歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第77回
―家久、建昌城普請を断念―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から3回の予定で、鶴丸城について書きます。
鶴丸城そのものというより、その時々の時代の波が鶴丸城にどのような影響を与えたかという視点から書いてみるつもりです。

それで、今回は鶴丸城を普請した島津家久が、じつは建昌城という山城普請にずっとこだわっていたということを書きました。関ヶ原合戦直後から晩年まで、じつに30年以上、建昌城に執心していたことがわかります。
家久にとって、鶴丸城は平時の館、戦時の詰の城が建昌城という位置づけだったのでしょうか?

一説によれば、豊臣政権に服属して以来の島津氏においては、いわゆる織豊系城郭の技術移転が領内になされなかったともいわれています。とくに朝鮮出兵での倭城築城などが、そうした技術移転の契機になったようで、全国に高石垣と虎口・枡形の発達した織豊系城郭が広まったそうですが、島津氏にはそれがほとんどみられません。鶴丸城の石垣もどうなんでしょうね? 建昌城は高い崖に囲まれています。それを全部石垣で覆うつもりだったかもしれず、家久は建昌城こそ本城だと考えていたのでしょうかね。

家久の未発・未完の居城、建昌城は麓までは行ったことがありますが、じつはまだ頂上を制覇しておりません。そのうちぜひ攻めてみたいものです。

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【2008/09/27 10:16】 | さつま人国誌
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建昌城
ばんない
こんにちは。

織豊時代~江戸時代初期の島津領の城郭については、既に桐野さんもご存じとは思いますが
『城郭の縄張り構造と大名権力』(木島 孝之著 九州大学出版会 ISBN 487378672X)
という本があります。が、この本では何故か建昌城を取り上げていません。
ネットでちょっと検索したところでは、渡来した中国人が命名した城とのことですが、確かに余り日本らしからぬ名前の城ですね。

建昌城で父・義弘と大喧嘩(?)した家久(忠恒)は、次の鶴丸城でも…おっと、これは次回のお楽しみですね。


サトシ
読まさせていただきました。
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『城郭の縄張り構造と大名権力』
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

コメントが遅くなりました。
表題の本、知ってはいたのですが、高くて手つかずのままでしたが、ばんないさんに紹介されたとたん、ほしくなって買ってしまいました。古書ですが、定価の7割くらいで買えました。
タイミングがよかったかも。


ばんない
…どうも大散財のきっかけを与えてしまったようで、申し訳ございません(爆)。

建昌城跡見学会
岩剣石塁
来月5日(土)に、姶良町歴史民俗資料館の主催で、
建昌城址見学会が開かれるようです。
私も参加しようと考えています。

建昌城
桐野
岩剣石塁さん、こんばんは。

ご無沙汰しております。
建昌城見学会ですか!!
いいですね。
私も行きたいくらいです。
あの台地の上に立ってみたいです。
島津家久が30年間もこだわった理由が知りたいですね。
あとで感想など聞かせて下さい。

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日次記です。

9月21日(日)甲子、雨ときどき曇り
 お彼岸。雨の晴れ間を縫って墓参り。
でも、現地に着いたら、また降り出してきた。
近くのレストランに早々に退避。
墓参りのときは、いつもここで昼食をとっていた。地ビールがおいしかったのだが、来月いっぱいで閉店とのこと。残念。

22日(月)乙丑、天晴れ
 単行本の加筆分の資料をファイリング。
あれこれ乱雑に溜め込んでいたので、整理に予想以上の時間がかかる。
連載原稿の構想をメモ。さらに長丁場がつづきそうだから、ネタ切れにならないようにしないといけない。中世のいいネタがないかな……。
「嘉吉附庸」などがいいと思っているだんけど、最新研究はどなたかな?

23日(火)丙寅、雨
 明後日の名古屋出張とその準備のため、連載原稿を早めに仕上げる。
今回から鶴丸城について書くつもり。

24日(水)丁卯、曇りときどき小雨
 中日文化センター講座のレジュメ作り。
夕方、外出。信長研究者の谷口克広、和田裕弘両氏と会う。
谷口氏が北海道から上京されていて、たまたま和田氏も関西から上京されたので、どうせなら3人で会おうということになった。お二人とも史料編纂所で終日史料調査をされていたらしい。毎度ながら頭が下がる。
居酒屋で、織田一族の系譜や桶狭間合戦など、いろいろ話をする。
谷口氏から史料批判の方法論を体験的に話していただき、大変ためになった。史料に語らせるべきで、飛躍してはいけないという言葉、肝に銘じるべきだろう。
それはともあれ、某テーマについて少し自説にこだわりすぎて、谷口氏を呆れさせたかも知れない。反省。
帰宅後、レジュメを作ったり、あれこれ雑用をしているうちに気づいたら、夜が明けようとしていた。

25日(木)戊辰、天晴れ
 朝、新幹線で名古屋へ。最近、名古屋づいている。
中日文化センター講座「関ヶ原合戦を読み解く」もいよいよ本日が最終回(第6回)。
じつをいうと、少し体調が悪かった。前夜、あまり寝ていなかったせいだろう。偏頭痛がしたが、ドリンク剤を飲んで気合いを入れる。

今回は「関ヶ原決戦と島津の退き口」というテーマ。
関ヶ原合戦に対する島津家の立場がどのようなものだったか、義弘の兵が集まらない理由、石田三成との不仲説の検討、決戦は意外と早く決着がついたのではないかという話もした。
「退き口」は参陣して生き残った兵士たちの書上を多数使用。『旧記雑録後編』所収の史料をこれほど一同に扱った講座もないのではないか。
島津方の討死者の交名があって、本当はこれも使いたかったのだが、数頁もあったので断念。
いつかは、この交名を使った講座もやってみたいものだ。

終了に際し、来月からの新講座「本能寺の変を読み解く」の案内も少しする。センターの担当者にうかがったら、すでに相当の受講申し込みがある様子。このままでは前期の人数を超えそうな勢い。あまり多いと、受講者の反応がわかりづらいのだが、ぜいたくな悩みか。
詳しくは、ここから、「10月スタートの新講座はこちら」をクリックして、「歴史」系のカテゴリーをさらにクリックし、21番目に私の講座があります。問い合わせ・申し込みも上記サイトに書かれています。
新講座について、中日新聞の取材がある模様。

東京にとんぼ返り。
帰りの新幹線で、5月の小松帯刀講演会でお世話になった方から電話あり。
また何か企画になりそうな感じ。

東京駅から神保町に行く。
 「兼見卿記輪読会」に出席。
天正15年(1887)の北野大茶会の記事を中心に読む。
この茶会は当初、10日間ほど予定されていたのに、なぜか1日だけで終わってしまった。
その理由が何なのか、肥後一揆との関連は薄いという指摘もあり、それでは何だと議論になった。
史料を前にした、こういうやりとりは楽しいものである。
次回の担当は小生になった。

26日(金)己巳、天晴れ
 連載原稿の締切だが、体調極めて悪し。
昨日、ほぼ完徹のうえ、未明から夜遅くまで出張その他で、ほとんど休んでいなかったせいか。
この間の懸案だった複数の仕事の資史料を机まわりで、いかにうまく整理するか――その解決の一案として、キャスター付きの小さな本棚を購入した。図書館の返却図書を一時ためておくような本棚。
2日前に届いていたので組み立てたが、パイプの1本が不良品でネジが締まらないことが判明。
購入先に電話して、結局、返品となる。
時間を無駄にした感じ。

鹿児島の某団体から講演依頼あり。
まだテーマが決まっていないが、主催団体に個人的な関心があるので、引き受けることになるだろう。

昨日の名古屋の講座で、かつて島津の退き口を踏破したことを少し話したが、ついでにスズメバチに足を刺されたことを話した。
そしたら、今日の夕刊に、スズメバチに刺されたカメラマンがアレルギー反応を起こしながら、自分を被写体にして撮影し、DVDにまとめたという記事があった。
じつをいうと、私も1回刺されているから、ヤバいのだ。また刺されたら、「アナフィラキシー」というアレルギー反応を起こして、最悪、死に至る。
その予防策として、刺されたとき、太腿に刺すと症状がやわらぐ「エピペン」という携帯用の簡易器具がある。以前から購入したいと思っているのだけど、なかなか探せないでいる。ネットでも購入できるのかな? あるいは医師の処方が必要なんだろうか? これも他人事じゃないので、早めに対策を講じたい。とくに秋になって、山に出かけると危ないから。

今日はまだ終わっていない。
体が少し楽になったので、懸案の原稿に取りかかるとしよう。

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【2008/09/26 19:25】 | 日次記
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エピペン
ばんない
こんにちは。ハチは怖いですね。しかし、青虫芋虫の類が天敵の私には青虫芋虫を喰ってくれるスズメバチはありがたい味方でもあります。仲良くおつきあいせねば…って、スズメバチらしいのが来たら網戸締めて室内に逃げているだけですが(苦笑)
ハチもそうですが、蚊なども含めて、黒い服が良くないらしいです。どうも黒服を見たら襲いたくなる習性が働くらしいです。古城跡などに行くときは誰かホストクラブのお兄さん一人連れていって生け贄にするのもいいのかも知れませんね(汗)

さて、表題のエピペンですが、やはり医師の処方が必要のようです(URL参照)。公式HPもありました(URLに書いてあるページの上位HPです)。死に至らなくてもアレルギーは恐ろしいです。お大事に。

嘉吉附庸
かわと
勉強会には出席できず失礼いたしました。
「嘉吉附庸」の件ですが、実際に嘉吉期の状況(大覚寺義昭とか)との関係を探るのは荒唐無稽かなという気もしますので、やはり薩摩侵攻の頃の研究ということになるでしょうか。

代表的な研究としては紙屋敦之『幕藩制国家の琉球支配』(校倉書房、1990年)、上原兼善『幕藩制形成期の琉球支配』(吉川弘文館、2001年)、豊見山和行『琉球王国の外交と王権』(吉川弘文館、2004年)あたりが浮かびます。精読したわけではないので、空振りになるかもしれませんが…。

最近では渡辺美季さんが若手として頑張っておられますが、以前報告を伺った限り、まだこの時期については「島津家文書」の分析のレベルで検討の余地があるような感じでした。
研究についてはご本人のHP(http://www.geocities.jp/ryukyu_history/index.html)をご参照下さい。

エピペン
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

やっぱり医師の処方がいるんですね。
近所に扱っている医院がありましたので、そのうち行ってみようと思います。有難うございました。

嘉吉附庸
桐野作人
かわとさん、こんにちは。

さっそくのご教示、有難うございます。
もしかしたら、かわとさんあたりが教えてくれるかもと少し期待してました(笑)。

迂闊なことですが、ご紹介いただいた紙屋敦之・上原兼善両氏の著作はちゃんと持っていることに気づきました。豊見山さんのももしかしたら、持っているかもしれません。すぐ調べられることがわかりました(汗)。

渡辺美季さんは存じ上げませんでしたが、坊津の輝津舘にあった図録?に書かれている論考は読んだことがあり、この人かと気づいた次第。
経歴を見たら、お若いのにたくさん論文を書いている人ですね。

そういえば、かわとさんもいよいよ研究書の上梓が間近とか。おめでとうございます。いろいろ参考になりそうなので、楽しみにしております。、

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来月22日、鹿児島で講演することになりました。
テーマは表題のとおりです。
一応、企業家団体の主催ですが、どなたでも参加できます。しかも、入場無料。
鹿児島方面の方、関心がおありなら、参加して下さい。
詳しい内容はここにあります。

今年の大河ドラマの総決算と、再来年の大河ドラマの先取りといった趣になるでしょうか。

小松も龍馬もいったんは忘れられた人物だった点で共通しています。
ただ、龍馬には2度復活のチャンスがあり、それで蘇りました。今日の龍馬人気はそれが基礎にあったればこそです。
1度目は、土佐を中心とする自由民権運動で、龍馬がその先駆者と位置づけられたこと。
2度目は、日露戦争直前、明治天皇の皇后(のちの昭憲皇太后)が「瑞夢」を見て、龍馬が枕もとに立ったこと。

とくに2度目が決定的で、龍馬の知名度があがりました。

しかし、小松にはそのようなチャンスはついぞ訪れず、今年、没後138年にしてようやく脚光を浴びるようになりました。

あと、近江屋事件についても新解釈を話すつもりです。
端的に言えば、龍馬は小松の身代わりで殺されたということでしょうか。

内容も盛り沢山なので、おいで下さいませ。

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【2008/09/23 09:39】 | イベント
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歓迎!鹿児島
シラオ
大河ドラマの総決算と、再来年の大河ドラマの先取りといった趣・・・なんと贅沢な^^素晴しい講演になるでしょうね。
楽しみです。。鹿児島も万全の準備でお待ち申し上げます。
さて、鹿児島は明日の西郷翁命日に向けて、今夜の提灯行列、明日の大祭と盛り上がっています!
そうそう、先生の塾生さんお二人(もちろん、よかおごじょさん^^)も、東京からお見えでしたよ。南洲神社を綺麗に清掃して頂きました。ご縁に感謝。

日本の柱
福袋
はじめまして。
いつも楽しく拝見しています。
『歴史街道9月号』の小松の記事も大変興味深く拝見いたしました。

やっぱり大政奉還後から、
王政復古までの中央政局での小松の不在期間、
小松がどんなことを考えていたのかが気になってしまいます。

こんなに不在であることに意味を見出そうとしてしまう人って珍しいですよね…。

ところで、講演会のパンフレットで
小松を同僚が「日本の柱」と評した、と書かれていますが、
私は知りませんでした!
いったい誰が言ったことなんでしょうか?
なんかあの時点での小松のポジションを一言であらわしていて
ガツンと来てしまいました。

参加したいところですが。。。
よこよこ
桐野さま、初めまして。
私も今回の大河ドラマのお陰で、小松帯刀を再認識した1人です。私は元々この時代の歴史が大好きで、司馬さんの小説もよく拝読しておりました。
小松と言う名前もちゃんと覚えてはおりましたが、ここまで功績を残した人とは認識しておりませんでした。
いろいろと、書籍やネットなどで調べているうちに、桐野さんのところへ辿り着いたわけです。
桐野さんの講演会にも参加したいのですが、鹿児島での開催なので神奈川に住んでいる私には難しいですね。
でも、今回の講演会はとても心引かれております。
さて、如何したものかと、ただ今思案中です。
鹿児島は遠いいですね。
今後は、桐野さんの書籍も探して、読んでみたいと思います。

よかおごじょ
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

講演会ではお世話になります。

よかおごじょさんも東京から2名お見えだったとか。
該当者が3名いらっしゃいますが、どなただったのでしょうか。
今日が南洲の命日ですね。ご盛会をお祈りします。

「日本之柱」
桐野作人
福袋さん、こんにちは。

歴史街道の小松帯刀記事をご覧になっていただき、有難うございます。

「日本之柱」という言葉は、明治2年だと思いますが、小松の病状が深刻になった時期、おそらく小松の勤務先だった外国事務局の部下ではないかと思われる人物からの見舞状に出てきます。
「あなたは日本の柱だから、早くよくなって下さい」という文脈でした。『玉里島津家史料』に載っています。
小松のキャッチフレーズとして、「日本の柱」を拡げていきたいと思っています(笑)。



小学館講座「てらこや」
桐野作人
よこよこさん、こんにちは。

神奈川にお住まいで、鹿児島の講演会出席は大変ですね。

じつは、私、別に講座をやっております。
小学館の古文書講座「てらこや」の特別講座で、現在、小松帯刀をテーマにしてやっています。
会場は神田神保町の交差点近くです。以下のサイトに少し詳しい案内があります(問い合わせ、申し込みも出来ます)。

http://www.shopro.co.jp/komonjo/rekishi.html

講座の様子については、このブログでも報告しています。左のカテゴリー欄「てらこや」にあります。興味がおありなら、そちらをご覧になって下さい。

なお、今月30日午後7時から、同講座で体験講座をやります。受講料がたしか1000円だったと思いますが、もしよかったら、ご参加下さい。今回はちょうど薩長同盟をテーマにやることにしています。問い合わせ・申し込みは上記サイトに電話番号にご連絡下さい。

ありがとうございました。
よこよこ
桐野さま、こんばんは。
いろいろとお気遣いをありがとうございます。
早速、古文書講座「てらこや」の特別講座について、問い合わせをしたところ、
時間的にも都合がつきそうなので、早々に予約を入れてしまいました。
本当にありがとうございました。

小松帯刀と坂本竜馬の講演会について
西 真理子
桐野様
初めてメールさせていただきます。
講演会の期日、場所、時間を教えて頂きたいのですが宜しくお願いいたします。

はじめまして
モロ・アーカイブス
はじめまして。
サイレント読者でしたが、勇気を出してコメントします。
なにを隠そう『戦国の異能群団』以来の桐野ファンです。
近江屋事件の新解釈、大変興味があります。
私は佐々木只三郎の最初の標的は、小松・西郷・大久保だったんじゃないかと考えています。
以下は嵯峨実愛手記、嵯峨実愛談話筆記、会津藩文書等からの類推です。
密勅を携えてての3人帰薩のため下阪。その際に佐々木による小松らへの襲撃計画があった。そこでキメられなかったから、代わりに龍馬に標的変更。近江屋となる。事件後、密勅の存在を佐々木に掴まれていると不安に思っていた嵯峨実愛は、大久保が帰京してくると、またぞろ佐々木が動き出すんじゃないかと恐慌する。
メモ的かつ暗号的で難解な嵯峨実愛手記。それを推測を交えて読んでいくとこんな流れが浮かぶのですが・・・
桐野さんの小松身代り説。めちゃくちゃ聴きたいのですが、鹿児島ですか!悩ましいです。

よろしくお願いします
桐野作人
よこよこさん、こんにちは。

さっそく申し込まれたようで、有難うございます。
体験講座に参加されるのでしょうか。
お待ち申し上げています。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第38回「姑の心、嫁の心」

ドラマ進行時点は文久2年(1862)8月から翌3年2月にかけて。

今回は、タイトルどおりに、天璋院と和宮の家茂をめぐるさやあてが中心で、いかにも大奥ホームドラマ仕立てになっておりましたが、政局的には重大事件があり、見逃せません。

まず、島津久光と勅使大原重徳の江戸下向により、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職就任が決まって、一定の幕政改革がなされましたが、久光らが上京してみると、京都政局が一転してしまいました。
今回、桂小五郎と久坂玄瑞が初めて登場したように、長州の尊攘派が表舞台に出てきました。
余談ですが、先日の薩摩の会で、久坂玄瑞役の東武志さんに会いました。薩摩の血を引いた、なかなかのイケメンでした。

京都政局が突然変転したことを、2人の登場だけで表現していましたが、実際のところは、長州藩邸で藩主臨席の御前会議が開かれ、長井雅楽の「航海遠略説」が敗北して、即今攘夷派が勝利したことによるものです。この長州藩の藩論転換が京都政局を激動させることになったのですが、その背景には、航海遠略説を初め支持していた政務役の周布政之助が即今攘夷に転じたことが大きかったと評されています(高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館)。

そして、長州派の圧力により、朝廷は即今攘夷の勅旨を長州側に示します。その趣旨は、『修訂防長回天史』3上によれば、

「公武を始め万人一和一致にて、神州のため精力を尽くし、早蛮夷拒絶に決定候様、幕吏へ掛け合いの都合に相成り候と遊ばされたく叡願にあらせられ候」

蛮夷拒絶」の「叡願」があったというのですから、長州系尊攘派の喜びようがわかるというもの。彼らはこの勅旨によって何よりのお墨付きを得たことになります。
もちろん、長州藩が京都政局の主導権を握ったのには、この年6月頃から、「天誅」の名によるテロリズムが京都で吹き荒れてことが背景にあります。その余波で和宮降嫁に奔走した村上源氏一族(久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直)らが「四奸二嬪」と名指しされて失脚します。
なお、「二嬪」は堀河紀子と今城重子です。

本来、朝廷がもっとも頼りにしたのは久光だったはずです。在京中の久光も期待に応えて建白書を提出しています。でも、政事総裁職の松平春嶽の上京が遅延することになり、幕府側の誠意を朝廷に示せなくなったことで、久光の主張に説得力がなかったのと、生麦事件により英国艦隊が鹿児島に来襲しそうな形勢だったため、久光が京都に長居できなかったという事情もありました。

寺田屋事件という大きな代価を払ってまで得た大きな成果が台無しになってしまったのも、久光が自分で蒔いた種です。
このことはあまり重視されていませんが、じつは薩摩藩内では問題にされている形跡があります。長州藩に名をなさしめたことの政治的責任をどうするのか、久光の側近グループである小松帯刀・中山中左衛門・大久保一蔵・堀次郎らが追及されたのではないかと思います。

さて、勅旨降下を受けて、改めて勅使が江戸へ下向しました。三条実美と姉小路公知です。なお、このときの警固は土佐藩主山内豊範でした。

ドラマでは、2人の勅使が上座に坐り、将軍家茂が下座でした。場所は本丸の大広間です。
勅使が上座で、将軍が下座というのは、その前の勅使大原重徳からです。大原は白書院で将軍家茂と対面したとき、それまで佩刀をはずす先例を無視して帯刀したまま進み、しかも上座に着しました。

これは勅使が年賀の挨拶に江戸に下ってくるようになってから初めての前代未聞の出来事で、開幕以来、公武関係が逆転したことを視覚的に示したものでした。それまでは、将軍が上座で、下座の勅使を引見していたのです。
ほかの例を見ますと、たとえば、2代将軍秀忠が上京して後水尾天皇と会見したときには、座が上下ではなく、左右に設けられています。つまり、将軍と天皇は対等だったわけです。後水尾天皇の中宮和子は秀忠の娘でしたから、秀忠は天皇の舅にあたるため、上皇待遇にしたといわれています。

秀忠から200年以上たって、将軍が天皇どころか勅使に対してさえ下座に座らされるのは屈辱以外のなにものでもなかったはずで、泉下の秀忠や家光などはさぞや慨嘆していることでしょう。

次回、どこまで描かれるかわかりませんが、上京した将軍家茂は禁裏御所で、天皇臨席の座次(ざなみ)でもっとひどい処遇を受けるという屈辱を味わうことになります。それというのも、ドラマによるかぎり、天璋院が無理やり進めてしまったわけで、義理の息子をひどい目に遭わせて幕府を守ることにはなっていませんね(笑)。

それと、ドラマでは描かれませんでしたが、この年の2度目の勅使一行が江戸に下ってきたとき、将軍家茂と和宮は仲よく麻疹(はしか)にかかって、1カ月ほど寝込んでいます。そのため、勅使との対面が遅れてしまいました。

家茂の伝記「昭徳院殿御実紀」によれば、10月27日条に、

「公方様御麻疹遊ばされ候に付」

とあり、次いで、

「御台様御麻疹遊ばされ候に付」

とあります。
2人はほとんど同時に麻疹にかかっています。
これは2人が長く一緒にいたため、一方が他方に移してしまったのでしょう。
2人の仲のよさがわかる史実で、ドラマで2人の夫婦愛を描くには格好の材料でしたが、スルーでしたね。ちょっと残念です。

他方、鹿児島の話題のほうですが、小松帯刀がいよいよ家老に昇進しました。これは史実どおりです。「小松帯刀伝」によれば、辞令が出たのは文久2年12月(24日だとされています)。
家老の役料として1000石を加増され、それまでの御側詰も兼務です。あまり指摘されませんが、私はこの兼務が重要だと思っています。

またそれから3日後にはさらに辞令が出て、小松の家老としての職掌が示されました。それは、軍役掛、琉球掛、改革内用掛、勝手方掛、蒸気船掛など、じつに10の職掌です。
薩摩藩における家老はふつう5、6人ですが、多くても職掌は3つ程度で、小松のように10も受けもつのは異例中の異例です。調所広郷さえ、それほど多くは分掌していないはずです。久光の小松への信任のほどが示されているように思います。

さて、次回は薩英戦争です。どの程度描かれるのでしょうか。楽しみです。

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【2008/09/21 23:22】 | 篤姫
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第76回
―巧みな交渉で助命得る―

連載が更新になりました。
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今回は宇喜多秀家の薩摩下向の話を書きました。
書きたかったことは、島津家が秀家を匿っていることを徳川方に知らせた前後、まだ関ヶ原の戦後処理の交渉が継続していたことです。
ですから、秀家の処遇がどうなるかも、そのことと無縁ではありません。
このとき、本来は島津家家長の義久が上京するはずでしたが、どうも中央政権を嫌っている義久は上京したくなかったらしく、聟の忠恒が代参しました。
上京にあたって、島津家側は徳川方の井伊直政、豊臣方の福島正則から一札をもらって、安全保障を確かなものにしてから、家康との会見に臨んでいます。用意周到です。それというのも、本領安堵の起請文を得ながら、大幅に減封された毛利輝元の二の舞は避けたかったからでしょう。

家康から本領安堵と西軍に加担した義弘の赦免を得てから、忠恒は秀家の助命嘆願を申し出ています。
豪姫の実家、前田家との連係プレーも見逃せません。
なお、この上京の途中、忠恒は日向野尻あたりで、家中の獅子身中の虫となっていた伊集院忠真(幸侃嫡男)を事故に見せかけて暗殺しています。
この上京は対外的にも、家中問題においても、いろいろな目的があったことがうかがわれ、もっと知られてよいと思います。また、忠恒が家康とじかに会見したことにより、幕府が忠恒を全面的にバックアップすることになるきっかけにもなりました。忠恒にとっては大きなポイントで、その後、家督継承において有利になったと思います。

秀家に話を戻すと、紙数の関係で書ききれなかったことを追加しておきます。
駿府久能山に3年ほど蟄居したのち、改めて八丈島遠島を命じられますが、出航のため港でに滞在していたとき、地震による津波のため、家財をすべて失うという悲運に見舞われています。

八丈島での50年。秀家にとってはあまりにも長すぎる余生でした。赦免の知らせが来るのを一日千秋の思いで待ち侘びていたことでしょう。

なお、八丈島にある秀家の墓の写真については、MさんとYさんから提供していただきました。掲載は1点だけで申し訳なかったのですが、ご好意、厚く御礼申し上げます。

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【2008/09/20 09:44】 | さつま人国誌
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大変面白く拝見しました。
NAO4@吟遊詩人
宇喜多秀家の関ヶ原後のお話、興味深くまた驚嘆の思いで読ませていただきました。ありがとうございました。不躾な質問を発してしまって申し訳ないのですが、宇喜多秀家の関ヶ原から薩摩に至る逃亡の記録というのは、何か史料として残っているのでしょうか。また、八丈島での生活をつづった古文書の類とかあるのでしょうか。


「備前軍記」「日本戦史 関原役」
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

宇喜多秀家の薩摩落ちの記事を読んでいただき、有難うございます。

関ヶ原で敗北して以降の秀家の記録はいくつかありますが、「備前軍記」や「日本戦史 関原役」などが逃亡生活については比較的詳しいように思います。「備前軍記」は『吉備群書集成』三に所収されています。

八丈島での生活はよくわかりませんね。地元の郷土史誌に何か書かれているかもしれませんが。

あと、富田覚真「浮田中納言秀家記」という伝記があるようですが、未見です。



ありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
桐野作人様
お忙しいのに、文献お教えくださりありがとうございます。
『吉備群書集成』三、「日本戦史 関原役」は、近所の図書館にあることが分かりました。

富田覚真「浮田中納言秀家記」
は、身近にはなさそうですが、検索しておりましたら↓見つけました。
http://www.samuraism-japan.com/column_10.html

八丈島では、妻子はいたのですね。ついでに子孫もいたような表現になっています。

慶長7年島津忠恒の上洛+秀家保護の理由
ばんない
こんにちは。島津義久が単純に中央政権嫌いで上洛しなかったかどうかはともかく、忠恒が上洛して徳川家康に島津家当主として認められたというのは、確かにその後の島津家の家督争いにおいて忠恒にとっては追い風になったと思います。

それにしても、関ヶ原の合戦から5年も後になって、宇喜多秀家は前約を翻されて八丈島に流刑になったのですが、桐野さんの今回のお話では、西軍側の実質的大将だった秀家のことを遺恨に思っていた徳川サイドが厳しく罰したという内容に取れました。「秀家の八丈島流刑は本来なら死罪も当然だったのが軽くなった」と書かれている本が多かったので、こういう解釈は驚きでした。

ところで、秀家は八丈島流刑直前に家財の一切合切を津波でなくしたとのことですが、島津家への逃亡→久能山で幽閉…という生活の中でよく家財を貯められたものだなあ、とかえって感心してみたり。…この時家財を無くして完全に無一文になったことが、後の「おにぎり事件」「福島正則の酒を恵んでもらった事件」につながっていくのかも知れませんね。

話は変わって、島津家がこの微妙な時期に、西軍大将の一人・宇喜多秀家をかくまう、という危険を犯した背景ですが、単純に島津義弘と同じ西軍で「同族相哀れむ」…といったそんなきれい事で済まないように思われます。実際島津家サイドも何か下心があったように思われますが、その辺りをうかがわせる史料などは残っているのでしょうか。

秀家処分の軽重
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

記事にも書いたのですが、秀家が助命されたうえは、奥州あたりに流されるのではというのが一般的な観測だったみたいです。それが駿府の久能山だったから意外と寛大だと思われたことでしょう。
その後、幕府が強権で八丈島に再流罪としたから、重刑という印象になったものだと思います。
なぜ、再処分となったのか、よくわかりませんが、秀忠の将軍宣下と同じ年ですから、秀家を本土に置いておけば、自分の死後、大坂方に担がれるかもしれない、かといって、島津や前田の手前、処刑にはできないから、手の届かないところに流してしまおうと、家康が考えたのかどうか? よくわかりません。

島津方が秀家を匿った理由も史料にはとくに表れないと思います。類推するしかないですが、やはり、徳川の覇権が長く続くかどうか、あの時点では定かではなかったはずで、もし天下が流動的になれば、豊家家門という秀家の利用価値があるかもしれないと考えてもおかしくないですね。同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。

ちなみに、秀家が家財をもっていたのは、豪姫の実家、前田家からの支援が大きいのではないでしょうか。前田利長の養嗣子利常は関ヶ原戦後、将軍秀忠の一女を娶っており、姻戚関係にあります。その縁から、何かと秀家に便宜を図りやすかったのだと思います。


ばんない
ご返答ありがとうございました。やはり秀家の処分が変更になった理由とか、島津家が秀家をかくまった理由などは現存の史料では不明のようですね。
>同じ西軍同士の戦友という義侠心はほとんどなかったと思います(笑)。
やっぱりそう思われますか(爆)。私も同感です(苦笑)。

前田家が八丈島の宇喜多親子へ援助を続けていたのは有名ですが、八丈島以前からも援助していた可能性もあるようですね。そういえば、八丈島での宇喜多秀家の生活ぶりは前掲の「おにぎり事件」などいろいろな逸話が伝わっていますが、久能山での生活ぶりは2年と短かったためか知られて無いように思います。

話が島津氏に戻りますが、桐野さんが本文で書かれたように、毛利氏に対しては誓約を反故にしての減封、宇喜多秀家に対してもやはり前約を翻しての遠流と、この頃の徳川家は平気で誓約を反故にする傾向がありますが、島津家はよく誓約を反故されずに領地安堵された物だと思います。やはり明や琉球がらみでしょうか。それとも徳川家側が誓約を反故にするタイミングを逸しただけなんでしょうか(苦笑)。

島津と徳川
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

関ヶ原後、九州の黒田・加藤・伊東らが国境まで攻め寄せていますが、徳川方でも、秀忠を総大将にして島津征伐をしようとする動きが一時ありましたが、沙汰止みになっていますね。

やっぱり地理的な条件が大きかったのではないでしょうか。
南九州の僻地まで大軍を動員するのは兵粮その他、いろいろ大変です。
豊臣政権は石田三成や長束正家など兵站担当の奉行がいて、遠征は得意でしたが、家康はどうだったでしょうか?
また、長引けば不測の事態が起こりかねません。もし徳川方不利となれば、毛利や上杉の再挙兵だってありえないことではないでしょうから。
そんなリスクを負うよりも、多少妥協しても平和的な交渉で解決したほうが賢明だという判断だったのではないでしょうか。
明関係は深読みだと思いますけどね。


ばんない
お忙しい中、レスありがとうございました。やはり島津氏が僻地(失礼)にいたのが有利だったということでしょうか。
黒田・加藤などの九州勢に島津氏を攻撃させるというのも有りでしょうが、この人達が島津氏に勝ったら発言力が大きくなりすぎるでしょうし、万が一負けたらもっと問題なのは容易に想像できたでしょうし…というところかもしれませんね。

宇喜多秀家についてきた人
アリア・ヴァレリ
この宇喜田秀家の薩摩落ちの際についてきた家臣玉川伊予が後に東郷長左衛門重尚の弓の師匠になっていますが、「腰矢台覧記」では玉川は吉田印西の日置流弓術の同輩だったそうです。それにしても日置流弓術師範家東郷氏は影が薄いですよね。南林寺由緒墓に出身者4名の墓があり、島津斉彬の側用人の東郷左大夫や玉里文庫の救済者の東郷重持がこの家の出身者なんですが・・・?。


浮田の子孫です
秀家の子孫です。前田利家の娘ごうの血筋でもあります詳しく資料を作成中です

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日次記です。

9月14日(日)丁巳、天晴
午前中、共著本の校正。
午後から出かける。日曜だったが、某出版社の担当者と会う。
聞いてみると、ちょっとひどい話。たまにはこういうこともあるか。

15日(月)戊午、小雨
何とか雑誌原稿1本仕上げる。
翌日から名古屋出張のため、新しいノートPC(台湾製のモバイルPC)のカスタマイズ。
あれこれ、やることが多いが、往生したのは、CDドライブがないため、アプリはダウンロード版しかダメなこと。PC自体はとても安かったのに、余計な出費が増えそう。

16日(火)、天晴
午前中、新幹線に乗り、名古屋へ。
名古屋市博門前にて、研究会の仲間たちと合流。
恒例の「信長記」調査である。ここは今年3月にも来たが、あまりに史料が膨大だったので、再調査となった次第。
織田某家所蔵の近世文書がたくさんある。大きな函に何箱も。
「信長記」調査に近世文書は無関係ではないのかといえば、そうではない。
「信長記」諸本がどのように成立したのか、その系統はどうなっているのか。とくに太田牛一自筆の建勲神社本との関係が解き明かされるかもしれない。
内輪の研究会で、当家に首巻があるはずだと推定していたが、やっぱり出てきたのだ。当博の学芸員さんが事前に探してくれていた。
もしかして、自筆本かと意気込んだが、残念ながら写本だった。

夜は仲間たちと一杯。
前回行って満員だった、名古屋で有名な居酒屋「山ちゃん」に行く。
手羽先で売っている店。
ピリ辛でおいしかったです。

17日(水)庚申、天晴
前日に引きつづいて、名古屋市博で調査。
近世文書の調書とり、撮影などを一日中つづけた。
それでも、結局、終わらない。
調査は翌18日もあるが、私は都合により本日まで。
お先に失礼した。
調査仲間の金子拓氏より先日あった「信長記」の報告会のレジュメをいただく。
種子島に行っていたときなので、出席できなかったからうれしい。
帰りの新幹線の中で、新聞連載原稿のメモを作る。
PCはすこぶる調子がよかった。
帰宅してみたら、橋場殿下から新刊が届いていた。いつも贈っていただき感謝。
『新説 桶狭間合戦』学研新書
タイトル通り、桶狭間合戦をまとめたもの。「新説」と銘打ってあるから読むのが楽しみである。

18日(木)辛酉、雨
昼すぎ、何とか新聞連載原稿を送付。
午後から雑誌記事の校正が3本もあって大変だった。
中途のままの共著本の校正を進める。校正というより、大幅な加筆修正だからなあ。
あと、このところ不義理していた手紙類への返信を書く。

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【2008/09/18 22:10】 | 日次記
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橋場さんの「新説桶狭間合戦」読みました。
木内
「ポニョと鞆の浦」で初めてコメントさせていただいた木内です。桐野さんからコメントをいただき、とても嬉しかったです。ありがとうございました。桐野さんの作品は、「織田武神伝」からのファンです。小説も好きですが、最近注力されていらっしゃる学術記事を楽しみにしています。橋場さんの「新説桶狭間合戦」、私も読みました。あとがきに桐野さんのお名前が出ていましたので、ご協力されているのだと知りました。桶狭間の戦いに関してはまだまだ知られていないことが多いんですね。

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今日、明日と名古屋出張です。
ノートPCがありますので、アクセス可能です。

本日(関東方面)発売の「週刊朝日」に小生のコメントが掲載されています。
長期連載の「週刊司馬遼太郎」が今回、海賊の雄、九鬼水軍を取り上げています。
そこで、関が原合戦との関わりを少し述べています。
よかったら、読んで下さい。

表紙はモッくんです。
雑誌のサイトはここですが、まだ更新されていない模様。

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【2008/09/16 10:51】 | 新刊
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市野澤 永
お世話になっております。

桐野さんの守備範囲である図録が販売しているので、
お知らせ致します。

図録『九鬼嘉隆-戦国最強の水軍大将-』
頒布のお知らせ
戦国武将九鬼嘉隆を知る図録を刊行しました。
 戦国時代、織田信長や豊臣秀吉のもとで、
「九鬼水軍」として活躍し、
鳥羽城を築いた九鬼嘉隆の生涯については謎に包まれています。
今回、嘉隆の生涯と関連資料を収録した図録を刊行しました。

内容について
目次
嘉隆の誕生
志摩の地頭衆と九鬼氏
織田信長と嘉隆
大名九鬼嘉隆の誕生
文禄・慶長の役
日本丸の建造
関ヶ原の戦いと嘉隆の最後
嘉隆ゆかりの宝物
九鬼嘉隆関連文書
九鬼氏ゆかりの地
志摩の水軍
概説 九鬼嘉隆
嘉隆と茶会
九鬼嘉隆関連文書集 など48ページ
頒布方法について
図録代 1冊 700円(260g)

図録の頒布は鳥羽市立図書館窓口での販売と郵送で取り扱います。
郵送の場合は鳥羽市教育委員会生涯学習課で取り扱います。
郵送の場合は、図録申込書(Word)をダウンロードして、
必要事項をご記入いただき、図録の代金と送料分の切手、
申込書を同封して、現金書留でお送りください。
定額小為替は不可です。
お釣りのないようにお願い致します。
(鳥羽市役所のH.Pより抜粋)

ゆうメール(送料)
1冊 290円
2~3冊 340円
4~7冊 450円
8~10冊 590円

図録申込書はこちら↓
現金書留送付先
〒517-0022
三重県鳥羽市大明東町1-6
鳥羽市教育委員会生涯学習課
電話番号 0599-25-1268

鳥羽市役所のH.P
http://www.city.toba.mie.jp/shakai/houkokusyo.html

情報御礼
桐野
市野澤さま

いつも貴重な情報提供、有難うございます。

九鬼嘉隆なら買いですね。



市野澤 永
こんばんわ。

関連記事です。

九鬼嘉隆:市教委、鳥羽城築城の戦国武将の図録発刊 今後の研究基本文献に

毎日新聞4月8日朝刊

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110408-00000070-mailo-l24

明日は戦国史研究会で埼玉県立文書館です。

九鬼嘉隆
桐野
市野澤さん

こんばんは。
九鬼嘉隆の図録、さっそく注文したら、昨日届きました。
関連史料を掲載してくれているのがいいですね。
ご紹介有難うございます。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第37回「友情と決別」

ドラマの進行時点、文久2年(1862)6月から8月。

前回の予告で、天璋院が小松と会っているシーンがあって、はて、ありうべからざることなのにいかがするつもりかと案じておりましたが、前公方家定の法事にかこつけて、寛永寺で会うという設定はフィクションながら、なかなか秀逸でした。
でも、重ねて台慮(将軍の命令)により、大奥に小松帯刀を呼んで、もう一度会うというのは勇み足だったんじゃないかという気がします。将軍が陪臣の小松に登城を命じるというのは考えにくいですね。

前公方家定の命日は安政5年(1858)7月6日です。ですから、4周忌にあたっていますね。
もっとも、「昭徳院御実紀」(将軍家茂の伝記)によれば、命日当日は天璋院が寛永寺に行った形跡はなく、同8日に老中板倉勝静が家茂の代参として寛永寺に詣でて参拝しているだけです。
前公方の祥月命日だというのに、2日遅れての代参とは、徳川家も随分法要を簡略化したものですが、命日当日は家茂が多忙だったようです。ほかでもなく、一橋慶喜が同家を再相続し、将軍後見職を命じられた日です。

で、今回の見せ場は大久保一蔵が老中の板倉と脇坂安宅(やすおり)を脅した場面ですね。
前にも書きましたが、脇坂安宅は島津家とは縁戚関係にあり、島津久光も江戸入府後、脇坂を訪ねて歓談しています。それが一転するわけですね。

ところで、このときの勅使は攘夷派で知られる大原重徳ですが、勅使や院使が江戸に下向したときの宿舎は伝奏屋敷で、現在の東京丸ノ内1丁目あたりにありました。
2人の老中はこの伝奏屋敷に呼び出されたわけです。

「事件」があったのは6月26日のことです。
前日も板倉・脇坂が伝奏屋敷を訪れ、大原が将軍後見職の一件を申し入れたところ、2人は次のような理由で難色を示します。

「一橋公一条お達しの処、何ぞ将軍ご不承知の訳にもこれなく、また家中など人気などの事にて、一橋後見にて権威相付き候えば、将軍威勢衰へ、左候えば、外藩より一橋公を云々の訳申し立つべく、これにより今一応考え候上、返答に及ぶべしとの事にて相済み候由」(『大久保利通日記』上)

大久保の日記によれば、2人がいうには、慶喜を将軍後見職にするのを家茂自身は不承知ではなく、あくまで徳川家中の「人気」(趨勢とか動向)によるものだということだった。それはもし慶喜が将軍後見職になって権威がついてくれば、将軍の勢威が衰えてしまい、そのうち外様藩から慶喜を将軍に立てるべきだという声が出てくるかもしれない(そのことを恐れている)。だから、一応考えたうえで返答したい、というものだった。
将軍家茂の意向ではなく、老中はじめ譜代大名や幕臣たちが必要以上に憂慮していたということらしいです。
なお、将軍後見職だけが話題になって、松平春嶽の大老(のち政事総裁職)就任が話題になっていないのは、すでに18日に幕府が承諾していたからです。

その趣旨を久光に伝えたところ、久光が「(大原に)臨機応変に申し上ぐべし」と大久保に命じています。
そこで、午後2時頃、大久保は同僚の中山中左衛門と同道して伝奏屋敷に行き、大原と会います。すると、今日板倉と脇坂がやってくる予定になっていることを知らされます。それは好都合とばかり、大久保は大原に次のように進言します。

「今日は幸いの折柄にて万一お請け申し上げず候はば、閣老を返し申すまじく決心にて申し上げ候処、よほどお振りはまり、それほどの事に候はば、自分きっと差しはまるべしとて、やがて閣老参り、十分ご決心にてお達しの処、これにはお請けよろしく、もっとも、お請け致さず候えば、只今変に及ぶとの事も仰せ付けられ候由、面色相変じ由也、お請けの方に勘考仕るべきとの事の由」

大久保は大原に「今日は老中を返さない決心」で言上したところ、大原も察したようで、たいそう張り切ったようです。「振りはまる」というのは薩摩弁で、小松・西郷・大久保などの書簡や日記に頻出します。張り切るとか頑張るというニュアンスです。
大原が板倉と脇坂に「勅諚を請けないと、すぐさま変に及ぶぞ」と申し渡したため、2人の老中は顔色が変わったとのこと。
「~由」という伝聞形で書いてあるので、大原と老中の会見に大久保は同席しておらず、あとで大原から聞いたということでしょう。

大久保の日記によるかぎり、この日、大原と会見したのは大久保と中山で、小松の名前は出てきません。つまり、小松は同席していません。
それと、これには大久保が隣の間に刺客を控えさせておいたとも書いてありません。

そのことが書かれているのは越前藩の記録のほうで、春嶽の側近である中根雪江の『再夢紀事』に出てきます。

「野史氏云う、(中略)昨夕両閣老(板倉・脇坂)大原殿の許へ参上の筈に付き、三郎(久光)、大原殿と謀って、薩より三人の死士を指し出し、三の間に伏せ置き、大原殿応接の結局、勅意行われ難き場合に至らば、大原殿坐を起って次の間へ出らるべき、それを相図に三士両閣の坐に闖入して、違勅の罪を鳴らし、忽ち天誅を行ふべしとのしめし合せに待ち受けられしに、両閣参上の上、果して大原殿の申さる儀を百方抗拒ありて承引に及ばれざる故、最早坐を起るべき最後の一言に、いよいよお請けこれなきにおいては、禍害目前に各々の身上に及び候が、それにても宜しきかと申されしかば、両人大いに避易して、左様の次第と相成り候ては、幕府の失体容易ならずと漸くにお請けに及ばれし事にて、実に危急切迫の事なりしぞ」

これによれば、薩摩藩から「三人の死士」を差し出したことになっていますが、今度は大久保の名前が出てきませんね。まあ、大久保がこの日伝奏屋敷に行ったことは本人が日記に書いているので、間違いないでしょう。

で、「三人の死士」が誰かですが、よくわかりません。『大久保利通伝』上は、吉井幸輔と野津(七左衛門=鎮雄か)の名前を挙げています。あと一人はわかりませんね。

大久保利通伝』上は、「三人の死士」がいたことには否定的です。29日の大原の登城のとき、吉井と野津が決死の覚悟で同行したのと混同しているのではないかと記しています。
もしそうなら、ドラマで大久保が隣の間に刺客と控えていたシーンはフィクションだということになります。

大久保の日記によれば、この日、伝奏屋敷で「板倉用人山田」と会って「大議論に及」んだと書いています。
山田とは、山田安五郎のちの方谷です。山田は板倉勝静の顧問で、備中松山藩の藩政改革を進めました。河井継之助の師匠としても有名ですね。

しかし、ドラマであったように、幕府は薩摩の恫喝をそれほど問題にしていたのでしょうか。
というのも、大久保の日記によれば、「事件」からしばらくした7月2日、久光は幕府から刀を拝領しています。これは「浪人鎮撫之命」を果たしたことによるものです。寺田屋事件の褒賞ということですね。このことから、少なくとも表立っては、幕府と薩摩藩の関係は良好です。

なお、江戸在府中の小松の動静はあまりわかりません。大久保の日記に出てくるくらいで、7月11日に小松は大久保・中山・谷村昌武・堀次郎らと汐留から隅田川で船遊びをしているようです。

いよいよ生麦事件も勃発しましたが、あっけなかったですね。
本当なら、久光の命によってリチャードソンを斬ったはずですが、久光は眠そうで、何が起こったかわからなかった風情でした。この辺はもう少し丁寧に描いてほしかったです。
斬ったのは奈良原喜左衛門ということでしたか? 配役に名前がなかったような(うろおぼえ)。

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【2008/09/14 22:52】 | 篤姫
トラックバック(1) |

拝読
安田清人
何かとお世話になっております。いつも楽しく拝読いたしておりまして、特に篤姫へのコメントはとても勉強になります。本日更新の部分で、余計なことではありますが河井継之助が河合になっておりました。もし、お気づきであればご放念ください。

訂正しました
桐野作人
安田清人さん、こんにちは。

いつぞやはお世話になりました。

ご指摘のところは直しておきました。
有難うございます。


びわこ
桐野さん、こんにちは。
昨日の小松帯刀を見ていて、なんかすごく顔色が悪いメイクをしているなぁ・・・と、感じました。
若くして亡くなる伏線になっているのでしょうか・・・

小松の「脚痛」
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

そういえば、瑛太のメイク、茶色っぽかったですね。
とくに早世の伏線というわけではないと思います。亡くなるまで、まだ8年もありますから。

でも、この時期、小松の体調がそれほどよくなかったのは事実です。
宿痾の「脚痛」があったらしく、幕府に乗物御免の申請書を出して受理されています。
このとき、小松は側役で家老座出仕(家老の評定の席にオブザーバー参加できる)という役職でした。家老に準じていたため、江戸市中では駕籠での移動が義務づけられていましたが、それの免除申請を出しています。その理由が「脚痛有之」でして、おそらく駕籠の中で足を折るのがつらかったのでしょう。「脚痛」でも、部位は足首から下だったようです。

そんな体調不良を考慮してのメイクだったら、すごいですけど、おそらくその日のメイクの偶然の具合ではないでしょうか?


瑛太の顔色
びわこ
桐野さん、ありがとうございました。

ついつい、要らんところまで見てしまいます、小姑根性ってやつですか・・・(笑)



登城命令
御座候
>将軍が陪臣の小松に登城を命じるというのは考えにくいですね。

仮に登城命令を出すにしても、「家茂」の名前で直状を出すとは思えません。せいぜい老中連署奉書といったところではないでしょうか・・・

文久二年の政局
板倉丈浩
こんばんは。
変な流れをそのまま引き継いでいるので、やっぱり変な話でした(苦笑)
この文久二年の政局では、薩長など雄藩が朝幕周旋を競い合っているという構図がポイントなんですが、長州藩は話題にも出てきませんね・・・。困ったものです(^^;

>幕府は薩摩の恫喝をそれほど問題にしていたのでしょうか。

正確に言うと「大原勅使の恫喝」ですが(笑)
ご指摘の通り、大して問題になっていないようです。
大原勅使は江戸在府中、ずーっと横柄に振舞っていましたので、特にこの日だけ恫喝されたからどうこう、ということではなかったんでしょう。

天皇からも「今回の改革案は薩摩藩のたっての要望であり、公武合体のためにも何とか受け入れてもらいたい」と和宮ルートで別途申し入れがあったこともあり、公武合体が破談して一番困るのは彼ら幕閣でした。
慶喜登用に反対していた老中首座・久世広周は勅使到着直前に辞任しており、リーダーシップ不在で「積極的に反対はしないが、いろいろ心配で賛成もできない」とグズグズしていただけ、というのが実情ではないかと思われます。
(久光や春嶽は当時の幕閣を「因循」「ふぬけ同然」と評しています)

問題は人事案件が片付いた後で、「久光を藩主に」とか「久光に官位を」とか筋悪な要求が次々と出てきて、加えて前回言及した藩邸放火の件が明るみになって、幕府の薩摩藩への心証は決定的に悪化しました。
それでも、放火した藩士の処分は薩摩に委ねるなど大甘もいいところで、天璋院の実家への幕府の配慮は相変わらずだったようです。

またまた長文失礼しましたm(_ _)m


老中奉書
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

ご指摘のとおりですね。
ドラマでは将軍家茂の直書だったような。まさかですよね。
諸藩の江戸詰の家老が登城して老中に会うことはありますが、そのケースとは異なります。
近世初期は老中連署奉書でしたが、そのうち簡略化されて、幕末期には、単なる老中奉書、それも署名もなくなるのではなかったでしたっけ?


周布政之助
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

このドラマは話を単純化するところに特徴がありますね。
このドラマで幕末のことがわかったといったコメントを読んだことがありますが、噴飯物です。

そう、長州が無視されていますね。
大久保の日記を読むと、大久保は在府中、周布政之助と最低2回は会っています。
周布は桂小五郎とともに長井雅楽の航海遠略策を葬り去った人物ですから、大久保と会ったのには、薩摩側の周旋の事情を探る目的があったはずですよね。
その結果をある程度見定めてから、一気に攘夷路線に舵を切り、薩摩との差別化を図ったのかもしれません。

鴻門の会
板倉丈浩
こんばんは。
>大久保は在府中、周布政之助と最低2回は会っています。

朝廷は薩長協力して周旋することを希望していたのに、長州藩主が急遽江戸を離れることになったため、周布らはその釈明に来たわけですが、融和どころかあわや斬り合いという険悪な空気になりかけたところ、大久保が畳を独楽のように回す曲芸を披露してその場を収めた・・・という話を思い出しました(笑)

そういえばこのエピソード、昔の大河「翔ぶが如く」でもスルーされていたような・・・。
クールな大久保のイメージからすると意外すぎる話なので、使いにくいんでしょうか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第75回
―島津の勇猛伝説にメス―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、江戸時代後期、悲憤慷慨の書『島津家御旧制軍法巻鈔』を著した軍学者徳田邕興(とくだ・ようこう)について書きました。
もしかしたら、「邕」の字が表示されていないかもしれません。「邑」の上に「巛」を書く字です。

この著作は『新薩藩叢書』に収録されていますが、初めて読んだとき、衝撃を受けました。このように、ズケズケと書く人物が薩摩にもいたのかと。

その後、なぜ徳田がこのような激烈な書を著したのか、その時代的な背景に興味が出てきました。今回はその一端を書いたつもりです。
平和な時代、軍学も形骸化してしまい、甲州流がもてはやされています。徳田はそんな軽薄な風潮に腹立たしかったのでしょう。お上品な講釈で満足していいのか、戦争のリアリズムとはこういうものだ、薩摩軍法は古いといわれるが、そうじゃないと主張したかったのだと思います。

「高輪下馬将軍」と称された藩主重豪にまっ向から論戦を挑み、島流しとなっても屈しなかった徳田の事蹟は前から書いてみたいと思っていました。

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【2008/09/13 11:45】 | さつま人国誌
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「前積り」
かぎや
とても興味深い記事でしたので、さっそく「さつま人国誌」を拝読させていただきました。

もしかすると、戦国終期の火縄銃による野戦での完成された戦術として「前積り」というものがあったかも知れない可能性があることを始めて知りました。

ただ、先生が「さつま人国誌」で紹介された説明を考えてみたのですが、小生には実態がよく理解できません。

そこで、質問させていただきたいのですが、
十人毎の射手というのは、薩摩では皆が鉄砲を所持してはいたが、旧態依然たる寄親寄子制(?)から脱却できていなかったために、常時訓練を受け行動を共にする隊伍がなく、合戦に臨んでその都度編成されたということなのでしょうか。
それとも、
関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

また、自陣前の地面につける印というのは、隊伍に分かれた銃手たちの配備位置を事前に受け持ち範囲を決定して配備するに際して、口頭の指示ではたりず実際に縄張りして置くという硬直した配備なのでしょうか。

それとも、後世の大砲の射撃のように目標に狙いをつける基準になる一定距離に目印を設置しておくといことなのでしょうか。

どちらにしても、薩摩の鉄砲が野戦で攻撃的に使用でき、他の大名に比べて強かった理由になるとは思えません。
常設の鉄砲射手であったならば、関ヶ原では奇襲を受けたわけでもないのですから、「前積り」をしていなかったからといって、慌てて迎撃して混乱したというのは理解できないのです。

先生は、どうお考えでしょうか?



繰抜
桐野作人
かぎやさん、こんにちは。

難しいご質問ですね。推定を交えながら、お答えさせて下さい。

まず、関ヶ原での島津軍の編成や性格ですが、寄せ集めであるのはたしかですね。ですから、ご指摘のような

>関ヶ原での薩摩軍が正規軍でなく有志を集めただけであったために集団的な行動をとるための準備・打ち合わせが不足したということなのでしょうか。

このような面があったのはたしかだと思います。
ただ、島津豊久の軍勢については、島津軍のなかで、唯一のまとまった数百の家来を率いており、本来なら統一的な行動が可能だったはずです。
豊久の経験不足があったのでしょうか、よくわかりません。
豊久を弁護すれば、大垣城から転進してきて、あまり時間をおかずに開戦していると思いますので、「前積り」をする時間的余裕がなかったのか、あるいは、他の寄せ集めも麾下に繰り込んで采配をとらなければならなかったので、統制をとるのが難しかったのかもしれません。

「前積り」は「繰抜」(あるいは繰詰)という鉄砲戦術と関わっています。連載では紙数がなかったので詳しく書けなかったため、少し誤解を招いたのかもしれません。

「繰抜」は、徳田の著書によると、一列ずつ鉄砲を放つと、そのまま(その場所で)玉込めをします。その間に後列がその前に出て放ちます。その繰り返しの運動を指します。
したがって、鉄砲隊は常に前に出て行くことになります。そのとき、混乱しないよう、あらかじめ地面に印を付けて配置を定め、混乱を回避しようというものだと思います。

ちなみに、射手は衆中、つまり正規の武士たち(徒士衆)ですね。彼らは郎党を率いている者もいます。「繰抜」のときは郎党は背後に控えているのかもしれません。「繰抜」が一段落してから、「鉾矢形」という突撃態勢に移ります。そのとき、郎党たちは主人のところに集まり、主従で突撃するのでしょう。郎党たちの武器は鉄砲ではなく、持鑓か弓矢、太刀のようです。このうち、持鑓は主人の得物かもしれません。

だいたい以上のようなことが徳田の著書にかいてあります。
なお、今年刊行された学研歴史群像シリーズ特別編集「戦国九州三国志」に少し詳しく書いていますので、よかったら、ご参照下さい。

「繰抜」
かぎや
御忙しいところ、ご丁寧な説明を有難うございます。

だいたいのところは分かったような心算ですが、「地面の印」は今一疑問です。小頭なり伍長がしかるべき位置に立ち、組員はその左なりに整列すればよいのでしょうから、地面の印が何のために必要なのかが理解できないでいます。

いちいち、そんなものが必要ならば、不期遭遇線での薩摩鉄砲はすこぶる重鈍な働きしかできないことになってしまいそうです。

早速、御紹介いただきました「戦国九州三国志」を勉強したいと思います。


桐野作人
かぎやさん

念のために。
印は開戦前の立ち位置ではなくて、開戦して繰抜をするとき、各列が前進するわけですが、そのときの想定立ち位置へのマーキングだと思います。

不軌遭遇戦をどのようにお考えなのかわかりませんが、開戦までにある程度の時間があるときに採用する方法だと思います。


ありがとうございます
かぎや
わざわざ有難うございます。
小生も、先生のおっしゃられる意味で、マーキングを受け取っていますが、西洋のマスケット銃隊などがマーキングしたとは思えません。…不勉強で実際のところは知らないのですが。

それと、「不期遭遇戦」と書いたのは、期せずして戦端を開いた場合を想定していまして、例えば河合秀郎氏が「新説・姉川合戦/日本戦史」(学研文庫)で想定したように、順次部隊を戦線に投入するようなときとか、小豆坂合戦のように山間ではち合わせしたような場合です。

一緒に島流しになった薬丸半左衛門の伯父さん
アリア・ヴァレリ
この徳田という人は徳田大兵衛と関係あるんでしょうか?また、「三州遺芳」では久保之英長男で薬丸半左衛門の実の伯父で、「日新公伊呂波御歌」の作者である久保平内左衛門之正も島流しになったようです。その後、許されて帰国するものの今度は種子島に島流しになってそのまま死去したとか・・・。

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いささか旧聞に属するが、先月下旬、種子島での鉄砲伝来シンポジウムに出席したときの報告を簡単にしておきます。

鹿児島出身ながら、種子島に行くのは初めて。
羽田を発ったのは8月22日のこと。種子島へは直航便がないので、鹿児島で乗り換える。
折から天候不順で、鹿児島から種子島への便は飛ばないかもしれないとおどかされた。
でも、杞憂で、飛行機は飛びました。
50人ほど乗れるプロペラ機です。窓から主翼とプロペラが見える。じつをいえば、ちょっと不安だった(笑)。

その夜は、西之表市の副市長さんと、地元の研究者鮫島安豊氏に宴席を張っていただく。
パネリスト仲間である太田浩司氏(長浜歴史博物館学芸員)と、中村博司氏(自転車博物館事務局長)と同席。
お二人は国友と堺という2大鉄砲産地からのゲスト。太田氏とは以前、安土でお会いしたことがあるので、旧交を温めた。
宴席とはいい条、翌日のシンポの打ち合わせばかりか、かなり専門的な話になった。

翌23日午前中は近くの史跡と鉄砲館を拝観。
種子島家の菩提寺、本源寺にある墓所をお詣り。種子島時堯やカタリナ夫人(永俊尼)のお墓などがあった。カタリナ夫人は最後まで棄教しなかったキリシタン。薩州島津家の縁者でもある。
赤尾木城の近くの高台に時堯の銅像が見える。登ろうとしたとき、突然のスコール。すぐ近くの鉄砲館に避難した。
有名な初伝銃の複製などを見学した。
赤尾木城はそのうち行けるかと思ったが、結局、行けずじまいだった。残念。

シンポジウムは西之表市市民会館で開かれる。
友人の宮島孝男氏(鹿児島県議会議員)と久しぶりに会う。今回のコーディネーターである。彼は離島振興に非常に熱心だ。
原口泉氏(鹿児島大学教授)とも再会。言わずと知れた大河ドラマ「篤姫」の時代考証担当である。
パネラーは、鹿児島本土の原口氏、堺市代表の中村氏、国友村代表の太田氏、種子島代表の鮫島氏に、私が加わるというもの。果たして、私の役割は何だと思うことしきりだった。

シンポジウム「鉄砲伝来の歴史を生かした島づくりをめざして」が始まる。
パネラーに課せられていたのは、鉄砲との関わりと、島への具体的提言である。

前列には、西之表市長はじめ、市の幹部の方々、それに種子島家の方々もお見え。
宮島氏の軽妙な司会で始まる。
パネラーのみなさん、鉄砲について、それぞれ一家言をお持ちだった。
私はというと、鉄砲との関わりといっても、史料上のそれしかない。それで、鉄砲が初めて実戦で用いられた黒川崎合戦での通説に疑問を呈したことと、長篠合戦での鉄砲の使い方と鉄砲が戦術や社会に与えた影響などについて語る。
太田氏は国友村の経験をまじえて、うんうんと相づちを打つような具体的提言をされるし、中村氏は自転車と種子島についてユニークな提言をされる。原口氏はこれまた得意の話術で観客を魅了。

私は具体的提案など思いつかず、結局、種子島時堯は鉄砲伝来で知られるけど、それだけではない別の面を語る。時堯は上京して将軍義輝に拝謁しており、「永禄六年諸役人附」に名前があり、在国衆として将軍の直臣待遇を受けていることを紹介。
種子島氏は中央とのパイプを活かすしたたかな面をもっており、これが島津氏との関係においても有利に作用したのではないかと思われる。交通が不十分な時代に、当主みずから上京したのは、南九州では時堯と私の郷里の薩州島津家(実久と義虎)だけだ、そういう勇気としたたかさを学ぶべきだといった抽象的な話しかできなかった。

その後、村井章介氏(東京大学大学院教授)の講演会があった。
村井氏は中世対外関係史が専門で、鉄砲伝来年が定説だった天文12年(1543)ではなく、前年の11年だと唱えており、現在、大方に受け容れられている。
演題は「鉄砲伝来研究の現在」というもので、鉄砲伝来の多元ルート伝来説批判が中心で、日本だけでなく、ヨーロッパ、中国、朝鮮の史料を駆使した実証的なものだった。

夜はホテルの大広間で、盛大な歓迎パーティが開かれた。
全国から20数団体の鉄砲隊が一同に揃う。みなさん、お揃いの出で立ちで勇ましい。
種子島家の方々にもご挨拶。新聞連載を読んでいただいているそうで恐縮する。またご当主の姉上は研究者で、幕末種子島家の女当主松寿院(篤姫の伯母)を執筆中とか。連載拙稿で書いた、本能寺に島津義久後室(種子島氏)の供養塔があるのをご存じなく、一度訪れてみたいとの仰せだった。
ほかにも、作家の神坂次郎氏もお見えだった。

翌24日、心配された雨もあがり、西之表港近くの広場で、全国火縄銃大会が開かれた。
出店もあって、市民がたくさん集まっている。
参加団体では最北の米沢藩古式砲術保存会の実演から始まった。
この方々とは飛行機で一緒で、空港からホテルまでも同行した。
以前、鉄砲の実射に立ち合ったことはあったが、空砲とはいえ、やはり轟音は凄まじい。
2、3の団体の実演を見学したのち、島の探訪に出かける。

一昨日の夜、パネラーの太田・中村の両氏が私より先に入島して島の見学をしたと聞いていたので、私が羨ましいと連発していたせいか、村井章介先生とご一緒で、若手の市職員が島を案内してくれるというのだ。有難いこと、このうえない。
とくに、最南端の門倉岬(ポルトガル人を乗せた王直の倭寇船が漂着したところ)と、その近くの前之浜にある英国帆船ドラメルタン号漂着の場所、そして種子島宇宙センターに行くのが楽しみだった。

何といっても、村井先生と一日中、ご一緒できるなんて僥倖である。
先生は穏やかな方で、私のバカ話にもお付き合いして下さる。また、種子島氏と豊後大友氏の交流など、あまり知られていないお話もして下さった。
市職員の方も親切で、私のわがままな注文をほとんど聞いてくれた。
上記の見学も満喫できたが、ほかにも、赤米を作っている宝満神社、宝満の池など、見どころが多かった。弥生時代の有名な広田遺跡も見学できた。
とくに、砂鉄がある砂浜はすごかった。一番多い砂浜ではなかったが、それでも、砂浜一面がまっ黒で、近づくとキラキラ粒子が反射している。
これが鉄砲を製造できた秘訣だと実感する。

種子島家墓所
種子島家の墓所
パーティ
全国の火縄銃愛好団体が集まったパーティー
鉄砲実演
鉄砲実演会
行列
南蛮行列で行軍する根来鉄砲隊
門倉岬
門倉岬の鉄砲伝来碑
赤米
赤米が稔っていた



ロケット
種子島宇宙センター
砂鉄
砂鉄で覆われた砂浜




帰りは高速フェリーだった。
種子島家ご当主の奥様と同船し、貴重な史料もいただいた。多謝。
佐多岬の灯台を海から見られたのは感激だった。

当日は鹿児島泊。
南日本新聞社の方々と、以前からメールでやりとりしていた丹羽謙治氏(鹿児島大学法文学部准教授)にもお会いできて、盛り上がった。丹羽氏は幕末の薩摩藩士木脇啓四郎の史料を発掘し刊行されている。

翌25日はJA鹿児島農協中央会に招かれて講演会。
郷土の先人、小松帯刀の生き方に学ぶ
250名ほどの幹部の方々に、どの程度役立ったか、はなはだ不安である。

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【2008/09/12 00:25】 | 雑記
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最近、仕事に追い詰められてくると、ストレスのために何か吐き出さないと苦しいらしく、思わず「ポニョ、ポニョ、ポニョ~」と宮崎駿最新作の主題歌が口について出ます。CMの刷り込みは恐ろしいもので(苦笑)。

映画じたいは、お子様向けだと思って未見ですが、どうも、ある含意が埋め込まれているのではないかと、ひょんなことから気づかされました。

新聞の投稿欄で見たのですが、映画の舞台になっている港というか海は、備後鞆の浦(現・広島県福山市)だということらしいです。真偽を確認したわけではありません。

もしそうだとしたら、宮崎監督の鞆の浦へのオマージュが込められているのかもと感じた次第。

鞆の浦は古代には大伴旅人の歌が万葉集に収められ、中世は瀬戸内海運の重要な潮待ち・風待ちの湊でした。
近世に入ると、朝鮮通信使が往来し、薩摩藩がらみでも、琉球王朝の慶賀使や謝恩使が往来しました。町のお寺で、音曲を得意とした琉球王族の青年がこの地で病死して葬られている墓を発見したことがあります。ほかにも有名どころでは、山中鹿之助の首塚や平賀源内の供養塔もあります。
そして流浪の将軍足利義昭が仮の御所を置いたのもここです。義昭が住んだという鞆城跡もあり、「鞆幕府」だという研究者もいます。

幕末には、8・18政変に敗れた三条実美ら七卿が滞在しました。
そして、坂本龍馬率いる海援隊所属のいろは丸が紀州藩船と衝突して、鞆津の沖で沈没し、両者の賠償交渉が行われたのもここです。龍馬が宿泊した民家も現存しています。沈没したいろは丸の遺物を引き揚げて展示している記念館もあります。
鞆港
鞆の湾内
雁木
港に残る雁木
七卿
七卿が宿泊した太田家
常夜灯
安政年間に建てられた常夜燈
龍馬
坂本龍馬が宿泊した民家



この港が何より素晴らしいのは、江戸時代の港の景観や施設・機能をそのまま残していることです。江戸時代の港がほとんどそのまま残っているのはここだけです。私たちが知っている江戸時代のイメージの多くは文字や絵画史料によるものですが、鞆の浦には当時の現物がほとんど手つかずで残っているのです。それこそが最大の魅力です。

とくに対潮楼から見た景色は朝鮮通信使も絶讃したように圧巻です。このままでは、この景色も見られなくなります。
現在、この貴重な景観が一気に失われようとしています。港を縦貫する形でバイパスが建設されようとしているからです。

この鞆の浦の貴重な景観が失われることは、日本にとって大きな損失ですし、鞆の浦の住民もこのままでは貴重で魅力的な観光資源を失ってしまうことになります。長い目で見れば、住民の皆さんにとっても、取り返しのつかない損失になるのではないでしょうか。生活と環境を両立させる方法は知恵を絞ればあると思うのは私だけでしょうか。

宮崎監督は鞆の浦のバイパス建設に反対しているとも仄聞します。果たして、そのような鞆の浦の現状を憂慮してのオマージュだったのでしょうか?

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【2008/09/10 01:21】 | 雑記
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対潮楼、私も行ったことがあります。
木内
はじめまして、桐野さんの書籍、欠かさず読ませていただいております。数年前になりますが、対潮楼、私も行ったことがあります。そこからの鞆の浦の風景、潮の流れが美しく、記憶に鮮明に残っています。いつまでも大事に残してもらいたいものです。

ありがとうございます
桐野作人
木内さん、こんばんは。

拙著を読んでいただいて有難うございます。
かなり古い読者でいらっしゃるんですね。感無量です。

鞆の浦、いまのままっでいてくれたらいいですね。


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小生のコメントが載っております。

長期連載中の「週刊司馬遼太郎」シリーズが「戦国武将列伝⑤」として、現在、直江兼続を取り上げています。来年の大河ドラマの主人公ですね。たしか前号から直江の特集が始まったと思います。
小生のコメントは前段にあります。よかったら、読んで下さい。

同誌は関東圏では本日発売です。
今週号の詳細はここです。

余談ながら、今週号の表紙は苦虫を噛み潰したような某党総裁候補です。
前号が可愛い猫を抱いたキョンキョンでした。保存用には掲載が前号だったらよかったのに……。

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【2008/09/09 09:37】 | 新刊
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NHK大河ドラマ「篤姫」第36回「薩摩か徳川か」

2回分の感想を飛ばしましたので、久しぶりに書きます。

ドラマ進行時点は文久2年(1862)3月から4月頃。

今回は何といっても、国父久光の率兵上京と寺田屋事件が注目ですね。

まず、率兵上京の行列が大砲と鉄砲を視認できる形で運んでいましたが、どうでしょうか。
このとき、携行した火器は野戦砲4門と小銃100挺と言われています。
「入り鉄砲に出女」といわれるくらい、江戸に大名が鉄砲を持ち込むことはご法度です。しかも、大砲ですからなおさらですね。
その意味で、「前代未曽有」(『旧邦秘録』)でした。年寄の滝山でしたか、「前代未聞」と語っていましたが、まさに型破りの行軍だったことは間違いありません。
しかし、大砲はあんなに裸で運んでいません。大砲も小銃も「荷作」して運んだと同上書にありますから、少なくとも、沿道でじかに目撃されるはずがありません。大砲は野戦砲とありますから、分解し梱包できる程度の小型のものだったと思われます。
久光もギリギリのところで幕法を遵守するふりはしているわけです。

また、観行院か庭田嗣子だったかが、京都でいくさになったら薩摩のせいだと語っていましたが、これはオーバーですね。
薩摩藩兵はほとんど伏見屋敷に駐留したはずで、久光はわずかな供廻を連れて入京し、錦小路の藩邸を拠点に公家衆と会っております。錦小路藩邸は手狭で、そんなに人数を収容できません(だから、翌年新たに二本松藩邸が造営されました)。少なくとも洛中では久光から仕掛けるいくさにはなりません。尊攘派が仕掛ければ別ですが。

これはいわずもがなですが、このとき、天璋院が久光と通じているとか、薩摩藩と幕府の間で板挟みになって苦しんだという史料はないと思います。まあ、そうでもしないと、天璋院との関わりを描けないでしょうからね。

さて、寺田屋事件です。
久光の命による上意討ちが強調されていました。
最近、芳即正氏は上意討ちだっただけでなく、尊攘派の策動は「違勅」にあたり、その鎮撫は勅命でもあったと主張しています(『島津久光と明治維新』新人物往来社)。
同書によれば、議奏の中山忠能と正親町三条実愛から、孝明天皇の意向として是非鎮静せよとの厳命があり、久光に宛てられた勅書にも、「(尊攘派の)猛暴の形勢」は「忠憤かえって違勅の筋にあたり」と明記されていたということです。
つまり、久光の決断は勅命に基づくものだということです。
その勅命を忠実に遂行したわけですから、朝廷の久光への信任が高くなるのも当然ですね。これまで、勅命があっても、いろいろ言い訳して実行したことがなかった幕府の態度との鮮明な違いを天皇が感じたということでしょう。天皇の信任はその後の薩摩藩の政治資産になったと思います。

寺田屋事件のあと、久光が「有馬らのことは幸いであった」と感想を洩らしました。それを聞いた小松帯刀が久光を信用できなくなり、江戸へ行きたくないと弱音を吐いたところ、大久保一蔵がそうではない、有馬新七らの死は無駄ではなかったといって説得していました。
その理由というのが、有馬が寺田屋に残したという「遺書」のようなものです。

今回、この解釈をしたのかと思いましたが、たしかにストーリーとしてはうまいでしょう。
その典拠となる史料は、豊後岡藩士で攘夷派の志士だった小河一敏(おごう・かずとし)が書いた『王政復古義挙録』です。小河もこのとき有馬らの同志でしたが、別の一隊を率いていたため、事件には遭遇しませんでした。
これによれば、事件の直前、小河は有馬新七・田中謙助と薩摩藩の大坂屋敷で密談しています。そのとき、有馬と田中が次のように小河に語ったそうです。

「尊攘の大義こそ眼目なれ。其の第一は姦吏を除くの外なし。今の世にあたり順を以て之を除かんこと、甚だ難ければ、兵を挙て殿下(関白九条尚忠)と所司代(酒井忠義)とを除くの外なし。然るときは天下列藩大平の酔夢も醒めて一新の端を開くべし。此時にあたり、非常のことをなさざれば、尊攘の道立べからず。いざや和泉殿(久光)の命を待たずして傍らより出て姦賊を斃しなば、夫れに随ひては和泉殿必ず大処置あるべし。是れ和泉殿の意に背くに似たりといえども、其の実は斯くありてこそ、和泉殿の功業も大に立べけれ。されば、取りも直さず和泉殿への忠節も此の外なし」

尊攘の大義のため久光の命には背くが、自分たちが先駆けすれば、その後、久光が「大処置」を断行してくれる。久光の意に背くことこそ、久光への忠節であるという論理です。「大処置」が有馬たちへの鎮撫を指すとすれば、ドラマのような解釈もありで、有馬たちは成敗されるのを覚悟の自爆的行動だったことを自覚していたというわけですね。

さて、小河がこれを書いたのは明治中期です。同時代の史料ではないので、どこまで信用していいのか何ともいえません。
刊行時、まだ有馬ら9人の名誉は回復されていません。うがった見方をすれば、小河が同志だった有馬新七らの行動を名誉回復するために「義挙」と賞讃しつつも、久光の上意討ちもしくは勅命に基づく鎮撫という定説も否定せずに整合性をつけるためにつくり出した「理屈」の可能性がないとはいえません。
一方、この書は当時の文書を引用するなど、実証的な態度も見られますから、後世の記録とはいえ、信用できるのではないかという考え方もあるでしょう。

なお、この小河の書にも「伏水一件(寺田屋事件)の人々は違勅なれば、打果して指し押へたるを沈静し得たり」と書かれており、違勅の挙だったことをうかがわせます。


話は前後しますが、西郷が久光の命を破ったために、また島流しになってしまいました。
西郷にも言い分があるでしょうが、久光の怒りももっともです。久光が西郷を下関に留めようとしたのは、ドラマで久光のセリフにもあったように、西郷が幕府のお尋ね者であり、京都に行って単独で行動すれば目立って捕縛される可能性があったから、下関に留めようとしたのです。その親心がわからぬかと、久光は言いたかったはずです。
当時、島から帰った西郷は大島三右衛門と名乗っていました。西郷吉之助(善兵衛か)は死んだことになっていたからです。

また、大久保もこの率兵上京を機に、正助から一蔵に改名しています。今回は両方とも併記してありましたね。ちゃんと史実を踏まえていました。
西郷を説得する場面、かつての「翔ぶが如く」では、明石の浜で大久保が西郷にともに刺し違えようと迫る迫真の場面がありましたが、今回はおとなしかったのと、いるはずもない小松も同席していました。小松は側役ですから、久光の側を離れてはいけません。

次回はいよいよ久光主従の江戸乗り込みです。
大久保の活躍が見ものです。
予告を見るかぎり、天璋院がひそかに小松を大奥に引き入れるようです。むろん史実ではなく創作ですが、それでは今回何のために薩摩に関わる品々を焼いてしまったのかということになりませんかねえ? 本寿院などのうるさ方を納得させられるどんな理由づけをするのでしょうか?

余談ながら、最後の篤姫紀行は伏見の寺田屋周辺でした。
ドラマは寺田屋事件そのものだったのに、寺田屋の建物をほとんど映さなかったのは不自然です。もしかして最近の「寺田屋騒動」を意識してのことでしょうか?

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【2008/09/07 22:26】 | さつま人国誌
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久光率兵上京と寺田屋事件
板倉丈浩
こんばんは。
毎回の詳しい解説、とても楽しみにしています(^^

さて、今回は(も?)変な話でしたね。
肝心の薩摩藩邸焼失の件がスルーされちゃってますし・・・。

幕府は天璋院の実家が燃えちゃったということで、財政援助したり藩主参勤に替わる久光の江戸参府を許可したりと、非常に気遣いを示していたというのが実情でしょう。
ずっと後で、薩摩が自ら火をつけたことが露見して一波乱ありましたが、久光上京の段階で幕府や大奥が大騒ぎするなんてありえないように思えます。

あと有馬新七の政治的目標については、原口清氏の論文『文久二、三年の朝廷改革』で考察がされていて、久光の幕政改革案と大差ないものであったとしています。
つまり、目的は共通していたけれども手段が異なっていた、「久光の改革実現のためにも斬奸を決行しよう」ということであって、「成敗されるのを覚悟の自爆的行動」というのは(芳即正氏などはそういう説のようですが)、やや無理がある解釈かなと思っています。

最後に西郷と大久保ですが、もともと絶望した大久保が「刺し違えて死のう」と言い出すのを西郷が宥めるという話のはずなのに、今回は逆に大久保が西郷に「生きろ」と諭す話になっていましたね。
「おとなしくて優しい」新しい大久保像を提示したいということなんでしょうか?
とはいえ、有名エピソードを平気で改変するのは感心しませんけど・・・。

いずれも桐野さんにとっては言わずもがなのこととは思いますが、長文の愚痴(補足?)、失礼いたしました。

幕府と島津家
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

的確なご意見、有難うございます。

仰せの通り、幕府は島津家を天璋院の実家としてとても大事にしていますよね。
江戸の薩摩藩邸の放火に対しても、真相を知らないせいもありますが、天璋院の実家ということで、見舞金2万両を贈ったり、木曽川の普請を免除したりと気を遣っています。
また久光の上京・江戸出府は幕府の許可を得たものですから、警戒されるはずもありません。
まあ、京都で久光が勅許をもらったあたりから、多少疑問を感じたかもしれませんが、それまでは疑うはずもありませんものね。

ドラマの描き方とは両者は真逆の関係にあったわけで、いささか創作がすぎるという気もしますが、篤姫の苦難を強調する必要があったのでしょうが……。
毎回を波瀾万丈のジェットコースタードラマにしないと、落ちつかなくなっているようです(笑)。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第74回
―王政復古参加が別れ目―

連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回は賞典禄について書きました。
書きたかったのは、小松・西郷・大久保と呼ばれた3人のうち、なぜ小松帯刀だけ賞典禄で格差がつけられたのかという点です。
早くも明治2年(1869)に、維新の起点は王政復古政変だという認識が生まれていたようです。小松の賞典禄が少なかったのは、それに参加できなかったことに尽きるでしょう。

なお、「薩摩の三傑」は私の造語です(笑)。
島津斉彬もいるのではないかという反論も予想されますが、却下です。
直接、維新と関わる人物に絞ったためです。

この連載、最近はずっと幕末ものばかり書いてきましたが、一段落したので、次回あたりから少し趣向を変えようかと思っています。

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【2008/09/06 09:45】 | 信長
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名古屋の栄・中日文化センターでの私の講座内容(タイトルは表題です)を正式に告知しておきます。

拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)を生み出すのに使った史料、あるいは使えなかった史料も含めて公開します。

東海圏はむろん、多くの方々の参加をお待ちしています。
第1回は10月23日(木)です。

同センターのサイト(ここです)の表紙にある「10月スタートの新講座はこちら」をクリックし、いくつかのジャンルのなかの「歴史」(28件)をクリックすると、21番目が私の講座の案内になっています。以下のことが書かれています。

講座ジャンル:歴史
講座名:本能寺の変を読み解く 信長・光秀・利三の葛藤
曜日・時間:第4木曜日  昼 1:00~2:30
会場:栄中日文化センター  (名古屋市中区栄4-1-1 中日ビル4階)
講師:歴史作家 桐野 作人
講座内容:本能寺の変の真相については諸説があります。まず、それらを紹介して比較検討したうえで、具体的な問題を見ていきたいと思います。本能寺の変が織田権力のどのような達成段階で引き起こされたかという視点から、信長と光秀、そして斎藤利三との確執の具体相を明らかにしていくことで真相に迫ります。10月から始まる6ヵ月講座です。
受講料 :6ヵ月分 12,600円
備考:筆記用具
講座番号:1-11-053-0

なお、同センターサイトには、6回分の講座内容は書かれていませんので、以下にお知らせします。

・6回分のテーマ
①10/23 本能寺の変をめぐる諸説
②11/27 天正8年における信長と光秀
③12/25 織田権力と長宗我部氏
④01/22 神戸信孝の登場
⑤02/26 斎藤利三の立場と役割
⑥03/26 ついに政変決行さる


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【2008/09/04 20:18】 | 中日文化センター
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残念ながら
木暮兼人
参加できないのですよね・・・

桐野先生の本能寺についての御著作は拝読させていただいております
やはり四国征伐と信孝と光秀主従のかかわりが
お説として新味があって興味深かったと思います。
私としては、斉藤利三の立場と役割についてが
今ひとつ理解できませんでして・・・
ぜひともこのアタリをじっくりお伺いしたかったのですが。

返す返すも残念です。

斎藤利三
桐野作人
木暮兼人さん、こんばんは。

斎藤利三については、史料が少ないので、なかなか大変です。
でも、稲葉一鉄との間に相論があり、その裁定に信長が乗り出してきたのはほぼ確実ではないかと思っています。
また長宗我部氏との縁戚関係も重大な局面にあったように思います。
そのあたりがせいぜいで、決定的な史料があるわけではないのですが……。

事情がおありで出席不可とのこと。残念です。

第5回の内容について
木暮兼人
少し前にメールにて質問を寄せさせていただいたのですが・・・
栄の講座にて、直接伺った方がよろしいでしょうか?

第五回の記事が無かったものですから
こちらに失礼させていただきました。


回答しました
桐野作人
木暮兼人さん、こんばんは。

いただいたメールに本日返信しましたが、着いていませんか?

書き込みが続いて、恐縮です
市野澤 永
こんばんわ。

11月8日(月曜日)の日本経済新聞の記事です。
ご存じない方もいるかと思いましたので。

「新説続々 本能寺の変、黒幕は誰か?」

http://www.nikkei.com/life/culture/article/g=96958A90889DE3E5E6EBE2E2E6E2E2E0E3E3E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;p=9694E3EBE2E6E0E2E3E2EBE7E3E6

本能寺の変については、桐野さんと谷口克広氏の著書は欠かせないと思うのですが・・・

まあ何というか
桐野
市野澤さん

再三の情報提供多謝です。

記事を読めば、ソースがどのあたりかわかります。
記事になるのは結構なことでは。ただ、そのことと研究上の評価は別だと思っております。

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