歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第86回
―盗んだのはわずか5両―

連載が更新になりました。
左のリンク欄にある「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回はこれまでとガラリと趣向を兼ねて、鼠小僧次郎吉の話です。
次郎吉と薩摩が何の関係があるのかとお思いの方はリンク先をご覧下さい。

今回は、松平名字の考証に凝ってみました。
江戸時代、幕府の政治のなかでは、薩摩藩主は公式的には島津氏とは呼ばれず、松平氏の一員で、その官途名を付けて、

松平修理太夫
同薩摩守
同大隅守


のどれかで呼ばれることが多かったです。
そして、これらの官途名は島津家が排他的に独占する名乗りでもありました。このことが決め手ですね。このうち、大隅守は隠居してからの名乗りであることが多かったと思います。
もっとも、今回取り上げたように、豊後守を名乗った斉興のような例外もあります。

鼠小僧次郎吉の史料が『鹿児島県史料 斉宣斉興公史料』に収録されているのは前から承知しておりました。それに松平名字の名乗りがじつは島津氏だったのではないかとある程度裏付けがとれたので、記事にした次第です。

なお、千住小塚原の回向院にある次郎吉や高橋お伝の墓は以前取材に行ったとき、なぜかネットが被せてありました(現在はどうか確認しておりません)。
罪人を乗せた唐丸駕籠にはよく網の目の縄がかかっていることがありますが、それと同じ意味なのでしょうか?

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【2008/11/29 21:58】 | さつま人国誌
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墓石に鉄網
ばんない
こんばんは。
「ネット(非電網)付き墓石」の話題が出たので、僭越ながら申し上げます。

鼠小僧次郎吉の墓石に網がかけられたのは「墓石の保護」のためです。何故墓石を保護する必要が出てきたかというと「次郎吉の墓石をお守りに懐中するとバクチでツキがある」またこれが転じて「次郎吉の墓石をお守りにすると受験で落ちない」という迷信が一般に広まり、墓石を壊して持って帰る人が多かったためと言われております。
以下で詳しく触れられております。
http://bakumatu.blog82.fc2.com/blog-entry-15.html
http://www.ekoin.or.jp/guide.html#08

高橋お伝の墓は、以下のブログの写真によれば現在は網がけではないようですが
http://shunjudo.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_dd29.html
ネットで検索した限りでは、お伝の墓参りをすると三味線の上達に良いという迷信が花柳界には早くからあったようで、やはりその業界の人が墓石を破壊してお守りにした可能性はなきにしもあらずと思われます。

桐野さん推測のように「罰則として墓に網がかけられた」人の代表は尾張藩主の徳川宗春ですね。

話は変わりますが、島津家も江戸時代の官途は
世子:修理大夫
藩主:薩摩守→大隅守+a(中将とか)
というのが固定化していたのですが、島津重豪が出てきた辺りから崩れ始めているように見えますね。これは重豪の見栄っ張りな性格なんかも影響しているのでしょうか。重豪はあの吉良上野介義央もついていた上野介に任ぜられたりしてますが。

両国の回向院
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

墓石を削る話がありましたね。
両国の回向院にあるもうひとつの鼠小僧次郎吉の墓も、その前に削ってもよいダミーの墓石が置かれていたのを思い出しました。たしか、受験などにご利益があるとか(笑)。


ありがとうござい
NAO4@吟遊詩人
横レスです。
>ばんないさま
>鼠小僧次郎吉の墓石に網がかけられたのは「墓石の保護」のためです。すごい蘊蓄ですね。驚いてしまいます。
ありがとうございました。

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このところ多忙で、2週間前の鹿児島での講演の報告もしてませんでした。

11月15日(土)午後1時から、会場は南日本新聞社5F会議室。
桜島
写真のように、桜島一人占めというくらいの眺望のよさです。

演題は「篤姫と幕末薩摩の青年たち」というものでした。
主催者のサイトに少し紹介されています。ここです。
大河ドラマ「篤姫」の最後の「篤姫紀行」の音楽でも知られているリコーダー奏者の吉嶺史晴氏も駆けつけて演奏していただきました。とても素敵な調べでした。

会場には200人以上来られて満席で、椅子を追加したほどだったそうで、主催者のご努力に感謝です。
もっとも、私が途中で不覚にも時間の感覚を失って予定時間を大幅に超過してしまい、主催者のその後のスケジュールが大幅に変更されたそうです。
大変ご迷惑をおかけしてしまい、申しわけありませぬ。
日頃、時間を超過する場合でも本人が自覚していて、適当なところで切り上げるのですが、この日に限ってどうしたことでしょう。思ったより熱弁だったことはたしかでしたが、時計を見ても、全然時間が計算できなかったのが不思議です。

講演に先立ち、鹿児島市内常盤町にある西郷家墓所を訪れました。
これには理由がありました。
私がかつて南日本新聞連載で書いたことがあるこの記事をご覧になったTさんからメールをいただきました。
彼女は、西郷の孫で神宮のスターだった準氏と親しい知り合いで、1944年、彼が出征するとき、東京駅に見送りに行き、握手したのが今生の別れだったそうです。準氏はフィリピンで戦死しました。
準氏の墓参りをしたくても、場所もわからずにいたところ、私の記事を見て、準氏の墓を尋ねられたのです。
私も南洲曾孫の西郷隆文氏にお尋ねするなどして、西郷家墓地に合葬されていることを知り、鹿児島の知友Hさんの協力もあって、63年ぶりの墓参が実現しました。
Tさんは関東にお住まいでしたが、お身体が少し不自由なのと、目の見えない愛犬がいるため、飛行機・新幹線や船も使えず、娘さんと車で一週間かけて鹿児島までおいででした。
63年ぶりの対面に、私も言葉が出ませんでした。

西郷家の墓は吉田茂が銘を刻んでいたんですね。
その墓碑銘には、準氏の名前もありました。
DSC07656_640.jpg

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【2008/11/28 14:26】 | イベント
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NHK大河ドラマ「篤姫」第47回「大奥の使者」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)1月から3月。

いよいよ東征となり、江戸開城前夜まで来ました。まさに最後のクライマックスですね。
今回は2つだけ書きます。

1,再上京してからの小松帯刀の動向

『小松帯刀日記』によれば、鹿児島にいる小松が鳥羽伏見の戦いの勝利を知ったのは1月12日のことです。情報源は兵庫を発して長崎に立ち寄った英国船です。小松は「官軍大勝利」と喜んでいます。あまり戦争に反対したようにも見えませんね。

小松は高見弥一などを長崎に派遣して懸命に情報収集しています。
なぜ長崎かといえば、横浜や兵庫から上海への国際航路が開けており、長崎がその寄港地になっていたので、情報が集まったからです。元土佐藩郷士で薩藩英国留学生だった高見を長崎に派遣したのは、英語が達者で、上陸した外国人から直接情報を得られたからでしょう。

小松が再び上京したのは1月25日のことです。
しかし、さっそく27日には「足痛」が再発しています。
ドラマでは上京した小松が岩倉具視と会見ました。そのとき、岩倉が小松を総裁職顧問に任命し、追って外国事務局の仕事をしてもらうと告げていました。
これは「薩藩小松帯刀履歴」に基づいたもので、2月のことです。しかし、実際は任命順が逆だと思います。ここはやはり一次史料の「小松帯刀日記」の記事を優先させるべきでしょう。
それによれば、小松は1月28日、太政官代から徴士参与と外国事務掛を命じられ、最初は「足痛」のため固辞しようとしたようですが、29日にそれを受けています。そして、2月2日、改めて総裁局顧問を命じられています。

小松の役職のうち、重要なのは参与でしょう。これは王政復古政変によって決定した三職(総裁・議定・参与)のひとつで、主に藩士が任命されます。薩摩藩からは西郷・大久保・岩下が任命されていました。このうち、岩下と小松が交代することになったわけです。
家老の岩下方平は前年11月、「足痛」の小松の代わりに上京していました。小松が上京してきたので交代し、従来の3人トリオで参与を占めることになりました(五代友厚も参与だったかも)。
もし、前年の島津茂久の率兵上京において、小松と西郷・大久保が対立したならば、小松が参与に任命されることはなかったに違いありません。
上京した小松は何事もなかったかのように、薩摩藩士としては最高の地位に迎えられているわけです。また外国事務局掛(のち判事)はのちの外務省の前身になるわけですが、小松の地位は外務次官相当ですね。長官は公家の東久世通禧でしたが、実質的な外務大臣は小松だったといって差し支えないでしょう。

ドラマでは、小松は幾島と会ったり、江戸のことばかり心配していましたが、実際は2月3日から役目柄、諸外国の公使館がある大坂へ転勤しております。そして同月15日に堺事件が勃発してその解決に奔走させられました。堺事件とは、土佐藩士がフランス水兵を殺傷した一件です。重大な外交問題になりましたから、外国事務掛の小松が忙しくなるのは当然です。

なお、あまり知られていないことですが、『大久保利通日記』によれば、3月7日、薩摩藩から小松・大久保・吉井幸輔、長州から木戸孝允と広沢真臣、肥後の米田虎雄・長谷川仁右衛門、芸州の辻将曹、土佐の後藤象二郎らが連れ立って、霊山に参拝しています。
言い出したのは薩摩側のようです。ご存じのとおり、霊山には薩摩藩士はあまり祀られておりません。この参拝の意味は奈辺にあるのでしょうか?
考えられるとすれば、江戸での決戦を前にして、霊山の神霊に戦勝を祈願したのでしょうか。あるいは、後藤象二郎も同行したことを考慮すれば、坂本龍馬・中岡慎太郎への墓参も兼ねていたかもしれませんね。
小松・大久保・吉井といえば、龍馬と縁が深かった人物です。


2,西郷吉之助の動静

あと、ドラマでは江戸へ向かう西郷が意固地なまでに討幕の覚悟を固めて、小松との面会さえ断っていました。
しかし、小松は上京してから京都滞在はわずか1週間ほどで、すぐ大坂に下っていますから、ほとんど西郷と会う暇などなかったというのが実情でしょう。

西郷が意固地なまでに徳川打倒にこだわっていた点ですが、西郷の大久保宛て書簡が典拠でしょうかね。それは2月2日付のもので、冒頭に以下のように書かれていました。

「只今別紙相達し申し候、慶喜退隠の歎願、甚だ以て不届き千万、是非切腹迄には参り申さず候はではあいすまず、必ず越・土などより寛論起り候はんか。然れば、静寛院と申しても、矢張り賊の一味と成りて、退隠くらいにて相済み候事と思し召され候はば、致し方なく候に付き、断然追討在らせられたき事と存じ奉り候」

この本物の書簡を大久保利通の子孫の方から見せていただきましたが、「慶喜」が行末に書かれています。慶喜が賊名を帯びていたからでしょう。本来なら前将軍には「闕字」など敬意を表する書き方をしますが、これはまったく逆で、見下した書き方です。この部分を見ただけでも、西郷の怒りのほどが知れます。
西郷は当初、慶喜に切腹させるつもりだったことがわかります。また和宮に対しても、皇女にもかかわらず、「賊の一味」と厳しい態度をとっています。

なお、この書簡冒頭にある「別紙」がおそらく静寛院宮=和宮が上臈の土御門藤子に預けた助命嘆願書ではないかと思われます。後段に「静寛院」と出てくるのがその根拠です。
もっとも、時系列的にはやや早いかもしれません。和宮の書簡が書かれたのは1月20日。これをもって東海道を上った藤子は2月1日、桑名で和宮のいとこで、東海道鎮撫総督である橋本実梁に会っています。実梁は藤子を上京させて朝廷に書簡を提出させました。藤子が上洛したのは2月6日ですから、在京の西郷(京都進発は2月12日)が見るにはやや早いです。
考えられるのは、実梁から和宮書簡の件で急報が西郷に送られたからではないでしょうか。それでも、桑名からわずか1日で京都まで届くかどうか微妙ではあります。

そして、天璋院が西郷に送ったとされる書簡ですが、前述のように皇女和宮にさえ「賊の一味」と書くほどですから、同様の嘆願書を送った天璋院についても、さらに厳しい態度をとったとしてもおかしくありません。

もっとも、この天璋院書簡を本当に西郷が読んだかどうか定かではありません。
この書簡は「伊地知峻所蔵文書」(維新史料稿本)ですが、宛所は「隊長え」とあるだけで、日にちも記されていません。稿本編纂者はこれを2月とし、「官軍薩藩隊長」宛てとしております。
なぜそのように推定したのかといえば、付属文書があるからです。それは「熊本藩探索書」という肥後藩の史料で、次のように書かれています。

「一、天璋院様より女使[御文持参]西郷吉之助え面会の節、吉之助御書拝見、潜然涕泣しつつ、拝見、終って更に涕泣、やや有て、涙をおさめ、容(かたち)を改め、まさしく手を突き、さてさてかくまで御苦労遊ばされ候段、何とも恐れ入り奉り候、言語に絶し候、右と申すも畢竟(ひっきょう)逆賊慶喜の所業、にくき慶喜に候と申し候」

ドラマでの西郷と幾島の対面の場面は、この史料をもとに構成されたといってよいでしょうね。

今回の個人的な感想として、意外だったことがあります。
ドラマでおそらく天璋院の書簡が西郷への決定打となり、その翻意を促すものだと予想していました。ところが、そうはならなかったので意外でした。
これまで篤姫天動説といってよいほど、いつも篤姫の意向や行動がほとんどすべてを決定していたのに、今回は違いました。
制作側が創作よりも江戸開城の史実に敬意を表したのでしょうかね? これまでの展開や手法と違ったので、逆の意味で解せませんでした(笑)。

まあ、予告を見て謎が解けました。天璋院の作戦が二段重ねになっていたということのようですね。

長くなったので、とりあえずこの辺で。

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【2008/11/24 01:41】 | 篤姫
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記事を読んで
美濃の山賊
NHK大河ドラマ「篤姫」の記事を見てから再度ドラマを見ると背後にある時の流れや意味が良く理解でき、本当の意味でドラマを見る意義があると感じています。

有難うございます
桐野作人
美濃の山賊さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
少しでもお役に立っていたら幸いです。


江戸城明渡しと天璋院書簡
板倉丈浩
こんばんは。
大河はいろいろ端折りすぎで、つっこむ気力も失せました(苦笑)
原口清氏の論文『江戸城明渡しの一考察』によると、三条・岩倉・大久保ら新政府首脳は2月下旬の段階で慶喜助命の方針を固めていたものの、越前藩等の寛典論者の動きや慶喜その人に対する警戒感、軍の志気への影響なども考慮して、ごく一部のほかは極秘にされていたということであって、その後の西郷の態度はこの既定方針を外れるものではなかったのだとしています。
ですから、西郷が慶喜を許すかどうかではなく(西郷にそんな権限はなかった)、慶喜の恭順が真実であるかどうかが問題であり、だからこそ、山岡鉄舟の決死の弁明が非常に重要な意味を持っていたんですね。
大河では山岡は存在そのものがカットですから何をかいわんやですが・・・。

>この天璋院書簡を本当に西郷が読んだかどうか定かではありません。

私も同じ疑問を持っておりました。
と言いますのも、「探索書」という史料の性質もありますが、東海道先鋒総督参謀・海江田信義の回顧として、次のような記述があるからです。

東海道先鋒が駿府に駐屯している時、田安家の重臣某等3人が密かに海江田を訪れ、
「慶喜は罪人かもしれないが江戸百万の民は憐れむべきで、どうか戦争を避け寛大な処置を願いたい。静寛院・天璋院も日夜心を痛めている。実は今回の訪問は両院の密意に出たものであって、貴方の尽力で朝廷の寛典を仰ぎたい」と説いたところ、
海江田は「慶喜の首級を軍門に差し出せば江戸の民は救われる。もし戦争になっても密かに両院を連れ出して投降すれば又尽力することもあるだろう」と回答した(『維新前後実歴史伝Ⅱ』P431~432)。

天璋院の嘆願状の内容とも平仄が合いますし、宛先の「隊長」は海江田である可能性が高いと思います。
ちなみに、江戸城明渡しの直前にも田安家の臣某が天璋院の密書を持参して海江田を訪れ、日程を延期するよう嘆願していますので(『維新前後実歴史伝Ⅲ』P27~28)、どういう因縁があるのかわかりませんが、天璋院と田安家は海江田を随分と頼りにしていたようです。

余談ですが、嘆願状の内容やその後の経緯を見ると、天璋院には事情がほとんど知らされておらず、徳川側でも蚊帳の外におかれていたようですね。
最後も「3日間だけ」とか騙されてノコノコ退城してしまったようだし・・・。
もっとも、主人公がそれじゃドラマにならんのでしょうけど(^^;

(追記)
維新史料稿本にはもう一つ「前橋藩庁日記」が付属文書としてありまして、3月18日の伝聞記事として、天璋院が「薩州先手隊長」へ嘆願した筋で、西郷から総攻撃中止の回答があったとあります。
西郷・勝会談の事後の話ですが、西郷が天璋院書簡の存在を承知していた可能性は高いです。
海江田も天璋院の嘆願を放置せず、西郷に報告していたということなんでしょう。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第85回
―小松帯刀も一緒に撮影―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回はパークスの鹿児島訪問3回連載の最終回です。
パークス一行が体験したイベントを列挙しました。
とくに写真で掲載したように、小松帯刀がこのとき、英国艦隊旗艦プリンセス・ロイヤル号を島津久治(久光二男)とおぼしき人物と表敬訪問し、キング提督と一緒に写真を撮影しています。
それを、東京都港区港郷土資料館が所蔵する井関コレクションからお借りしました。

侯の弟」が島津久治なのかどうかはまだ検証が必要だと思いますが、小松がこのとき、この場所で撮影したことは間違いないだろうと思っています。
なお、小松の頭は総髪になっています。ですから、小松のいちばん有名で月代のある写真はこれ以前に撮影されたのではないかと思います。

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【2008/11/22 19:50】 | さつま人国誌
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写真ですが
NAO4@吟遊詩人
ブログ、いつも楽しく拝見いたしております。
「さつま人国誌」読ませていただいて、写真の人物は配置が少し不自然な感じがしますが、合成ということはありませんよね?
すっかり忘れてしまったのですが、別の写真で、勝海舟だったか、ずっと不自然な配置だなあと思っていた写真が合成だと報じられたことをつい思い出してしまいまして。

>藩主島津茂久(もちひさ、のち忠義)の「長身壮勇」に驚いている。
久光が長身でないのに、面白いですね。母方が「長身壮勇」であったのでしょうか。愚問にて、御笑いください。

合成?
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

紹介した写真が合成かもしれないとのこと。
私は素人なのでよくわかりません。
どのへんがそうなのでしょうか?
小松が後ろで立っているのは身分的に納得できますが、やや横向なのが不自然だということでしょうか?

なお、小松については、もう1点ある集合写真(明治元年秋から翌2年前半あたり)があります。
小松は右端に写っていますが、小松の部分だけトリミングして、単独写真としても流通していたようです。

トリミングといえば、有名なのは芸妓と一緒に写った中岡慎太郎ですね(笑)。
トリミングもありますから、合成もあるかもしれませんね。
合成といえば、私が知っている事例もあります。
桐野利秋の軍服姿の写真です。あれは非常に不自然で、別の人間の軍服姿を首だけ差し替えたのではないかと思っています。

すいません。
NAO4@吟遊詩人
なんかセンセーショナルな物言いをしてしまったでしょうか。申し訳ありません。
キング提督が斜め左を見ているのに対し、島津久治と思える人物がほぼ正面ながら右に角度を付けていること。構図から言うと、ほぼ同じような内角を持って内側を向くのが自然かと思いまして。更に島津久治と思える人物とキング提督は、足が交錯するくらい近づいているのに、まるで2人が独立しているかのような姿勢をしている。更に小松の角度が、これまたキング提督と島津久治とは異なる角度で写っている点です。
私も専門家ではないので、見当違いかもしれませんが。


桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

詳しいご説明有難うございます。
なるほどと思いましたが、キングと島津久治と思われる人物はともに内側を向いているような気もします。脚部が交差するように重なっていますし。ただ、久治の目線がやや外向きに泳いでいるようにも感じられますが。

もともと状態がよくない写真なので、なかなか判断が難しいですね。

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幕末最後の60日!新政府誕生への道
〜小松・大久保・西郷、奔走す〜

今日(19日)の表題の番組(ここ)。


このところ、大河「篤姫」の批評で、私が小松帯刀の評価にこだわっていることと非常に関連していますね。
さて、どのように描かれるのでしょうか?

少し気にあることがあります。
ちょっと前の予告には、サブタイトルが「小松・西郷・大久保、奇跡の連携」とあったような気がしますが、少し変わっていますね。

奇跡の連携」だと、3人の立場や意見に少し相違があったけど、分裂せずに合意と統一を保ったというニュアンスが感じられますが、新しいサブタイトルだと、3人がそれぞれに(ある意味、勝手に)奔走したようにも受け取れます。

前の予告を見た時点では、スタジオのコメンテーターは佐々木克氏ではないかと予想していました。というのは、佐々木氏は、小松・西郷・大久保は辛苦を共にした盟友同士であり三位一体だったという意見の持ち主で、私の考え方にも近いです。つまり、3人は武力討幕という選択肢も含めて、薩摩藩の藩論を、議論を重ねて慎重に練り上げてきた当事者同士であり、したがって、小松もいざとなったら、武力討幕には反対しないということです。

サブタイトルが少し後退したような印象を受けて、コメンテーターは佐々木氏ではないかもしれないという気もしてきました。心当たりはありますが……。

私が連載「さつま人国誌」で、大政奉還後の小松の動静についてこんなことを書いたことがあります。

その記事の中で、小松が王政復古直前に「足痛」で上洛できなくなったことに対する後藤象二郎や松平春嶽の反応(あるいは某薩摩藩士の日記も)を額面通りに受け取ったら、誤解を招きそうだというのが、気になっています。
2人の反応は伝聞と願望に基づくものだと考えていますが(その根拠はたくさんありますが、面倒なので書きません)、そうではないという考え方をする研究者もいます。

おそらく、この点が小松の評価に関わる重要なところです。
そのあたりをどう解釈するのか注目したいと思います。

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【2008/11/19 00:06】 | 信長
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今宵の…
へいぞー
『その時歴史が動いた』のゲストは、佐々木克氏と来ましたか。

個人的には、家近良樹氏がふと浮かび上がりました。

いずれにせよ今宵、楽しみですね!!


ゲスト
ばんない
他局で見たい番組があったので、最後の辺りだけ見ていましたが…佐々木氏でもなく家近氏でもなく、「あの方」でしたね…。



桐野作人
へいぞーさん、こんにちは。

どっちもはずれでしたね。
私がほかに心当たりがあると書いたのは、その方を想定していたのですが、後出しジャンケンみたいですから何ですが……。

ぼかし
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

原口さんも結局、西郷・大久保と小松が対立していたのかどうか、言葉を濁して、小松がみずから表舞台から退場したのだという解釈でしたね。

本音のところでは、対立説だと思いますね。
しかし、それでは地元の世論が納得しないので、ぼかしているのだと思います。そのほうが八方無事に収まりますので。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第46回「慶喜救出

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)正月から2月。

いよいよ鳥羽伏見の戦いの火ぶたが切られました。
錦旗も上がりましたが、前々回でしたか、大久保一蔵が岩倉具視を通じて調製させたようになっていました。実際は大久保が京都妻のおゆうに西陣あたりで生地を買い入れさせ、半分を薩摩藩邸で、残りの半分を長州の品川弥二郎が調製したといわれています。

ただ、デザインが違うのではないかと思います。ドラマでよく使われるデザインでしたが、実際は違うのではないかと思います。このサイトには浮田可成の精密なスケッチがあるようです。

鳥羽伏見の戦いに敗れた慶喜は松平容保などわずかな側近のみ引き連れて軍艦開陽丸で江戸へと逃げ帰りました。
隅田川沿いの浜御殿(現・浜離宮)に勝安房守が急に出仕し、慶喜と対面しておりました。
この場面はほぼ史実だと思われます。1月11日のことです。
「ほぼ」と少し留保したのは、『勝海舟日記』の活字版はいくつかあり、そのうち江戸東京博物館で刊行しているもっとも新しい『勝海舟関係資料 海舟日記(三)』は、底本選定や校閲がもっとも厳密なもの(勝の明治の後筆を除外する態度)だとされていますが、それには同日条に「開陽帰船」とあるのみで、勝の浜御殿への祗候が書かれていません。

一方、勁草書房版『勝海舟日記Ⅱ』では次のように記載されています。

「開陽艦、品海へ錨を投ず。使いありて払暁、浜海軍所へ出張。御東帰の事」

浜海軍所」は幕末に浜御殿の敷地につくられた海軍伝習屯所のことです。勝は早朝、慶喜の命でここに出仕したようです。
江戸博版にこの記載がないのは、明治になって勝が増補追記した別本のほうに記載されているからではないかと思います。
勝はつづけて、次のように書いています。

「初めて伏見の転末を聞く。会津侯、桑名侯ともに御供中にあり。その詳説を問わむとすれども、諸官唯、青色。互に目を以てし、敢えて口を開く者無し」

慶喜以下、顔色も青ざめていて、勝が尋ねても口を開く者がいなかったようです。

今回はさほど書くこともありません。
鹿児島にいる小松が「足痛」で身動きできずに焦燥していました。坂本龍馬とともに構想したという新しい政権とやらは何なのか、その具体像は明らかになりませんね。とにかく西郷・大久保の討幕路線とは異なっているというイメージで描かれていますが、「天皇」中心と「公議=公論」による新政体樹立という点で、双方に違いがあるはずがありません。小松や西郷・大久保、そして龍馬や慎太郎、後藤象二郎・松平春嶽・山内容堂・伊達宗城、みなこれを実現するために努力・奔走を重ねてきたわけで、そうした営為がいかにも異なるように描くのはいかがかと思いますが、もはや詮なきことです。

面白かったのは、それまで常に暗い照明で描かれていた慶喜が、篤姫と会見したときには非常に明るい照明でしたね(笑)。
これこそ、慶喜が篤姫の「家族」になった証にほかなりますまい。わかりやすい演出です。
今和泉家も、斉彬も、家定も、本寿院も、和宮も、田安亀之助も、大奥の女性たちも、そして慶喜もみな家族。何となくヨン様みたいですね(爆)。

このドラマが家族もしくは家族愛を主題としていることはこのことによっても明らかですね。そこが視聴者の涙腺を緩めるのでしょうが。
ただ、この主題を強調するために、抜け落ちたり、歪曲されたり、描かれなかったりする部分があるのもたしかです。
こればかりは制作者の自由ですから、致し方ありませんが。

次回は、江戸開城が描かれるようですね。
幾島も久々に、そして最後の登場です。
個人的には、駿府談判が描かれるのかどうか、山岡鉄舟や益満休之助は登場するのかどうか興味がありますが、まず無理でしょうかね?

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【2008/11/17 16:37】 | 篤姫
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大河ドラマならぬホームドラマ
御座候
近代的な家族観を持ち込みすぎるのもどうかと思うんですけどねえ・・・

『篤姫』を観ていると、大奥が非常に狭い「一つ屋根の下」状態であるかのように錯覚してしまいます。

ホームドラマ
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

はい、はっきりホームドラマだと思います。
カツラや着物や刀を着しているだけの違いで、テーマや感覚はほとんどそうですね。
ホームドラマには、政治や思想やイデオロギーや理念などは不必要です。だから、バッサリ切り落とされているわけで。

ですから、時代背景はいつでもどこでもいいことになります。
視聴率がよかっただけに、そんな「大河」ドラマがこれから増えそうですね。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第84回
―豪華な和洋料理で歓待―

本日、鹿児島から帰ってきました。

連載が更新になりました。
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今回は前回の続きで、薩摩側がパークス一行を磯別邸(現・仙巖園)に招待してもてなしたことを書きました。
異文化の遭遇なので、いろいろ面白いことが起こっています。
薩摩側も驚くことが多く、英国側も同様です。
とくに、薩摩側の柔軟な適応力が見えるような気がします。

接待も1日目は日本料理、2日目は洋式と、心憎い演出ですね。
2日目に出た豚の丸焼きはパークス一行も驚いたようです。
ほとんど西洋式だったからでしょう。
もともと鹿児島には豚食文化がありました。
それに加えて、新納刑部、堀孝之など洋行帰りの連中が向こうで経験した食文化をすばやく取り入れたものだと思います。

大げさにいえば、日本の近代化の原型を見る思いがします。

次回は、パークス一行の見聞や、小松帯刀の写真について書きたいと思います。

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【2008/11/16 16:10】 | さつま人国誌
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ドラマ
武藤 臼
この饗応は、それだけでドラマのようです。
面白いですね。

妄想を膨らませると、今なら地球に初めて来た宇宙人を饗応するというSFものと、同じ様な絵が描ける様な感じです。

餃○の王将
ばんない
こんばんは。本編最後の2行で思わず表題の某中華料理チェーン店のCM思い出しました。ローカルCMで関東では流れてない上、桐野さんの在学中にはたぶんまだやってなかったと思いますので、URLにyoutubeの映像へのアドレス書いておきます(汗)

それにしても豚肉はまだ分かるのですが、鶏3000羽、卵5万個って何に使ったんでしょうか、気になります。卵焼きにすると想像を絶する量になりそうですが。鶏はほんの一部だけを使って内臓や鶏ガラなどは廃棄したのかも知れません。

さて、このころには見よう見まねの洋食を饗してイギリスご一行を驚かせた薩摩藩も、数十年後に島津忠重兄弟のためにイギリスから家庭教師を迎えたときには、彼女に対して1日3食ステーキというボタンを掛け違えた心配りを見せてうんざりさせてますね。島津家においては国際感覚は明治にはいって逆に退化してしまっていたのかも知れません。


磯庭園での歓待
岩剣石塁
 先日、島津家の古写真の本を見ていましたら、
明治24年にロシアのニコライ皇太子(後のニコライ2世)が
磯庭園で甲冑武者行列の歓待を受けているシーンの写真が
ありました。
 時代が進むにつれて、歓待が懐古調になるのが
おもしろいですね。

猿の惑星?
桐野作人
武藤 臼さん、こんばんは。
いや宇宙人の饗応といえば、思い出してしまいました。

餃○の王将
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

いやはやCM、笑ってしまいました。

あれだけの食材になったのは、上陸した公使一行だけでなく、軍艦の乗組員にも大量の肉・卵類を差し入れたからだそうです。

懐古調
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

鹿児島ではお世話になりました。

ばんないさんも書かれていますが、明治以降の島津家は外国人接待がいまいちのようですね。
どこか感覚がずれてしまったのでしょうか?


ばんない
こんばんは。CM受けていただいたようで発掘したかいがありました(汗)。あんなのまであるとはyoutube恐るべし、ですが。

>あれだけの食材になったのは、上陸した公使一行だけでなく、
>軍艦の乗組員にも大量の肉・卵類を差し入れた
なるほど、戦艦3隻分の乗組員の食料ですから相当な量になったはずです。最も材料だけ差し入れて調理はイギリス側にまかせたのでしょうね。

>ニコライ2世
確か日本(というか世界)最後の犬追物の興行、でしたっけ。当時の島津家当主・忠義自身が騎乗して展覧にいれたそうです。
何ヶ月か前にBSデジタルの特集(チャンネルは失念)で、ニコライ2世皇太子時代の日本訪問記を取り上げた番組を拝見したのですが、この番組ではこの時の鹿児島ご来訪も取り上げていました。さて「犬追物」の実演ですが、さすがに本物の犬を撃ってあらぬ誤解をされても困るので、米俵か炭俵を人間が引っ張って代用したようです。が、何をやりたいのかの意図がどうも伝わらなかったようで、ニコライ2世の感想は余り良くなかったようです。
ちなみにその数日後、京都に行ったときの芸妓遊びは非常に楽しまれたそうで、わざわざ自筆の日記にも特記されているそうです。やはり軍事演習もどきでは女の色気に勝てません(涙)

ニコライ二世
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

ニコライ二世のエピソードもなかなか面白いですね。
犬追物といえば、島津忠義が馬に乗ってそれらしき服装をした写真が残っていますね。馬が小さく見えたのは、忠義が大柄だからだというのが今回分かりました(笑)。
さて、テーマからはずれますので、この辺で打ち止めにしましょう。

日本の豚
トーティ
はじめまして。いつも「さつま人国記」とブログを楽しく拝見しています。
パークスは「もっとも奇観」って英語で何と言ったのだろうと、あれこれ想像して、ぐぐってしまいました。

プロジェクト・グーテンベルグに面白い絵がありました(URL参照)。1861年にロンドン動物園で展示された日本の豚だそうです。(p.70の挿絵)
ちょっと梅山豚に似てます。
説明によると、日本古来の種かどうかは疑わしいとのこと。太平洋地域に元からいた豚は、近年ヨーロッパや中国の豚と交配されてほぼ絶滅したとあるので、幕末期にだけ飼われていた種類の豚かもしれません。

この記事以外にもダーウィンがこの豚のことを手紙に書いているなど、英国の博物学者何人かが記録しているのでガセネタではないと思います。

こんな変な顔の豚が丸焼きになって出て来たら、パークスもびっくりするだろうなと思ってしまいました。

日本の豚
桐野
トーティさん、はじめまして。

貴重な情報有難うございます。
英語を読むのは大変ですが、イラストはよくわかりました。

面白い顔をした豚さんですね。
梅山豚に似ているといえば似ているような。

薩摩の豚のルーツは琉球ではないのかなと思っているところです。
豚肉の塩漬けは琉球でつくっていたみたいですね。
さらに琉球豚のルーツがどこなのかという興味もありますが。

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いま鹿児島です。

今日はとても暑かったです。
上着は要りませんでした。
体感気温、27度くらい。

空港から実家方面に一度帰って、新幹線で鹿児島にとんぼ返り。
腹ぺこだったので、駅でざぼんラーメンを食べました。
ちょっと胸焼けしました。

ホテルに向かう途中、鹿児島大学の学園祭のパレードとぶつかり、渋滞でした。
要は仮装行列ですが、桜島の上に鎮座した篤姫の張りぼてとか、いかにも今年を感じさせる出し物などが練り歩いていました。

渋滞でメーターが上がった代わりに、見事な桜島を長く拝めました。
空気が乾燥しているせいか、稜線があざやか、くっきりと写っていました。
噴煙も上げておらず、とても機嫌よさげでした。
こんなにきれいな桜島は年に何度もないのではないでしょうか。

大河「翔ぶがごとく」なら、

「桜島さあ、帰ってきもしたど~~」

と叫びたくなるような感じでしょうか(笑)。

ホテル最上階は展望風呂になっていて、それは見事な眺望だとか。
明朝入ってみたいものです。
このホテルは何度か泊まっているのに、一度も展望風呂に行ったコトがないような。

身辺雑記でした。

明日は講演です。
でも、まだ仕事が残っています(とほほ)。

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【2008/11/14 21:59】 | イベント
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道中お気をつけて
tsubu
こんにちは。
鹿児島はかなり暑いようですね。
桜島、私も久しぶりに拝みに行きたいところです(^^)
どうぞ道中お気をつけて!

ざぼんラーメン
カゴシマニア
鹿児島はつい数週間前は日差しが夏のように暑かったんです。朝夕はだいぶ冷え込んできた感がありますが、まだまだ南国ですから暖かいほうなんでしょうね。

数日前、ざぼんラーメンのカップラーメンがファ○リーマートで売ってました。

5年以上食べてないので、気になりました!




かじやちょう
朝風呂入られましたか?(笑)
鹿児島に帰った時は私もそのホテルを定宿にしています。
正月の朝風呂は格別ですよ。空気が澄み渡っているので、
真正面の桜島が本当にきれいです。

残念ながら
桐野作人
かじやちょうさん、こんにちは。

残念ながら、今朝も行けませんでした(泣)。
前夜、懇親会が長引いたもので、疲れてしまいました。

次回を期します。

有難うございます
桐野作人
tsubuさん、こんにちは。

先ほど帰宅しました。
無事、仕事をこなすことができました。
今回は、あまり史跡見学の時間がなかったのが残念です。

ざぼんラーメン
桐野作人
カゴシマニアさん、こんにちは。

鹿児島は昨日の雨上がりで過ごしやすかったですね。

ざぼんラーメンがカップ麺になっているのですか。
知りませんでした。
そのうち、一度食してみたいものです。

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日次記です。
最近は、仕事が遅いのと体調がいまいち悪いせいか、更新もままなりません。

11月9日(日)癸丑、曇りときどき小雨
京王・幕末江戸ツアーの2回目。
早朝、新宿西口へ。
日帰りのバスツアーである。
6月に江戸の南側、芝の薩摩藩邸や増上寺を中心に回ったので、今度は江戸の北側を回ることに。

千住の小塚原回向院に、安政の大獄殉難者や桜田門外の変関係者を訪ねる。
橋本左内や吉田松陰、金子孫二郎、関鉄之介、有村兄弟などの墓標を拝観。
2/26事件の反乱軍将校磯部浅一夫妻の墓とか、田中光顕の石碑もあった。

すぐ近くの円通寺に行き、上野の黒門や彰義隊士の墓も見学。
以前、この墓にはワンちゃんが門番のごとく鎮座して吠えまくって往生した覚えがあるが、最近は衰えたのか、代替わりしたのか、老犬が別の場所にいた。まったく吠えなかった。

その他、桐野利秋の邸宅だった池之端の旧岩崎邸や上野のお山を見学。
最後は徳川慶喜や篤姫・和宮ゆかりの浜離宮で締めた。
4時半頃になると、もう暗くなる。
とても寒い一日だった。

じつは好評につき、12月討ち入りの日にもう一度同じコースを回らないといけない。
もっと寒いだろうなと思う。

10日(月)甲寅、天晴
15日の鹿児島での講演のレジュメとメモづくり。

11日(火)乙卯、天晴のち小雨
夕方、神保町へ。
小学館古文書講座「てらこや」に出講。
「小松帯刀と幕末薩摩藩」その4シリーズの3回目。
今回は「四境戦争と薩摩藩」というテーマだった。
慶応2年(1866)春季に薩摩藩では大々的な藩政改革が行われている。
とくに軍制改革の面が強い。
家老は8人と増員されたが、うち4人は古い人々で、小松・岩下方平・桂久武・新納刑部の4人がそれぞれ海陸軍、財政、外交を担当することになった。
坂本龍馬が小松のことを「海軍惣大将」と評したが、まさにこのことを指している。
小松は都城島津家の屋敷を接収して、海軍所を置き、軍事教練でも指揮を執っていることがわかる。

四境戦争は『久保松太郎日記』『浦靱負日記』などを使い、幕府軍敗退の様子を確認。
久保の日記に頻出した「宇一」が誰だかわからなかったが、終了後、伊藤博文ではないかという受講生の方からの指摘。あとで調べると、伊藤は林宇一と名乗っている時期があることがわかった。
やっぱり長州関係は門外漢です(苦笑)。

12日(水)丙辰、曇り
締切のかかった2つの原稿を抱えて四苦八苦。
結局、どっちも終わらなかった。う~ん。

14日(木)丁巳、天晴
午前中、半日の人間ドック。
締切に追われているが、以前から予約してあったのでしかたがない。

明日から鹿児島です(2泊3日)。
篤姫関連の講演会です。
郷里にも帰る予定。

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【2008/11/13 14:20】 | 日次記
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谷根千がふるさと
寛永寺卒園でこ
上野の山は私の庭で西郷さんの銅像から松坂屋は手品の倉庫
線路の鉄橋から煙を被り大きな声も出し動物園は裏から入り
かばの部屋も覗き動物園園長になると誓う毎日の様に駈けずり
回った あの地に80年過ぎた今 桐野さんがツアーでご案内
なさったとは?!・・運命を感じます 地球は回っていますね! 
是非お仕事を続けて下さい そして不思議な昔を教えて・・期待してます!!

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NHK大河ドラマ「篤姫」第45回「母からの文」

ドラマ進行時点は慶応3年(1867)11月から12月

仕事のため外出していたので、午後8時からの放映は間に合わず、10時からのBS放送で観ました。

前々回、前回からのボタンのかけ違えがある以上、もはや修正不可能な筋立てになっていますね。
書いても詮なきことながら、それでも、いくつか指摘しておかねばなりますまい。

(1)小松と西郷・大久保の対立なるもの
 小松は大政奉還により、平和的な国づくりを望んだが、西郷・大久保は強引に武力討幕を実現しようとしていたという、何ともわかりやすい二項対立の構図。
事がそんなに単純に割りきれるはずがありません。

改めて考えるまでもなく、それまで小松と西郷・大久保は三位一体でした。いざとなったら武力討幕をする覚悟だと長州の品川・山県に伝えるとき、その役目を果たしたのは小松であり、西郷・大久保もその場に同席していました。何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。
にもかかわらず、大したきっかけもないのに、なぜ小松と西郷・大久保が対立・分裂することになるのでしょうか? 疑問だらけですね。

王政復古に小松が参加できなかったのは事実ですが、「足痛」ゆえです。
「足痛」については、過去に少し詳しく書いています。こことかここをご覧下さい。
ドラマでは、大久保が小松の上京を制していました。西郷・大久保が討幕挙兵をやって失敗したとき、あとは小松に頼むという角度から描かれていたのは新味があったことは認めますが、このときの上京は、討幕挙兵の上京ではなく、近いうちに召集される新政体発足のための諸侯会議において、薩摩藩の発言力を強化するため、藩主茂久を擁した多人数での上京であり、名目は禁裏守護です。
慶喜が大政奉還をした以上、武力討幕ができる状況ではありません。
小松が後藤象二郎に「足痛」のため、上京できなくなったことを詫びた手紙がありますが、額面通りのもので、政治的背景があったとは思えません。

小松は大政奉還を実現することで王政復古の地均しをしました。
一方、西郷・大久保は王政復古政変で禁裏御所を占領し、幕府や関白など旧制度を廃止し、徳川慶喜の辞官納地を決定しました。

この両者の動きにさほどの矛盾や食い違いはありません。
小松の段階で、慶喜の政権返上による新政体樹立の前提ができ、西郷・大久保の段階で、旧制度の廃絶と総裁以下三職という新政体の枠組みが決まりました。それに伴い、新政体における主導権をめぐる闘争が表面化したのは事実ですが、あくまで慶喜が新政体に参画することを承認したうえでの内部論争であり、決して討幕ではありません。

討幕」の定義については、いろいろな考え方があるのでしょうが、当事者である西郷が定義づけをしています。慶応3年8月、西郷が長州の柏村数馬(広沢真臣の兄)に語ったことが、柏村の手記に残されています。
それによれば、幕府屯所や京都守護職屯所の襲撃、大坂城攻撃、甲府城占拠という三都同時挙兵を計画していましたが、それでも、「討幕は仕らず」(討幕はしない)と明言しています。
西郷の考える「討幕」とは、将軍追討の勅命が出ることによる関東征服です。西郷は当面、それは無理だと判断していました。

王政復古政変は西郷の三都同時挙兵計画よりはるかに規模を縮小したもので、しかも、慶喜の政権返上という新たな条件も加わっており、西郷流「討幕」が不可能であることは明らかです。

別のいい方をすれば、慶応3年中の京都情勢では討幕はありえませんし、実際にありませんでした。
それが可能になるのは、江戸の薩摩藩邸焼き打ちをきっかけに、大坂の旧幕軍が率兵上京を起こしてからです。
明治以降の官製の維新史観はこの点を歪曲しており、討幕は王政復古から始まったとしています。つまり、大政奉還は不徹底で妥協的な改革であり、公議政体派を日和見的立場と見ています。
したがって、小松の仕事も同等に評価されているわけで、こうした官製史観による立場が小松と西郷・大久保の対立というフィクションを生み出す根源になっています。さらにいえば、小松が明治以降、忘れ去られていく最大の要因もここにあると思っています。

何度も繰り返しますが、大政奉還と王政復古は対立的なものではなく、連続的・発展的なプロセスです。これを対立的にとらえたのが官製の維新史観であり(討幕によって明治維新は成ったということを強調するためです)、今日の私たちはドラマも含めて、その刷り込みを強く受けているということです。

武力討幕という軍事力発動は後戻りできず、藩の存亡を賭ける重大事だけに、その切り札は最後の最後まで温存されました。西郷・大久保もその発動には慎重で、結局、旧幕軍から仕掛けられて、初めて発動したのです。つまり、西郷流「討幕」は慶応4年になってようやく始まったのです。
したがって、何度も書いたように、その点で、小松と西郷・大久保に違いはありません。

(2)西郷が江戸藩邸の浪士たちを煽動したとされる一件
 これも近年は否定されていますね。大政奉還がなされたために、郷里に帰った西郷の代わりに、京都留守居の吉井幸輔が、江戸の益満休之助と伊牟田尚平に宛てて、江戸での軽挙妄動は慎むよう、再三にわたって勧告しています。
これは、近年に判明したことではなく、すでに徳冨蘇峰『近世日本国民史』でも書かれていますから、大正年間にはわかっていたことです。

また、江戸藩邸焼き討ちの報を聞いた西郷は、慶応4年(1868)正月1日、久光側近の蓑田伝兵衛に宛てた書簡で、次のように書いています。

「爰許(ここもと)にて壮士の者暴発致さぬようお達し御座候えども、いまだ訳も相分からず、いずれを正しかるべき筋もこれなし、そのうち決して暴動は致さざる段、お届け申し出で置き候義に御座候」

西郷も江戸の浪士たちに暴発しないよう京都から達しを出していたとしながら、実際、江戸で何が起こったのか正確な情報がつかめず、首を捻っていることがわかります。
つまり、江戸で浪士たちの暴発があったとしても、それは京都とくに西郷の指令ではなかったということを示しています。


(3)勝麟太郎
配役欄では、このようになっていましたが、不正確ですね。
勝安房守義邦」とすべきでしょう。
慶応2年(1866)5月28日、勝は寄合から軍艦奉行を拝命しています。それに伴い、叙爵して五位・安房守と名乗るようになりました(『柳営補任』五)。これが正式名称ですね。

ほかにも、いろいろありますが、あまり書く気がしなくなりました。

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【2008/11/10 13:44】 | 篤姫
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小松VS西郷、大久保
Satoh
突然申し訳ありません。
いつも楽しく拝見させていただいております。

素人ながらに思っていることなのですが、今回の"篤姫"内における 小松VS西郷・大久保 は、龍馬VS西郷・大久保の設定をそのまま持ってきているのではないでしょうか。

一般的に龍馬は平和主義者、薩摩は武断的な組織として書かれることが多く、さらに今回は小松が龍馬の思想的後継者というような場面も出ていたように思います。

いかがでしょう?

結果論的解釈
御座候
近年は政治学の影響を受けて、歴史上の組織や制度、合意が成立する際のダイナミズム(偶然性、偶発性)を重視する見方が歴史学においても出てきていますが、結果から逆算して、歴史の展開を必然的に解釈する「勝者の歴史」の影響力は一般にはなお根強いようですね。

平和主義者
桐野作人
Satohさん、こんばんは。

仰せの通りですね。
龍馬と小松は平和主義者、西郷・大久保が武力主義者。
まことにわかりやすい図式ですね(笑)。

龍馬も慶喜の出方次第では討幕も辞せずと考えて、「大芝居」を想定しましたのにね。
龍馬が大政奉還にこだわったのは、討幕反対からではなく、土佐藩を薩長並みにしたいという「郷土愛」ゆえですからね。

非歴史的な「平和主義」という措定は、現代人の願望を龍馬や小松に反映させて事足れりとする方々の「妄想」ではないかと、私も思います。

有難く
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

いつも、小生が言いたいことを的確かつ簡潔に評していただき、感謝です。

私は物事を短く、的確に表現できないたちで、ついついダラダラと冗長に書く癖がありまして、いつも御座候さんから指摘されて、そうそう、そう言いたかったのだと再確認すること、しきりです。
今後とも、批判も含めて御助言のほどよろしく。

近年、歴史学も政治学の影響を受けているというのは知りませんでした。
幕末維新史や近代史方面では、三谷博氏が「複雑系」という複雑な理論で、やはり、歴史の偶然性、偶発性を重視すべきだと主張されていたのを思い出して、ストンと合点がいきました。なるほど、最近の思潮なんですね。
ご教示有難うございます。

板垣懐旧談
へいぞー
初めまして。
いつも楽しみに拝見させて頂いております。

桐野先生がおっしゃるように、江戸撹乱工作が果たして西郷が行わせたものかということに、小生も疑問を感じておりました。
吉井の書簡も証拠になるでしょうし、晩年の板垣退助の懐旧談もありましょうし……。


板垣懐旧談
桐野
へいぞーさん、こんばんは。

鹿児島からです。
板垣懐旧談のこともお知らせいただきありがとうございました。
大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いのプロセスは再検討が必要だと感じています。
今後ともよろしく。

討幕の密勅
御座候
>何より討幕の密勅の請書に署名したのは、小松・西郷・大久保です。


萩博物館で11日までやっていた企画展「明治維新の光と影」を見に行ったら、倒幕の密勅と小松らの請書が展示されていました。ただし残念ながら両方とも複製でしたが・・・・・・
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0809hikaritokage/index.htm
毛利博物館でやっていた企画展「維新への道」では本物が展示されたんでしょうかね?

ともあれ今年は大河効果で幕末維新関係の展示が多いように思います。そういう意味では大河ドラマ『篤姫』に感謝すべきなのかもしれません(^^;) しかし再来年の『龍馬伝』の時、各博物館は新味のある展示ができるんでしょうか? 余計なお世話ながら少し心配です・・・

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第83回
―外国人に好奇の視線―

連載が更新になりました。
左側のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から少し趣向を変えました。
といっても、なかなか薩英戦争から離れられないのですが。

英国公使パークスの鹿児島訪問と、それを大歓迎した鹿児島のことはあまり知られていないと思います。
時期的には、薩長同盟締結後、幕府の長州再征が始まる頃で、薩摩藩は長州藩とともに一藩割拠を強めるとともに、政治や外交・経済の分野で一会桑との対決姿勢を鮮明にする頃です。

パークス自身は日本の諸勢力に対する中立政策を維持する一方、幕府とくに徳川慶喜に親近感を示しつつ、薩長勢力との関係も無視できないという立場にありました。鹿児島訪問はそうしたイギリスの外交政策の反映でもありました。

そんな難しい話は抜きにしても、鹿児島ではいろいろ面白いことが起きています。何せ、つい三年前まで錦江湾で戦争をした相手と一転して握手をすることになったため、混乱があったのと、いざパークス一行が上陸してくると、異人を見ようと黒山の人だかり。鹿児島の人々は好奇心旺盛です(笑)。その辺の交流の実態を見てもらおうというのが今回の趣旨でした。

次回は磯別邸での宴席の様子などを書く予定です。

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【2008/11/08 10:29】 | さつま人国誌
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こんにちは
みらん
桐野さん、こんにちは☆
探検隊の隊長です(笑) 分かりますか?

いつもロムさせて頂いてます。
とても勉強になり、多謝ですm(_ _)m
ドラマも何でもまとめて一気に見るタイプなので、『さつま人国誌』もまとめて読みたいと思っていたら、かなり回数も重ねてますね。
こちらはまとめて1冊の本として刊行の予定はおありでしょうか?
PCで読むには目が疲れるからプリントアウトしようかなぁと検討中です。
印刷も相当時間がかかりそうですが…(笑)、きちんと読まさせて頂きますね!

小松帯刀のご本も楽しみにしてま~す♪

方言
きなみん
「さつま人国誌」いつも楽しく拝読しております。

そちらにありました、「生スカン」という薩摩ことば、これはなんと音読するのでしょうか?

と言いますのも、私が生まれ育ちました関西地方にも「いけすかん」という方言があり、何か通じるものありや、と思った次第です。

本になります
桐野作人
みらん隊長、こんにちは。

先日は久しぶりにお会いできましたね。
連載は幕末・明治編だけまとめて、近月中に本になる予定です。地元の出版なので、東京では入手しにくいかもしれませんが、ネットがあれば大丈夫でしょう。
よろしくお願いします。

小松の本も早めに何とかしますって、もう大河終わってしまいますが(爆)。

なますかん
桐野作人
名探偵きなみんさん、こんにちは。

と、読みます。
生理的な嫌悪感を意味しますね。漢字だと「生好かん」でしょうか。
私も最近、久しぶりに見聞きした方言です。

私も校正のとき、ルビを付けるかどうか一瞬迷ったのですが、鹿児島の人なら読めるだろうと思って……。でも、県外の人にはちょっと読めないかもしれませんよね。
「いけすかん」と聞いて、おっと、ほとんど同じ意味だと思いました。語源は同じかもしれませんね。やっぱりルビを付けるべきでした。

あと、先月鹿児島に行ったとき、久しぶりに聞いた言葉が「しょけ」(わかります?)ですが、その直後の古文書講座の小松帯刀の大久保宛て手紙にも「しょけ」が出て来て、びっくりしました。



しょけ
きなみん
確かに語源を同じくしていそうな感じですな。

書籍化される場合(収録されるならですが)ルビはふっといた方がよいかもしれませんね。鹿児島以外からも嗅覚鋭い方はきっと購入されますよwww

しょけ→しおっけ→塩っ辛い
もしくは
鹿児島弁は「e」は「ai」や「ae」から変化してる場合が多いようにも思うので...わかりません(自爆)

しょけ
桐野作人
名探偵きなみんさん、こんばんは。

連想ゲームでは解けない問題でした。ごめんなさい。

「しょけ」って、ザルのことでした。
ちょっとわかりませんよね。
小松が使ったのも、「しょけ」を通してしまうというか、ザル内野みたいな使い方でした。

これに懲りずに次回もチャレンジして下さい。
というか、以前薩摩弁クイズをしたような?


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来週末、また鹿児島で講演会を開いてもらうことになりました。
まだ日にちがあると思っていたら、もう10日ほどになってしまいました。
入場無料ですので、お近くの方は参加してみませんか。


2008(H20)年度 立命館大学鹿児島県校友会
文 化 講 演 会                  

演 題
「篤姫と幕末薩摩の青年たち」
-鹿児島・京都・江戸を結ぶもの-

◆ 日 時  11月15日(土) 13:00~ 90分予定 (受付12:30~)
◆ 場 所  南日本新聞社 5 F 会議室
        〒890-8603 鹿児島市与次郎1丁目9-33

◆ 主 催  立命館大学鹿児島県校友会
◆ 後 援  南日本新聞社 同志社校友会 関西大学千里会 関西学院同窓会

■お申込みは下記のTEL、FAX、Mail をご利用ください。
  (入場無料 整理券発行)
■お問合わせは、
立命館大学校友会事務局 (西 元)
TEL:099-253-1211 / FAX 099-253-0013
MAIL:s44m5540@al.ritsumei.ac.jp

【講演にあたって】
いま大河ドラマ「篤姫」が社会的な現象となるほど話題になり、天璋院篤姫や小松帯刀が脚光を浴びています。従来、幕末の薩摩といえば、西郷・大久保の両雄が主役でしたから、ずいぶん様変わりです。主役を変えることは視点を変えることにつながり、幕末維新史や薩摩藩に対する見方もだいぶ変わってきた、あるいは別の面が見えてきたともいえるのではないでしょうか。これからの鹿児島には、そうした複眼的な見方や思考が重要だと思っています。
そのような視点から、幕末の薩摩における藩風、情報、人材育成法、国事周旋などについて、篤姫のほか、斉彬・久光・小松などを通じて見ていきたいと思います。これまでの薩摩とは違う、別の薩摩を発見してもらえたらいいですね。



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【2008/11/05 09:42】 | イベント
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是非、行きたいです^^
シラオ
昨夜、とある会合で「最近の篤姫、なんか違和感あるんだよね~」と、
仲間が言い出し、私も同意し、なんやかんやと盛り上がりました。
そこで、先生の今回の講演も是非聴きたい!と思う次第です。
視点を変え、見方が変わると、どうなるのでしょうか?
そこが楽しみですから^^

よろしく
桐野作人
シラオさん、こんばんは。

当日、ご出席いただけるようで、有難うございます。
まだどんな話をするか、じつは決めていないのですが、何とか頑張ります。


岩剣石塁
今度も是非、また出席させてください。
先生の視点から観た歴史観はとても内容が濃くて、
勉強になります。


はじめまして
tsubu
はじめまして、こんにちは。
恥ずかしながら、実はつい先日まで桐野先生のブログの存在を知らなかったものですから、発見(と、言いますと大変失礼ですが)してからというもの、いつも楽しく拝見させて頂いております。
桐野先生の薩摩藩に対する知識と慧眼には、いつも大変勉強させて頂いております。
本当にありがとうございます。
先生の講演会、鹿児島近郊に住んでおりましたら是非聴きに行きたいところなのですが、今回は叶いそうにありませんので、また講演会で話された内容の要点などをブログでお聞かせ頂けると嬉しいです。

私は薩摩藩史が大好きな者なのですが、どうも大河『篤姫』には放送開始当初から違和感を覚えてしまいまして、現在の篤姫ブームに完全に乗り遅れてしまっています……。
と、言いますのも、篤姫と小松、西郷、大久保の関係を見ている内に、このドラマの最後の落とし所が見えてしまったような気がしまして、それからはどうも触手が伸びなくなってしまいました。
桐野先生もお書きになられていた「大政奉還平和路線対武力倒幕路線」の対立軸が、おそらく篤姫・小松対西郷・大久保の視点で描かれるのだろうな……と感じていたのですが、案の定、先週の放送ではそういった感じになっておりましたね。

武力倒幕という言葉を使うと、現代人からすれば荒っぽい表現に聞こえ、戦争を意識しますので、どうしても「悪」というイメージで捉えられますが、もう少しその時代時代の空気と申しましょうか、政治情勢やその時代に生きる人々の観念や常識といった目に見えない雰囲気なども念頭においてドラマを作って頂きたいものです。
小松や西郷、大久保が画策した倒幕路線は、様々な紆余曲折の末で最終的に行き着いたものですから、「大政奉還=武力倒幕に対抗する平和路線」との対立軸で安易に語られてしまいますと、史実が大きく捻じ曲げられてしまい、今回折角スポットが当たった小松にしても、その業績がちゃんと評価されないような気がしてなりません。

長々と自らの感想ばかりを述べまして大変失礼いたしました。
これからも先生のブログ、楽しみに拝見しております。
どうぞよろしくお願いいたします。

よろしく
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

また出席してくださるのですね。
有難うございます。
前回とは少し違った話をしないといけないですね(笑)。


こちらでは初めまして
桐野作人
tsubuさん、こんばんは。
ようこそおいで下さいました。

仰せの通りで、私も「篤姫」に限らず、昨今のドラマは当時の感覚や価値観を無視して、安易に現代的な味つけにしているように感じます。

個人的にどうかと思ったのは、前回の「篤姫」で、岩倉具視が討幕の密勅を放り投げたことです。
「策士=岩倉」だから、密勅なんて屁とも思っていないのだろうという先入観が演出の背景にありそうですね。

しかし、岩倉は孝明天皇の近習番として幼少の頃から仕えている、一種の小姓です。密勅をそのようにぞんざいに扱うはずがありません。公家の心性の無視、もっといえば軽侮がありますね。現代から見れば滑稽かもしれないけど、140年前と現代とでは、価値観が大きく異なることにもう少し敬意を払ってもらいたいものです。

これは岩倉だけでなく、西郷や大久保についてもいえることですね。何かといえば、安易な「謀略」と「陰謀」で片づけようとする傾向があります。
儒教的素養による「名分論」を根底に置きながら、幕末的な新しい「公議」(或いは公論)という観念を定着させることで社会変革しようとした西郷や大久保の努力がまったく無視されていますね。
「謀略」や「陰謀」だけで、人は動かされないという洞察がないような気がします。

言葉が過ぎました。
今後ともよろしくお願いします。

同じ薩摩関係として、リンクをお願いできればと思います。

追伸
4,5年前でしたか、鹿児島の黎明館で佐々木克氏の講演(薩長同盟論)があったとき、tsubuさんもおいでになるとMさんから聞いていたので、お会いするのを楽しみにしていたのですが、何かアクシデントがあったらしくて、会えなかったのが残念です。


ありがとうございます
tsubu
桐野先生、こんばんは。

この度はご丁寧なお返事を頂きまして、誠にありがとうございます。
大変嬉しく拝見いたしました。

先生もご指摘なされている通り、岩倉のあの密勅の取り扱いには、私もいささか閉口いたしました……。
おそらくあのシーンは、岩倉が天皇を飾り物としてしか見ていなかったという観念をもって作られているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、それは大きな誤りであり、認識違いも甚だしいと感じられます。
密勅の扱いがあのように描かれては、「卑賤之小臣等不奉堪感激流涕奉存候」と書いて請書を提出し、密勅を大切に戴いて、藩論統一のために薩摩に帰国した小松や西郷、大久保の苦労も浮かばれません。
最近の歴史ドラマは(また歴史ミステリーと称する諸番組も含めまして)、片方を持ち上げるために、もう片方を徹底的に落とす手法をいささかやり過ぎるような気がします。
西郷と大久保のことにつきましても、まさしく先生のおっしゃる通りです。
どうしても、陰謀、謀略、策士などというキーワードが先行し過ぎて語られるような気がしてなりません。

またまた、長くなってしまいました。
リンクの件、本当に光栄で嬉しいです。こちらからもリンクを張らせて頂きます。
こちらこそ今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

追伸
鹿児島の黎明館での件につきましては、その節は大変失礼いたしました。
実は前日宮崎に宿泊しており、翌朝車で鹿児島に向かう途中、高速道路上で前の車が横転する事故に巻き込まれまして、結局その後警察や病院に行くことになり、佐々木先生の講演どころか鹿児島にも行くことが出来なくなってしまいました。(幸い私は無傷だったのですが)
鹿児島でお会いする約束をしていました皆様には、その節すぐに連絡も出来ず、大変ご心配とご迷惑をおかけしてしまいました。
この場を借りまして、改めてお詫び申し上げます。

講演拝聴できず残念!
橋本 昇
今月15日に鹿児島で講演をされるのですか? 私は翌週の21日鹿児島にて「狂言会」「結婚式披露宴」があって、京都から鹿児島に参ります。一週後で残念です。先日(即宗院での講演)以来、「さつま人国誌」と「ブログ」を楽しく読ませていただいています。
今回の講演テーマも楽しそうですね。もし資料を配布されるようなら、南日本新聞社の文化部の方に預けてもらえませんか?
わたしの友人に元記者がいます。翌週に伺い頂戴できるのですが。

リンク
桐野作人
tsubuさん、こんにちは。

リンク張らせてもらいました。そちらでも張っていただき、有難うございます。

tsubuさんの義憤もごもっともで、最近の歴史関係のドラマやバラエティは見るに堪えないものが多いですね。
幕末の人士にしても、みなそれぞれの理想に燃え、社会変革の理念や理論をもっていたばかりか、何より同志や仲間との「信義」を大事にしたことは、吉田松陰が友人との約束を守るために脱藩したことだけでも明らかです。
松陰先生はかなり極端かもしれないけれど、西郷・大久保だって同様だと思います。龍馬や慎太郎との「信義」を大事にしていたのに、140年後に「陰謀」の主として語られてしまうのは何とも無念なことでしょう。

追伸
その節は大変な目に遭ったんですね。そこまで大変とは知りませんでした。ケガがなくて何よりでした。

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昨日の大河ドラマで、もうひとつ気になった表現がありました。
表題のことでして、大したことではないのですが、妙に耳に残ったものですから。

小松帯刀が二条城での大政奉還の場で発言を求めて、自分の身分・役職を「城代家老」だと告げました。

でも、これって、何かおかしいですよね。

小松はたしかに、この年、慶応3年(1867)正月21日付で、城代家老を拝命しています(「薩藩小松帯刀履歴」)。
役料高は1000石、従来の家老勤めと担当部署はそのままというものです。辞令に「別段の思し召しを以て」とありますから、藩主茂久か国父久光のじきじきの命だったのでしょう。

もっとも、薩摩藩では、城代家老任命の事例はあまりありません(『藩法集』8、鹿児島藩・下)。幕末になると、ほとんど名誉職で、これに任命されたからといって、権限が格別強くなるいうこともありません。何より辞令が出たとき、小松は在京しています。ですから、城代家老の役目を勤められるはずがなく、名誉職にすぎないことは明らかです。
また役料も先例では2000石なのに、小松は半分というか、ふつうの家老と同じですね。
小松が城代家老になったことを高く評価する向きもありますが、どうでしょうか? 拝命前後で小松の役割や働きに格別の違いが生じたとも思えません。

もともと、城代家老は藩主が参勤交代で江戸にいるときに、国許の留守の総責任者という地位です。ましてや文久2年(1862)に参勤交代が事実上廃止されてからというもの、藩主はほとんど国許にいるわけですから、城代家老の仕事はなくなります。

常識的に考えてみればわかるように、小松があの場で「城代家老」と名乗ったら、すぐさま、「じゃ、なぜ京都にいるのか」というツッコミが入ってもおかしくありません。
つまり、対外的には通用しない役職でしょう。

この場合、TV的には「薩摩藩家老、小松帯刀」という名乗りで十分でしょう。
より厳密にいうなら、「松平修理大夫家来、小松帯刀」だと思いますが。

大したことではありませんので、読み流していただければ幸いです。

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【2008/11/03 23:30】 | 篤姫
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やはり
NAO4@吟遊詩人
ブログ楽しませていただいております。私も番組のこの台詞を聞いて、「城代家老が何で京都にいるんだ?」、「なんでここで、それを強調しなければいけないんだ?」と思ったのですが、まともな反応だったのですね。


憤懣やる方ないという感じですか…
幕末には全く興味のなかった私が大河ドラマ『篤姫』を期に
ウィキペディアや歴史家の方のサイトや、
一般の方のブログを回るようになりました。
桐野様がお造りになられたらまた違ったドラマになったのでしょうね。
今回の時代考証に参加された方々が作られたのはこのドラマであったと。
しかしその振り幅こそが時代劇の面白さではないかとも思います。
桐野様の御指摘も拝見しつつ、大河も楽しんでおりますよ。
申し訳ありませんが(笑)
思い入れのない私たちの方が楽しめるというのも皮肉な話ですね。
これからも史実の御教授よろしくお願い致します。


どうして篤ヲタって、今まで見もしなかった人様のブログで
『篤姫』に対して批判が書かれると
「でも私はこのドラマ楽しんでますから」とか勝利宣言したがるのかね
人のブログ汚す暇あるなら、マニアの内輪だけでハァハァしとけばいいのに・・・



けんしろう
はじめまして。
けんしろうと申します。
「篤姫」の中の、小松帯刀のことですね。
そこまで細かく指摘されるとは、脱帽です。
相当に歴史を研究されているのですね。
参考にさせてください。
応援させていただきます。
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NHK大河ドラマ「篤姫」第44回「龍馬死すとも」

ドラマ進行時点は、慶応3年(1867)6月から11月頃まで。

ほぼ昨日書いたとおりの展開でしたね。
いやはやまったくです。

わかりやすく描くことと、史実を踏まえることとは決して矛盾しないし、両立できないわけではないと思うのですが、なぜそこまで対立的に考え、前者を優先し、後者を無視するんでしょうかね?

昨日も書いたように、小松帯刀は薩摩藩を代表して、武力討幕の意志を長州藩に伝え、さらに討幕の密勅の請書にも、西郷・大久保と共にその筆頭で署名しています。
小松が討幕を承認していたことはよく知られた史実にもかかわらず、なぜそのことを無視し、史実をねじ曲げてまで描く必要があるのか、私にはまったくわかりません。
今年の大河ドラマに意義があるとすれば、埋もれていた小松帯刀を世に出したことだと思っていましたが、小松のもっとも大事な仕事が歪曲されては小松も浮かばれませんね。

徳川慶喜はとても賢い人で、徳川家の延命と自分の政治生命を維持するためにあらゆる可能性を検討しています。もちろん、武力で討薩できるか否かも厳密に検討し、結果、京都制圧は出来ても、南九州まで攻め込んで薩摩を屈伏させるのは不可能という結論から、武力路線を放棄し、平和的な大政奉還を決断したわけです。

一方、土佐藩の後藤象二郎は大政奉還建白書を提出しても、幕府が受理してくれなければ、それを名分に薩摩藩が武力討幕をするのをよく理解していました。しかも、幕府が建白書を拒絶したときは後藤も討幕に参加するという言質を薩摩側にとられていました。もちろん、言葉だけで実際に後藤がそうしたとは思えませんが、その代わり、後藤が失脚するのは確実で、乾退助など藩内討幕派が台頭するのは明らかでした。

そこへ助け船を出してくれたのはむしろ慶喜で、永井尚志(若年寄)を通じて、建白書を提出するよう後藤に勧めます。後藤はそれで慶喜が建白書を受理するつもりであることを知り、喜んで提出したわけです。慶喜としては、みずから大政奉還をしては、いかにも幕府の失政を認めるようなもので、その体面に関わります。ですから、土佐藩をはじめ諸藩からの進言を受けてという形式的な手続を踏んだだけです。
いわば、大政奉還は「やらせ」芝居だったわけです。

この「やらせ」を百も承知しながら、実のあるものにして王政復古の足固めにしようとしたのが、ほかでもない小松帯刀です。
小松は幕府が大政奉還を大政再委任の道具に使わないようにするために、慶喜に長州寛典、諸侯会議招集、征夷大将軍辞職など5カ条を呑ませて、大政奉還が口先だけでなく、後戻りできないようにしようとしたわけです。

何も大政奉還と王政復古を対立的にとらえる必要はありません。
大政奉還はその基礎、前提にすぎないわけですから。

もっとも、慶喜が大政奉還したことにより、その討幕の有力な名分が失われたこともたしかで、討幕の密勅を作成した中山忠能・正親町三条実愛などは、その見合わせ沙汰書を大久保などに示して、討幕を一時棚上げすることを求め、大久保もそれを了承しています。

ですから、王政復古政変は密勅に基づく討幕挙兵ではありません。なぜなら、密勅は棚上げにされましたし、何より打倒対象が慶喜もしくは幕府本体ではないからです。会津・桑名・紀州・新選組・見廻組など、慶喜の大政奉還に反対する幕府内強硬派の排除が目的でした。
その意味では、王政復古政変は大政奉還の成果を打ち固めるものでした。両者を対立的にとらえる必要はないというのはそのためです。

ここに、小松と西郷・大久保、さらに龍馬の基本的な立場の違いはありません。
幕府政治を終わらせること(その手段・プロセスについてはまだ詰める余地がありましたが)、それについては土佐・越前・宇和島・尾張・芸州なども含めて、みな一致していました。

上記のプロセスを描くのはそんなに難しいのでしょうかね?

それと、龍馬の「新官制擬定書」についてです。
これも二重三重におかしいでしたね。

擬定書を龍馬が小松に見せておりましたが、2人にそんな時間はありませんでした。
それに擬定書を作成したのは龍馬ではなく、龍馬の側近だった戸田雅楽、のちの尾崎三良(さぶろう)です。
尾崎はそれを小松ではなく、西郷に見せに二本松の薩摩藩邸を訪れましたが、西郷は帰国の準備中で、会うことができませんでした。でも、西郷が尾崎に一緒に船に乗らないかと勧めてくれたので、一緒に帰っています(ただし、大宰府の三条実美に会うために下関あたりで下船)。
尾崎の回想によれば、船中で西郷に擬定書を提示したところ、西郷が面白いと答えたとのこと。小松に見せたとは書いていません。

まあ、西郷の代わりに小松に見せたくらいは許容範囲としましょう。
しかし、擬定書のなかに後藤と福岡孝弟の名前はありましたが、龍馬の名前がなかったのはおかしいですね。
そして、それに疑問を呈した小松(従来は西郷でしたが)に対して、龍馬が「世界の海援隊をやるきに」というお決まりのパターン。

これが『維新土佐勤王史』を編纂した坂崎紫瀾あたりがつくったフィクションであることは間違いないところでして。

じつは、擬定書は5種類くらいあります。それを厳密に史料批判した石井孝氏は、『尾崎三良自叙略伝』に収録されたのがもっとも古く、オリジナルに近いものだと結論を出しています(石井孝「船津功氏「『大政奉還』をめぐる政権構想の再検討」を読んで」 『歴史学研究』380号、1972年)。

では、尾崎の自叙伝にある擬定書に何と書いてあるかといえば、

内大臣 一人 (中略)暗に徳川慶喜を以て之に擬す。

参議 若干人 (中略)後藤、福岡、坂本等を以て之に擬す。

徳川慶喜の名前があるばかりか、龍馬の名前もちゃんと記載されています。

ところが、坂崎紫瀾は『維新土佐勤王史』を執筆した際、尾崎の自叙伝から写したと書きながら、意図的に龍馬の名前をはずしました。
それは、坂崎が龍馬の伝記『汗血千里駒』を刊行して、龍馬を自由民権運動の先駆者に位置づけてしまったため、反政府運動だった自由民権運動のなかで、龍馬の名前がのちの明治政府高官たちと一緒に掲載されるのはまずいという判断から、龍馬の名前を除外したと考えて間違いないと思います。

そのような作為がなされ、そこからさらに派生して「世界の海援隊」のエピソードが拵えられたわけです。
擬定書に名前があったら、「世界の海援隊」にとっては具合が悪いことになりますからね(笑)。

もういい加減、そうしたフィクションによる「龍馬伝説」の拡大再生産はやめにしたらどうでしょうかね。
史実の龍馬像からどんどん遠ざかるばかりだと思いますけど。史実の龍馬はそんなに魅力がないのでしょうか?

龍馬は新政府に加わろうとしていた。それは脱藩士のために土佐に戻れない龍馬にとっては、唯一の安住の地だったはずだからです。新政府に足場を作り、それを後ろ盾にしてこそ、初めて「世界の海援隊」は現実味を帯びるわけでして。

19世紀後半、そろそろ帝国主義の時代に入ろうという頃、国家の背景・支援がない「世界の海援隊」など、海賊同然であり、絵空事でしょう。
それを思うにつけ、三菱を興した岩崎弥太郎が大久保利通とがっちり結んで成功した史実を見れば、岩崎こそ龍馬のよき後継者だったといえそうです。

今年はもう諦めましたが、再来年の「龍馬」では、岩崎弥太郎の視点から描くそうですから、ぜひそのあたり、史実に基づいたドラマを望みますが、やっぱり無い物ねだりかも知れませんね(笑)。

ひとつだけ、よい点も書いておきます。
慶喜役の平岳大、非常にいいですね。
慶喜の複雑な内面をよく表現していて、このドラマでは数少ない大人の演技だと思います。
西郷や大久保が単細胞に見えるだけに、一際光っています。
さすがに親父さん譲りでしょうか。これからが楽しみな役者です。

今晩はドラマの後味が悪く、少し荒れております。
乱筆お許しのほど。

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【2008/11/02 22:09】 | 篤姫
トラックバック(1) |


おがちゃん
以前に書き込みをした者です。
いつも楽しみに拝読しております。
さて、憤りはごもっとも。
あきれて、というかもう笑って私も見ております。
あと、今日はとくに岩倉具視の京言葉、お公家さんの言葉?にびっくり、でした。

岩倉具視
桐野作人
おがちゃんさん、こんばんは。

岩倉具視については、片岡鶴太郎が役作りしすぎのような気もしますね。いかにもなパターンで。

それと、討幕の密勅は岩倉が書いたわけではないですし、縁側に放り投げるなど、あんなにぞんざいには扱うはずがありません。
大久保も日記ではほとんど感情を表さないのに、密勅降下を知ったときには「感涙ほかなし」と感激しています。
当時の感覚をもう少し大事にしてもらいたいものです。


小松と坂本
御座候
小松帯刀を篤姫の幼なじみにしてしまった時点で、小松の立ち位置は親幕的なものに決定づけられてしまった気がしますね。また、小松と坂本の関係をクローズアップした本作は、「徒手空拳で何のバックも持たない龍馬が八面六臂の大活躍」という通俗的なイメージを覆すチャンスだったのに、結局、従来のイメージに回収されてしまいましたね。


それにしても最近の大河ドラマは、主要登場人物がやたらと戦争反対=平和を希求するパターンが多いように思うのですが、現代の価値観を投影しすぎるのは如何なものでしょうかね。


虎太郎
いつも楽しくブログ拝見しております。
一言申し上げたくてコメントいたします。
大河ドラマは時代考証の先生もついてそれなりの考証はされており、ディレクターの方もなるべく歴史のねつ造にならぬようにとの心がけはされているようですがいかんせんドラマですので過大な期待は無理かと思われます。とくに小松帯刀に目を向けて描いたのは初めてに近いため史実をよくご存じの方こそ異論も多いのは仕方ありませんね。龍馬伝にもあまり期待されない方がよいのではとは思いますが、個人的には桐野さんのご意見なども取り入れたより現代の研究に基づいた幕末の政治劇を切り取ったドラマを見てみたい気がします。

立ち位置
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

仰せの通り、当初の立ち位置からさほどひねらない形での結末なんでしょう。
個人的には、幼なじみで好意を抱いていた2人が、むしろ明確な敵味方に別れてしまって、それでも最後に心を通わせるとしたほうが、より悲劇性が高まり、哀歓が滲み出るのではないかと思うんですけどね。

「平和主義」云々も同感です。
どうせそうするなら徹底したらどうなんでしょうか。たとえば、龍馬も寺田屋でピストルを使わないで尻に帆かけて逃げるという設定にしたらよかったのではないでしょうかね。龍馬の嫌う「無駄な血」が流れるわけですから。あるいは、それじゃ、リアリティが出ないという判断でしょうか(笑)。

事実は小説よりも……
桐野作人
虎太郎さん、こんばんは。

ご指摘のとおりですね。
私も過大な期待をしているわけではありません。ただ、昨日の分だけは個人的なこだわりがあったものですから、少し大人げなかったかもしれません。

大河に限らず、時代劇ドラマは俗説、通説ばかりなので、むしろ、史実を重視したほうがかえって新鮮で面白く映るんじゃないないかと思うんですけどね、個人的には。

桐野版幕末史期待しております。
NAO4@吟遊詩人
桐野様の荒れ具合を拝見いたしまして、感服いたしました。ドラマなんだから虚構も仕方ないと思いつつ、あまりに史実から離れてしまうのも、気分の良いものではありません。坂本竜馬も私のとっては、子供の頃涙した英雄ですが、ちょっと美化しすぎ、評価しすぎなのではと思えてしまいます。確か大河「徳川慶喜」では、坂本竜馬の船中八策が、大政奉還に影響を与えたというより、元々慶喜側でそういった方向性を模索していたように描かれており、ちょっとは進んでいるなあと思った次第。

幕末史は、通説が先行してしまい、やはり真実の歴史が、もう少し目につくところで語られるべきだと思っております。

史実と虚構の境目
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

ご意見有難うございます。
過分なお言葉で恐縮しております。
まだまだ不勉強ですので、そのような史論ができるかどうか定かではありません。
とりあえずは、新聞連載分はそのうちに刊行できそうです。

史実と虚構の見極めは難しいですね。空白部分もグレーゾーンもありますし、頭の痛いところですが、本格的なドラマなら明らかな史実は尊重すべきだと思っているところです。

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NHK大河ドラマ「篤姫」第43回「嫁の決心」

本日、再放送を観ました。1週間遅れの感想です。

ドラマ進行時点は慶応2年(1866)秋から翌3年6月まで。

まず、幕末の最重要期をわずか1回で通り抜けるのは、やはりいささか無謀かと感じました。

一橋慶喜の徳川宗家相続と将軍就任の間には3カ月以上のタイムラグがあります。なぜ慶喜がすぐ将軍にならなかったのか、そこには小さくない意味があるのですが。
また孝明天皇の死もあっさりしていましたし、「列侯会議」と呼ばれる、いわゆる「四侯会議」も簡単に済んでしまいましたね。とくに四侯会議は、薩摩藩が総力をあげて、公議政体への移行を画策したものだけにもう少し丁寧に描いてもよかったのではと思います。

違和感をもった第一は、四侯会議解体後、将軍慶喜が兵庫開港の勅許を得たが、長州寛典は許されなかったというナレーションです。

そんなことはありません。たしかに四侯会議では、久光が長州寛典を先にやり、挙国一致体制を構築してから兵庫開港に臨むべきだと主張し、他の三侯もそれに同意しましたが、慶喜は順番を逆にして奏請しました。

その結果、慶喜の奏請どおりの勅許が出たわけですが、長州寛典も一応認められています。『徳川慶喜公伝』史料篇三には、5月24日付の「朝廷よりの御沙汰書」が収録されています。それには、兵庫開港の勅許のほかに、長州処分についても次のように書かれています。

「長防の儀、昨年上京の諸藩、当年上京の四藩等、各寛大の御処置の御沙汰あるべく言上、大樹においても寛大の処置言上これあり、朝廷同様思し食され候間、早々寛大の処置取り計らうべきこと」

四侯も慶喜も長州の寛大な処分を望んでいるので、朝廷でも同様で早急に寛大な処置を取り計らうようにという趣旨です。形式だけですが、長州寛典も勅許されているのです。

問題は、慶喜が兵庫開港に重きを置き、長州処分のスケジュールを明らかにしないなど具体的な処置を示さなかったことです。久光が怒ったのはそのせいでした。

そこで、薩摩藩では平和的な周旋にはもはや限界があるということで、いよいよ討幕の意志を示すことになります。
その時期がいつかといえば、慶応3年(1867)6月16日より少し前のことです。それは長州藩の山県狂介(のち有朋)と品川弥二郎に対してです。2人はひそかに上京して、薩摩藩邸に潜伏していました(大久保利通邸かもしれません)。

2人が国許に送った復命書には次のように書かれています(『修訂防長回天史』五下)。2人は島津久光に面会を許され、四侯会議が失敗し、「幕府反正の目途とてもこれなき事につき、今一際尽力の覚悟罷り在り候」と、久光から何らかの覚悟があることを伝えられました。その覚悟の具体的な中身は小松邸で明かされます。

「その後西郷同伴にて小松帯刀の僑居へ集会し、西郷・大久保・伊地知列座にて、小松曰く、今日主人よりも御話し仕り候通り、幕府の譎詐・奸謀尋常の尽力にては、とても挽回の期これあるまじくき、ついては長薩連合同心戮力致し、大義を天下に鳴したく、弊藩一定の見込み、御熟談仕るべく候間、腹臓なくお気付きの事件お指揮成し下されたし」云々

小松邸に、山県と品川が呼ばれ、そこには西郷・大久保・伊地知が同席していました。そこで小松が、幕府は譎詐・奸謀をし反省の色がないので、これ以上通常の尽力ではとても挽回できない。長薩が連合同心して、大義を天下に示したいと述べたというのです。

学界においては、この小松の宣言こそ、薩摩藩が武力討幕を決意した時期だというのがほぼ定説になっています。つまり、

武力討幕を宣言したのは、ほかならぬ小松

だという見方です。

ドラマでは、西郷・大久保が討幕を言い出し、小松がそれにストップをかけようとするシーンがありましたが、史実や定説とは大変かけ離れていますね。違和感の最たるものはこれでした。

なぜこのような史実と異なる描き方になるかといえば、大政奉還の評価に関わり、小松が坂本龍馬の念願した大政奉還を推進し、討幕とは異なる道を歩もうとしたという落としどころに導きたいがためです。龍馬(小松も)は武力討幕に反対した平和主義者だったという、根拠のないイメージにこだわりたいがためです。イメージと史実とは別だというのはいうまでもありません。

明日の龍馬暗殺をどのように描くかわかりませんが、

西郷・大久保VS小松・坂本

という対立構図を描き出そうということのようですね。
そこから導き出されるのは、数年前の大河「新選組」と同様、龍馬暗殺の陰に薩摩(西郷か大久保)ありという見方です。
今回のドラマの性格上、明日はそこまで明示しないのではないかと思いますが、そのように思わせる仕掛けにはなるかもしれません。

討幕の密勅の請書に小松帯刀も署名しています。この密勅の手続や様式には大いに疑義がありますが、小松・西郷・大久保らはあくまで真正なものと考えていましたし、実際の効力もあったわけです。その請書に署名したということの意味は大変重いと思います。


西郷・大久保VS小松・坂本

という、陳腐でありえない構図を描くより、

小松・西郷・大久保・坂本・土佐VS会津・桑名・紀州・藤堂・見廻組・新選組

の対立構図のほうがいかに根深いか考えてみれば、すぐわかることです。
前者が幕府政治廃絶=広義の倒幕では一致していたことは常識の部類です。
だからこそ、それを恐れる後者があくまで幕府政治を維持しようとしたわけで、大政奉還に対する巻き返しの反動が近江屋事件というテロリズムとなって表れたとみるべきでしょう。

なぜ、一昔前は常識だった見方ができなくなったのか不思議でなりません。

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【2008/11/01 22:03】 | 篤姫
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西郷・大久保VS小松・坂本
町田明広
桐野さん、こんにちは。

まさにご指摘の通りの展開が想起されますね。
このところの篤姫の展開の速さには、目が回る思いですが、その割には未だ回数が
残っていますから、大政奉還や無血開城を、西郷・大久保VS小松・坂本の図式で
ゆるりと描き、最後は篤姫と小松による無血開城工作にまで発展しそうな勢いと
感じております。倒幕後、全員が顔を揃える場面が出てこないか、心配です。

小松が後世、忘れ去られたのも、西郷・大久保路線との対立で説明を付けられそうな
不安もあります。影響力が大きな番組だけに、少々危惧いたしますが・・。
しかし、久光の扱いも酷いものですね。久光を曲りなりにも研究の対象とする者に
とっては、残念な思いもあります。

まあ、とは言えドラマですから、そう目ぐじらを立てるべきではないのでしょうか(笑)

泰葉
ばんない
うーむ、この大河をいまだに「幕末ドラマ」としてみている人が割と多いのが不思議でなりません。宮崎あおいのコスプレプロモーションビデオじゃないんですか?(苦笑)

この大河の脚本家は表題の今話題のトラブルメーカーの方の御親友だそうですから、まあ、今後の展開も押して知るべしということで。桐野さん的には踏んだり蹴ったりの結末になるようです。

西郷・大久保と小松
桐野作人
町田明広さん、こんばんは。

>小松が後世、忘れ去られたのも、西郷・大久保路線との対立で説明を付けられそうな不安もあります。影響力が大きな番組だけに、少々危惧いたしますが・・。

ご指摘のとおりですね。
西郷・大久保との対立では具合が悪いのか、それをぼかして、小松がみずから身を引いたとか、すでに「伝説」が創作されています(笑)。
外国事務局の重職にあるのに、みずから消えるはずはないんですが……。

まあ、西郷・大久保とくに大久保が小松を抑圧したという学術論文まであるくらいですから、しかたがないことなんでしょう。一般の歴史ファンだけのせいではありませんから。

泰葉
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

脚本家が泰葉と親しかろうがどうだろうが、ちゃんとした筋立てで書いてくれれば、私も文句はいいません。



ばんない
こんにちは。2日続けてご立腹のご様子、ご愁傷様です。
>脚本家が泰葉と親しかろうがどうだろうが、ちゃんとした筋立てで書いてくれれば、私も文句はいいません。
それはそうですけど、NHKから出た『完結編』なるネタバレ本を立ち読みしたところ、「私って時代劇にも向いてるかも、また(時代劇か大河ドラマの脚本)書きたーい」なんて書いてられるくらいのお方ですから(涙)

懸念されるのは、いまだにこの茶番劇を史実と思っている人が多そうなことなんですよね。『徳川慶喜』くらいなら主人公の立場から見てある程度はしょうがないと我慢できましたが『新選組!』そして今年の奴でしつこく薩摩藩側を矮小化しているところをみるとNHK的に何か企みでもあるかと勘ぐってしまいます(苦笑)。居なかったことになっている長州藩士が無茶苦茶に矮小化されないだけかえってうらやましかったり。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第82回
―城地移転でくじ取りも―

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今回は、薩摩藩が薩英戦争に備えて、事前に鶴丸城の移転をひそかに決定していたことを書きました。これはあまり知られていないと思います。
久光とその側近である小松帯刀・大久保一蔵・中山中左衛門あたりで協議されたものと思われます。

その一方で、市来四郎の『史談会速記録』での談話が面白いです。市来は『石室秘稿』や『自叙伝』など、幕末から明治にかけての島津家の動向を多数の記録に残しており、貴重な記録者、観察者です。
それによれば、生麦事件の責任を問う声が藩内で公然とあがり、小松・大久保・中山ら側近が批判されたというのです。生麦事件をめぐっての藩内の不協和音はほどんと表に出てきませんね。いかにも薩摩藩は挙藩一致でこの危機に臨んだように思われています。

もっとも、市来は明治以降、久光の側近になっていますので、明治政府の高官となった小松や大久保について、主人同様、やや批判的なスタンスなので、多少割り引いて考えたほうがいいかもしれませんが。

もうひとつ面白いのは、城地移転をめぐってくじ取りが行われたことを、これまた市来が証言していることです。
島津家では戦国時代によくくじ取りが行われました。そのことは当連載でもかつて書いたことがあります。こことかここです。
ふつうなら、幕末になってくじ取りで物事を決めるなんて、なんて時代遅れなとなりそうですが、こうした過去の事例をみれば、なるほどありえるなと思います。幕末でも薩摩藩ではくじ取りがあったことを明らかにした市来の証言は貴重だと思います。

なお、鶴丸城の国分移転については、実際に測量などが行われ、島津家の別邸である花倉や中村の茶屋を移築することまで決まっていたのに、結局、実現しませんでした。

それは藩内の反対があったのもさることながら、朝廷において攘夷決行日が5月10日と決定されたことが大きいのではないかと推定してみました。
4月4日の藩当局の通達はそれを受けてのもので、全面的な城地移転ではなく、島津家の女性たちだけ疎開させる花倉茶屋移築に計画が縮小されたのではないかと思われます。
薩英戦争前後、実際に女性たちが国分に移ったのかどうかまで確認できていませんが。

次回からは、明治の鶴丸城を書くか、別のテーマを探すか、迷っているところです。

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【2008/11/01 10:42】 | さつま人国誌
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