歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
古文書塾「てらこや」特別講座

表題のシリーズ、昨日が2回目でした。

今回は薩長同盟後の出来事、とくに坂本龍馬が襲撃された寺田屋事件から慶応2年(1866)前半の出来事を追いました。

寺田屋事件は、お龍の回想「千里駒後日譚」を読みました。口語なので、非常に分かりやすかったです。また事件から30年以上たっての回想なのに、お龍の記憶がほぼ正確なのを確認しました。

霧島温泉での龍馬夫妻と小松の交流と、同年6月、英国公使パークスの鹿児島表敬訪問の史料を読みました。
これはあまり知られていない出来事なので、ぜひ詳しくやりかったのです。
また、それに関連して、このとき、小松が撮影したと思われる写真や明治初年に撮影した写真の2点がともに総髪なのを確認。

とすれば、一番有名な刀をもっている写真は月代を剃っているので、現存する3点の小松写真のなかで、一番古いことになるのかといった話をしました。

次回は、慶応2年後半の出来事です。
長州再征のほか、将軍家茂や孝明天皇の死去が題材になるでしょうか。

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【2008/10/29 23:58】 | てらこや
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白峰駿馬の件
まいたけ
 寺田屋で襲われた後、伏見の薩摩屋敷から二本松の薩摩藩邸へ移動する際、男装をするお龍の帯がないため、白峰が「白縮緬の兵児帯へ血の一杯附いたのを持って来て、友達が切腹の折り結んで居たのだがマア我慢していきなさいと云ふ」というお龍の回顧談(『千里駒後日譚』)の記述についてですが、よくよく考えてみると、史実ではないかと思います。

 この時期、近藤長次郎切腹の訃報が、京都の龍馬にもたらされているようです。

『千里駒後日譚』に、ある日、伏見の寺田屋に大きな髷を結った男が、龍馬に手紙を持って来て、その手紙に、近藤長次郎が長崎で切腹したことが書かれています。

 この件について、『千里駒後日譚』を書いた川田雪山は、「陸奥が、近藤長次の長崎で切腹した知らせの手紙を伏見の寺田屋へ持て来たと書きましたが、コレは伏見薩摩屋敷の誤り」と、後に附記していました。
 伏見の薩摩屋敷に持ってきたということは、まだ二本松の藩邸に移る前ということなります。
 また、長次郎の訃報が届いた話は、お龍と陸奥との初対面の時の話が主でありますので、そのとき、同行者がいたことには触れてなくてもおかしくありません。
 
 白峰駿馬は、それ以前から、お龍たちとコスプレをして祇園で遊んでいますので、当然、寺田屋にも馴染みなのだと思います。
 陸奥が、龍馬を訪ねて寺田屋へ訪ねたとしても、お登勢は、伏見奉行所に襲われた後のことでもあり、これまで一面識もない陸奥に、龍馬が伏見の薩摩藩邸に潜んでいることを話すはずはありません。
 
 そうであるなら、近藤長次郎が切腹したことを知らせる使者は長次郎の兵児帯を持参した白峰駿馬であり、陸奥は単に白峰に同行しただけではないかと思います。

 薩長同盟に尽力した近藤長次郎が死んだことは、薩長同盟締結に支障をきたすことも考えられますから、一刻も早く、誤解を受けないよう京都に知らせる必要があったのかもしれません。

 白峰駿馬の墓石の裏面の履歴の揮毫は、陸奥宗光が外務大臣をしていたときの秘書官が書いており、晩年まで深く交流していたことがうかがえますが、慶応元年、この二人は、長崎の何礼之の塾で共に英語を学んでいましたから、当時から親しかったのかもしれません。
 


まいたけ
書き忘れていました(冷汗)

伏見の寺田屋に手紙を持ってきた大きな髷を結った男というのが陸奥宗光だと、お龍は語っています。

お龍の記憶違いではないと、改めて思いました。
これで、この時期の白峰の動向が判明したことになります、
講座を受講していてよかったです。

すばらしい
中村武生
まいたけさんの考察、感銘をうけました。
 『千里駒後日譚』などお龍の回想録の史料批判を進めているものとして、興味深く拝見しました。史料価値が高まったといえます。ありがとうございました。


まいたけ
 いえいえ、中村先生の龍馬講座で、そのノウハウを教えていただいたおかげです。ありがとうございました。

 

近藤長次郎
桐野作人
まいたけさん、中村武生さん

やはり近藤長次郎の兵児帯だったわけですね。
白峰駿馬と陸奥宗光がその使者となって上京してきたというのもよくわかりました。

有難うございます。

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先日23日、名古屋の中日文化センターで新しい講座が始まった。
テーマは表題のとおり。

前シリーズの「関ヶ原合戦を読み解く」につづいて、60名以上の受講者が参加されている。講師冥利に尽きるというものである。前シリーズの受講者も相当おいでである。

今回は、本能寺の変をどのように考えるべきか、私見を述べた。その後、この事件は玉石混交の俗説が充満しているだけに、史料批判が重要であることを述べ、当講座でもそれを重視していることをあらかじめ告げた。

それでも、俗説といわれる史料はすべて斬って捨ててよいかといえば、決してそうではなく、一片の真実が含まれていることもあるという、一件、矛盾することも述べた。

今回使った史料は、

フロイス日本史
太田牛一信長記
川角太閤記
甫庵太閤記
織田軍記
明智軍記
老人雑話
綿考輯録
常山紀談
備前老人物語

多くは怨恨説の典拠となっている史料だが、これらを時系列に沿って見ていくと、信長と光秀の葛藤の様子が潤色され、デフォルメされるプロセスがよくわかるとともに、一定の要因に収斂していることもわかった。つまり、

A 家康接待での一件
B 斎藤利三(那波直治も含む)の処遇問題


ヴァリエーションはあるものの、上記の両説を唱える史料が多いことが特徴的である。
この両説は拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)とも深く関わっている。
つまり、俗説だからといって、あだやおろそかにできないのである。

そのような趣旨を述べて締め括った。
じつはレジュメには、徳冨蘇峰、高柳光寿、桑田忠親の先達の学説も載せていたのだが、触れる時間がなかった。

次回は「天正8年における信長と光秀」というテーマでやります。

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【2008/10/27 20:20】 | 中日文化センター
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今朝、京都に出張し、帰宅が夜11時近くになったため、残念ながら、「篤姫」は地上波、BSとも観られませんでした。
土曜日の再放送を観てから、感想を書きます。

本日は、東福寺塔頭の即宗院にて茶話をしてまいりました。
講話というのはおこがましいので、茶飲み話程度のものです。

テーマは「信長と光秀の因果と結末」というもので、なぜ本能寺の変が起きたのか、両者の葛藤の理由は奈辺にあったのかといった話をしました。日本側の公家やイエズス会のフロイスが、ともに因果応報的なとらえ方をしているのを再確認しました。

ちなみに、即宗院は薩摩藩の京都での菩提寺です。
篤姫も輿入れの途中、立ち寄ったのではないかと言われています。

1週間に4回の講演・講座はさすがに疲れました。

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【2008/10/26 23:13】 | 篤姫
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お疲れさまでした
武藤 臼
遠路お疲れさまでした。

今日の「篤姫」、自分は違和感ありありで笑ってみてました。慣れるんでしょうか(笑

つぎの御上洛をお待ち申し上げます(^^)


Holy
昨日はとても中味の濃いお話を長時間ありがとうございました。ああして時系列に順序立ててお話を伺うと、現在においても「本能寺の変の謎」を謎のままにしているのは、単にネタにしたいためにわざと曖昧にしているのだろうかと穿ってしまうほど明快で納得できました。
「篤姫」本編は……私は逆に今後が本当に恐ろしくなってきました。「西・小・大」がこれまで以上にえらい描き方に扱われそう…。

お世話になりました
桐野作人
武藤 臼さん、こんにちは。

昨日はわざわざご出席いただき有難うございました。
その後の第二次懇親会にもお付き合いいただき感謝です。
また機会がありましたら、よろしくお願いします。

「篤姫」の今後
桐野作人
Holyさん、こんにちは。

昨日はおいでいただき、有難うございました。
また二次会でも楽しいお話でした。

本能寺の変については、あくまで私の解釈でして、まだ検討の余地があるかもしれません。今後も詰めていきたいと思っています。

昨日の「篤姫」は観られなかったので何ともいえませんが、西郷・大久保と小松の立場をそれぞれ分けて描くのはいかがなものかと思っています。
「三位一体」じゃないかと思っていますけどね。
昨日もお話したように、篤姫のために、小松が藩の政策を枉げるという設定は、小松を矮小化するものだと思います。
そういう公私混同を持ち込んでいいのかなと思っていますが……。
フィクションなのに、真に受ける人が多いんだろうなと思うと、せっかく小松が脚光を浴びたのに、誤解された姿では、元のもくあみではないかなと。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第81回
―最大の試練、薩英戦争―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回に引きつづいて、幕末の鶴丸城について書きました。
鶴丸城にとっては、築城以来、260年目にして訪れた最大の危機が薩英戦争でした。

何せ、戦国時代、敵の軍船から放った矢が届いたほど海岸に近い立地です。
江戸時代、名山堀を普請するなど埋め立て工事によって海岸線はだいぶ後退しましたが、それでも、イギリス艦隊のアームストロング砲を前にすれば、その脆弱さは弓矢の比でないことは明らかです。

案の定、開戦を決定すると同時に、国父久光と藩主茂久は郊外の千眼寺に本陣を置くという名目で避難しました。戦国時代なら、考えられない体たらくですが、世はすでに近世城郭の時代ではなかったので、非難されたわけではありません。

なお、鹿児島市常盤町にあった千眼寺は廃仏毀釈によって廃寺となり、現在は石碑と案内板が残るだけです。往時は黄檗宗の大寺院でしたが、それを偲ぶよすがさえありません。
前から行きたいと思いつつ行けずにおりましたが、畏友のMさんが写真を提供してくれました。感謝。

今回の注目は、下津畑の土塁です。
この土塁は城下の中心部を守る楯の役割を果たしました。戦争終了後、この土塁にはイギリス艦隊が放った砲弾が多数突き刺さっていたということです。城下の中心部があまり被害を受けなかったのは、この土塁の存在が大きかったようです。

ちなみに、この土塁は島津斉彬が築いたものです。私も名前だけは知っていましたが、改めて安政年間の地図を見てみると、弁天波戸の台場の背後にいくつかの虎口を設けた長い土塁がちゃんと描かれているのを見つけました。地図にはっきりと載るほど巨大な施設だったことがわかります。

下津畑の土塁は現在の鹿児島市名山町あたりにあったはずですが、通行の邪魔になるということで、ほとんど掘り崩されたと言わされています。名山町には江戸時代の名山堀もありましたが、これもほとんど埋め立てられていますね。
せめて、自治体が該当する場所に石碑でも建立してくれたらと思います。

下津畑の土塁の場所はちゃんと探査したことがありません。もしかしたら、かすかな痕跡が残っているかも知れませんから、一度、探訪してみたいと思っています。

次回は、小松帯刀や大久保一蔵が、薩英戦争後に国分への城地移転を検討したことを書きたいと思っています。

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【2008/10/25 11:58】 | さつま人国誌
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岩剣石塁
下津畑の土塁、初めて知りました。
海岸通りの通勤路から見る限りでは、跡形も残っていません。


中村武生
興味ぶかいおはなしをうかがいました。もちろん「土塁」です。長州毛利の萩の海岸線も「菊が浜土塁(女台場)」が残りますから、鹿児島にもあったかと思いまして。桐野先生と土塁のはなしでも盛り上がれるかと、まだまだ楽しい思いです。

薩摩焼には 宗家があるのでしょうか? エントリー違いですが 
ポチ・たま
初めて お便りします。

先日10月20日 月 NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」 で鹿児島 美山の沈寿官さんが紹介され ちょっと興味を持って 薩摩焼について 調べてみました。沈さんの表札に 「 薩摩焼 宗家 」とあったからです。有田焼や伊万里焼に 於ける 柿右衛門・今右衛門のような 位置を占める方なのだナ・・・凄いなと単純に 思って 薩摩焼き 沈寿官 etc 様々のキーワードで ググって調べてみたら 確かに沈寿官窯 そのもののページや沈窯を訪れた人の旅行ブログでは 宗家らしく書かれていましたが 同業の他の薩摩焼の窯のページや 薩摩焼そのものの歴史についてのページ、美術館などの薩摩焼の歴史紹介などのページでは 沈寿官窯については 殆ど触れられていない事に気付いたのです。

もしかしたら 「 宗家 」うんぬんは 沈寿官が 自称しているだけで 他の窯や公式には全然 認められてはいないのではないか・・・と思えてきました。

沈寿官さんが 有名になっていったキッカケは 司馬遼太郎の「 故郷忘じがたく候 」という本に紹介されたのが端緒と聞いていますが 司馬は薩摩焼窯元を全部 取材した訳ではなく 限りなく 沈窯だけの取材に元ずいて この本を書いたのでは?とも思えてきました。 藩の御用で薩摩焼は焼かれていたにしても 共同作業での中では 特に 傑出した一人物の存在は 薩摩焼にはなかったのでは と思えるのです。だとしたら 宗家自称・詐称について 他の薩摩焼窯元は 如何思っているのでしょうか。沈寿官の名声によって 薩摩焼が広く知られてきた事実は黙認せざるを得ないので 表だっての反論はせずとも 黙殺・無視しているのが 各ホームページにおいて 一切 沈寿官の名が出てこない理由のように思えます。

「 故郷忘じがたく候 」はスバラシイ内容らしく 感激した中学教師が 授業で使って生徒に感想文を書かしたり、読んで感銘を受けた人達が 沈窯だけを目指して 美山を訪れているようです。

もし 私の抱いた 宗家疑惑が 少しでも事実に近いものなら 10月27日 月曜にも また 鶴瓶の 鹿児島編続編で 誤った認識が 日本中に広められる事になってしまいます。管理人さんは 島津氏・薩摩藩の歴史について 詳しい方らしいので ぜひ 調べてみてください。

何か痕跡が
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

やはり残っていませんか。

下津畑の土塁はかなり長いですから、どこかに崩されていない場所が残っているのではないかとも思っているのですが……。

土塁
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

長州萩の「菊が浜土塁(女台場)」は、私も以前観たことがあります。たしか女性たちが普請したから、そんな名前が付いているんでしたよね?

薩摩も長州も、ともに外国船に備えた、一種の攘夷戦の備えとしての土塁だったのでしょうか?

申しわけありません
桐野作人
ポチ・たまさん、こんばんは。

薩摩焼については、私はまったくの不勉強で、ご指摘の点については、お答えしようがありません。
悪しからずご了承下さい。

今後、機会がありましたら、一度調べてみたいと思います。

長州萩・菊ヶ浜土塁
中村武生
 御返事ありがとうございます。菊ヶ浜土塁も攘夷戦から萩を守るためのもののようです。
 ただ女性だけで構築できるわけもなく、普段出てこない女性も手伝ったところからデフォルメされて伝えられた由です。
 菊ヶ浜土塁について、読みやすくまとめてあるのは、『萩市史』一巻(1983年)所収の「菊ヶ浜土塁の築造」(広田暢久・三宅紹宣、929-941ページ)かと存じます。
 すこし古い文献ですが、史料や絵図を引用しているので使用に足るかと存じます。
 ご参考まで。
 

有難うございます
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

関連史料の紹介、有難うございます。

鹿児島の下津畑の土塁ですが、弁天波戸の背後にあることが少し引っかかっています。
おそらく、外国船と戦闘になった場合、弁天波戸の台場は集中砲火を浴びる可能性が高く、そのとき、台場の上や横を飛ぶ敵の砲弾が背後の城下に着弾して被害を与えます。
それを防ぐために、この土塁を築いたのではないかと思っています。

となると、台場とその背後の土塁というのはセットになっているかもしれず、ほかの台場も土塁を伴っていないか検討する必要があるかも知れません。

台場と土塁
中村武生
 台場と土塁がセットだといわれるのは、まったく同感です。

 最近、京都防衛のための河内・樟葉台場跡が調査されたり、淀川対岸にあった摂津高槻の梶原台場との研究が進んだりと、近畿地方の城郭史研究では幕末の防衛への関心が高まっていると感じております。

たとえば
 中西裕樹氏「梶原台場の復元と幕末の築城―楠葉台場との比較を通じて」  
 馬部隆弘氏「京都守護職会津藩の京都防衛構想とその実現過程―河内国交野郡楠葉村における台場修築の事例から」
  (ともに『城館史料学』6号、2008年7月)
 
 それゆえに下津畑の土塁が気になった次第です。

 土塁は意外と基底部が残りやすいと思っています。
 現地にたったことがないのに失礼ですが、丹念に歩かれれば残っていることに気づく場合があるかもと存じました。

ご教示感謝
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

関連史料のご教示有難うございます。助かります。
ただ、「城館史料学」って、どこで刊行している雑誌でしょうか? 国会図書館の雑誌データベースではヒットしなかったものですから。



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第12回「天下布武」の意味

歴史読本12月号の掲載誌が届きました。
書店にも明日あたり並ぶのではないかと思います。

連載も今回で12回目。折り返し点に来ました。
しかし、信長はようやく上洛戦に発ったところです。トホホ。

次回から、だいぶペースをあげる必要がありますね。

今回はサブタイトルにもあるように、「天下布武」の意味についてと、信長の上洛戦に立ちはだかった六角氏との駆け引きについて書きました。


なお、この間、別冊歴史読本や歴史群像などにいくつか書いておりますが、なかなか紹介できずにおりました。
また、いろんな方から著作や論文などをご恵贈されております。
お礼もできずに申しわけありません。

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【2008/10/24 21:36】 | 信長
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『永禄六年諸役人附』について
Tm.
お久しぶりです桐野先生。
中日文化センターでの講座は仕事の都合もあり参加できず、残念この上もありません。
毎回、楽しみに拝読させていただいている「狂乱と冷徹」ですが、今回、気になる点がありました。

それは光秀の出自について、かつて谷口克広氏が『永禄六年諸役人附』を基に光秀が義輝の直臣(足軽衆)であったと考察されていることが紹介されているのですが、同文献については長節子氏(『史学文学』四-一・1962)によって義輝の代と義昭の代の記録が繋ぎ合わせたものであったことが証明されており(※「明智」は後者に属する)、 谷口氏も『俊英 明智光秀』の論考ににおいてその旨、紹介され、光秀(旧)幕臣説の根拠にはならないことを述べられております。

その上でなお谷口氏は、やはり光秀が幕臣であった可能性を否定されていない様ですが、上記のこと僭越ながら指摘させていただきたいと思います。




桐野作人
Tm.さん、こんばんは。

ご指摘有難うございます。

長節子論文は私も持っていましたが、うっかりしたかもしれません。

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お知らせです。
リンク先を新たに追加しました。

カゴシマニアさんのブログです。
以前からメールを通じて存じ上げていましたが、先日、帰鹿したときに初めてお会いしました。

鹿児島の史跡にとても詳しい人で、私も教えてもらったことがあります。
これからも、濃ゆい史跡探訪を期待しております。

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【2008/10/24 21:29】 | 雑記
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ありがとうございます
カゴシマニア
早速相互リンクしてくださいましてありがとうございました。
これまで「遊び」で作ったブログでしたので、裏づけに乏しいものでした。

以前、お役に立ててとても光栄です。まだまだ不勉強で詳しい方ではありませんが、今後は郷土史片手に、マニアックな史跡探訪で島津家の歴史に触れていけたら・・・と思います。

今後もどうぞよろしくお願いいたします。

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前回の大河ドラマ「篤姫」の補遺です。

あるエピソードについて触れるのを忘れておりました。

それは、小松帯刀が来鹿した坂本龍馬の出立のとき、月代(さかやき)をやめて総髪にすると伝えた一件です。その理由を、これから外国人との交際が多くなり、いちいち月代のことを尋ねられて説明するのが面倒だと語っていました。

とても、唐突なエピソードに感じられたのではないかと思いますが、小松が藩当局に総髪願いを出して受理されているのは史実です。
ただ、その理由と時期については、よく考える必要があります。

「薩藩小松帯刀履歴」にその史料は収録されています。

「  口上覚
一、私事兼て頭寒の煩いこれあり、月代仕り難く候間、一往惣髪(総髪)御免仰せ付けられ下されたく願い奉り候、此の旨お申し下さるべく候、以上、
 五月                                小松帯刀

 願の通り惣髪成りなさる、御免候、
 六月   伊勢」


前段の「口上覚」が小松の願書で、後段が藩当局の許可の一文です。「伊勢」とは家老の島津伊勢のことです。

まず年次ですが、前段の口上覚には年次の記載がありません。それを推定させるような文言は何もなく、唯一「小松帯刀」の名乗りが安政5年(1858)3月からですから、それ以降のものだと漠然とわかるだけです。それでは何の解決になりませんね。

手がかりとなるのは、「~履歴」のなかでの諸史料の配列です。小松の履歴に詳しいと思われる編者が時系列に沿って並べたと考えられます。
では、前後の史料を見ると、前には「」(甲子)の干支の史料があるので、元治元年(1864)。
後ろに「」(丙寅)の干支の史料があるので、慶応2年(1866)です。

つまり、総髪願は元治元年から慶応2年までの足かけ3年の間に絞られることになります。
ドラマの進行時点が慶応2年。龍馬夫妻が桜島丸で鹿児島を出港するのが同年の6月1日か2日です。
小松の願書を慶応2年と推定することも上記から可能なので、そうだとすれば、願書に書かれている「五月」は龍馬夫妻が出発する直前のこととなり、ドラマの進行とピタリと合致します。
なるほど、そういう時代考証かと感じた次第。

もっとも、史料の配列はあくまで編者の認識であり、それが妥当かどうか検証する手段がなく、他の年に該当することも十分ありえます。

ところで、上記「口上覚」をよく読むと、「頭寒之煩」という理由から総髪願いを出しているわけで、外国人との交際云々とはかけ離れた、消極的な理由ですね。
願書の提出月が夏になろうとする5月。それでも「頭寒之煩」とはよほどの虚弱体質なんでしょうかね?

ちなみに、小松の写真は私が知る限り、3点残っていますが、いちばんよく知られている刀を持った写真を除いて、残りの2点は月代がなく、総髪です。
もし小松が総髪願いを受理されたのち、惣髪にしたとなると、これらの写真は慶応2年5月以前に撮影されたということになるのでしょうか? 推定に推定を重ねているので不確かなことですが。

なお、残りの2点は、だいたい撮影時期を特定できます。
あまり知られていませんが、慶応2年6月14日、英国公使パークスや英国支那艦隊司令長官キングが軍艦3隻で鹿児島を表敬訪問し、小松はその接待役を勤めました。薩英戦争から一転して両者は友好を深め、薩摩藩は親英路線に舵を切るきっかけになりました。うち1点は、小松はキングと、藩主茂久の弟の久治か珍彦と写っていますので、このときのものでしょう。
ドラマで外国人との交際云々と小松に言わせたのは、この表敬訪問が念頭にあったのかもしれません。願書提出の翌月のことですから。

もう1点は明治2年頃とおぼしき写真で、小松は山口尚芳・田中静州・中井弘・上野景範と一緒に写っています。小松を含めて5人とも総髪で、和服姿です。

ともあれ、いろいろ考えさせてくれるエピソードでした。

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【2008/10/23 21:33】 | 篤姫
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本文修正
桐野作人
上記の文章ですが、小松帯刀の写真について、私がすべて月代だったと書きましたが、勘違いしておりました。
有名な写真以外の2点は総髪でしたので、本文を訂正しております。
粗忽で失礼しました。


サトシ
また見させていただきました!
応援ポチッ!!!

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昨夜、鹿児島から無事帰京しました。

講演には、予想以上に300人もおいでいただき、盛会のうちに終わることが出来ました。
また、多くの出会いや成果もありました。
今後も、それらを大事にしていきたいと思います。

なお、本日は名古屋の栄・中日文化センターで、新しい講座が始まります。
テーマは「本能寺の変を読み解く」です。
こちらにも、多くの受講者が来られるそうなので、心して頑張ります。
ただ、睡眠不足で、少しつらいです。

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【2008/10/23 07:32】 | イベント
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同友会フォーラム御礼
シラオ
桐野様
本当に盛会のうちに終えられましたこと、一重に先生のお力と、心より御礼申し上げます。
友人達も、楽しかった様子を、満足・満腹と唱えつつ^^
杯を夜遅くまで傾けながら語りました。
薩摩の会での酔いも醒めないうちに、また朝までやってしまいました。。来月はまた鹿児島でお会いできる由、楽しみにしております。次回は先生と朝方まで・・・^^

有難うございました
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

講演会ではいろいろお世話になりました。
あとで、講演会の告知が南日本新聞の記事になっていたことを知りました。今給黎代表理事の写真入りの記事です。あれが少しは効果があったのでしょうか?
一般向けの講演会は今回が初めての試みだったと知りました。
そんな重責を担っているとはつゆ知らず(笑)。

郷里の親戚から、NHKの地元局のニュースでも放映されたと聞きました。
会の存在もアピールできてよかったですね。
今後ともよろしくお願いします。

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深夜に「小松帯刀」のドキュメンタリー番組を見てから、羽田を発ちました。

今日の鹿児島は予想以上に暑かったです。28度くらいとか。個人的には30度を越えている感じがしました。

今夜、城山観光ホテルで「鹿児島薩摩の会」があり、出席。
私の帰鹿に合わせて開催していただいた。恐縮する。
島津義秀さんをはじめ、東京で会う面々も何人かおいで。
多くの方から、小松本はまだかとハッパをかけられた(汗)。
もう少しお待ち下さい。

さて、明日午前10時半から講演です。

演題「小松帯刀と坂本龍馬

です。大河ドラマの進行に合わせて、まことにタイミングがいいですね。偶然ですが。
与次郎のベイサイドガーデンで開催です。
まだ少し席があるようですから、九州・鹿児島方面の方で関心のある方は参加してみませんか。
入場無料です。

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【2008/10/21 22:21】 | イベント
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岩剣石塁
 明日の講演には、幾島招魂墓の近くに住む義母も一緒に
参加させて戴きます。楽しみです。


Miyata/西元 
今日の中小企業家同友会での「小松帯刀と坂本龍馬」も好評でした。
造詣の深さに感嘆の声がたくさん聞かれました。
才学の乏しい身でも校友として誇り高き日でした。

先日はありがとうございました。
カゴシマニア
先日は初めてお会いでき、サインもいただけて感激いたしました!相方もとても喜んでいました。ありがとうございました。緊張していろいろお聞きしたいこともたくさんあったのですが、聞けませんでした^^;

今回の講演会には都合で参加できずに残念でしたが、来月もいらっしゃるとのことで今から楽しみにしております。

さて、一足先に相互リンクをさせていただきました。こちらの「わんぱく遊湯倶楽部」ブログ→http://blog.livedoor.jp/shimojikonashi/にもリンクさせていただきました。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

資料御礼
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

講演会においでいただき、有難うございました。
ご関心のある時代ではなかったかもしれませんが、少しでもお役に立ったら幸いです。
また資料もいただき、助かりました。
今後ともよろしくお願いします。

有難うございます
桐野作人
Miyata/西元さん、こんにちは。

わざわざ講演会にご出席いただき有難うございました。
あとでふり返ってみると、話し忘れたことなどもあり、お粗末でしたが、得るものがあったとのことで、よかったです。

来月の講演会はこちらこそよろしくお願いします。


相互リンク
桐野作人
カゴシマニアさん、こんにちは。

以前からネット上では存じ上げていましたが、今回お会いできてよかったです。
今後とも、史跡探訪記の充実を期待しております。
ご友人の方にもよろしくお伝え下さい。

相互リンクしておきます。

管理人のみ閲覧できます
-


ありがとうございました。
よこよこ
桐野さま、こんばんは。
講演会では、ご挨拶も出来ましたし。
私はあのあと、鹿児島の友人のお陰で篤姫関連の場所を廻ってもらい、22日いっぱい、その余韻に浸っている事が出来ました。
九州にいる友人達に久々に会う事が出来ましたし、今回は、思い切って鹿児島へ出かけて本当に良かったと思います。
出来ればまた、桐野さんの講演会に参加したいものです。


よかったですね
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

鹿児島でも会えましたね。
遅刻を心配されていましたが、間に合ってよかったです。

鹿児島で楽しい時を過ごされたようで何よりです。

東京で講演や講座がありましたら、当ブログで告知しますので、よかったらご参加下さい。


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関東圏限定ですが、今夜26:40から30分間、テレビ朝日系で、

「維新の英傑・小松帯刀」
―新しい日本の礎を創った男―

が放映されます。
すごい時間帯ですが、予約録画されて、ぜひご覧になって下さい。
小生も登場します。

内容紹介はここをご覧下さい。

なお、ほぼ同じ時間帯で、青森や山口でもご覧になれます。
ラテ面でご確認下さい。

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【2008/10/20 19:04】 | イベント
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見させていただきました。
NAO4@吟遊詩人
録画予約をしようかとしているうちに、居眠りしてしまい、気がついたら、丁度放映時間でした。よほど運がいいです。最初から最後まで、見ることができました。桐野さんの雄姿もたっぷりと拝見いたしました。鹿児島、史跡という点で魅力的ですね。今度、もっと長いのをやって欲しいです。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第42回「息子の死」

ドラマ進行時点は、慶応2年(1866)正月下旬から7月にかけて。

寺田屋事件で負傷した坂本龍馬が無事に二本松の薩摩藩邸に避難したところから始まりました。
ここは、お龍の回顧談である「千里駒後日譚」のエピソードがあまり活かされておらず、残念でした。
この回顧談は明治32年(1899)に新聞発表されたもので、龍馬の死から30年以上たっていますから、多少不正確なところはありますが、何といっても当事者の記録なので、信憑性は高いと思っています。

そのなかで、伏見の薩摩藩邸から二本松の藩邸に移るとき、薩摩藩は負傷した龍馬を駕籠に乗せ、一小隊で護衛しましたが、お龍も男装して駕籠のそばを歩いています。男装したお龍など、けっこう絵になる場面ではないかと思いましたが、省略されました。

また、途中で小松帯刀が馬で駆けつけて、お龍をいたわるシーンがあります。

「小松さんは遥るばる(はるばる)馬に騎って迎へに来て、お龍さん足が傷む(いたむ)だらうと私の鞋(わらじ)を解いて石でたゝひて呉れました」

この一節も、小松のやさしさを示しておりましたが、省略でしたね。
龍馬とお龍を最初に迎えたのは、西郷・大久保ではなく、小松だったはずですが、ドラマでは逆でした。

それと、龍馬は左腕に包帯をしていましたが、負傷の程度は軽そうに見えました。でも、かなりの重傷だったと思います。
医者らしき人はいませんでしたが、お龍は医者の娘ですから、代わりに手当てしているような感じでしたね。
ただ、このとき、薩摩藩はちゃんと医者の手配をしています。『桂久武日記』正月24日条によれば、木原盛雲という医者を二本松から伏見に派遣しています。これは襲撃直後のことですね。

その後、龍馬とお龍は小松らと同行して、船で薩摩に向かいます。
霧島温泉で龍馬夫妻が療養したことは、あまりにも有名ですが、霧島温泉といっても、いくつかの温泉に分かれており、龍馬夫妻が滞在したのは塩浸温泉、小松が滞在したのは栄之尾温泉で、場所が違います。

『坂元龍馬手帳摘要』によれば、龍馬夫妻が塩浸温泉に着いたのは3月17日。
一方、『小松帯刀日記』3月28日条によれば、「吉井幸輔・坂元龍馬、塩浸より見舞として入来の事」とあり、栄之尾温泉に滞在する小松を龍馬と吉井幸輔が訪れています。ドラマでは吉井は出ませんでしたが、この日のこととして、ドラマは描いたのでしょう。
そして翌29日に龍馬夫妻は高千穂峰登山をしています。霧島神宮に参拝したのは、おそらく28日か29日だと思います。

塩浸



霧島塩浸温泉の龍馬・お龍の新婚旅行銅像


なお、小松が療養した栄之尾温泉は、最近、小松とお近の新婚旅行として話題になった温泉でもあります。小松はこの温泉を好んだようですね。この新聞記事によれば、小松とお近の新婚旅行のほうが10年早いとのことですが、さて、どうでしょうか?
この件については、かつてこのブログでも触れたことがあります。ここです。よかったら、ご参照下さい。

あと、小松がお琴とのことをお近に話して、お灸をすえられておりました。
次回には、さらにお琴との間に子どもまでできる騒ぎになるようで(笑)。
それで、その子どもの生年月日ですけれど、多少異説があります。
ドラマによれば、慶応2年3月段階ではまだ子どもがいませんでした。
生まれた子どもは長男の安千代(のち清直)でしょう。
『昭和新修華族家系大成』所収の小松家系図によれば、安千代の生年は慶応2年9月となっています(日にちの記載なし)。ドラマでは、こちらの説を採用していますね。

一方、市来四郎が著した『石室秘稿』所収の「小松帯刀系図」によれば、安千代の生年月日は「慶応元年乙丑八月十八日」と書かれています。
この説に従えば、安千代はとっくに生まれていたことになります。

どちらの説が正しいのか、にわかに判断できませんが、個人的には後者かもしれないと思っています。
というのは、小松が近衛家御花畑の別邸に移ったのはいつで、その契機は何だったのかという点と関わっています。小松が元治元年(1864)7月まで、二本松藩邸の長屋に住んでいたことは確認できますので、御花畑に移ったのはそれ以降ということになります。
安千代の出生が翌慶応元年8月だとすれば、小松が御花畑に移ったのは、お琴と一緒に住むこと、そしてお琴の妊娠がきっかけだったのではないかという推定も成り立つかもと思っているところです。

さて、大久保一蔵の痛快な逸話が紹介されていました。
すなわち、大久保が大坂城に出頭して、一橋慶喜から長州征伐への従軍を命じられたとき、耳が遠いふりをして、「長州征伐」を「朝廷征伐」と聞き違えるという寸法です。
でも、これって、少し逸話の筋が違っているんじゃないかという気がします。私が記憶していたのは、次のような逸話でした。

たとえば、かなり信用できる勝田孫弥『甲東逸話』によれば、このとき、大久保と対面したのは慶喜ではなく、老中の板倉勝静です。

「板倉が云ふには従来、島津家と、将軍家とは浅からざる縁故がある。この際、他の諸藩に率先して、速に出兵せよとの命令を下したのである。
 そこで、甲東(大久保)は、耳が遠いからというて、殊更に顔色を変へ、「幕府は果して、長州と同じく我藩をも討たんとするのであるか」と。板倉は愕いて云ふには、「甚しいかな、我言を誤解するや、膝を進めて能く聞け」と声を高めて前言を繰り返したのであった」


云々とあり、その後、大久保が長州征伐を幕府と長州の「私闘」であると反論して、出兵を拒否したという流れです。

また田中惣五郎『大久保利通』によれば、大久保が耳疾だというので、大久保を近くに寄らせて、長州再征を命じたところ、

「大久保はわざと驚いた真似をして、『さても奇怪な仰せを承るものかな。弊藩何の罪あって追討せらるゝか。さりながら弊藩に罪ありとせば、速かに師を発せられよ。弊藩また弊を整へ備を修めて、大旆をお迎へ申さう』」

と答えました。あとは勝田著とほぼ同様の展開です。

本来は大久保が「長州藩」と「薩摩藩」を勘違いしたふりをしたという逸話ですが、それでは、駄ジャレにならないので、「長州征伐」と「朝廷征伐」ならわかりやすいということでしょう。
しかし、「朝廷征伐」とは、尊王思想が定着していた当時の誰も発想するとは思えず、「非義の勅命は勅命に非ず」と豪語した大久保でさえも思いつかないことで、非常識すぎますね。駄ジャレネタとしては不適当ではありますまいか。
また、人物も板倉では格好がつかなかったので、かなりデフォルメして慶喜に差し替えたのでしょうか? あるいはドラマのような逸話が別にあるのでしょうか? もしご存じならご教示下さい。

そして、いよいよ将軍家茂が大坂城で他界しました。
死因は脚気衝心です。脚気はビタミンB1の不足から発症しますが、重態になると、心機能の低下をもたらし、心不全の症状が出ます。家茂も心臓を押さえていましたね。

また家茂が和宮のために、西陣織のお土産を買っていたのも史実です。
結局、このお土産は家茂の遺骸とともに届きました。そのとき、傷心の和宮が謳った和歌が、

「空蝉の唐織ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」

唐織ごろも」が西陣織のことですね。
この西陣織は徳川宗家に現存しているようで、いつぞや東京国立博物館の展示で拝観しました。

ドラマでは、家茂の臨終を勝安房守が看取っていましたが、これは脚色ですね。
家茂の死去は7月20日でしたが、しばらく秘匿され、28日頃に公表されたようです。
『勝海舟日記』によれば、勝は20日当日、大坂城に登城しています。そして日記に「君上御重事、殿中謹然、敢て議なし」と記しています。勝はすでに当日、家茂の死を知っていたようです。

城中が悲嘆に暮れるなか、勝は死去当日に建白書を提出しています。その趣旨は、慶喜にすべてを任せて「天下之変動」を見るべきだ、小倉表に停泊している幕府軍艦をさっそく大坂に上らせ、家茂の遺骸を速やかに江戸へ運ぶべきだ、間違っても陸路で運んではならない、そうしたら「天下の人心、当節薄氷を踏み候折柄、如何様の混乱相促し申すべき哉も計り難し」という理由からでした。

勝はのちに家茂と慶喜をくらべて、家茂のほうが立派だったという感想をもらしていたと思いますが、出典を忘れました(苦笑)。

ところで、ドラマでは、大奥の篤姫と和宮が家茂のために漢方医を大坂に送ろうとしていました。
これはほぼ史実だろうと思います。
家茂の伝記「昭徳院殿御在坂日次記」7月16日条には、

「十六日 天璋院様・和宮様より奥医師を登らしめ給い、頃日の労を慰めらる」とあります。
奥医師3人が11日に横浜から英国船に乗り込んで発航し、16日に大坂天保山に着いています。その日のうちに登城していますから、一応、篤姫と和宮の思いは臨終間際の家茂に届いたことになります。

おそらくその奥医師たちが篤姫と和宮の手紙を運んだのではないでしょうか。
勝が家茂死去から4日後の7月24日、和宮の書簡を見た同僚から話を聞いたと書いています。

「和宮御見実に驚くべし、大君えの御書中、御仁徳を以て万民御撫育在るこそ御職掌の御当然云々の御事ありと云う、是窃かに某に聞ける所、更に虚言にあらず、某感涙して少臣に密話す」

和宮の家茂宛て書簡に、幕臣たちが涙したということらしいです。

次回は、小松に子どもができたり、孝明天皇が他界したりと、これまた波瀾万丈ですね。

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【2008/10/19 22:53】 | 篤姫
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よこよこ
桐野さま、こんばんは。

本日も、またまた一気に物語が進んでおりましたね。
大奥がメインなので仕方が無い所でしょうが、今までがとてもスローペースでしたので、今月に入ってからのスパートにはちょっとついて行けておりません。

でも、こちらへ来ていろいろと補足をして頂いているので、少しばかりは理解が出来ていると、自分では思っております。
歴史上有名どころの出来事は、なんとかわかっているつもりですが、事、大奥や薩摩方の事柄はとんとわかりません。

それにしても、伺えば伺うほど小松帯刀に魅力を感じてまいります。
どうして、今まで取り上げられなかったのか、本当に不思議でなりません。。。

いよいよ、私も今週は薩摩入りします。
桐野さまにお会いできるといいのですが・・・


では、22日に
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

たしかにここ数回、進行がものすごく速いですね。
そんなことなら、前半をもう少しスピーディにすればよかったのにと思いますが。
もっとも、このドラマは幕末史をきちんと伝えることを意図したドラマではないと思いますので、致し方ないかもしれません。

22日の鹿児島での講演、開演に間に合えばいいですね。終わったら、声をかけて下さいませ。



シラオ
桐野さん
お世話になります。
前出の方同様、小松の人となりが判る程に私の周りでも小松人気はうなぎのぼりです^^。
我が家の愚妻までも小松に見とれており、いとおかし^^です。。これはやはり役者の妙もあるのでしょうか?
これまでスポットが当らなかった訳と、実際の功績を判り易く教えて頂けるこのブログが毎回楽しみです。
しかも、世の女性方にとどめを刺すのが、22日の先生の鹿児島講演「小松帯刀と坂本龍馬」でしょう!
楽しみに、こちらも万全の準備のもとお待ちしております。
前夜祭(!?)の薩摩の会も楽しみです^^
宜しくお願い致します。

タイミングよく
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

奥様まで小松のファンですか。
瑛太のファンなのかもしれませんが。

偶然とはいえ、大河ドラマでもちょうど小松と龍馬の仲がクローズアップされてきたので、グッドタイミングでしたね。
盛会になることを期待しています。


西陣織
御座候
家茂のお土産である西陣織を袈裟に仕立てた「空蝉の袈裟」は増上寺にあるんじゃなかったでしたっけ?

とりあえず「大徳川展」の図録では「増上寺蔵」となっているようです。
http://matiere.at.webry.info/200711/article_20.html


まあ増上寺は徳川家の菩提寺ですから、徳川宗家が持っているようなものと言えるかもしれませんが・・・

家茂の棺の謎
さき
こんばんは。

家茂の棺の中身には色々と謎が多いですね。

庭田嗣子が記した『昭徳院御凶事留』には、家茂の訃報が届いた翌日に、実成院が大坂へ臍の緒を送るから和宮の髪も棺に入れたいと言うので、髪先を切って渡したとあるのに、
家茂の棺には、臍の緒は入っておらず、入っていた髪も和宮のものではないというのは不思議です。

この髪を側室のものとする見方もありますが、その場合は次のようなことが起こったとも想像できます。
・実成院は臍の緒と和宮の髪を一つの箱に入れて大坂へ送った。
・家茂につき従っていた奥女中達が、この箱を受け取った。
・和宮を嫌っていた奥女中達は、臍の緒が一緒に入っていることに気づかないまま、箱ごと和宮 の髪を処分した。
・側室の髪を江戸から送られてきた和宮の髪と偽って、表の役人に渡した。

臍の緒と和宮の髪が、何らかの事故で失われたとしても、お手つき程度の奥女中は、個室すらもらえないような低い身分であり、将軍の棺に子供を産んでもいない側室の髪を、わざわざ入れたりするものでしょうか?

また、この髪を実成院のものとすると、何らかの理由で一緒に送った臍の緒と和宮の髪は失われ、実成院の髪だけが無事だったことになります。

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先日、告知した小松帯刀のドキュメンタリー番組(ここ)ですが、関西の朝日放送の放映時間帯が変更になっていましたので、お知らせします。

本日(19日)午前1時30分だったのが30分繰り上って1時からになりました。
もう手後れかもしれませんが、お知らせします。
お気をつけ下さい。


【2008/10/19 00:13】 | 幕末維新
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見てますよ
武藤 臼
・・・なかなか出番、長いですね。

私も拝見しました
Holy
私も、正味27分ほどの番組としては御出演時間長かったと思いました(笑)。小松が表舞台から忽然と消えた意味付けに自らの意志が強く働いていたかも知れないと考えるのもアリなのですね。勉強になりました。

ありがとうございます
桐野作人
武藤 臼さん、Holyさん、おはようございます。

ご覧になったのですか。
意外と長く映っていたようですね。恥ずかしい。

小松が自らの意志で消えたというのは、局側の推測ですよね。私はそのような趣旨のことは話していないと思うのですが……。



見れませんでした
中村武生
 さきほど告知に気付きました。
 録画に失敗しました。残念です。

すみません
桐野作人
中村武生さま

もっと早く告知できればよかったのですが、私が教えてもらったのも深更だったもので。

何とか埋め合わせします。

今、予約しました。
町田明広
忘れないうちに、予約完了しました。
私にとっては、タイムリーな企画なので、
じっくり興味深く拝見させていただきます。

念のためご確認を
桐野作人
町田明広さん、こんばんは。

小松の番組、もう録画予約されたのですか。

関東圏は10月21日(火)午前2時40分から3時10分

となっておりますが、念のため、新聞のラテ面でご確認下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第80回
―斉彬、城地移転を検討―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回まで「鶴丸城物語」を書いてきましたが、上・中・下の3回分のくくりではとても書ききれないことが途中で判明しました。
それで、今回から「幕末の鶴丸城」というシリーズでつづけます。「鶴丸城物語」の続編という位置づけですが、本当は単なる続きです(苦笑)。上中下ではなく番号にすればよかったと少し後悔してます。
じつは、明治編も書くかどうか迷っております。鶴丸城の放火一件や私学校本部になったこと、西南戦争に巻き込まれて戦場になったことなども書くべきなのかなと思案中です。

それはともかく、今回は島津斉彬が鶴丸城の移転を検討していたという話です。
あまり知られていないかもしれません。
西洋科学や軍事に精通していた斉彬は帰国してすぐ、鶴丸城の立地の不利を痛感したに違いありません。
藩祖家久の決断は平和の時代にはよかったのですが、いざ戦時となれば、たちまち弱点となります。
何せ、元亀年間に禰寝氏の軍船から放った矢が届いたほど海から近かったわけで、その後、名山堀をはじめ、埋め立て工事をして海岸線を外に押し出しましたが、それでも大砲の射程から見れば、大勢を覆すことなどできません。
薩英戦争で藩主父子が鶴丸城から避難しなければならなかった事態を、斉彬はすでに見通していたわけです。

斉彬は国分城移転のため、測量や地図作成などを命じましたが、ほどなく他界しました。
もっとも、仮に斉彬が存命だったとしても、城地移転を実行できたかどうかはわかりませんね。潜在的な反対派である父斉興は健在ですし、城地移転にかかる膨大な経費を考えると、強行できなかった可能性も高いです。

次回は薩英戦争と鶴丸城について書きたいと思っています。

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【2008/10/18 12:53】 | さつま人国誌
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中日新聞の取材あり。
今週末の18日夕刊に掲載されます。

表題にある今月からの講座(栄・中日文化センター)の紹介です。
前回も紹介しましたが、再度書いておきます。
東海圏の方で関心のある方は参加してみませんか。

第1回は10月23日(木)午後1時からです。

同センターのサイト(ここです)の表紙にある「10月スタートの新講座はこちら」をクリックし、いくつかのジャンルのなかの「歴史」(28件)をクリックすると、21番目が私の講座の案内になっています。以下のことが書かれています。

講座ジャンル:歴史
講座名:本能寺の変を読み解く 信長・光秀・利三の葛藤
曜日・時間:第4木曜日  昼 1:00~2:30
会場:栄中日文化センター  (名古屋市中区栄4-1-1 中日ビル4階)
講師:歴史作家 桐野 作人
講座内容:本能寺の変の真相については諸説があります。まず、それらを紹介して比較検討したうえで、具体的な問題を見ていきたいと思います。本能寺の変が織田権力のどのような達成段階で引き起こされたかという視点から、信長と光秀、そして斎藤利三との確執の具体相を明らかにしていくことで真相に迫ります。10月から始まる6ヵ月講座です。
受講料 :6ヵ月分 12,600円
備考:筆記用具
講座番号:1-11-053-0


なお、同センターサイトには、6回分の講座内容は書かれていませんので、以下にお知らせします。

・6回分のテーマ
①10/23 本能寺の変をめぐる諸説
②11/27 天正8年における信長と光秀
③12/25 織田権力と長宗我部氏
④01/22 神戸信孝の登場
⑤02/26 斎藤利三の立場と役割
⑥03/26 ついに政変決行さる

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【2008/10/14 23:47】 | 中日文化センター
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NHK大河ドラマ「篤姫」第41回大河ドラマ「薩長同盟」

ドラマ進行時点は、慶応元年(1865)秋から翌2年正月まで。

いよいよ薩長同盟まで来ましたね。
「女のドラマ」のせいか、重要事件を端折りに端折りまくっているので、篤姫ならずとも、唐突すぎる展開ばかりでした。

写真の件、前回から気になっていたのですが、どうなんでしょうね?
和宮単独の写真は残っています。
また、和宮の墓所を発掘したら、写真が出てきたそうですから、これは家茂の写真でもおかしくないですが。
いずれにしろ、一人で写した写真じゃないかという気がしますが、よくわかりません。

薩長同盟に関しては、通説をなぞった形でした。
西郷と木戸の両雄がにらみ合ったまま、物別れに終わりそうになるところに龍馬が登場して、西郷に妥協させるという設定。

ただ、最近では、長州征伐の勅許が下りるかどうか、下りたとしてどんな内容かを両者が注視していて、その結果が判明しないことには話し合いに入れなかったというのが実情のようですが。

あと、薩長同盟締結日がいつかというのも、ほんとは重要問題でして。
最後の「篤姫紀行」では、慶応2年(1866)正月21日とナレーションしていました。
私もさほど異議はありません。

ただ、そうなると、出席者が微妙になります。
龍馬は20日まで熱を出して寝込んでいたので、小松邸に来られたのは21日。
一方、21日には、大久保一蔵が奈良原繁・黒田清綱・同了介らとともに帰国しています。だから、締結の場に大久保は不在だったという説もあります。

その典拠は薩摩藩家老の桂久武の日記ですが、それだと、同日、大久保などの帰国を見送ったと書かれていますが、それがいつだったのか?
桂は藩邸に出勤せずに、あとから大久保たちを見送っています。
桂が藩邸に出勤するのはほぼ決まっていて、四つ頃(午前10時頃)です。
となると、改めて宿所を出て見送ったのは午後からということになりそうです。
つまり、同日午前中、薩長同盟が締結されていたら、大久保が同席してもおかしくないことになります。よって、大久保は締結を見定めてから、帰国の途についたという解釈も可能です。

なお、薩長同盟のとき、木戸のことを桂小五郎と表記するのをよく見かけますが、厳密にいえば、間違いです。正確には、木戸貫治とすべきでしょう。
ドラマでは「木戸孝允(桂小五郎)」となっていたような。
これは、当時は桂小五郎だったけど、あとで木戸孝允になったというニュアンスに解せられますが、さて……。

長崎のグラバー邸で、小松がグラバーに片言の英語を使っていましたが、さて、小松が英語を習っていたかどうか、それを証明する確たる史料はないと思います。
ただ、薩摩藩営の洋学校である開成所を、小松や大久保が中心になって設立したのが薩長同盟の1年半前の元治元年(1864)6月です。
開成所では、英語教育が熱心に行われ、前島密らが教鞭をとっています。ここの成績優秀者が英国留学生に選ばれていますから、そうした環境にいた小松も簡単な単語くらいは知っていたかもしれませんが。

個人的には、最後の「篤姫紀行」に出てきた小松帯刀寓居跡参考地の石碑が登場したのがうれしかったです。何せ、今年の7月に建碑されたばかり。

次回は早くも将軍家茂の死去ですね。
秋の深まりとともに、ドラマもいよいよ終盤です。

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【2008/10/12 22:22】 | 篤姫
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よこよこ
桐野さま、またまた書き込み致します。
「薩長同盟」、先日体験講座にて体験した所ですね。
薩長同盟締結日のところも、ふむふむと見てしまいました(笑)
やはり、一度だけではなく、いろんな角度から何度も学ぶべきだなあ・・・と、思いました。

「篤姫紀行」の小松帯刀寓居跡参考地の石碑、こちらも再度認識です。
やはり、映像でその場所を確認できるのはいいですよね。
また京都へ行く機会がありましたら、是非訪れてみたいものです。


小松寓居跡参考地の石碑
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

本日からまた講座が始まり、薩長同盟について、さらに深く突っ込んで史料を検討しました。

小松の石碑、京都に行かれたら、ぜひご覧になって下さい。
一条戻り橋を渡って50メートルほど行ったすぐ近くです。

第1次長州征討
御座候
天璋院(宮崎あおい)が家茂(松田翔太)に対し「1度降伏した長州を征討することは本当に正しいのか?」みたいなことを言っていましたけど、そもそもドラマ内では第1次長州征討の描写が全くなかった気がするんですが・・・何も知らない人にとっては「1度降伏したって、何のこと?」という感じでは。


前回の蛤御門の変に関しても背景説明(八月十八日の政変→一会桑政権の樹立)が全くなかったので、家族から「何故、薩摩と長州が刃を交えているのか?」と尋ねられました・・・

端折りの弊害
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

たしかにご指摘のとおりですね。

そのほかにも、将軍家茂は3度上洛しているんですけど、ドラマでは2回目で、死去する設定になっていますから、元治元年の上洛は端折られています。

また上京した家茂が慶喜を叱り飛ばす場面がありましたが、あれも単に慶喜の独断専行ではなく、一会桑権力と幕府の葛藤だという視点があれば、よく理解できるのですが……。
「一会桑権力」という概念をこのドラマに望んでも、ないものねだりですけどね。

ちなみに、家近良樹氏は近年、「一会桑権力」ではなく「一会桑勢力」とされているような。
従来、幕府からの相対的独立性を強調されていたけど、そうした見方が(批判もあってか)後退したのでしょうか?


一会桑
御座候
>また上京した家茂が慶喜を叱り飛ばす場面がありましたが、あれも単に慶喜の独断専行ではなく、一会桑権力と幕府の葛藤だという視点があれば、よく理解できるのですが……。

これは私も思いました。



>ちなみに、家近良樹氏は近年、「一会桑権力」ではなく「一会桑勢力」とされているような。
従来、幕府からの相対的独立性を強調されていたけど、そうした見方が(批判もあってか)後退したのでしょうか?

どうなんでしょうね?
家近氏の近著を確認していない私には何とも言えません・・・
宮地正人氏の『歴史のなかの新選組』ですと、
「一会桑政権」「一会桑勢力」「一会桑グループ」といった表現が混在しており、「権力」なのか「勢力」なのかという区別の意識は感じられませんね。

家近良樹氏の近著
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

家近良樹氏の近著は昨年12月刊行された

『幕末の朝廷―若き孝明帝と鷹司関白―』(中公叢書)

ではないかと思います。
それを読んでいて、「一会桑勢力」と記されていたので、少し違和感を覚えたのでした。
それだけなんですが、ただ、家近氏は井上勲、宮地正人氏らの先行研究を批判して、「一会桑政権」ではなく「一会桑権力」と呼ぶべきだという立場だったと記憶していたため、概念規定をより厳密にされるという印象があったものですから、「~権力」から「~勢力」への転換は主張が後退したのかと見えてしまったわけです。
私の勘違いかもしれません。

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お知らせです。

小松帯刀のドキュメンタリー番組が今月放映されます。
鹿児島のKKB鹿児島放送が制作したものです。
テレビ朝日系で全国放映されます。
番組の詳しい内容については、KKBのこのサイトをご覧下さい。

私も協力しました。少し登場すると思いますので、よかったら観て下さい。
放映時間帯が早朝、深夜に偏っていますが、悪しからず。

まず、鹿児島で10月19日(日)午前6時から放映されます。
関東圏は10月21日(火)午前2時40分から3時10分です。
関西圏は鹿児島と同日ですが、少し早く、午前1時30分からです。
東海圏は21日(火)午前2時50分からです。

各地域の放映時間帯は以下の通りです。
KKB鹿児島放送での10月19日を基準日として、それから何日遅れか(マイナスは早まる)を末尾の丸数字で示してあります。19にその数字を足した(あるいは引いた)日が放映日です。どの地域も1週間以内に放映されます。
なお、25時とか26時は深夜で、本来は日付が変わっていますので、お気をつけ下さい。

2008年10月編成 「テレメンタリー2008」各局編成
2008/9/16

局 名 編 成 枠 "基準日からの遅れ日数"
テレビ朝日 (月)26:40-27:10 ①
HTB 北海道テレビ (土)25:30~26:00/(土)06:05~06:35(再) ⑥/⑬(再)
ABA 青森朝日放送 (月)25:40~26:10 ①
IAT 岩手朝日テレビ (日)04:50~05:20 ⑦
KHB 東日本放送 (火)25:46~26:16 ②
AAB 秋田朝日放送 (日)06:30~07:00 ⑦
YTS 山形テレビ (日)06:00~06:30 0
KFB 福島放送 (月)25:45~26:15 ①
UX  新潟テレビ21 (土)6:00~6:30 -①
ABN 長野 朝日放送 (日)25:40~26:10 0
SATV 静岡朝日テレビ(日)06:00~06:30/(日)25:30~26:00(再) 0/⑦(再)
HAB 北陸朝日放送 (日)26:15~26:45 0
メ~テレ 名古屋テレビ (月)26:50~27:20 ①
ABC 朝日放送 (土)25:30~26:00 -①に変更
HOME広島ホームテレビ(日)26:10~26:40 0
yab  山口朝日放送 (月)25:54~26:24 ①
KSB 瀬戸内海放送 (日)25:45~26:15 0
eat  愛媛朝日テレビ (土)26:00~26:30 ⑥
KBC 九州朝日放送 (日)06:00~06:30 ⑦
NCC 長崎文化放送 (日)25:15~25:45 0
KAB 熊本朝日放送 (火)25:40~26:10 ②
OAB 大分朝日放送 (水)26:40~27:10 ③
KKB 鹿児島放送 (日)06:00~06:30 0
QAB 琉球朝日放送 (日)25:15~25:45 0

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【2008/10/11 20:39】 | 幕末維新
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楽しみです。
NAO4@吟遊詩人
小松帯刀関連の放送のご案内ありがとうございます。
うれしいのですが、関東圏は凄い時間帯ですね。見逃さないようにビデオ予約が必要です。

小松帯刀という名前は、司馬遼太郎さんの小説にも頻出してくるので、20~30年前の学生時代から知ってはいたのですが、司馬さんいつもの司馬節で蘊蓄を語っていなかったようで、実際どのような方だったのか知りませんでした。

今回の大河「篤姫」のおかげで、小松がクローズアップされ、情報量が増えてありがたいです。特に、歴史の表舞台から忽然と消えてしまうあたりが不思議ではあったのですが。(亡くなったということなのでしょうが。)

小松帯刀が忘れられた理由
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

小松が歴史の表舞台から消えるのは、もちろん他界した明治3年ですが、それ以前から病気がちでしたね。
問題は、その後、名前がほとんど忘れ去られたことです。じつをいうと、龍馬も同様だったのですが、龍馬には復活の大きなチャンスが少なくとも3度ありました。一方、小松は死去後138年目にしてようやくチャンスが訪れたわけです(笑)。

小松が忘れられた理由は上記番組でもやると思いますが、私の方では、次のあたりに書いています。興味がおありなら、読んで下さいませ。

http://373news.com/_bunka/jikokushi/50.php

http://373news.com/_bunka/jikokushi/65.php

http://373news.com/_bunka/jikokushi/74.php


よこよこ
桐野さま、こんばんは。

とてもタイムリーなドキュメンタリー番組ですね。
しかしながら、関東圏の私には21日のこの時間では、とても拝見できません。
多分・・・でも、しっかり録画予約はしておくつもりです。
ただ、30分と言うのがちょっと短いですね。

私的には、いつの日にか、小松帯刀が主役の物語を見てみたいものです。

どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
お忙しいところ、小松の病気に関する記事ご紹介いただきありがとうございました。
足痛といい、なかなか当時の人としては致命的な持病を抱えていたのですね。

小松の番組
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

小松のドキュメンタリー番組、タイムリーというか、今年しかないという番組だと思います。

主役の映画やドラマはちょっと無理な気がしますが、小説なら何とかなるかも知れませんね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第79回
―元禄の大火で大半焼失―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は鶴丸城の3回目です。
あまり知られていない元禄9年(1696)の大火について書きました。
町屋から起きたこの大火が城にも延焼して、ほとんど焼けてしまいました。
藩政史料なども焼失しています。

今回が(下)になっていますが、まだ終わりません。
私の見こみ違いで、予測より分量とテーマが多かったため、もう少し続けます。
「その後の鶴丸城」とでも銘打ってやります。
とくに幕末期、城地移転が真剣に検討されていたことを書きたいと思っています。

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【2008/10/11 10:36】 | さつま人国誌
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ツアー講師の仕事を終えて、無事帰宅しております。

今回は意外と歩きました。
高齢者が多かったのに、みなさん、頑張りました。

【2日目】
2日目の午前中は木屋町、河原町界隈を歩きました。
まず木戸孝允終焉の地に行きました。
事前に拝観の許可をいただいていたので、庭と建物(1階だけ)の見学ができました。
明治10年(1877)、木戸は明治天皇の大和行幸に随行中に発病して、ここで療養しましたが、明治天皇の見舞いも甲斐なく他界しました。
折しも西南戦争たけなわであり、木戸は「西郷、もう大抵にせぬか」と臨終間際につぶやいたと言われます。
なお、京都にある5つの近衛邸のうち、江戸中期の近衛家煕邸は木戸邸と重なりあっているのではないかと思います。というか、空き家になっていた近衛邸を木戸が拝借したのではないかという気がしますが。詳しく調べたわけではありませんけど、いろんな地図を見ると、そんな気がします。
木戸邸




木戸孝允終焉の地

木屋町の高瀬川沿いには長州、土佐系を中心に史跡がたくさんあります。
木戸邸から御池の長州藩邸跡(桂小五郎銅像も)を見ながら南に下り、四条まで歩きました。
その後、霊山に移動して、霊山歴史館と霊山墓地を見学。
時間と高齢者が多い関係で、霊山墓地は坂本龍馬・中岡慎太郎の墓所まででした。
木戸孝允終焉の地で熱を入れて説明したせいか、木戸と幾松の墓に行きたいという声もありましたが、残念ながら断念。
龍馬墓


坂本龍馬・中岡慎太郎の墓

食事のあと、東福寺に行く。
友人で寺社のガイドをやっているHさんが駐車場で待っていてくれた。
東福寺は紅葉の通天橋が一番の見どころだが、残念ながら、まだ色づいていない。
東福寺の三ノ橋川にかかる、一番下流の臥雲橋で、Hさんから東福寺や三ノ橋の説明をしてもらう。
Hさんは勉強熱心で、寺社には非常に詳しい。須弥山をかたどった「九山八海」の庭で有名な塔頭の霊雲院では、私の拙い説明をフォローしてもらったほど。
おかげで、私も楽だった。

東福寺の目玉は、薩摩藩ゆかりの塔頭、即宗院。
ご住職に事前に連絡してあったので、門前でお迎えしてもらった。
ご住職から、簡単な講話をしていただく。
参加者は偃月橋を渡って即宗院に来たが、偃月橋は慶長6年(1601)に普請されたもの。
「篤姫の足跡とみなさんの足跡が重なっているかもしれませんよ」
というご住職の言葉に、参加者一同、感激の様子。
「歴史は過去のものではなく、現在につながっている」という、とても説得力のある講話だった。
また即宗院の門をすべて開放して下さっていた。
私も何度か訪ねたことがあるが、この門が開放されているのは初めて見た。

境内に入って、九条兼実の月輪邸跡の復元庭園を見学。
さらに奧の墓所を見学した。
中井弘・竹子夫妻、田中新兵衛、奈良原喜左衛門(生麦事件)、道島五郎兵衛(寺田屋事件)、有馬正直(新七の父)などの墓を見学したのち、高台の「東征戦亡之碑」を見学。
西郷隆盛の揮毫した碑と、戊辰戦争における薩摩藩戦死者の名前を刻んだ石碑5基を見学。
みなさん、「こんなのは初めて見た」と、とても興味深そうに見入っていた。

東福寺をあとにして、北隣の泉涌寺に行く。
法堂で説明を受けたのち、奧の孝明天皇陵まで、また歩く。
3日間で、かなり孝明天皇の話をしたが、孝明天皇の功績としては「朝威再興」にあったのではないかと語る。

その後、また歩いて戒光寺墓所にある高台寺党のお墓を見学。
伊東甲子太郎、藤堂平助、富山弥兵衛などについて説明する。
高台寺党の面々は入京してから激変する情勢のなかで、従来の考え方を根本から揺すぶられて、新選組のあり方に懐疑的になってきた、極めて人間臭い集団だったこと。また離脱に際して分裂ではなく、出向のような形をとったために、会津や薩摩藩・公議政体派などあらゆる勢力と八方美人的に付き合う形になった。そのため、幕末の諸勢力の間で極めてリスクの高い処世をしなければならなかったところに、この集団の悲劇があるといった話をした。
私が新選組や高台寺党の話をかなり熱っぽく語ったらしく、あとで「意外だった」とか、「薩摩派なのに、温かさがあった」とかいう感想があって苦笑。

2日目はこうして全日程を終了した。
この日は14.000歩歩いたそうな。

【3日目】
いよいよ最終日。
この日は鳥羽・伏見戦跡の見学である。
その前にまず、2日間積み残した堀川一条の「小松帯刀寓居跡参考地」を見学。ホテルのすぐ近くである。
地主のMさんにご挨拶しようと思ったが、あいにく留守。
じつは初日に、相国寺のそばで偶然お会いして声をかけられ、石碑を見学する旨伝えていたので、そのまま見学させてもらう。

一路、伏見に下る。
途中、墨染の近藤勇狙撃地を少し説明する。
最初の訪問地がいま話題の寺田屋だったので、この間の「騒動」についてかいつまんで説明。
そのなかで、寺田屋遭難者33回忌の記念碑に「寺田屋遺址」という文言があり、それが寺田屋の焼失を示しているという話をしたので、寺田屋に着くと、まず庭にあるその記念碑を確認。
その文字を見つけて感慨深げ。
以前、寺田屋を訪れ管理者の説明を信じて、寺田屋は当時のままだと思っていた方々も多く、あとで聞いたら、かなりショックだったという声があった。

その後、有馬新七らが眠る大黒寺、寺田屋お登勢の墓がある松林寺、薩摩藩邸跡、伏見奉行所跡を見学してから昼食。
午後からは御香宮を見学した。ちょうど秋祭りで、屋台がたくさん出ていた。
御香宮




御香宮の参道

それから一路、鳥羽街道方面に下り、淀の妙教寺に行く。
妙教寺は、鳥羽・伏見の戦いのとき砲弾が本堂を貫通したあとがそのまま残っている。
ご住職から、砲弾が突き抜けた壁や柱、さらにそのときの椎実型の砲弾も見せてもらう。
4代前の住職がこの戦争の痕跡を残すよう遺言したのを、ずっと守っているという話を聞き、一同感激。
なお、この砲弾は幕府軍側が撃った砲弾らしい。
また、新選組の井上源三郎が近くの淀川千両松で戦死したが、その首の埋葬場所について最近、新しい発見があったことを、江戸期の古地図で詳しく説明してもらった。

最後に城南宮に行き、白河法皇の鳥羽離宮の栄華の跡を見学。
鳥羽・伏見の戦いの開戦地となった小枝橋や薩摩藩の大山巌が大砲を据えた秋の山の碑を見学して、すべての日程を終了した。
小枝橋




小枝橋の開戦の碑

連日、10月とは思えない暑さのなか、とにかくよく歩いた3日間だった。
個人的にも運動不足の解消になったようである。
3日間付き合っていただいた参加者と主催者のみなさんに感謝。

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【2008/10/10 21:53】 | イベント
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ツアー初日は京都御苑周辺を回りました。

まず薩摩藩と縁が深い相国寺に行き、光源院や林光院などの塔頭を見ながら、境内の外の「甲子役・戊辰役薩摩藩戦死者墓」を見学。
この墓所は比較的よく知られているが、かつて林光院の敷地に含まれていたことはあまり知られていないと思います。林光院は関ヶ原の敵中突破をした義弘以来、島津家ゆかりの塔頭です。
この東側一帯は塔之段と呼ばれる地域で、西郷隆盛の京都邸があった場所でもあります。

その後、相国寺内の総墓地を見学。
ここには禁門の変で戦死した長州藩士の墓があります。ほかにも足利義政、藤原定家、伊藤若冲、悪左府こと藤原頼長の墓もあります。とくに伊藤若冲は時の人なので、参加者の関心も高かったです。若冲は相国寺で修行した経験がありますね。 

相国寺の特別拝観。
法堂や方丈を見学。
法堂の天井の蟠龍は迫力でした。狩野光信の作品。
禅寺、とくに京都五山はほとんど本堂に蟠龍が描かれていますね。

その後、京都御苑に移りました。
午後3時から、京都御所の特別拝観ができることになっていましたが、ちょうど皇太子が京都御所を来訪したとのことで、交通も渋滞が多かったのと、もしかしたら特別拝観も中止になるかもしれないという情報も流れましたが、何とか見学できて安堵。
拝観時刻まで時間があったので、蛤門、中立売門、乾門の西側三門、そして武家の装束直しの家として知られる施薬院跡や二本松の薩摩藩邸跡を見学。
三門はいうまでもなく禁門の変の激戦地です。小松帯刀の陣所(公家門)に長州勢がどのような経路で攻め込んだかも説明。

午後3時から特別拝観で入場。
ガイドが付いていただいたので、こちらは楽だったが、小御所や御学問所あたりは少し説明を付け足したかった気がしました。
私は今回が2回目ですが、前回は紫宸殿前庭まで入場できたのですが、今回はダメでした。最近は拝観ルートが変わったようです。あるいは春秋の特別拝観では可なんでしょうかね?

その後、御所周辺の宮家・公家の屋敷跡を見学。
凝華洞、有栖川宮家、学習院、橋本家(和宮生誕地)、猿が辻(姉小路公知暗殺事件)、近衛家、中山家(明治天皇生誕地)など。

そして、石薬師門を出て、大久保利通旧邸を見学して本日の日程を終了。

秋分の日を過ぎて、日がだいぶ短くなりました。5時過ぎから暗くなりますね。
ほんとは、堀川一条の小松帯刀寓居参考地でしめる予定でしたが、明日に積み残しました。

万歩計をもっていた参加者によると、18.000歩も歩いたとか。10キロ以上歩いた計算になります。さすがに疲れました。

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【2008/10/07 22:11】 | イベント
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よこよこ
桐野さま、こんばんは。
京都へお出かけだったのですね。
2泊3日のツアーでしたか、こちらも参加したかったです(笑)
偶然ですが、今年の4月に京都へ出かけておりました。
やはり友人の誘いにて、桜の撮影でしたが、1泊2日と駆け足だったものでちょっと疲れましたね。

その時に京都御苑も立ち寄りました。
初日は夕方に着いた為、京都御所の周りをうろうろと撮影してその日は終わり、翌日は友人の案内にて、山科や平安神宮など廻って帰宅しました。

次回は、もっとゆっくり廻ってみたいものです。

またの機会に
桐野作人
よこよこさん、こんばんは。

京都に出かけていたので、コメント遅くなりました。
最近、京都に行かれたんですね。
私の方は秋にはまだ早く、暑くて大変でした(笑)。

また機会があれば、ご一緒したいものです。

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ただいま、東海道新幹線の車中です。

本日から二泊三日で京都です。
篤姫関連のツアーの講師役です。
今日は、京都御所や薩摩藩邸付近を回る予定です。

折に触れてレポートを書くつもりです。

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【2008/10/07 08:42】 | イベント
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昨日の「篤姫」に登場した琴花こと、お琴について、若干の補足です。

お琴については、それほど史料や情報があるわけではありません。側室という日陰の立場、26歳という短い生涯ですから、致し方ないかも知れません。

お琴とお近は会っていると思います。小松の最晩年、お近は小松の見舞いに大坂に上っています。このとき、会ったはずです。ドラマでそこまで描かれるかわかりませんが。

小松とお琴の間には3人の子どもができました。

安千代(のち清直)
辰次郎(早世)
於須美(お寿美とも)


子どもたちについては、私がかつて書いたことがあります。ここをご参照下さい。
それには、お琴の墓の写真も掲載してあります。
墓は鹿児島の小松家墓所(日置市日吉町吉利)にあります。

なお、これはドラマでは触れないと思いますが、小松にはもう一人、京都妻がいました。
名前を「於政」というのではないかと思います。彼女との間にも、男子(清揚)が生まれています。

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【2008/10/06 11:35】 | 篤姫
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小松清揚
ばんない
こんにちは。

小松帯刀のもう一人の妻のネタはこちらのブログか南日本新聞の記事のどちらかで既出だったと記憶しているのですが、清揚の存在については『平成新修旧華族家系大成』の小松伯爵家系図には記載がなく無視されてますね。

お琴との間の安千代(清直)とお須美が最終的には帯刀正妻・お近に引き取られたのもブログその他で既述ですが、清揚はどうなったんでしょう?ネタにする予定がなければ(爆)さらっとご教授下されば幸いです。

養子に
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

清揚は竹崎家というところに養子に入っています。
どんな家だかよくわかりませんが。
情報はそれくらいしかないですね。


ばんない
ありゃ、入れ違いになりました。早速の御回答ありがとうございました。

竹崎家…『本藩人物志』には竹崎姓の武将が2人見えますが、これからみると地味な家柄のようですね。もしかしたら鹿児島の竹崎家ではなく、別の地域の竹崎家に養子に出されたのでしょうかね?


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NHK大河ドラマ「篤姫」第40回「息子の出陣」

ドラマ進行時点は、元治元年(1864)初頭から慶応元年(1865)初頭。

急にドラマの進行が早くなりましたね。
じつをいうと、幕末史で、このあたりが一番複雑な時期。幕末のドラマがわかりにくいという理由もその辺にあるわけですが、このドラマはそんな面倒な男の物語はスルーして先を急ごうというわけでしょうか。

今回の見どころは、①禁門の変、②小松帯刀と坂本龍馬の出会い、③琴花(のちのお琴)の登場といったところでしょうか。

まず①ですが、その前に西郷吉之助が島流しから帰ってきました。
本来なら重要事件のはずですが、そのいきさつが端折られたばかりか、琴花登場の刺身のツマにされてしまいましたね(笑)。
小松が西郷の役職が「軍賦役」になると告げていましたが、そのとおりです。西郷は乾門の指揮をとることになります。
禁門の変では、小松は内郭の公家門内に50人ばかりの兵を率いて本陣を置いていました。
長州藩は筑前藩が守っていた中立売門を突破して、公家門近くまで突入してきたのはたしかです。「禁裏守護兵出発」(『忠義公史料』三)には、次のように書かれています。

「此時賊軍(長州兵)は一橋・筑前の兵と戦ひ、賊軍勝ちに乗て公家門前に突入したり、此時本藩城下兵は四門の大砲を連発し、或は小銃を放ち、其音天地に震ふ」

小松の本陣に長州兵が斬り込んできたのは、このあたりを参考にしたものでしょうが、小松本陣まで攻められたとは考えにくいですけどね。
結局、長州兵は敗れて、近くにある日野家の屋敷に逃げ込みました。

あと、最後の篤姫紀行でも取り上げていましたが、薩摩藩が長州兵の兵粮米を焼き出された人々に配付したという件。小松がやったかどうかはわかりませんが、史実です。
私が典拠として思いつくのは『若山要助日記』下です。これには次のように書かれています。

「猶又、嵯峨天りうし(天龍寺)へ長州方より貯へ置し兵粮米五百俵、右は薩州侯より分取に及ばれ候につき、右米市中類焼の者共へ下され、東洞院錦小路薩州様御屋敷へ貰に行き候由」

敗走した長州兵を追って、その拠点である天龍寺に行った薩摩藩兵の大将は小松です。
お寺はもぬけの殻で、長州兵は一人を除いてすべて逃げ去っていました。
小松らは労せずして、武具や兵粮などを鹵獲できたわけで、その兵粮米を配るよう命じたのは、たしかに小松である可能性は高いですね。
ただし、二本松の藩邸ではなく、四条に近い錦小路藩邸で配付したところを見ると、火事で延焼したのは京都御所より南方がひどかったのでしょうか。

②小松と龍馬の出会い。
いや、どうも「のだめ」を思い出してしまいます(爆)。あちらでも千秋先輩が一枚上手でしたが、今回もピストルにブーツで二枚も上手。一部では「鹿」に顔が似ているという声もあるようで(爆爆)。

さて、ドラマでは小松邸に龍馬が訪ねてくるという設定になっていました。
このあたりは史料がないので、ある程度想像になっても致し方ないでしょう。
勝麟太郎が龍馬たち塾生の面倒を小松に託したのは史実です。小松は快諾して、彼らを大坂の蔵屋敷に匿うことにしました。

ただ、小松邸が藩邸から独立した形で、元治元年(1864)暮れ頃にすでにあったかどうかは微妙なところです。小松は同年夏頃まで、まだ二本松の藩邸に住んでいたようで、後述のお琴と一緒に暮らすようになるのは、同年末か慶応元年初頭くらいではないかと思っています。

③琴花=お琴
 今回の隠れた主役は芸妓の琴花でしたね。一番目立っていました(笑)。
いうまでもなく、小松ののちの京都妻お琴です。
ある小松の系図には「コト」と書かれています。これに「琴」という字をあてたのでしょう。
琴花の源氏名はもちろん、創作です。

そもそも、お琴が芸妓だったかどうか確定できる史料は存在しません。
でも、お琴が洛南の百姓の娘であることはわかっています。百姓の娘と大藩の家老の接点は妓楼しかないではないかというのは合理的推論かも知れませんね。
ほかに可能性があるとすれば、藩邸で雑用をする女中として雇用されていたのかもしれませんが、よくわかりません。

お琴は明治7年(1874)8月27日死去、享年26です。
逆算すると、ドラマの小松と会ったのは元治元年(1864)ですから、16歳だったことになりますね。
なお、お琴の写真は現存しているようです。ちょっとピンボケですが。

余談ですが、今回、お琴は原田夏希が演じていますが、20年前の大河ドラマ「翔ぶがごとく」でも、じつは登場しています。そのときは角川三人娘の一人、渡辺典子でした。
その設定は、大久保の京都妻、おゆうの実家である祇園の茶屋一力亭に出入りの芸妓でした。そのドラマでは、西郷信吾(のち従道)が憧れていましたが、上役で先輩の小松に取られてしまうというものでした(笑)。

来週はいよいよ「薩長同盟」です。
もしかしたら、今年7月建碑されたばかりの堀川一条「小松帯刀寓居参考地」の石碑が篤姫紀行で登場するかもしれません。要チェックです。

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【2008/10/05 23:23】 | 篤姫
トラックバック(1) |

硬軟お見事^^
シラオ
>「のだめ」を思い出し(爆)
>「鹿」に顔が似ている(爆爆)

これが時々あるから、先生の記事に惹かれてしまいます(笑)
ドラマ篤姫を2倍3倍、楽しませて頂いております。感謝^^
今朝の(6日付)南日本新聞の「御台所は薩摩人・・・」の記事で、家茂の死から大政奉還まで書かれてました。短い期間に、これ程の大きな動きがあったのかと、改めて感じ入ります。だからこそ、ドラマでは全てを描けず、切り捨てられる事柄があって致し方無いのですね・・・。

言い換えれば、だからこそ、先生の記事が私には必要です^^
これからも楽しみにしております。。




洛中です
中村武生
桐野様
 こんにちは。
 いつもいろいろご教示たまわりありがとうございます。
 いわずもがなのことをひとつ。
 若山要助のいた東塩小路村の大半は、御土居堀で囲まれたなかに位置します。
 すなわち洛南ではなく、洛中になります。
 微細なことですが、まもなく京都観光案内をなさるとうかがっておりますので、「大文字焼き」の先例がこわく、ひとこと申しあげました。失礼はお許しください。

 来週の「篤姫紀行」に小松帯刀寓居参考地標石が登場するのは確実のようです。僕も楽しみにしております。

新聞記事
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

仰せのように、わかりやすいことはいいことかもしれませんが、それだけで終わってはどうかなと思います。
その部分は、私どもの役割かも知れませんね。


訂正しました
桐野作人
中村武生さん、こんにちは。

ご指摘有難うございます。
本文を訂正しておきました。
漠然と南の方という意味で使ったのですが、御土居内でしたか。たしか京都駅付近でしたよね?
貴著『御土居ものがたり』を拝見したところ、御土居の南端は九条通、東寺の南端あたりのようですね。

鹿・・・
木暮兼人
すみません・・爆笑してしまいました。
映画の役作りのせいなのでしょうか
この方、少し痩せ過ぎてしまってる印象があります。

この方、出身は尾張中村ですので
いずれは太閤記で猿もしくは虎を演じてくれないかと
ちょっと期待しているのですが、顔は鹿なんですね。

中村
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

お琴が上野樹里だったらどうしようかと思っていました。
鹿男は中村出身でしたか。知りませんでした。
猿は似合いそうですけど、虎はどうですかね?



省略
御座候
八月十八日の政変・池田屋事件に関する説明・描写もありませんでしたよね。

はしょり
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

返事が遅れてすみません。

ご指摘のとおりですね。
おそらく政治的な重要事件はほとんどスルーだと思います。
大政奉還や王政復古政変などもそれほど詳しくやるとは思えませんね。


琴=芸妓?
ばんない
こんにちは。古い記事にレスして申し訳ございません。

桐野さんのお話によると琴の出身というのははっきりしていないと言うことですが、いろいろと問題のある(苦笑)ネット百科事典「wikipedia」のお琴の記事で必死になって琴=芸者説を主張されている方がおられるようで、更に今回のこのドラマで琴=芸妓は一般常識で確定してしまいそうですね。

私も気になったので
・『近世・禰寝系図』(村山友一編 文昌堂)
・『幻の宰相 小松帯刀伝』(小松帯刀顕彰会)
を取り寄せてみてざっと読んでみました。

『近世禰寝系図』のほうは禰寝家に伝わっていた江戸時代中期~後期の古文書を解読して解説したという、かなり手堅い本だと思いました。が、こちらの方では琴については「三木六兵衛七女」と没年と死没地ぐらいしか記述がありませんでした。

あと一冊の『幻の宰相~』は今のところ小松帯刀に関して一番詳しい伝記と思われますが、内容については
・勝手に台詞を作ってお話を演出する傾向がある
・話の根拠となった資料のタイトルなどを掲示していない
という、かなり問題のある本だと思いました。この本で「琴=京都の芸者」という説を幾度に渡って力説しており、おそらく大河ドラマもこれをそのまま採用しちゃったものと考えられます。
ところで『幻の宰相~』のほうは大河ドラマ歴史考証担当の原口鹿大教授が監修しているようなのですが、
http://www.amazon.co.jp/%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%AE%B0%E7%9B%B8%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B8%AF%E5%88%80%E4%BC%9D-%E6%94%B9%E8%A8%82%E5%BE%A9%E5%88%BB%E7%89%88-%E7%80%AC%E9%87%8E-%E5%86%A8%E5%90%89/dp/4863502869
もしかすると原口氏は「琴=京都の芸妓」という説の根拠を持ってられるのでしょうか?原口氏も小松関連本を書いてられるようですが、残念ながら予約がいっぱいでなかなか入手できないので気になるところです。

お琴の出自
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

お琴の出自については、私も少し史料をもっていますが、それには洛南の百姓の娘とあるだけで、芸妓だったとは書かれていません。
なお、『近世・祢寝系図』は未見なので何ともいえませんが、私のもっている史料とは少し異なるような気がします。三木云々はお琴の父親の実家かなと思いますが……。
余談ながら、この本を国会図書館などで検索してみたのですが、ヒットしませんでした。私家版なのでしょうか?

そのほかの刊行本はほとんど参考にならないでしょうね。
ただ、原口泉氏が以前に書かれた『NHKかごしま歴史散歩』(日本放送出版協会、1986)に、お琴の写真が掲載されています。ちょっとピンボケですが、ふっくらした感じですね。
もっとも、本当にお琴の写真なのかどうか籔の中です。所蔵先はどこなのかもわかりません。また、今年、これだけお琴が脚光を浴びたのに、まったく公表されないのも理由が分かりません。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第39回「薩摩燃ゆ」

ドラマ進行時点は、文久3年(1863)春から秋にかけて

ほぼ一週間遅れの感想です。

今回は将軍家茂の上洛と、薩英戦争が中心でしたね。

将軍の上洛と参内は、寛永11年(1634)の3代将軍家光以来、じつに230年ぶりのことでした。
参内は3月7日のことで、清涼殿鴬間代で孝明天皇と対面しました。ドラマでもあったように、関白鷹司輔熈以下、五摂家と大臣の面々が同席しておりました。

このとき、家茂は和宮降嫁と庶政委任の勅諚に対するお礼とともに、攘夷決行を請ける旨言上しています。まかり間違っても、攘夷は出来ないなどとは言えないわけで、ドラマとはかなり異なります。

庶政委任の勅諚とは、いわゆる大政委任のことで、これは家茂に先行して上洛した将軍後見職の一橋慶喜の奔走によって得たものです。大政委任の勅諚こそ、動揺する幕府政治の正統性を担保するものでした。
その代償が攘夷決行の受諾ですから、攘夷が不可能などと言い出したら、大政委任も不可になるわけで、今さら家茂はそんな泣き言を言える立場にはないのです。ドラマはこのあたりが甘いですね。

ドラマでは朝廷に先手を打たれて手も足も出ない家茂を描いておりましたが、本当のところはもっとすごいのです。いみじくも、勝麟太郎に「幕府はすでに日本のまつりごとの要ではない」と言わしめた実態はどのようなものだったのかといえば、

まず、家茂は上洛の2カ月前、同2年12月、これまでの失政の責任をとって、正二位内大臣からの降等を申し出ています。
また、それまで朝廷の重要役職である関白・大臣・武家伝奏の任免には幕府の内諾を得るという慣例が廃止され、朝廷が勝手に任命できるようになりました。幕府は朝廷政治を統制する手段を失ったのです。
そのほかにも、政事総裁職に任命された松平春嶽が、家茂に将軍辞職を求める建白書を提出し、自身も辞任しようとしました。これは家茂の「勅旨遵奉」が朝廷を裏切ることになるという理由からです。「勅旨遵奉」とはすなわち、攘夷決行の受諾です。幕府は約束してもできないことを受諾していいのか、春嶽はそんな責任はとても負えない、朝廷に対しても失礼だというわけです。
このように、幕府内の内情もゴタゴタでした。

そして、家茂個人も散々な目に遭います。
参内するとき、家茂なら公家門の車寄せまで輿で行けるのですが、家茂は徒歩で歩かされています。さらにすごいのは座次(ざなみ、席次のこと)です。
家茂は孝明天皇との対面のとき、関白、左右大臣、内大臣の次に坐らされました。
230年前の将軍家光のときは、関白よりも上位だったこととくらべると雲泥の差です。幕府の衰退が座次にもはっきりと表れたわけです。


一方、薩摩ではいよいよ薩英戦争になりました。
意外と時間をかけて描いていましたね。さすがに西瓜売り決死隊などは出てきませんでしたが(笑)。

違和感があったのは2点。
ひとつは、英国艦隊の砲撃で、薩摩藩側はさんざんやられて、多数の死傷者が出ていたように描かれていましたが、実際は戦死者5名、重軽傷十数名という比較的軽微な人的損害ですんでいます。もっとも、台場はほとんどやられたようですが。

もうひとつは、小松帯刀が炎上する鹿児島城下を見下ろすシーンがありましたが、城下のほとんどが火の海になっているように見えましたね。
これも大げさです。実際は城下の10分の1程度が焼失したといわれています。
城下北郊の集成館一帯(鋳銭所も含む)と、上町(かんまち)一帯で、焼失したのは寺院4カ所と、町屋敷350戸、武家屋敷160戸です。江戸時代に十数度あった鹿児島の大火は数千戸が焼失しているのがざらですから、それとくらべると、意外なくらい軽微だったといえるのではないでしょうか。

次回は禁門の変が描かれるようですね。
前半がゆっくりだったせいか、後半が駆け足ですが、それなりに楽しみです。

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【2008/10/05 01:26】 | 篤姫
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どうもありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
このドラマを見ていると、小中学生は、家茂は本当に攘夷決行が無理なことを参内して説得に行ったと思うのではないでしょうか。大河を見慣れた大人なら、初めて聞く話は、話半分に聞いておりますでしょうが。

>本当のところはもっとすごいのです。
すごいですね。惜しげもなく、こういうお話を聞かせていただいて、ありがとうございます。

史実と虚構の境目
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

フィクションだと思って観る分にはいいんですが、子どもなど、まだ判断力がない人が観ると、仰せのような心配もありますね。

個人的には、そんな現象は通過儀礼の一種だと思いたいですが、時間が経ってもずっと通過しなかったりしますから、厄介ですね(笑)。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第78回
―家久、父の苦言押し切る―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は鶴丸城の2回目です。
島津家久が父義弘の忠告を斥けて、本格的に鶴丸城を築くいきさつが中心です。とくに義弘の忠告の内容を詳しく書きました。

義弘は、島津氏の古い居城跡だった東福寺城と清水城の活用を考えていたようです。
山城である東福寺城を詰の城とし、清水城に居館を建てて、さらに外郭を拡大すれば、体裁をととのえられると考えていたようです。
これは、海からの攻撃を防ぐには絶好の立地です。東福寺城址は現在、東郷平八郎の銅像が立っている多賀山にあり、海からの攻撃に対して、本城の清水城を守る大きな楯になります。清水城は東福寺城の内懐に抱かれる形になるからです。

もっとも、城下町の発展性という点から見れば、義弘の案は不十分かもしれません。義弘はいわゆる「上町」(かんまち)に城下町を展開させようとしたようですが、多くの家臣団の屋敷を割り当てるには地理的な空間が少ないように思います。展開するとすれば南方ですが、そうなると、居城が北に偏する形になり、城下町としてのバランスが悪いですね。

まあ、平時なら家久の、戦時なら義弘の構想がそれぞれ妥当だったといえましょうか。

今回のテーマは3回で終わらせるつもりでした。
あと1回は幕末に鶴丸城の国分移転問題が出てくるのと薩英戦争での被害で締めるつもりだったのですが、元禄の大火とか、明治7年の放火、あるいは私学校本部の設営なども書いてみたくなりました。あと3回は書けそうです。

でも、上・中・下というくくりでは対応できません。事前の見通しが甘かったですね(苦笑)。「続・鶴丸城物語」にしようかとか、悩んでいるところです。

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【2008/10/04 11:27】 | さつま人国誌
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このところ、時間と精神的な余裕がなく、なかなか更新できずにおりました。

「篤姫」の感想も書かないといけないのですが、ちょっとストーリーを忘れてしまったので、明日の再放送を見てから書きます。

先日2日(火)夜、小学館アカデミー古文書講座「てらこや」に出講。

今回は前シリーズと新シリーズの中間にあたり、新シリーズ向けの体験講座だった。
初めての方も何人かお見えだった。

テーマは表題のとおりである。
以前、別の会で似たようなテーマで報告したことがあったが、少し趣向を変えた。
薩長同盟については、近年議論が活発で、まず用語の問題だけでも、

薩長連合

薩長同盟

薩長盟約

島津家盟約


など、いろいろな用語が使われている。
私は薩長同盟、それも軍事的同盟だと考えているが、これらの用語にはそれぞれの定義があり、薩長同盟の中味や位置づけの評価に関わっている。

まず、代表的な諸説を取り上げて紹介した。
青山忠正、宮地正人、三宅紹宣、佐々木克、高橋秀直の諸氏で、それぞれの説の特徴を比較検討した。
そのなかで、同盟の成立の日にちと坂本龍馬の関与の程度を中心に、いくつかの史料を参考にしながら検証した。

成立日は、通説になっている慶応2年(1866)1月21日でとくに不都合はないのではないか。そうであるなら、木戸孝允書簡に龍馬が裏書しているように、同盟の六カ条が成立した場に龍馬も同席していたことになり、その役割を過小評価はできないだろうと、とりあえずの結論にした。

ど真ん中ストライクの史料がないため、紛れや曖昧さがあり、まだ再検討の余地はあるかも知れない。

当日は、規定時間をわずか10分ほど超過しただけで終了できた。

なお、新講座「小松帯刀と幕末薩摩藩6」は10月14日(火)から始まります。ちょうど薩長同盟成立のあたりから始めます。
関心のある方は「てらこや」のサイトであるここをご覧下さい。
問い合わせ・申し込みなどの連絡先が明記してあります。

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【2008/10/03 21:42】 | てらこや
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心配いたしました。
NAO4@吟遊詩人
1週間近くブログが更新されないと、気をもんでしまいますね。お体の方ご無事でしたら、何よりです。どうぞ、御無理なされませんよう。

有難うございます
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

お気遣いいただき、有難うございます。
別に体調が悪いわけではなかったのですが、仕事の関係でテンションが落ちていました。
今後ともよろしく。

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