歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
表題の拙著が発売になりました。

一昨年からの南日本新聞連載「さつま人国誌」のうち、幕末・明治の記事を集めて加筆し、章立てを再構成したものです。

さつま人国誌 幕末・明治編  桐野作人 著
---------------------------------------------------------------
維新の原動力となった「さつま」の先人たちの足跡を取り上げ、意外な史実を掘り起こす。
◆第一章 天璋院篤姫
◆第二章「美貌」の大立物・小松帯刀 
◆第三章 西郷隆盛と大久保利通
◆第四章 桐野利秋と村田新八
◆第五章 幕末の群像と事件

サイズ: 四六判
ページ:228ページ
ISBN:4-86074-140-2
価 格 :定価1,365円(本体1,300円)送料300円

同社開発センターから発売されています。詳しくはここをご覧下さい。

鹿児島県内の方は、主要書店や同社新聞販売所で購入できます。
県外の方は最寄りの書店でも注文されれば購入できますが、取り寄せ扱いになるので、かなり時間がかかると思います。
早く入手する方法としては、上記サイト(ここ)からも購入できますし、コンビニ・セブンイレブン系のセブンアンドワイ(ここ)でも購入できます。ここは指定コンビニでの受け取りなら、送料もかかりません。
ただ、新刊のためか、同サイトにはまだ登録されておりません。2,3日すれば登録されるのではないかと思います。

ぜひお買い求め下さいませ。

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【2009/03/31 22:33】 | 新刊
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岩剣石塁
発売、おめでとうございます。
先週の南日本新聞の一面にも4月4日発売ということで
広告が載っていました。
楽しみです。

☆祝刊行☆
みらん
桐野さん、こんにちは☆
刊行、首を長くして待っておりましたよ~
早速近所の書店で予約してきました(^_^)v
取り寄せなので10日程かかる様ですが、楽しみに待っております(^O^)
ふふふ、週末には桐野さんのお好きな韓国女優さんのドラマも始まりますね!


拙著のこと
桐野作人
岩剣石塁さん

先日はお世話になりました。
明日が発売日とのことで、もしかしたら明日の朝刊に記事が出るかもしれません。
鹿児島の人に関心をもってたらえたらいいですが。
まわりの方にも宣伝してくださいね。

みらん隊長、ご無沙汰です。
さっそく予約していただき、有難うございます。
お手許に届くまで時間がかかるのに申し訳ないですね。

日曜日から始まるドラマ、隊長はちゃんとチェックしていましたね。私も楽しみにしているところです。



中の人
「さつま人国誌 幕末・明治編」入手いたしました。
鹿児島県内では、4/2頃から出回っているようです。
他地域の方は、南日本新聞開発センターの本は、
地方小出版流通センター扱いとなると思われますので、
書店への配本なし・取り寄せの時間が通常よりかかる等の
可能性がありますので、書店での早めのご注文が吉かと。

御礼
桐野作人
中の人さん、こんにちは。

さっそく拙著をご購入いただき、有難うございます。
鹿児島の書店情報も寄せていただき、これまた感謝です。

ほんとは昨年のうちに出せればよかったのですが……。

今後ともよろしく。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第102回
―薩琉関係と亀井「琉球守」―

出かけていたため、お知らせが遅くなりました。

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今年は、慶長14年(1609)、島津軍が琉球に侵攻し、「附庸」としてからちょうど400年です。
島津軍が侵攻の第一歩を奄美にしるしたのが旧暦3月7日で、新暦だと4月初旬になります。

先日、奄美に出かけたのも、その取材を兼ねておりましたが、しばらくの間、このテーマで連載を続けたいと思っています。

今回は、豊臣秀吉の家来、亀井茲矩の「琉球守」称号を得るまでのいきさつと、それ以前の島津氏と琉球王朝の関係に若干触れました。
少し時系列をルーズにしたまま書いたので、次回に少し補足するつもりですが、庶流の日新斎系島津氏が本家を襲名する以前と以後とでは、薩琉関係には変化が生じています。
大まかにいえば、以前の薩琉関係は書札礼などからも対等な関係にあり、島津氏が琉球の「入貢」を強調する紋船の一件にしても、島津氏の代替わりのための派遣ではなく、あくまで室町幕府への儀礼的な派遣であり、島津氏はそれを仲介したにすぎないと、最近の研究で明らかになっています。

薩琉関係において、強気に出始めるのは、やはり日新斎系島津氏以後になってからで、それが次第にエスカレートしていくのは、やはり、豊臣秀吉の「唐入」=朝鮮侵略とその一環としての亀井「琉球守」拝命がきっかけになっていると思います。
次回はそのあたりの見通しを書けたらと思っています。

ともあれ、薩琉関係にとって、非常に重要な歴史的課題で、今日においても、とくに薩摩側がこの問題を避けようとする傾向があります。この問題が原因になっているのか、隣県なのに、地理的な距離感以上に「近くて遠い県」になっているように、私には思われます。
勉強不足で、荷が重い課題ですが、少しずつ取り組みたいと思います。

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【2009/03/28 20:17】 | さつま人国誌
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楽しみにしております。
NAO4@吟遊詩人
薩摩・琉球関係の歴史を書いた本は、普段目にすることなく興味深く思っております。

「室町・戦国時代の両国の関係」、「侵攻の過程」、「琉球王朝が薩摩の侵攻をどのくらい想定していたか」、「琉球侵攻後の支配形態」など考え始めると、キリがなく、楽しみにしております。

亀井琉球守のお話も面白く拝聴いたしました。

鹿児島県と沖縄県の県民感情の微妙な軋轢を考えたとき、現代の奄美諸島の人々は、どのような帰属意識を持っているのでしょうか。沖縄に連帯感があるのか、鹿児島県民という自覚が強いのか知りたい気分です。勿論一般化できないお話ですので、桐野様が見聞きされ、お感じになられた範囲でお聞かせいただけたらありがたく思います。

島津氏の琉球侵攻
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

いつもご愛読いただき、有難うございます。
このテーマはあまり知られていませんし、複雑ですから、私も本格的に取り組んだことがなかったので、にはなかなか難しいです。先人の研究を勉強しながらやるしかないですね。

ところで、今月から掲載曜日が変わります。
月曜日になります。ですから、次は6日です。
ただし、次々回の13日は新聞休刊日のため休載です。
年に数度、休載があるようです。
今後ともよろしくお願いします。

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歴史読本最新号が発売になっているようです。

連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第17回

今回のタイトルは「五カ条の条書と元亀争乱の端緒」です。
五カ条の条書は信長が将軍義昭に突きつけたもので、よく知られています。
今回はその意味づけについて書いてみました。
これまであまり触れられていなかった点についても二、三書いています。
とくに、この条書の証人ともいうべき朝山日乗と明智光秀の立場をどのようにとらえるか、少しだけ新味が出せたかなと思っています。

あと、この条書と同日に信長の触状が畿内を中心に東は甲斐、北は能登、西は備前まで19カ国に及ぶ広範囲の大名・守護や国人に出されています。
これも同日という点から考えても、五カ条の条書と密接に関連していると考えるべきでしょう。
触状は①禁裏御修理、②武家御用、③其の外天下いよいよ静謐、」という3つの目的を明らかにしていますが、とくに③の抽象的な表現が重要かもしれません。実際はこれが上洛命令に従わない=天下静謐への妨害という理由で、越前攻めが断行されるのではないかと思います。「天下静謐」なんて抽象的な書き方だと、何でも理由をこじつけられるわけですね。信長の巧妙さというか、狡猾さを感じさせます。

次回はようやく金ヶ崎の退き口でしょうか。姉川合戦に入れるかどうか。

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【2009/03/25 23:36】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第101回
―「南下脱走」企てるも断念―

連載が更新になりました・
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きです。
町田清次郎がフランスに渡ってからの生活と帰国の様子を書きました。
典拠としたのが清次郎の日記ではなく回顧談のため、時系列がよくわかりません。
フランスに渡ったのはいつで、どれくらい滞在したかもよくわかりません。
おそらく数カ月ではないかと思いますが。

かの策士・モンブラン伯の世話になったというのが興味深いですね。
モンブランは薩摩藩との商社交渉を成立させたかったと思われますので、恩を売ったのでしょう。
大目付の要職にあり、留学生の学頭もつとめる町田久成の末弟の世話はそれにふさわしいものだったと思います。

もっとも、久成もそのことが気懸かりだったようで、ほどなく清次郎は帰国を命じられます。
帰国の船中でのオランダ人少年とその家族との交流は面白いです。
下手をすれば、清次郎はそのままインドネシア、それもオーストラリアに近いパプア・ニューギニアのほうに行ってしまったのではないかと推測されます。

清次郎が長崎に帰ってきたときのいきさつなども面白いのですが、紙数の関係で割愛しました。

それにしても、明治以降の清次郎はどのような仕事をしたのでしょうか?

また回顧談の最後のほうに、清次郎は薩摩平佐領主の北郷主水の養子になる予定だったと書かれています。
この養子縁組は実現したのでしょうか? 実現したら、なぜその後、清次郎は財部名字を名乗っているのか、不勉強のせいで、よくわかりません。
なお、北郷主水はこの連載でも取り上げたことがある小松帯刀の友人、北郷作左衛門久信のことでしょう。かつて書いたことがあります(ここです)。

次回から、島津の琉球侵攻を書く予定です。
なお、4月から同紙の紙面刷新のため、掲載曜日が月曜日に変更になります。
4月6日(月)からです。

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【2009/03/21 11:02】 | さつま人国誌
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町田清次郎の行方
ばんない
こんにちは。実は町田清次郎の留学については以前ある方がブログで取り上げて興味深く拝見したことがあります。その方の追跡調査に寄れば、その後通訳として活躍したものの、くだんの「征韓論」騒動により辞職、帰郷し、その後今回のネタである回想録を語るまでの約50年が空白のようです。
その後の没年・没地も全く不明のようです…。
ご子孫・親族の方が今回の桐野さんの記事を見て反応して下さるのを期待するしかなさそうです。

平佐北郷家(北郷久信の出身家)については今のところ管見では『川内市史』が一番詳しいと思いますが、これも久信以後については全く触れていません。『「さつま」の姓氏』によると、久信の後はどうも実子が後を嗣いだようで、おそらく実子誕生により養子縁組解消…となったのではと推測されます。
小松帯刀の養子だった町田申四郎も消息未詳ですし、薩摩藩有数の開明派上級藩士の割には、町田家の人々は恵まれてないですね…。


清次郎その後
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

清次郎のその後の履歴が不明なのは、おそらく「征韓論」に関係するのではないかと、私も臆測しておりました。
どうも、西郷方に与した感じですね。洋行経験がありながら、珍しい事例だと思います。門閥家出身ですから、西郷党に与するのはふつうなら考えにくいのですが。
平佐北郷家に養子入りしなかった理由も了解しました。
ご教示有難うございました。

例外
ばんない
こんばんは。

門閥家出身、というかそれよりもっと上の身分かも知れませんが、西郷軍に身を投じて戦死したと言えば島津啓次郎(佐土原藩主子息)がいますね。また、啓次郎も洋行経験があるようですね。アナポリス海軍学校に在籍経験があるとか。


島津啓次郎
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

返事が遅れてすみません。
島津啓次郎、たしかに逸材でしたね。惜しい人物をなくしたものです。
西南戦争で、鹿児島の人材は払底してしまったという説がありましたが(笑)。



ばんない
こんにちは。

啓次郎は家族にはもちろん、当の西郷にも従軍を止められたそうで、まあそれでも最後は押し掛けていったのですが、あまりにも早まった行動が残念でなりません。よほど当時の政府の有りように不満があったのでしょう。島津家出身者で西南戦争に参加したのは彼だけじゃなかったでしょうか。

西南戦争で鹿児島の人材は払底したというのは、修学旅行の時のバスガイドさんの定番の持ちネタだそうですね(苦笑)。一種の自虐ネタのように思いますが。

ところで差し出がましい話なのですが、拙サイト「戦国島津女系図」のアドレスが変わりましたので、お暇なときに変更して下されば幸いです。新アドレスはURL欄に張っております。
お体ご自愛下さい。

リンクのアドレス変更
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

リンクのほうは変更しておきました。
今後ともよろしく。

清次郎の墓
-
こんばんは
鹿児島市在住のものです
町田清次郎は祖先と親から聞いています。
墓にも名前があります。
私の曽祖父にあたるようです。祖父が町田家から今の家に養子としてきたそうです。祖父が養子としてきたのに曽祖父の清次郎がうちのお墓に入っているのか聞いてみたことがないのでわかりません。父より父の兄のオジが詳しく知っているようなのでまた機会があれば聞いておきます。

コメント御礼
桐野
お名前がわかりませんが、はじめまして。

町田清次郎のご子孫にあたる方なのですね。
わざわざコメントいただき、有難うございます。

もし系譜やお墓のことがわかれば、差し支えのない程度にいろいろ教えていただければ幸いです。
個人情報など気にかかることがありましたら、左側のメールフォームをお使い下さいませ。不特定多数に公開するようなことは致しませんので。

今後ともよろしく。

町田清次郎の墓
-
こんばんは
7/6に町田清次郎は曽祖父にあたると書き込みしたものです。
父に確認し、過去帳をみたりしたところ、同姓同名の別人のようでした。
曽祖父があまり過去について話さない人だったようで。うちの町田家が松元の出だということと養子ということで、あの町田清次郎なのではないだろうかと思っていたようでした。
よく確認もせず書き込みして申し訳ありませんでいた。

そうでしたか
桐野
わざわざの調査、有難うございます。
少し見込違いだったようですが、気にしないで下さい。
また何かわかったら、教えて下さいませ。

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奄美在島中、一度はレポートできましたが、毎夜の宴会のため、その後は更新できずにおりました。
少し落ち着いたので、パート2を書きます。

3月11日(水)天晴

奄美本島と南接する加計呂麻島まで南下したことは前回書きました。
加計呂麻から再び本島に戻り、瀬戸内町の郷土館を訪ねる。
町内にある久慈の白糖工場跡を見学したかったので、学芸員さんからその場所と現況などを教えてもらった。ついでに、館内所蔵の耐火レンガを撮影させてもらった。感謝。

薩摩藩は幕末の慶応年間、奄美本島内に4カ所の白糖工場を建設した。黒糖より白糖のほうが市場価格が高かったからである。そのために、薩摩藩は英国から技師2人を招いて、2年ほどかけて建設した。
私はてっきり1カ所だけだと思い込んでいたが、前日、郷土史家の弓削さんから4カ所あることを教えてもらった。それは、

1,名瀬金久
2,宇検須古
3,瀬戸内久慈
4,笠利瀬留

今回、このうち、2を除く3カ所を見学することができた。

これから行こうとするのは3である。本島南端のくねるような山道を車で約40分走った。
途中、また戦跡があった。陸軍の弾薬庫跡である。
崖に3つの深い坑道が掘られている。内部はコンクリートできれいに固められている。トンネル同士、横で連結されている。敗戦後、膨大な弾薬が海に廃棄されたという。
陸軍弾薬庫入り口
弾薬庫の案内板
入り口
弾薬庫入口
弾薬庫内部
弾薬庫内部




久慈の工場跡はタンカン畑になっていた。
レンガが転がっていると聞いていたが、ほとんど見つけることができなかった。場所を間違えたかと思って近所の方に場所を確認すると間違いなかった。そのおばさんが東京から来たと知って、タンカンをたくさんくれた。
タンカンは皮が武骨で堅そうに見えるが、それほどでもない。食べると温州ミカンよりオレンジに近い甘さで、とてもおいしかった。帰ってからホテルでも食べたが、食べきれず、鹿児島まで持ち帰った。
久慈は私の弟家族が教員として赴任してきた場所だったことをあとで知った。
タンカン
あちこちにタンカンが稔っていた






工場跡といっても、その遺物はほとんどレンガだけである。レンガも2種類あって、耐火レンガとそうではないふつうのレンガ。耐火レンガはキチッとした方形で、いかにも堅そうである。色は白っぽい。
2種類のスタンプが押してある。

STEPHENSON
COWEN

どちらも英国のレンガ工場のメーカーらしい。
耐火レンガ
cowen






3月12日(木)天晴

早朝、ホテルで南海日日新聞の編集局長Oさんと記者のHさんと合流。
Oさんは私の大学の先輩で、昨秋、鹿児島での講演会で初めてお会いした。
Hさんは、今年が島津軍の琉球侵攻400年を記念した琉球新報との合同企画で健筆を振るっている。

今回、島津軍が最初に奄美に上陸した笠利の津代湊を案内してもらうことになった。
車は北上し、まず龍郷に行く。ここは西郷や愛加那ゆかりの地であるだけでなく、白糖工場が建てられた場所でもある。
龍郷町教育委員会のMさんに公民館に保管してあるレンガを見せてもらった。撮影まで許可していただき、感謝。
白糖工場は龍郷湾の内奧、瀬留にある。
工場跡を見学したら、近くに瀬留教会があった。建物はもう100年の歴史があるという。宗派はカトリックの聖フランシスコ修道会。日本の近世初期、イエズス会と対抗して熱心に布教活動をした宗派だ。
明治末年に赴任してきたブイジュ師の胸像があった。こちらでは有名な牧師らしい。
瀬留白糖
ブイジュ師





奄美は概してキリスト教徒が多く、当然教会も多い。車で走っていて、目につくのは病院や介護施設とともに教会だった。

Hさんの案内で、笠利まで行く。
島津軍が最初に上陸した地点といわれる津代湊をめざす。
笠利湾の内奧のひとつで、クルマエビの養殖場の前から少し山に登る。ハブが冬眠から醒める時期だとのことで、枯れ枝を杖代わりにして、雑草を払いながら進む。
そういえば、前日、安脚場の海軍哨戒基地の弾薬庫跡で、思わず山城攻めの感覚で、背後の籔の茂みに隠れた穴に入ってしまった。
あとで、同行した南日本新聞のHさんに「勇気があるなと感心しながら見ていた」と言われて、思わず冷や汗。ハブのいる奄美だということをすっかり忘れていました。

山頂に辿り着く。ソテツが植わっているなか、線香を供える器物が置いてあった。これが津代史跡の目印らしい。
笠利湾が一望できる。
慶長14年(1609)3月、鹿児島山川港を発した3000人の島津軍は折からの暴風雨のため、四散してしまい、奄美の各所に漂着したという。この津代には総大将だった樺山久高率いる一手が辿り着き、いくさになったといわれる。
400年前にそのような出来事があったとは思えない風光明媚な場所だった。
津代
津代の山上から笠利湾を望む



その後、同行した調所一郎氏(調所広郷子孫)の希望で、サトウキビ畑や製糖工場を見学することになった。先祖笑左衛門広郷の天保の改革は奄美の黒糖抜きには語れない。調所さんは先祖の正負の両面を見たいと希望していた。

奄美で一番大きい富国製糖に行く。
ひっきりなしにトラックがサトウキビを運んでくる。
サトウキビも手刈と機械刈があるそうで、手刈だと長いサトウキビ、機械だと短い。
近くの畑でハーベスター(刈り取り機)が刈り取り作業をやっていた。
機械のおかげで、農作業がだいぶ楽になったという。もっとも、高価な機械なので、農家の希望を受けて請け負いでやるそうだ。
少しサトウキビをいただき、食してみる。
独得の甘味がじわっと口の中に広がる。子どもの頃、私もよく食べたので懐かしい。調所さんは都会育ちのせいか、私が食べ方を教えた。
サトウキビ手刈
手刈したサトウキビ
ハーベスター
ハーベスターによる収穫
サトウキビ袋
ハーベスターで収穫したサトウキビ袋


OさんとHさんにとてもきれいな海だと聞かされ、本島東海岸のあやまる岬を望む土盛海岸(ともり~)に案内してもらう。浜に行ってみると、一面にコバルトブルーの海が広がっていた。
左手にあやまる岬が見える。語源がよくわからないが、綾に包まれるとか、文字どおり謝るという意味もあるのではという話。
TVドラマや映画のロケ地としてもよく使われるそうである。奄美の海で一番きれいなのはここではなかろうかと思った。
あやまる岬
コバルトブルーの土盛海岸とあやまる岬(左手)




昼食は笠利の鶏飯店「みなとや」で食べる。
この店には現・天皇・皇后もかつて来られたそうで、お気に召したらしく、皇后がおかわりをしたという「伝説」があるそうな。
鶏飯は、近世奄美が島津家の直轄地になってから、赴任してくるヤマト(本土)の役人をもてなすために生まれた接待料理。今では奄美を代表する郷土料理である。私もこれが食べたくて、奄美に来たようなもの。
軽くよそった御飯の上に、鶏肉、炒り玉子、わけぎ、しいたけ、みかんの皮らしきもの、パインの漬物風、海苔などをのせ、鶏骨のだし汁をたっぷりかけていただく。
喉ごしがよく、三杯もおかわりしてしまった。
鶏飯





昼食後、近くの宇宿貝塚史跡公園を見学。ここで、お世話になったOさんとHさんと別れる。お忙しいなか、半日以上付き合っていただき、感謝。
戦前に発見された縄文中期から中世までの複合遺跡で、国指定史跡としても知られる。
難産で亡くなった母子の埋葬状態が復元されていたが、母親の両足の間に嬰児を置いて合葬してあったようだ。

飛行機の出発時間も迫っていたので、奄美本島の最北端、笠利崎まで行ってみようということになる。
途中、笠利町笠利の幹線道路沿いに大島奉行所跡があった。薩摩藩が慶長14年に琉球侵攻したとき、中山王朝に迫って奄美諸島を割譲させた。それ以降、奄美諸島は島津家の直轄地となり、代官支配がなされる。この地は江戸時代初期に最初に大島奉行所(のち大島代官)が置かれた場所。わずかに珊瑚石でできた石垣が残っているだけだった。

大島奉行所跡の近くにも大きな教会があり、墓地も付属していた。
白い十字架の墓が立ち並んでいる。奄美のキリスト教信仰の強さを再認識した。
大島奉行所
大島奉行所跡の案内板
十字架の墓
笠利のキリスト教墓地




最北端の笠利崎に着く。
岬の高台に白い灯台が立っている。
あいにくの強風で体が飛ばされそうだったが、調所さんと急な階段を一緒に登る。
灯台下からの眺めは絶景。西(左)は東シナ海、東は大平洋、かすかに喜界島の島影も見える。
これで、奄美本島の最北端から最南端まで行くことができた。
笠利崎灯台
笠利崎の灯台





再びとって返し、奄美空港に急ぐ。
空路、鹿児島へのプロペラ機での旅とあいなる。
奄美空港
鹿児島行きの機





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【2009/03/17 18:15】 | 日次記
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ばんない
こんにちは。興味深く拝読させていただきました。取材の内容をこのブログで見せていただいた限りでは「さつま人国誌」また幕末ネタが多くなりそうですが(苦笑)またそれもよいのではないかと。

奄美はキリスト教(お墓を見ているとどうもカトリックのようですね)信者が多いというのは意外でした。韓国も圧倒的にキリスト教信者の割合が多いらしいですが、歴史的に似たような背景があるとキリスト教の布教はしやすいのかも知れませんね。

私も先日タンカンを頂戴しましたが、意外に皮も剥きやすくて甘いですね。

レンガ
岩剣石塁
 タンカン、美味しく戴きました。
みなとやの鶏飯は美味しいですよね。
 我が家の鶏飯は、パパイヤの漬け物が入手できない場合、
奈良漬けで代用しています。

 それにしても、耐火レンガは、わざわざイギリスで
作られてから運ばれてきたものなのでしょうか?
それともインドや香港あたりでイギリスの会社が作っていた
ものなのでしょうかね?
建設にあたってはそれなりの資金も必要だったと思います。
興味深いですね。

キリスト教
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

奄美はキリスト教が目立ちますね。
でも、戦争その他でずっと苦難の道を歩んだようです。

タンカンは、食事のとき、デザートでよく出てきました。
どれもおいしくいただきました。

パパイヤ
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

鹿児島ではいろいろお世話になりました。

鶏飯の具はパインではなく、パパイヤでしたね。
私の勘違いでした。
どっちにしろ、いかにも南国らしい具で楽しいです。

レンガはどうなんでしょうかね。
本国ではなく、香港や上海からの可能性もありますね。
この白糖工場建設には、グラバーも関与・仲介しています。
グラバーは長崎を本拠にして、琉球や香港・上海経由の貿易をしていましたから、レンガもそのルートで仕入れたかもしれませんね。
もう少し調べてみます。


調所
この度は、お誘い頂き有り難うございました。過去から現在まで我が家系では誰も奄美を訪れたことがございませんでした。風説とは異なる資料も見る機会に恵まれ、色々と考えさせられました。今回を機に奄美と黒糖産業について勉強してみようと思います。

こちらこそ
桐野作人
調所さん、こんにちは。

奄美ではいろいろお世話になりました。
やはり百聞は一見にしかずですね。
現地に行くことの大切さを痛感しました。
また行きたいですね。

久慈の旧家について
Az猫ロメ
 初めまして。還暦近くになり、最近ご先祖のことが知りたくなり、Web検索していたところ、このサイトにたどり着きました。色々とご研究なされているようなので、教えて頂ければ幸いです。
 私の母方の先祖は「泰山」(やすやま)を名乗り、薩摩藩から「奄美五島」の征服を命ぜられ、かの地にやってきたという伝承があるようです。
 私は、もう24,5年近く前になるでしょうか、瀬戸内町に残っていた親族の勧めで、亡き母と共に先祖のお墓の改葬のために奄美の久慈の里にゆきました。
 親族の話によると、泰山本家が祖父の代に奄美を離れて、宮崎に移住したのち、墓は誰も見る人がいなくなったそうです。泰山本家の家長であった英哲が奄美を去ることになった理由は、祖父が建てたカトリック奄美高女の司祭に、久慈にあった旧日本海軍の地図を売ったという誹謗事件が原因でした。(奄美高女の歴史は恐らくご存じでしょう)
 私は、この泰山一族の曾祖父であった英俊のことが気になるのです。この方は、幕末時代に江戸に出向き、今の慈恵医大の前進である「医学塾」に学び、故郷に戻って医業と村長の両方の仕事をこなしていたそうです。
 幕末時代に、奄美の辺境地の「田舎侍」がどうして、江戸に上京できたのだろうか、とても不思議でなりません。
 また、言い伝えでは、剣術のほうも達者だったようで、鹿児島で何らかの「剣術試合」で打ち斃した剣士の縁者が、わざわざ、「仇討」に久慈の里にまでやってきたそうです。偶々、英俊が不在だったので、館内で狼藉を働いていたときの隙をついて、英俊の姉が背後から床の間の隠し穴を通して、槍でこの武士を斃したとのことです。館には、この武士がこの時振り回した刀の跡が屋敷内に残っていたそうです。あまり確かなことは言えませんが、泰山家は瀬戸内では旧家であったと、改葬の際に色々と世話をしてくれた親族の一人は言っておりました。
 久慈の浜は私の目には、日本の「中世の湊」のように見えました。東北地方に「月の浦」という湊がありますが、ふと思い出したものです。何か、ご先祖の出目についてわかることがありましたら、お教え願えないでしょうか。宜しくお願いします。

泰山氏?
桐野作人
Az猫ロメさん、はじめまして。

コメント有難うございます。

ご質問をいただきましたが、私は奄美の事情にはくらくて、よくわかりません。

私でわかることを書きますと、
鹿児島県の諸氏をまとめた『鹿児島県姓氏家系大辞典』というのがありますが、そのなかには「泰山」という名字はありません。「安山」はありますが、奄美とは関係なさそうな名字です。

ひとつ考えられるのは、ご実家に「田舎侍」という言い伝えがあるということは、いわゆる藩当局によって、「郷士格」に取り立てられた身分だと思われます。そして、奄美諸島の郷士格身分は帯刀と名字が許されましたが、名字はいわゆる一字名字です。

それで、ご先祖の本来の名字は「泰」だったのではないでしょうか。「泰」という一字名字の郷士格の人物が確実に存在しています。
そして明治になってからか、他の一字名字の家のかなりの部分がそうしたように、二字名字に改姓したと考えられます。

もしそうなら、史料がないわけではありません。
『奄美史料集成』(松下志朗編、南方新社、2006年)に、

「代官初并大嶋郷士格人躰他」

という、郷士格身分の人物についての史料が収録されていまして、その437頁に、次のように書かれています。

一、     右同   泰池光
 右唐通事之御取訳を以、弘化二年巳六月被仰付候

幕末の弘化2年(1845)、泰池光という郷士格の人物が「唐通事」すなわち、中国語通訳に任命されています。
おそらく「泰」家は代々唐通事の家柄だったのでしょう。

唐通事なら、島では相当のインテリですから、島外、しかも江戸への留学も医術の勉強という名目なら、可能だったかもしれません。

ご実家には、上記に関わるような言い伝えはないでしょうか?

とりあえず、私でわかることを書きました。
あまりお役に立てないですが。


Az猫ロメ
お礼が大変遅くなって申し訳ありません。
 泰山氏の話はとても興味を覚えました。「唐通事」と医学との関わりは、ありうるもののように思えます。私の父方のご先祖及び親戚も、どうも中国からの帰化人のようなのです。私の母の話では、泰山家もこの父方との遠縁にあたるとか言っていました・・・。
 なぜ久慈のような辺境の地に住んでいたかは、大きな疑問ですが、私の目には、波静かな「中世の湊」で、あるいは琉球貿易との関わりがあったかもしれないと想像したりします。
 いずれにしましても、幕末に久慈の田舎郷から江戸にまで出向くというのは、大変にロマンを掻き立てる話ではあります。
 遅くなりまりましたが、貴重なお話有難う御座います。重ねてお礼を致します。

久慈
桐野
Az猫ロメさん、こんにちは。

久慈の港は、島津氏の砂糖積出港のひとつでしたし、白糖工場も造られていますから、現代よりももっと活気のある場所だったと思います。

ちなみに、私の弟が久慈に赴任している時期がありました。

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5月から武蔵野大学生涯学習講座(三鷹サテライト教室)の講師を担当することになりました。

テーマは、以下の通りです。

大河ドラマ「天地人」と信長・秀吉・家康

今年の大河ドラマを、上杉氏と歴代中央政権との関わりという視点から見ていこうというものです。
開講は5月9日(土)13:00~14:30からで、
以後、毎週土曜日・同時間帯の全10回開催です。
全10回で受講料は10.000円。
場所はJR中央線三鷹駅前(北口)にある三鷹サテライト教室です。

受講料は他の講座と比べて、意外とリーズナブルではないかと思います。
3月16日(月)から受付開始です。

全10回の講座タイトルは以下の通りです。

① 5月 9日:上杉家とは―樋口氏と直江氏
② 5月16 日:御館の乱―景勝と景虎
③ 5月23 日:直江兼続の登場
④ 5月30 日:上杉家滅亡の危機―織田信長の侵攻
⑤ 6月 6日:豊臣秀吉への臣従―武家清華・五大老として
⑥ 6月13 日:上杉家と石田三成
⑦ 6月20 日:直江状の真偽―徳川家康との対峙
⑧ 6月27 日:東北の関ヶ原合戦
⑨ 7月 4日:直江兼続と長谷堂合戦
⑩ 7月11 日:その後の直江兼続


詳しくはここをご覧下さい。
アクセスすると、各講座の一覧表がありますが、そのなかの文学・文化ジャンルNo.42が私の担当講座です。
末尾に「詳細」とあるところをクリックすると、講座の趣旨や全10回の講座内容などが書かれています。また、受講案内や申し込み方法も掲載されています。

東京近辺の方で関心のある方はご検討下さい。
定員に達しないと講座が成立しないそうですので、よろしくお願いします。

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【2009/03/15 01:27】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第100回
―異文化に好奇心あふれ―

奄美・鹿児島から無事に帰宅しました。

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

今回で連載も100回の大台に乗りました。
我ながら、よく続いていると思います。
毎回、青息吐息なんですけどね。
ネタはたくさんあります。でも、写真がなかったり、少し史料を集めたり勉強してからでないと書けないのが多いのも実情。
最近は幕末史に偏っているので、他の時代もやりたいと思っています。
来月から新年度ですし、紙面刷新もあるそうなので、幕末史ではない別のテーマをやりたいと思っています。それに向けての奄美・鹿児島調査でもありました。

さて、今回は慶応元年(1865)の薩摩藩英国留学生の一人、町田清次郎(のち財部実行)の回顧談から、面白そうなエピソードを集めて紹介しようという趣旨です。
今回の目玉は、五代友厚の大変な勘違いと、英国留学生がエジプトのピラミッドを見学したとされる一件です。

五代は薩摩藩内外で国際通、財政通として知られていました。英国留学生派遣も彼の提案によるものです。しかし、国際通のはずの五代がやらかした、とんでもない失敗談には笑ってしまいます。

もうひとつのピラミッド見学の件ですが、これまで他の留学生の渡航日記には書かれていなかった情報です。清次郎の回顧談が留学から50年以上たってから語られたものですから、断定するには躊躇を覚えます。もっとも、連載には事実のように書いてしまいましたが……。
清次郎だけでなく、他の留学生の渡航日記を含めて、ピラミッド付近を通過しているのは間違いないと思います。ですから、見学した可能性はあるともいえます。彼らは途中、多くの史跡を見ているはずですから、ピラミッドもそのうちのワンノブゼムと思ったから、あえて日記に書かなかったともいえます。

一方、世界遺産たるピラミッドを実際に見学したら、強い印象を受けるはずで、複数ある渡航日記のどれかに書かれてもおかしくないはずという見方もあるでしょうね。
さて、裏付けとなる史料があればよいのですが。いずれにせよ、一行がピラミッドを見学していたとしたら、非常に重要な情報です。

なお、町田家で英国使節・同留学生になったのは、久成・申四郎・清次郎の3人ということになっていますが、じつは三男猛彦(大介か)も選抜されていた可能性があります。彼は串木野羽島で渡航船を待っている間に精神に異常を来し、変死したとされています。
ところが、清次郎の回顧談には猛彦と思われる人物が病気になって留学生を免ぜられたと書かれています。
実兄のことですから、清次郎の回顧談はかなり信頼できるのではないかと思っていますが、猛彦がどうなったのか、よくわかりません。
このこともいったん原稿に書いたのですが、紙数の関係で割愛しました。

次回は、清次郎のフランスから帰国までの軌跡を書く予定です。

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【2009/03/14 17:32】 | さつま人国誌
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拝読しました。
NAO4@吟遊詩人
「さつま人国誌」いつも楽しく拝読させていただいております。

>アデンから陸海路で地中海をめざした。
>一行はナイル川を船で下ってカイロに着いたが

アデンはアラビア半島のイエメンにあり、そこに上陸していながら、それが何故ナイルの上流に現れ、カイロまで下るのか、なかなか、この旅路のイメージが一瞬湧かないのですが、

恐らく、アデンに上陸した後、一度アラビア半島からエジプト側に紅海を船で横断するんでしょうね。
そのあと、陸路を紅海に沿って北上するのではなくて、少し内陸に入り込み、ナイル川をカイロまで下る。
そのように理解しました。


>伊藤博文、井上馨は藩命で先に帰国

何しろ、自分の知識が「大河ドラマ(この場合、「花神」だったと思う。)」をベースにしているので、この点に違和感がありました。ドラマでは藩命ではなく、四国艦隊との戦争に突入した(しそうであったのか?)長州の情報を聞いて、自主的に急ぎ戻ったのが、伊藤・井上で、留学先で技術を学ぶ方を優先したのが、残った3人であったと理解しておりました。
これが、明治になってからの運命を分けた(政界で重きをなした伊藤・井上の成功譚)とも解説していたように記憶しています。(本当は、藩命に従った2人と、従わずに残った3人だったのかもしれません。)

ピラミッド
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

私の書き方が悪く、わかりにくかったり、不正確なところもあったようです。

まず、アデンから海路でスエズまで行き、そこから鉄道でカイロに行ったというのが正しいルートのようです。畠山義成の日記にはそうありました。

したがって、町田清次郎がピラミッドを見たというのは、カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが、他の渡航日記には出てこないですから、真偽のほどはよくわかりません。

取り急ぎ、追記と訂正まで。

わざわざ、お答えいただき、ありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
実は、先のコメントは、全く根拠無く想像したわけではなく、私が若い時分エジプトを旅行した際、欧州からの旅行者から、ナイル上流のルクソールから紅海に出て、ボロ舟で紅海をアラビア半島まで渡ったという話を聞いたことを思い出しまして、想像いたしました。今では観光客は殆ど使わない通商ルートはあるようです。

ピラミッドのあるギザはカイロ郊外にあり、今では、カイロ市街からタクシーで容易く行けます。

>カイロに到着してから観光に出かけたということになりますが
というお話は、納得できるのではないかと思います。(ただ、明治以前でしたら、宿はギザに取りそうですが。)
大変細かいお話お付き合いいただき、ありがとうございます。

「久成」の読みは?
雪見月
桐野さん、はじめまして(?)。鹿児島在住の雪見月といいます。
いつも月曜日の「さつま人国誌」を楽しみにしていて、昨年3月にまとめられたご著書も購入しました。また、記事は切り抜いてファイルに保存し、何度も読み返したりしています。こちらのブログも時々読ませていただいています。

7月5日(月)の南日本新聞で、小松帯刀から養子の町田申四郎に当てた手紙のことなどが話題になっていたので(『さつま人国誌』の隣の記事ですが)、桐野さんの「町田清次郎の回顧談(上)/No.100」を思い出し読み返したところ、「町田久成(ひさすみ)」とあります。以前に読んだ時も気になっていたのですが、忘れたまま「ひさなり」と読んでいました。
つきましては、是非正しい読みをお教えいただきたいとコメントさせて頂きました。

私の曾祖父は、同じ薩摩藩英国留学生の「名越時成(名越平馬)」の弟なのですが、二人の上に姉が二人居り、下の姉が一時、久成さんの妻だったようです(同じ名越左源太の子孫の方が調べ、除籍謄本にて確認済みです)。その後、明治17(1884)年頃に戸籍が元の名越家に戻ったようですが、一時は曾祖父にとって義理の兄だった人なので、名前の読みを把握しておきたいという思いもあります。
出来ましたらこの読みのもとになった資料などもお教えいただければ幸いです。
長々と失礼致しました。

久成の読み
桐野
雪見月さん、こんにちは。

拙著や拙稿をお読みいただき、有難うございます。

お尋ねの件ですが、私の備忘に「ひさすみ」と書いてありますが、迂闊にも出典を明記しておりません(苦笑)。
たしか何かの著作に書かれていたので、メモした覚えはあるのですが……。

門田明「町田久成略伝」
関秀夫『博物館の誕生』岩波新書
その他、人名辞典の類を調べてみましたが、すべて「ひさなり」になっているか、ルビが付いていないものばかりでした。

一体何を見たんでしょうね?
じつは、私も気になっていて、内々に探していたのですが、探しきれないうちに、雪見月さんからご質問を受けてしまった次第です。

余談ですが、5月の甲東祭に、町田久成のご子孫(ご当主とご子息)が参列されていました。絶好の機会なので、このことをお尋ねしようと思っていましたが、他の方と話しているうちに、お帰りになってしまったようで、痛恨の逸機でした。こういう機会はそうそうあるものではありませんのに(泣)。
なお、ご子息のほうは久成ばりの超イケメンでした。

お答えになっておらず、すみません。
もう少し時間を下さいませ。


楽しいエピソード♪
雪見月
早速お答えくださり、ありがとうございました。
ちょっと厚かましい質問かとも思いましたが
詳しいご回答、嬉しい限りです!

私も、他の書物等で見たのでは‥‥と思いいくつか探してみたのですが、やはり見当たりませんでした。。

また何かお分かりになりましたら、こちらででもお教えくださいませ。

5月の甲東祭でのエピソード、楽しく読ませていただきました。
イケメンのご子息ですか~♪一目拝顔したいものです(笑)

そうそう、先日の新聞に桐野さんのお写真が♪
素敵な方ですね!

それでは、いずれまた。

まちだ”ひさすみ”の根拠
ばんない
ご無沙汰しております

町田久成の読みですが、どうも根拠となる史料が存在しているようです。おそらく桐野さんが御覧になったのもそれではないでしょうか。
コメントしようとしたのですがうまくできなかったので、拙ブログでの記事をトラックバックするという形で詳細を書いております。
では失礼させて頂きます。

禁止キーワード?
桐野
ばんないさん、こんにちは。

ご紹介の記事はだいぶ前に拝読しておりました。
出典はわかりましたが、自分では確認できていないので、何ともいえない状態です。

ところで、「禁止キーワード」があったとのこと。私は何もそんな設定はしてませんけど、ブログの主催者のコード基準でもあるんでしょうかね? 事情がわかりませんが、申しわけありません。

久成の読み
かじやちょう
かじやちょうです。

一新朋秀さんという研究者のReaD情報です。
http://read.tokyo.jst.go.jp/public/cs_ksh_012EventAction.do?action4=event&lang_act4=E&judge_act4=2&code_act4=1000174146

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(1)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1986 ) 18,23-42 / ,

The Idea of a Museum in the Life of Machida Hisasumi -One Aspect in the Formative Stages of National Museums in Japan(2)-
Annual Report of the school of Museology (Bulletin of Universities and Institutes ,1987 ) 19,7-26 / ,

この2つの論文ではひさなりではなく、ひさすみになっています。
現役の研究者ですので、出典は押さえていると思います。ご参考までに。


御礼
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

おおっ、貴重な情報提供有難うございます。
たしかにスペルが「Machida Hisasumi」になっていますね。
一新朋秀さんの論文がいくつかあるようですので、探してみたいと思います。



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3月10日

朝4時半起きで、羽田から奄美への直行便に乗る。
10:40頃、奄美空港着。
暖かいというより、暑い。
半袖の人が多いのに驚く。

空港近くの奄美パーク内にある田中一村記念館に行き、作品を鑑賞。
以前、鹿児島の山形屋でやっていた展示を観たことがある。

その後、龍郷の西郷隆盛謫居跡や愛加那の墓を見学。
西郷が上陸した場所にある西郷松も見た。
01
02
愛加那の墓と西郷松





ホテルにチェックインしてから、地元の郷土史家の弓削さんと、南日本新聞奄美総局長のHさんと合流。Hさんは旧知で、私の連載「さつま人国誌」執筆を勧めてくれた人。文化部のデスクだったが、昨年から奄美総局に異動になった。
夜は郷土料理居酒屋「喜多八」で痛飲。
弓削さんから貴重な話を承る。それまで私が抱いていた藩政時代の常識や通説をひっくり返される。
いい意味でのカルチャショックだった。

3月11日
早朝、ホテルでHさんと合流し、ガイドしてもらう。
島を南下する。
途中、住用町西仲間にあるマングローブ原生林を眼下に見る。
沖縄や西表島でもたくさん見たが、かなり規模が大きい。
04





島南端の瀬戸内町の古仁屋港から対岸の加計呂麻島にフェリーで渡る。
加計呂麻島は映画「男はつらいよ」シリーズのマドンナでもっとも人気が高いリリー(浅丘ルリ子)の故郷としても知られる。
スリ浜はロケ地のひとつ。そのとき撮影されたレストランなどがいまも営業して、昼食をとった。
浜には寅さんファンと思われる妙齢の女性グループも観光に着ていた。
その後、同じくロケ地の諸鈍(しょどん)にも行く。
ここはリリーの実家があったという設定で、そのときの家も残っている。
またその家の前にはデイゴの長い並木がある。
沖縄でデイゴはよく見たが、このデイゴは素晴らしい。
花が咲く6月頃はもっときれいなのだろうなと思う。
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加計呂麻島に渡るフェリー「かけろま丸」
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「男はつらいよ」のロケ地となったスリ浜とリリーの実家跡
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デイゴ並木



また同島の呑ノ浦には、大戦末期、海上特攻艇「震洋」の基地があったところ。
作家島尾敏雄は震洋攻撃隊の隊長として、ここに赴任。
出撃しないままに敗戦を迎え、現地で知り合ったミホ夫人と結婚し、奄美が終焉の地となった。
震洋攻撃隊の体験を綴った「出発は遂に訪れず」や、妻ミホとの葛藤を描いた「死の棘」などの作品で知られる。「死の棘」は松坂慶子と岸部一徳主演で映画化もされた。

スリ浜は加計呂麻島の内湾にあり、のどかできれいな浜。とても戦跡があるとは思えない場所。
ここに、島尾敏雄の墓もあり、震洋艇を収容した壕が6基も残っている。
アダンやハイビスカスに囲まれた崖に掘られているが、とても戦跡とは思えないほど。
おそらく映画「死の棘」で使われたと思われる震洋艇も格納してあった。
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島尾敏雄の墓
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震洋攻撃隊基地に残る桟橋の杭と震洋を格納する壕




その後、島の反対側(外洋に面している)にある安脚場(あんきゃば)にある海軍の哨戒基地も訪れた。弾薬庫など戦跡が多数残っているのに驚かされた。
スリ浜の震洋艇の基地では、米軍艦船の接近を視認できないので、おそらく安脚場の哨戒基地から連絡を受けて出撃する仕組みになっていたのではないかと想像された。
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安脚場の海軍哨戒基地に残る弾薬庫跡と哨戒棟跡から見た東シナ海



夜は、島唄の酒場で有名な「かずみ」に行く。
おいしい郷土料理をいただきながら、島唄と三線を堪能。
かずみママのノドは素晴らしい。
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すっかり奄美のとりこになった一日でした。

明日は島北の笠利にある島津軍上陸地といわれる場所に行きます。
ちょうど400年前の慶長14年(1609)、島津軍の琉球侵攻があったが、島津軍の最初の上陸地点である。

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【2009/03/11 23:56】 | 日次記
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寛永寺幼卒人
カメラ・・・変りました? この頃良い写真が入りますので
楽しく拝見! そんなに遠路地にも西郷さんは~
お体大切に お陰様で日本の歴史に興味を持てる様になりました 有難うございます

写真?
桐野作人
寛永寺幼卒人さん、こんばんは。

その後、お元気でしょうか?
写真は日頃と同じ条件で掲載しているのですが……。
もし写りがよいとしたら、私の腕よりも被写体のおかげではないかと思います。

続編も近いうちに掲載しますので、お楽しみに。

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明10日から三泊四日で南の島に出張です。

向こうはすでに連日20度以上の気温だとか。
体調調節が難しそうです。
意外と日焼けするかもしれません。

ノートPCは持っていきますので、現地からレポートを書けるかもしれません。
もっとも余力が残っていたらの話ですが。

それでは、行ってまいります。

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【2009/03/09 21:35】 | 信長
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第99回
―洗礼受け、生涯独身貫く―

連載が更新になっていました。
お伝えするのが一日遅れました。

左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

しばらく藩外、県外の人を続けていましたが、今回もそうです。
桐野利秋の京都時代、その恋人だった村田さとのことを書きました。

といっても、彼女がどんな人なのか、伝承以外それほど情報があるわけではありません。
それでも、桐野の日記『京在日記』に頻繁に登場するのはたしかです。
ただ、それもさと個人ではなく、さとの実家である村田屋という煙管店に桐野が頻繁に立ち寄っていることがわかるだけですが。それも二日とあけずですから、かなりお熱だったことがわかります。
桐野はさとの弟伊三郎のことも可愛がっていたようです。

以前、さとの墓を訪ねたことがありました。せっかくなので、記事にしてみようと思いました。
記事にも書いたように、哲学の道の南端にある若王子神社近くから同志社墓地の参道があるのですが、これが雨上がりだったせいもあって、なかなかの難路で、頂上に着いたときは息も切れそうで、汗だらけでした。

途中、「猪注意、刺激を与えないようにして下さい」という看板を見て苦笑。
「刺激を与えるな」といってもどうすればいいんだよと、思わずツッコミ。

そしたら、頂上の墓地には、至るところに土や枯葉を掘り起こした跡がありました。明らかに猪くんの仕業です。看板に偽りなしだったことに妙に納得。

同志社墓地は墓域の一番奥にあります。柵で囲われていました。
そのなかに新島襄・八重夫妻、親戚(八重の兄)の山本覚馬などの墓が。
新島襄






新島襄の墓銘を刻んだのは勝海舟だそうです。
でも、「島」の字、横棒が一本足らないのでは?
山本覚馬は元会津藩士で、戊辰戦争のとき、京都に残り、薩摩藩お預けとなりましたが、山本の学識、見識に薩摩側では驚いて、厚遇したといわれています。明治になって新島夫妻を後見したことで知られています。

それにサプライズだったのは、徳富蘇峰の墓があったことです。
たしか蘇峰の墓は多磨墓地だったかにもあったと思いますが……。
こちらは供養墓なんでしょうか?
蘇峰がクリスチャンだったことは知っていましたが、新島襄から洗礼を受けたのでしょうか?

村田さとの墓は同志社墓地の枠外、手前のほうにありました。
近くに村田名字の墓もありましたが、さとの実家かどうかは確認できませんでした。

さとの墓がとてもきれいで、新しく見えたのに少し違和感がありましたが、大正年間まで生きていたことで納得しました。

桐野と知り合ったことがその生涯に大きな影響を与えたのでしょうが、師のそばで眠っていることは何よりだと思います。
村田家は新島夫妻のスポンサーでもあったようです。さとの家族まで入信していたかどうかはわかりませんが、新島夫妻との親密さを考えると、家族中で入信していた可能性が高いですね。

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【2009/03/08 10:20】 | さつま人国誌
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素人さんに手を出してはいけません!
ばんない
昨日のうちに拝見しておりました。
村田さとさんは気の毒な女性ですね。こちらで言及されましたように新島襄の妻・八重子は会津藩出身で、戊辰戦争のさいに断髪して鉄砲かついで活躍したのは有名な話です。桐野さんのお話によると、村田さんは薩摩藩出身の男性に棄てられて会津藩側の女性に救われる形となったわけですが、何とも皮肉な話だと思いました。村田さんは同志社墓地に墓があり、死ぬまで独身で暮らしていたと言うことを考えると同志社女子学校(現在の同志社女子中学校/高校・女子大学)の職員か何かをしていたのではないかとも思われますが、ちょっと調べた限りではそういう形跡はないようですね。同志社の方にはネットにはUPされていない史料が残っている可能性もありますが。

徳富蘇峰は新島襄の弟子です。熊本バンドというキリスト教系結社を組んだ物の地元から叩き出されるような形になり、キリスト教の縁で新島に預けられます。途中で考え方の相違から同志社は中途退学していますが、最後まで新島には私淑していたようです。

しかし、最近は同志社墓地まで猪出るようになりましたか。そのうち鹿とか猿に襲撃されるのも時間の問題かも知れません。

同志社女子学校
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

村田さとは新島夫妻のうち、やはり同性のよしみで八重夫人との関係が強かったようですから、同志社女子学校に奉職した可能性はありますね。なるほどと思いました。

もっとも、その地は旧薩摩藩邸で、思い人の痕跡が残っている所でもありましたが……。

徳富蘇峰の件、ご教示有難うございます。

鹿、猿もですが、とくに猪に遭遇したらイヤですね。
もしかして、墓のお供え物を狙って出没するんですかね?

村田家末裔です。
浅田遥
はじめまして。私は、村田さと(村田煙管店)の末裔で、女優の浅田遥ともうします。さとさんと桐野さまのお話、また西郷さまのお話、代々村田家で受け継がれております。

また、来年9月公開予定映画「半次郎」にて村田さとも登場します。そして、私もさとの末裔という事で出演しております。

さとさんについて調べていたら、こちらの記事を発見したのでコメントさせていただきました。

はじめまして
桐野
浅田遥さん、こんばんは。

村田さとさんのご子孫の方ですか!!
ようこそ、おいで下さいました。
お家のほうには、さとさんや桐野、西郷など多くの逸話が伝えられているとか。もし機会があれば、うかがいたいものです。
さとさんは同志社大学に勤務されていたのでしょうか?

映画「半次郎」にも出演なさるとか。榎木さんには、お会いしたことがあります。ご活躍お祈りします。
今後ともよろしくお願いします。

桐野作人

お返事が遅くなりました・
浅田遥
村田本家に聞いたところ、さとさんは、同志社には勤務していなかったそうです。ただ、かなり、新島ご夫妻には、よくしていただいていたと聞きました。
また、映画”半次郎”の村田屋のシーンでは、村田家に伝わる煙管をお貸ししたので、本物の幕末に使われていた煙管がセットに使われております。

同志社
桐野
浅田遥さん、こんばんは。

またおいでいただき、有難うございます。
そうですか。さとちゃんは同志社には勤務していなかったのですね。

映画にも出演される由、楽しみにしています。

浅田遥さんこんにちは
村田
はじめまして。山形に住んでいる村田と申します。1718年に村田文六が浅草黒舟町(現在の台東区寿町と蔵前にまたがる旧地名)に創業した村田煙管の末裔ではないかということで調べております。京都の村田煙管について代々語り継がれているご様子ですが、江戸とのつながりが分かればお聞きしたいと思います。黒舟町の村田煙管の場所は高村光雲も「幕末懐古談」に出てきますが、小林信彦著「和菓子屋の息子」には旧日本橋区米沢町(現在の中央区東日本橋一丁目)の村田煙管も出てきます。JR神田駅前にある石福金属興業は1960年代まで煙管を作っていたそうで、ここが最後まで残った村田煙管屋かも知れません。
横から割り込んですみません。場違いかもしれませんがよろしくお願いします。

コメント御礼
桐野
村田さん、はじめまして。

コメント有難うございます。
江戸と京都の村田煙管店がつながりがあるかもしれないとお調べとのこと。
何か成果があればよいですね。

ここにコメントいただいた浅田遥さんはタレントさんのようなので、お返事をいただけるかどうかわからないことをあらかじめお伝えしておきます。
ご了承下さいませ。

No title
村田
桐野さん、申し訳ありません。横レス山形の村田です。
時間の流れがゆったりしたブログのようですので、返事をいただけたら幸運と思って、桃栗3年書き込み8年位の気持ちで待っています。

浅田遥さんのブログ
桐野
村田さん

浅田さんはブログをお持ちのようです。
メッセージも送れるようです。お尋ねになってみてはいかがでしょうか?

http://ameblo.jp/halnei/

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だいぶ遅くなりました。
先月26日、名古屋の栄・中日文化センター講座「本能寺の変を読み解く」第5回。

今回のテーマは「斎藤利三の立場と役割」。

冒頭、斎藤利三を名前だけでもご存じか、受講生のみなさんに挙手していただいたが、ほとんどの方がご存じだった。意外と知名度が高いことに驚かされる。

今回はおそらく、史料の数がこれまでの講座で一番多かったと思う。
いつも史料番号はアルファベットで表示しているが、なんと、AからZまであったのだ。つまり、26点です。
じつをいうと、あと2点ほど掲載できなかった史料があった(単にどこにしまい込んだか不明なだけですが)。これを載せていたら、αとかβにしなければならなかったかも。

そのうちの目玉は、斎藤利三の自筆文書と思われる写真版。
それも、本能寺の変から6日後のもの。
京都五山に宛てたもので、明9日、光秀屋敷に出頭するようにという簡単な下知状である。

利三文書はわずか数点(私が知っているのは3点だけ)しか残っていないと思われる。そのうちの貴重な1点だし、ましてや写真版などめったに見られないから、受講生のみなさんにも新鮮だったと思う。

この利三書状で面白いのは、光秀屋敷が洛中にあったと書かれていること。『言継卿記』にも、山科言継が光秀屋敷を訪ねたり、信長が宿泊したりしたという記事がある。
そして、年次が天正10年(1582)で、本能寺の変から6日後であることは、『兼見卿記』6月9日条との関連から明らか。光秀は朝廷のほか、五山に銀賦りをすると兼見に伝えている。利三がこの銀賦りを奉行したときの下知状であるのは間違いない。

もう1点は『稲葉家譜』のなかの天正10年4月条あたり、美濃稲葉家から出奔した利三と那波直治について、稲葉一鉄が信長に訴訟に及び、利三自害、直治帰参という裁定が下ったところである。もっとも、利三自害については、猪子兵介の諫止により、信長も思い止まったと書かれている。

この『稲葉家譜』。江戸期の編纂史料だけど、他の俗書と同列に扱ってはいけない。かなり正確で信頼がおける史料だと思う。
何より、稲葉家中に伝来している文書を本文に転載して、記述の裏付けをするその編纂姿勢に信がおける。

当該部分についても、一鉄が信長に訴えた一件を、4月21日のことで、甲州陣から安土へ帰る信長を一鉄が「濃州六渡」(呂久の渡り)で御座船を浮かべて接待したときだと記されている。
この記事は『信長公記』巻15の次の記事から裏が取れる。

「四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣の処に、ろくの渡りにて御座船飾り、稲葉伊与一献進上なり」

もっとも、『信長公記』を見てから書いたのだという見方もあるかもしれないが、全体を通して、潤色はあまりないように感じられる。

結局、すべての史料を読み切れるはずもなく、時間を30分も延長して、駆け足で走り抜けた。
受講生のみなさんは、きっと他用もあったと思うが、一人も退席されずに聴いていただき、有難うございました。

いよいよ次回が今シリーズの最終回です。
決行された本能寺の変の実態に迫ります。

なお、都合により、5月と6月はお休みさせていただき、7月から新たなシリーズ(半年6回)を始めたいと思っております。テーマは未定です。もしご希望のテーマや人物などありましたら、ご意見をお寄せ下さい。コメントでもメール(左下のメールフォーム)でもかまいません。

 【告知】 「本能寺の変を読み解く」日帰りツアー
ところで、4月23日(木)は以前も告知しましたが、本講座の仕上げ・まとめとして、日帰りのツアーを企画しております。もちろん、講座を受講されなかった方も参加できます。名古屋・東海方面の方で興味のある方はどうぞ。遠隔地の方も歓迎です(深夜高速バスとか前泊になりますが)。

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【2009/03/07 00:11】 | 中日文化センター
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なにか
橋場
現地でお手伝いできる事がございましたら仰せつけ下さい。

有難うございます
桐野作人
橋場殿下、こんにちは。

それでは、お言葉に甘えて、スリッパをひと肌に温めておいていただけるか、愛宕山に登ってクジを三回引いてもらうか(まだ未踏でしたよね?)……。

お言葉有難いかぎりですが、どうも窮屈なスケジュールでして。わざわざ殿下にご足労いただくほどのこともございませぬ。ご好意感謝です。



橋場
では「凶」三本セットを魔除けに献上申し上げます(笑)。

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NHK大河ドラマ「天地人」第9回「謙信死す」

ドラマ進行時点は天正6年(1578)3月。

相変わらず、感想を書く意欲が湧きません。
何というか、時代考証や史実云々以前に問題があるドラマですね。

今回で謙信が亡くなったわけですが、当然、その跡目をめぐって御館の乱が起きることになります。
そのきっかけやプロセスをいかに描くかが脚本を含む制作者側の腕の見せどころだったわけですが、何というか、これまで「義」を強調しすぎたせいで、自ら墓穴を掘ってしまった感じですね。
本当はタイトルを「墓穴」にしたかったのですが、少し手心を加えました(苦笑)。

故・直江景綱夫人の妙椿尼が謙信の「遺言」なるものを披露し、それが偽りだったことを知らされた兼続。それまでの単細胞の彼なら、この事態に頭の整理ができず、混乱するばかりのはずですが、仙桃院の現実と偽りの狭間に真実があるというわかったような食言になぜか納得してしまいます。
果たして、この展開はこれまでさんざん強調した「義」への裏切りではないのでしょうか。視聴者も違和感を抱かないはずがないと思うのですが……。

結局、安直な「義」の安売りが裏目に出てしまい、ドラマの核となるべき、「義」による景勝政権の樹立に大きな傷がつきました。初動でのこの誤りを今後、どう取り繕っていくのでしょうか。
「義」が「虚義」になってしまっては、兼続には荷が重そうですし、この自己欺瞞は人格崩壊へと帰結しそうですけど、そうはならないのでしょうね、主役ですから。
兼続はともかく、脚本家も大きな負荷を背負ったはずですが、今後の展開をいくさに勝てば結果オーライよ、みたいな安易な筋立てにすると、一気に興醒めですね。せいぜい敗者景虎への追悼と同情でかわすのでしょうか。

何といいますか、今回の史実にもない、妙な設定は単なる勇み足というだけでなく、軌道修正が不可能なほどの致命的な失策だったのではないでしょうか。大げさにいえば、ドラマを展開させるうえでの主題もしくはモチーフの変質であり、その正統性の喪失だといえます。

ドラマの最後で、御館の乱の勃発を告げていました。
しかし、史実では最初に動いて本丸を占拠し、謙信遺蔵の金銀を押さえたのは景勝方です。
ところが、なぜか景虎方になった北条高広と柿崎晴家が先に攻めてきましたね。柿崎は謙信存命中にすでに亡くなっているといわれますし、北条は上州厩橋に詰めているのではないかと思います。もはや、そんな史実との相違も枝葉ですが。

ニセの遺言で家督を我がものにしたのなら、あくまでその計略を徹底すべきで、史実どおり先手を打たないと格好がつきません。今さら先に仕掛けたのは景虎方であって、景勝がいい子になってもしかたがないと思うのですが。

これではただのまぬけでしょう。戦国の生きるか死ぬかのリアリズムが欠落しています。このような胡乱な渦中に置かれた兼続君には同情するばかりですね。

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【2009/03/03 00:07】 | 天地人
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木暮兼人
私ごときの者が申し上げてよいものかどうかは
わかりませんが・・・

今年の大河、兼続の人物設定がかなりいい加減な気がします。
後のこの方の立場を考えてしまうと
本当にこれでいいのか、と思ってしまうような
エピソードの羅列による人物の成長振りです

桐野先生がおっしゃるとおり、ここ何話かの話の流れは
「勝てばオーライ」
「結果出したもの勝ち、言ったもの勝ち」
というお話の持って行き方だと感じていましたが
製作者側はそれと「義」との齟齬には気づいていないのではないでしょうか?

画面の兼続も仙桃院に説得された折には
「政治って(義って)そんなものなんだ」という表情で
阿部謙信に義を説かれたときよりも納得しているように感じてしまいました。

兼続の人物設定
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

仰せのとおり、兼続の人物設定は懸念されますね。
単純で感情的で泣き虫で……。

こんなんで、徳川家康を迎え撃てるのか、他人事ながら、いまから心配になってきます。

それなのに、「虚義」から始まる景勝政権。
兼続のこれまでのキャラクターとは相反します。その自己合理化のプロセスも描く必要があると思うのですが、きっとスルーでしょうね。

どうせなら、最初から「義」を強調しなければよかったのにと思います。せいぜい、家来と越後の民を食わせることが「義」だとでもいっておけば、関東侵攻でも謀略でも、何でも正当化できると思いますし、そのほうが戦国らしいと思うんですけどね。
脚本どおりなのかどうか知りませんが。


秘密保持
御座候
>故・直江景綱夫人の妙椿尼が謙信の「遺言」なるものを披露し、それが偽りだったことを知らされた兼続。

そもそも、この「秘密」を兼続に知らせる必然性が全く分からないのですが。秘密を知る者をできるだけ限定するというのは機密保持の鉄則であり、兼続にしても教えられたところで何もできず、景勝に対して隠し通さなければいけないという苦悩を背負い込んだだけです。兼続が偶然秘密を知ってしまい、仙桃院が口止めするというのなら、まだ話は分かりますが・・・

機密
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

謙信の死から景勝が実権を握るプロセスをどのように描くかは、この番組前半の重要な見どころだったと思いますが、史料云々以前に物語として不自然というか、拙劣さが目立ちましたね。
機密保持についてもたしかにその通りです。
仙桃院と妙椿尼があの世にもっていくべき秘密のはずです。
でも、そうすると、兼続も景勝も女性2人の掌で躍らされたということになり、主役・準主役の立場がないので、兼続だけに洩らしたということにしたのでしょうか。

かといって、そうすると今度は「義」との折り合いがつかなくなるという体たらくになってしまいましたね。




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