歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
南日本新聞連載「さつま人国誌」第98回
―坂本龍馬とお龍を匿う―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回からの続きで、伏見藩邸とゆかりのある人物として、坂本龍馬・お龍夫妻、三吉慎蔵(長府藩士)を取り上げました。
慶応2年(1866)1月23日の有名な寺田屋事件ですね。

紙数の関係で書けなかった点を補足しておきます。
龍馬が伏見奉行所の役人に襲撃されたのち、どのようにして伏見藩邸に収容されたのかを書きましたが、とくに注目すべきは、水路を使ったことです。前回も島津斉彬の側用人山田壮右衛門が大坂から伏見藩邸前に「着船」したと述べました。

伏見藩邸前を流れる運河はかつての伏見城(豊臣期・徳川期)の惣構の堀がそのまま遺ったものです。この堀は現在も水量豊富です。高瀬川や賀茂川ともつながっていませんし、その水源はどこになるのでしょうか。

この堀を使って、大山彦八が負傷した坂本龍馬を救出したわけですが、龍馬が潜伏していた材木小屋はこの堀と面した因州屋敷(鳥取池田家藩邸)の船入り沿いにあったようです。明治期の地図にはこの船入りがちゃんと描かれていますが、現在は埋め立てられたようですね。

一応、材木小屋あたりの写真を載せておきます。
手前の運河は上流(左方)になる伏見藩邸前とつながっています。

材木小屋




この事件を詳しく述べているのは龍馬の警固役だった三吉慎蔵の日記と、お龍の回想録「千里駒後日譚」です。とくにお龍の回想録がリアルかつ具体的で面白いですね。

龍馬が潜伏した材木小屋は露天の置き場か、それとも屋根の付いた小屋かという議論がありました。三吉は「川端の材木貯蔵」と書いており、屋根があったかどうかわかりませんが、「其棚の上」に2人で隠れたとも書いていますから、小屋の中の目立たない場所に隠れていたことを暗示しています。またお龍は2人が「板屋」で一夜を明かしたと書いています。お龍は2人からの伝聞を書いたものですが、「板屋」というのは屋根のある小屋をイメージさせます。
実際、明治期と思われる古写真が残っているようですが、ちゃんとした三角屋根のついた小屋ですね(伊東成郎「寺田屋遭難」 新歴史群像シリーズ『維新創世 坂本龍馬』)。

また、お龍は龍馬が幕吏に放ったピストルは小松帯刀からもらったものだと書いていますが、龍馬の書簡に高杉晋作からもらったと書いていますので、この点はお龍の勘違いだと思います。
もっとも、龍馬はそのピストルを寺田屋に捨てて来ているようです。でも、霧島の塩浸温泉に宿泊していたとき、ピストルで鳥を撃ったと乙女姉さん宛ての手紙に書いていますが、このピストルは誰からもらったものかということになります。これがおそらく小松がピストルをなくした龍馬に護身用として与えたものではないかと思います。お龍はこのピストルを実際に見ているだけに印象に残っていて、とり違えたのでしょう。

次回は99回目です。もうすぐ大台ですね。

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【2009/02/28 12:05】 | さつま人国誌
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濠川の水はどこからくる?
ばんない
現在は琵琶湖疎水から取っているようですね>松山酒造の堀
松山酒造近辺の地図→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.45.41.4N34.56.3.8&ZM=11
この地図をスクロールしていくと、取水口はこうなります→http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E135.46.3.7N34.56.30.5&ZM=11

参考サイトはこちらです→産業技術遺産探訪 http://www.gijyutu.com/ooki/isan/isan-bunya/biwakososui/sumi/sumi.htm
京伏見ぶろぐ処→http://kytfushimi.exblog.jp/6287973/

明治時代の琵琶湖疎水開通以前にどこから取水していたかは存じません。もっと詳しい方の御回答をお待ちしたいと思います。

有難うございます
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

さっそくのご教示、有難うございます。
現在は琵琶湖疎水が水源なんですね。
私も一応地図で確認してみたのですが、運河(濠川)の最上流の近くに琵琶湖疎水があるのはわかったのですが、つながっていないように見えたのです。
ご教示のあと再度確認してみたら、疎水と運河の接合部分に鉄道か何か別の線が被さっていて、そちらの色で表示してあったので、隠れて見えなかったようです。
疑問が解決して助かりました。

琵琶湖疎水は明治中期くらいに出来たものですから、幕末当時はなかったことになりますね。
となると、運河の水量は今より少なかったのでしょうか?
あるいは涌水など別の水源があったか?

壕川の水
橋場
こんばんは。伏見城の堀の水源については江戸時代の絵図で現在の鑓屋町から東へ620間(1128m)あたりの地点まで水路の痕跡が確認できるそうですから、深草大亀谷の近辺が東端でしょうか。とすると、やはり「伏水」の別名の通り伏見の豊富な湧水が元々の水源だったのではないか、と思います。

伏水
桐野作人
橋場殿下、こんばんは。

詳しい情報、有難うございます。
やはり東の山に水源があるようですね。
伏水はそういう意味でしたか。龍馬もその字を使っていますね。清酒の産地なのもそのせいでしょうね。

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歴史読本連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ」第16回

掲載誌(4月号)が版元から送られてきました。
そろそろ書店に並んでいる頃だと思います。
興味のある方はご覧下さい。

信長の南伊勢出陣、大河内城攻めはあまり注目されていないので、少し詳しく書いてみました。『信長公記』だけでなく、『勢州軍記』など伊勢の軍記物も援用しています。
『信長公記』陽明本と『信長記』池田家本では、大河内城攻めに参加した部将たちの交名に少し異同があります。池田家本の方が詳しいです。とくに浅井長政の一手が参陣しているのが注目ですね。

それと、「尺際廻番衆」が本格的に登場するのはこの城攻めからではないでしょうか。
谷口克広氏はこの番衆が赤黒母衣衆の系譜を引いた旗本のエリート集団だと指摘しています。
彼らの役割は何だったのか、少し推測も交えて書いてみました。

今回のメインテーマは信長と義昭の不和がいよいよ表面化してきたことです。
永禄12年(1569)10月19日、南都興福寺の僧侶多聞院英俊は日記に「十六日に上意とせりあいて下り了」と、信長の突然の岐阜下向を書き留めています。
信長と将軍義昭の間に、何事か諍いがあったというわけです。

この一件から、信長の有名な「五カ条の条書」へと事態が発展していくわけですけど、今回、注目したのは、信長と義昭の葛藤と同時に、朝廷と義昭の係争も生じている点です。むしろ、こちらのほうが重大だったかもしれません。

一方、信長は朝廷とは非常に良好な関係でした。前回、禁裏小御所庭での天盃が不首尾に終わったので、正親町天皇はその埋め合わせのために、信長を禁裏御所の奥深く、長橋局まで引き入れています。
信長はこの時点でまだ無位無官ですが、長橋局は清涼殿のような表の政庁ではなく奥向きですから、信長を非公式な形で招き入れるのは可能だったのかもしれません。
天皇は信長を非常に頼りにしています。ですから、義昭と「せりあい」た理由が何だったのか気が気ではなく、山科言継を再び岐阜まで下向させています。

あと、義昭も信長を怒らせたのはまずいと思ったのか、上臈の大蔵卿局を岐阜に下らせています。信長との関係修復のために会いに行ったのは明らかです。大蔵卿局の岐阜下向はこれまで指摘されていたでしょうか? 不勉強なのでよくわかりません。
彼女の奔走で、信長も機嫌を直したのか、義昭との手打ちというか妥協が図られます。それが五カ条の条書だと思います。

次回は、五カ条の条書の意味あいについて、新たな解釈を加えてみたいと思っています。

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【2009/02/25 18:27】 | 信長
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ぜひ
NAO4@吟遊詩人
また今月も面白そうですね。買わせていただこうと思います。それにしても、歴史読本は分厚いので、3年も買っていると、結構場所をとります。(笑)

ついつい愛蔵してしまうのですが、適当に捨てていくのが耀のでしょうね。(笑)

貧乏性
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

私も貧乏性でして、これまで書いた原稿が掲載された雑誌など過去20年分を捨てられずにほとんど保存しております。
これを捨てたら、だいぶスッキリするのではないかと思っていますが。

歴史読本は近年、とみに分厚くなりましたね。少し路線が変わったことも関係しているかもしれませんが。
まあ、私の連載だけ切り取って処分してもいいのではないでしょうか(冗談)。

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今年は島津斉彬生誕200年だそうで、鹿児島でもさまざまなイベントがあるようです。とくに昨年の「篤姫」人気を単年で終わらせないために、養父「斉彬」への期待は大きいそうです。

その一環として地元の商店街団体が斉彬の商品券を発売しました(ここです)。昨年は篤姫だったそうです。

地域活性化のためにはけっこうな催し物だと思いますが、その図案には少し疑問というか注文もありそうですね。
そのサイトの中の履歴2月18日条をクリックしていただくと、図案が見えます。
商品券






問題は上段の斉彬ではなく、下段の人物写真です。
左に西郷と大久保、右下に桐野利秋・大山巌・東郷平八郎かと思います。

まず、昨年の「篤姫」熱を持続したいというのであれば、小松帯刀も入れたほうがよかったのではないでしょうか? 昨年の篤姫の商品券で使われた写真は篤姫だけで、小松は入っていません。重複することはないので、西郷・大久保の横に小松を並べてもよかったのでは?
去年の大河ドラマでせっかく知名度が上がったのに、これでは元のもくあみという気がしますし、何よりもったいないです。若い女性向けには、斉彬よりも小松のほうが適任だと思いますけどね。昨年の熱気の継続という観点からいかがかと思います。

もうひとつは瑣末な点ですが、桐野利秋写真。
これは以前から知られている写真ではありますが、合成写真だと思います。
誰かの軍服姿に桐野の顔を乗せたものでしょう。
桐野の肖像写真は何点かありますし、南洲顕彰館にでも相談すれば、快く貸してくれたのではないかと思いますが。商品券に使う図柄としては不適切かもしれませんね。

以上、気づいた点でした。
私は歴史好きとして気になった点を述べただけで、イベントの成功を祈っております。この点は誤解なきようお願いします。

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【2009/02/22 09:45】 | 信長
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まいたけ
 小松がでてないのは、下の商品券が、「郷中教育で育った」薩摩の偉人たちの商品券だからかもしれませんね。
 小松は、さすがに郷中教育は受けてないでしょうから。

 

同感です
シラオ
生誕200年をうたいながら、角度で異なる画像が出ます!っていう、技術のみに頼って^^;
画像に、ビジョンコンセプトが欠落しているかと思います。デザイン性というより、作り手の想いの欠如かなと・・・。
偉人を登場させる時に安易な作りはマイナスになる土地柄^^;そんなところを認識すべきかと思います。大久保さんの登場は時代の変化を伺わせますが^^;
すみません・・・同業者だからこそ、気になります。。

郷中教育
桐野作人
まいたけさん、こんにちは。

そうか、「郷中教育」ということであれば、小松は該当しませんね。
もっとも、桐野・大山・東郷が「郷中教育」を代表する典型的な人物かといえば、異論もあるかもしれませんね。
とくに大山・東郷は明治の人という印象がありますし。知名度で選んだということでしょうか。

先祖返り?
桐野作人
シラオさん、こんにちは。

同業者から見たご意見有難うございます。
技術的なことはわかりませんが、何というか、この図案だと、「篤姫」放映前とさほど変わりませんよね。
まあ、去年の放映をビッグ・ウェーブとは思っていないという冷めた認識をお持ちなら、それはそれでひとつの見識だと思いますので尊重しますが。

でも、新聞記事はそんな感じではなく、篤姫から養父斉彬へバトンタッチだとしていますから、明らかに意識しているはずなんですけどね。
「篤姫」の前と後で、ここが違うというのを見せてもらいたかった気がしますが……。

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南日本新聞文化面連載「さつま人国誌」第97回
―参勤交代用の「御仮屋」―

連載が更新になりました。
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今回は昨年暮れに建碑された薩摩藩伏見藩邸について書きました。
タイトルに「京都の~」と付けましたが、当時の伏見は京都には含まれませんので、不要だったかもしれません。現在の行政区分としてお考え下さい。

伏見藩邸が薩摩藩政のなかでどのような位置づけになるのか、不勉強なこともあって実態がよくわかりません。ただ、現存の史料にもそれほど記事がないのではないかという気がします。

伏見藩邸が重要視されるようになるのは、島津家と近衛家との関係が親密になってくるのと比例しているのではないでしょうか。
島津家と近衛家の婚儀が初めて行われたのは、元禄15年(1702)、薩摩藩5代藩主吉貴の娘亀姫と近衛家久の縁組です。
これは島津家の家格上昇のきっかけとなったと思います。摂関家の近衛家と親戚になったことで、当然、島津家は京都での御用が増えます。洛中には錦小路藩邸があり、留守居または用人が詰めていましたが、やはり藩主が入京する頻度が増えるにつれ、藩主が洛中に宿泊できない分、伏見藩邸の比重が次第に高くなってきたものと思われます。

とくに幕末は、近衛忠煕・忠房の2代にわたり、御簾中は島津家の娘ですからなおさらですね。
もっとも、幕末になると、藩主の入京・宿泊も容易になってきます。薩摩藩は文久3年(1863)、手狭な錦小路藩邸に代わり、新たに二本松藩邸を造営したため、今度は逆に伏見藩邸の役割は小さくなっていったのではないかと推測しています。

伏見藩邸は単なる参勤交代での藩主宿舎という機能にとどまらず、かといって、三都の藩邸ほどの地位にはならなかったという特殊性に注目してみました。

次回は予告どおり、坂本龍馬とお龍が伏見藩邸に転がり込んだ一件を書きます。

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【2009/02/21 11:07】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。『南日本新聞』本文によると薩摩藩伏見藩邸の初出は島津光久のころとのことですが、この時に羊羹の発明に貢献したんでしょうかね?(^^;)
http://www.turuyahatiman.co.jp/column/materials/

後、伏見藩邸とは直接関わりないのですが、一つ愚問があります。「元禄15年(1702)、薩摩藩5代藩主吉貴の娘亀姫と近衛家久の縁組」について言及されてますが、これは誰のお声掛かりだったかご存じでしょうか?山本博文氏も『徳川将軍家の結婚』で6代将軍家宣と天英院熙子との結婚の関連で少し触れてられますが、それでは「近衛基熙は近衛家久と島津亀姫の婚儀にも(武家との婚姻は摂家の家格問題に触れるという考えから)乗り気ではなかった」という程度しか触れてられないです。
桐野氏の上記の文ではこの婚儀が島津家の家格上昇のきっかけになったという見解ですので、島津氏側からの強力な働きかけがあったのでしょうか?

将軍綱吉か
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

島津氏の家格上昇をどのようにとらえるのか難しい問題ですね。島津重豪の娘茂姫が徳川家斉の御台所になったのは明らかにその画期といえるかもしれませんが、それは結果論ではないかという気がしております。
二人の縁組は、家斉がまだ一橋家にいたときですから、茂姫は将軍御台所としての入輿ではなく、あくまで御三卿の御簾中ですからね。

また一般には竹姫が島津継豊の継室になったことが大きいのかもしれませんが、これとて、将軍家養女の嫁ぎ先の問題ですから、大大名ならありえることですね。加賀の前田家もそうですし。

となると、島津吉貴の一女亀姫と島津家久の縁組(家久は再婚のようですが)が意外と大きな意味を持っているのかもしれませんね。山本博文氏の指摘のように、近衛家が家格の釣り合いを考えて渋ったというのはよくわかります。摂関家と釣り合う武家は徳川将軍家か御三家・御三卿まででしょう。

で、この縁組、誰のお声がかりかといえば、考えられるのは将軍綱吉でしょうが、間に誰か仲介する人間がいたかもしれませんね。

そのあたりのことが書かれていると思われる論文は、久保貴子「『基煕公記』にみえる公家と武家」(『論集 中近世の史料と方法』 東京堂出版、1991年)だと思います。
私、たしか持っているはずですが、昨日から探していますが、出てきません(泣)。


家格上昇・家格失墜
ばんない
即答ありがとうございます。

山本博文氏の前掲書によると、近衛基熙は徳川家宣(当時「綱豊」)と娘・煕子の婚儀にも乗り気ではなく、断りきれなくなると煕子を密かに門葉の平松時庸の養女に出して家格を下げ、それから嫁に出したそうです。もちろんこの養女の件は幕府には秘密だったようですが。五摂家の他の家が将軍家と縁組みする(させられる?)中、近衛家だけは一種の”純血”を守らなければと言う意志が強かった人のようですね。
ちなみにこの平松時庸というのは島津光久後妻の養父(実の伯父)に当たる人物で、禰寝氏(小松氏)の系譜変更にも影響を与えるなど、島津氏にとっても意外なキーマンだったんじゃないかと思っている人物です。

五摂家当主と大名の娘の結婚となると、当然ながら形式的にも将軍綱吉のお声掛かりというか許可がないと結婚は出来なかったのではないかと思われますが、綱吉と基熙婿・家宣(綱豊)が不仲だったのは有名な話で、その点が引っかかります。もし、近衛家久と島津亀姫の結婚が綱吉の意図であったとするなら、綱吉の真意は近衛家と武家を結婚させることにより家宣(綱豊)外戚・近衛家の家格失墜を狙ったのかも知れません…状況証拠から想像だけでの仮説ですが。

久保氏の本、私も読んでみようと思って図書館のデータベースを検索したのですが、近所の某大学にしか所蔵がないようです(涙)OB・OGじゃないので門前払いされそうです…。

家格の釣り合い
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

少しコメント遅くなってゴメンなさい。

近衛家は徳川将軍家との縁組も渋っていたのなら、島津家とはなおさらですよね。五摂家筆頭の矜持を感じます。

一方、徳川将軍家も摂関家から御台所を迎えるのは次善の策だったらしくて、できれば皇女から迎えたかったようです。
幼少将軍家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約までいったのに、家継が早世したのが誤算だったでしょうね。
これが先例になれば、逆に徳川将軍家が摂関家を下に見たでしょうに。それに和宮降嫁も攘夷派からあんなに非難されることもなかったでしょう。

平松時庸、おおっ、意外なところに登場しましたね。
私も禰寝家が小松に名字を変えるのに重要な役割を果たしたのは彼だと思っています。

小松改姓問題を扱った林匡氏の論文はご存じでしょうか?



ばんない
こんばんわ。コメントありがとうございます。

禰寝氏の本姓改姓(建部氏→平氏)+小松氏への改苗字については、先日別の記事で佐多さんが紹介されていた『近世・禰寝文書』で言及されていてその経緯を知りました。
林氏の論文は存じませんでしたので、検索で調べてみました。
これのことでしょうか?
http://ci.nii.ac.jp/naid/40015495053/
…黎明館の報告書は近所の図書館には所蔵がないので、国立国会図書館でコピーしてもらうしかなさそうです(涙)

>家継の御台所に霊元天皇の皇女八十宮を迎えて婚約まで
山本氏の前掲書などによると、その背景にもしっかり近衛基熙が絡んでるんだそうです(爆)


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織田信長に関する在野の研究誌『天下布武』。
織田信長家臣団研究会(事務局:井口友治氏)の会報である。

私も一応会員で、最新号(23号)が送られてきた。
友人の和田裕弘氏やリンク先の泰巌宗安記さんも執筆している(小嶋民部少輔なんてよく知らなかったので勉強になりました)。

今回、個人的に興味深かったのは以下の論考。

井口友治氏「稲葉山城三年包囲説」

信長による稲葉山城攻略がいつなのかという問題はずっと論争があり、近年、永禄10年(1567)8月か9月説に落ち着きつつある。
私もその結論にさほど異議はない。でも、歴読連載でも取り扱ったものの、どうも一抹の違和感を抱いたままだった。それは漠然としたもので、なかなか説明できない感覚的なものだったが、今回の井口論文を読んで、すっかり目の前の霧が晴れたような感じがした。これまでの疑問がすべてストンと腑に落ちた感じである。

信長の稲葉山城包囲が長期にわたったことをこれだけ具体的に述べた論考はないと思われる。
とくに「紹巴冨士見道記」にある信長の桑名侵攻や美濃三人衆の離反についての解釈には刮目させられた。
そうか、そうだったのかという感じ。

もっとも、個人的には自説との関係でやや困ったとも思っている。
信長は美濃統一段階から大名居城を包囲できる大規模な攻城戦が可能な実力を有していたことになる。それはそれでまた考えていくしかない。

ともあれ、井口論文に限らず、この会報はあだやおろそかにできない論考が載るので要注意である。
年会費も1.000円(一口~)とリーズナブルなので、信長に興味ある方は講読されてはいかが。専用サイトあればよいのですが、ないのが残念です。
連絡先を公開していいのかどうか不明なので書きませんが、お問い合せや入会希望の方は私宛てにメール下さい。ブログの左カラムの下にメールフォームがあるのでご利用下さいませ。折り返し連絡先をお教えします。

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【2009/02/20 18:27】 | 信長
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一昨17日(火)夜、小学館古文書塾「てらこや」に出講。

今回は「小松帯刀と幕末薩摩藩」5のシリーズの4回目。
テーマは趣向を変えて、表題の著作を読みました。

英国策論』は慶応2年(1866)、サトウが横浜の英字紙「ジャパン・タイムス」に対日外交問題についての論説を匿名で連載したものを、日本語訳した小冊子です。全部で20頁ほどと短く、90分の講座でも全文を読了しました。
なお、テキストは国立国会図書館のサイトにある「近代デジタルライブラリー」収録のものを使いました。

内容はどのようなものでしょうか。
サトウは、幕府が日本を代表する唯一の政府であることを否定し、それを諸侯連合に移すことを主張しています。そのために、イギリスが幕府と結んだ安政条約を破棄し、新たに諸侯連合と結べばよいと考えています。つまり、条約再締結という外交的努力によって(幕府から見たら限りなく内政干渉に近いですが)、日本の政権移行を平和的に実現しようという野心的なものです。

イギリスの日本における外交上の最大目的は平和的に貿易の利益を上げることにあります。幕府が対外貿易の利益を独占している現状に、20近い「独立大名」(国持大名)が不満をもっており、それが外国人殺傷などの攘夷行動に駆りたてているという認識がサトウにはありました。つまり、諸侯にも貿易の分け前を与えれば、それに満足して攘夷をしようとは思わないだろうと考えていたのでしょう。

幕府と「独立大名」との葛藤・対立を解消することがイギリスの国益に叶うというのが『英国策論』の趣旨だと思います。

一方で、この著作によって勇気づけられたのがいくつかの「独立大名」です。
それは薩摩、長州、土佐、越前、尾張、宇和島、阿波などの諸侯です。そのうちの4家(薩摩・土佐・越前・宇和島)が翌慶応3年(1867)4月、四侯会議を催して、長州処分と共に兵庫開港のイニシアチブをとろうとしました。これはサトウが構想した「諸侯会議」を日本側から具体化する動きだったともいえると思います。
とくに兵庫開港を誰の主導の下で行うか、これこそ「幕府」か「諸侯会議」のいずれが日本を代表する政府であるかと決定する試金石になったのです。
結果はご存じのとおり、徳川慶喜が四侯を押し切ってしまいますが……。

英国策論』の成立事情やその意義はどのようなものかという点について、石井孝『増訂 明治維新の国際環境』分冊二をサブテキストとして読みました。
論著をこれだけ長く読んだのはこの講座では初めてだったのではないかと思います。
40年以上前の著作ですが、さすがに幕末維新研究者のなかでいちばん対外関係史に詳しい人です。あまり古びていない内容でした。
受講者の方にも、私の下手な説明よりわかってもらえたのではないかと思います。

次回はいよいよ四侯会議に入ろうと思います。
問題は『続再夢紀事』の膨大な分量をどれだけコンパクトに用意できるかですね。これは頭が痛い。

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【2009/02/19 17:30】 | てらこや
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佐多
こんばんわ。
ここ一年、ネットの具合が悪く接続出来ない状態でした。
ADSLから光へ変更しました次第です。
大河も終わりましたが、近世・禰寢文書(村山知一著)という本に禰寢重永の代からの系譜が詳細に書かれています。於近の生まれた年も記載してあります。確か文政11年ですね。重永は隠居した後に加治木に居住してそこで亡くなっています。強制的に隠居させられたとどこかで聞いたような気がします。鎌田播磨守の女の子供は色々あったのでしょうね。

近世・禰寝文書
桐野作人
佐多さん、こんばんは。

ネットトラブルだったのですか。そういえば、最近、お名前をお見かけしませんでしたね。

「近世・禰寝文書」紹介有難うございます。
前から見たいと思っていた史料です。
お近が文政11年(1828)生まれだとすると、小松帯刀より7歳年上になりますね。

英国策論
星川 稔
英国策論について、これは英、国策論でしょうか、英国、策論なのでしょうか。原本読んだことないので教えてください。

英国策論
桐野
星川さま
コメント有難うございます。

お尋ねの件ですが、どちらでもかまわないかと。
主体が英国にあるという点が胆で、英国の対日外交論だと考えればよいと思います。

英国の対日外交の目的がどこにあるのかは、ブログの本文を読んでいただければおわかりになると思います。

取り急ぎお答えまで。

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昨日の大河第7回「母の願い」。

放映を見てから丸一日以上たちましたが、どうも書こうというモチベーションが保てませぬ。すでに、昨夜の筋立てをかなり忘れてしまっています。私の記憶力の悪さだけではないような。
どうも脱力感がありまして。今回だけならいいですけど、ここんとこずっとですからね。果たして、今後に期待できるのでしょうか?
御館の乱をどの程度緊張感をもって、史実を活かしながら描くかが試金石でしょうね。結論はその頃出そうと思っています。

ドラマは天正5年(1577)冬から春頃です。
今回は与六の母の死がメインテーマでしたから、ここで書けるのはせいぜい、謙信の関東出勢はどのようなものだったか、中央政局との関係はどうかという程度ですね。

その前にひとつ。
景勝の呼び名のことです。
ドラマ進行時点から2年前の天正3年(1575)には、有名な「上杉家軍役帳」が定められています。そのなかで、景勝は筆頭に挙げられ、合わせて500人ほどを率いる大将ですが、呼び名が「御中城様」ですね。できれば、この呼び名を使ったほうがいいのではと思うのですが、ないものねだりでしょうかね。

さて、七尾城を包囲したまま、上杉謙信は帰国しました。
関東の佐竹義重・宇都宮国綱・結城晴朝などから関東出勢の要請があったからです。
3月18日付で、水谷勝俊と結城晴朝に宛てたほぼ同文の謙信書状があります。
そのうち、水谷宛てを紹介します。

「越山に就きて再三示しを給い喜悦の至りに候、先達て啓せしむる如く、北国残る所なく手の裏に納め候の条、越山必然せしむ、分国中陣触れに及び、来月中旬、沼田・厩橋に至り打ち着くべくの条、味方中諷諌有りて手合わせ肝要に候、恐々謹言」

謙信は北国を残らず平定したと豪語しています。だから、越山=関東出勢は当然だと。分国中に陣触れをして、来月(4月)中旬には沼田・厩橋に着陣するので、味方中を戒めて結束し敵に当たることが肝要であると述べています。

しかし、実際に出陣したのは約束より1カ月ほど遅れた5月中旬でした。
上野の国衆と思われる野呂源太宛て謙信書状(5月14日付)によれば、近いうちに新田や足利表に放火すると書いています。なお、この書状の宛所には名字部分が摺り消されていて、本当は梶原源太(梶原政景)宛てのようです。野呂某が同じ通称だったので摺り消して自分の名字を入れたのでしょう。面白いですね。

結局、謙信の関東滞陣はわずかな期間だったらしく、6月頃には春日山に帰っている感じです。
なお、その頃、常陸の佐竹義重が謙信の家来の北条高広・景広父子に書状を送っています。
どうも、北条(これは「きたじょう」ですね)父子は厩橋の在番をしているようです。ドラマでは、もしかして越中や能登の陣にもいたでしょうか? 微妙ですね。


謙信の関東在陣期間が短かったのはやはり能登や中央政局の様子が気になったのでしょう。
じつは、謙信が能登から帰国したあとに、備後の足利義昭から御内書が届いています(3月27日付)。中国の毛利が出陣したことを知らせ、信長が紀州雑賀を攻めているので、その隙に上京するよう促しています。
厳密に言えば、上京云々の言葉はありませんが、「謙信が馳走してくれたら喜び入る」とあります。それに、おそらく毛利輝元の副状(4月1日付)らしき書状がありますが、それには、毛利勢は「播磨表に撃ち越す」ので、謙信も越前・近江に乱入してほしいと書いています。上京まではいきませんが、義昭=毛利は謙信に最大限近江まで南下してほしいと思っていたようです。

これは謙信にとっては好機だったかもしれません。義昭の号令の下、毛利との連携も図れるのですから。でも、それとは裏腹に逆方向の関東に出陣しなければならないのですから、何ともチグハグですね。

今回はこれくらいでしょうか。
さて、これからの展開ですが、まず9月に七尾落城があります。謙信の漢詩「霜は軍営に満ちて秋気清し~」が有名ですね(謙信作ではないとも言われていますが)。

以前、七尾城跡に行ったことがありますので、写真を載せておきます。
ドラマ最後にある天地人紀行と似たようなものですが、写真は上から以下のようなカットです。

七尾城石垣
同虎口のあたり
同頂上本丸の石碑と鳥居
本丸から見下ろした七尾湾


とくに、苔むした石垣の立派さは圧巻でしたね。高石垣ではないのですが、何段にも重なっていました。何となく美濃岩村城のような感じでしょうか。

石垣



虎口



本丸



七尾湾





城攻めしたのが02年秋ですから、もう6年以上前ですね。大河「利家とまつ」のときだと思います。城の麓の公園には、利家と馬を牽くおまつの銅像がありました。

次回ですが、落城直後には織田軍を破った手取川合戦もあります。そのあたりがどの程度描かれるでしょうか。

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【2009/02/16 23:29】 | 天地人
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七尾城
NAO4@吟遊詩人
石垣があまりに立派だったので、映像を見ていて驚きました。戦国時代は、関東では土くれの城ですが、能登にこんなしっかりした石垣の城があったなんて、ちょっと能登畠山氏を軽く見ておりました。

初めてコメントします。
千葉城
直江状に関する論文が去年発表されたので、お知らせします。

宮本義己「内府(家康)東征の真相と直江状」(『大日光』78号、2008年3月発行)

以前、宮本氏が『歴史読本』で直江状の不自然な点を指摘して
いましたが、今回の論文では他にも直江状の問題点をいくつも
指摘し、さらに緻密な分析をしており、直江状に興味のある方に
は必読の論文ではないかと思われます。、

御中城様
k2
桐野様
てっきり、御愁傷様とかけた題と思いました(笑


七尾城
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

七尾城はなかなか立派で峻険な山城です。
上杉謙信が手こずったのもよくわかります。
遊佐が裏切っていなければ、謙信はもっと苦労したでしょうね。
石垣は山腹と頂上付近に多かったですね。

七尾城は陥落後、一時期、前田利家も支配下におさめたはずです。利家は近くに小丸山城を築きましたが、七尾城はすぐ廃城になったのでしょうかね? もしかして前田の手が入っているかもしれないとも臆測しますが、不勉強なのでよくわかりません。
NAO4@吟遊詩人も可能ならば、ぜひチャレンジしてみて下さい。

宮本義己氏論文
桐野作人
千葉城さん、こんばんは。

宮本さんの論文紹介有難うございます。
そういえば、宮本さんは近年、「大日光」によく書かれていますね。
ご紹介の論文、見落としていました。
入手して読んでみます。
有難うございました。

御愁傷様
桐野作人
k2さん、こんばんは。

あまりに面白くて笑いころげてしまいましたよ。

いまのままでは、先行きが不安なドラマではありますね。
今後、劇的にシリアスになるとも思えませんが……。

謙信はなぜ有名か?
norita
先週のコメントにはお返事ありがとうございました。
実は、桐野先生のブログを見始めたのは昨年末です。
ですから過去の記事や大河以外の記事はほとんど見ておりません。
これから史実をもっと知りたいと思っている次第です。

本題です。
義の精神の話はさておき、謙信には領土拡張より大切なものがあったのは
間違いないのでしょうね。 (毘沙門天でしょうか?)

信玄とやり合ったり関東に行ったり越中方面に行ったり。
結局、関東と信州は自分のものにできなかったですし、
越中方面も自分の死後に失ってしまいます。
領土ということで言えば、それほど注目に値しません。

それでも謙信は信長・信玄とともに、超有名な戦国武将です。
知らない人はいないはずです。
なぜなのでしょう?
川中島の一騎打ちが有名だからでしょうか?
とすると、ここにも史実から乖離した何かが絡んでいるような気がしてきますが、
実際のところどうなのでしょう?

領土拡張
桐野作人
noritaさん、こんばんは。

上杉謙信は関東に所領を得ています。
当初は上野一国をほぼ保持しており、晩年には東上野は明らかに上杉領でした。御館の乱のとき、景勝は武田勝頼を取り込むために、東上野の割譲を約束しています。
謙信も領土拡張を望んでいなかったわけではないと思います。問題は要領が悪かったのか、非効率だったのかもしれません。

しかし、北陸は短期間で、越中・能登・加賀北半を手中に収めていますよね。謙信がもう少し長生きしたら、分国化がかなり進んだのではないでしょうか。

そう考えると、謙信もふつうの戦国大名のような気がするのですが……。

謙信の評価
norita
ご回答ありがとうございます。
中途半端な知識で質問をしてしまい、申し訳ございません。
また、質問自体にも飛躍があったようで、誠に申し訳ありませんでした。

調べた限りでは、謙信の軍勢は直接戦闘や機動力で抜群の能力を発揮する一方、
持久戦や城攻めを苦手とし、占領地の直接支配をあまりしなかったということになっています。

そうすると、戦闘には強い割に領土が広がらなかったのは、
やはり領土拡張より重視している何かがあったのではないかと思ってしまいます。

調べている限りでは、越後に逃れてきた武将たちを救うという大義や、
足利幕府再建への意欲・関東管領職へのこだわりなどが目に付きます。
義理堅い性格だったという人物評価も気になります。

これらを総合的に評価して一言で表現すると、桐野先生のおっしゃる通り、
謙信の領土拡張作戦は「効率が悪い」ということになるのでしょうね。

このような理解でよろしいでしょうか?

兵站の不安
桐野作人
noritaさん、こんにちは。

上杉謙信の対外侵攻、とくに関東出陣を考えてみると、政略面では、関東管領職就任とともに、古河公方の正統性について、北条氏と競っています。謙信にとっても、関東統治の大義名分のため、これを重要視したのは間違いないと思います。

軍略については、やはり北条方の国人や大名の拠点を攻略しないことには、支配領域を拡大できません。その点で、謙信は腰を落ちつけて城攻めする時間的余裕がなかったように思います。
その理由の第一は、北信川中島方面で武田氏と対峙していること、また越中方面での戦いなど。
第二に、冬期の積雪で三国峠が塞がってしまうこと。
があげられます。
謙信もその不利を知って、上州に北條高広父子などを厩橋に置くなど、領国化を進めましたが、やはり不十分だったように思います。

関東に腰を落ちつけられなかったというのが最大の要因ではないでしょうか。
その点、晩年に北陸三国への進出がうまくいったのは、一向一揆との和睦が成ったからだと思います。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第96回
―長崎・浦上から流配、病死―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、島津家の菩提寺跡として知られる福昌寺跡墓所(長谷場墓地)にあるキリシタン墓地の由来について書きました。
以前からその存在だけでなく、由緒もある程度知っていたのですが、今回、明治政府のキリシタン禁制の実態を調べたら、なおさら書かなければならないという気がしました。

鹿児島では長崎・浦上から護送されてきたキリシタンを、他とくらべると比較的丁重に扱っていますが、他藩ではひどい事例がありますね。江戸時代と何ら変わりありません。
やはり、明治維新の拠って立つ思想的基盤のなせる業かと感じさせます。

それにしても、浦上村で信仰を隠して200年以上ひっそりと生きてきた信者たちは、幕末になって光り輝くような大浦天主堂が建ったことに驚き、喜び、誇らしい気持ちになって、その信仰をフランス人神父に告白したのは無理からぬことだと思います。
また神父も日本では信者は絶滅したと思っていたでしょうから、さぞや驚いたことでしょう。この衝撃が、またたく間に欧米諸国に広がったのも当然です。

余談ですが、すでに明治初期、ヨーロッパから上海経由で長崎まで電信線がつながっており、翌日にはヨーロッパに伝わります。

ところで、慶応3年(1867)8月30日、坂本龍馬が長崎詰めの土佐藩士・佐々木三四郎に次のように語りました(『佐々木高行日記 保古飛呂比二』)。

「才谷曰く、此度の事、若し成らずば、耶蘇教を以て人心を煽動し、幕府を倒さん」

「此度の事」というのは龍馬が温めていた大政奉還構想ですが、これがダメになれば、キリシタンの一揆を起こして幕府を倒そうというのです。
龍馬は長崎を拠点にしていましたから、もしかして隠れキリシタンが大勢存在することをどこかで知ったのでしょうかね。そうでなければ、このような言葉が出るとは考えられません。
これに対して、佐々木が懸念を表明します。

「自分曰く、耶蘇教を以て幕府を倒す、後害あらん、吾が国体を如何、吾は神道を基礎とし、儒道を輔翼とせんと」

佐々木はキリシタン一揆によって幕府を倒せば、あとで害が生じるとします。目的のために手段を選ばないという方法はよくないというわけですね。害とは、わが国の「国体」が神道を基盤とし、儒学を輔翼にしていることだというわけです。仏教の出番はないようですね(笑)。

佐々木の指摘どおり、明治維新後もキリシタン禁制が解かれなかったのは、まさに「国体」に関わることだったからでしょう。

なお、連載に小松帯刀のキリシタンに対する見解を紹介しましたが、建白書提出の時点は、ようやく江戸開城が成ったばかりであり、これから奥羽越列藩同盟との戦争が始まるときでした。まだ維新政府の基盤は固まっていません。
そんなとき、小松の心配はキリシタンを放置しておけば、「天草争乱」が起きかねないというものでした。小松は浦上村だけで数千人の信者がいたことを知っています。これが長崎全体、あるいは九州全体でどれくらいの人数がいるか、考えるだに恐ろしかったのでしょう。信者たちが一致結束して挙兵すれば、天草・島原の乱以上になること。さらに東北の旧幕軍と結びつけばと連想したとしてもおかしくありません。龍馬と小松、立場は違いますが、キリシタン勢力を必要以上に過大にみる点で考え方が似ていますね。

ですから、維新政府にとっては隠れキリシタンは単なる信仰の問題ではなく、すぐれて政治・軍事的な問題でもあったようです。
しかも、九州鎮撫の命を受けた総督が公家の沢宣嘉です。いわゆる七卿の一人で、長州贔屓の尊攘派公家ですね。
それだけではなく、外国事務局判事の小松をはじめ、この問題に関わった木戸孝允・井上馨・大隈重信・町田久成・寺島宗則・松方正義といった連中も例外なく強硬意見を述べています。彼らのほとんどは、留学経験もあり、海外事情に通じた開明派ですよね。彼らにしてそうだったのですから、国学や攘夷思想の強い維新政府全体では推して知るべしだったのでしょうね。

ただ、明治2年には箱館戦争も終わり、長い戊辰戦争も終結しました。国内が鎮静したことによって、強硬方針が緩められ、外国との交際を理由に、西国諸藩への流配というところに落ち着きました。

しかし、一村4000人の強制移住なんて、江戸時代もありえなかったことで、当事者たちにとっては驚天動地の出来事だったでしょう。
寛大な処遇を受けた鹿児島においても病死者は58人で、死亡率15%にも上っています。これは衛生・医療面の不備だけでなく、当時の農民の共同体意識の喪失感というか、故郷から引き離される恐怖感による精神的な打撃も一因ではないかという気がします。

いろいろ考えさせられる問題でした。
なお、手ごろな本としては、以下のものがあります。興味のある方は読んでみて下さい。

家近良樹『浦上キリシタン流配事件』 吉川弘文館、1998年、定価1.700円+税

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【2009/02/14 10:56】 | さつま人国誌
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崎陽・織田
桐野先生、こんばんわ。
不勉強で、鹿児島市内に浦上信徒の墓があることを知りませんでした。ご教示ありがとうございました。
慶応3年6月の浦上信徒の逮捕で、当時、長崎の町は大騒ぎとなりました。当然、そのころ長崎にいた龍馬も知っていたこととも思います。長岡謙吉も注目して「閑愁録」を書いていますね。龍馬の一族がのちに入信したことも不思議な因縁です。

面白かったです。
NAO4@吟遊詩人
明治政府が直ちにキリスト教を認めたわけではなかったのは、知っていたのですが、具体的なお話を聞いたのは初めてでございまして、大変面白かったです。

刑罰とかも直ちに変わったわけではなく、とりあえず、江戸時代のまま運用されたものと理解しております。

なるほど
桐野作人
織田さん、こんにちは。

そうでしたね。
慶応3年3月から6月にかけて、長崎奉行が多くの隠れキリシタンを摘発していますね。
なるほど、龍馬はこのことを知っており、潜在的なキリシタン人口が多いと推測したんでしょうね。

浦上のキリシタンは西国の20数藩に流配されています。ですから、それぞれの藩に何らかの記録が残っていると思います。また、キリシタン側の史料「旅の話」もありますね。

来年の大河に向けて、長崎はどんな様子ですか?
一度行きたいと思っています。



大事件だと思います
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

仰せの通り、もっと知られてもよい大事件だと思います。
明治国家の思想的立ち位置に関わる出来事ですね。
「国体」と「外交」の軋轢で関係者もそれなりに苦労しているようですが、海外を見た人も多いのに、過剰反応ではないかなという気がします。もっとも、攘夷派や国学信奉者は大真面目だったかもしれませんが。

詳しく知るには、ブログでも紹介した家近氏の本が手ごろです。




ばんない
お久しぶりです。いろいろと考えさせられるお話でした。

世界的に見ればいまでも宗教と政治の関係は微妙でデリケートな問題で、佐々木高行のようなバリバリの国学者はともかくとして、逆に海外を見聞した人のほうが神経質になったのは無理からぬことかとおもいます。
あと、幕末の人々も島原の乱(ちなみに幕末当時では「日本最後の内乱」ですね)についてあまりにも「キリシタン反乱」というイメージが強すぎたのでしょう。最もこのイメージすり込みについては私たちも幕末の人々を笑えませんが。今の学説では「島原の乱」=キリシタンの乱というイメージは否定されているようで、「島原の乱」という用語すら使わない教科書もあるようですね。

浦上のキリシタンは約200年間、よりによって天領でかくれんぼに成功していたのに幕末~明治でこうなるとは…まあ、立派な大聖堂が建つところを見て遂に救われる日がやってきたと勘違いしても致し方ないところでしょう。

>仏教
徳川幕府の骨抜き政策がそれほど見事だったということでしょう。ただ、大正時代になると日蓮宗がブームになり、石原莞爾とか今に続くあの傍流などが政治的影響力を発揮してますね。

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前回紹介した中日文化センターの紀行講座「本能寺の変を読み解く旅」の正式告知が中日旅行会のサイトに載りました。

ここです。

ご覧になって下さいませ。

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【2009/02/13 12:42】 | 中日文化センター
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春4月に京都史跡ツアーをやることになりました。

私が名古屋の栄・中日文化センターで受けもっている講座「本能寺の変を読み解く」の延長で、まとめ的なバスツアーです。同センターの関連会社である中日旅行会の主催です。

【中日文化センター紀行講座】
本能寺の変を読み解く旅(日帰りツアー)
―歴史作家・桐野作人同行―

□出発日:4月23日(木)
□旅行代金:18.800円(中日文化センター会員の方は18.300円)
□最低催行人員:20名
□スケジュール:
 8:30名古屋駅前 =
(名古屋高速・東名阪・新名神・名神)=
 11:00~亀山城跡見学 =
 13:00~14:00大徳寺(昼食:鉄鉢料理) =
 14:30~15:30旧本能寺・新本能寺・二条御所跡(徒歩見学) =
 16:00~16:45小栗栖見学 =
(名神・新名神・東名阪・名古屋高速)=
 19:30頃名古屋駅前


□お問い合わせ・お申込み
 中日旅行会:052-231-0800
サイトはここです(ただし、まだ当ツアーの告知はありません)
営業時間 平日9:30~17:30(日・祝日は休業)

平日早朝に名古屋駅前発ですから、参加条件がかなり厳しいですが、名古屋・東海方面にお住まいで(もちろん、遠方の方もかまいません)、平日おでかけになれる方はご検討下さい。

せっかくおいでいただくので、私も少し趣向を凝らそうかと思っています。
まず、ツアーの実質的な出発点を丹波亀山城に設定しました。もちろん、明智光秀になったつもりで、その行軍ルートを辿っていきます。上のスケジュールには書かれていませんが、老ノ坂、沓掛、桂川、七条口など、いくつかのポイントを下車もしくは車中から見学します。

第二に、見学する史跡ポイントに関連する史料をその場で読んで、当時の状況を偲び、史実をより深く感得してもらえたらと思っております。
たとえば、織田信忠が自害した二条御所では、『信長公記』はもちろんですが、『惟任謀反記』『当代記』『言経卿記』『兼見卿記』『明智軍記』などを読みながら見学し、理解を深めるという具合です。
実際の史跡を前に史料を読むと、さらに印象深くなると思います。

高い料金を払っていただくので、参加された方には得をした、あるいは元を取ったという気持ちになっていただければと考えています。

主催者のサイトにはまだ告知がなされていないようですが、正式に告知されたら、また案内したいと思います。

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【2009/02/10 01:24】 | 中日文化センター
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大統領
 本能寺の変の真相は明智憲三郎さん(プレジデント社)の『本能寺の変 四二七年目の真実』で決め打ちのようです。桐野さんを質問攻めにしてみては?!

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NHK大河ドラマ第6回「いざ、初陣」

ドラマ進行時点は、天正4年(1576)冬から翌5年はじめ。

史料以前に、ツッコミどころ満載でしたね。

兼続が憐憫の情で見逃してしまった若い敵将。
三鈷剣だったか、立派な前立の付いた兜を着けていましたから、明らかに身分の高い武将です。
その後討死したらしく、遺体に菰をかけてありましたが、あれくらいの武将なら、いわゆる「宗徒の衆」ですから、ふつうは首級をあげて首実検に供するのが常識でしょう。敵の遺体をなぜあんなに厚遇してるんでしょうね? まさか義将謙信を示す演出?

上記のシーンだけでも萎えてしまいました。
まあ、直江兼続のたしかな史料が登場するのは御館の乱以後ですから、ある程度創作に基づく演出も致し方ないところですが、一方で、謙信の越中攻めの史料はそれなりに残っていますから、描きようはあるはずですが……。

黄色地に木瓜紋の旗印が登場しましたが、明らかに織田軍ですね。
この時期いないのではと思いましたが、よく考えてみると、斎藤新五郎の一手が飛騨経由で越中に派遣されていましたね。
新五郎は斎藤道三の末っ子だと言われていますが、天正4年10月、太田保月岡野の戦いで上杉方の河田長親の軍勢を破っています。
その後、織田信忠が毛利長秀・坂井越中守・森長可・佐藤秀方などをさらに加勢として派遣していますが、積雪の前に撤退したようです。
織田軍は越中に1カ月ほどしか滞陣しなかったようですが、それでも、勝勢だったようです。
(上記の織田軍について書いた数行は事実誤認です。やはり、天正4年段階では織田軍は越中にいません。これは天正6年の謙信の死後ととり違えてしまいました。最初、そう書いていたのですが、再修正するのも何なので付記しておきます)

今回、まったく無視されていたのが、謙信に味方した越中の一向一揆の存在ですね。
彼らの合力がなければ、謙信の越中平定はそう簡単にはできなかったはずです。これも、ストーリーの単純化の所産でしょうね。
わかりやすくていいんでしょうが、その一方で大事な史実がボロボロと落ちていくようで……。

謙信の宿老で家中の長老である直江景綱が老齢か病気を理由に戦陣を離れてしまいました。
すでに天正5年に入っていたかどうか、時期がよくわかりませんでしたが、史実上は同4年12月まで連署状や起請文に署名していますから、越中に在陣していたはずです。
景綱は翌5年3月に病死しますから、年を越したあたりで帰国というのはそれほど無理ではない設定ですね。

今回の演出には特徴がありましたね。
いかにも舞台の芝居のような、スポットライトの多用です。前回までと演出者が交代したのでしょうか?
わかりやすくてよいのですが、予算削減の効能も大きいでしょう。あるいは役者のスケジュール調整がうまくいかないための苦肉の策か?

ほかにもいろいろ書きたいことがあるのですが、仕事もありますし、何よりモチベーションが……。

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【2009/02/09 00:10】 | 天地人
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木瓜紋
武藤 臼
桐野さんこんばんわ
私も黄色地に木瓜紋の旗印がかなり気になりました。
太田保の月岡野での戦いは、信長公記11巻、天正6年のことではありませんか?



お恥ずかしい
桐野作人
武藤臼さん、おはようございます。

ご指摘のとおりですね。
一応、本文にも付記しておきました。
じつは最初、第一感で織田軍はいないはずだと書いていたのですが、斎藤新五郎の一件を思い出し、年次を確認しないまま修正してしまいました。
ですから、また修正するのも何なので、付記という形にしました。
どうも、天正4年と同6年は個人的に鬼門で混同しやすいのです(汗)。

ご指摘多謝です。


おそれいります
武藤 臼
桐野さん、おはようございます
昨日の描き方は、自分がもし富山在住だったら、抗議を入れたくなるくらいに適当するぎないかなあって感じです^^
あまりにへたれな兼続にもあんぐりですが
早くも見続ける気が失せて来ました^^


びわこ
桐野さん、こんにちは。
2月1日付けの日記へのコメントにもなるのですが。まったく「義」の安売りというか、オンパレードで、辟易。

そうでなくても、彦根では着ぐるみたち(義の3猫)が、「義」を息巻いて、暑苦しいことと言ったら・・・
ぶっきー兼続、おまえもか・・・って、泣きたくなります。

でも、三成の出番(描かれ方)が気になり、その一心で観ている・・・これこそが、私の三成への「愛」であり「義」ですな(爆)

演出
御座候
>いかにも舞台の芝居のような、スポットライトの多用です。前回までと演出者が交代したのでしょうか?
わかりやすくてよいのですが、予算削減の効能も大きいでしょう。あるいは役者のスケジュール調整がうまくいかないための苦肉の策か?

あ、苦肉の策ですか。新しい演出方法の模索なのかと素直に思ってしまいました。




本作も前作『篤姫』同様、「戦争反対」の近代的平和主義がやたらに投影されていますね。兼續のヘタレぶりが、小松帯刀に重なって見えます(笑)

景勝と景虎の対立が強調されすぎているのも、どんなもんでしょうね。犬に「喜平次」と名付けるのはやりすぎでしょう。自分への揶揄はまだしも、主君景勝をけなされて黙っているわけにはいかないというのが武士のメンタリティーだと思うのですが・・・あそこで刀を抜かなかったら逆に問題な気がします。「悪口」も立派な罪ですし。

「先に手を出した方が悪い」?
かわと
是非とも脚本家には、喧嘩両成敗について勉強していただきたいものです(笑)。中学校の教科書でもいいので。

三成
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

今年は昨年以上に、史実とは無縁のドラマになりそうですね。
その代わり、すべてを「義」で正当化するような形で展開されそうな。

「義」なんて百人百様で、むしろ「便宜」や「方便」と同義語だと思いますけどね。

さて、そうなると、兼続と三成の関係もあまり品格をもって描かれないかもしれませぬよ。


キレやすい中世人
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

去年の小松帯刀と兼続が重なるというのはご指摘のとおりですね。
去年の成功で味をしめたというわけでしょうか。
「へたれ」キャラを喜ぶ一定の視聴者層が存在するという計算でのキャラクター設定なんでしょうかね?
その一方で、離れていく層もあるという計算はしているのかなと、他人事ながら気になります。

犬の「喜平次」の一件。
私もおかしいと思いながら、コメントを書くとき、すっかり失念しておりました。
だいたい、主筋の通称を犬の名前にするなんて、不敬、不忠の極みで、それだけで厳罰の対象でしょうし、当時、まずありえない発想ですよね。
おそらく、のちの御館の乱へと至る伏線のつもりで拵えたんでしょうが、逆効果でしたね。
かといって、キレやすい中世人をドラマで描いてしまったら、兼続も処刑されてドラマが終わってしまいますね。


喧嘩両成敗
桐野作人
かわとさん、こんにちは。

犬の喜平次の一件、すっかり失念しておりましたが、ご指摘のとおりですよね。

喧嘩両成敗、それも戦陣中の喧嘩や刃傷沙汰ですから、軍法違反の廉で、理由の如何を問わず双方とも成敗されるでしょうに。
清水克行氏の著作とか、読みやすいのもあるのにと思いますが。

一昨年の大河「風林火山」は、最近の中世史研究の成果を取り入れようという意欲がありましたが(途中で諦めたようですけど)、今年は、はなから無視でいくようですね。
視聴者がそんな面倒なものは望んでいないという判断なのでしょうかね。
ですから、これからも奇妙なシーンに出会えそうです。こちらにとっては、書くネタになっていいんですけど(笑)。


ドラマと史実
norita
桐野先生

こんにちは。初めてコメント致します。

ドラマや小説と史実に違いが生じるという話はよく耳にします。

私も一応戦国時代が好きですが、史実についてはそれほど詳しくありません。
現在持っている知識も、小説などから得たものが恐らくかなりの部分を占めていると思います。

一方で、脚色されたものばかりでは歴史を本当に理解することにはならないのだということも、
最近は思うようになりました。
特にそれは三国志の世界で感じています。
流布している情報の大半が三国志演義に基づいているはずですから。

そういうわけで、ドラマと史実の違いを正確に理解するためにも、
桐野先生のこのブログはぜひ読み続けたいと思っております。
一言二言でも、歴史の専門の方のお話を伺えるのは、
私のようにいい加減な知識しかない歴史ファンには
とてもありがたいことです。
ぜひ今後もよろしくお願いいたします。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第95回
―鹿児島行き企てるも挫折―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は高杉晋作の2回目です。
高杉が薩摩行きを計画していたけれど、結局失敗したことを書きました。

分量の関係で紙面では書けなかったことを少し補足しておきます。

これは、英国公使パークスが鹿児島を訪問するのに合わせて、長州側も何かアクションを起こすべきだと考えた高杉がみずから使節全権となって、鹿児島に乗り込もうとしたのが発端です。
高杉が木戸に「大夫」(家老)身分で派遣してくれるよう依頼しておりますので、高杉の気紛れではなく、正式な長州藩の代表というわけです。考えてみれば、高杉は馬関に来襲した四カ国連合艦隊との和平会見のときも家老身分で交渉にあたっていますね。薩摩藩ではこのような融通無碍は考えられません。

今回、高杉が乗船しようとしていた大坂から鹿児島に向かう薩摩藩船三邦丸には、ちょうど坂本龍馬とお龍の夫妻も乗っていたことを書きました。あまり指摘されていないかもしれません。

結局、高杉はこの船に乗れなかったわけですが、どうも解せませんね。
高杉は長く下関でこの船を待っていました。小松・西郷たちが下関に立ち寄ると踏んでいたのでしょうか。しかし、滞在期間が1カ月以上と長すぎます。
高杉が三邦丸に乗れなかったのは、港の監視が不徹底だったか、三邦丸が下関に立ち寄らなかったかのどちらかではないかと思います。
もし前者なら、高杉がどんちゃん騒ぎをしていて、気づかなかったのではないかという思いが強いです。

その後、横浜から長崎に向かうグラバーの船が下関に立ち寄ったとき、それに乗って長崎に向かい、そこで三邦丸を待とうと考えたようですが、同船はすでに10日前に長崎を出航したあとでした。
ですから、長崎行きは最初から無駄足だったわけです。

その後、高杉は一転して清国行きを目論みますが、先立つものがありません。
高杉の鹿児島行きは木戸の奔走により山口の藩庁で正式決定されたわけですから、当然、経費としてそれなりの金が高杉に渡されていたはずです。
ところが、長崎では素寒貧だったというのですから、考えられるのは下関で豪遊したということでしょう。

高杉が藩の全権使節として鹿児島を訪問する表立っての名分は乙丑丸(ユニオン号、桜島丸)の帰属問題が解決したことを知らせるためでした。
これは、グラバーを通じて伊藤俊輔・井上聞多が薩摩藩名義で購入し、乗組員は亀山社中をあてるとしたものでしたが、長州藩へ引き渡されるとき、トラブルが発生しました。長州側としては船そのものを自藩で操縦・管理しようとし、亀山社中を排除しようとしました。

その件で板挟みになったのが社中の上杉宗次郎です。その後、上杉は責めを負って自害してしまいます。

ともあれ、上杉という犠牲を伴ってその問題が解決したことを、高杉は鹿児島に報告しようというわけですから、もう少し真面目に取り組むべきではなかったのかという気もします。
上杉は長州藩主毛利父子の和解状を島津久光父子に届けるなど、薩長の和解に力を尽くした人物です。

もっとも、この年正月下旬、薩長同盟がすでに結ばれていたとはいえ、ほんの一部の人間だけが知る密約でしたから、薩摩藩全体が承知しているわけではありません。そんなところへ、高杉が乗り込んで行ったら、藩内保守派から予想外のリアクションがあったかもしれません。

どちらにしろ、高杉の鹿児島行きはハードルが高かったかもしれませんね。

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【2009/02/07 11:26】 | さつま人国誌
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ほんとは川戸貴史さんと町田明広さんの近刊の紹介も書かないといけないし、先日の講座「てらこや」の報告もしなければいけないと思っていたけれど。
久しぶりにうれしい話があったので。

拙著『島津義久』(PHP文庫)が三刷になった。
個人的には思い入れのある作品だったので、とにかく有難い。

文庫にしては分厚くて、漢字が多くて、改行が少なくて、知らない人名や地名が頻出して、島津義弘などは5回も改名しているから誰だかわかりずらくて、しかも全編に鹿児島弁があふれていて県外の方には読みにくい本ですが、それでも、支持してくれる読者の方がいるのはうれしい限りです。

続編も頑張ります。もう少しお待ち下さい>担当者の方

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【2009/02/05 23:38】 | 戦国島津
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NHK大河ドラマ「天地人」第5回「信長は鬼か」

ドラマ進行時点は、天正3年(1575)から翌4年。

石田佐吉が登場しましたね。
佐吉くんは永禄3年(1560)生まれで、与六と同い年ですから、ドラマの時点では16歳でしょうか。
羽柴秀吉が浅井長政の旧領を与えられて、長浜城主となったのが天正2年(1574)です。佐吉が仕えたのもその頃でしょうから、与六に「新参者」だと自己紹介するのは正しいですね。


どうも、信長との対面だけでなく、与六と佐吉の初対面の場面もつくるために、与六を上杉方の使者に潜り込ませたのではないかと思われ、ムリしすぎでは。
もちろん、与六はこの時点で信長にも佐吉にも会っているとは思えません。とくに信長とは生涯会っていないはずです。

余計なお世話でしょうが、与六が信長に対面したのは天正3年初めだったでしょうか?
『信長公記』によれば、信長は同年2月27日上洛の途についていますから、岐阜にいたのはそれ以前ですね。

与六が信長と対面した部家には、何やら西洋の文物がたくさんありました。
果たしてどうなんでしょうかね? 
とくに地球儀。信長が入手した時期は不明ですが、もう少しあとのことではないかと思いますが……。

あと、お船の縁組が決まったような感じでした。
夫となる長尾景孝、のちの直江信綱は永禄6年(1563)頃、武田信玄の東上野侵攻により、父長尾顕景とともに越後に亡命しました。縁組の時期は不明のようですが、ドラマ進行時点の頃でも大過ないのかもしれません。

今回、というか、今後もこのドラマを見るたびにげんなりさせられそうなのは「」のインフレですね。
もっとも、後半は「」がドラマにあふれるのでしょうね(トホホ)。
いやはや、薄っぺらい「」のオンパレードには困ったものです。
ドラマでは、景勝や景虎の語る「」と、与六の「」は明らかに違いましたね。まったくそのとおりで、立場によっていくらでも正当化できますからね。

上洛戦に悩む謙信が民に迷惑をかけると殊勝なことをつぶやいていましたが、それまで関東の「民」は謙信の侵攻で散々泣かされましたけどね。あの関東侵攻はどこに「」があったんでしょう?

これだけ「」を多用するのは原作のせいでしょうか(読んでいないので知りません)、それともシナリオ?

あいまいで漠然とした「」には説得力とリアリティが感じられません。それを強調するよりも、もう少し足が地に着いたストーリー展開に出来ませんね。
謙信の上洛戦にしても、天正4年、足利義昭から上洛要請を受けています。将軍義昭を中心とする室町幕府の擁護という「」を掲げたほうが古臭いですけど、まだしも政治的リアリティがあると思うのですけどね。

もっとも、謙信時代は、そのキャラクター設定にあるように、複雑な展開はなるべく排除して、寓話的な英雄伝説に仕立てたい意向が感じられます。
もっとも、謙信没後もその描き方ではもう見たくありませんけどね。

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【2009/02/01 22:16】 | 天地人
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遅かりし
橋場
「義」をいうな、って薩摩弁の「議をいうな」にひっかけられたのですね、今頃気付きました(笑)。『島津義久』三刷、おめでとうございます。

おやじな
桐野作人
橋場殿下、こんばんは。

ご推察のとおり、駄ジャレでした。
見つづけるのがつらいと思っている今日このごろです。


議を言うな
御座候
漫画『加治隆介の議』で知りました。

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