歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
クリスマスの25日(木)早朝、三条京阪から伏見へ行く。

伏見の薩摩藩邸跡に建碑されることになった。
この夏、小松帯刀寓居参考地の石碑も建立した京都歴史地理同考会(理事長:中村武生氏)の手によるもの。

建碑場所は酒造会社月桂冠の関連会社である松山酒造さんの敷地の正門横。人目につきやすい格好の場所である。敷地を提供いただいたオーナーさんに感謝。

早朝にもかかわらず、同会の熱心なみなさんが50人くらい集まる。月桂冠の関係者のほか、伏見区長までおいでになった。
布被った石碑






中村武生氏から私にも挨拶するように耳打ちされ、しかたなく前の来賓席に座らされる。
除幕式が始まり、月桂冠さんや伏見区長さんの祝辞が述べられる。月桂冠さんが責任をもって管理してくださるという約束があり、有難い。それもこれも、主催者側の熱意が地主さんを動かしたのだろう。
建碑参加者





私はというと、中村氏が同屋敷の由緒来歴を少しは話してくれるかと思ったら、ほとんど話がなかったため、少し長い話になった。だいたい、この屋敷は江戸・京都・大坂の藩邸とくらべて、史料が非常に少ない。だから、それほど話せないのだが、最近気づいた点を3点ほど触れた。

1,同屋敷の成立はいつ頃か
 これについては、前もって中村氏から遅くとも寛文10年(1670)まで遡れるのではと教えていただいていたので、少し調べてみた。『旧記雑録追録』一によれば、慶安2年(1649)に薩摩藩が琉球使節を伴って出府したとき、大坂から江戸までの経路と宿泊地について問い合わせた幕府老中の文書があり、伏見に宿泊していることがわかったので、それを紹介したが、果たして、その頃に藩邸が存在していたかどうかは定かではない。可能性のひとつとしてお話しした。

2,伏見藩邸の立地と位置づけ
篤姫が鹿児島から輿入れした前後、伏見藩邸のことが少しわかる。
嘉永5,6年(1852,53)、島津斉彬が参勤交代で伏見に宿泊している。そのことを書き留めた側用人の山田為正(斉彬の遺言を書き留めた人)の日記によれば、「伏見御仮屋下え着船」とある。
現地に行けばわかるように、伏見藩邸跡の前には水量豊かな濠川が流れており、寺田屋にもつながっている。寺田屋で襲撃された坂本龍馬は、薩摩藩伏見屋敷に駐在していた大山彦八(巌の兄)に助けられて藩邸に収容されるが、大山はこのとき、濠川を船で往来している。船がとても便利な交通手段だったことがわかる。
山田もまた同様に、伏見藩邸の下まで大坂から船でやってきたことがわかる。

なお、山田は伏見藩邸のことを「御仮屋」(おかりや)と表現している。これは山田に限らず、ほかの史料にも見える。ふつう、薩摩で御仮屋といえば、地頭や私領主(一門四家や一所持など)の居館を意味する。しかし、これは少し意味が異なり、参勤交代にまつわる用語のようで、休息所を意味する「御茶屋」に対して,宿泊所を意味していると思われる。
他の藩邸とくらべて、「屋敷」とあまり呼ばれた形跡がない。その証拠に、藩政史料を集成した『藩法集』鹿児島藩編には、伏見藩邸は立項してない。江戸・京都・大坂そして長崎はあるのに伏見はないのだ。そのことと、「御仮屋」という名称に関連があるのかないのか。
ともあれ、伏見藩邸は三都の藩邸とは少し位置づけが違っている(格下)のではないかと思う。

また、江戸・京都・大坂の三都の藩邸はどれも「~屋敷」と呼ばれ、その責任者は「留守居」である(長崎は「付人」)。それに対して、伏見の責任者は「」(もり)と呼ばれている。嘉永年間の伏見御仮屋の守は友野七郎左衛門である。この人はあちこちに名前が出てくる。

3,伏見藩邸にまつわる人々
これは、篤姫や斉彬はもちろんである。そして一番有名なのが坂本龍馬とお龍であろう。
そのほかに、篤姫の老女として今年一躍脚光を浴びた幾島も来ている。幾島は近衛忠煕に島津家から嫁いだ郁姫(島津斉宣の娘)付きの老女だったが、郁姫が没したのち、髪を下ろして得浄院と名乗った。その名前で山田の日記に頻繁に出てきて、伏見藩邸にも山田を訪ねて来ている。
なぜ幾島が登場するのかといえば、斉彬からの進物の確認、斉彬の入京と近衛邸訪問の事前打ち合わせなどのためである。
幾島が仕事相手の山田に手許不如意を訴えて、給金を上げてもらっているのが面白い。主人の郁姫が亡くなったため、付け届けその他の役得がなくなってしまったからではないだろうか。

というような拙い話をした。

その後、除幕式となる。関係者や来賓のみなさんの手によって、石碑が姿を現した。
除幕式

石碑






今後、この石碑が伏見の幕末史跡のなかで、大きな目印になることは間違いないだろう。とくに寺田屋を訪れる人はこちらもぜひ観ていただきたいものである。
メディアの関心も高く、事前に読売が紹介記事を書き、除幕式の記事も京都、朝日、南日本などが書いてくれたようである。

式の終了とともに雨が降り出した。
式のあと懇親会も予定されていたが、私は名古屋での講座があるため、失礼した。盛会だったと聞いた。

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【2008/12/28 13:11】 | イベント
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お疲れさまでした
武藤 臼
なにか役に立つことを期待して
記憶と記録に留めておきます。

恐縮です
桐野作人
武藤臼さん、こんばんは。

伏見の建碑の件、お知らせすればよかったですかね?
平日の午前中だったのものですから、失礼しました。

こちらこそ
武藤 臼
お気遣いおそれいります。
残念ながら、お招き頂いても無理でしたので^^

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第90回
―藩閥を排し、公正無私―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回もまだ、小松帯刀にこだわっています。
ひとつは、玄蕃頭の位置づけがある程度わかったので、それを伝えたかったこと。
次いで、大隈重信が小松帯刀を高く評価していることをぜひ知ってもらいたかったからです。
大隈重信に小松と接点があったなんて、あまり知られていないと思いますが、じつは、小松の部下でした。外国官の役人として、小松の下で働いており、記事で書いたように、小松は大隈を自分の後継者として推薦し、政府は小松の意向を尊重して、それを実現しました。

小松の部下で薩摩藩出身者は、町田久成・寺島宗則・五代友厚と、いずれも英国留学組の俊英ぞろいでした。とくに寺島はのちに外務卿となり、活躍したことで知られています。このような同郷の後輩を差し置いて、小松は大隈を抜擢したのです。その理由は記事に書きましたので、ご覧下さい。

明治初年の生き残った志士たちは、政府を私物化するつもりなど毛頭なく、あくまで国家への貢献を一義とし、仕事も人事も公正を期して励んでいたことがわかります。彼らの新国家樹立に賭ける重い使命感が伝わってきます。
それとくらべて、現在の政治は何と軽いことかと感じますが……。

大隈重信は明治14年政変で下野したために、のちに隈板内閣の首班とはなったものの、政治家としてより早稲田の創設者というイメージのほうが強いですね。

しかし、大隈の才能を高く買っていたのは、小松だけでなく、大久保利通もそうです。
大久保研究者の勝田政治氏によれば、大久保が自分の後継者に擬していたのは、伊藤博文ではなく、大隈だったとのこと。

考えてみれば、大隈は薩摩の有力者2人になぜか高く評価されていますね。
そのことは換言すれば、小松も大久保も藩閥意識にこだわらなかった人物であることを示しているように思います。

次回は、1月3日が正月三が日の特別紙面のため休載となり、10日になります。
明治初年の内政と外交の隠れたる大事件となった浦上キリシタン事件について触れたいと思います。この事件には、小松も大隈も関わっています。

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【2008/12/27 09:51】 | さつま人国誌
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小梅
はじめまして。南日本新聞の「さつま人国誌」、インターネットで毎回読んでいます。ドラマの「篤姫」は終わってしまいましたが、小松帯刀のことをこれからも書いてください。現代に帯刀のような政治家がいたらいいのにと思います。

大隈と伊藤
ばんない
こんにちは。

大久保が大隈を高く買っていたというのはちょっと驚きでした。伊藤博文とのつながりの方がよくいわれますしね。一方の大隈は木戸孝允とのつながりの強さが強調されることが多いように思います。一方で大隈と西郷隆盛は巷説では不仲と言われていますが、どうだったんでしょうか。
また、愚問になりますが、維新の時にも影が薄かったという肥前藩出身の大隈が新政府の官僚にいきなりなれたのは、フルベッキの推薦なのでしょうか?

そういえば後に伊藤はハルビンで暗殺されますが、大隈は「華々しい死に方をした伊藤君がうらやましい」と半ば本気で周囲に語っていたそうです、ちょっと不謹慎だぞと思いますが(苦笑)。同年代でもあり、歴史に残る強烈な死に方をした伊藤に対してライバル心が強くあったのでしょうね。

また、久しぶりに町田久成の名前が出てきましたね。町田はこの後大飛躍した大隈・伊藤に対し、世を捨てるようにして政界を去りますが、久成の弟が回想録で語った話などを考えあわせるに、海外を広く見聞し、当時の門閥出身武士としてはかなり進歩的だったと思われる久成ですら、このような身分大逆転の状況に付いていけなかったのかな、とも推測され、興味深いです。

次回は浦上キリシタン事件とのこと、大山県令の話なども出てくるのでしょうか。年明けが楽しみです。

小松について
桐野作人
小梅さん、こんばんは。

コメント有難うございます。
小松については、私もこだわりがあるので、折に触れて書き、まとめてみるつもりでおります。また読んで下さいね。

大隈重信
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社メチエ)によれば、大久保路線の継承者は大隈重信だったと書かれていますね。近年は大久保との関係が強調されていると思います。

大隈の中央政界への登場は長崎裁判所時代、浦上キリシタン事件の処理が小松の目に止まった可能性があります。またイカロス号事件の処理もあったかもと疑っているところですが。

あるいは、中井弘が小松に紹介したのかもしれません。明治元年の小松の横浜・江戸下りには、中井と大隈が同行しています。

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年賀状もまだ書いておりませんが、クリスマス前後、京都と名古屋に出張でした。

12月24日(水)天晴
イヴの日の朝、新幹線で京都へ。
前回、デジカメトラブルにより撮影できなかったところと、執筆のための取材や来年の史跡ツアーの下見を兼ねて、いくつか回る。

三条京阪近くの新門前通縄手(大和大路通)。
慶応4年(1868)2月、宿所の知恩院を発し、明治天皇との会見のため、初めて参内する英国公使パークス一行が攘夷派浪士に襲撃された場所である。襲撃を身を以て防いだのは土佐の後藤象二郎と、薩摩の中井弘だった。
縄手






知恩院からのパークスの進路を実地に確認した。知恩院の旧参道である東西の新門前通と南北の縄手通が交わる辻のあたりで襲撃を受けたのだろうか。いくつか資料を持参したが、襲撃場所をさらに絞り込めるような情報をもっていなかったのが残念である。
あるいは、すでに場所が特定されているかもしれない。ぜひ建碑して下さい>中村武生さま

なお、新門前通には古美術店や骨董店がたくさんあり、独特の雰囲気のある通りである。
とても気に入った。また訪れてみたい。

東山三条にある某ユースホステルが坂本龍馬とお龍が結婚した場所だと、中村武生氏の著書『京都の江戸時代をあるく』(文理閣)で教えてもらっていたので行ってみる。
じつはそのすぐ近くにある明智光秀の首塚に行くついでだったが。首塚は何度も来ているのに、こんなに近場だったとは全然知らなかった。
首塚の近くの和菓子屋さんで、光秀饅頭をお土産用に買う。黒糖で作られた甘いあずき餡の饅頭です。

その後、円山公園の奧にある長楽寺に行く。
長楽寺






ここは水戸藩ゆかりのお寺で、安政の大獄の犠牲となった鵜飼吉左衛門・幸吉親子や、頼山陽・三樹三郎親子、また徳川慶喜の側近として知られる原市之進、慶喜の弟昭訓などの墓がある。
お寺の裏手にあり、足許のおぼつかない場所もあったが、ひととおり拝観した。
頼山陽






また、壇ノ浦のもくずと消えた安徳天皇の生母、建礼門院徳子が髪を下ろした場所でもあり、その供養塔(御髪塔とも仏舎利塔とも)もあった。
建礼門院






賑やかな円山公園のすぐ近くなのに、ほとんど訪れる人もいない。年末のせいもあるだろうが、静寂な空間を冷気と共に味わった。

長楽寺の近くにある安養寺も見学。
ここは法然が専修念仏を唱えた吉水草庵があったところ。法然の説法の人気が仇となり、法然もその弟子親鸞も配流されることになる。
その近くに料亭「左阿弥」があった。知る人ぞ知る料亭らしい。
門の横に何と、「織田頼長公居館」という石碑があった。
織田頼長といってもあまり知られていないだろうが、織田有楽斎の長男。豊臣秀頼の家臣だったが、大坂冬の陣では厭戦派の代表的人物。陣所に遊女を引き入れて騒いだため、真田信繁や後藤又兵衛から非難されている。夏の陣の直前に、父とともに大坂城から脱出してしまった。そんな人である。
その後、雲生寺と名乗り、茶人として過ごしたというが、こんなところに住んでいたとは知らなかった。
頼長






ほかにも、八坂の塔や庚申堂、高台寺塔頭圓徳院、西行庵・芭蕉堂などを回ったが、書き出せばキリがないので省略。これで、写真はバッチリである。


夜は、居酒屋「龍馬」で、旧知のみなさんと歓談。
独りでしゃべりすぎたようだ。反省。

翌日の伏見・薩摩藩邸跡建碑の除幕式は次に書きます。

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【2008/12/26 19:42】 | 日次記
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パークス遭難地の標石
中村武生
 このたびも建碑除幕式ではお世話になりました。

 僕もパークス遭難地に標石のないことをなげいてきた一人です。
「五箇条御誓文」誕生地でもあり、重要な場所と存じます。検討させていただきます。

 が、建碑が幕末ばかりに偏ることを気にしていますし、「西郷隆盛・有馬新七定宿跡」標石も捨てがたい。
 悩みます。

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建碑の件
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

わざわざコメント有難うございます。
建碑は費用もかかりますし、優先順位もあるでしょう。
長い目で見ることにします。

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日曜の夜の書き込みから解放されて、拍子抜けしたというか、一抹の寂しさを抱くというか……。

最近、少し時間が出来たので、話題の大作「レッドクリフ」を観てきました。
美周郎」こと、周公瑾(周瑜)が主人公。
かつて、そんな小説を書いたことがあったなと感慨深いです(笑)。

善と悪が転化し合い、むしろ悪花が魅力タップリの三国志世界は、単純な勧善懲悪のハリウッド映画とはなじまないのではないかなと思いましたが、さすがジョン・ウー。破綻しないよう、懸命にまとめておりました。
その剛腕はとくに戦闘シーンで発揮されたように思います。
ただし、長すぎないかなとも感じました。「せきへき」ならぬ「へきえき」の戦いの危険も。
長江を下る曹操の大艦隊は圧巻です。これだけでも観る値打ちがあるかも。

一番得をしたというか、格好よかったのは、趙雲子龍だと感じました。
とくに劉備の子、阿斗を助けるシーンは最高ですね。

どうでもいいことですが、主な配役は中国人(モンゴル人も)なのに、妙な既視感がありました。
何となく、日本人の役者に似ている人がいたような。
たとえば、

曹操 → 志村 喬
関羽 → 片岡知恵蔵
劉備 → 峰岸 徹
魯粛 → 光石 研
尚香 → 菅野美穂  *孫権の妹

主なキャストはここです。顔写真付いてます。

個人的に印象に残っているシーンは、周公瑾が少年の吹く笛の音を聴き、音程がかすかに乱れているのを感じ取り、小刀で笛の調整をしてあげるところです。
曲を間違えれば、周郎が振り返る」という三国志の有名な逸話を別の形で表現していて興味深かったです。
もしかして、周公瑾は絶対音感の持ち主だったのか?

決戦前夜で終わってしまいましたが、パート2も楽しみです。

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【2008/12/23 00:27】 | 雑記
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ぶるぼん
趙雲の激しいアクションに阿斗が窒息死しないかとハラハラドキドキでした。
先生の『三国志』新作も期待しています。

趙雲
桐野作人
ぶるぼんさん、こんばんは。

ご覧になりましたか。趙雲の活躍は超人的でしたね。
個人的にも、趙雲には思い入れがあります。ほかには馬超でしょうか。彼も小説で取り上げたことがありました(笑)。

私も、三国志はすっかりご無沙汰してますね。


メリーX'mas
みらん
桐野さん、こんにちは☆

私も11月に見て来ましたよ。そして今必死に三国志を読んでます(^_^;)
趙雲の俳優さんは胡軍(フージュン)ですね!天龍八部という面白い武侠ドラマに出てました。
最近中国古装(時代劇)ドラマにハマってる隊長でしたf^_^;
良いお年を…

中国古装
桐野作人
みらん隊長、こんばんは。

隊長も「レッドクリフ」観ましたか。
趙雲を演じた役者さん、ちょっとユニークな顔をしていますね。失礼ながら、兵馬俑の兵士の顔を思い出してしまいました(爆)。

中国の時代劇は「中国古装」って呼ばれているんですか。
台湾や香港ではなく、本土のほうの作品ですか?

私は毎週、「黄真伊」に涙しているところです。

古装
みらん
はい、中華では時代もののドラマや映画を古装と呼んでます。
ハマってるのは本土(大陸)の電視劇です(^_^;)。
MXで放送中の三国志も見てますよ~。
今は孫権の妹役のヴィッキー・チャオの『環珠姫』を見てます。

桐野さんは相変わらず韓流なんですね~♪

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第89回
―外交に八面六臂の活躍―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回も前回に引きつづいて小松帯刀のことを書きました。
あまり知られていない明治時代の足跡についてです。
記事にも書きましたが、小松は外交畑で活躍しています。
頻発する外国人殺傷事件の処理に東奔西走しながら、諸外国との交渉をきっちりやっております。
五代友厚・松木弘安(寺島宗則)・伊藤博文・大隈重信といった有能な配下にも恵まれていたからでしょう。

慶応4年=明治元年といえば、一般に戊辰戦争(北越戦争、会津戦争を中心に)のイメージが強く、新政府側でもそれに関わった武官(西郷隆盛・大村益次郎・板垣退助など)のほうが注目を浴びがちですが、新政府を立ち上げる仕事はむしろ、外交・行政面が重要でした。

そのなかで、小松は外交面をほとんど一手に引き受けていたといっても過言ではありません。これは一番の友好国である英国(パークス、サトウなど)との人脈の強さに与っている面もありますが、小松の交渉能力の高さを評価すべきでしょうね。

小松の役職の一覧を掲げましたが、このうち、玄蕃頭の位置づけが難しいですね。明らかに律令官制に基づく官職ですから。
慶応4年(1868)2月、「三職八局」の制ができました。小松が就任した参与と総裁局顧問は、それぞれ三職と八局のひとつです。

その後、同年閏4月の政体書により、太政官制度が始まります。このとき、立法・行法(行政)・司法の三権が成立しました。
このうち、行法を管轄する行政官の下に、神祇官・会計官・軍務官・外国官・民部官が設けられ、小松は外国官の副知官事(次官)に任命されます。知官事や副知官事は公家や大名が任命されるのが原則でしたが、藩士身分で初めて任命されたのが小松です。この異例の人事については次回連載で書こうと思っています。

外国官はのちの外務省の前身になりますが、小松はその副知官事への任命と同時に、玄蕃頭に任ぜられました。「薩藩小松帯刀履歴」には、小松を玄蕃頭に任ずる宣旨が収録されています。

王政復古により、古代律令制の太政官が復活したわけですが、それは名称は同じでも、中味は古代のままではもちろんありえませんでした。
しかし、小松の玄蕃頭任官は明らかに官職であり、副知官事の役職に屋上屋を重ねるようなものですね。
この時期、このような古色蒼然たる律令官職を与えられた人は小松のほかにいるんでしょうか?
翌2年に弾正台(これも律令官制)が設けられ、たとえば、海江田信義はその三等官である弾正大忠に任ぜられていますが、小松の玄蕃頭とは少し趣が異なるような気がしています。
なぜなら、弾正台と対応する玄蕃寮は設けられていないからです。玄蕃頭は本来、律令制における玄蕃寮の長官ですが、小松の玄蕃頭は、創設されていない玄蕃寮とは無関係に存在する官職だと思われます。

そうなると、小松の玄蕃頭は役職の如何にかかわらず、永久称号のようにも見えます。
果たして、特殊な事例なのでしょうか。自分でも回答が見つけられずにおります。明治草創期の太政官制度にはまったく疎いもので、もしご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

次回は、小松の外国官副知官事就任と大隈重信について書く予定です。

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【2008/12/20 11:16】 | さつま人国誌
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明治の小松さん
よこよこ
桐野さん、こんばんは。
明治の小松さんのことは、なかなか詳しい書物が無いので、とても嬉しいです。
「さつま人国誌」も拝見いたしました。
次回も引き続き小松さんのことの様なので、とても楽しみです。
NHKの大河も「天地人」へまっしぐらの様子。
ちょっと寂しいですが・・・
私の中では、これからも薩摩の事を見ていたい気持ちでいっぱいです。
来年も是非、鹿児島へ行きたいと思っております。
今年は時間の関係で、少ししか廻れませんでしたから。

これからも、桐野さんのプログ楽しみにしております。
そして、また時間が折り合えば、講演会の方へもお邪魔したいと思います。

PS.遅ればせながら、50万アクセスおめでとうございます。

玄蕃頭
板倉丈浩
こんにちは。
今年一年お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。

さて、私も明治草創期の太政官制度には詳しいわけではないのですが、新政府発足後も明治2年7月の職員令制定までは律令官制が残存しており、岩倉が右兵衛督になったり、鍋島直大が左近衛権少将になったりしていますから、小松の玄蕃頭も旧官制での任官と見るのが妥当だと思います。
ただこの時期、藩士クラスの旧官制での(叙位はともかく)任官は管見の限り他に例がありませんので、異例中の異例だったことは間違いありません。

その背景ですが、明治元年閏4月の政体書公布に伴い、藩士出身の参与9人(小松、大久保、木戸、広沢、後藤、福岡、副島、三岡、横井)に従四位下が授けられていますが、小松は彼ら新政府の中心メンバーの中でも一段身分が高いので、外国官副知官事任命にあたって諸侯に準ずる扱いを受けたということなのではないでしょうか。

諸大夫成か公家成か
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

さっそくのご教示有難うございます。

なるほど、玄蕃頭が従四位下・外国官副知官事とセットになっているのがよくわかりました。
副知官事は本来、公家か大名の役職で、家老とはいえ、陪臣の小松が任ぜられるのは異例なこと。

仰せのように、小松は諸侯に準じたというか、諸侯扱いされたわけですね。それなら、諸侯にふさわしく、通称官途を帯びる。それが玄蕃頭だというわけですか。
小松に与えられた玄蕃頭の宣旨は、諸侯に与えられる官位文書と様式が同じだと思います。

小松の場合、諸大夫成か、公家成か、微妙なところですね。
位階は従四位下ですから、公家成(四位以上、侍従以上)のようでもあり、武家官位(侍従や少将など)が伴っていないので、もしかしたら、近世武家官位制でいう「四品」(四位の諸大夫)かもしれず。

どちらにしろ、謎がかなり解けたような気がします。
有難うございます。

なお、鍋島直大の近衛左少将は、国持外様にふさわしい公家成の武家官位で、江戸時代のそれを引きずっているのではありますまいか?


ありがとうございます
桐野作人
よこよこさん、こんにちは。

今年は講座に参加され、鹿児島での講演会にもわざわざご出席いただき、有難うございました。

小松に関しては、まだまだこだわっていきたいと思っております。
今後ともブログなど、よろしくお願いします。

維新前後の身分制度
板倉丈浩
こんばんは。

>諸大夫成か、公家成か

小松ら従四位下参与は昇殿が許されていますので公家成と同じ扱いなんですけど、ご指摘のとおり、国持大名とは官途名で差をつけているようにも見えますね。

あと、先のコメントへの補足ですが、小松以外にも陪臣の任官例はあるようです↓
http://www1.doshisha.ac.jp/~takusemi/nishitaku/study/jinkai/0110kenkyukai.htm
ただし、長岡護美は藩主の弟で、青木研蔵と伊東方成は医者ですから、やはり小松の任官が異例ということは言えると思います。

公家成
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

再度のご教示、感謝です。
ご紹介のサイト見てみました。
それによれば、陪臣で任官した人が3人かいるようですね。もっとも、小松以外の2人は公家成はおろか、諸大夫成でもないと思います。そうであれば、小松の事例はやはり特殊ですね。
しかも、御車寄の特権を与えられ、昇殿も許されたとなると、明らかに公家成ですね。
それが四位以上の位階を標識にしているとすれば、西郷・大久保らも同様だったということになりそうです。もっとも、最初が小松で、そののち、西郷・大久保でしょう。

なお、藩主島津忠義も慶応四年に四位に叙せられていますから、小松は位階の上では、藩主並みになったわけですね。恐れ多いと辞退したくなるのもわかります(笑)。

前回のコメントをヒントにさせていただき、連載コラムに少し書きました。ご教示有難うございました。


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本日、アクセスが50万件を突破したようです。

ブログを始めたのが、一昨年の11月13日でしたから、25カ月で到達しました。
1カ月平均2万アクセスという計算になります.
最近はペースが上がっており、1日に3.000件以上のアクセスがあったりします。
今年はとくに大河ドラマ「篤姫」様々でした(笑)。

アクセス数を目的にしているわけではないのですが、それでも、感慨深いものがあります。
これからも、読んでよかったと思われる内容が書ければと念じております。
改めてみなさんに感謝します。

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【2008/12/17 23:20】 | 信長
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おめでとうございます。
NAO4@吟遊詩人
50万アクセスおめでとうございます。
篤姫ブームがあったとはいえ、やはり桐野先生のブログの質の高さが評価されたのではないでしょうか。

今後のご活躍も祈っております。

素晴しい^^
シラオ
50万突破!おめでとうございます。
私も前出の方同様ブログ内容の良さと思います。
本当にこのブログは勉強になります。私のような歴史初心者?にとっては、ありがたい場所です。(無料で見れるし^^)
例えば、私の程度では「近衛家」に関しても、幕末で聞いて、明智の頃にも出てきて、何?この家(近衛家?)ってな感じのやつが多いのですが^^
先生のブログは、様々に点と点がつなっがっていくようで楽しみです・・・「なるほど!」っていう理解のしやすさが魅力です。。

今後とも素人ファンも宜しくご指導くださいませ。

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80年も前の事
寛永寺卒園でこ
あの寛永寺に重要なお墓が有るのを知ったのは、TVですが興味を持つ様になれたのは
桐野さんの お蔭です お墓でもカクレンボをしたり、花祭りのお釈迦様の歌も甘茶も
忘れません 50万通が出発点で続けて下さい 勉強をしたいです  弥栄

ありがとうございます。
桐野作人
みなさま

いろいろな形での祝辞有難うございます。
皆さんによって支えられていると感じた次第です。
今後ともよろしくお願いします。


ゆき
はじめまして。ゆき と 申します。

「さつま人国誌」、楽しく読ませていただいています。
ただ、こちらのブログは今日初めて知りました。
もっと早くにお邪魔していれば、と思いますが
これからこちらも楽しみに読ませていただきます。

本当に興味深いことばかりで勉強になります。


南西諸島史料集
桐野作人
ゆきさん、はじめまして。

ご挨拶、痛み入ります。

ゆきさんのブログも拝見しました。
以前、たまたま拝見させていただいた記憶があります。
表題の史料集、私も予約しております。
来年は、名越左源太の「南島雑話」など、奄美など島嶼部も、連載で取り上げてみたいなと思っております。
いろいろ教えて下さいませ。

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一昨14日、吉良邸討ち入りの日だったが、表題の史跡ツアーの講師をつとめた。

京王電鉄広報部主催の「京王文化探訪」企画の一環で、小生には今年で5回目のツアーである。鹿児島と京都のほか、幕末江戸ツアーを南北に分けて2回行ってきたが、好評のため、10月の北方面ツアーを再挙行となった次第。

折からの冷たい雨。
このツアーでは一度も雨に降られたことはなかったが、今回そのジンクスが破れる。
「島津雨」で縁起がよいと初めは言っていたが、雨はやまず底冷え激しく、「島津雨も程度がある」と愚痴をこぼしたら、大笑いされた。
ちなみに、「島津雨」とは、島津家の祖、忠久出生の伝承にちなんでいます。
源頼朝の側室とされる丹後局が北条政子に迫害されて大坂の住吉大社に逃れました。忠久が生まれますが、突如大雨となり、まっ暗になったとき、住吉大社の狐が現れて明るくしたために無事に出産できたというもので、島津家にとって雨は縁起がよいと言い伝えられてきました。
もちろん、忠久出生の逸話は伝承であり、史実とは認めがたいです。

まず千住の小塚原回向院に行く。
安政の大獄関係者、桜田門外の変関係者の墓標を拝観。
ほかにも、鼠小僧や高橋お伝の墓、解体新書成立のきっかけとなった杉田玄白・前野良沢らの腑分けのレリーフなども見学した。

次に、すぐ近くの円通寺に行く。
ここは上野寛永寺の黒門が移築されていることで有名。
修復してあるが、弾痕がたくさん残っており、往時の上野戦争の激戦のさまが察せられた。
黒門の裏手に、彰義隊の墓(戦死之墓)や「死節之墓」を拝観し、彰義隊の首領天野八郎はじめ、榎本武揚・松平太郎・永井尚志・荒井郁之助・大鳥圭介・沢太郎左衛門・高松凌雲・新門辰五郎の供養墓も見た。

その後、谷中に移動して、山岡鉄舟の菩提寺である全生庵を見学し、谷中墓地に行き、徳川慶喜の墓を拝観。ほかには、討ち入りにちなんで、長谷川一夫の墓を見たり、高橋お伝・川上音次郎・雲井龍雄・大原重徳らの墓も見学した。

昼食は、池之端の水月ホテルにある鴎外荘で。
名前のとおり、文豪森鴎外の邸宅である。鴎外はここで「舞姫」を執筆したそうである。
鴎外




午後から雨が小降りになり、ほどなくやんだ。
上野の山に行き、西郷隆盛銅像彰義隊の墓を見学。
さらに、東照宮に行く。もともと伊勢の藤堂家の屋敷に造営されたことや東照大権現の成立を説明。境内の石灯籠が三代将軍家光の本殿再興のときに建立されたことを確認しながら、その配列に幕藩体制の家格秩序が表されていることなども合わせて説明。
その後、鳥取池田家の江戸上屋敷を見学。池田家の成り立ちや、幕末の藩主池田慶徳は徳川慶喜の次兄だったことなどを説明。有力大名の江戸藩邸正門の威容が今日まで残されたことの意義を強調した。
前回のブログでも書いたように、この門が「篤姫」の最終回で、徳川家の屋敷の門として登場したと思われます。

池之端には、旧岩崎邸があります。
三菱を興した岩崎弥太郎の子、久弥が明治中期に立てた洋館です。東京国立博物館や鹿鳴館などを設計したコンドルの手になるもので、瀟洒という言葉がぴったりです。一般公開されたのは近年のことなので、お勧めです。再来年の大河ドラマは岩崎弥太郎の視点から描くそうですから、ここも注目を浴びるかも知れません。
ここは、江戸時代、越後高田の榊原家の下屋敷でしたが、明治になって、桐野利秋の邸宅になったことでも知られています。桐野が陸軍少将になって購入したもので、18.000坪の広大な敷地だったとか。もっとも、桐野は征韓論で下野して鹿児島に帰ったので、ここに住んだのは2年足らずでした。
岩崎邸




最後は浜離宮に行きました。
江戸時代は浜御殿と呼ばれ、将軍家の別荘兼御狩場でした。
勝海舟の『海舟余波』に、ここで将軍家茂、天璋院、和宮が遊んだ逸話が載せられています。
茶屋の敷石に将軍家茂の草履だけがなぜか一番下にあったのを、和宮が上に直したので、大奥の女性たちの和宮を見る目が変わってきたというもの。
江戸切絵図を見ると、浜御殿には2つの茶屋があります。ひとつは池の真ん中にある中島と、池の東のほとりにある松御茶屋です。
参加者に、このうちのどちらかの敷石が海舟の逸話のものではないかと説明。松御茶屋は建物は現存しませんが、礎石はきちんと残っています。そして敷石もちゃんとありました。
でも、池に浮かぶ中島の茶屋のほうが可能性が高そうという話をしました。
最後に、鳥羽伏見の戦いで負けた徳川慶喜が江戸へ逃げ帰って最初に上陸した「御上り段」を見学しました。これも江戸切絵図にちゃんと記載されています。
浜離宮




予定よりやや早く全行程を終了した。
その後、新宿西口まで戻り、友人の研究者たちがやっていた報告会の2次会に出席。
じつはダブルブッキングしていて、報告会には出られなかった。せめて2次会に出て、みなさんにおわび。
レジュメをいただいたが、いろいろ興味深い報告会だったようである。ちゃんと聴けなかったのが残念である。

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【2008/12/16 21:43】 | イベント
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和宮と家茂の草履
ばんない
こんにちは。
雨で大変なツアーになったようですね。

ところで文中でも取り上げられた有名な「和宮が先に庭に飛び降り家茂の草履の位置を直した」というエピソードなのですが、このエピソードは勝の創作(もしくは法螺)という説があるようなのです。たしかこの本に載っていた説です。
 『大江戸の姫さま』(角川選書)関口すみ子著
但し関口氏は日本史研究が専門ではなかったと記憶しています。

ところで、桐野利秋は東京では豪邸に暮らしていたんですね。どうも『翔ぶが如く』のせいか、ずっと西郷のボロ屋敷(苦笑)に居着いているイメージが強かったので、ちょっと予想外でした。

創作?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

浜御殿の敷石の話、勝の創作ですか。
あちゃー。
たしかに勝はホラ吹きですから、ウラをとるべきだったかも。といっても、とりようがないですけどね。

どうなんでしょうね?
ばんない
確かに裏が取りようがないんですよね。だって勝が「当人から聞いた話だ」といったら、天璋院も静寛院宮も当事者は皆あの世の人、さらに勝は伯爵様、聞き手は「はいそうですね」としか言いようがないのですから(苦笑)

関口氏の本では「江戸時代の最高位の姫君がこういう行動をとる事はあり得ず、勝が創作したに違いない」というような内容のことを書いてられた(様な記憶)のですが…この書き方では、「勝のはなし=ホラ」説も、あくまで関口氏個人の推測に過ぎないと考えられます。うーむ。

ところで。
勝ってやはりほら吹きだったんですか?(爆)

勝はホラ吹き?
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

関口さんの主張もはっきりした根拠があるわけではなさそうですね。
和宮が縁からピョンと飛び下りたのははしたない行為で、皇女や御台所がやるはずがない → だから、勝のホラだという理屈のようですね。

ただ、ピョンと飛び下りたというは勝の作り話でも、静かに下りた和宮がそっと草履を直したということはありえそうで、必ずしもホラとは限りませんね。

敷石クイズを出した立場から、勝を少し擁護したくもなります。

勝の場合、「氷川清話」などを読んでいますと、西郷への賛美が過剰ですよね。あれって、本当は西郷を褒めるというより、そのえらい西郷とサシで江戸開城を決めたのは自分だ、自分も西郷並みにえらいと、自分の名声を拡げるのが目的なんじゃないかという気もします(笑)。
そういうのって、ホラじゃなくて、自己顕示欲ですかね?


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NHK大河ドラマ「篤姫」第50回「一本の道」

いよいよ最終回となりました。
昨夜、観られなかったので、遅ればせながら、本日鑑賞。

明治になってからの篤姫を描いたためか、すでに「総集編」的な趣きになっていたように感じました。

小松帯刀の死の様子については、私も一昨日、書いておりますので、前回分をご覧下さい。
ドラマでは「足痛」が強調されていましたが、今回は病床の小松が初めて吐血して、看病するお琴を驚かせたシーンがありました。
明言はしていませんでしたが、明らかに肺結核とおぼしき症状でしたから、同説を唱えた小生としては満足です。

ひとつ気になったというか、なるほどなと思ったのは、小松が病死した場所です。
外国人の医師が小松を治療していました。テロップは出ませんでしたが、おそらくオランダ人医師で小松の主治医だったボードウィンを想定しているのでしょうね。小松がボードウィンの治療を受けている様子はここに書いています。
ボードウィンは大坂医学校を設立して、医者の育成にあたりましたが、小松はそこに入院しているという設定でした。

私も同所に入院してそこで亡くなったというのも有力だと思うのですが、それを裏づける史料がないように思います。
一方、小松が亡くなる8カ月ほど前、大久保利通に宛てて病状を知らせた書簡のなかで、「八畳の床の中で大弱りです」と書いています。これはどうも日本間風に思えるので、小松はお琴の居宅で療養していたのではないかと推定しました。

もっとも、病状が重くなってから、設備のととのった大阪医学校に移った可能性は否定しません。

あと、鹿児島のお近が上坂して、お琴と一緒に看病にあたっていました。
これは史実です。ただし、上坂してきたのはお近だけではありません。
薩摩藩大坂留守居役だった木場伝内が大久保利通に宛てた書簡があります(『大久保利通関係文書』三)。これは7月2日付で、同書の編者は明治2年(1869)に比定していますが、小松が鹿児島から大坂に向かったのは同年7月5日頃ですので、この書簡は同3年とすべきでしょう。

となりますと、小松が亡くなる直前に、お近たちは見舞いにやってきたことになります。
それによれば、小松の病状は一進一退で、小松の体は「いらさ竹にぬれ紙かぶせた様にて、誠に見るに忍びざる御ありさま、気の毒の事」というものです。竹のように痩せ細って、皮膚がたるんでいるような状態だったのでしょう。

この頃、すでにお近たちが小松の所に駆けつけています。
お近のほか、次兄相良長発、弟の吉利群吉、養子の小松右近(町田申四郎改め)、そして「母堂」(肝付家の実母か)などが来ています。
それだけでなく、家来など6、70人も同行していたため、その生活費や諸経費だけで一日「四拾金」(40両)かかるありさまで、「会計大いに難渋」したそうです。さすがに薩摩藩の元家老、兄弟たちも門閥家当主ですから、何かと大所帯で物入りだったようです。

当然、お近はお琴や一子安千代(のち清直)にも会ったでしょう。


次に、天璋院関係ですが、再び江戸に戻ってきた和宮と、勝海舟に連れられて、芝居見物に行ったシーンで、天璋院と和宮がお給仕でシャモジの取り合いをしたシーンがありました。
これは勝の回想録である『海舟余波』に載っていますが、場所と状況の設定が少し違います。

「後に私の家に御一処にいらした時に、配膳が出てから、両方でお上りなさらん。大変だと言って、女が来て困るから、『どうした』と言うと、両方でお給仕をしようとして睨みあいだというのサ。それで、私が出て行って、『アナタ方はどういうものです』というと、互に、『私がお給仕をします筈です、それにアナタからなさろうとなさいますから』と言うのサ。私は笑うてネ、『なんです、そンな事ッてすか、それならば良い事があります』と言ってネ、お櫃を二つ出させて、一つ宛(づつ)、側に置いて、『サ、天璋院さまのは、和宮さまがなさいまし、和宮さまのは、天璋院さまがなさいまし、これで喧嘩はありますまい』と言って笑ったらネ、「安芳は利口ものです」と言って、大笑になったよ。それから、帰りには、一つ馬車で帰られたが、その後は、大変な仲よしサ。何事でも、互いに相談で、万事、一つだったよ」

芝居見物の帰りかどうかはわかりませんが、勝の屋敷での出来事のようです。
またドラマでは、勝の機転でシャモジをもう1本もってこさせましたが、これでは、お櫃を2つ用意させて、それぞれがお櫃をそばに置いてお互いに給仕するという形になっていますね。
細かいことをいえば、ドラマでは人力車でしたが、勝は馬車だと語っています。

個人的には、天璋院が勝のためにシャツを縫ってあげたという逸話も取り上げてほしかったです。しかも、ミシンで縫っていたらなおよかったですが……。

ついでに、天璋院が静寛院宮の終焉の地、箱根塔ノ沢を訪れる場面もほしかったですね。2人の関係を偲ばせ、天璋院の静寛院宮への思いも伝わります。さらに欲ばれば、天璋院のこの旅日記によれば、新橋から横浜まで汽車を利用しています。
将軍御台所だった天璋院が汽車に乗る場面など、明治という新時代を彷彿とさせるのではないかと思いますが、予算の関係で無理だったのではないかと臆測します。

ドラマの冒頭と途中の2回、千駄ヶ谷の徳川家の屋敷の門が出てきました。
あれは上野の東京国立博物館横に建っている鳥取池田家の上屋敷門ではなかったでしょうか。
じつは、昨日、篤姫の幕末江戸ツアーの講師をして、その門を見学して説明したばかりでした。
知っていたら、参加者のみなさんに、最終回に登場しますよと伝えられたのに残念です。
もし、昨日の参加者でこのブログを見ている方がおいでしたら、あの門ですよと書いておきます。

最後に、大久保利通のヒゲ、カイゼル髭っていうんですかね?
岩倉使節団で洋行する前から、あのヒゲにしていましたが、どうでしょうか。
あのヒゲになったのは帰国後じゃないかという気がしますが。

ともあれ、1年間「篤姫」のおっかけをやってきました。
この感想は1度だけパスしたことがありますが、ほとんど毎回書いたのではないかと思います。
途中でよほど止めようかと思いましたが、日曜日の夜と月曜日にものすごいアクセス数が記録されるのを見て、みなさんの期待を裏切るわけにはいかないなと思い、何とか完走しました。
それもこれも、このブログをご覧になって下さったみなさんのおかげです。

来年の大河はどうしようかなあ……。

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【2008/12/15 20:53】 | 篤姫
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中村武生
いやいや。おつかれさまでした。たいへん勉強させていただきました。来年もどうかお願いいたしたいところです。


ぶるぼん
先生、1年間お疲れさまでした。僕のほうも今年最後のトラックバックを貼らせていただき、無事50回完走いたしました。先生の情報を参考にさせていただいたことしばしで、ほとんど関心のない当会のブログへのアクセス増にも貢献していただきありがとうございます。
 やはり先生の批評はドラマを観る上で大変参考になりますので、できれば来年の大河ドラマ『天地人』も続けてほしいです。これは僕だけでなく、読者すべてが求めていますので。僕のほうも不勉強ながら、スタンプを交えて展開していきたいと思います。

お疲れ様でした
Holy
毎回本編放映後、こちらの記事更新で補足説明(あるいは本来の史実)を読ませて頂き、お勉強させてもらえたのがドラマ以上に楽しみでした。
岩倉具視旧宅隣の対岳文庫にかかっていた岩倉使節団一行の写真の大久保甲東閣下は、ヒゲなかったですよね(笑)。私はあれはビスマルクに感化されたヒゲだと思ってたので、ドラマで維新後いきなりアレでしたからうろたえました。「新政府の大久保」としてわかり易く変身させたんでしょう。
お琴が小松の好物のお肉を買いに行っていたくだりも、桐野さんの記事を読んでいた身としては成程と思わせられました。
来年の妻夫木直江と北村景勝の物語も是非解説お願いします。特に序盤、阿部謙信は素敵そうですよ…。

ありがとうございました
もん吉
このドラマが始まってここを知り、それからは毎日アップされるのを楽しみに拝見しておりました。
ドラマだけではどこまで本当のことか創作なのかよくわからず
桐野さんの説明を読んでなるほどと思ったことが数知れず。
今まで流していた部分にも興味を持ちまたいろんな書物を読み日本の歴史も学び直したいと思う今日この頃です。
本当にありがとうございました。


不謹慎にも
NAO4@吟遊詩人
小松帯刀が吐血したシーンで、「やった。桐野先生おめでとう。」と思ってしまいました。ここは、泣くシーンですよね。
帯刀様祟らないでね。ご冥福をお祈りします。

桐野先生、この1年(私は途中からですが)ありがとうございました。信長の方も期待しております。

お疲れ様でした
シラオ
妻がTV見る横で、先生から得た知識をひけらかすのが、
私の「篤姫」鑑賞の醍醐味でした^^
しゃもじ出た瞬間!「これは事実だよ^^」とか・・・。
楽しませて頂きました。
そして今日、種明かしを告げて先生のブログを妻のパソコンのお気に入りにも設定しました。
一年分振り返ることでしょう^^
本当にありがとうございました。これからも楽しみにしております。

ありがとうございます
桐野作人
みなさま

励ましの言葉をいただき、有難うございます。
少しはお役に立ったようで、私もやり甲斐があったなと感じています。

来年の大河については、私より詳しい方がリンク先にもいらっしゃいますので、できるだけといいますか、私の守備範囲内でやっていきたいと思います。

たっぷりの休息を!
でこ
有難う御座いました 何回お礼を云ってもたりませんこれからも、お体にご無理が 有りません様にお願い致します
又 榎本さんの中村 半次郎に期待をして居ります ご成功を
祈ります 風邪の予防注射は済みまして?是非済ませて下さい

おつかれさまでした
ばんない
当方2回目で挫折したので、以後はこちらのブログを経由して「観賞」?させていただいておりました。完走された桐野さんの忍耐には感服します。

お仕事もご多忙のご様子、また、リンク先の方の守備範囲となれば、来年は視聴率とにらめっこしながら(苦笑)適当でよろしいんじゃないでしょうか。重ね重ねお疲れさまでした。

徳川家屋敷門
御座候
>あれは上野の東京国立博物館横に建っている鳥取池田家の上屋敷門ではなかったでしょうか。

何か見覚えがある門だと思ったのですが、東博正門横のアレですか。なるほど。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第88回
―「日本の柱」、安らかに逝く―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたらご覧になれます。

今回は、明日が大河ドラマの最終回ということで、それに先んじて、小松帯刀の最期の様子を紹介しました。
小松は大坂で亡くなり、同じく同地の夕陽ヶ丘墓地に葬られました。のちに鹿児島の郷里吉利に改葬されたため、同地には墓が現存しておりませんが、葬儀が神式で行われたそうですから、墓も神式だったのではないかと思います。

小松の初葬地はほぼ特定されており、小松の墓が改葬されたのち、外務大臣を務めた陸奥宗光の墓がほぼ同じ場所に立てられました(陸奥の墓ものち移転)。陸奥は海援隊の時代、長崎で小松の世話になり、その家来といってもよい存在でした。

小松の死因に関しては、「足痛」が強調されていますが、小松の同僚だった家老桂久武が「御肺病」つまり、肺結核だと書いていますから、かなり確度の高い情報だと思います。これについては、以前々連載の中で書いたことがあります。ここです。
ドラマで、小松の死因はどのように描かれるのでしょうか。

なお、明治初年、外国事務局で、小松に抜擢された大隈重信は、のちに小松のことを回想し、藩閥にとらわれずに人材を登用した小松の公正さを絶讃するとともに、小松の病名を「腎臓病」だったと証言しています。大隈も小松の最晩年にそば近くにいた人だけに、この証言も無視できません。

個人的には、小松と公私にわたって親しかった桂久武の書簡に信がおけると思っていますが、まだ検討の余地があるかも知れません。


大河ドラマは明日が最終回ですが、仕事その他で見られそうもありません(泣)。

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【2008/12/13 12:53】 | さつま人国誌
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ありがとうございました。
よこよこ
桐野さま、ご無沙汰しております。
書き込みは久々となりますが、コメントの方は毎回読ませて頂いておりました。

それにしても、1年というのは意外と早く過ぎてしまうものなのですね。
大河ドラマ『篤姫』を切っ掛けに小松帯刀を知り、ここまで嵌ってしまうとは、思ってもいませんでした。

もちろん、小松帯刀と言う人物、司馬遼太郎さんの作品で何度か目にもしましたし、他の書物でも目にしましたが、こんなに功績を残した人とは。。。
自称歴史好きな私としましては、本当に深くの至りです。

私は、もっともっと小松さんの事を知りたいと思っております。
中々時間は取れませんが、また桐野さんのお話を聴きに伺いたいと思います。
その時は、どうぞ宜しくお願い致します。

そして、また鹿児島へも行きたいと思っております。
鹿児島の友人と約束もしてきました。
今度は家族と一緒に行きたいものです。




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表題のイベント館がドラマ、入場者ともに好評につき、展示が延長されることになったとか。
展示期間は来年3月31日(火)までだそうです。詳しくはここ

それで、展示も新たな企画が並ぶそうで、じつは私の書いたものも展示してもらうことになりました。

新発見! 「篤姫」の真実

というコーナーだそうですが、私が南日本新聞に連載している「さつま人国誌」のなかから、「篤姫とミシン」と題して書いたコラムを展示してくれるそうです。記事はここです。

同コーナーには、篤姫が当時使ったのと同型のミシンをブラザー工業の協力により展示するそうです。このミシンはどんなものなのか、小さな写真でしか見たことがなかったので、実際に見られるのが楽しみです。

じつは、同館はまだ一度も訪れたことがなかったので、これを機会に見学してみたいと思います。
鹿児島の方や鹿児島を訪れる方ものぞいてみて下さい。

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【2008/12/12 22:42】 | イベント
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篤姫は
へいぞー
裁縫が得意だったとのことで…。
後年、勝の着物も縫っていたようで、なんとも微笑ましいですね。

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昨夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

幕末薩摩藩と小松帯刀」シリーズ4もいよいよ最終回(第5回)となった。
前回、将軍家茂の死について考えたが、その続きととして、同年に亡くなった孝明天皇の死を取り上げた。

孝明天皇の死について、毒殺説を唱える向きは、どちらかといえば、佐幕系の人々が多い。孝明天皇は一会桑勢力を信任してその後ろ盾になっていたから、その死は結果として薩長勢力を利した。だから、利益を得た薩長が怪しいという三段論法である。とくに、岩倉具視がその黒幕だとされることが多い。

そのような俗説だけではなく、戦後の学会においても、毒殺説と病死説が対立し、どちらかといえば、前者が優勢な時期があった。その代表であるねずまさし氏と、悪性疱瘡による病死説をとる原口清氏の説を比較検討した。

ねず説はもう50年以上前に公表されたものだから、叙述が粗っぽいように感じた。文久2年(1862)の和宮降嫁のときでも、岩倉には天皇暗殺未遂の前科があったとか、とても信じられそうもないことを書いているし、慶応2年(1866)段階で、討幕派が孝明天皇を毒殺したという結論も納得しがたい。すでに原口氏も批判しているが、同年に「討幕派」なるものは存在しないし、岩倉にしても、「王政復古派」ではあっても、同年に「討幕」など考えてもいない。
また、実際に毒殺を誰がどのようにして行ったかも漠然としていて、推測の域を出ないと感じられた。

一方、原口説は理路整然としている印象を受けた。
まず、天皇が疱瘡になったことは毒殺説の研究者も否定していないが、疱瘡を医学的に見れば、完治する良性と死に至る悪性の2種があり、原口氏は孝明天皇の症状が悪性の出血性膿疱性疱瘡の症状を示しているとして、この悪性疱瘡によって病死したと結論づけている。

今回は珍しく、疱瘡について詳しく書かれているウィルス感染症の医学書まで援用して検討した。
争点となっているのは、孝明天皇が疱瘡を発症した12月12日から順調に快癒に向かっていたのに、24日夜頃に病状が急変して重態に陥り、翌25日に死去したことをどう解するかという点である。
毒殺説は、快方に向かっていたのに病状が急変したのは毒を盛られたからだというわけである。
しかし、原口氏は快方に向かっていたとするのは主治医たちの政治的配慮による公式発表にすぎず、実際は悪質な疱瘡であるという認識を持っていたこと、またそれを裏づける中山慶子(明治天皇生母)の書簡や山科言成の日記などがあることをあげて、決して快方には向かっておらず、悪性疱瘡の進行症状を示しており、その結果としての死があったとしている。

原口氏はその後、毒殺説(とくに石井孝氏の急性砒素中毒説)に対して、医学者に孝明天皇の病状が書かれた史料を示して、砒素中毒とは考えられないこと、これらの症状は重症感染性の病気の末期症状に共通して現れるものだという証言を引き出している。

原口説で紹介された『孝明天皇紀』『中山忠能日記』などを検討し、また薩摩藩側の史料でも、孝明天皇の死を藩内に告知した「主上崩御藩内布告」のなかに、天皇の疱瘡が「表向は御軽目の筋」としていたが、実際は「全体初発より御難痘の御煩」だったとあり、原口説を裏づける記述があったのを確認。

全体的に原口説の優位は明らかで、病死説に軍配が上がるように思う。天皇の容態が急変したとされる以前に、疱瘡の症状が重かったことを示す史料が複数存在することから、容態急変という見方は必ずしも正確ではないという印象を受けた。
ただ、24日前後の症状について、もう少し詳しい史料があればよいのにと思ったが、こればかりはないものねだりだろう。

とくに、黒幕とされることが多い岩倉具視が孝明天皇の死を知ってどのような感慨を抱いたかについても本人の坂木静衛宛て書簡を紹介した。
「仰天驚愕、じつに言う所を知らず、天、皇国を亡ぼさんとするや、臣進退ここに極まり、血泣鳴號無量の極に至れり」
と書かれている。もし岩倉が黒幕なら、この悲嘆落胆ぶりはまっ赤な芝居になるわけだが、さすがにそれはないだろうと感じた。

今回のレジュメはじつに19枚の多数。
さて、これを時間内にこなしきれるかと思ったが、意外にも30分も時間が余ってしまい、少しあわてた。それで、孝明天皇の死去の政治的な背景について、雑談風に語ることにした。

原口氏は孝明天皇と岩倉具視の間に基本的な対立はないとするが、必ずしもそうではないかもしれないと話す。
とくに慶応2年の8・30列参運動は孝明天皇への圧力であり、岩倉が深く関わっていることは間違いない。そこには孝明天皇の一会桑への大政委任と、岩倉の王政復古論との立場の違いが表れているような気もすると話した。もっとも、だからといって、それゆえ毒殺したとするのは飛躍だとも話した。
また近年、仙波ひとみ氏が明らかにしているように、岩倉は近習番として若い頃から天皇の最側近だったわけで、そのような人物が忠誠を誓っている「主君」に対して毒殺しようと発想することはないだろうという話もした。
受講生からも、8・30列参は天皇に対してというより、一会桑を支える二条関白-尹宮(朝彦親王)排除が目的だったのではなかったかという指摘もあり、なるほどと思った。

そうした雑談が1時間も続き、受講生からも率直な意見や疑問が出されて、結局、30分も超過してしまった。

来年1月から、同シリーズ5を続けたいと思います。
今度はいよいよ激動の慶応3年に入りそうです。
関心のある方は参加してみませんか。
詳しくはここです。ただし、まだ新講座に更新されていません。

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【2008/12/10 20:01】 | てらこや
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説得力ございます。
NAO4@吟遊詩人
「ブログ」、「さつま人国誌」いつも楽しく拝見させていただいております。
私はずっと、「孝明天皇の死」は、(タイミングが良すぎるので)薩長の仕業(あるいは岩倉卿)と思っておりまして、説得力のあるご考察いただき、感心いたしております。

そういう意味で、岩倉具視の坂木静衛宛書簡というものは重要な意味を持っているように思えます。またしても、お恥ずかしい質問をしてしまうようで、申し訳ありません。この「坂木静衛」とは、どういう方なのでしょうか。かなり岩倉に近い人物であるほど、書簡の信憑性が高まるように思えまして。

坂木静衛
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

いつもブログを読んでいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、坂木静衛は坂木下枝(さかき・しずえ)と書かれることが多く、のちに原遊斎とも名乗っています。

国学の平田家の門人帳にも名前が見えることから、平田国学の徒であったと思われます。
『平田篤胤全集』別巻に「門人姓名録」として、坂木下枝こと原幽斎が立項されています。それを紹介しますと、

「名越舎門に入り、但し医学、三州刈谷藩士伊藤三弥、其の師松本謙三郎と大和一挙に加わり、半途脱走、原遊斎と変名し、伴野村なる竹村[松尾]多勢子の方に潜み、元治元年権田翁の許に来り入門、尋で(ついで)江川英竜の門に入り、岩倉具視卿の内執事となり、後改め坂木謙三、又改め伊藤謙吉、三重県代議士[同県書記官より後也]、懇親」

これによると、三河刈谷藩士で、伊藤三弥が本名のようです。
天誅組の挙兵に加わって脱走し、信州伊那郡伴野村の松尾多勢子のもとに隠れ、のち、その同志で平田門下の権田直助に入門し、江川坦庵にも入門(砲術を学んだのでしょうか)し、その後、岩倉具視の内執事をしています。

ですから、坂木静衛は岩倉の最側近ということになりますね。
岩倉のこの書簡は身近の側近に真情を吐露したと考えてよいかと思います。

ありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
>坂木静衛
お教えいただきありがとうございました。
とても私のような素人では到達し難い情報だと思います。
本当にありがとうございます。




内執事
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

前回コメントでご指摘のように、坂木静衛宛て書簡は、岩倉の孝明天皇の死に対する思いを表したものとして、そして岩倉の潔白を示すものとして、とても重要な史料だと思います。

内執事をどう表現したらいいかわかりませんでしたが、あえていえば、秘書役でしょうかね。
いずれにしろ、岩倉の政治活動を補佐する重要人物だったと思います。

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日次記です。

12月5日(金)小雨
夜、久しぶりに都内某所で開かれた「薩摩の会」に参加。
同会は加治木島津家の当主、島津義秀氏の上京に合わせて開催されている。
義秀氏には、10月、私の帰鹿に合わせて、鹿児島で初めての同会を開催していただいて、とても感謝している。

古文書講座「てらこや」の受講生もお三方参加されていた。
そして、今回もサプライズゲストが……。

大河ドラマ「篤姫」のテーマ音楽を担当している吉俣良氏。
そして、「篤姫」で肝付尚五郎の父親を演じた榎木孝明氏もふたたびおいでだった。お二人とも鹿児島出身である。

吉俣氏の話はなかなか興味深かった。
強調されていたのは、強く念じれば叶うということだった。
NHKでは朝の連ドラの音楽を担当していたが、大河ドラマの音楽はいわゆる大家先生が担当するのが慣例。そんななか、必ず大河ドラマの音楽をやりたいと思い、あちこちにその思いを話したら、実現したとか。
しかも、創作のため、鹿児島に長期滞在して曲想を錬ったそうで、今度の「篤姫」のために、じつに70曲以上作曲したとか。

そしてもちろん、吉俣氏のピアノの生演奏があり、「篤姫」のテーマ曲を弾いてもらった。
ドラマよりは力強いテイストだった。すごく贅沢な一時だった。
このブログでドラマのことをあれこれ書いているけど、音楽は申し分ないです。というか、ドラマにおける音楽の役割を改めて感じているくらいです。

榎木氏からも、桐野利秋をテーマにした映画「半次郎」の進行状況をじかにうかがうことができた。
この映画も楽しみである。映画化にあたって、少し注文を付けたのを覚えていていただいたようでもある。

今回は久しぶりに大警視川路利良のご子孫ともお会いできた。お元気そうで何よりだった。
最後に挨拶されたが、「半次郎」の映画化がうまくいくようにと激励されたのが印象的だった。
川路と桐野、ある意味宿敵同士といってもいいが、140年後、何となく歴史がひとまわりした感じである。

そして、この会の主催者である出版社のS社のMさん、Uさんにはいつもお世話になっていながら、なかなか恩返しできないでいる。でも、今度こそ何とかしたいし、できるんじゃないかと思っている。

楽しい一時が終わると、雨もやんでいた。

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【2008/12/09 00:37】 | イベント
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びわこ
桐野さん、こんにちは。

「篤姫」のテーマ、中2の娘が、部活(吹奏楽)で演奏してます。
うちの娘はホルンなんですけど、敬老の日に老人会で演奏したときも、とても喜ばれたとのこと。

あのテーマ曲のために作曲家の方が鹿児島に長期滞在して70曲以上も作曲した話をしたら、娘も驚いていました。
きっと、今まで以上に深みのある「篤姫」のテーマを聞かせてくれるだろうと思います。



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NHK大河ドラマ「篤姫」第49回「明治前夜の再会」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)4月から6月頃。

江戸開城の手続きはあっけなく済んでしまいました。
滝山以下、大奥の女性たちのその後については、私もよく知りませんし、関心もないので書きません。

やはり、今回はタイトルどおり、天璋院と小松帯刀の再会でしょうね。いうまでもありませんが、小松が天璋院に会ったとは到底思えませんので、この話はフィクションです。

ただ、小松がその時期、天璋院に会おうと思えば会えたのもたしかです。なぜなら、小松がその時期、江戸や横浜に出張してきていたからです。むしろ、ドラマはこの史実をもとに創作されたのでしょうね。

『小松帯刀伝』によれば、同年5月10日、外国事務局判事の小松は新政府から関東赴任を命じられ、6月4日に神戸発、10日に横浜に到着しています。

一方、『小松清廉手記』によれば、6月4日11時に飛脚船コスタリカ号で神戸を発し、翌5日6時に横浜に着いています。しかし、これはいかにも早すぎる感じがします。神戸から横浜まで30時間くらいで着いた計算になりますね。到着日は『小松帯刀伝』が妥当ではないかと思いますが、あるいは当時の飛脚船はそんなに速いのでしょうか? 私にはわかりかねます。

さて、小松が関東に出張した目的は何だったかです。
もちろん、天璋院に会うためではありません。公用です。
太政大臣の三条実美が輔相の岩倉具視に宛てた書簡(5月5日付)には、次のように書かれています。

「一、先だって申し達し候諸局より人選を以て東下の義、何とぞ急々御沙汰渇望奉り候、軍防局烏丸・長岡、諸局にては、大久保・木戸・後藤・小松・広沢のうち、両人ばかり下向、その外には誰にても宜しく候」

おそらく、江戸開城、上野戦争後、旧幕諸隊が脱走して宇都宮・白河方面に北上したため、新政府軍はこれを追撃することになったので、江戸の政軍の人材が払底したため、京都から送ることになったのでしょう。軍防局として、公家の烏丸光徳と長岡護美(肥後細川家)が送られることとなり、政治方面としては、参与から大久保一蔵・木戸貫治・後藤象二郎・小松帯刀・広沢真臣のうち、2人くらい出張させようというのが三条実美の意見のようです。
ここに挙げられている人名は薩長土の最有力者ばかりですから、当時の小松の地位の高さがうかがわれます。
そして結局、2人ではなく、小松だけが出張することになったようです。
小松に同行したのは伊東(伊藤博文か)・中井弘・山口尚芳のようです。

小松の江戸行きは政務全般もさることながら、ある任務があったようです。
それは、諸外国への借款返済という目的です。
『小松帯刀日記』によれば、同年3月頃の記事で、五代友厚からの申し送り事項として、

「一、大坂邸中にて焼失ホートエンへ八月中二万ドル、十月中二万ドル、のち四万両余、当年中政府より払方一条」

これは鳥羽伏見の戦いのとき、旧幕軍が大坂の薩摩藩蔵屋敷を焼いてしまったため、屋敷内にあったお金も焼けてしまったようで、オランダ商人ボードウィンへの支払いが滞り、その期限が今年中に迫っていたため、何とかこれを新政府に払ってもらおうということのようです。

それとは別に、幕府がフランスから購入した武器代金や横浜・横須賀製鉄所建設などの借款も残っており、これを同年7月中(西暦)に返済する必要もあったようです。幕府の借金なのに、新政府が引き継いでいるわけです。
また、同じく幕府が長崎飽之浦につくった製鉄所の費用がオランダ商社への借金残高として、13万5000ドルもあり、それを6月から10月まで毎月1万ドル、11月から翌年2月まで2万ドルずつ返済していくという段取りになったようです。

そうした旧幕府の借財の返済が、小松が江戸へ行った目的のひとつだったようです。
そんな仕事は下級役人でもできるはずだという見方もあるかもしれませんが、決してそうではありません。新政府の成立にあたって、前政府(幕府)の借金を清算することは、外交上、国家主権を諸外国に認知してもらうために重要な仕事でした。新政府の出発にあたって、諸外国の信任を得ることは最重要課題だったわけで、その仕事を小松が果たしたことになります。

さて、ドラマに戻りますと、天璋院と小松の一橋邸での再会のとき、天璋院が小松にまた会いましょうと告げたら、万感迫った小松が涙を流しました。その瞬間、小松の痛々しい足が大写しになりましたから、小松はすでに自分の寿命を悟っており、次に会える機会はないことを知っていたからこその涙だったのでしょう。

せっかくの永遠の別れのシーンに水を差すようですが、じつは小松はこのあと、もう一度江戸・横浜に行っています。
それは慶応が明治と改元された直後の9月10日、明治天皇の江戸行幸(要するに東京遷都です)に先行して、江戸行きを命じられています。
しかし、持病の足痛のため、小松は明治天皇の鳳輦に遅れて、10月末に横浜に着いています。もっとも、すでに仕事はできなくなり、治療に専念していたようです。そして、早くも翌11月中旬には治療のため、鹿児島に帰ることになりました。このとき、横浜での滞在期間は20日間くらいですね。
このときも無理をすれば、時間的には天璋院に会えないこともありません。

さて、次回の最終回では天璋院が横浜の小松を見舞うシーンがあるでしょうか? 予告では病床の小松が映っていましたが、あれは終焉の地となった大坂でしょうかね。

なお、ドラマでは足痛が強調されていますが、私は小松の死因は肺結核だと思っています。
これは2年前の慶応2年(1866)あたりから史料でも徴候が出ていることを確認できます。
死因については、今回ではなく次回にでも。

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【2008/12/08 00:38】 | 篤姫
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東久世通禧日記
まいたけ
 先日は、白峰の手紙のことで、大変お世話になりました。

 当時、横浜在勤であった東久世通禧の日記から、横浜での小松の行動がわかりますのでご紹介します。

五月廿八日
一、大坂より便あり、浪花丸来、参与小松帯刀・御用懸中井弘蔵・山口範蔵、米国飛脚船二て二日頃来港、(以下略)

六月三日
一、蘭公使面会、瑞典・那耳回条約御委任之儀宇和嶋ヨリ申来二付催促、近日小松着港之上可及談判事

六月六日
一、小松帯刀・中井弘蔵・山口範蔵昨夜着船

六月八日
一、判事助勤中井弘蔵・山口範蔵
  右者当港へ昨五日着、今日ゟ裁判処出勤可有之事

六月八日
一、長崎泡(飽カ)浦入用金旧政府二而和蘭商社へ借受之残金十三万五千弗有之処、此節約束ヲ改メ我六月中壱万弗、七・八・九・十・十一月弐万弗、十二月・正・二月弐万五千弗、相払可申云々
   辰六月 小松帯刀  和蘭岡士 アンテルタツク君

六月九日
一、四字仏公使館行、小松同伴、製鉄所之事

六月十日
一、小松帯刀今朝陸路江戸へ行

上記のことから、横浜に着港したのは六月五日で、江戸に着いたのが六月十日となります。『小松帯刀伝』の記述は、江戸着であるのを横浜着と間違えているものと思います。

ついでに、この後、小松は、江戸から帰り、横浜で仕事をこなしてから、再度江戸へ行っています。

六月十六日
一、小松帯刀江戸より帰ル

六月廿日
一、小松帯刀・寺嶋陶蔵横須賀見分之事
一、四時英公使館行、小松石見等同伴
  大坂居留地之事、西班牙条約之事、切支丹輩寛典御処置之事、函館外国人取扱振不平之事

六月廿三日
一、昨日小松帯刀英公使対談
  一、燈明台請負人着港居所之事
  一、陸軍教師雇方之事
  一、西班牙国条約之事  
  一、切支丹之輩処置之事
一、小松仏公使館行、陸軍教師雇理事

六月廿五日
一、エンシヱル職ノ引合、小松より約定書之事

六月廿七日
一、夕景蘭公使館行、食事、小松・寺嶋・山口同伴

六月廿九日
一、小松帯刀出江戸二付、左之件々申付ル
  一、弐万弗民部大甫(輔)入用金之事
  一、外国用普精(請)料之事
  一、坂田源之助浦賀詰申付事
  一、岡本徳次郎役義御免 五十両拝借 肥前重役へ申達事
  一、横須賀造作材木之事 幕府
一、当百銭造作銃鋳直し之事
  一、水野・杉浦御用掛申付、月給百円宛之事

七月十七日
一、蘭公使来ル、瑞典条約之事、小松明日横浜へ帰り、夫より直ニ上坂、廿日間二て可取極、全権者寺嶋・小松・予三人之事

七月十八日
一、小松帯刀昨夜より帰ル、三字同伴英公使間二行、
  エリカラフトノ事、五十万弗借替仏国払方之事、海軍教師ヨリ雇入不平之事

七月廿日
一、小松帯刀入来、風邪再発々熱平臥

七月廿七日
一、小松帯刀明日より上坂、大隈八太郎同伴事

船足
岩剣石塁
 神戸~横浜航路が約670kmくらいみたいなので、
その距離を30時間ということは、時速約22Km/h。
 船の速度は約12ノットといったところでしょうか。
(1ノット=1.852km/h)
 当時の船は外輪船もしくは初期のスクリュー船で、
代表的な船としては薩摩藩の春日が外輪船で17ノット、
幕府の開陽丸がスクリュー推進の12ノットらしいので、
当時の民間優速船でも充分あり得る船足ではないかと
思います。
 参考までに現代の桜島フェリーの航海速度が11ノット
くらいのようです。

小松の仕事ぶり
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

東久世通禧の日記をたくさんアップしていただき、有難うございます。
小松が精力的に仕事をしていることがわかりますね。
明治元年、同二年の外務大臣は小松だったといっても過言ではないような気がします。


速いですね
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

まいたけさんのご紹介の日記から、やはり飛脚船コスタリカ号はかなり速度が速くて、一昼夜で神戸-横浜間を運航しているようです。

また、岩剣石塁さんの速度計算でも、十分それが可能なことがわかりました。
有難うございます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第87回
―友好親善と駆け引きと―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしたらご覧になれます。

今回は木戸孝允(当時、貫治)の鹿児島訪問です。
もちろん、薩長同盟の成立後の訪問ですから、木戸は薩摩側から歓待されます。
このことはほとんど知られていないでしょうし、しかも、さほど重要な出来事があったわけでもありません。

それでも、水面下では、薩長の綱引きが行われていました。
それが紹介した「薩長商社計画」の一件です。
これは薩摩の五代友厚が提案したもので、要するに当時の日本経済の中枢である大坂市場を薩長で握ってしまおうという構想です。
それには馬関差し止めが前提でしたが、なぜか木戸はこれを婉曲に断ります。
木戸の理屈は、「天下の人心が得られない」、言いかえれば、薩長の私益を謀っていると受け取られるのはマイナスというものでした。

記事はそこまでしか書いていませんが、果たして木戸の拒絶理由はそれだけだったのか疑問がないわけではありません。
ひとつは、長州の本藩が馬関を直轄領にしようとして、馬関を領する支藩の長府藩が抵抗していました。あるいは、馬関差し止めに長州の商人たちが協力しなかった、あるいは資金不足で協力できなかったとも言われています。
もう少し詳しい事情が知りたいところです。

薩長商社計画については、坂本龍馬も関与していました。
これに関しては、松下裕三氏に「薩長商社計画と坂本龍馬」(『駒沢史学』59号、2002年)という論文があります。

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【2008/12/06 18:19】 | さつま人国誌
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先月分の日次記です。
このところ出張が多く、やや時機を逸した感もあり、まとめ書きです。

11月21日(金)天晴
朝、新幹線で関西に向かう。
某所で、幕末の有名人物の史料を見せていただいた。
本物を見て感激。意外と小さかった。
しかも、小松帯刀書簡まで見せてもらう。次兄相良長発に宛てたものだった。
内容も年次もだいたいわかった。小松の字はわかりやすい。

22日(土)天晴
午前中、永田町の国会図書館で資料閲覧と複写。
午後から、その足で憲政記念館に行き、特別展「怒涛の幕末維新」を見学。
甲東曾孫の大久保利泰氏よりご所蔵の「非義の勅命は勅命にあらず」という有名な西郷宛て書簡や高杉晋作の上海日記「遊清五録」も展示されていると聞いていたので、期待していた。
江戸博や東博まではいかないが、予想以上の見学者だった。
明治維新140年ということもあってか、多彩な史料群に目を奪われた。
文字史料ではないが、寛永寺の銃弾が貫通した鰐口とか、小栗忠順がアメリカから持ち帰ったネジや椰子の実(なんで?)とか興味深かった。
尾崎行雄




館内にある「憲政の神様」尾崎行雄の銅像

その後、桜田門から皇居前広場に足を伸ばす。
別名桜田門で知られる警視庁などを眺めたが、それからほんの数時間後、例の元厚生事務次官夫妻を殺害したという某が出頭したのを、夜のニュースで知って驚く。
楠木正成銅像や二重橋を見学するなど、気分はすっかりお上りさん。
桜田門



江戸城桜田門遠景

23日(日)天晴
この週は京都、名古屋、奈良に出かけるため、小学館と名古屋の講座のレジュメは早めに作る。
この日に名古屋分はほぼ完成。

24日(月)
前日と同様の作業。
「さつま人国誌」の原稿も早めに仕上げる。

25日(火)曇りのち小雨
夕方から神田神保町へ。
小学館の古文書講座「てらこや」に出講。
小松帯刀と幕末薩摩藩」4シーズン目も今回が第4回。
将軍家茂の死の前後について、幕府、薩摩、会津、長州、松本良順、勝海舟などの史料を見て比較検討。
前回、家茂と孝明天皇の死を検討したいと告知していたが、とてもじゃないが、両方を一度にはやりきれず、次回の最終回に孝明天皇の死を取り上げることにした。

26日(水)天晴
早朝、新幹線で京都へ。
某歴史紀行の取材と撮影のため。
紅葉の頃の京都に来たのはひさしぶり。
観光客が多いので、桜の頃とこの時期は避けていたが、そうもいかなかった。
もっとも、宿が京都市内に取れずに、湖西線の大津京駅のビジネスホテルに取ることになった。
驚いたのは、新幹線が京都駅に着いたとき、私が乗っていた車両のほとんど全員が降りたこと。
聞きしに勝る観光シーズンだと覚悟。

じつはこれが前代未聞の災難の前ぶれだったのにまだ気づかずにいた。
ふと気になったのは、座席指定が13号車の13番だったことくらい。
京都の寺社に詳しい友人のHさんとともに、まず岩倉に行く。
実相院と岩倉具視隠栖地や対岳文庫などを見てまわるつもりだった。
そしたら、実相院の山門を撮影しようとしたところ、画面にエラー表示が……。
それでも2回目に撮影できたので、気にせず境内に入り、きれいな紅葉を撮影しようとしたら、また同じエラー表示が……。
ようやく気づいたのです、一眼レフデジカメが故障していたことを。
使い始めて3年くらい経過していますが、初めての経験。
予備のカメラも持ってきていない。
実相院の庭もきれいだったし、展示してあった御用日記も寺田屋事件や将軍家茂の死去など、重要事件の個所を開いてくれてあって、それなりに楽しめたのだが……。
岩倉具視隠棲地で、ようやく1、2枚は撮れたけど、また同じエラー表示が……。
バッテリーやSDカードを入れ換えたり、本体を叩いて気合いを入れたりしたけど、結局、復旧せず。

しかたなく、予定を変更して急遽、四条まで引き返すことに。
家電量販店で、デジカメを購入。要らぬ出費だ。
店内の充電器でバッテリーを20分だけ充電。これだけあれば、今日1日くらいはもつだろうと思った。

その後、東山の高台である将軍塚まで行く。
タクシーのなかで、購入したばかりのデジカメをあれこれいじってみたが、何かおかしい。
電源をONにしてもディスプレイ画面が出てこず、まっ黒のまま。いったん電源をOFFしても、内部から不気味な羽音のような音がする。バッテリーをはずさないと、この羽音は消えない。
何度やっても同じことだった。

何と、新たに買ったデジカメまで初期不良だったのだ(激怒)。
暗くて波立つ気持ちとはうらはらに、将軍塚からの眺望は絶景だった。
前日に雨が降ったそうで、空気が澄んでいてとてもキレイ。京都の市街地や西岡や丹波まではっきりと見える。いつもモヤがかかっている感じだっただけに、こんなにシャープな遠景が見られるのは年に何度あるのかというくらい。

でも、カメラが……。
しかたなく、一眼レフデジカメをダメもとでと思って、祈るような気持ちでシャッターを切ったら、何と、2枚続けて撮影できた。どうも、20回に1度くらいシャッターが切れるようである。結局、このカメラで10数枚だけ撮影できた。下はそのうちの貴重な1枚。
将軍塚




その後、下山して東福寺へ向かう。
何といっても、紅葉の名所は東福寺の通天橋に限る。
平日だったが、長蛇の列である。
一番下の臥雲橋から撮影を試みるが、これまた失敗。
気を取りなおして、即宗院隣の龍吟庵に行く。
ここの方丈は国宝。
Hさんから方丈の縁に屋久杉が使われていると聞いていた。豊臣秀吉が聚楽第を造営したとき、島津義久に命じて、屋久杉を献上させたものが、聚楽第解体後、その部材がこちらに転用されたようである。縁のほかの板とくらべて、明らかに木目が違って密度が濃い感じだった。

その後、高台寺やその塔頭の圓徳院も拝観。
圓徳院は北政所終焉の地で、長谷川等伯の障壁画もある。見どころ満載だった。

それから、夕食でもと思っていたら、急に寒気がしてきた。
将軍塚で冷えるなと自覚していたのが本格的に悪化した感じ。
今日は縁起の悪いことばかりだったし、明日は名古屋での講座である。欠講はできないので、早めに宿へ帰ることにした。
京都在住の研究者N村氏とは約束をキャンセルして申し訳なかった。そんな事情でしたので、お許し下さい。

27日(木)天晴
京都から名古屋へ移動。
中日文化センター講座「本能寺の変を読み解く」第2回に出講。
早めに節制したせいか、体調は辛うじて持ち直した。

今回のテーマは「天正8年における信長と光秀」。
同年(1580)が2人にとって画期的な年となった理由をいくつかの史料で解説。
最後に「宗及他会記」同10年正月条にある光秀の茶会の記事を検討。
「床に上様御自筆の御書かけて」の意味を追求して終わった。
終了後もいくつか質問をいただく。熱心な方がおいでで、こちらも励みになる。

そういえば、主催者側から来年4月頃、本能寺の変をテーマに京都バスツアーの企画を持ちかけられたので、快諾する。行きたい所はいっぱいある。今から回るコースが楽しみ。
興味のある方はぜひご参加下さいませ。

29日(土)天晴
朝5時半起きで東京駅に向かう。
今度は奈良行き。奈良といっても、吉野の入り口の五条市である。
新幹線を京都で降りて近鉄に乗り換えて片道5時間。日帰りだったので往復10時間。現地滞在時間はわずか3時間だった。

友人の研究者Hさん、Wさんと五条駅で合流した。
目的は、ある信長文書の閲覧である。所蔵者のご自宅まで伺う。
奥野高廣『増訂織田信長文書の研究』にも一部収録されているが、その全文の写し(ただし、宛所は切れている)である。
織田権力の成り立ちを考えるうえで非常に重要な文書である。
写しながら、じつに達筆で保存状態がよかった。書写時期もそんなに下らないのではないかという感触だった。
意外なことに、賤ヶ岳合戦前後の羽柴秀吉文書も所蔵されていた。これまた秀吉の調略の様子がわかる貴重な文書。初出文書ではないだろうか。

所蔵者の方は非常に気さくな方で、撮影も許していただいた。
20年以上前、信長研究者のI先生がお見えになったそうだが、私たちはそれ以来とのこと。
帰りには奥様からお土産まで頂戴して恐縮する。
少し時間があったので、近所の史跡見学。
大和五条といえば、幕末の天誅組の舞台。天誅組は五条代官所を襲撃して気勢をあげた。
関連の写真をいくつか載せておきます。この日は別のカメラだったので大丈夫。
五条代官所
五条代官所跡
天誅組本陣
天誅組本陣が置かれた桜井寺
首洗い
代官鈴木源内の首を洗ったという手水鉢


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【2008/12/03 19:40】 | 日次記
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怒涛の幕末維新展
NAO4@吟遊詩人
デジカメは災難でございました。

>憲政記念館に行き、特別展「怒涛の幕末維新」展
こんな特別展が行われていたとは知りませんでした。
展示品のリストを見ると凄いですね。
見逃してしまい、本当に惜しいことをしました。

こんなに史料が残っているなんて、近世ならではですね。

ご愁傷様でした
ばんない
関西他地区と比べても、京都は家電専門店を見つけるのが難しいので(でもJR京都駅前にビッグ○メラができて2,3年前よりはマシにはなったようなのですが)こういうトラブルがあると、お手上げになってしまいますね。四条の家電量販店…S○○○○○辺りでしょうか、困った物です。
ただ、トラブル発生地が実相院…新幹線の13号車13番席なんかより、こちらのほうに祟りの気配を感じます。脅しじゃないですよ。

更にこの時期に、仕事上の都合とはいえ、よりによって東福寺に行かれたとは。体調が悪いようですが、過密スケジュール以上に人混みの中に行かれたので風邪でもうつされたのでは…お大事に。龍吟庵は一度行ったことがありますが、重森三玲の庭が気になって方丈の廊下の板までは気が付きませんでした(爆)。方丈自体は聚楽第より随分前の建物と推定されているようですから、雨で腐りやすい縁側だけ旧聚楽第の部材で補修したのでしょうか。それにしても今確認のために東福寺の公式HPを改めてみたら、ちゃっかり「篤姫ゆかりの東福寺をお訪ね下さい」なんて書いてありますねぇ。1ヶ月ほど前に見たときにはこんな文章なかったはずですが(苦笑)

ところで、五條市、不便な場所ですね。当方も20年ほど前に一度行っただけです。京都から行くにしても大阪から行くにしても遠いですし、更にどのルートを取るにしても私鉄からJRに乗り継ぐ必要があり、使いやすいお得切符もなく、なかなか行きにくいです。最も20年前には幕末には全く興味がなく、栄山寺を見に行ったのでした。五條市を含め奈良南部は南朝との精神的紐帯が強いせいでしょうか、奈良市など北部とはまた異なる独特の空気がありますね。

祟りの気配?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

新しいカメラを買った四条の家電量販店は、ご推察どおり、S○○○○○でした(笑)。
でも、その祟りとは何でしょうか?
よくわかりませんでした。考えつくのは、薩摩藩の錦小路藩邸の近くだということでしょうかね?




でこ
絶対に取り替えていますか? 許せません今の時代に・・・
カメラの故障には一人での旅で悔しい経験があります それが京都でした。ゲルトと云う(ドイツ製品)を大切に使用していたのに東寺の辺りで突如駄目になり、タクシーの小父さんに
カメラやサンを教えて頂き憧れの一眼レフを思わず手に入れてウキウキして撮り続けましたが、シャッターの切れない あの
切ない思いはよーく解りますし憤懣やるかたなしの お気持ちが、私にも今湧き上がり一緒に嘆きたいです。その一眼レフは
見当たりません。(もう50年の昔です) 
お仕事も大切ですが健康な体あっての事 お大事に~


ありがとうございます
桐野作人
でこさん、こんばんは。

カメラ故障はイヤですね。
何か呪われているのかと感じたくらいで。

でも、修理に出したら、意外と単純な原因で、レンズの取りつけ方がよくなく、接触不良だったようです。何度も付けかえてみたんですけどね。

50年前から一眼レフを使っていらしたとは、よほどお好きで通だったんですね。


実相院の呪い?
ばんない
ご無沙汰しております。s○○○○pで買わされた問題の品、クレームどうされましたでしょうか。
最初故障した?一号機も、故障じゃなかったようで何よりです。

当初私が祟りじゃないかと疑ったのは、その一号機がトラブルを起こした実相院に原因があるかと思ったのでした。桐野さんならご存じと思いますが、曰く付きの寺院ですからね。数年前にJR東海で「紅葉の名所」としてCMに大々的に取り上げられるまでは由緒ある割には知名度も低く地味なお寺でした。
といっても、実は地元でも呪いの寺院という噂は全くなくて(汗)でも、今までトラブル知らずのカメラが突然…となると思わずそこに疑いが行ってしまいました。

かくいう私も言及したのが祟られたのか、原因不明の頭痛、今は感冒と災難続きです。お大事に。

旅先にて
木暮兼人
カメラが故障するほど、あせることはありませんね。

私も以前、有馬温泉を旅行中にデジカメが壊れました
バッテリーが劣化しただけだったのですが
連続して撮影ができなくなってしまいました

そのときはやむを得ず「写るんです」を購入して
帰宅してからカメラ屋で現像、CD化という方法を
取ろうとした覚えがあります

文明の利器も高度になりすぎると面倒です。
素人では直せないうえに壊れやすい気がいたします。

お元気ですか?
桐野作人
木暮兼人さん、お久しぶりです。

その後の様子は少しブログで拝見しました。
恙ないようで重畳です。

今回の講座も盛況ですが、来年4月頃、本能寺の変の京都日帰りツアーをやることになりました。名古屋からの出発です。よかったら、ご参加下さい。


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NHK大河ドラマ「篤姫」第48回「無血開城」

ドラマ進行時点は、慶応4年(1868)3月。

いよいよ江戸開城まで来ましたね。
史実の基本線は押さえてあったので、まずまずだったのですが、小松帯刀の場面だけは違和感が拭いきれません。結局、小松が幕末維新に果たした役割は何だったんだという気がしますが。

それはさておき、江戸開城に至る西郷吉之助と勝義邦の会談について述べておきます。
配役では、ずっと勝麟太郎と書かれていましたが、ドラマの中では「勝安房守」と呼ばれ、統一がとれていませんでした。島津久光を忠教から久光へと変えるなど、名乗りについてはとても意欲的でしたから残念ですね。島津忠義も同様です(茂久の名乗りが省かれました)。

勝海舟の日記(江戸東京博物館版)によれば、会見は3月13日と翌14日の2回行われています。

会見場所ですが、どうも1カ所だけではなかったようです。ドラマでは薩摩藩邸としか描かれていませんでしたが、薩摩藩の上屋敷である芝本邸は前年のクリスマスに幕府軍によって焼かれています。そのため、近くにある田町屋敷(町屋敷)が会見場所になっています。現在、田町駅近くにある丸い会見の碑のあたりですね。

勁草書房版の海舟日記3月13日条には次のように書かれています。

「高輪薩州の藩邸に出張、西郷吉之助へ面談す」

これによると、1回目の会見は高輪の中屋敷で行われたようです。
2回目の14日が田町屋敷だったとされていますが、一説によれば、田町屋敷近くのしもたや橋本屋で2回目の会見があったともいわれています。

なお、ドラマ最後の「篤姫紀行」では、池上本門寺の松涛園が紹介され、ここで両雄の会見があったと解説されていました。
池上本門寺が3月時点での東征大総督府の本営になっていたのはたしかです。4月4日、西郷は江戸城に乗り込んで、接収の手続きをしました。
その後、同月10日、勝が池上本門寺を訪れて、西郷と対面したといわれています。「篤姫紀行」はこのことを紹介していたわけですね。

もっとも、勝の日記(勁草書房版)によれば、4月9日条に「大久保一翁と共に、池上御先鋒の参謀へ談判す」とあり、翌10日条にも「池上へ行く。咋談ぜし処、皆良しと云う」とありますが、両日とも西郷の名前は出てきません。
9日条の「御先鋒の参謀」とは、東海道先鋒総督府参謀のことで、薩摩の海江田信義と長州藩の木梨精一郎ですね。ですから、この日は西郷と会っていないはずです。会ったとすれば、翌10日でしょうか。確証がつかめません。

ドラマで、勝が西郷との会見の前に、イギリスに江戸城下を焼き払うという情報を流すと天璋院に告げ、会見でも西郷がそのことに触れていました。
両雄の会見で外国の関与があったことを描いたのは大河史上、初めてではないかと思います。もしそうなら画期的です。
イギリス云々の典拠はおそらくアーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(岩波文庫)でしょう。次のように書かれています。

「勝は、慶喜の一命を擁護するためには戦争をも辞せずと言い、天皇の不名誉となるばかりでなく、内乱を長引かせるような苛酷な要求は、必ずや西郷の手腕で阻止されるものと信ずると述べた。勝はまたハリー・パークス卿に、天皇の政府に対する卿の勢力を利用して、こうした災いを未然に防いでもらいたいと頼み、長官も再三この件で尽力した」

この一節がドラマに取り入れられたわけですね。なかなかだったと思います。
もっとも、勝がパークスに申し入れた時期が同書には書かれておらず、前後の文脈からすれば、3月14日の会見以降のようにも見えます。

余談ですが、この頃の勝の日記に興味深い記事があります。たとえば、3月16日条には、

「品川にて、薩州の諸隊長相良已下に引合う」

18日条にも「相良へ一書を送る」とあります。
この相良は薩摩藩士の相良治部長発(ながなり)だと思われます。ほかでもない、小松帯刀の次兄です。肝付家の二男に生まれ、相良家の養子となりました。相良家の家格は寄合で、一所持である肝付家や小松家より一段下ですが、それでも門閥家です。

長くなったので、今日はこの辺で。

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【2008/12/01 23:55】 | 篤姫
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お話大変ありがたく思います。
NAO4@吟遊詩人
本当に毎回面白いお話を聞かせていただき、感謝しております。

大河第48回「篤姫紀行」で、池上本門寺が会見場所と紹介され、ドラマ本体の薩摩藩邸と違っていたので、違和感を覚えましたが、桐野様のブログにて氷解いたしました。ありがとうございました。

以下、大河と桐野様のブログに関しまして、いくつかお聞きしたいことがあるのですが、御気が向きましたらお教えいただければ、幸甚でございます。

(1)戊辰戦争が勃発して、東征軍が江戸に到着するまでの間、江戸薩摩藩邸は、薩摩藩士によって確保されていたのでしょうか。
(2)ブログにお書きの薩摩藩士「相良」とは、肥後の大名「相良」氏と関わりのある家柄なのでしょうか。
(3)大河47回から、気になっていたのですが、東征軍の陣所のシーンで、背後の旗が、中央に「錦の御旗」、向って左に島津の「丸に十の字」は分かったのですが、右側の旗がよく分かりませんでNHKに問い合わせたのですが、「薩摩藩の紅白四方の旗」とのつれない(それ以上の解説が無いという意味)回答でした。「四方の旗」とは、「四角形(恐らく方形)の旗」という意味だと思うのですが、つまり何なのでございましょうか。

(3)は、とても恥ずかしいことをお聞きしているのかもしれませんが、またお忙しいところ、大変不躾なことをお聞きしてしまい申し訳ありません。本当に御気が向いたらで結構ですので、ご教示いただければ、ありがたく思います。

お尋ねの件
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

忙しくしていたので返事が遅くなりました。
お尋ねの件ですが、

(1)江戸の薩摩藩邸
 幕末になると、京都が政治の中心になりますので、江戸の藩邸の比重が相対的に低くなる傾向があります。
薩摩藩においても、西郷吉之助が慶応元年(1866)12月に江戸の藩邸引き払いを主張しているくらいです。実際、人員など縮小されたようです。
 そして同3年12月25日、幕府軍によって芝の上屋敷が焼き打ちに遭いました。上屋敷じたいは建物がなくなってしまったと思われます。以降、上屋敷以外の薩摩藩邸もすべて幕府の管理下に入ったものと推定されます。若干の留守の人数はいたかもしれませんが。
 もっとも、翌4年3月、東征軍が江戸に入ってくると、東征軍の主力である薩摩藩への配慮もあって、藩邸は幕府の管理から離れたと思われます。

(2)相良氏
 小松帯刀の兄、相良長発の養家である相良家は、ご推察のとおり、肥後球磨の相良氏と縁があるようです。
 鎌倉時代、相良一族の一人が稲留善介と名乗り、島津忠国に仕えました。戦国時代になって、稲留氏は島津義弘に仕えました。天正初年、球磨の相良義陽が島津氏に降参したとき、稲留新助が義陽のところに使者に発ったとき、義陽と同族ゆえ、相良名字の名乗りを願い出て許されました。
 稲留新助改め、相良日向守長泰となり、これが江戸時代、寄合の相良家の祖となります。

(3)紅白四方の旗?
 薩摩藩の軍旗のシーンをよく見ていなかったもので何ともいえませんし、私も軍旗方面は詳しくないものでして。
 あえて推測すれば、その旗は四角くて、上半分が赤、下半分が白だったでしょうか?
 当時のいわゆる官軍では、その主力を構成する薩長土の三軍の間で、互いに相手を識別できるよう、麾下の各部隊(小隊単位でしょうか)ごとに手旗をもたせています。これが薩長土で、それぞれ色とデザインが異なっていました。たとえば、
鹿児島の黎明館刊行の図録「鹿児島の歴史と文化」によれば、

土佐:縦長旗を上下に三分して、上は赤、中は白、下は赤。
長州:四角い旗を斜めの対角線で分割し、右下が赤、左上が白。
薩摩:縦長を上下に三分して、上は赤、中は黒、下は赤。

これに関しては、玉里島津家所蔵の戊辰戦争絵巻のなかに、長州藩兵が休息している場面がありますが、長州藩の兵士がもっている手旗は上記と同様ですね。

それとは別に、黎明館所蔵の東征軍絵巻のなかに、薩摩藩と思われる砲隊が砲撃している場面が出てきますが、そのなかでは、上が赤、下が白の手旗を立てています。これは上記の薩摩の三分割の手旗と色・デザインとも違います。
ご覧になった「四方の旗」はこのデザインだったでしょうか?

もっとも、小部隊が目印にもっている手旗と、藩の本営に置かれている本陣旗が同じだとは限りませんけれど、上が赤、下が白というデザインでしたら、これらの絵画史料を参考にしたかもしれませんね。

なお、薩摩藩本営に立っていた錦旗、丸十紋旗、赤白四方旗の3種の旗にはそれぞれ、位置づけというか意味があったと思います。
錦旗はご承知の通り、官軍たる東征総督府の旗、
丸十紋旗は島津家、薩摩藩であることを示す藩旗、
赤白四方旗は、官軍に属する一藩を識別するための旗。藩といいながら、あくまで朝廷に属する一官軍部隊という位置づけでしょうか。

どうもありがとうございました。
NAO4@吟遊詩人
きめ細かいコメントをいただき、感激いたしております。ありがとうございました。特に四方の旗の件大分正解に近づいたように思えます。TVで見えた旗というのは、三色旗のように見えました。でもNHKの説明では、「紅白二色」で、影の部分をもう一つの色と勘違いしたのではないかとのコメントでした。お忙しいところ、本当にありがとうございました。

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