歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第94回
―西郷と会見したのか?―

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今回から2回にわたって、高杉晋作を書くことにしました。先日、木戸孝允の薩摩入りも書きましたので、高杉も忘れてはならないと思ったからです。

ご存じのとおり、高杉と薩摩の縁は決して濃いものではありませんが、まったくないわけではありません。今回は、高杉と西郷隆盛は果たして会ったことがあるのかどうか、というテーマで書きました。

元治元年(1864)11月から、西郷は第一次征長を平和裡に収拾しようとし、豊前小倉に出張し、五卿移転問題をめぐって、受け入れ先となる筑前藩をはじめとした有志たちと接触したのをきっかけに、薩長和解の動きが出てきて、西郷が下関に渡って長州藩の諸隊幹部と会見するところまで漕ぎ着けます。
五卿は朝敵とされた長州藩にとって不可欠なシンボルでしたから、その移転には当然難色を示すわけですが、五卿を大事にすることと、長州藩を悪いようにしないという西郷の誠意が通じて、一応の解決をみます。

その過程で、長州藩諸隊の総帥である高杉と西郷が会見したのではないかという疑問に迫ったのが今回です。
結論からいえば、会っていないのではないかと思います。
でも、下関稲荷町の妓楼大阪屋で両雄が会ったという、かなり具体的な逸話も残っています。

今回は久留米藩士水野正名の伝記を使いましたが、その情報源は筑前藩士早川養敬(勇)の手記「落葉の錦」のようです。

ところが、いろんなデータベースで調べても、「落葉の錦」がヒットしません。どうも単独の著作ではなく、史料集のなかに収録されていて、その史料集の収録書目が掲載されていないためにヒットしないのかなと思います。
いまのところ『野史台維新史料叢書』あたりではないかと目星を付けているところですが……。
もしご存じの方がおいでなら、ご教示いただければ幸いです。まことに情けない話ですみません。

なお、補強史料として、早川養敬の伝記『従四位早川春波翁来歴』があり、入手しました。これには、以下のような一節があります。

「頓て西郷は月形か迎に随ひ、吉井幸輔、税所笑蔵、の二士を伴ひ直に起て馬関に来る、月形は迎入れ、馬関稲荷町の青楼大坂屋(対帆楼)に密会し、高杉其他十四五名の隊士と薩の三士は一場の宴席を共にし、従来両藩の間に横りたる讐敵乖背の紛状をして抔盤狼藉の間散解して痕なからしめる」

これだと、西郷たちが高杉たち十数人と会っていることになっています。
妓楼大阪屋は対帆楼ともいうんですね。

落葉の錦」はこの伝記とは別物なんでしょうね?

ともあれ、五卿問題と薩長和解の当事者の一人だった筑前藩士の伝記にこれだけ具体的に書かれていると、両雄の会見はあったのかもしれないとも思えますが、さて、どうなんでしょうか?

次回は、未遂に終わった高杉の入薩の企てを書く予定です。

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【2009/01/31 11:31】 | さつま人国誌
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西郷・高杉会談はあったのか
板倉丈浩
こんにちは。北陸・安土遠征、お疲れさまでした。
さて、「落葉の錦」については私もわかりませんでしたが、高杉の伝記『高杉晋作伝入筑始末』に早川が手記を寄せていて、早川と月形が密かに西郷を連れだして高杉に会わせたと明記しているようですので、あるいはこれを指すのかもしれません。

また、黒田清綱も「会った」と証言しているみたいです↓
http://www.e-furuhon.com/~matuno/bookimages/23100.htm
ただ、この時黒田は下関に行っていないようですので、信憑性には疑問が残ります。

伊藤博文だけでなく、西郷に同行した税所も面会の事実を否定しているそうですから(近世日本国民史)、早川の勘違いか作り話と考えるのが妥当でしょう。

西郷が小松に宛てた書簡で「隊長の者と論判した」とあり、隊長クラスの誰かと会ったのは確実で、『防長回天史』等では赤根武人(奇兵隊総督)ではないかと推測しています。

しかし、この直後、12月25日付けで太田市之進(御楯隊総督)と野村和作(諸隊客分)が征長総督あてに嘆願状を提出しているところを見ると(土方久元『回天実記』)、「隊長の者」とは太田・野村である可能性が高いのではないかとも思えますね。

落葉の錦
吾嬬
はじめまして。
筑前の郷土史家:江島茂逸編『荒津瀉落葉の錦 前編上下・後編上下』という文献が、山口県文書館の「藩政文書>毛利家文庫>75維新記事雑録14」にあるのですが、桐野様の言われる「落葉の錦」とはこの文献のことではないでしょうか。
内容は、五卿送迎・征長解兵・薩長和解の間の事情について記述したものらしいのですが、私自身は未見ですのでこれ以上のことは分かりませんが・・・
編者の江島茂逸は、板倉様がコメントされている『高杉晋作傳入筑始末』(團々書店。明治26年)(復刻版:しまや出版部。平成2年)の著者です。
上記の山口県文書館所蔵の文献が「ハズレ」であった場合は、何卒笑って御許し下さいませ。

落葉の錦
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。
吾嬬さん、はじめましてでしょうか?

「落葉の錦」についてのご教示、有難うございます。
じつは、ほかの方からもメールをいただきまして教えてもらいました。
吾嬬さんのご指摘のようですね。

いずれにしろ、西郷との会見説は否定論が多いですね。


emma
こんにちは。早川春波の伝記をお持ちのようなので質問したいのですが、早川と対馬藩士小宮延太郎との関係についてご存知でしたらぜひお教えいただきたいと思い、めーるさせていただきました。小宮延太郎の経歴と小宮が野村望東尼と面会したのか、姫島から救出するメンバーに入っていたのかを現在調査中です。早川の著作には小宮の名前も平田大江の名前も出てきますが、詳しくは出ていないのです。早川の日記が手に入れば情報があるかもしれないのですが・・・

ご自分で
桐野
emmaさん

ご自分で調査されているなら、そのようになされては。
このエントリーと関連コメントに、史料の出典などはすべて書かれています。
図書館その他で調べられると思いますが。

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先日の北陸・安土調査のとき、撮影した写真をいくつか載せておきます。

まず、福井です。
1月24日、雪が降ったりやんだりでした。
柴田勝家の居城だった北ノ庄城跡にある柴田神社に行きました。
あいにく激しい雪でした。
勝家像もお市像も雪まみれです。
勝家が賤ヶ岳の合戦で雪をおして出陣した苦労が察せられました。
帰路、あまりに寒かったので、近くの蕎麦屋に入りました。
「お市蕎麦」があるという触れ込みでしたが、あいにく冷たい椀子蕎麦風です。
私は温かいにしん蕎麦を食べましたが、お市蕎麦を食べた同行の2人には「裏切り者」だと言われました(爆)。
*写真はクリックすれば、拡大されます。

柴田勝家
お市
お市そば






翌25日、安土城考古博物館の調査が終わったあと、まだ陽が高かったので、安土山に登りました。
私は数年ぶりの訪問で、地主の見寺が木戸を設けてから初めてです。
木戸銭は500円。
以前は木戸じたいがなかっただけに、少々解せません。
木戸銭が安土山の保全に使われるなら、まだしも納得できるのですが、どうなんでしょうか。

整備された大手道を一気に伝・武井夕庵邸まで登り、その後、黒門や二の丸の信長墓所を見てから、本丸、さらに天主跡と、いつものルートで登りました。
前日と打って変わって晴天で、天主からの眺望も格別です。

帰路は見寺経由で帰りました。
天正10年(1582)5月、見寺の本堂前面に、徳川家康接待のために設けられたであろう能舞台跡を見学し、信長に能の不出来を折檻された梅若大夫の悲哀に思いを馳せる。
当時の三重塔だけは相変わらず健在だ。

仁王門から百々橋口に下りようとして、道が封鎖されているのに気づく。
そうか、こちらを開けていたら、出入りフリーとなって木戸銭を徴集できなくなる。
帰路も大手道に帰る仕組みになっていたのを、遅まきながら気づかされた。
安土木戸
大手道



信澄・乱丸




左上:安土城大手道の木戸、中上:一直線の大手道、右上:伝・津田信澄/森乱屋敷跡



天主登り口
天主礎石
惣見寺






左上:天主上り口、中上:天主台の礎石、右上:見寺三重塔

安土山をあとにして、城下にあったイエズス会のセミナリオ跡を見学して、安土駅に戻った。
久しぶりの安土。有酸素運動をしたためか、気分爽快で帰路についた。

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【2009/01/29 21:21】 | 信長
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第15回
信長と天皇・日乗・フロイス

今回は有名な正親町天皇と信長の顔合わせについて、少し違った解釈を加えてみました。
果たして、信長は天皇に不遜な態度をとったのかどうか……。

メインは、朝山日乗のイエズス会排斥をめぐる動きと、それに対応して、フロイスらイエズス会が信長の庇護を依頼する一件です。

通説をなぞっただけかもしれません。
ただ、日乗の出自など、これまであまり語られていなかった点を少し加えました。
イエズス会との抗争後の日乗の動向については、あまり知られていません。
でも、のちに三位法印とか典斎(あるいは典済)と名乗っておりますから、それで探せば、案外見つかるかもしれません。
興味深いのは、天正4年(1576)正月、信長が安土城に移ったとき、公家衆の出迎え不要を朝廷に知らせる使者となったのが日乗です。つまり、信長側近としてその後も活躍しています。
『言継卿記』『言経卿記』『賀茂注進雑記』などにも日乗の記事が散見されます。

そういえば、以前、京都百万遍の知恩寺に、日乗の墓(板碑)を探しに行ったものの、見つけられずに帰ってきたことを思い出しました。
このとき、写真撮影が出来ていれば、今回の記事に使えたのにと少し後悔しています。

そろそろ書店に並んでいると思いますので、よかったら読んで下さい。

もう15回になりましたが、まだ元亀年間にも入っていません(泣)。
この先、どうなることやら……。

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【2009/01/27 00:23】 | 信長
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朝山日乗の墓
中村武生
桐野さま
いつもお世話になっております。
現在もご存じなければと思いまして。
朝山日乗の墓碑の位置は、小川善明『京都名墓探訪』1(ナカニシヤ出版、1994年)、9~10ページに地図入りで示されております。
ご参考まで。

ご好意多謝
桐野作人
中村武生さん、こんばんは。

朝山日乗の墓、その後、友人に聞いたので、だいたいの場所は見当がついております。
次回上洛時にでも、リベンジしてみたいと思っております。

関連図書の紹介も有難うございました。

失礼いたしました
中村武生
 それは失礼いたしました。
 またどうぞよろしくお願いいたします。

記事拝見いたしました。
NAO4@吟遊詩人
>正親町天皇との顔合わせ
漢文の使役の主語・述語の問題ですが、御説の方が説得あると思います。
(漢文は、高校以来ご無沙汰で、勉強再開したばかりで、大変恐縮ですが)

>朝山日乗
今まで、大変誤解しておりました。
朝山日乗というと、「イエズス会と宗論をして負けた」というふうに記憶していて、信長にとって、それほど重要な人物と言う風には思っていなかったのですが、宗論の勝ち負けにかかわらず重要な人物(=才能のある人物)だったのですね。

また、宗論をするからには、若いころから相当学問を積んだ学侶かと思っていたら、人生の前半は地頭だったようで、大変勉強になりました。ありがとうございました。

有難うございます
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

歴史読本の拙稿まで読んでいただき、有難うございます。

朝山日乗については、イエズス会側が過大に表現している面もあるのではないかと思っています。イエズス会にとっては、前に立ち塞がる「兇悪」な異教徒の煽動者ですから、あのような表現になるのでしょう。

もっとも、信長はイエズス会に利用価値を見出したように、日乗に対しても同様に思っていたと思います。そうでなければ、将軍義昭の行動を縛った五カ条の条書の証人にはしないと思います。

なお、地頭については、日乗の鎌倉時代の先祖がそうだったという意味でした。わかりにくくて失礼しました。

ご教示ありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
御丁寧にレスいただき、ありがとうございます。

>地頭職
>「九条家の諸大夫」、「地下人」、「地頭」、「尼子に仕え後に毛利に奔った」

御丁寧に、ご説明くださりありがとうございます。
イメージ的には、朝山日乗の先祖は、
    平安時代、九条の家来であったために、その荘園の庄司として出雲に駐在していた。
    鎌倉時代、そのままその荘園を領地として、鎌倉幕府より地頭職を認められた。
    室町時代、引き続き、室町幕府より地頭職(といってよいかどうか分からないのだけれども)を認められ
    戦国時代、「国人(と言っていいかどうかも若干不安)」領主となって領地を維持していた。
         この時代出雲の国人衆は、尼子→毛利に仕えた。

と受け取ったのですが、こういう解釈でよろしいのでしょうか。

なお、「地頭」という言葉は、「家康が関東入府の際、領地をあてがわれた家臣たち」にも使われているので、鎌倉時代の職制とは少し意味が違う言葉として受け止めておりました。

地頭
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

出雲の国人だった朝山家については、そんなイメージだと思います。
戦国時代の国人の系譜はさまざまでしょうが、地頭から転進した者が多いのでしょうね。

家康の関東入府のとき、地頭をそのような意味で使ったというのは不勉強で知りませんでした。どんな本に書いてあったのでしょうか?

戦国島津家で使う地頭と共通しているかもしれませんね。
薩摩の事例ですと、島津氏に敵対した大名や国人の所領を直轄地とし、代官を派遣して支配させますが、その代官のことを地頭と呼びます。
島津家では、そうした意味での地頭が形骸化しながら、幕末まで続きますね。
たしか、小松帯刀も家老を勤めながら、どこかの地の地頭職を兼務していました。

地頭の語は時代・地域によって意味が異なっているようで、要注意ですね。

本ではなくて恐縮です。
NAO4@吟遊詩人
一昨年、日野市で「幻の真慈悲寺を追う」といったような展示がありまして、拝見いたしました。
「真慈悲寺」は、吾妻鏡に出てくる寺なのですが、長らくどこにあったのか分からなくなっておりました。
それが、最近の発掘調査で京王百草園付近がその地であったのではないかとされております。

遠まわしになりましたが、この百草の地を江戸初期に領していた旗本「小林正利」のことを、展示解説で「地頭」(↓4項の下方2行)と表現していて、これを見聞して違和感を覚えたものでした。
http://yumejitsugen.my.coocan.jp/hiroba_sim/file1/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%9B%9E%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E4%BD%93%E9%A8%93%E8%AC%9B%E5%BA%A7%5B%E5%B9%BB%E3%81%AE%E7%9C%9F%E6%85%88%E6%82%B2%E5%AF%BA%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86%5D.pdf

近世に地頭は無いだろうと思って、wiki等を検索してみると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%A0%AD
http://www.asahi-net.or.jp/~HM9K-AJM/musasinorekisi/edo/muranijitougayattekita/muranijitouga.htm

↑のような記載を見つけ、そういう呼称もあったのかとその時、納得した次第。
(上記リンク先では、薩摩の「地頭」についても書かれていますね。忘れておりました。)

一次史料を読み込んだわけではないのですが、家康の「関東討ち入り」に関する文書を読むと出てくるのかもしれませんね。


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NHK大河ドラマ「天地人」第3回「年上の女」

出張のため、帰宅が遅くなり、10時からのBS再放送で見ました。

ドラマ進行時点:天正元年(1573)7月から翌2年3月頃

ドラマがようやく名実ともに永禄13年ではなく、天正元年になりました。

今回、与六とお船の淡い交情はどうでもよいのですが、ポイントは上杉三郎景虎と華姫の祝言と、洛中洛外図屏風でしょうね。

その前に、朋輩たちが「兼続」と呼ぶのはどうも引っかかりますね。通称の「与六」のほうが自然ですし、ドラマの中でもなじんでいるはずです。
また、ドラマ進行時点では兼続は15歳で、いつ元服したのかわかりませんから、なおさら、「兼続」名乗りはリスクがありますね。

さて、景虎と華姫の祝言は、前回書いたように、すでに3年前の元亀元年に執り行われています。ですから、この時期ではありません。

そして、気になったのが、景虎が華姫に自分の悩みを打ち明けたシーンで、「養子として武田、上杉とたらい回しにされた」というセリフ。

景虎が武田信玄の養子になったという説はとっくに否定されていますから、ちょっといただけませんね。時代考証の小和田先生がご存知ないはずがないと思うのですが、シナリオのチェック洩れでしょうか?

『関八州古戦録』に書かれていた北条氏秀と上杉景虎の同一人説は長塚孝氏により否定され、さらに黒田基樹氏が景虎は北条氏康の八男で、一時、北条幻庵(北条早雲の末子)の養子となったのち、越相同盟の成立に伴い、謙信の養子になったことを明らかにしています。


洛中洛外図屏風について、かなり時間を割いて取り上げていましたね。
狩野永徳かと思わせる絵師も登場し、信長の命で屏風に加筆させられていましたが、永徳というテロップが出ませんでした。これって、もしかして永徳ではなく、別の絵師を想定しているのでしょうか?

洛中洛外図屏風は、永徳が将軍義輝の注文に応じて制作し、義輝が暗殺された永禄8年(1565)に完成したというのが通説になっています(瀬田勝哉、黒田日出男氏など)。
注文主が亡くなってしまい、宙に浮いた形になった屏風を信長が手に入れたとされていますから、信長と永徳はまだそれほど知り合いではなかったという設定にしたのかなとも思います。

もっとも、岐阜城御殿を見たルイス・フロイスの訪問記によれば、御殿内部には明らかに狩野派のものと思われる障屏画や障壁画が描かれており、信長と狩野派の接点があったのではないかと思います。

あと、信長が花の御所の門前を通る身分の高い武家の輿を謙信に見立てて描かせるという謎かけがあり、謙信側もそれを見抜くというシーンがありました。

果たしてどうなんでしょうね?
たしかに、屏風には赤毛氈鞍覆を掛けた馬と塗輿の一行が描かれています。毛氈鞍覆と塗輿は白傘袋とともに、守護の格式を示すものです。謙信も将軍義輝から、この格式を許されています。

でも、これを謙信だとするのは難があるのでは?
守護はたくさんいますから、謙信に特定できるはずがありません。屏風を見せられた謙信が、果たして自分だと思うでしょうか?
だいたい、屏風が描かれた当時、将軍義昭の二条第は存在せず、これは足利将軍代々の御所だった花の御所です。
また、ドラマでも兼続が指摘していたように、義昭は前年にすでに追放されて、二条第は取り壊されています。京都の支配者は信長です。しかし、信長を将軍に擬すことや、花の御所をその居館と比喩するのは無理がありますね。

最後に、長澤まさみが出てきました。
彼女が時代劇に出ると、どうもいただけません。とたんに学芸会みたいになります。
以前も、「功名が辻」にくの一役で出ていましたが、また似たような設定ですね。
本人も納得して出演しているのでしょうか?

「これはしたり」

という兼続のセリフ、今回も1回ありました。
前回は3回くらいあったような。

以前の大河「利家とまつ」で、まつの決めゼリフを思い出します。
また3匹目のドジョウを狙うのでしょうか?(2匹目は「功名が辻」)
ちょっと安直な気がしますが……。
兼続については、今後もこのままコミカル路線で行くのでしょうか?

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【2009/01/26 00:29】 | 天地人
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洛中洛外図屏風
NAO4@吟遊詩人
こんにちは。

米沢の上杉博物館の解説も、輿に乗った人物は、上杉謙信だと解説していたと記憶しています。
根拠等については、忘れてしまいましたが。

信長の台詞上でも
木暮兼人
「絵師をこれへ」という言い方だったと記憶しています

あれ、永徳じゃないんだ
と思った覚えがありますので

・・・本当に信長しか見ていないというか(笑)

長澤さん、多少ダイエットはされたようにお見受けしますが・・・
どうしてああも台詞が「うわすべり」されるのか
不思議なところではあります。

輿に乗った貴人
御座候
>でも、これを謙信だとするのは難があるのでは?



先行研究でも上杉謙信とみなされているように思います。
その根拠としては、貴人の行列の描き方が「上杉の七免許」に該当する、ということのようです。
ただし、当然のことながら、
後から織田信長が描き入れたのではなく、
元から描かれているという考え方ですが。


黒田日出男氏は、将軍足利義輝が上杉政虎の関東管領就任の祝儀として注文した屏風であり、御所へ向かう貴人の行列を描かせることで、政虎に上洛を促したと解釈しています。

洛中洛外図
板倉丈浩
こんにちは。
景虎が当初武田家の養子だったというのは上杉家の正史「上杉家御年譜」にもある記述ですので、今でも完全否定はされていないと思います。
(最近出た『上越市史』でも「確証がない」みたいな言い方でした)

洛中洛外図の研究史についてはこんな感じです↓
http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/rakutyugaisetsu.html

上杉本の洛中洛外図に謙信が描かれているという説は、NHK「その時歴史は動いた」でも紹介されていたように記憶しています。

洛中洛外図屏風
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

景虎が武田氏の養子になったという一件。たしかに『上杉御年譜』元亀元年四月中旬条に記事がありますね。

「三郎景虎始 今川氏真の媒妁として 信玄の嫡子太郎義信の養弟となれり 武田三郎と号す 永禄十年義信父の命に背き殺害せられけれは 三郎甲府を退きぬ」

かなり具体的に書かれております。でも、養子入りの時期が永禄十年以前であることはわかりますが、いつだか書かれていませんね。
もしこれが史実だとすれば、景虎の年齢から、永禄年間後半でしょうね。北条氏康が一子を信玄に人質として送る理由は、謙信のたび重なる関東出兵に対抗するのに信玄の支援を仰ぐためでしょうかね。
一般的な理由としては納得できないこともないですが、もしそうなら、両家に何らかの一次史料が残ってもいいのじゃないかと気がします。

関八州古戦録はともかく、上杉御年譜に記事があるのに、確証がないという評価は、やはり怪しいんでしょうな。

洛中洛外図屏風に謙信が描かれているかどうかですが、屏風の意味づけに関わっているような。
単なる儀礼的な贈呈品に過ぎないなら、深読みする必要はないと思います。
将軍義輝の何らかの政治的意図が込められていると解するなら、謙信の歓心を買う必要があったということでしょうか。

ところで、永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 不勉強でよく知らないのですが。


義輝と謙信
板倉丈浩
こんばんは。
私も黒田日出男氏は深読みのしすぎではないかと思っているのですが(^^;

上杉家御年譜に限らず、戦国時代を論じるにあたって編纂物の扱いは難しいですね。
例えば「上杉"輝虎"は将軍義輝からの偏諱」とか「謙信は幕府から正式に関東管領に補任された」とか、みんな当然そうだろうと思っている事項すら一次史料の裏付けは取れないわけでして、編纂物の記述と状況証拠から推測する部分が多くなってしまうのは、ある程度やむを得ないかなーと感じています。

>永禄二年以降、義輝が謙信の三度目の上洛を切実に望んでいるような史料はありましたっけ? 

直接上洛を要望するような史料はなかったと思います。
先行研究を見た限りでは、近衛前久の越後下向が重視されているようです。

参考文献:近衛通隆「近衛前久の関東下向」(日本歴史391,1980)

瀬田勝哉氏や黒田日出男氏の洛中洛外図論もこれを受けて、義輝・前久・謙信3者の強い絆の存在を前提に、注文主を義輝ではないかと推定しています。

室町殿
御座候
確かに高橋康夫さんの指摘は重要だと思います。
義輝の居所は「今出川御所」であり、「花の御所」ではなく、そもそも16世紀においては花の御所=室町殿が将軍御所として利用されたことがない、という。

しかし、それなら過去の単純な投影かというと、必ずしもそうではなく、上杉本に描かれた「室町殿」の構造は、室町期の将軍御所の建築様式ではない、というのですから、もう訳が分からなくなってきます。絵画史料の読み解きは難しいですね。

義輝と謙信
桐野作人
板倉丈浩さん、御坐候さん

ご教示有難うございます。

義輝が謙信に送ったから、将軍御所に祗候する謙信の行列が書かれていなければならないとするのは、どうも論理の飛躍があるんじゃないかという気がするのですが。
こういう素朴な疑問は先行研究無視の問題外なんでしょうかね?


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第93回
―ロンドン手本、内陸志向―

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今回は、伊地知貞馨の大和遷都論です。
おそらくほとんどの人がご存じないと思います。
さらにいえば、伊地知貞馨という人物もあまりなじみがないと思います。

伊地知は、島津久光の率兵上京計画に奔走し、成果をあげています。
久光四天王の一人で、もっと活躍できたはずですが、江戸の藩邸放火事件に関わったことで、中央での国事周旋ができなくなりました。彼の知名度があまりないのはそのためだと思います。

伊地知はその後、薩摩藩の紡績事業振興を図ります。
その関係で、大和を訪れ、実際に地勢その他を詳しく調査しています。
その経験から大和が遷都地にふさわしいと思うようになったのでしょう。

ロンドンがそのモデルだというのが面白いですね。
考えてみれば、ロンドンに限らず、パリ、ベルリン、ワシントン、サンクト・ペテルブルク、ほとんどすべて欧米列強の首都は内陸部にあります。
その意味では、伊地知の考え方は一定の妥当性があったといえましょう。

大久保利通、伊地知正治、伊地知貞馨と、薩摩藩士が遷都問題に積極的なのは興味深いですね。たしか、黒田清綱も江戸遷都を唱えたと聞いています。

次回何を書くか、じつは未定です。
いくつか候補はあるんですが……。

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【2009/01/24 21:55】 | さつま人国誌
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大和川
ばんない
>伊地知貞馨
確かに聞かない名前ですね。ちょっとネットで検索したところでは新政府に出仕後、琉球関係で賄賂を受け取った疑いで大久保利通に弾劾されて失脚した人物のようですが…。苗字が堀→伊地知になったのは海江田信義みたいに婿養子にでも入ったのでしょうか?

前回までの難波遷都に続き今度は大和遷都とは、伊地知貞馨本人はそのつもりはなかったようですがクラシック指向が強まってますね(苦笑)。ただ、古代の大和朝廷は余り大和川の水運をうまく使ってないようで、大和川流域に築かれた宮都はなかったと思います。斑鳩に自分の拠点を移した厩戸皇子(聖徳太子)が唯一大和川の水運を使おうとした人物じゃないかという説もどこかで見たことがありますが。江戸時代になってもかなりの暴れ川で流域の住民は苦労したようです。
http://www.yamato300.jp/tukekae/tukekae.html

ところで実際に旅行したことがないので断言は出来ませんが、サンクトペテルブルグは港湾都市じゃなかったでしたっけ。
http://maps.google.com/maps?hl=ja&lr=&q=st%E3%80%80petersburg&revid=710485556&resnum=0&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl

モスクワか
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

サンクトペテルブルクではなくて、モスクワでしたね。
もっとも、幕末期の首都がどっちだったか、うろ覚えです。
モスクワなら、確実に内陸だと思いますが……。

久光四天王
へいぞー
桐野先生お疲れ様です。
ふと気になったのですが、〝久光四天王〟の造語は町田明広氏が名付け親なのでしょうか?

町田氏の新刊書を読むまでは、堀次郎が外交手腕に長けた人物とは思えませんでした。

どうも西郷とは合わない……というより、西郷から見捨てられた退転者のイメージが強いですね。
桂久武宛て(明治四年十一月三日)の書簡にも心情が吐露されてますね。


久光四天王
桐野作人
へいぞーさん、こんばんは。

「久光四天王」は、町田明広氏が初めて使ったのではないかと思います。
私も以前、彼に使わせてほしいとお願いして許してもらいました(笑)。

堀次郎=伊地知貞馨はもう少し評価されていい人物ではないでしょうか。
西郷との親疎だけで評価されるというのもどうかと思います。西郷を絶対基準にするのは、研究じゃなく信仰ですからね。

堀次郎
町田明広
桐野さん、ご無沙汰しております。久しぶりの書き込みです。

堀の評価について、まったく同感です。彼の安政・文久期の縦横無尽な外交家としての活躍は、薩摩藩の様々な周旋においてかけがえのないものでした。
個人的には、脱藩中の吉田稔麿との接触なども、興味深いものがあります。

さて、「久光四天王」ですが、私より前にどなたかがご使用でしたら、ぜひご教示いただきたいです。

久光四天王
へいぞー
この造語を使う研究者や作家が今後増えてくかも知れませんね。
桐野さん、町田さん回答ありがとうございます。

愚拙も芳即正氏や佐々木克氏、今回の町田さんの先行研究から大いに学びたい所存です。


久光四天王
桐野作人
町田明広さん、こんばんは。

管見の限り、「久光四天王」なる用語はこれまでなかったように思います。
またいろいろ教えて下さいませ。

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昨23日は、石川県加賀市大聖寺にある加賀市立中央図書館「聖藩文庫」の史料調査でした。
大聖寺藩は加賀百万石前田家の支藩です。

文庫が所蔵している「信長記」「安土記」など、太田牛一関係の写本を閲覧・撮影。
半日間だけのタイトなスケジュールでしたが、何とか完了。
親切な学芸員さんのおかげです。

ほかの所蔵資料も閲覧させてもらいましたが、個人的には島津氏関係の史料があって、びっくり。
果たして、どんな位置づけの史料なのか、帰宅したら確認したいものです。

夜。福井県の芦原温泉(あわら~)に宿泊。
温泉につかって、英気を養いました。
朝も入ったので、かなり元気です。

本日は福井市に移動して、県文書館などを訪問予定。

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【2009/01/24 08:44】 | 信長
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1月23日(金)天晴
昨日は名古屋で「本能寺の変を読み解く」の講座でした。

いま加賀南半に向かう車中です。
石川県加賀市大聖寺で、「信長記」の調査です。

明日は福井、明後日は安土です。

車窓からもかなり積雪が見えます。
雪になれないので、不安もありますが……。

帰京後、また報告を書きます。

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【2009/01/23 10:44】 | 日次記
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NHK大河ドラマ「天地人」第3回「殿の初恋」

トラマ進行時点は天正元年(1573)7~8月頃
いよいよ本格的に始動した感じですね。

今回は人名(通称・諱・出家名)について、いくつか気づいた点がありました。

今回、上杉輝虎改め謙信は法体姿で登場しました。
前回をよく覚えていませんが、輝虎は出家していましたっけ?

輝虎が出家したのは元亀元年(1570)12月頃です。
ですから、本来なら前回から謙信名乗りの法体でなければいけなかったはずですが、どうもまだ輝虎と呼ばれていたような?

さらに、長尾喜平次が今回から景勝になっていましたが、これもどうでしょうか?
長尾卯松は元服して、喜平次顕景と名乗ります。
謙信から上杉名字、弾正少弼の官途、景勝の諱という3点セットを与えられるのは天正3年(1575)正月11日です。
このときの謙信書状は景勝自筆だとされ、御館の乱後に作成されたのではないかという疑問もあるようですが、すでにここで書いたように、ほぼ通説として認められているとみてよいと思います。

ですから、ドラマ進行時点の天正元年後半には、まだ景勝ではなく、顕景のはずですね。

前回の「篤姫」は通称や諱の変化には比較的忠実でしたが、今回は少し鷹揚な(雑な?)感じがします。あまり忠実に再現すると、視聴者に負担を与えるという割り切った考え方をしているのかどうか、まだ判断がつきません。

謙信のもう1人の養子、上杉三郎景虎も今回から登場です。景勝より2歳年上です。
イケメンで芸達者な景虎が春日山城中の女性たちを魅了しておりました。
顕景こと景勝の妹(ドラマでは華)も目が星になっていましたね(笑)。

でも、史実では2人はとっくに婚姻しているのではないかと思います。
三郎が越相同盟の証として、春日山に来たのは元亀元年(1570)4月です。
同月25日、謙信は景勝の妹を娶らせ、自分の旧名景虎を与えています。彼女は景勝の1歳下の妹です。
2人の婚姻については、北条氏康書状(元亀元年5月12日付)に次のように書かれています。

「去る廿五、息三郎御城中に於いて御祝儀を遂げらるるの由、誠にもって千秋万歳の至り」

先月(4月)25日に春日山城中で三郎が祝言をあげたと氏康が書いています。氏康の没年は翌元亀2年ですから、2人の婚姻がそれ以前なのは間違いありません。ドラマはそれから3年後ですから、とっくに2人は結ばれているわけですね。

なお、景勝は高島礼子演じる仙桃院の子ですが、妹の「華」(架空の名前だと思います)は彼女の子かどうかはわかりません。

今回から、のちに兼続夫人となる「船」も登場しました。
常盤貴子が演じています。個人的には、彼女はもう15年くらい前のドラマ「愛していると言ってくれ」の印象が強くて(笑)。
「船」は兼続より3歳年上とのこと。常盤貴子は大河ドラマ初出演とのことですが、もう少し早く出てほしかったなという気がします。なぜか力を入れて書いているような(笑)。

「船」という名前はほぼ史実どおりのようです。
「千」とも呼ばれたそうですが、『城州公略伝』によれば、兼続自筆書簡に「船」と書かれているとのこと(木村徳衛『直江兼続伝』)。もっとも、その兼続書簡はまだ見たことがありませんが。

彼女は宍戸錠演じる直江景綱の娘ですが、上野の総社長尾氏の長尾景孝改め信綱と最初婚姻します。今回はまだ信綱は登場していなかったような?
この信綱の実父が長尾顕景ですね。今回、景勝の前名顕景が使われていないのは、この長尾顕景との混同を避けるためなのかもしれませんが。

次回は謙信の越中攻め、とくに一向一揆との戦いが詳しく描かれるのでしょうか。

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【2009/01/18 23:45】 | 天地人
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天と地と
NAO4@吟遊詩人
「天地人」は、小学校生の子供たちと見ているのですが、前回子役から大人に変わった時に、与六→兼続は理解できたようなのですが、喜平次→景勝は追い付いていけなかったようで、「喜平次はどうしたの?」といきなり質問がきました。

そういえば、私も小学校の時に、「天と地と」で虎千代→長尾景虎→上杉政虎→上杉輝虎→上杉謙信が、景虎までしか理解できずに、父に聞いていたのを思い出しました。今回、謙信は、輝虎から始まっているので、ややこしい三郎景虎との違いを説明せずに済みました。(笑) ただ、「殿が何故たくさんいるの?」と聞かれて、謙信と景勝の関係を説明しなければなりませんでした。(アニメの殿様は1人ですから)(笑)

勝軍地蔵、飯縄明神
景勝出陣の際、背景に掛けてあった掛け軸が、「勝軍地蔵」「飯縄明神(だと思う)」であったので、実は一番うれしかったのです。

>常盤貴子
同感です。峠を過ぎてしまったような。頑張ってはいますが。


木暮兼人
輝虎(謙信)は確か 前の回では出家はしていなかったはずです。
阿部寛さんの法体姿、私にはどうにも違和感があります。
破戒僧な気がしてならないのですが・・・

常盤さんについてのご意見、私も同感です(笑)
おそらくは姉さん女房な演出なのでしょうが
戦国の女性の強さをああいう形で示すことについても
私には違和感がありますね。

信長のシーンばかり注目してるのですが
あの脇にいた宣教師みたいな人はなんなのでしょうか?

北条高広
御座候
越相同盟がすっとばされたので、上杉景虎の登場が唐突な感じでしたね。


ところで北条高広は、主に上野で活動しているイメージがあったのですが、あんなにしょっちゅう春日山城に来ていたのでしょうか?

景勝かも
板倉丈浩
お世話になってます。こんばんは。
上杉景勝の名乗りですが、「顕景」の終見が永禄13年(元亀元年)2月2日であり、「景勝」の初見が天正3年2月9日です。
天正3年正月に比定されている問題の謙信書状は無年号ですし、ご存じの通り要検討文書でして、もともと天正4年のものとして伝わっていたものです。
(その謙信書状と景勝自筆書状を写真で確認しましたが、確かに「喜平次殿」の筆跡がそっくりでした・・・)

ですので、ご指摘の通り史実からかけ離れた頭の痛い展開でしたが、天正元年頃に景勝と名乗っているのはアリかなという気がしています。

天と地と
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

「天と地と」をご覧になったことがあるんですか。
私もよく見た記憶があります。
あれは石坂浩二と樫山文枝のコンビでしたね。
今年の大河のタイトルは似てますね。




宣教師
桐野作人
木暮兼人さん、こんばんは。

その回、よく覚えていましたが、宣教師が出てましたっけ?
もしそうなら、やはりフロイスでしょうかね。岐阜には何度か行っているようですから。

常盤貴子のキャラ付けは、年上の勝ち気な女性という設定でしょうが、ちょっと裏目に出ている感じでしょうか。



北条高広
桐野作人
御座候さな、、こんばんは。

上杉輝虎が上野を領国化してから、北条高広は上野に所領を与えられて重要な地位にあるようですから、そう簡単に春日山には来れないかもしれませんね。
年始とか重陽の節句あたりは来てるかもしれませんが。




グレーゾーン
桐野作人
板倉丈浩さん、こんばんは。

顕景か景勝か、ちょうどグレーゾーンにあたっているようですね。

ただ、天正三年の謙信の譲状は景勝が書写したとはいえ、ある程度信じられそうな気もするのですが……。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第92回
―大久保建白書の原案か―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続編です。
伊知地正治の大坂遷都論です。
伊地知の建白書には宛所がありませんが、大久保家に所蔵されていたのと、内容から推察して、おそらく大久保利通に宛てたものだと思います。
大久保の遷都論より2カ月早い点が注目です。
また、趣旨も似かよった部分があるので、大久保が廟堂に提出した建白書の原案になったのではないかと思われます。

もっとも、大久保の建白書のほうが格調高いですね。
とくに「万国対峙」の拠点として遷都の重要性を位置づけているのは、やはり大久保ならではです。

紙数の関係で記事では省きましたが、伊地知の建白書にはほかにも面白い記述があります。
海辺に遷都したほうが何かと便利だと述べたのち、

「昔は三韓征伐の時分は難波に都を遷し給」

伊地知は神功皇后のいわゆる「三韓征伐」伝説まで引き合いに出しています。
このあたりは、王政復古となった維新の気分のようなものを感じさせます。

伊地知が徳川慶喜の大政奉還を評価して、討幕の棚上げを主張したのも、この建白書です。
最近、薩摩藩討幕派の動向を把握するときに、研究者の間でよく使われる史料になりました。
伊地知が大政奉還を肯定的に評価するようになったのは、いわゆる討幕の密勅の見合わせ沙汰書が出たことも一因でしょう。

小松・西郷・大久保は大政奉還直後に鹿児島に帰りましたが、京都には吉井幸輔や伊地知が残っていました。慶喜の大政奉還を受けて、中山忠能・正親町三条実愛などが討幕の棚上げを考えるようになり、それは吉井に伝えられています。

伊地知の慶喜評価は、当時の在京薩摩藩重役の考え方をよく示していると思います。
鹿児島に帰った3人は見合わせ沙汰書のことは知りませんでしたが、再上京してくると、大久保も見合わせ沙汰書に従います。討幕は当面見送られることになりました。

なお、前回書いた大久保の遷都論に、北条という「前姦」の跡に足利という「後姦」が生じるかもしれないという一節があったことを紹介しました。
大久保は誰を「後姦」と想定しているのでしょうか?

じつは、伊地知の建白書にも「一個の尊氏」が擁立される危険があると述べている個所があります。
これはどのような文脈で語られているかといえば、徳川家に厳しい納地を強制して追いつめると、数十万人の家来やその家族が路頭に迷うことになり、そこから「一個の尊氏」が生まれてくるというのです。伊地知が建武の失敗を念頭に置いているのは明らかですね。
「一個の尊氏」は慶喜もしくは徳川家内部の誰かを想定すべきでしょうか。
あるいは、徳川家への苛酷な処分を見て反発を強めるほかの諸侯や諸藩を意味するのでしょうか。

どちらも考えられそうですが、個人的には慶喜を「尊氏」に想定しているようにも見えます。

伊地知のこの考え方を、大久保がそのまま受け容れているのか、あるいは違った形で参考にしたのか、どちらなんでしょうね。課題が残った感じです。

次回は薩摩藩から生まれたもうひとつの遷都論を書きます。
これも意外な人物、意外な趣旨だと思います。お楽しみに。

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【2009/01/17 14:53】 | さつま人国誌
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ばんない
今回の記事も興味深く拝読させていただきました。

政治変革で人心を一新するために難波遷都という前例としては「大化改新」もあったことを思い出しました。でも前回の大久保、今回の伊地知正治も、桐野さんのコラムを読む限りでは、そこまで想定に入れていたかどうかはちょっと苦しいかも知れないとも感じました。

しかし京都めちゃくちゃな言われようですね、確かに盆地ですけど(苦笑)。「人気狭隘」って京都の女に酷い目に遭わされたことがあったのでしょうか(爆)。

ところで本筋から離れますが、南日本新聞掲載の伊地知正治の肖像画ですが、普通に両目があいていますね。伊達政宗みたいに遺訓でも残したのでしょうか。

人気狭隘
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

京都のいわれようは、私も気になっておりました(笑)。
あくまで大久保や伊地知の見解であって、私の意見ではないことをお断りしておきます>ALL

それで、「人気狭隘」の意味ですが、「人気」は「にんき」ではなく「じんき」のほうだと思うのですが、人々の気風、気質とでもいった意味でしょうかね。
とすれば、京都の人々は気風が狭い、狭量で付き合いにくいということでしょうかね。

まあ、よそ者から見たら、京都に限らず、どこでも気に入らないものでしょうし、逆に、薩摩人だって京都の人には相当嫌われていたでしょうしね。「壬生浪」と同様で「芋」と呼ぶ史料もありますね(爆)。

伊地知の目については隻眼説がありますが、よくわかりません。


結構驚きです。
NAO4@吟遊詩人
ドラマでは、伊地知は急進的なイメージに描かれていますよね。
それからすると、大政奉還を評価し、徳川家に寛容な考えを持っていたという事実は驚きの事実だと思います。
そうこう考えると、伊地知はもう少し研究され一般に知られてもよい人物のように思えます。

>「夷人(いじん)との応接は至難のことゆえ、おそらく堂上(とうしょう)方(公家)はこれを武士ばかりに任せては再び朝権を失うのではないかと懸念している。
考えてみると、明治新政府は公家の待遇改善を行っても、政権を握らせなかったのが成功の秘訣だったのでしょうね。

>伊地知の目についての隻眼説
南日本新聞の肖像画を素直に見ると、左右両目の描き方のバランスが崩れているように見えますね。斜め横向きとはいえ、アンバランスのような気がします。これは描き手に何らかの意図があったのでは?(隻眼と言わないまでも、片目の視力が著しく弱かったとか)と想像してしまいます。

討幕派
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

大勢奉還後、伊知地正治に限らず、薩摩藩では討幕は無理という空気になったようです。西郷・大久保とて例外ではありません。

王政復古政変も結果からみれば、討幕の口火といえるかもしれませんが、当時としては、討幕という意識はなく、あくまで大政奉還の成果を守るために会桑勢力の排除が目的だったと思います。

薩摩藩は慶応3年6月頃から討幕の選択肢を考え始めますが、考えることと実行することは別でして、「伝家の宝刀」だったと思います。抜くぞ抜くぞと見せかけて、慶喜から譲歩を引き出しました。

結局、討幕は戊辰戦争という形で遂行されることになったのですが、慶喜=旧幕府勢力の出方次第では、決して必然とはいえないプロセスだったのではないかと思います。
鳥羽伏見の戦いも西郷が挑発したというより、薩長側が売られた喧嘩を買ったといったほうが妥当かも知れません。
討幕については、通説の見直しが必要ではないかと思います。


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日次記です。

1月15日(木)天晴
今年一番の寒い日だった。
夕方、神保町で『兼見卿記』の輪読会。
2カ月連続して欠席だったので、久しぶりの参加だった。
現在、天正15年(1587)12月。そろそろ聚楽第行幸の話題が出てきている。兼見にも武家伝奏の勧修寺晴豊からいろいろ指示が下りてくる。
驚きは吉田の兼見邸が年の瀬に火事になったこと。どうも餅つきの準備中に火が出たらしい。
年末の掛け買いの清算の記事あり。一括して支払うようだ。なかでも、金と銀の国内為替レートの具体例があり、専門の川戸さんからいろいろ教示を受ける。
国内相場では銀の価値が金より相対的に高いため、金が国外に流出する事態になっていたとか。
なるほどと感心することしきりである。
終了後、みなさん忙しくて新年会もできずに解散。

夜、クラッシュしたデスクトップPCのHDDからデータを救出する作業に没頭。
輪読会の前に新宿の家電量販店で強力な復元ソフトを購入した。
これだと、内蔵HDDを取り出さなくても、データを救えるという触れ込みのソフト。

で、CDを入れて起動してみた。
HDD内部データ全部を表示するのに少し時間がかかったが、すご~い。
全部表示された。
このうちから、バックアップし損ねた文字データや写真、PDFなどをUSBメモリーにコピーする。
わ~い、全部救えたぞ。
それでも、慎重に作業を継続する。明日はPC本体を初期化してOSの再インストールをしなければならないかもしれないから。
救出漏れがないように、ルートディレクトリからすべてのフォルダとファイルを見たので、すごく時間がかかった。気づいたら、明け方の4時だった。

1月16日(金)天晴
今日は午前中に、PC関係の無料出張サポートが、午後からエアコンの点検が来る。
PCを見てもらって、とてもショックだった。
何と、PCがセーフモードから立ち上がってしまったのだ。
私が何度繰り返してもダメだったのに……。
何と、完全に復旧したのだ。インターネット、メール、プリンタ、スキャナすべて大丈夫。生きていた。
出張サポートの人が格別何かやったわけではない。状況確認のために私がやったことを念のため再試行しただけなのだ。

ともあれ、復旧したのはとてもうれしいが、昨夜明け方近くまで救出作業をやっていたのは徒労だったのか。
また、クラッシュしたという前提で、OSを買ったり、復元ソフトを買ったりした出費は、結果としてすべて無駄だったことになる。
ここ数日の悪戦苦闘はいったい何だったのか。喜びと空しさが混在した不思議な気持ち。でも、膨大な再設定、再インストールなどする手間が省けたのだから、よしとすべきかもしれない。高い授業料だったけど。

サポートのお兄ちゃん曰く。

「時間がたつと、自然に復旧しちゃうこともあるんですよね」

喜んでいいのだろうか(泣)。
サポートの人が帰ったあと、注文していたOS(XP)が届く。
後の祭りとはこのこと。早手回しもよし悪しだ……。

ちなみに、午後からのエアコン点検は、室外機のひとつに異常を発見。
部品が取り寄せのようで、修理は来週初めまで持ち越し。
原因がわかったのでひと安心。
でも、ブレーカーが突然落ちる恐怖を味わっただけに、まだトラウマが……。
大丈夫とわかっていながら、電気ストーブが使えないでいる。

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【2009/01/16 23:11】 | 日次記
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このところ、更新が滞っていました。
いろいろあったので、日次記でまとめます。

1月10日(土)
夜、急にブレーカーが落ちる。
じつは昨年11月からたまにあったが、今回は本格的で、断続的に都合4回も落ちました。
そのため、稼働中のデスクトップPCがクラッシュしてしまったのです。
本日現在でも、まだ復旧しておらず、現在、ノートPCで仕事をしたり、ブログを書いたりしております。
データはほぼバックアップをとっていたので大丈夫でしたが、一、二、最近のものでバックアップできていないものがあった。何とか救い出したいものだが、HDDがいかれていると難しいか……。

停電の理由がエアコンにあると思われ、当夜はつけられなかった。
そのため、凍える一夜を過ごした。

1月11,12日(日、月)
デスクトップクラッシュ後の対応のため、いろんな作業に追われる。
ノートPCがプリントアウトできない状態になっていた。
以前、コピー複合機のトラブルのとき、IPアドレスを一部変更したせいだとわかる。
印刷ができると、ノートPCでもだいぶ作業が快適になる。

1月13日(火)
午後から都内某所で開かれたある勉強会に参加。
私より先輩の方々ばかりだったが、とても刺激的だった。
月1ペースなので、今後も続けられるかもしれない。

1月14日(水)
タイミングがいいのか悪いのか、以前申し込んでいた新しいノートPCが届く。
ほぼ終日、セッティング、カスタマイズの作業に追われる。近くの家電量販店に増設するメモリーを探しに行ったら、ちょうどいいのがあった。メモリーも2Gあれば、だいぶ楽ちんだと思う。
実際、使ってみると、なかなか快適である。
もっとも、作業に時間が取られて予定していた原稿書きが後回しになった(汗)。

そろそろ年賀状の整理をしたいが、まだファイルを買っていない。

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【2009/01/15 17:04】 | 日次記
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寛永寺卒園でこ
停電の原因がエアコンとは? エアコンの温度をどの様に

使われたのかを知りたいのです 高温にした為? 25℃位に

しないのですか?  室内で凍って仕舞わないで下さいね

暫く振りなのですが 心配をしてますよ  卒園生 でこ

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NHK大河ドラマ「天地人」第2回「泣き虫、与六」

子役時代の創作がほとんどだったので、コメントのしようもありませんね。
兼続と景勝の絆の深さは幼少のときから形成されたのだと訴える必要があったのでしょう。
ドラマの重要なモチーフですから、今のうちから強調しておかねばならないというわけでしょうね。

永禄8年(1565)から話は急に天正元年(1573)まで飛びました。
5歳だった与六は14歳になったわけですが、とてもそうは見えませんでした(笑)。こればかりは致し方ないでしょう。
本来なら、永禄8年は将軍足利義輝が暗殺された年。
輝虎にはとても関係が深い人物です。何より輝虎の一字は義輝からの拝領ですから。
まあ、輝虎時代の話を複雑にしても本筋からはずれるという判断は理解できます。

ただ、問題は天正元年ですよね。
信長と織田家中が武田信玄が攻めてくると色めき立っていました。
また兼続と又五郎(のち泉沢久秀)が川中島に出かけたのも新緑の頃に見えました。
武田信玄が他界したのは4月12日。
まだ信玄は生きているようですから、明らかに改元前の元亀4年ですよね。天正元年となるのは、7月28日からです。

天正元年だろうと、元亀4年だろうと、どっちでもいいじゃないか。改元後の年号のほうがわかりやすいというのもひとつの意見でしょう。
あえて異議をとなえませんが、信玄の西上作戦とその死は「元亀争乱」の画期でした。
だから、できれば、元亀4年と表記してもらったほうが個人的にはよかったかなとも思います。

信玄の西上作戦中、川中島の海津城を守る高坂弾正が登場するというのも、少し意表をつきますね。高坂は西上作戦に従軍せず、川中島で上杉の監視役となっていました。
だから、与六と又五郎が高坂勢と遭遇するというのは決して不自然ではありません。
ただ、軍勢が「赤備え」でしたね。
武田軍の「赤備え」といえば、山県昌景かなという気もしますが……。
高坂勢も「赤備え」という史料はあったかどうか、よく知りませぬ。

細かい点ですが、信長は岐阜にいましたね。
信玄はすでに三方ヶ原で徳川家康を破っており、遠江西半に達しているわけですね。与六たちのいた川中島の新緑を考えれば、大目に見ても旧暦3月頃でしょうか。
信長の動向を『信長公記』で追えば、同年2月20日、岐阜を発して、信玄に呼応した足利義昭方の山岡光浄院を石山で撃破して上洛しています。
ドラマは史実と少し時系列がずれている感じがしますが、まあ、許容範囲でしょう。

今回はさほど書くこともなく、あえて重箱の隅をつつくような穿鑿をしてみました。

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【2009/01/11 23:07】 | 天地人
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新緑
武藤 臼
こんにちは。
ドラマのことなので笑い話として突っ込みを入れますと、あの新緑の緑色、長野近辺では早く見積もっても新暦で5月以降、多分中旬以降かなと思います。
山桜が5月まで咲いている土地柄です。
少なくとも4月中はあり得ない緑色です(笑

別の話で恐縮ですが、『天地人』最終回が11月22日だというのを先日知りました。
『坂の上の雲』をその後に放映というのはちょっと驚きましたが、これって一般にはもう知れ渡ってることでしょうか。
最終回は数えてみると47話ですね。




はじめまして。
五遷・主簿
歴史が好きなのに、アニメ記事もよく書いているブログを運営しています。歴史の考察とドラマの違いを指摘され、きちんと歴史も学ぶつもりで相互リンクをしたいのですがいかがでしょうか?
>『坂の上の雲』をその後に放映というのはちょっと驚きましたが、これって一般にはもう知れ渡ってることでしょうか。

 ブログの人達の間では殆どが知っていました。

>ただ、軍勢が「赤備え」でしたね。

 ア、そうでしたね。いずれ真田幸村(人質時代)も出てくるはずですので楽しみです。

お久しぶりです
木暮兼人
大河はリアルタイムでは見れそうにありませんが
毎週チェックしていく所存です。

今週はまだ視れておりませんが岐阜城の信長のシーンがあったのですね
先週の信長と秀吉のシーン
 #信長が馬に乗っている後ろを秀吉がついてまわる
が「小牧山城」となっていましたが
小牧山城の築城が1563年とのことですから
こちらはありえない話ではないのですよね?

小牧山城というのは大河ではマイナーだったと思います




桐野作人
五遷・主簿さん、はじめまして。

コメント有難うございます。
リンクは知り合いだけに限定して必要最小限にしておりますので、申しわけありません。
今後ともよろしくお願いします。

小牧山城?
桐野作人
木暮兼人さん、お久しぶりです。

落ち着かれたようで何よりです。

私がよく観ていなかったのかもしれませんが、信長と秀吉が初登場したのは小牧山城だったのでしょうか? テロップが出ていたのかもしれませんが、気づきませんでした。

信長が小牧山城に移ったのは永禄6年(1563)2月ですから、ドラマでは永禄8年のあたりで、かつ美濃攻略の前だったと思いますので、史実どおりだと思います。



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南日本新聞連載「さつま人国誌」第91回
―大胆な旧習打破の企て―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

先週は正月三が日でお休みしましたので、今回からが今年の始動になります。
大久保利通の大坂遷都論について書いてみました。

大久保がなぜ大坂に首都を移そうとしたのか、その理由がよくわかります。
数百年来、一塊したる因循の腐臭」というフレーズが強烈ですね。
京都に天皇がいる限り、明治国家は国際社会に船出できないという思いが大久保に強かったことがわかります。
それと同時に、公家を中心に遷都反対が根強かったのも、よく理解できます。
すべて先例に従い、由緒と伝統のみを頼りにして生きてきた集団ですから、何より新規を嫌いますし、しかも首都移転は驚天動地の「新規」でしょうから。

考えてみれば、大久保に先行して大坂遷都を企てた人物はほかにもいますね。

羽柴秀吉です。

秀吉は信長が死んだ翌年の天正11年(1583)から、さっそく大坂築城を始めますが、それは同時に、朝廷の大坂移転を伴う計画でした。
結局、朝廷の反対により、秀吉の構想は頓挫します。

秀吉といい、甲東といい、政権交代と同時に遷都を考えるあたり、行動原理に共通性があるような気もします。
鉄は熱いうちに打て」という機敏さを感じます。

秀吉は失敗しましたが、甲東は形を変えながら、東京遷都を実現しました。

次回は、大久保の大坂遷都のアイデアがどこから、誰から生まれたのかを書く予定です。
あまり知られていないと思います。

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【2009/01/10 13:46】 | さつま人国誌
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ばんない
何年か前にNHKの『その時歴史が動いた』で「幻の大阪遷都」は一度取り上げた記憶があります。その番組では大阪遷都→江戸遷都・東京改名となった主原因の人物をM氏としていました。桐野さんは別の結論があるのでしょうか、来週が楽しみです。

今回のコラムで2,3興味深かった点など。
(1)「北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)」
「前姦」は源頼朝=源とならねばおかしいはずですが、そうしなかったのは、大久保の元主家であった島津家が頼朝末裔を称したため言及を避けたのでしょうか?
(2)「公家のための天皇ではなく、人民のための天皇という絶対君主」という大久保の理想
大久保死後、「真の天皇親政」を目指した一派が排斥され、実質的には「立憲君主制」になっていくのですから皮肉な物です。しかも前者の推進者には国学を信望するいわゆる旧式思考の人が多く(明治天皇はこちらの派に同情的だったようですね)、後者の推進者は伊藤博文ら当時の政府中心者+徳大寺実則をはじめとする旧公家出身者だったのですから…。
(3)羽柴秀吉の「遷都」計画
「関白」という公家の筆頭に立つことで政治を牛耳ろうとした秀吉なら当然の発想だったでしょうし、そのため反対にあって逆に京に聚楽第という新たな本拠を築かなければいけなくなった理由も分かるように思います。
そういえば、秀吉以前に遷都をやらかした人物がいました。平清盛です。結果はやはり数年にして京に戻る羽目になりましたが…。

大坂遷都の発案者
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

(1)は建武の新政を念頭に置いているから、北条だと思います。
 この時期の志士層は大久保を含めて、王政復古の原点を建武の新政に求めているような気がします。
源頼朝を政権簒奪者と規定してしまうと、武家の存在そのものを全否定せざるをえなくなります。そうしたら、武士である志士層も自分たちの行動の正当性も問われることになります。だから、頼朝は俎上に上がらないのだと思います。

建武の新政だと、武士もそれなりの地位や役割を与えられました。あくまで天皇親政の補佐者としてですが。それでも、武家の関与は正当化されます。だから、楠正成や新田義貞などがこの時期もてはやされるようになりました。
そういえば、楠公の湊川神社を建立したのも薩摩でしたね。
楠・新田などは善、北条や足利は悪という二元論でしょう。

もっとも、明治以降は皇国史観が強まり、頼朝自身も否定されるようになっていくようです。明治草創期の思潮とは異なる気がします。

(2)大久保も漸進的に立憲君主制に傾いていったのではないかと思います。

(3)平清盛もいましたね。ただ、大坂ではなく福原だったので、ここではあてはまらないかもしれません。

M氏というのは、郵便の人でしょうか?
もしそうなら、新聞連載でもすでに取り上げたこともありますが、あの人は東京遷都論なので、少し違うかもしれません。大久保の周辺で、先駆的に大坂遷都を唱えた人物がいます。次回はそれをご紹介します。お楽しみに。





太平記
NAO4@吟遊詩人
>北条という前姦(ぜんかん)の跡に足利という後姦(こうかん)が生じ、(建武の)覆轍(ふくてつ)を踏むことは必然である

近代国家を目指す大久保の言としては、今の感覚で考えると笑ってしまうのですが、当時の人の教養としては、太平記紛いの話をするのが分かりやすかったのでしょうね。

太平記
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

幕末の志士たちの歴史観は興味深い問題ですね。
「王政復古」とか「尊王」「勤王」の原点をどこに求めるのか、意外と見すごされがちで重要かもしれません。

前にも書きましたが、神武創業まで戻ると、源頼朝が政権簒奪者になってしまい、武家の役割を否定せざるをえなくなります。
それでは都合が悪いので、武家の役割が認められた「王政復古」といえば、やはり建武の新政なんでしょうね。
もっとも、これは短期間で頓挫してしまいました。それを後醍醐天皇や朝廷にその因を求めるわけにはいかないので、武家、足利尊氏に責めを負わすことになるのでしょう。

大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?


後姦
NAO4@吟遊詩人
>大久保が心配している「後姦」とは誰なんでしょうね?

この件をあまりお聞きしては野暮なのしょうが、島津久光を想定しているということなのでしょうか。
久光が「自分はいつ征夷大将軍になれるのか?」と言ったとかいう話を思い出してしまいました。史料的な裏付けがあるのかないのか突き詰めたことはないのですが、その話と結びつけると、大久保の焦りに真実味を感じてしまいます。

難波遷都、福原遷都
ばんない
こんにちは。2回目も拝読させていただきました。

今回は「難波(=大坂)」遷都という地域限定でのお話のようですが、平清盛も
・政権の中枢を京以外の場所に移す
・その場所は港湾が便利なこと
という点で見ると福原遷都も似たような目的なのかなあ、と漠然と考えてみたりしました。

ちなみに清盛のころの難波は渡邊津が熊野詣での拠点となっていたという話もありますが(URL参照)、交易の拠点としては土砂の堆積が進んでいたこともあって重要度が下がっていたのか、余り史料には出てこないですね。最も、渡邊津が平家の勢力範囲外だったのも遷都先になれなかった理由でしょう。

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本日、近日刊の『信長公記を読む』(堀新編、吉川弘文館、2800円+税)の見本が届いた。私も少し書いています。

吉川弘文館の「歴史と古典」シリーズ(全10巻)のうちの1冊です。同社のサイトはここです。
見本が出来たばかりなので、まだサイトの新刊紹介には掲載されていません。
あと1週間か10日ほどしたら、書店にも並ぶでしょう。その頃にはサイトにも詳しい案内が載ると思います。

脱稿したのは、もうだいぶ前でした。いつだったかも忘れてしまいました。
ただ、初校ゲラでだいぶ手を入れたのと、戻しが遅れに遅れたため、担当編集者に迷惑をかけてしまったのはよく覚えています(爆)。言い訳がましいですが、その頃は講演であちこち飛びまわっていた頃でした。

帯キャッチ、執筆者と論題を挙げておきます。

【帯キャッチ】
「”信長””秀吉”を知る一級史料!
 安土城・宣教師・茶の湯・合戦などをキーワードに、原典を読み解く」

【執筆者と論題】

堀  新……信長公記とその時代

Ⅰ 史実と古典
柳沢昌紀……信長公記と信長記、太閤記
和田裕弘……コラム/信長公記の諸本
松下 浩……信長と安土城
桐野作人……信長と合戦
桐野作人……コラム/本能寺の変
松本和也……宣教師からみた信長・秀吉
斎藤悦正……コラム/戦国の村社会

Ⅱ 構想と世界観
村上 隆……太田牛一の歴史認識
久保健一郎…天下と公儀
長谷川泰志…戦国軍記の構成と構想
竹間芳明……コラム/呪いの文字瓦

Ⅲ 信長公記、太閤記以後
阿部一彦……信長・秀吉像の変遷
桐野作人……コラム/お市と濃姫
矢部健太郎…天下人と茶の湯
川戸貴史……コラム/楽市楽座と撰銭令
高橋 修……「長篠合戦図屏風」を読む


という三部構成になっています。
私は「信長と合戦」というテーマで書きました。
友人の研究者も何人か執筆しています。
個人的にも興味深いテーマもありますし、力作もあります。
ハードカバーの概説本なので、多少値が張りますが、買っても損はない内容だと思います。
信長や秀吉に関心のある方はどうぞお買い求め下さい。

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【2009/01/09 00:42】 | 新刊
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おもしろそうな本ですね。
NAO4@吟遊詩人
>『信長公記を読む』(堀新編、吉川弘文館、2800円+税)
何か、とても面白そうですね。
是非購入させていただきます。

>吉川弘文館の「歴史と古典」シリーズ(全10巻)
気にしていなかったのですが、そういえば、書店で見かけたことがございます。

よろしくお願いします
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

この本に注目していただき、うれしいです。
近いうちに書店に並ぶと思いますので、よろしくお願いします。

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昨夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。
テーマは「小松帯刀と幕末薩摩藩」の5クール目。
詳しくは、こちらをご覧下さい。

年明け早々から始まった。
今回は受講者の人数が多い。
ずっとシリーズものの続きで、途中からは参加しにくいはずではないかと思うが、有難い限りである。

今回は「四境戦争後の形勢」と題して行った。
前シリーズの最後の2回で将軍家茂と孝明天皇の死をそれぞれ取り上げたが、今回はもう一度、将軍家茂の死(慶応2年7月頃)に戻る。四境戦争で長州藩が勝利したのちの形勢を見るのが目的。

前回、公家衆22人による8・30列参運動に少し言及したので、もう少し詳しく説明しようと思い、顛末がよくまとまっている『大久保利通日記』を読み始めたが、議奏や武家伝奏、天皇の小番衆である内々と外様の違い、また近世になって創設された近習番などを説明しているうちに、またたく間に時間が経って、1時間も要してしまった。
ほんのさわりだけのつもりが、ほとんどメインになってしまう。

でも、中味は面白かった。列参運動の中心的人物である中御門経之や大原重徳が舌鋒鋭く、尹宮朝彦親王(一会桑権力の守護者)を非難しているだけでなく、孝明天皇に対しても、「朝廷之御失躰」を認めるよう、激しく迫る様は、宮廷内の下剋上的実力行動の激しさと、孝明天皇の孤立化を見る思いがした。
中御門はのちに討幕の密勅の署名者だし、大原は親薩摩の公家。
二条関白と朝彦親王を追い詰めて、彼らが孝明天皇の死を契機に、一気に朝廷の主導権を握るようになる伏線となるような事件といえよう。

でも当然、後ろにしわ寄せ。
15枚のレジュメの半分ほどしか進まなかった。
またしても、時間配分のミスである。まったく学習能力がない、懲りない講師である(爆)。
こうなったら、開き直って時間やペース配分をそれほど気にせず、自分が語りたいことを語ったほうがいいのかもしれないなと、感じた次第。

次回は今回のレジュメの続きと、いわゆる将軍空位時代について考える予定です。

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【2009/01/07 23:58】 | てらこや
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NHK大河ドラマ「天地人」第1回「五歳の家臣」

いよいよ始まりましたね。

冒頭、子役だけではもたないので、天正14年(1586)の上杉景勝の初上洛のところから始まりましたね。豊臣秀吉・北政所・石田三成が、顔見せ的に登場しておりました。
場面は大坂城での歓待だったと思われますが、「人たらし」の秀吉が直江兼続に砂金を積んで、自分の家来になれと強制しておりました。まあ、ありえないフィクションですね。
秀吉は上杉家を東国取次とし、徳川家康と競わせようとしていましたから、兼続を家来にしてしまうと、上杉家が弱体化してしまい、目論見が達せられなくなりますから。

それに、どうせ秀吉の「黄金太閤」ぶり(実際は関白ですが)を演出するなら、史実では、秀吉が大坂城の黄金の茶室で上杉景勝をもてなしています。茶頭は千宗易(利休)でした。黄金の茶室と金の天目茶碗のほうが豪勢で面白いと思いますが、そこには兼続は招かれなかったようですから、具合が悪かったのかな? あるいは単に予算の問題?

なお、景勝は京都で参内して、従四位下・左近衛権少将に叙任されています。いわゆる公家成です。兼続も叙爵(五位)したという説もありますが、それはおそらく2年後のことでしょう。

石田三成についてですが、大坂城天守から秀吉と2人で、下を見下ろしていました。三成は秀吉の前で腕を組んでいましたね。
とても不躾、不届きな態度です。演出がいただけませんね。ふつうなら、後ろに坐って控えるべきでしょう。


一転して、幼少の坂戸城時代になりました。
永禄7年(1564)から始まりました。たしかに兼続は数えの5歳ですね。
長尾政景の水死事件が描かれました。
これは同年7月5日のこと。
上杉輝虎はその知らせを関東で聞くという設定でしたが、おかしいですね。
そのとき、輝虎は春日山にいるはずです。同月末に出兵しますが、それも関東ではなく信濃です。
そして、川中島で武田信玄と対陣しますが、2カ月間にらみ合っただけで撤退します。いわゆる第5次川中島合戦です。

そのほかは、ほとんど創作ばかりで、とくにコメントの必要を感じません。
子役は健闘していましたが、何となく「篤姫」を意識した演出だったような気がします。
あと、ナレーションで上杉と(上田)長尾の対立と説明していたのもいただけません。同じ長尾一族だと一言あってもよかったのでは。

輝虎を演じた阿部寛はかっこいいですね。まるで劇画から抜け出てきたようでした。個人的には、そのままずっと主役をやってくれてもいいですけどね(爆)。

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【2009/01/05 00:11】 | 天地人
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ぶるぼん
桐野先生、新年あけましておめでとうございます。
本年度もコバンザメでトラックバックをしつこく貼らせていただくことになりますが、会員すら関心の薄い当会ブログのアクセス増のための些細なご支援と思ってお許しください。
こちらも少しばかり写真・スタンプなどを極力UPして、歴史への関心をもってもらえればと思っています。

北斗の謙信
ばんない
旧年中はいろいろとこちらではお世話になりました。

今回は途中から拝見、お怒りの「三成腕組みシーン」は見られなかったのですが(苦笑)、まあ、ドラマとしては去年の第1回よりは大河らしくなってはいたと思います。でも第1回であんなにロケしたら早々と予算のほうが息切れで尻窄みになりそうですね…。

阿部寛の謙信(輝虎)は確かに迫力ありましたね、アレでは謙信と言うよりケンシロウという方がふさわしいですが(爆)。今回の謙信の位置づけは2001年の大河『北条時宗』の北条時頼(演じたのは渡辺謙)に似ているように感じました。『時宗』の時は時頼が死んで渡辺謙が出なくなると途端に脱落した人が多かったですが…(私もその一人ですが 汗)
あと、御歳60歳なのに吉川モニカ晃司の乗る馬に必死で徒で追いすがる笹野高史の木下藤吉郎に思わず(同情の)涙が…。

構いません
桐野作人
ぶるぼんさん、こんばんは。

トラックバック、全然構いませんよ。
もしかすると、相互リンクしたようがいいのかとも思いましたが、毎週1回のトラックバックのほうが目立つかもしれませんね。
いつも、あちこちのスタンプをよく集めていらっしゃるなと感嘆しながら拝見しています。

ケンシロウ
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

そうそう、輝虎はケンシロウぽかったですね。
あとよく知らないのですが、ゲームの「戦国ばさら」にも似ているとかいないとか?

北条時頼と時宗の関係と同様というのはまったく同意です。
じつは偶然ですが、私も最近「時宗」と似ているという話を友人に話をしました。
輝虎は7,8回は登場するようですね。
たしか、時頼も10回くらいは出たような?

また、子役と大人の主人公の入れ替わりについては、「義経」を思い出しました。もっとも、神木龍之介くんの演技と可愛さは絶品でしたけどね。

今回は入れ替わりのショックを少しやわらげようという工夫だったのでしょうか。




上杉景勝と徳川家康
御座候
>秀吉は上杉家を東国取次とし、徳川家康と競わせようとしていました

「競わせようとしていた」というのはどういう意味ですか? 景勝上洛時点では、家康はまだ豊臣政権に臣従していませんよね。北条氏との同盟を梃子に関東に影響力を浸透させつつある徳川家康という「仮想敵」を景勝に牽制させる、という意味でしょうか?

東国取次
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

ご質問の件ですが、景勝のほうが家康より少し先に上洛しているのはたしかですね。景勝が天正14年6月、家康は10月です。
本来は二人をほぼ同時に上洛させたかったのでしょうが、家康のほうが景勝よりも豊臣政権との間に懸案事項が多かったので、上洛手続きが長引いたからでしょう。

「競わせる」というのは、家康が豊臣政権の「仮想敵」というよりは、豊臣政権の東国支配(惣無事令にも関わりますが)に家康だけでなく、景勝も関与させようという秀吉の狙いがあったという趣旨です。

まず、初上洛=臣従においても、石田三成らが景勝に対して、「関東の境目が決まる前に上洛したほうがよい」という副状を送っています。明らかに家康を意識した内容で、家康より先に上洛した方が得策だ(秀吉の覚えがめでたい)と暗に勧めています。

その後、家康は上洛したのちの同年12月頃に、秀吉から「関東惣無事之儀」を命じられていますが、同年9月、景勝も「関左并伊達・会津御取次」を命じられています。
さらに、同16年には景勝も家康と同様に清華成して、同じ家格になっています。

これらのことから、豊臣政権(秀吉ー三成)は二人が東国政策において重要な役割を果たすよう期待したと思われます。同時に、それは両者を競わせることでもあり、相互牽制の側面もあったのではないかという趣旨です。




徳川家康と上杉景勝
御座候
懇切丁寧な御解説、有り難うございます。

ただ、家康臣従後は景勝の取次行為が減少しており、この事実に基づき、東国取次は主に家康が担うことになった、というのが通説的理解であるように私は思うのですが・・・お考えがございましたら、ぜひ御教示下されば幸いです。

通説的理解
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

ご指摘のように家康が東国取次で、景勝は後景に退いたというのが通説的理解でした。
でも、最近、豊臣政権の東国政策において、景勝の役割や関与を再評価する動きもあります。とりあえず、下記論文を参考に書いてみました。

矢部健太郎「東国「惣無事」政策の展開と家康・景勝--「私戦」の禁止と「公戦」の遂行」『日本史研究』509号、2005年


新説
御座候
御存知かもしれませんが、更に、矢部説を批判し通説を改めて支持する論文もございます。その点については如何でしょうか?


戸谷穂高「天正・文禄期の豊臣政権における浅野長吉」『遙かなる中世』21号、2006年

有難うございます
桐野作人
御座候さん

戸谷論文は未見なので、勉強させてもらいます。
ご紹介有難うございました。

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昨年暮れの話題で恐縮です。

書くのがすっかり遅れてしまいましたが、12月25日、名古屋の栄・中日文化センターに出講。
講座「本能寺の変を読み解く」第3回です。

今回のテーマは「長宗我部氏と織田権力」。
天正3年(1575)、両者の同盟以来、同9年あたりから同盟が崩壊しそうな前兆までをやる。

とくに、元親が秀吉に宛てた書状(「吉田文書」)をかなり詳しく取り上げた。
元親は秀吉に三好康長の動静を尋ねている。讃岐に上陸したのではないかと不安げである。
この書状で面白いのは、同年7月までに本願寺の顕如・教如親子が降伏したのち、それに不満な主戦派の牢人衆が渡海して阿波勝瑞城を乗っ取ったという記述である。
そのとき、三好存保はどうしていたのか、牢人衆とは誰かなど興味は尽きないが、どうも、牢人衆は反信長派だった三好存保に庇護を求めたのではないかと思われる。
また、「紀伊之輩」もこれに加わっているとあるが、おそらく雑賀衆の土橋派だろう。雑賀衆主戦派の阿波進出により、阿波南半の有力者新開道善が離反するなど、元親は阿波の平定に難問を抱え込んでいたようである。
三好康長の讃岐渡海はおそらく信長の命であり、阿波を元親だけに任せられなくなったという信長の判断ではないかという気がする。

この書状で、元親は讃岐・阿波両国の帰属を条件に、信長の西国攻め(毛利攻め)に協力を惜しまないと強調している。裏を返せば、この条件が満たされないか反古にされたら、その限りではないということで、実際、その通りに展開していく。

信長は翌9年に毛利氏への総攻撃を計画していた(実際は1年延期されるが)。
そのために、九州の島津・大友の和平を調停し、四国においても毛利攻めの態勢構築を急いだ。その過程で、元親の要求がわがままに映ったのではないか。我欲ばかりで「天下」へ奉公しようとしないと見切られてしまった可能性がある。

そんな話をした。
次回は、神戸信孝の登場と四国問題を取り上げる予定。

講座終了後、主催者側と「本能寺の変」ツアーの打ち合わせ。
4月23日(木)早朝、名古屋栄の中日文化センター集合の日帰りツアー。
主な探訪地は、丹波亀岡(光秀の亀山城)から光秀の進撃ルートを辿り、洛中の本能寺関係史跡をめぐる。最後は小栗栖で締めるということになりそう。

詳細は正式に決定してからまた告知します。
東海方面の方々のご参加をお待ちしております。

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【2009/01/03 17:53】 | 中日文化センター
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謹賀新年
本年もご愛読よろしくお願いします。

今年の大河ドラマ用にカテゴリー「天地人」を追加しました。
昨年ほどは頻繁に更新できないと思いますので、あらかじめご了承のほどを。

さて、旧聞に属しますが、昨年、学研新歴史群像シリーズ16「上杉謙信」で「上杉家の相続問題」と題した拙稿を書きました。
そのなかで、上杉景勝が謙信存命中に「弾正少弼」の官途を名乗っていたかという問題について、櫻井真理子「上杉景虎の政治的位置」(『武田史研究』28号)を紹介して、景勝の覇権が確立してからの創作だと述べました。

この官途はいうまでもなく謙信が名乗ったものです。したがって、景勝が謙信存命中に名乗っていたら、後継問題において重大な要素となります。
しかし、櫻井論文に基づいて、御館の乱勝利後に名乗ったとすれば、景勝の家督相続の正統性にも関わってくる問題です。

私は、櫻井論文と木下聡論文「山内上杉氏における官途と関東管領職の問題」(『日本歴史』685号)を参考にしながら、景勝の弾正少弼名乗りは御館の乱後であり、一方、景虎が官途を名乗らず「三郎」の仮名(けみょう)のままなのも、必ずしも関東管領が仮名のままで官途を名乗らなかったこと(つまり、景虎は関東管領職に就いたか、就く予定だった)を意味するとは限らないのではないかと、私見を述べました。

なお、上杉景虎の「三郎」名乗りについて考察した木下論文については、以前、当ブログのここで紹介したことがありますので、ご参考までに。

これについて、議論の前提となる景勝の弾正少弼名乗りについての別の論文を見落としていたことにあとで気づき、汗顔の至りです。しかも、その論文を持っていたのに読み落としたのですから、何をかいわんやです(トホホ)。

その論文は、以下の通りです。

片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」(『上越市史研究』10号、2004年)

片桐論文では、景勝が謙信存命中に「少弼」と名乗った書状を普光寺住職に出していることを紹介するとともに、景虎自身が御館の乱勃発からまもなく、芦名盛氏に宛てて「少弼無曲擬故」云々と、景勝のことを「少弼」と呼んでいることも紹介し、もし景勝が謙信死後に勝手に名乗ったものなら、景虎が認めるはずがないと指摘しています。

片桐論文は典拠を示して、景勝が天正3年(1575)正月に謙信から弾正少弼を譲渡されたと結論づけています。なかなか説得的な見解だと思います。

あえて疑義を呈するとすれば、普光寺宛ての景勝書状(片桐氏は天正3年とする)にある「今度従 上様御幕なと被下、官途させられ候」という一節で、片桐氏は「上様」を謙信だとしていますが、足利義昭ではないかという素朴な疑問もないわけではありません。
しかし、上杉家の当主が家中から「上様」と呼ばれた事例はほかにもあります(『上杉家文書』762号など)。この場合も謙信から景勝に与えられたと見て大過ないのではと思います。

以上から、景勝が謙信存命中の天正3年に弾正少弼の官途を名乗ったというのは間違いないと思われます。
とすれば、景勝はやはり謙信の有力後継者だったことは間違いないことになりますね。

一方、景虎の「三郎」名乗りは、関東管領職をほとんど独占した山内上杉氏の仮名名乗りに準じたものなのかどうか。もっとも、山内上杉家氏の歴代当主は「四郎」か「五郎」が多いですし、直近の憲政にしても「五郎」です。
景虎を山内上杉氏の当主かその継承予定者とするなら、「三郎」は実家の後北条氏時代からの名乗りなので不適切ではないのか、「四郎」か「五郎」への改名の必要はないのか、といった疑問もあります。

相変わらず、この問題は難しいですね。
ドラマでどのように解釈するのか注目されるところです。

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【2009/01/02 11:55】 | 天地人
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興味深いです。
NAO4@吟遊詩人
>桐野さま
本年もよろしくお願いいたします。
早速取り上げていただいた「上杉景勝の弾正少弼」は、興味深く読ませていただきました。「御舘の乱」は知ってはいるものの、「景勝」と「三郎景虎」のそもそもの上杉家内部での立場、後北条氏の動きなど、突き詰めてないところがたくさんあり、この方面の知識を広げるのに、ご提示いただいた論文は役立ちそうな気がしております。

私は、歴史の興味を大河に合わせて、時代を行ったり来たりさせているところがあり、今年は幕末より戦国に比重が移りそうです。「天地人」は直江兼続が主人公であることもあり、中央政府の視点でない、歴史が見られて面白いかもしれません。

何かとよろしくお願いいたします。

今年の大河ドラマ
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

新年早々のコメント有難うございます。
今年の大河はどうでしょうね。直江の幼少時代などはわかっていないので、ほとんど創作だと思いますが。
予告編を見たかぎりでは、直江と景勝の切っても切れぬ縁が描かれそうですね。

個人的には、上杉氏と中央政権との関わりをどう描くかに興味があります。
ですが、あまり期待値を高めないでおきたいです(笑)。

上杉景勝の官途継承
板倉丈浩
おはようございます。

>片桐昭彦「上杉謙信の家督継承と家格秩序の創出」

この論文は私も読みましたが、片桐氏の指摘のうち、景勝の「弾正少弼」継承を景虎が認めていたという部分については、史料的に首肯できます。
しかし、御指摘の通り、景勝書状の「上様」は将軍義昭とも解釈できますよね。
となると、謙信没後の文書である可能性も出てきます。

上杉家御年譜によると、謙信が死去した天正6年3月13日の記事で「去ル天正四年御名字譲与シ玉フ事モ今日決定ス」とありますから(『御年譜』は謙信の名字官途譲状を天正4年のものとしている)、それまでは景勝の官途継承は正式に決定されていなかったようです。
ですから、件の景勝書状も謙信没後のものと解釈するのが妥当ではないかと思いますがどうでしょう。

>景勝が謙信存命中の天正3年に弾正少弼の官途を名乗った
>とすれば、景勝はやはり謙信の有力後継者だったことは間違いない

上杉家の公式解釈はそうなんですが(『御年譜』に「御家督ノ御底蘊ナルヘシ」とある)、私は官途継承と家督継承は別問題ではないかなと考えています。
確かに大名の後継者が(先例重視で結果的に)官途を継承する例は多いのですが、逆は必ずしも真ならずで、「筑前守」の前田利家は秀吉の後継者ではありませんし、「三河守」の結城秀康や松平忠直は家康の後継者ではありません。
(他の家臣に比べて特別扱いしているのは間違いないですが)
官途とあわせて「上杉」の名字をわざわざ譲与しているところも、羽柴姓や松平姓が有力大名に授与されたことを想起させますし、景勝はやはり家臣扱いだったのではないでしょうか。

>相変わらず、この問題は難しいですね。

これは、全く同感です

新刊紹介
市野澤 永
昨年に出版して欲しかったですが、
今福匡氏の著書は好きですね。

書名 上杉景虎
   謙信後継を狙った反主流派の盟主
著者 今福 匡
価格 \1,890(税込み)
出版 宮帯出版社
ISBN 978-4-86366-077-9
発行 2011年2月

詳しくは、こちらまで ↓http://www.miyaobi.com/publishing/




今福さん
桐野
市野澤さん

今福さんが新刊を出しましたか。
前作の『直江兼続』はよかったです。おそらく現段階で最上の史伝かと。


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