にはその間の事情はよく顕れないので、推測にすぎません。
親戚の高橋新吉に「西郷と大久保双方の意見を聴いたのち判断する」といった趣旨を手紙に書いていますが、おそらく大久保への配慮で、心中は決まっていたのではないでしょうか。

かといって、それが喜界島配流の一件で西郷との切っても切れぬ縁が生じたというのも、記事で書いたように決定的要因ではないような気がします。

村田は西郷に惚れ込んでいたのではないでしょうかね?

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【2008/08/30 11:27】 | さつま人国誌
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勝海舟と村田新八の関係
酒の神田屋
はじめまして。
突然のカキコミ、失礼致します。
「侍士の会」加盟店の、大阪の酒屋です。
桐野作人先生のことは以前より前畑さんから伺っておりまして、このブログも時々拝見しております。

早速で失礼ながらお伺い致しますが、今回取り上げていらっしゃいます村田新八が西南戦争で戦死したことを勝海舟が悲しみ、その死を大いに惜しんだという話は事実なんでしょうか?

喜界島
岩田商店・ビジネスホテル林
喜界島からです。
よろしく。

勝海舟の村田評価
桐野作人
酒の神田屋さん、こんにちは。

前畑さんとお知り合いでしたか。

勝海舟が村田の死を悼んだのは事実だと思います。
『勝海舟全集』のなかに「追賛一話」という記録があり、そのなかで、村田新八について次のように述べています。

「氏は暴徒にあらず、大久保に次ぐの人傑なり、不幸にして賊名を負ふて戦歿す、其書措くに忍びず之を附載す」

後段にある「其書」云々は、同全集の別のところに、村田からの書簡を掲載したという意味で、ちゃんと村田の勝宛て書簡の写真が掲載されています。


桐野作人
岩田商店・ビジネスホテル林さん、はじめまして。

村田新八ゆかりの喜界島から有難うございます。
喜界島の特産品、興味深いですね。購入したいのもあります。
私は喜界島には行ったことがないので、一度行けたらと念願しております。
地元の蔵元で、「村田新八」という銘柄の黒糖焼酎を造るところはないでしょうかね?


これは早速。。。
酒の神田屋
こんばんは。
早速のご回答、痛み入ります。

やはり事実だったんですね。
以前に日本テレビ系列の年末特番で、三浦浩一さんが演ずる村田新八がアコーディオンでフランス革命の凱歌(?)を演奏していたことを記憶していて、多彩な才能を持っていた人物なんだろうとは思っておりましたが、勝海舟にそこまで見込まれていたとはさすがですね。

これからも折に触れ質問させて頂くことがあると思いますが、何卒宜しくお願い申し上げます。

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歴史読本10月号が現在、発売中です。

小生の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第10回。
よろしかったら、書店でのぞいて見て下さい。

今回は、稲葉山城攻略まで書く予定だったのですが、犬山城攻めに思いのほか紙数をとられてしまいました。
信長の中美濃攻略は比較的手薄な部分で、注目度も低いので、むしろ、目新しいかもしれません。

とはいえ、連載も半ばに差しかかったというのに、まだ上洛まで辿り着いていません。
全体構成をいまのうちに確定しておいたほうがいいのではと思っているところです。

次回は稲葉山城攻略から足利嘉昭との出会い、上洛戦まで筆を進めたいものです。

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【2008/08/29 23:00】 | 新刊
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種子島、鹿児島から帰って、すぐまた京都と名古屋に出張で、更新もままなりません。
とりあえず、簡単な近況報告です。

8月27日(水)天晴
早朝、東京駅から京都へ向かう。
まず八条口から徒歩で、東寺に行く。
先日、「さつま人国誌」に書いた都城一番隊の6人が自害した薬師堂を訪れてみたいと思った。
有名な五重塔や金堂、講堂などを見学したが、肝心の薬師堂は境内の案内図のなかに見つからない。
それで、寺務所で尋ねてみたが、知らないとのこと。
結局、目的を達せられないまま、消化不良で終わった。
あるいは、塔頭のことだったろうか。資料はたくさんあったのに、事前の調査が不十分だったかもしれないと反省。

その後、太秦の広隆寺に行く。
目的はもちろん、アルカイック・スマイルで有名な弥勒菩薩半伽像。
わが国の国宝指定第1号である。
京都に住んだこともありながら、まだ未訪問だった。
弥勒菩薩半伽像は2体ある。あまり有名ではない「泣き弥勒」のほうもなかなかだった。聖徳太子の死を悲しんでいるものとか。

境内に桂宮院もある。
これは八角円堂で、法隆寺夢殿と同じ形だといわれるが、残念ながらこの時期は拝観禁止だった。

広隆寺の近くに木嶋(このしま)神社がある。
別名の蚕の社の名前が有名。
渡来氏族秦氏の氏神のひとつだが、ここで見たかったのは三角形の鳥居。
それは神社の奥まったところにあった。
この不思議な形をした鳥居は、夏至の日の出、日の入りを示すなど自然暦の機能があるという。
それだけでなく、三角形の軸線を伸ばせば、伏見稲荷大社や松尾大社など、秦氏ゆかりの神社と交わるという。
三角鳥居




その後、東福寺に移動して、秋の幕末京都ツアーの下見などをする。

そして、この日の最後は京都国立博物館。
某局の小松帯刀番組取材への協力である。
現在、京博では坂本龍馬展を開催している(月末まで)。
その展示のなかに、小松帯刀のことを書いた龍馬の手紙がある。
閉館後に、その撮影や解説などを行った。
不肖、私が解説者役となったが、やや緊張気味だったかもしれない。

展示中にもかかわらず、取材をお許しいただいたうえに、長時間立ち合っていただいた宮川禎一氏に感謝。
また、一日中、ガイド役をしてくれたHさんにも感謝。

夜は、居酒屋「龍馬」に行き、龍馬・お龍夫妻と再会。最近は毎月会っているような気がする。
宮川禎一氏、中村武生氏らがお越しで、また盛り上がった。


28日(木)小雨
朝10時前に堀川一条の小松帯刀寓居跡に向かう。
ここで、前日の撮影の続きを行う。
ここが小松邸であったことの説明や、この邸での出来事などを紹介する。
薩長同盟の締結の場にもなったことなども話す。
途中から雨が降り出して、メガネのレンズが濡れて、撮影も時間がかかった。

小一時間で撮影は終了し、京都駅に急ぐ。
名古屋に向かう。
栄・中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」第5回に出講。
今回のテーマは「徳川秀忠の遅参
秀忠が信州上田城攻めにこだわったために決戦に間に合わなかったという通説がおかしいことを指摘するのが眼目。
私の講座にしては珍しく、史料が少なかったためか、10分ほど残して終わった。
その分、質問時間を取ったところ、たくさん質問が出てよかった。
みなさんの関心のほどがうかがえて有意義だった。

いよいよ、10月講座
「本能寺の変を読み解く―信長・光秀・利三の葛藤―」
が始まります。
詳しくはここをご覧下さい。「10月スタートの新講座はこちら」をクリックし、【歴史】のカテゴリーのなかに私の講座の詳しい内容がご覧になれます。
10月から第4木曜日午後1時から6回開催です。
東海圏にお住まいで興味のある方はご参加下さい。

それから、知り合いの受講者数人とお茶したのち、帰京。
大雨のため、新幹線のダイヤが大幅に乱れていたが、個人的にはそれほどストレスもなく帰りつくことが出来た。

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【2008/08/28 21:25】 | 日次記
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今回もお疲れ様でした。
木暮兼人
徳川秀忠が遅参した理由について
ドラマや小説で定説となっていたことが
実はある一方的な史料しか根拠がない
ということを桐野先生は伝えかったのだな、と感じました。
このあまりにも有名なエピソードを記している
史料があまりにも残っていないことも衝撃的ではありましたが・・・

秀忠側の徳川家の史料なので、いままであまり深く考えられずに鵜呑みにされてきたのでしょうか。

東京まで無事にご帰宅されて幸いです。
あの後の名古屋は大変ひどいことになってしまいましたので・・・
今年の夏は何が起こるかわかりません。



無事帰京
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

一昨日はお疲れさまでした。
帰りの新幹線は1時間以上遅れていたので、チケットを早めのものに変更したのが幸いしました。途中で止まったり減速することなく、東京に着きました。

それにしても、あの日夜、栄が水没したというのは本当なのでしょうか? 恐ろしいですね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第72回
―卑怯な逃走疑われ自刃―

出張中だったため、連載の更新をお知らせするのが遅れました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、私領一番隊(都城で編制された120人)に属した6人の悲惨について書きました。
私領隊は戊辰戦争で、1番から5番隊まで組織されました。
私領とは、「一所持」と呼ばれる門閥層のことで、私領隊はその家来たちで編成されています。
一番隊は都城島津家の私領(現・宮崎県都城市一帯)に居住する武士団(私領士)から成っていました。

戊辰戦争では、薩摩藩の軍事編成は家格別に行われました。
城下○番隊、外城○番隊、兵具隊(足軽・与力の部隊)といった具合です。

この事件はまったく不幸な不期遭遇でした。
新選組が御香宮に集結していたのは戦意の旺盛を感じさせます。
数日前、近藤勇が狙撃されて負傷し、その報復に燃えていたのかもしれません。

また陪臣から成る私領隊ゆえ、薩軍指揮官から多少差別的な扱いされていなかったのかどうか、そのあたりも事件の背景にないのかという気もします。

大河ドラマ「篤姫」も鹿児島でほぼ観ましたので、近いうちに感想をアップします。
ほかにも、歴史読本の連載の紹介とか、種子島の報告とかも考えております。

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【2008/08/26 08:02】 | さつま人国誌
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本日から、種子島、鹿児島に出張です。
帰京は25日夜の予定です。

【2008/08/22 09:25】 | 雑記
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毎週の楽しみ
いとう
毎週土曜は「さつま人国誌」の更新日。今回は、「都城一番隊6人の悲劇」。ご当人のコメントがないのがさみしい。明日の篤姫もしかり。

冗談ですが
アリア・ヴァレリ
桐野家の鹿児島御留守居は猫ですか?

訂正
アリア・ヴァレリ
じゃなくて桐野家宅の御留守居でした

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種子島行きを明日に控えているにもかかわらず、済ませておかなければならない仕事や雑用が山のようにある。
どう考えても時間的に終わりそうもない。もしかしたら、数日不義理する関係者の方があるかもしれません。お許し下さい。

そんなあわただしいなか、ブログ経由で1通のメールが飛び込んできた。
南日本新聞に連載した過去のこの記事を読まれて居ても立ってもおられず、書かれたらしい。
しかも、80歳をだいぶ超えられている方。

西郷隆盛の孫で神宮のスターだった西郷準氏が出征するとき、学生時代の友人だった彼女は東京駅まで見送りに行かれたそうである。そのとき、準氏と握手したのが今生の別れだったとか。
戦後、鹿児島に何度か行ったけれど、遺族やお墓の場所もわからぬままだったそうだ。

そしたら、私の記事をご覧になって、もしかしたら遺族やお墓を知らないかという問い合わせだった。
何とかお墓参りをしないことには、心の決着がつかないとの仰せ。

私から、思い当たる先をお教えした。
朗報があって、彼女の念願が達せられることを祈るばかりである。

じつに、60数年間抱きつづけた思いの丈である。
このブログが少しでも役立ったらうれしいかぎりだ。

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【2008/08/21 23:18】 | 雑記
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びわこ
桐野さん、いい仕事されてるわ。

彼女の思いが叶えられますように・・・

太田浩司さんと
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

この話は急展開しそうです。
西郷準氏の墓も今日見つけてきました。

先週末から3日間、種子島に滞在しましたが、長浜の太田浩司さんとずっと一緒でした。びわこさんの話題も出ましたよ。
鉄砲祭りには全国から20数団体が参加し、国友鉄砲隊も活躍していました。


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本日夜、小学館古文書講座「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩3」に出講。

今回は、薩長同盟というよりは、第一次征長の処理を通じて、薩摩と長州の人的な交流が拡大し、深化するプロセスを見ていった。
時期は、元治元年(1864)12月から翌慶応元年3月あたり。

征長軍参謀の西郷吉之助が小倉から下関に渡海し、長州藩諸隊の隊長数人、五卿警固の忠勇隊の中岡慎太郎たちと会見したことを確認。
どのような話をしたか不明だが、五卿の処遇をおろそかにしないと確約したと思われる。これを機に、中岡や土方久元はすっかり西郷寄り、薩摩寄りに転身し、会見から2カ月後には、薩摩藩士の吉井幸輔と同船して上京し、薩摩藩邸で生活するという変わり様である。
犬猿の仲だった薩長の間を土佐系浪士たちが仲介したと考えて間違いないだろう。またある時期まで筑前藩の尊攘派(月形洗蔵・早川養敬など)の奔走も大きいが、惜しいかな、同派は筑前藩の内訌によって潰滅してしまう。

また、鹿児島から上京する途中の大久保一蔵が博多で、中岡慎太郎に会っていることはあまり知られていない。このこともまた、薩長同盟成立を考えるうえで無視できない。中岡は元治元年暮れから翌慶長元年初頭にかけて、西郷、大久保、吉井、税所篤、内田仲之助など薩摩藩要人と会っている。この人脈もまた無視できない。

今回扱った史料で一番面白かったのは、土方久元『回天実記』だった。
中岡と一緒に上京した土方は、いろんな人物と会っているが、中村半次郎(のち桐野利秋)とも意気投合し、中村を「この人、真に正論家、討幕の議を唱る事最烈なり」と高く評価している。

ほかに面白かったのは関白二条斉敬の意外なほどの剛直ぶり。
小松の出番が少なかったので、『吉川経幹周旋記』に収録されている吉川経幹宛ての小松書簡を紹介した。そのなかに使者となった吉田清右衛門が吉川家側に語った話が同書に記録されている。

長州藩が屈伏したことにより、幕府内の強硬派が再び勢力を盛り返し、征長軍が取り決めた比較的穏便な長州処分をひっくり返すために、老中阿部正外・松平宗秀が幕府の伝習歩兵隊3000人を引き連れて入京してくる。毛利父子と五卿を強引に江戸に召還するとともに、返す刀で一橋慶喜(禁裏守衛総督)と松平容保(京都守護職)を罷免して、これまた江戸に召還して一会桑勢力を解体し、京都を幕府直轄にしようという企てだった。

それを一喝したのが二条関白である。
2人の老中が文久2年(1862)にいったん廃止した参勤交代を復活させると主張したのに対し、二条関白がそれを提案したのは誰かと尋ね、老中松平宗秀だとわかると、次のように啖呵を切った。

「二条殿以ての外の顔色にて、そなたの首を斬るは安き事なれ共、壱人の首は刎ねても無益の事に候、爾後は急度天意遵奉致し候様にと仰せられ候処、両閣老共低頭銘肝仕り候との対へ(答え)の由」

老中に対して、「おまえの首を斬ってもかまわないのだぞ」と恫喝する関白など、徳川開幕以来、初めてのことで、2老中は青天の霹靂だったに違いない。
憶病で武家の言いなりという通説的な公家のイメージは修正されるべきである。

二条関白が慶喜・容保を罷免しようとする江戸の幕閣から守ったことにより、結果として一会桑勢力の後見人になる道筋が見えてきた。これに朝彦親王が加わる。

あと、高杉晋作の功山寺決起に反対して失脚し、出奔したとされる赤根武人(奇兵隊隊長)が、功山寺決起から2カ月ほどのちに、薩摩藩の吉井幸輔、中岡慎太郎、報国隊長の原田順次などとともに、「薩長和解」の議論に加わっているのも確認。
赤根の失脚・出奔はこののちのことなんだろうか? そこまで調べる手が回らなかったが、通説とは違うような気がする。

次回は、薩長同盟の具体的な進展を見ていく。
・大久保利通の有名な「非義の勅命は勅命にあらず」も薩長同盟と関わっていること。
・坂本龍馬がその文言が書かれた書簡をもって長州に下り、広沢真臣と会うこと。
・小松帯刀が長崎で上杉宗次郎の要請により、伊藤俊輔・井上聞多に軍艦・武器購入の段取りをつけること。
・毛利父子が島津父子に和解の書簡を送ること……。

などを見ていきたい。

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【2008/08/20 01:24】 | てらこや
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電子辞書を買ったので、機能を試しがてら、気になった言葉をよく調べている。

誰でも相性の悪い言葉や覚えにくい言葉はあると思うが、最近、思い知らされたことがある。出講している古文書塾「てらこや」で、いろいろな文書を読んでいるときに頻出して頭が混乱したのが、表題の2つの熟語。

だいたい、どちらも詠みが難しい漢語で、意味も何となく似ている。だから、すぐ詠みが出てこなかったり、両者の意味を混同したりすることもしばしば。
この際、脳裏に刻み付けようと思って書いている次第。


荏苒」は「じんぜん」あるいは「にんぜん」、
苟且」は「こうしょ」
と読む。

電子辞書(大辞林)では、次のような意味である。

荏苒:①歳月が移り行くままに、何もしないでいるさま。②物事がはかどらず、のびのびになるさま。

苟且:当座をしのぐこと、間に合わせ。


「てらこや」で読む文書では、建白書や檄文の類によく出てくる言葉。
たとえば、長州の尊王攘夷派が攘夷に不熱心な幕府を責め立てる建白書のなかで、

「公儀は荏苒のまま日を送っていて、因循極まりない」

とか、

「横浜鎖港は攘夷の精神にもとり、一時、苟且するのみではないか」

といった具合に使う。

いま自分で書きながら、すでに頭が混乱していて、どれがどの意味だったかわからなくなって、電子辞書を見ている体たらく。まさに「苟且」である。

ひるがえって考えてみれば、

最近の自分の仕事ぶりも肝心のことが出来ないまま日を過ごしている状態はまさに「荏苒」である。

そして、眼前の締切にあわてふためているさまは、まさに「苟且」である。

という風に覚えれば、今度こそ大丈夫かな?

でも、どちらも互いに置換可能な言葉のような気がするけどね。
うまく覚えられる秘訣はあるのだろうか?
ただ、記憶力が劣化しているだけだろうというツッコミはなしということで(爆)。

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【2008/08/18 21:09】 | 雑記
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漢語
wada
「・・・苟且偸安を事とせり」の一節を思い出しました。2.26事件の決起趣意書の一部でした。つい何十年か前まで、日本人は漢学の素養が深かったんだなあと思います。


苟安
桐野作人
wadaさん、こんにちは。

2.26事件ですか。
すごいところから事例が出てきますね。

「苟安」という言葉もありますが、「苟且偸安」を略したものでしょうかね。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第33回「皇女和宮」

ドラマの進行時点は万延元年(1860)3月から10月頃。

前回分の補足です。
大老・老中たちが咸臨丸に乗る木村喜毅と勝麟太郎を西ノ丸で引見したのは不思議だと書きましたが、真相がわかりました。

安政6年(1859)10月17日、やはり江戸城本丸は焼失しておりました。
「昭徳院御実紀」(家茂の伝記)によれば、将軍家茂・天璋院・本寿院は西ノ丸に移ったとあります。
西ノ丸は将軍世子や大御所の居住空間ですが、この時点ではどちらもいないので、移転は都合がよかったと思われます。

ドラマでは、大事件にもかかわらず、まったく触れていませんでしたね。こちらもうっかりしていました。
余談ながら、天璋院の愛猫サト姫も管籠に入れられて一緒に避難したのでしょう。

さて、今回は何といっても、和宮の登場がハイライトでしたね。
井伊大老による戊午の密勅への報復から悪化した公武関係を修復する有効な手立てが和宮降下でした。
関白九条尚忠がその件を孝明天皇に奏上したとき、7代将軍家継の先例に触れていました。聞き逃した方も多いのではないでしょうか。
孝明天皇の典侍の庭田嗣子が天皇家と武家との縁組など先例もなくとんでもないと反対したのに対して、九条関白が先例があるとして持ち出してきたのが、将軍家継と婚約した八十宮(やそのみや)のことです。
八十宮は霊元天皇の姫宮で、家継と婚約したとき、わずか3歳。家継も8歳と幼少でした。
結局、婚約からわずか3カ月後に家継が死去してしまいますので、八十宮は御台所ではなく、御簾中の身分に留まったようです。八十宮はそのまま故・家継夫人として45歳で他界しています。

九条関白はこの先例を持ち出して、和宮降嫁を天皇に迫ったというわけです。
のち文久2年以降、攘夷運動が激化したとき、和宮降嫁は幕府の「不敬」であるという論理が持ち出されてきますが、八十宮の縁組という先例があったのに、攘夷派には都合が悪いので顧みられることはありませんでした。

岩倉具視が和宮降嫁を推進する人物として描かれていました。
間違いではありませんが、むしろ、中心人物は議奏(権大納言)の久我建通(こが・たけみち)だといわれています。久我氏は清華家(摂関家の次)と家格が高く、公家のなかで村上源氏の氏長者でもあります。岩倉氏も村上源氏の一員で、久我氏とは同族です。

のちに、攘夷派から「四奸二嬪」(しかんにひん)として排斥されることになる久我建通・岩倉具視・千種有文はみな村上源氏です。和宮降嫁は村上源氏グループによって推進されたといえましょう。

なお、片岡鶴太郎演じる岩倉具視が、孝明天皇に和宮降嫁を実現して幕府に恩を売るのがよい、その代わり鎖国攘夷を誓約させましょうと献策していました。

これはその後の展開にとって、非常に重要です。ドラマでも、それを受けて老中の安藤信正が7年から10年のうちに攘夷をすると約束した、でも詭弁ですと、天璋院に言い訳をして一喝されていましたが、これがのちに幕府に、とくに将軍家茂に祟ります。
文久2年(1862)、上京した家茂は朝廷から攘夷決行を誓約させられました。その根拠はこのときの誓約だったからです。

何回かあとのドラマで、天璋院がわが子のように可愛がっている家茂を苦しめたのは、あのとき老中どもが出来もしない攘夷を安請け合いしたからだと憤慨する場面が見られそうですね(笑)。

和宮は婚約者の有栖川宮熾仁親王との仲を引き裂かれて、関東に下ることを渋々承諾させられますが、典侍の庭田嗣子が自分も一緒に関東に下ると申し出ていました。嗣子は先代仁孝天皇の典侍でしたが、孝明天皇のたっての願いで、後宮女官の輔導を命じられた人です。
ドラマとは実際は少し違うようで、孝明天皇が和宮の輔導として関東下向を依頼したのに、嗣子は再三辞退し、ようやく引き受けたというのが真相のようです。

ところで、和宮降嫁に伴い、天璋院が薩摩に帰るという話が出ていました。
ドラマでは、幕府の要請で、薩摩藩家老が伺書を提出したという設定になっていました。
一瞬だったのでたしかではありませんが、伺書には「島津石見」という署名があったような。
これは江戸詰の家老でしょうね。島津石見というのは、都城島津家の島津石見久静、あるいは敷根家の島津石見久浮などがいますが、都城島津家は格式が高いので、家老職には就かないと思いますし、敷根家の久浮は天保年間の家老ですから、時代が違いますね。
この頃の江戸詰家老は日置家の島津左衛門久徴か、川上式部久美あたりかなという気もしますが。

里帰りの話を聞かされた天璋院が「私が島津の分家の出だからか」と反問しておりました。
これはおかしいです。養父島津斉彬はあくまで篤姫を実子として幕府に届け出ていますから、斉彬の苦労を無にするような、分家の出だとは決していわないはずです。

それで、この時期、天璋院の里帰りの話があったのかどうか、薩摩藩側の史料にはなかったような気がしていたのですが、徳永和喜氏『天璋院篤姫』(新人物往来社)のなかに、『玉里島津家史料』一に風聞書として収録されているという指摘がありました。
それは「久光公入京ヨリ寺田屋事変迄ノ風聞書」というもので、次のような記述があります。、ただし、文久2年頃の風聞で、時期が少し遅いです。久光が率兵上京して、近衛邸で中山忠能・久我建通・正親町三条実愛らと会見したときに、近衛忠房らから告げられたことのひとつとして、

「第一は天璋院の儀は、何分卑賤の娘にて、一旦近衛殿御養女とは申しながら、一天万乗の至尊の御妹を子と仕る儀、冥加に背き、何とも申し上げようもこれなく、既に去春公辺え歎願致し、里方え引き取り、隠居致させ申すべき段申し立て候えども、取り用いこれなし」

つまり、天璋院は身分が低いので、天皇の妹君を子とするのは恐れ多い。だから、去年春、幕府に対して、天璋院を島津家で引き取り隠居させたいと申し出たけれど、幕府からは沙汰がなかった、ということのようです。

時期が1年ほどずれていますが、ありえた話かもしれません。
これは、公家方から島津家に対する圧力という関係になっていますね。和宮と天璋院の著しい身分差を何とかしろ、和宮が天璋院の(義理の)子という関係は朝廷としては耐えがたいということでしょう。

これに対して、久光も島津家でも和宮が下向してからというもの、「寝食不安」「昼夜恐惶」というありさまで、このままでは「神罰空おそろしく」、まず天璋院を近衛家に引き取ってもらい、その後、島津家側に返してほしいと申し入れたとあります。

また、三田村鳶魚『御殿女中の研究』にも、似たような史料が収録されています。鳶魚は「公秘録」(おそらく幕府の史料でしょう)で見たと書いています。
それは「薩州家より申上候書付」というもので、差出人は島津修理太夫(茂久)。日付は「申十二月」とありますから、万延元年12月で、和宮降嫁が決定した同年10月の直後だということになります。

その一節には「天璋院様御事、そのままに在らせられ候ては、朝廷に対し奉り、拙者において恐怖至極に御坐候」とあり、天璋院を「御里方え永の御滞留」させたいと書いています。「御里方」と敬語が使われているので、これは近衛家のことですね。

上記の風聞書の趣旨とよく似ていますから、風聞書の記述も満更ではないようです(ただ、近衛家への長逗留とあり、薩摩に帰るとは書いてないですが)。

ほかにも、島津忠教(のち久光)に大久保正助が拝謁した一件も触れたかったのですが、長くなったので、この辺で終わりにしておきます。

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【2008/08/17 23:35】 | 篤姫
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日次記です。

8月15日(金)丁亥、天晴
63回目の敗戦記念日。
電子辞書購入。
これまであまり必要を感じていなかったが、優秀な国語辞典ソフトが付属していたPCを変えてから、いちいち日国(小学館の日本国語大辞典)を引くのが面倒でしかたがない。やはり手許にあったほうが便利だと思うようになった。いろいろ機能を試しているところ。

某TV局の某企画に協力している。
各方面から支援が得られてうれしい。
その関係で、また京都に行くことになった。

16日(土)戊子、天晴、夕方お湿り
幕末期肥後細川藩のある代官の日記をネット古書店に注文していたが、売り切れてしまったとの知らせ。以前、版元から新刊案内をもらっていたのだが、購入するかどうかを迷っているうちに失念してしまっていた。

アマゾンその他で探してみると、今年刊行の本なのに古書で定価の3倍近い値がついていたり、品切だったりで、愕然とする。
そしたら、紀伊國屋書店のBookWebに在庫があることがわかった。もちろん定価で買える。同店の会員ではなかったが、さっそく会員登録して購入。ホッとした。
じつは内容は見ていない。パンフレットの目次構成を見ただけだが、幕末細川藩の政情がうかがえるし、隣の薩摩藩の情報も少なくないようだったから、購入することにした。

豊臣大名だった伯耆南条氏についての論文(70年代から07年まで)をいくつか入手。地元の研究者である日置粂左エ門氏の論考が多い。
知りたかったのは、織田権力末期、天正7~10年頃の南条氏の動向だが、どれにもぴったりするものがなかった。やはり、史料の空白期なんだろうか。この時期は、南条氏が毛利から離反して織田に乗り換えた時期でもある。
余談だが、日置氏の下のお名前は、論文に粂左衛門と粂左エ門の2つがあったが、どちらが正しいのだろうか?

雑誌原稿で西南戦争について書いている。
暑さのせいか、能力不足のせいか、なかなか筆が進まない。
熊本城天守閣の炎上について、自焼説や放火説などがある。
熊本の青潮社が10年ほど前に刊行した『明治十年騒擾一件』のなかに、この事件に関して、熊本鎮台側の放火説を裏づける史料が掲載されていたはずだと思い出して探してみた。
最近の先行研究で紹介があるだろうと思って、いくつか単行本や新書を見てみたが、どれにも触れられていないことに気づく。

この史料本は、大分県の警察の署員たちが情報収集した報告や電報が多数収録されていて、A5版で600頁もある大部なもの。そのなかから探さないといけないのかと思い、愕然とする。
しかたなく頁をめくってみると、全体の3分の1あたりのところで見つかってホッとする。
ただ、該当個所を読んだが、「放火」としながら主語が明確ではないなとも思う。決定打なのかどうか。

青潮社は地方出版社の有力なひとつで、店主の高野和人さんは有名な方。
以前、ネットで高野さんの縁者の方と知り合ったこともあった。最近、新刊が出ていないような気もするが、その後、お元気で仕事をされているのだろうか?

今月下旬のスケジュールを確認していて、冷や汗が出る。
雑誌その他の原稿(依頼や連載など)がふだんより多いだけではない。鹿児島・種子島、京都、名古屋への出張があるし、秋の江戸ツアーや京都ツアーの下見や案内原稿など目白押しで、最近の仕事ぶりでは到底こなせそうもないことがわかった。
どうする、どうする。焦るばかりだ……。

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【2008/08/17 09:37】 | 日次記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第71回
―「薩の両立」解消されず―

連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすると、ご覧になれます。

今回は、いわゆる明治六年政変後の分裂した薩閥の動向に焦点を当てました。
吉井友実がスイス滞在の大山巌に宛てた書簡で、政変後に大久保を中心とする東京組と、西郷を中心とする鹿児島組に分裂した状態を「薩の両立」と表現しています。

ぴったりする言葉だと思うのと同時に、この分裂を危惧する薩摩人が少なくなかったことを示しています。
西郷・大久保の双方と仲がよかった吉井などはその典型ですが、ほかにも、黒田清隆や川村純義なども西郷の復職を望んでいました。
黒田・川村は政変では大久保側についていますが、必ずしも大久保と同じ考えをもっていたわけではないようです。また台湾出兵についても、西郷従道は積極派兵論でしたが、大久保は自重論でした。一枚岩に見える大久保派内でもその対外路線はかなり異なっています。

一方、西郷にしてみれば、いわゆる「征韓論」であれだけ対立したのですから、何らかのきっかけがなければ、再上京するはずがありません。
そこで、黒田や川村は折からの台湾出兵を契機として、征台論に基づいて薩閥の再結集を図ろうと考え、政府に建白書を提出しています。それは来るべき中国との戦争で、西郷を総司令官として迎えるというものでした。

折から、大久保は全権大使として北京に乗り込み、台湾問題の談判に臨んでいました。
黒田・川村らは大久保の談判が失敗し、中国と臨戦状態に入ると予想しており、そうなれば西郷の出番だと考えていたのです。
しかし、大久保の粘り腰が功を奏して停戦合意に至り、賠償金まで獲得しました。対外戦争の危機は去り、黒田・川村らの目論見は潰えました。

こうして、「薩の両立」を解消する動きは頓挫してしまいます。
そこから、西南戦争開戦まではまだ距離があるのですが、「薩の両立」から「二つの薩の激突」を回避する術がなくなってしまったのもたしかです。

薩の両立」はいわゆる「征韓論」が直接のきっかけとなったのは間違いありませんが、その根底には何があったのか。「征韓」か「遣韓」かという単純な二項対立の議論だけでは解けないような気がしています。
西郷・大久保だけでなく、黒田や西郷従道などを含めた薩閥の主要人物の対外観や対外政策の違いをより具体的に見ていく必要があると思っています。

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【2008/08/16 10:39】 | さつま人国誌
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大山巌に絡んで
アリア・ヴァレリ
大山巌は西郷隆盛の従兄弟で有名ですが、その祖父は江戸芝の御広敷用人(つまり一代小番)で、曾祖父は「文化朋党実録」にも名がでる側用人兼串木野地頭ですが、やはり巌の渡欧中の大山家文書の散逸のせいか「元帥公爵大山巌」でも詳しい話がでないですよね。芝藩邸の御広敷用人ということは斉彬の正室付きだった可能性もあるんですが・・・。あと巌の父は史料が少ないせいで個人的にはただの砲術マニアにしか見えませんが・・・。「元帥公爵大山巌」の綱昌の遺言を見る限りではそうとうな砲術好きですよね。

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日次記です。

8月13日(水)乙酉、天晴
共著本の校正に四苦八苦。差し替え分原稿の構想がまとまらず。ほかにも微調整すべき部分、多々あり。頭を抱えたまま、別用をせねばならず、苦吟。
ここ数日、ある論文コピーを探しているが、まだ見つからない。連作もので、心当たりのところは全部探したが出てこない。途方に暮れる。どこに紛れ込んでいるのだか……。

8月14日(木)丙戌、天晴
篤姫の江戸バスツアーの下見の日程確認の電話あり。
夏場の下見は気が重い。はあ。

午前中に何とか連載原稿を脱稿。最初の構想から視点を変えた。よかったのか悪かったのかわからない。

昼前、都内大手町へ。今和泉島津家の縁者の方と昼食を兼ねて懇談。
商社マンとして世界を股にかけた方で、話がとても面白い。
今和泉家では、男が料理を作る伝統があったという話。
祖父が酒寿司(鹿児島特有の寿司)を作っていたそうな。

あと、薩摩藩における鉱山経営の話も拝聴。
地質学を専門にされているらしく、その方面の話がとくに興味深かった。鹿児島の菱刈金山の金産出量は佐渡金山より多かったという話を聞く。
確認してみる必要があるが、本当なら意外な事実である。

ほかにも、話題が豊富な方で、時間が経つのも忘れるほど飽きなかった。
貴重な出会いだった。

猛暑だったのと、昼間からビールを呑んだせいか、夕方以降はバテてしまった。

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【2008/08/15 09:05】 | 日次記
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調所
お早うございます。私も笑左衛門の遺骨を鹿児島に里帰りさせる時に菱刈・永野あたりをうろうろしたのですが、その時の山ヶ野金山パンフレットには最近のデータとして、金産出量一位・菱刈121トン 二位・佐渡82.9トン 三位・山ヶ野80トン と出てます。また、永野で出会った老人は先日も台風のあと、川でとじ金(鉱石の中に金粒が詰まってるもの)を拾ったと申しておりました。

菱刈金山
桐野作人
調所さん、こんにちは。
佐渡金山は明治初年に閉鎖されたような記憶がありますが、菱刈金山の産出量には明治以降の産出分も含まれているのではないでしょうか。
明治以降、金の析出技術が進歩したことで、江戸時代よりはるかに効率的に金を産出できたのはないかという気もします。
それでも、佐渡金山を上回っているというのはすごいことで、もっと名前が知られてもいいはずですね。
その方の話によると、菱刈金山はまだまだ埋蔵量が多く、100年くらいは掘れるとのことでした。串木野はもう枯渇したそうですが。



調所
佐渡は現在取ってないのですか。ご教示有難うございます。では明治以降の分でかなり差をつけたんでしょうね。その老人も、先祖は大分から金山掘りにやって来た者で、江戸期に単独鉱山ではなく薩摩全体で佐渡より多かったのだと自慢しておりました。


ばんない
「菱刈金山」自体の歴史は1980年代になってからじゃなかったでしたっけ。
あの相場師・故是川銀蔵氏とも関係があったみたいですね。ただ、金山の持ち主の某元財閥の方が上手だったようですが。

佐渡は今でも観光客イベントで砂金取り体験ショーはやってるようですが、なかなか取れないそうで(苦笑)

江戸時代から
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

金山は知らないもので、いろいろ有難うございます。
住友金属が経営する菱刈金山は比較的最近になって操業したようですが、江戸時代中期あたりから一応あったみたいですね。
安易なネット情報ですが、

http://www.pref.kagoshima.jp/pr/gaiyou/itiban/shizen/hishikari.html

今和泉家ネタ
アリア・ヴァレリ
今和泉家当主の島津忠厚の出自は薩摩藩七不思議のひとつに思えますが・・・

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昨日、表題の本と、復刻版『大久保利通関係文書』全5巻がマツノ書店から送られてきた。

相楽総三史料集






とくに表題の本の刊行は重要だろう。
編者の西澤朱実さんの執念がようやく実った。
手伝った者として、私もとても喜ばしい。

写真を載せておきましたが、堅牢な函入りで、厚さ5センチもある立派な史料集である。
もちろん、内容もすごい。これまでの相楽総三・赤報隊研究を一躍前進させる可能性を秘めている。

思えば、赤報隊事件は家永裁判の論点のひとつとなり、その結果、従来の官製の維新史観がある程度修正され、歴史の教科書にも記載されるようになった。

それから、「年貢半減令」の評価をめぐって論争がくり広げられたが、この史料集の刊行によって、論争は新たな段階に入るのではないかと思われる。

個人的には5年近く断続的に関わった本なので、感慨深い。
相楽や赤報隊など草莽隊に関心を持つ人や、幕末維新史研究者には必携の史料集となるだろう。

関心のある方はマツノ書店のサイトをご覧下さい。

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【2008/08/13 09:22】 | 新刊
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昨日の「篤姫」感想で書き忘れたことがありましたので、補足します。

将軍家茂と天璋院が咸臨丸に乗り込む木村喜毅・勝麟太郎を引見した場面。
勝が薩摩に行き、養父斉彬に会ったという思い出話をして、天璋院を喜ばせていました。

これは史実です。
安政5年(1858)3月15日、勝は長崎から幕府の伝習艦「咸臨丸」で薩摩半島南端の山川港に来航しました。咸臨丸は長崎にある幕府の海軍伝習所の遠洋航海伝習の一環として、九州巡航に出て、その途次、山川に立ち寄ったものです。勝は艦長でした。

咸臨丸の乗組員は120名ほどで、そのほか19名のオランダ人も混じっていたと、『新納久仰日記』にはあります。
主な乗組員は、勝のほか、木村喜毅・榎本釜次郎(武揚)・松本良順・沢太郎左衛門・肥田浜五郎・赤松大三郎など、幕府海軍の有力な人物がいます。

このとき、島津斉彬は指宿の二月田(にがつでん)の温泉(島津本家御用達)で湯治中でした。それというのも、勝から事前に入港を知らせてあったので、近くの温泉で待っていたようです。

同日、斉彬は山川に赴き、停泊している咸臨丸に乗り込みます。
「勝義邦紀事抄」(「汽船観光丸山川港ニ来ル、斉彬公臨覧始末」 『斉彬公史料』三所収)によれば、勝は斉彬との出会いを次のように書いています。

「時に侯(斉彬)同温泉に浴す、余(勝)の至るを聞き、単騎来接、甚だ喜色あり、懇切優渥、余其の知遇の辱さ(かたじけなさ)に感ず」

斉彬が単騎でやってきて喜色満面だったというのですから、よほど待望していたのでしょう。斉彬は非常に親切で懇ろだったので、勝も感激したと書いています。

そして、斉彬は勝に「今後、国事に関係することは書簡であなたと相談したい。(このことは)他人に知らせないでほしい。あなたが猜疑されることを避けるためです」と申し入れたという。
斉彬は勝の人柄や見識にほれ込んだようです。

翌16日夕刻、咸臨丸は錦江湾を北上して鹿児島に入港します。
斉彬は再び乗艦します。そして、勝に「弊藩では大禄を食む者が20数家あるが、ほとんど藩外に出たことがない。差し支えがなければ、その見識を拡げるために艦内に呼び寄せたいが、いかがか」と尋ねました。20数家とは、一門四家と一所持を合わせたものですね。ちょうどそれくらいの家になります。
勝は承諾します。すると、続々と一門・重臣たちが乗艦してきました。斉彬はそのなかで、ある人物を勝に紹介します。

それは島津周防。一門四家のひとつ、重富島津家の当主だった久光(当時は忠教)のことです。斉彬は久光を次のように紹介します。

「これ、島津周防(久光)と称する者、実は我が弟也、彼若年より学を好む、今に到り博聞強記、我が及ばざる所、またその志操方正厳格、これもまた我に勝れりと」

斉彬は弟の久光を絶讃しています。学問に優れ、品行方正だと評しています。

翌17日、勝一行は上陸して、磯御茶屋(現・仙巖園)や集成館を見物しています。斉彬は自ら乗馬で家来たちを率いて、勝一行を案内し、薩摩藩の銃隊の操練を勝一行に見物させています。ほかにも造船や大砲について、オランダ人に質問攻めにしたようです。

それから数カ月後に斉彬は急逝します。
その悲報に接した勝は「百事瓦解、大志何れの日か達せむ哉、嗚呼天なる哉と、余もまたこの告を聞きて慨嘆数刻」と、斉彬の死を悲しんでいます。


とまあ、斉彬と勝の間にこのような親密な交流があったことを念頭におけば、ドラマで勝が天璋院に親しげに話しかけたのも、むべなるかなですね。

ちなみに、勝家には斉彬から拝領した薩摩焼(白薩摩)の名品が伝来しています。鋭い目をした鷹を焼いたものです。

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【2008/08/11 23:33】 | 篤姫
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NHK大河ドラマ「篤姫」第32回「桜田門外の変」

ドラマ進行時点は、安政6年(1859)11月頃から同7年3月3日。
桜田門外の変のときはまだ安政7年で、3月18日から万延に改元されます。

オリンピックの柔道が気になりましたが、こちらも「役割」を果たさなければならないもので、BSではなく地上波で見ました(笑)。

今回は桜田門外の変というクライマックスを中心に、咸臨丸や勝麟太郎の登場、誠忠組の結成など、見どころが多かったですね。

まず、咸臨丸の一件です。
将軍家茂が咸臨丸の太平洋横断に非常に関心を示して、関係者を引見することになり、家茂に天璋院が同行しました。井伊大老が同座し、軍艦奉行の木村摂津守喜毅(1830~1901)と勝麟太郎(1823~99)の2人が祗候しました。

まず、咸臨丸の太平洋横断の目的ですが、これは安政5年(1858)6月に調印された日米修好通商条約の批准式をワシントンで行うことになったため、その使節団派遣の随行として咸臨丸が渡航することになりました。

勝の役職について。
ドラマでは、木村が勝を軍艦操練所教授方頭取と紹介していたでしょうか。それならほぼ正確です。幕府の人事記録である『柳営補任』によれば、勝はこの頃、「大御番白須甲斐守組、御軍艦操練所教授方頭取」でした。一応、大番組に属していたんですね。
名乗りが麟太郎という通称だったのも正確です。勝安房守と名乗るのは軍艦奉行となった元治元年(1864)からです。
少しおかしかったのは、木村と勝の年齢でしょうか。木村が勝よりもずっと爺さまに見えましたが、木村は31歳、勝は38歳と、勝のほうが年上です。木村は天璋院より5歳年上にすぎないのに、かなり年上に見られて可哀相でしたね。

肝心な点ですが、この対面の儀式はフィクションでしょう。
もっとも、これに似た儀式はありました。木村や勝など遣米使節の正使・副使(6人か)が城中西ノ丸に召し出され、桔梗の間で井伊大老はじめ老中列座のなか、「亜墨利加国え御用の為、差し遣わされ候間、用意致すべく候」と申し渡されています(『木村摂津守喜毅日記』)。
おそらく、この件を膨らませたものでしょう。
*なぜ江戸城本丸ではなく、西ノ丸での対面だったのか、よくわかりません。本丸が焼けるのは文久2年だったような?

余談ながら、勝を演じた北大路欣也はますます貫録が出てきましたが、最近はどうも白戸家のおとうさん犬のイメージが強くて、そちらを思い出してしまうのが何とも(爆)。
でも、勝はこのドラマの終盤、非常に重要な役割を果たすことになるはずです。江戸開城の一件だけでなく、庶民となった篤姫のその後についても。

その後、天璋院がジョン万次郎と対面しました。
万次郎が尚五郎の思いを告げたことなどどうでもよいのですが、ソーイングマシン、つまりミシンを天璋院に贈っていました。
これは得たりというもので、私もかつて紹介したことがあります。ここです。
万次郎がペリーが幕府に贈ったものが、ホコリを被っていたのを勝が見つけ出したと述べていました。
勝が見つけたかどうかは定かではありませんが、ぺりーからのプレゼントだったのはたしかです。

ペリーの2回目の来日のときですが、『温恭院実紀』安政元年(1854)2月17日条に「亜墨利加献上物」のリストがあります。ペリーからの贈り物のリストです。蒸気車一輌とかエレキトル、テレガラーフ(テレグラフ)などのほか、「御台様え」として「鏡台類一式」とあります。
これがミシンだったのではないかと言われています。

私もこれを上記「さつま人国誌」で紹介し、篤姫に宛てたものだとしましたが、よく考えてみると、この時期、将軍家定には御台所はいません。継室一条氏(2人目の夫人)は嘉永3年(1850)に他界しています。また篤姫が入輿するのは安政3年ですから、ちょうど御台所の不在期にあたっています。
したがって、このミシンがホコリを被っていたというのは、なかなか面白い演出だと思いました。


一方、薩摩側です。
前回の当欄で、藩主島津茂久の諭書の一件が描かれていないと書いたのですが、次回予告を見ると、今回描くということでしたので、その部分は削除しました。

前回も書きましたが、今回も藩主は島津茂久ではなく、忠義でしたね。
久光は前名の忠教をちゃんと史実通り使っているのに、この一貫性のなさは何なのでしょうか? 茂久はなじみがないという理由は通りません。忠教のほうが茂久よりももっと知られていませんから。
ちなみに、将軍家定も前名の家祥と家定を使い分けていましたよね。

何より、脱藩突出しようとしている大久保・有馬らに与えられた藩主の諭書の署名は「源 茂久」となっていますよ。このことからも、忠義名乗りとの食い違いは際立ちますね。

さて、大久保・有馬らが突出しようとしていることを忠教に知らせたのは小松帯刀になっていました。
本当は藩主茂久の側近で、おそらく誠忠組の一員でもあった谷村愛之助昌武の注進によるものです。
谷村昌武は配役には名前がありましたので、古寺に集結している突出組に大久保が諭書を持参したとき、もう一人同行していた人物がおそらく谷村だったのではないかと思います。

ところで、大久保が諭書を読み上げたのち、これから「誠忠組」と名乗ろうと叫んでいました。
これは明らかにフィクションです。
彼らが当時、誠忠組とも精忠組とも名乗った形跡はありません。「盟中」とかいう表現はあるので、結社であるという認識はあったと思いますが、固有名詞を付けていません。

なお、ドラマでは「忠組」を採用していました。これは諭書に「忠士之面々江」とあることからとったのはその通りです。

でも、どちらかといえば、「忠組」のほうがなじみです。
これは、この諭書を写し取った大久保の日記には「忠士面々中」とあることに由来するのではないかと思います。

どちらが正しいのかという議論がありますが、どちらも当時使われていません(おそらく明治以降の命名です)から、どちらも正解ではありません。

諭書を受けて大久保たちが血盟書を作成しようとし、最初の名前を誰にするという有馬の問いに、大久保が西郷を示唆しました。
これは現存している「同志姓名録」の筆頭に「大嶋渡海菊池源吾」とあるのを活かしていますね。うまい演出だったと思います。

桜田門外の変を、大奥での桃の節句との対比で描いていたのはなかなか面白かったです。
襲撃した浪士側の放った一弾が井伊に命中していました。
かつてはそんな描かれ方をしなかったと思います。合図の一弾が井伊に命中したという説は最近出てきたように思います。不勉強でよく知らないのですが、誰の説なんでしょうか?

次回はいよいよ和宮の登場ですが、堀北真希のカツラはちょっと変な感じでしたが……。

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【2008/08/10 23:32】 | 篤姫
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桜田門外ノ変
板倉丈浩
いつもお世話になっています。こんばんは。

>合図の一弾が井伊に命中したという説

これが一般的に知られるようになったのは、吉村昭氏の小説『桜田門外ノ変』からじゃないかと思います↓
http://momota1192.at.webry.info/200808/article_3.html

もっとも、吉村氏は『人物叢書 井伊直弼』『水戸市史』などを参考にしているようなので、そちらですでに書かれていたのかもしれません(未確認です)。

井伊直弼の貫通銃創
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

ご教示有難うございます。
それで、吉田常吉『井伊直弼』(人物叢書、1963年)を見てみました。それには、次のように書かれています。

「藩医岡島玄達が主君の遺骸を診察した時、太股から腰に抜ける貫通銃創を報告しているから、誰れかが一発発射し、これが命中したことは動かせない」

吉村昭氏よりだいぶ前から狙撃説はあったようですね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第70回
―榎本武揚釈放、英断下す―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、西郷隆盛を取り上げました。
あまりにも有名な人物なので、取り上げるのがかえって難しいのですが、あまり知られていないことを書こうと思いました。

明治5年(1872)、榎本武揚など箱館戦争の捕虜たちが釈放されることになった背景を書きました。
榎本といえば、箱館戦争における黒田清隆との友情が有名で、黒田はその後も榎本たちの釈放を働きかけました。
そのため、その釈放が実現したのは黒田の力が大きいと思われています。
もちろん、黒田の奔走がなければ実現しなかったのは事実ですが、その背後には、この問題が一種の外交的な課題になっていたという事情がありました。

榎本は蝦夷島政府の首班であり、その独立を承認するよう諸外国に要請しました。しかし、明治政府のてまえ、各国は中立を守ることにしたので、榎本の要請は実りませんでした。
でも、このことにより、榎本の名前は各国にも知られるようになり、実際、榎本たち捕虜に対して寛大な処分をするよう、アメリカの海軍司令官が明治政府に要請していたほどです。

つまり、榎本たちの処分は単なる内乱処理という国内問題ではなくなっていました。
西郷はその点を重視し、アメリカの南北戦争における北軍政府が南軍側にとった寛大な処置に倣って、長州閥、とくに木戸孝允の反対を説得したうえで、榎本たちを釈放する決断を下しました。

このことはあまり知られていないのではないかと思います。
分量の関係で触れられませんでしたが、江戸無血開城との共通性が見られる気がします。
この一件も国内問題ではなく、英国公使パークスが敗者に寛大なことが文明国の証であり、恭順の意を示している徳川慶喜に苛酷な処分をすれば、欧米各国は維新政府を非難するだろうと申し入れています。
西郷と勝海舟との談判の背後には、欧米諸国の圧力という外交問題が潜んでいました。

江戸無血開城も榎本たちの釈放も、明治政府の国際的な関係に関わることだと西郷が認識していたのは重要だと思います。
また、西郷が戊辰戦争をアメリカの南北戦争と対比して参考にしているのも面白いですね。

次回も西郷のことを書く予定です。

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【2008/08/09 12:02】 | さつま人国誌
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本日夜、都内某所で、恒例の「薩摩の会」が久しぶりに開かれた。

加治木島津家の当主、島津義秀氏の上京時に開催される。
今回は、友人たちを誘って出席。

というのも、サプライズゲストとして、俳優の榎木孝明氏が来られたから。
彼は芸歴の長い人だし、大河ドラマ「篤姫」では、小松帯刀の父、肝付兼善を演じている。
そして、鹿児島出身でもある。
華やかな世界の人だが、きさくで飾らない人。おだやかな話し方で、こちらの話も真摯に耳を傾ける人だった。
ある映画の企画が進行中とのこと。楽しみである。
近々発表されるようだ。

友人たちも大喜びだった。
せっかくなので、記念写真を撮影。
ちょっと載せときます。

旧知の友人とも久しぶりに旧交を温めることができた。
忙中閑ありで、少し気分転換が出来た。

榎木孝明




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【2008/08/08 23:50】 | イベント
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薩摩の会と薩総研チェスト
しらお
素敵なゲストさんでしたね^^
私も「薩摩の会」は鹿児島開催の際は参加しました。
実は10月の先生の来鹿の際に、義秀氏を含めて食事でもと、
考えております。
薩摩人の益々の活躍と広がりが楽しみです。


調所
榎木氏は私より背が高いように思えましたが、写真で見るとそうでもないですね。やはり志に燃える俳優のオーラゆえでしょうか。

有難うございます
桐野作人
しらおさん、こんばんは。

コメント有難うございます。
10月はよろしくお願いします。

榎木氏
桐野作人
調所さん、こんばんは。

榎木さんは私と同じくらいの背丈だったように思いました。
対面したとき、目線もほぼ同じでしたし。

一見、もの静かな人でしたが、眼光はなかなか鋭かったですね。


k2
桐野様
トリビアの泉で、愛の兜を被った話題は、
出ませんでしたか?

愛の兜?
桐野作人
k2さん、こんばんは。

その話はまったく存じません。
どういう話なんでしょうか?


k2
桐野様
何年前か忘れましたが、トリビアの泉というバラエティ番組で、
愛という兜を、被った戦国武将がいた。
何へえか忘れましたが(笑、再現VTRで、榎木さんが、愛の兜を被って登場されました。
その時、直江は無名ですが、今なら話題にのぼってもおかしくないと思いましたが、、、


トリビアの泉
桐野作人
k2さん、こんばんは。

「愛」という兜を被った武将がいたというのは、当時、そんなに意外で珍しかったのでしょうかね?
それにしても、一見、硬派に見える榎木孝明氏がそんな茶目っ気がある人だとは知りませんでした。

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本日、昨日の遅れを取り戻すべく、ようやく原稿脱稿。
ホッとする。

珍しくスケジュール調整で苦労している。
今月22~25日、鹿児島に行く。
種子島での鉄砲シンポジウムと、鹿児島市での講演のためである。
じつはもう一泊して、少し調査したいことがあったのだが、翌26日に別用あり、断念。
当初予定が変更となり、主催者に飛行機の予約変更でお手を煩わせてまことに申し訳ない。

26日、新宿・京王プラザホテルで講演会あり。
原口泉氏(鹿児島大学教授、「篤姫」時代考証)と、友人の調所一郎氏の講演である。
招待されたので何とか出席したいものだ。

そのあとに、名古屋の講座へ出講しないといけないのだが、京都行きの別用と重複しそうで恐い。
先方の都合もあり、うまく調整できるか心配である。

京都といえば、友人の英国留学生エリーから論文や評論を送ってもらった。
論文は英語なのでお手上げだが、評論は日本語で楽しく読めた。
かなり達者な文章だった。
これからぜひ、現代のアーネスト・サトウになってもらいたいもの。
彼女は中井弘を研究テーマにしている。
薩摩つながりなのが、サトウとも似ている。

明日は、某会に出席予定。
不義理をしていて、とても合わせる顔がないのだが、開き直るしかない(爆)。

ある本(共著)の初校校正をしないといけないのだが、なにせ、書いたのが昨年だったから、大幅に修正しないといけないので、今から気が重い。
締切まで日にちがあまりない。焦るなあ。

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【2008/08/07 21:25】 | 日次記
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本日、こまごまとした用件やPCトラブルなどでてんてこ舞いの一日だった。

コピー複合機の付属機能であるスキャナ機能が手軽で便利で、最近、写真や新聞記事やメモなど何でもかんでもPDFファイルに落としているのだが、別のデスクトップやノートPCの設定がいつの間にか無効になっていたので、メンテの人に来てもらった。

結局、アンチウィルスソフト(ウィルスバスターめ)のファイアウォールが邪魔していたことが判明。これをオフにすれば、スキャナが使えることがわかったけど、ちょっと面倒だよな。

ようやく一段落して、仕事をしようとしたら、今度は私のメインのPCがネットにつながらなくなった。他のPCはつながるのになぜ? そしたら、プロバイダからFAXが来て、一部接続障害があるとのこと。

かなりイライラしてきたので、クールダウンのため、切れかかっていた猫のトイレの砂をまとめ買いに行く。
個人的好みなのだが、この砂じゃないと納得できず、少し遠いお店だが、近所ではそこしか売っていないのだ。
暑かったけど、適度な気分転換になった。

結局、原因は不明だったが、数時間後には自然に解決していた。スキャナ機能をいじったのとほぼ同時というタイミングだっただけに、そっちのせいかと思ったのだけど違ったようで、ひと安心。

今月下旬のシンポや講演会の要旨やプロフィール、自影など送るのに手間がかかる。
ネットがつながらなかった時間帯だったので、FAXで送った。

某TV局から、某人物企画の相談あり。
熱心そうなので、お手伝いすることになるかも。

結局、トラブルや雑用に忙殺されて、肝心の原稿がほとんど書けなかった(泣)。

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【2008/08/06 23:50】 | 日次記
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小学館古文書塾「てらこや」特別講座第3回
「小松帯刀と幕末薩摩藩3」

昨夜、出講。
昼頃、猛烈な雷雨となる。果たして出講できるのかと気を揉んだが、夕方にはやんでよかった。

もう第3回である。
今回は前回に続いて、長州処分の行方を見ていく。
前回同様、小松書簡からは少し離れて、西郷吉之助の書簡や土方久元の『回天実記』、そして『越前藩小倉滞陣日記』などを読む。

とくに面白かったのは『越前藩~』.。
幕府の使者として広島にやって来た大目付永井尚志が、征長軍に向かって、「面縛・開城」の強硬論をぶつ。要するに、毛利父子に縄目の辱めを与えて、城下の盟という屈辱を味わせようというわけである。
この間、総督の徳川慶勝や参謀の西郷が岩国吉川家との間で周旋してことを台無しにするような意見だった。長州勢力の後退と弱体をみて、とたんに居丈高になる幕府の姿勢をよく示している。
永井のKYな意見に、尾張藩の困惑が目に見えるようだし、間に立った吉川経幹は「青醒」(あおざめ)る。

その永井に対して、西郷が冷静に説いて論破するところが圧巻。
越前藩の史料なので、とくに西郷を美化しているわけではない、客観的な史料である。

「面縛・開城というなら、周旋も談判も不要。さっさと戦端を開いて萩まで攻め込めばいいわけで、それができるなら苦労していない。藩主父子が辱めを受けるなら、家来たちが「死守」の覚悟を固めるのは当然で、そうなると、半年や一年かけても、戦争は終わりませんよ。そのうち、征長軍に加わった大名からも不平不満が出て、何が起こるかわからない。結局、幕府のご威光は地に堕ちますぞ。それでいいんですか」

西郷の説諭に永井は反論できず、結局、西郷に同意する。
このあたり、永井は役者の違いを見せつけられた感じ。
このときから3年後の慶応3年(1867)、西郷が討幕に俄然強気になるのも、永井が徳川慶喜の側近なら大したことはないと呑んでかかっていたのかもしれないし、慶喜がまた、わが家中に西郷・大久保に匹敵する人材がおるかと諮問すると、老中以下が沈黙したという逸話とどこかでつながっているような気がした。

もうひとつ、大事なのは長州処分のプロセス。
第1段階:藩主父子の謝罪、3家老・4参謀らの処断、山口城破却、五卿お預け
を達成した時点で、征長軍は解隊するという取り決めがなされる。
征長軍の役目はここまでで、その後、第2段階として、毛利家の家督問題や減封・国替処分などは「公辺」=幕府に任せるという2段階のプロセスが示されたことを見ていく。

問題は、この第2段階をめぐって、第2次征長戦争へと突入していくことになる。
そのときには、すでに薩長同盟が結ばれているわけだが、今回でも、薩摩藩の吉井幸輔・村田新八が長州藩諸隊代表の太田市之進・野村和作の嘆願書を越前藩に取り次ぐなど、長州藩への同情が高まっていることがうかがわれた。

一方、在京している小松帯刀は長州処分問題には部外者的な立場なので、その書簡にも見るべきところはとくになかったが、面白かったのは、天狗党の東上をめぐって、幕府門閥譜代層の一橋慶喜への嫌疑が強まっていることへの小松の意見表明。

幕府は長州勢力の弱体化に気を強くして、幕権拡大のため、朝幕協調主義をとる一会桑、とくに慶喜の罷免を目論む。そのために老中松前崇広が歩兵隊2000を率いて大津まで上り、慶喜に圧力をかける状況となる。
小松は、関東の幕府と京都の慶喜の対決となれば、俄然「薩は橋公に組」して「天下両立」を企てるも辞さずという態度を示す。そして「橋公と幕との争」は「「(幕府の)衰運の初め」と喝破する。
このあたり、幕府専制主義に対して、慶喜の存在がその防波堤になっているというのが、小松の認識で、それは薩摩藩の大方の見方だったと思われる。

しかし、第2次征長から四侯会議にかけて、慶喜の正体は幕権維持派であることを露呈し、薩摩藩は煮え湯を呑まされることになる。
小松の慶喜評価の変遷は大政奉還や討幕をめぐって重要なポイントだろう。

今回もレジュメが15枚と多かった。
そのため、また摘み残しがあった。
とくに残念だったのは、黒田清綱(黒田清輝の養父)書簡を読めなかったこと。
これはじつに面白いのだが、それを味わってもらえなかったのが心残り。
まあ、次回の楽しみということで。

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【2008/08/06 09:13】 | てらこや
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日次記です。

8月3日(日)乙亥、天晴
あちこちに買い物に走る。
整理したい物が山のようにあったので、少し手をつけたが、まだまだ。
それより、自分の頭の中の整理のほうが大変かも知れない。

この間、本や資料などを各方面からいただいたのに不義理のままだったので、御礼状やお返しものをする。
自分の手書きの字を見て嘆息。受け取った方ゴメンなさい。昔はもう少しよく書けたような気がするが……(爆)

篤姫の実家である今和泉島津家の子孫の方から連絡あり。
以前、メールをいただいていたが、お盆休みに会うことになった。
どんな話が聞けるか、今から楽しみである。

懸案の新書原稿、少しまとまって書けた。

4日(月)丙子、天晴、夕方小雨
午前中、某雑誌より原稿依頼あり。
多彩な人物のあれこれを書く仕事。
あまりに分量が多かったので、半分に減らしてもらった。
それでも、けっこう大変だ。

榎本武揚のご子孫隆充氏に連絡。
武揚の写真の使用許可をお願いする。
快諾いただいた。多謝。

午後から、都内某所にて某雑誌の取材を受ける。
テーマは直江兼続など。
関ヶ原合戦前の上杉家の位置や思惑などを語る。
「愛」の兜の前立のことも質問された。
兼続と景勝の個人的な関係なども。

夕方、別の某雑誌の編集者と打ち合わせを兼ねて一杯。
これも上杉関係の仕事。
もう10年以上付き合いのある懇意な編集者だったので、積もる話で時間が経つのを忘れた。
直江関係の原稿依頼が次第に増えてきた。
直江兼続の伝記の白眉といえる木村徳衛『直江兼続伝』の話をしたので、改めて少し読んでみた。
戦前の本ながら、実証的で、現代でも色褪せない本だと思う。
だいぶ前、大枚をはたいて買ったが、おかげで元がとれるかもしれない(爆)。

帰宅したら、校正ゲラがどっと送られてきていた。
それから、種子島の鉄砲伝来シンポのメモ作り。
種子島の鉄砲祭りには全国から多数の鉄砲愛好団体が結集するみたいだ。さぞや壮観だろう。

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【2008/08/04 23:39】 | 日次記
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NHK大河ドラマ「篤姫」第31回「さらば幾島」

ドラマ進行時点は、安政6年(1859)秋から冬にかけて。

安政の大獄が全面展開しているところでした。
薩摩では同年9月12日、「宰相様」こと、隠居の斉興が国許の玉里屋敷で他界しました。
これにより、忠教こと、のちの久光が藩主後見人として藩政の前面に登場しようとしています。

しかし、その披露の場で、テロップが藩主の名前を「島津忠義」としていました。
これは不審ですね。
忠義と改名するのは、9年後の慶応4年(1868)正月29日、戊辰戦争の渦中においてです。

ドラマの時点では「茂久(もちひさ)」でなければならないはず。
斉彬の遺言で藩主となった叉次郎忠徳は安政6年正月28日、江戸城で将軍家茂に拝謁し、従四位下・左少将に叙任されるとともに、一字を拝領して、茂久と名乗っています。
ですから、テロップは「島津茂久」とすべきだと思いますが……。

まあ、のちに忠義と名乗るので、視聴者の混乱を避けるためにあとからの名乗りで統一したという考え方なのかもしれません。
でも、茂久の出番が今後それほと多いとは思えず、茂久名乗りでも混乱が生じるとは思えません。何より、久光はあまり知られていない前名忠教を使い、その後、久光への改名を描いて出番も多いわけですから、一貫性がありません。将軍家茂にしても、紀州時代は慶福(よしとみ)名乗りで通していましたしね。


それはさておき、今回注目したのは老中脇坂安宅(やすおり、1809~74)です。
井伊大老の代理として大奥にやってきて篤姫に挨拶しておりました。
懐かしや、「柔道一直線」の桜木健一でしたね。前々回だったか、配役に名前があっても、全然姿が見えませんでしたが、今回は2回も出番がありました。

とくに2回目の出番。井伊大老と茶室で密議している場面。
篤姫が島津家出身であるというのを理由に、井伊が目に物見せてやるといった趣旨のことを傲然と述べた場面で、老中脇坂は同調するふりをしながら、一瞬、複雑な表情をしていたのを、私は見逃しませんでしたぞ。

それが意図的な演出だったなら、なかなか秀逸です。
というのは、老中脇坂は島津家と親戚なのです。
脇坂の妹寿姫は島津重豪の養女となって、のち内藤家に嫁いでいます。
井伊大老は脇坂が島津家と親戚だということを知っていたのでしょうか。
知っていたとしての演出なら、井伊大老の加虐趣味を強調したということになるでしょうか。

のち、文久2年(1862)、久光が率兵上京し、さらに勅使大原重徳を伴って江戸へ下向したとき、幕府側で応対したのが、老中板倉勝静と脇坂でした。
このとき、脇坂は2度目の老中就任です。
久光は、事前に脇坂と会い、松平春嶽の政事総裁職就任について相談しています。これも親戚筋ゆえの気易さからです。
しかし、脇坂も島津家との私的な関係より、幕府の重職としての立場を優先させ、慶喜の将軍後見職就任の一件と合わせて、久光との間で駆け引きがありました。

ちなみに、脇坂家はもとをたどれば、関ヶ原合戦で東軍に内応した脇坂安治を藩祖としております。
本来、外様大名でしたが、天和3年(1683)に願譜代となり、譜代大名へと転身しています。安宅が老中になれたのもそのためです。

余談ですが、脇坂家は明治になると子爵家となりますが、安宅の曾孫にあたる安之(やすじ)は小松帯刀の孫娘ハナを娶っています。小松の嫡男清直の長女です。

3年ほど前、鹿児島の小松帯刀の墓所を詣でたとき、この脇坂家に嫁いだハナの子孫の方と偶然お会いしたことがあります。

大久保たち、のちの誠忠組の連中が気勢を上げているシーンがよく出てきますが、大久保のほか、有馬新七と伊知地正治だけは何とか識別できますが、あとは誰が西郷吉二郎、同信吾、大山格之助、有村俊斎なのか、まったく識別できません(笑)。

次回はいよいよ桜田門外の変ですね。楽しみです。

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【2008/08/03 22:41】 | 篤姫
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某古書店から古書目録が送られてきた。

その巻頭にあった古文書写真を見て驚いた。

島津義久書状である。
しかも、宛所が龍吟庵東堂

といっても、おわかりの方は少ないかもしれないが、龍吟庵は京都五山のひとつ、東福寺の有名な塔頭である。そこの方丈は国宝に指定されていることでも有名。

少し翻刻してみたが、いくつか不明字が出て(要は私が読めない)、文意を正確に把握するところまでに至っていない。

宛所は龍吟庵だが、本当はその隣にある塔頭、即宗院に宛てたかったと思われる。即宗院はこれまでも何度か取り上げてきた。主なのはここ

もっとも、義久は即宗院ではなく、即宗庵と呼んでいる。当時はそう呼ばれていたのだろうか。
即宗庵が罹災したため、義久はそこに宛てられず、隣の龍吟庵に宛てたと思われる。もしかしたら、その東堂に即宗庵関係者が避難していたのかもしれない。

書状の趣旨は即宗庵再建のために義久が金三十両を寄進するので、早々と造営するようにと書かれている。もっとも、「当国」(南九州)でも干戈が休むところがないので、じつは財政的な余裕がないのだが、それでは違約になるので、何とか工面したという趣旨で、義久側の手許不如意の苦境も察せられる。

即宗院が義久の寄進によって再建されたというのは、同院の由緒にも書かれていたが、一次史料、しかも本人の書状で確認できたことは意義深い。
また書状には、即宗院と縁が深い鹿児島志布志の大慈寺も出てくる。ただ、「他流」云々とある。おそらく住持の派遣問題かと思うが、大慈寺が妙心寺の末寺で臨済宗関山派に属していて、即宗庵とは別の宗派であることに義久が違和感を感じているのだろうか。

問題はこの書状の年次である。
署名が「義久」なので、天正15年(1587)の出家以前なのは確実。
花押を見たが、義久の花押はほとんど経年変化がないので、あまり手がかりにならない。
感触としては、永禄年間(1558~1569)かなと臆測しているが。
『旧記雑録後編』を精査すれば、もう少しヒントがあるかも知れないが、忙しくて調べる暇がない。
東福寺側の史料で、即宗院が焼失した記録が現存しないのだろうか?

個人的には、ツボにはまった文書なので、入手できたらいいなと思うけど、お値段がねえ(歎息)。
義久書状って、こんなに高かったかな? 伊達政宗とか毛利元就クラスの値段だぞ。

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【2008/08/03 10:42】 | 戦国島津
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東福寺誌
k2
桐野様
先日長谷川丹波を調べてる時、上記本の永禄十二年の所に

東福塔頭即宗院火~、嶋津義久施入して再建を図らしむ、後ち慶長十八年漸く再興成る(寺院明細取調書)

とあります。これが正しいかどうか分かりませんが、参考までに。

永禄12年
桐野作人
k2さん、こんにちは。

おおっ、「東福寺誌」があるんですね。
ご教示、有難うございました。

永禄12年焼失で間違いないと思います。
私の推定もギリギリ当たっていたかも(笑)。

その本、古書ネットで検索したらいい値段ですね。
定価の2倍はするようで。


ばんない
桐野さんの伝記のおかげで義久の書状の値段も上がったのかも。ゲームで有名なよく似た名前の弟と混同されてると言うことはたぶん無いですよね?(汗)

義久が龍吟庵に宛てた書状は確か数年前にも某社のオークションで出ていたかと思います(URLご参照下さい)。書状本体の写真も載っていたのですが、現在web上から写真は削除されてしまってます。なので、今回桐野さんに贈られた目録に載っている物と同じ物かどうかは分かりません。

『東福寺誌』は古い本ですね。即宗院のことを調べるのに一度読んだことがあります。

弟との混同
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

拙著の影響力なんて知れたものですから、それよりも、弟と混同している可能性が高いかもしれませんね。

この義久文書、以前、オークションに出たこともあるのですか。
今回出品していた某古書店は老舗なので、まさかオークションには出さないと思います。オークションで買った人が転売したものでしょうか。あるいは買い手がつかなくて、出品者が転売したのか。
その過程で、高値になったのかもしれませんね。


ばんない
こんばんは。

そのオークションに出ていた書状と、今回の書状が同じ物かはちょっとわからないですね。webに掲載されていた書状写真をコピーしておけば良かったのですが、読めなかったので(苦笑)気に留めていなかったらwebから削除されてしまいました。

ところで私が紹介させていただいたオークションから、去年も島津義久関係の書状が2通出ていたようですね。龍吟庵東堂宛はそのうちの1通であります。もう1通は「龍伯」署名で「二位」なる人物への手紙です。

それです
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

私が古書目録で見たのもその書状でした。
あと、わからない語が3、4つあるだけなんですが、重要な所なもんで、苦労してます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第69回
―氷を作り、送り火も見物―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

また小松ネタです。最近、それしかないのかと言われそうですが(笑)。
先日、京都の堀川一条にあった近衛家の堀川屋敷跡近くに小松帯刀の京都邸参考地の建碑が成ったことを書きました(ここ)。それで、鹿児島の読者にも、その紹介を兼ねて書きました。

この堀川屋敷が「御花畑」(御花畠とも)と呼ばれていたことは、過去にも書いたことがあります。ここです。
名前の由来はわかりませんが、庭に一面花が咲きほこっていたのか、あるいは薬草園だったのかもしれません。中世の近衛邸(「近衛殿」と呼ばれた、現・同志社大学新町校舎)が優美な糸桜があったので、別名、「桜御所」と呼ばれていたように、一種の雅称なんでしょうね。

この「御花畑」にまつわる出来事を、2、3書いてみました。
ひとつは、小松が氷を作って、大久保利通にも振る舞おうと誘った件です。
これは誰かから借りた製氷機を使って作ったもので、幕末に製氷機が使用されたことが確認できる貴重な事例だと思います。
松平春嶽が輸入した製氷機を所有していたそうですが、小松は誰から借りたのでしょうか?

あと、小松の京都邸の場所を推定するにあたって役立つ情報も含まれています。小松が「御花畑」は大久保邸からは「遠方」だと書いているのがそれです。大久保邸は寺町石薬師だと考えていいと思います。
そうであれば、かつて小松邸の推定地のひとつとした「近衛殿」は「遠方」だったとは思えません。堀川一条のほうがずっと「遠方」ですから。
同じ近衛家別邸でも、「御花畑」推定地としては、堀川屋敷のほうが「近衛殿」より相対的に妥当だといえそうです。

あと、慶応3年(1867)のお盆に、小松邸の二階に在京薩摩藩の要人たちが集まって、「大焼火」見物をしています。「大焼火」とは、もちろん五山の送り火のことです。現在は8月16日に行われますが、当時は、旧暦の7月16日だったのですね。
小松邸は二階建てだったことがうかがわれます。

余談ですが、先日の建碑の除幕式のとき、挨拶させられ、この「大焼火」の逸話を紹介しました。そのとき、「大文字焼き」と何度か連呼したようで、あとで参列者の方幾人かから「あれは送り火というんだ」とお叱りを受けました(汗)。
京都にお住まいの方は決して「大文字焼き」とは呼ばないそうで、そう呼ぶのは外部の人だけだそうです。京都に5年も住んだことがあるのに、迂闊でした。おっと、こんな過去がばれたら、その無知ぶりにさらにお叱りがありそうで(爆)。

次回から、延び延びになっている西郷隆盛の話題を書くつもりです。

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【2008/08/02 10:22】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。

やってしまわれたのですね。
「大文字焼」と「祇園祭のちまきを開封して中身がないと騒ぎ出す」というのは二大鬼門だと勝手に思っているのですが、その片方を…

ちなみに銀閣寺のアイスキャンデーで有名な店(屋号失念)で、冬売っている大判焼きが「大文字焼き」という名前らしいです。アイスキャンデーは有名で何度か食べましたが、「大文字焼き」の方は知らなかったです。
あと箱根の類例の行事は正真正銘「大文字焼き」という名前なので、関東圏在住の人は間違えやすいでしょうね。

大文字焼
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

日頃の粗忽な性格が出て、やってしまったのですよ(笑)。

「大文字焼」という大判焼があるのは、私も教えてもらいました。一度食べてみたいと思います。

花園?
n
はじめまして。
いつもふむふむと読ませていただいています。
古文書とかじっくり読んでみたいものです。

そういえば、右京区に花園という地名がありますが、それもやはり薬草であったり、何か花の名所だったのでしょうか。
地元に住みながらも疎い自分に何かもったいなさを感じたりいたします・・・
「二十歳の原点」くらいしか知りませんでした。

花園
桐野作人
nさん、こんにちは。

花園は妙心寺の別名みたいなものですね。
ものの本によれば、
「妙心寺の地これなり。此の地、元は左大臣清原の夏野の宅地にして、園中にもろもろの花をうへ愛す。これによりて花園と号す」
とあります。
清原夏野という大臣がいるようですね。

その邸宅に花があふれていたので、花園と呼ばれるようになったのはたしかなようです。

「二十歳の原点」ですか。
懐かしいですね。著者の彼女とは同学だったせいもあり、学生時代、よく読みました。
たしか、山陰線のどこかで自殺したような……。



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小松帯刀の命日がどうやら違うらしい。

一応、命日は明治3年(1870)7月20日ということになっている。

明治維新人名辞典』(吉川弘文館)にもそのように記されている。
出典は「小松帯刀伝」(鹿児島県史料集21)だろう。

しかし、最近史料を見ていて、どうやら命日は7月18日であり、通説より2日前ではないかと思う。

薩摩藩士で大坂留守居役をつとめた木場伝内という人物がいる。
西郷隆盛が奄美流謫中、世話をした関係で、西郷とずっと親しかった。
木場が大久保利通に宛てた書簡に、小松が息を引き取ったのは「十八日夜一字比(一時頃)」と書かれている。
また、臨終のとき、苦しみもせず、安らかな顔をしていたと書かれている。
生涯、病気で苦しんだ人だけに、最後は安らかに眠りにつけたことがわかって、よかったなと思う。
小松の臨終の様子を書き残してくれた木場伝内に感謝。

木場は臨終には間に合わず、小松が息を引き取った数時間後の明け方に駆けつけたようで、臨終に立ち合った人たちからの情報を葬儀終了直後に書簡にしたためたものだから、その内容はかなり信憑性が高い。
命日は18日深夜。正確には19日午前1時だろうが、当時は夜が明けないと日付は変わらなかったから、18日が命日と考えてよいと思う。

木場によれば、葬式は21日に挙行されている。
この点からも、20日他界説は少し不自然だろう。通夜など必要な儀式を行う時間を考えれば、死の翌日に葬儀が行われるとは考えにくい。まず準備ができないだろう。

なお、葬儀は仏式ではなく、神葬祭だった。取り仕切ったのは重野安繹。
「夕日の岡」(夕陽ヶ丘)に葬ったと書いてある。「摂海」(大坂湾)の見晴らしがよいとも。
「摂海」は小松にとってもゆかりの地。薩摩商社や徳川慶喜との駆け引きも「摂海」をめぐってのものだった。あるいは、大坂湾がよく見える夕陽ヶ丘に葬ってほしいという小松の遺言でもあったのかもしれない。
葬儀費用は800両かかったという。なかなか盛大だったと思われる。

先日、京都で「小松帯刀寓居参考地」の建碑除幕式があった。
本当は、式を小松の命日とされる7月20日に挙行したかったのだが、私の都合で、その日にできなかった。
でも、命日が違っていたらしいから、結果オーライか(爆)。

命日が2日違っていたからといって、どうというものではないが、有名人だけに、その没年月日は正確を期すに越したことはないだろうと思って、備忘として書き留めた次第。

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【2008/08/01 12:46】 | 幕末維新
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