歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
お知らせです。

明日1日から3日まで、道之島のひとつ、徳之島に行って来ます。
南日本新聞連載「さつま人国誌」でも書く予定ですが、徳之島の秋徳湊では、島民と島津軍の激戦が展開されました。
それを記念したシンポジウムが2日に開催されます。

徳之島名物の有名な闘牛大会も見学できそうで、楽しみにしているところです。

ノートPCをもっていきますので、現地からもリポートできると思います。
お楽しみに。

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【2009/04/30 16:42】 | 雑記
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昨28日夜、小学館古文書塾「てらこや」の講座に出講。
小松帯刀と幕末薩摩藩」シリーズ第6クールの2回目。
今回のタイトルは表題のとおり。

前回、英国公使パークス一行の伏見―大津通行が思わぬ波紋を呼び、朝廷人事にまで影響を与えたことを確認する。主に越前藩の『続再夢紀事』を読む。

夷人が洛中に近づいたことが、攘夷派を刺激し、激派が2人の「平公家」の所に押しかける。
最初は「因備薩三藩」の脱藩浪士という情報だったが、のちに土佐脱藩士2人と備前士2人だと判明。
いずれにしろ、薩摩が話題になっている点がポイント。

平公家」2人は滋野井重在・公寿父子と鷲尾隆聚のこと。
この下級公家が二条摂政や近衛家に駆け込んで、幕府寄りの両役(武家伝奏・議奏)4人(広橋・六条・久世・野宮)の罷免を要求する。その理由は、夷人の洛中近くの通行を幕府から知らされながら黙認したというもの。
攘夷激派の圧力に動揺した二条摂政は要求通りに4人を罷免してしまう。

その一方、薩摩藩も四侯会議で「公論」を貫徹するには、幕府寄りの両役がいては不都合と、小松帯刀が「朝廷御匡正」=人事刷新を要求していた。小松の主張は攘夷激派の下級公家の要求と見事に平仄が合っていた。

これが偶然なのか、それともひそかに連携したものか?
会津藩の秋月悌次郎は薩摩、なかんずく「小松帯刀の計らひ」だと主張する。
彼によれば、小松はパークス一行に京師見物をけしかけながら、一方で大原重徳らに攘夷論を唱えて兵庫開港の不可を申し入れるという表裏策を使ったという。事実とすれば、小松はなかなかの策士だということになるが。

結局、越前藩は攘夷激派に薩摩藩関係者はいないことを確認したうえで、薩摩藩が黒幕ではないという結論を出した。

個人的な意見としては、滋野井公寿はのちに赤報隊に担がれた公家、鷲尾隆聚は土佐陸援隊に担がれて高野山挙兵をした公家。だから、赤報隊や陸援隊関係者との関わりもあるかもしれないと述べた。
陸援隊は薩摩藩討幕派と密接な関係があることから、この一件に薩摩藩がまったく無関係とは言いきれないという感触をもった。

あとで受講生の方からメールを頂戴した。
それによれば、田中光顕『維新風雲回顧録』に、この時期、陸援隊が岩倉の警護をしており、岩倉が彼ら浪士たちを使って中山忠能・正親町公菫・滋野井実在・鷲尾隆聚と緊密に連絡を取り合っていたことが書かれているそうである。
岩倉が連絡を取った公家の中に、この一件に関わった2人の公家が含まれている。岩倉具視や陸援隊の関与もあったかもしれない。

西郷に関しては、四侯会議に臨む直前の島津久光宛ての建言書2点を読んだ。
西郷が久光に対して、長州処分、五卿問題、兵庫開港という「三ヶ条の御難題」をどのように徳川慶喜に突きつけ、解決するか、その方策を細かくレクチャーしているのが興味深かった。

文久・元治年間までは久光が西郷や大久保に対して情報や見識において優越していたが、慶応3年になると、その関係が逆転している感じである。
大名の役割が終わりつつあることを感じさせた。

四侯会議までのプロセスを前クールから詳しく追っている。
それというのも、四侯会議は薩摩藩、とりわけ、小松・西郷・大久保の発起と周旋によるもので、薩摩藩としては乾坤一擲の大勝負と位置づけていたことを強調したかったことと、その敗北により、薩摩藩が討幕挙兵へと突き進む重大な契機となったことを確認したかったからである。
そのような趣旨を述べて、講座を終えた。

終了後、受講者のみなさんに感想を聞くと、興味深く聴いていただいたことがわかった。

次回はいよいよ四侯会議本番、慶喜VS久光の頂上決戦をやります。

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【2009/04/29 23:20】 | てらこや
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第105回
―島津家久、派兵を決断―

昨日、連載が更新になっていましたが、お知らせするのをうっかりしていました。

左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は表題のその4です。
グダグダ感がつづいております。
それは400年前の島津家中も同様だったと思います。
強硬派と自重派の綱引きで、容易に結論が出ませんでした。

その突破口は外部の権威にありました。
忠恒は上京して大御所家康に拝謁し、偏諱授与により「家久」と改名します。
これは幕府が家久を後援することを宣言したようなもので、これにより、島津家中で家久が主導権を握ったともいえましょう。
家久は琉球問題に限らず、後継者問題(=夫人亀寿問題)についても、幕府の権威をかりて解決しようとします。それは家中に隠然たる勢力をもつ舅義久(正確には龍伯)を克服するためでした。

琉球問題も結局、幕府の支援がなければ、決断できなかったといえましょう。

もっとも、記事にも書いたように、家久と幕府の間でも温度差がありました。幕府は琉球使節が来てくれさえすればOKでした。
問題はその手段です。説得か強制か……。
家康は日明国交回復を念願しているので、その朝貢国である琉球に武力派兵するのは、友好を唱えながら軍事力を発動するわけですから、気が進みませんでした。
その見切りは誰がどのような形でするのか。

それは家久の決断次第になったわけですが、幕府との温度差を家久はどのようにクリアしたのか、さらに解明する必要があるかもしれません。琉球に再度来聘を要請したが、拒絶されたというだけで、幕府が納得したのかどうか。琉球側の対応のしかたも考えないといけないですね。

かつて、十数年前、「琉球の風」という半年だけの大河ドラマがありました。
あのとき、琉球王朝の三司官の一人で実力者の謝名親方を演じた江守徹の頑固さを思い出します。彼がやはりキーパースンでしょうか。

次回はいよいよ出兵です。

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【2009/04/28 11:35】 | さつま人国誌
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隠知行
ばんない
こんにちは。

「紙屋氏によれば、この頃、島津氏の領国では11万8000石もの隠知行(おんちぎょう〔領地隠し〕)が発覚していた。(中略)つまり、家久は内政問題の解決を外征に求めたのである。」
隠し田の問題解決方法がなぜ外征につながるのかが、ちょっとこの文章でははっきりしないのですが・・・。たぶん私の空頭では理解できないだけだと思うのですが、もうちょっと詳しく説明してくださるとうれしく存じます。

それと、山本博文氏は義久は死ぬまで権力を保持していたという考えのようですが、私個人が「旧記雑録後編」を読んだ感想ですが、やはりこの慶長11年を境に発言力を失った印象が否めません。うろ覚えの記憶ですが、この前年あたりに義久は本気で東上しようとして病気で断念する”事件”があったと思うのですが、これもターニングポイントになったように思われます。

蛇足ながら、家康の偏諱「家」は最上家親ももらってますね。まさか山形の大名と琉球侵攻は関係がないと思いますが(苦笑)


隠知行
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

これはまた難しい質問を……。

私は紙屋説を紹介しただけなんですが、たしかに「隠知行」が何を意味するのか、その糺明方法があるのか、たしかに疑問ですね。

まず素朴な疑問としては、石田三成の文禄検地は12万石近い隠知行を見逃すほど、ずさんではないはずです。

あくまで私の個人的な思いつきですが、数字の近似性でいえば、文禄検地のとき、給人加増分として125.308石が未給分で留保されました。これは朝鮮出兵の恩賞分として留保されたともいわれます。

しかし、慶長4年(1599)にになると、そのうちの8万数千石がすでに給人すなわち家臣たちの本知高に繰り入れられています。
それは正式な給付だったのか、なしくずし的な取得(要するに既成事実化)だったのかよくわかりません。
忠恒=家久はこの留保分を朝鮮に出征した自分の直臣に給付しようとしましたが、配当奉行の伊集院幸侃に拒否されています。これが幸侃上意討ちの遠因の一つともいわれています。
朝鮮で苦労した家臣に給付されないで、藩内に残っていた連中が分け取りしたのなら、家久が怒る理由は十分あるように思います。

家久は琉球出兵の軍役賦課において、この留保分も家臣に賦課しようとしたのかどうか、またそれがうまくいったのかどうかわかりません。
出征した家臣は兵員・兵粮を負担していますが、出征しなかった家臣は銀供出という形で軍役負担しています。その銀供出の際、分け取られた留保分をいくらかなりとも回収したと考えられるのかどうか。

それ以上はわかりませんね。
実際のところ、隠知行糺明はあまりうまくいかず、琉球から割譲させた奄美諸島の蔵入地化により補填したとも考えられます。出兵後、ただちに内検しているのも蔵入地化の欲求を感じさせますが。

不勉強でよくわかりません。

家康の「家」授与の件、ご指摘のとおり、最上もありましたね。私としては、ほかにも事例がないわけではなかったというのは承知していたので、「珍しい」としました。唯一ではないという含意のつもりでした。


ばんない
こんにちは。丁寧な御回答ありがとうございます。謎の部分が多くて、かなり難しい問題のようですね。
鹿児島藩自体の収入不足を解消するために外征して奄美占領→蔵入地化、の流れとか考えは理解できます。でもそれで家臣の慢性的収入不足に対する不満が解消するかと言えば、蔵入地はあくまで藩主直轄地なので家臣の不満解消にはつながらないと思うのです。それとも現代の戦争でもありがちな話ですが、外征の高揚感で家臣達の不満をごまかそうとしたのかどうか。

偏諱「家」の件ですが、真意は了解しておりました。お気を悪くされたのであれば、大変申し訳ございませんでした。
さて、琉球問題を抱えていた島津忠恒に「家久」は分かるのですが、最上に「家親」が謎ですね。最上家が名族・斯波家の分家であることとか、家督問題の絡みでしょうかね。

慶長国絵図・郷帳
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

例の「隠知行」の件ですが、紙屋敦之氏『幕藩制国家の琉球支配』に少し説明があったのを失念しておりましたので、改めてご紹介します。

それによれば、慶長10年(1605)、幕府が島津氏に国絵図と郷帳の作成を命じ、翌11年に郷帳が完成し、幕府に提出されました。
その過程で、隠知行が発覚したようです。私は隠知行を、給人が表高とは別に内々の知行をもち、軍役ほか諸役の賦課を逃れていると解していたのですが、紙屋氏によれば、そうではないようです。

「郷帳作成の結果、大名・家臣団(給人)が農民から年貢・諸役の徴集ができない隠知行が11万8.000石あることが判明した」

この隠知行は慶長4年段階の島津氏の知行高60万9.000余石の19・5%にあたるとのこと。
これは百姓が隠れて保有している土地のようですね。その糺明は検地をしないと無理だという気がしますが、琉球出兵でできるのでしょうかね。ともあれ、義弘は忠恒にそのような趣旨の書状を書いています。

すみません。前回は少し趣旨違いでした。


琉球軍の軍装・戦術
岩剣石塁
 「琉球の風」、見覚えがあります。
確か主人公が硫黄島(?)という所で、島津軍を迎え撃つ兵員の調練を
していたような?
 その調練が空手のようなものでした。
 火縄銃、刀槍相手に無謀だと思いましたが、
実際の琉球軍の軍装・戦術はどのようなものだったのでしょうか?
 笠利に上陸した島津軍を迎え撃った軍勢は、琉球から派遣されてきていた
グスクの守備兵だったのでしょうか?
それとも有志の地元民だったのでしょうか?
先日現地で慰霊祭があったようですが。

琉球の風
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

「琉球の風」を少しは覚えておられるようですね。
島津義久は故・室田日出男でした。
尚寧王は沢田研二。
主役は少年隊の東山くん。
琉球の空手名人がショー・コスギでしたね。

このドラマなかなかだったと思います。
琉球側の立場から描いたものでしたが、単なる善悪二元論に立たず、義久は苦悩する人として描かれおり、琉球側に味方する薩摩人も登場しましたね。

それで、笠利の津代湊の戦いですが。
奄美側は大親(ふううや)が三千人の島民を率いて戦ったようですが、すぐ負けてしまい、大親は捕虜になったようです。
大親は琉球王朝から派遣された役人です。奄美本島は7つの間切(行政区画)に分けられ、それぞれの間切に大親が赴任したようです。
ですから、大将は王朝の役人、兵は地元の島民だったということでしょうか。


なるほど
岩剣石塁
 さっそくのご回答、ありがとうございます。
兵力3000とはいえど、平和に暮らしていた
島民主体の兵では、九州一円一→朝鮮と百戦錬磨だった
島津軍に負けてしまって当然だったかもしれませんね。
 次の月曜の朝刊をまた楽しみにしております。



ばんない
こんばんは。いろいろと調べて下さったようで恐れ入ります。
私も桐野さんと同じで家臣が賦課逃れのために田畑を隠したものと理解していたのですが、どうもそうじゃないようですね。紙屋氏説のように田を隠していたのが農民となると、その召し上げは検地するしかないはずですが、義弘はその解決をするには琉球に出兵するしかないと言っているのですか。うーむ、何かいろいろと不審な点が残りますね。

それと横レスになり大変恐縮なのですが、琉球侵攻時の琉球の武装についてですが、奄美の状況は存じませんが、本島では南蛮渡りの大砲を実装していたという史料があるようです。
以下のブログの受け売りですが…。
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/11/post_08c5.html
ご参考になれば。失礼いたします。

はぐれ知行?
桐野作人
桐野@徳之島です。

義弘が指弾する「隠知行」。さらに補足訂正です。

紙屋敦之氏が南海日日新聞の400年企画のインタビューで、この問題について説明されていました。
それによれば、島津領国の農村単位である「門」の衰退、鬱続く戦乱や出征のため、給人が軍役を百姓に転嫁するため、百姓は負担に耐えかねて逃亡し、「百姓これなき門屋敷」が増えてしまったそうです。

いわば、逃散、欠落ですが、太閤検地で石盛された田畑を耕す者がいなくなり、その土地からは石高が生まれない。
この状態が「隠知行」を生み出したということらしいですが、どうも紛らわしいですね。

豊臣政権や大名によって正式に把握されている知行地が生産力を失ったのなら、隠れ知行というより、「はぐれ知行」ではないかと思いますが。まあ、義弘が使った言葉なので、しかたないのですね。

となると、義弘のいう「隠知行」の糺明が琉球侵攻によってなされるというのは、おそらく琉球に出征しない在国衆に出銀を課したことを意味するのでしょう。出銀賦課は知行高に応じたものですから、当然、「隠知行」分も例外ではなく、その分も出銀させられたということでしょうね。いずれにしろ、理論的には給人全体にもれなく賦課の網をかけられたことになるのでしょうか。一時的な措置で恒久的ではないですが。
恒久措置は侵攻後の内検に託されたのでしょうね。

誤解を招くネーミング
ばんない
更にいろいろとお調べ下さいましてありがとうございました。

「生産者が居なくなった荒れた元田畑」…なら隠してるわけじゃないですね(苦笑)。しかしそこを「隠知行」と言い切ってしまうところに意味があったのかも知れません。「田畑が荒れるほど百姓も逃げたのもお前ら(=家臣団)個別の責任だ!」とでも言いたかったんでしょうか。家臣にとっては過剰な軍役を課したのは島津氏であって、たまった物じゃなかったのでは、と思いますが。

しかし、在国衆に「隠知行」分も含めて軍費用を負担させるなどで、大名・島津氏としては税収を確保する目処を立てたつもりなのでしょうが、「隠知行」そのものは生産者がいない状態=生産力がないのは変わらないわけで…なんか、変な詐欺にでも引っかかったような気分です(苦笑)。

土地問題は歴史の重要なキーワードなのですが、なかなか実態が見えにくくて、理解も難しいなと感じました。今回はいろいろと御回答下さりありがとうございました。

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一昨日23日(木)、表題のツアーの講師をつとめる。
中日文化センター主催、中日旅行会挙行の企画。
前夜から名古屋駅前に宿泊した。

早朝8:00に名古屋駅前を出発。
定員ほぼいっぱいの方が集合。
中には講座で見知った方も。

10:00過ぎ、洛中に入る。
当初の予定では、最初に丹波亀山城に行き、明智光秀になったつもりで山陰道から洛中に入るコースを考えてきた。
しかし、洛中から亀山城までの一般道の移動が、事前の下見でかなり時間がかかることが判明。昼食時間に影響することから、コースが若干変更になった。

まず旧本能寺跡に行く。
ここで用意した資料をみなさんに見ていただく。
A4で18頁もある立派なもの(爆)。
関連史料として、織田方の『信長公記』、明智方の『本城惣右衛門覚書』、第三者の『イエズス会日本年報』をその場で読んだが、少し時間超過。
添乗員から先を促される。
やはり史料を読むのは思いのほか時間を取られる。

その後、蛸薬師通りを東に数百メートル進み、南蛮寺跡の案内板を見学。
本能寺との距離を実際に体感してもらい、イエズス会関係史料の記事にある「わが聖堂」というのが同寺のことであり、本能寺のすぐ近くで見聞したことが臨場感をもって書かれていることを感じてもらう。

その後、室町通りを北上する。
これは本能寺と、信忠の宿所となった妙覚寺、そして戦場となった二条御所との距離感をつかんでもらうため。
室町通りが当時の洛中で、上京と下京を結ぶメインストリートであったことを説明。

御池通りまで出て、そのまま北上し、民家の前にある「二条殿御池」の標石を見学。道路の西側がかつて妙覚寺だったことを説明(現在は寺の内に移転)。
二条殿御池




そのまま、二条御所跡に移動。
かつては龍池小学校だったが、廃校になってマンガミュージアムになっている。
二条殿の標石の前で、また史料を読む。
二条殿の成り立ちを『老人雑話』で確認し、小池があったことを確認。
これが現在の御池通の名前の由来になったことを説明。
天正4年(1576)、信長が摂関家の二条殿を移転させ、ここに「二条御新造」を造営し、同7年、誠仁親王に譲った経緯も説明。
そして、二条御所合戦で、信忠がどのように奮戦したかを『惟任謀反記』で読む。

午前の部はここまでで、大徳寺に移動して昼食。
大徳寺に総見院があるのだが、今回はカット。

午後からは、新本能寺に行く。
信長や一門・家来たちの供養塔を見学したのち、同寺会館で折よく「本能寺と信長展」を開催していたので、これを見学する。
資料にも載せた本能寺宛ての禁制や条々の実物が展示してあったのもタイムリー。
信長の「天下布武」朱印状が新旧揃っていたので、その違いを説明。

その後、バスに乗り、いよいよ丹波亀山城をめざす。
途中、七条通を通ってもらい、丹波口にある「これより洛中」の標石を車中から見学。山陰道を進んだ明智軍がここから洛中に乱入したことを語る。
ルートが逆になるが、その後も、桂川、沓掛、老ノ坂など、史料に出てくる地名を確認し、それを資料で読みながら進む。

亀山城に着いたのは16:00近くで、予定より大幅に遅れた。
亀山城跡は現在、宗教法人「大本」の所有地になっている。
事前に拝観をお願いしてあったので、全員でお祓いを受けてから本丸区域に入る。
ここの天守台石垣は立派である。
もっとも、昭和初期に積み直された可能性があり、当時のままではないだろう。
参加者は全員、亀山城見学は初めてだったそうで、みなさん興味深げに見学していた。
ここを選んでよかったと思った次第。
亀山城




その後、光秀の最期の地になったとされる小栗栖に移動。
これまた一般道が混んでいて、予定より1時間以上遅れることになった。
しかも、景観がかなり変わっていて、「明智籔」の標石の場所をすぐ特定できず、ウロウロする。
近所で遊んでいた子どもたちに連れて行ってもらった。申し訳ない。
明智籔




小栗栖は現在、「おぐりす」と現地では読んでいるようだが、『明智軍記』には「おぐるす」とルビが振ってあることを説明する。
また、光秀最期の地が本当にここであったか不明であることも付け加える。当時の一次史料には「醍醐ノ辺」とか「山科」とか書かれており、具体的な場所まで特定できていなかった。「小栗栖」が登場するのは元禄年間の『明智軍記』からであることも説明した。

以上で、所定の日程を終了する。
日帰りツアーにしては高い代金だっただけに、みなさんに満足していただいたことを祈るばかりである。

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【2009/04/25 20:50】 | 中日文化センター
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とても行きたかったです。
NAO4@吟遊詩人
当日、参加させていただこうと前々から思っていたのですが、どうしても都合がつかず、あきらめました。
史料を読みながら、「明智光秀の実際の行路を辿る」なんて、贅沢な企画です。また是非類似の企画ございましたら、ご紹介ください。

>「小栗栖」が登場するのは元禄年間の『明智軍記』からである
そうなんですか。なるほど、お教えいただき、ありがとうございます。

小栗栖
ハンク
おはようございます。初めてコメントを書きます。「小栗栖」のことは、いわゆる「太田牛一旧記」には「おごろす」となっていたような気がするのですが。

亀山城
びわこ
桐野さん、こんにちは。

亀山城が光秀のお城だったと知らなかった時代(子どもの頃・・・)、あの天主台ではよく遊びました。
いつのころからか、聖地となって、あの石垣脇の石段からは立ち入り禁止になったのですけど。

あの天主台に上る一段下の削平地に大きな銀杏の木があったと思うのですが。。。
非常に懐かしいです。

またよろしく
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

次回機会があれば、また告知しますので、よろしかったら、ご参加下さい。

小栗栖について異論もあるようです。次のコメントをご参照下さい。

太田牛一旧記
桐野作人
ハンクさん、初めまして。

「太田牛一旧記」の中味をご存じとは、どうやら私の近辺におられる方のようですね(笑)。

同書に載っているとは気づかず、迂闊でした。改めて見てみますと、

「伏見より廿町北山そひにおごろすとて小里」云々

とあるのを確認しました。
「おごろす」が小栗栖なら、太田牛一の段階(慶長年間後期)には小栗栖説が存在したことになりますね。
牛一『信長記』には光秀の最期まで描かれておりませんが、その後の調査で判明したのでしょうね。

もっとも、方角的には少しおかしいような。
小栗栖は伏見の東であり、北ではありませんね。
単なる方角の間違いなのか、もしかして「おごろす」は小栗栖ではないのか?
謎は尽きません。

亀山城
桐野作人
びわこさん、こんにちは。

もしかして亀山城あたりでお生まれになったか、子どもの頃過ごされたのでしょうか。

その後は、光秀ではなく三成のほうに関心が向いたのですね。
意外な事実で驚きました(笑)。

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拙著の重版が予想外に早く決定しました。

鹿児島のみなさん、連載の読者のみなさん、県外のブログ愛読者のみなさん、いろいろ協力していただいたみなさんのおかげです。
有難うございます。

拙著については、以下をご覧下さい。
南日本新聞開発センター出版案内
南日本新聞紹介記事
当ブログ記事

ネットからも購入できます。詳しくは南日本新聞開発センターの出版案内をご覧下さい。
また、コンビニのセブンイレブン系のセブンアンドワイなら、送料なしで最寄りの指定コンビニで受け取れます。ここです。
ほかにも、ジュンク堂書店などでは店頭で取り扱っていますし、いろいろなネット書店でも販売しているようですから、ご利用下さい。

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【2009/04/21 18:24】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第104回
―奄美侵略計画の頓挫―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすればご覧になれます。

掲載曜日が変わったので、どうもまだ更新のペースがつかめません。
それはさておき、表題の連載3回目です。
なかなか島津軍が琉球を攻めないで、グダグダ感がつづいております。
もっと先を急げと言われそうですが、何といいますか、このグダグダのプロセスにも意味があるんじゃないかと思っています。

島津氏が琉球侵攻を決断するまで、豊臣、徳川の歴代中央政権との対立があると同時に、ある種の依存関係にもありました。
とくに、島津氏が琉球を「与力」とするのに成功するのは、豊臣政権が朝鮮侵略のために諸大名に課した全国的な軍役体制に包摂できたからです。島津氏は転んでもただでは起きなかったわけですね。
つまり、島津氏は単独では琉球を「与力」にするのは困難があったのですが、豊臣政権の力を借りてそれを実現できたわけで、中央政権との関係は対立しながらも、依存し利用するという二面性をもっていたことになると思います。

また、先んじていえば、島津氏の琉球の位置づけが豊臣政権時代の「与力」から、徳川幕府時代に「附庸」になるのも、さらに支配の度合が進み、幕藩制の知行制のなかに琉球を組み込むのに成功することを意味しているのではないかと思います。
島津氏の知行高が豊臣政権時代は56万~62万石程度だったのが、徳川幕府時代(秀忠期)に72万石になるのは、琉球分が加味されたからにほかなりません。

まあ、そうしたプロセスがあり、それを促進する梃子となったのが慶長14年(1609)の琉球侵攻だろうと思います。

次回は、いよいよ島津忠恒の家久への改名から、琉球侵攻が準備されるあたりを書きたいと思っています。

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【2009/04/20 23:22】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。
連載終了までじっくり待って、まとめて感想を書こうかなと思ったのですが、ちょっと気になることがありまして。

今日のこちらの補足を見て思ったのですが、桐野さんは島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、その辺まで目処とか仮説を立てられてられるのかな、と感じたのですが。
もし今後のネタにする気がないのであれば(爆)お差し支えのない範囲でご教示賜りたく。

後、愚問になりますが、豊臣時代の検地後の「56~62万石」も琉球侵攻後の「72万石」も実体を反映してない(実収はその半分程度?)というのが通説ですが、それに関してはいかがお考えでしょうか。

めど?
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

めどかどうかわかりませんが、島津氏が琉球侵攻できると思うようになった理由は比較的単純ではないかと思っています。

つまり、数百キロ南に離れた外洋にある琉球を軍船で渡海できるかどうか、その経験の有無だろうと思っています。要は朝鮮出兵の経験をしたことが自信となり、外洋遠征を可能にしたのはないでしょうか。
ですから、時期的に言えば、秀吉死後というか、朝鮮陣からの帰国後でしょうね。
また琉球侵攻を主導したのが、義弘・家久父子、樺山久高など、いずれも朝鮮渡海経験者であることもそれに照応しているのではないかと思っています。

島津氏の表高についてですが、籾高であり、実際の生産高を必ずしも反映していないのはたしかでしょう。それは島津氏に限ったことではなく、奥州伊達氏もそうで、貫高を機械的に石高に変換しただけですしね。

豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
籾高だろうと何だろうと、島津氏の豊臣政権時代と徳川時代との表高の違いは琉球分の有無(奄美諸島も含む)であることに変わりはありませんね。

故郷の歴史
市川
こんにちは。
さつま人国誌など、いつも桐野先生の島津氏に関わる話は読ませてもらってます。地元の人間としてとても勉強になります。
今回は鹿児島だけでなく、沖縄の人にとってもまさに重大事だった琉球出兵ですね。
関ヶ原から数年しか経っていないのにまたどこかと戦争をしようとする島津氏の底力といいますか、老いても盛んな義久兄弟のエネルギーはすごいと思います。

琉球を利用して明と接触しようとする幕府と、その仕事を請け負った島津。そしてこれまでの地位を保とうとした琉球……といった感じで現在のところよろしいでしょうか?
記事を見て思ったのですが、義久は表面では幕府と距離を置いたり、弟や娘婿と対立しているように見えますが、裏ではそれらを利用して琉球に働きかけていたという可能性もあるのではないでしょうか。
「あまり自分に逆らうと、弟とかが暴発するかもよ」
のような。
私自身、義久は優れた武将だと思っていますから、彼は彼なりに周囲を利用し、時期を読んでいたのではないでしょうか(娘婿さんだけには負けた気がしますが)。

質問なのか感想なのかわからなくなった感じですみません。
これからも楽しみに読ませていただきます。頑張ってください。

島津義久
桐野作人
市川さん、こんばんは。

なかなか鋭い見方をされますね。
義久については、ご指摘のような面もあったと思います。
何となく、容疑者を落とす刑事たちの分業(こわもてと温情の使い分け)といいますか、硬軟を使い分けて、こちらの要求を呑ませてしまおうというのかもしれませんね。
ただ、義久だけなら、琉球派兵まで決断できたかどうかはわかりませんね。

ご意見有難うございました。
これからもよろしくお願いします。


ばんない
こんばんは。私の愚問に対して昨晩即答されてくださっていたようで、大変申し訳ございませんでした。

島津氏が琉球侵攻をするきっかけとなったのは朝鮮出兵ではないか、朝鮮出兵によって外洋まで軍を派遣できる自信がついたからじゃないか、というのが桐野さんの考えということであっていますでしょうか。
実は、以前から不思議に思っていたことがあるんですが、島津氏は外洋に面した領土を持っている割には「水軍」が存在している様子を感じられないのです。島津尚久が「海賊の大将だった」という説もあるようですし、「海賊に相応の武装させればその当時の水軍になりますよ」というお話も以前どこかで聞いたように思うのですが、やはり組織だった「水軍」というのとは違うように感じます。そういう問題点?の様な物が朝鮮出兵などで解決?していき、琉球侵攻への一因となっていったのでしょうか。

また、最初に
>島津氏がいつから琉球を支配(沖縄の人から見たら「侵略」ですかね)しようという野心を持ったか、
という問いかけを書いたのは、桐野さんが
>薩琉関係において、強気に出始めるのは、やはり日新斎系島津氏以後になってからで、
http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-615.html
と書かれていた物の、「さつま人国志」を読む限りでは島津忠良(日新斎)、貴久の代ではそういう「強気」というのを感じさせる史料がないように感じたので、ちょっともやもやした物を感じておりました。「さつま人国志」を拝見した限りでは島津義久の頃に「琉球侵攻」という野心がでてきたのか、という風にもとれます。
また、今回のコラムによりますと、当初は「琉球への出兵」ではなく「奄美への出兵」と史料では書かれているようですが、途中で目的が過大化したというか変質していったのでしょうか?あ、これこそ次回以降のネタかもしれませんね(汗)

後、島津義久と義弘が琉球侵攻について「演劇」していたという説はおもしろいと思いますが、義久にそれだけの演技力があれば、秀吉が九州に攻めてきたとき、島津氏はあそこまで悲惨な負け方になってなかったんじゃないかという気が・・・(苦笑)。

・・・今、見直すと文章力がないのでなんかうまく考えが書けてない(爆)。やはりこの問題はいろいろな点で難しいですね。乱文ご容赦ください。


話は変わって、石高について
>豊臣政権は統一的な軍役を賦課するために、全国の大名領国を石高制で把握したかっただけで、実態を反映しているかどうかは二の次だったのでしょう。
やっぱりそうだったんですね(苦笑)。ご教示ありがとうございます。ただ江戸時代になっても相変わらず実高が名目石高に遙かに及ばない島津氏に対して、伊達氏は実収100万石を越えてたともいわれてますね・・・。土地条件が主な原因でしょうが、悲しい。



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NHK大河ドラマ「天地人」第16回「武田家の娘」

たまたま観ました。
御館の乱がほぼ終息した時点で、景勝が兼続を家老にすると言い出し、他の家老である吉江宗信、直江信綱もそれを支持する場面がありました。

この時点で、兼続が家老職に就任したかどうかは微妙ですね。
信綱が急死して、兼続が直江家を継いだのちならおかしくないですが。

兼続の文書が初めて登場するのは、天正8月(1580)8月15日、佐藤庄左衛門、皆川式部丞にそれぞれ宛てた景勝の朱印状の奉者として署名したものです。奉書として別に書かれたものではなく、兼続が書いたものに、景勝が承認した印として朱印を捺したものです。この時期の上杉氏の文書としては珍しい様式です。

いわば、取次や奏者としての役割ですが、この時期、景勝の判物・書状・朱印状に奉書形式で署名しているのは、現存している史料の中では兼続だけです。その点を重視すれば、兼続の景勝側近としての格別の地位が推定されますが、かといって、家老職かといえるかどうか。
もっといえば、この時期、上杉家の大名権力の構成要素として、明確な家老制があったのかどうか、よくわかりません。評定衆的な面と取次・奏者的な面が混同されているようにも思えます。

他国の大名かその取次から上杉家に宛てられた書状の宛所は家格的に一門や家老クラスになることが多いです。
翌9年3月10日、武田勝頼の書状は河田長親に宛てられています。同年4月20日、信長の側近菅屋長頼の書状は須田満親・上条宜順・山崎秀仙宛てです。

もっとも、上杉一門の上条宜順が同9年に兼続に宛てた書状3点の書止文言はいずれも「恐惶謹言」で、敬意を表しています。
これは直江信綱急死以前の書状ですから、兼続が上杉一門の上条氏からも敬意を表されるのは、やはり特殊な地位というべきかもしれません。それが家老職だとは限りませんが。
ひとつ考えられるとすれば、景勝は兼続を家老にしたかったかもしれませんが、兼続の若さだけでなく、樋口家の上杉家中における地位があまり高くないことから不可能だった。その代わり、景勝の近習衆として取り立てられる奏者としての最高、格別の地位にしたというのが、上杉家では珍しい奉書の奉者として表れたといえるかもしれません。

なぜ、兼続が景勝に急速に重用されるようになるのでしょうね?
ドラマであったように、御館の乱や武田氏との外交関係にどの程度貢献したかは現存する史料では確認できません。
やはり景勝と兼続の個人的な「親密さ」が大きく作用したのではないかという気がするのですが。
養父謙信が河田長親を重用したケースと似ているのではないでしょうか。

余談ですが、山本圭演じる吉江宗信。彼は謙信の最晩年(天正5年頃)、出家入道しています。しかし、ドラマではまだ俗体でしたね。

兼続とお船の仲を疑っていた直江信綱が急に物分かりがよくなり、最後、兼続の側から立ち去るシーンが幽霊風でどうもおかしいと思ったら、案の定、毛利秀広に斬殺されてしまいました。お船の再縁の伏線でしたね。

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【2009/04/20 00:18】 | 天地人
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4月14日(火)夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

今回から新規のシリーズが始まる(隔週で全5回)。
初回のこの日は表題のタイトルで行った。
新たに受講された方もお見えだった。

四侯会議は薩摩藩の主導の下に組織されたものである。
小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通らが松平春嶽、山内容堂、伊達宗城をそれぞれ説得して上京させるまでを確認する。
四侯会議の重要な課題は兵庫開港と長州寛典であることは論をまたないが、もうひとつ朝廷人事(とくに議奏)が裏の課題としてあったことも付け加える。
孝明天皇他界に伴う特赦により、前年の列参運動や禁門の変での親長州派、和宮降嫁のときの四奸などが謹慎を解かれて、朝廷内部における力関係に変化が生じていた。それを一言でいえば、親一会桑派の後退と王政復古派の進出である。薩摩藩が朝廷人事に介入しようとしたのは、そうした力関係の変化に乗じてのものだった。

なお、ひとつ説明し忘れた用語があるので、補足しておきたい。

仮建(あるいは仮建所)

である。
レジュメに収録した『続再夢紀事』慶応元年(1865)10月5日条は、徳川慶喜が安政条約の勅許を得たことが書かれていたが、そのなかに朝廷が勅許すべきか否かを諸藩に諮問しようとした一節で、「俄に薩・因・備・土・芸・筑・越・肥後・久留米・会津・柳川・津・桑名等の藩々にて国事関係の士を宮中仮建所に召し出され」云々という記事がある。
この「仮建所」のことである。
おそらくほとんどの人が何のことかわからないと思うが、禁裏御所の清涼殿に隣接する公卿之間の一番手前の板敷の狭い空間である。
公卿之間は参内する公家控えの間で、幕末には諸侯も詰めた。
3つに区切られた畳の間と板敷によって構成されている。清涼殿に近い一番奥が「公卿の間」(虎の間)でもっとも格式が高い(三位以上の公卿が控える)。次が「殿上人の間」(鶴の間)、その次が「諸大夫の間」(桜の間)で、この3つの空間が畳の間。
一番手前が板敷の間で、ここが仮建所である。いわゆる諸藩士身分の者が禁裏御所内で唯一出入りできる場所。他の3間とくらべて畳がないことから一番格式が低いスペースだということはご理解いただけるだろう。彼らはここに呼び出されて、朝廷の両役(武家伝奏や議奏)などから意見を徴される仕組みになっていた。
昨年、京都御所内部を見学したとき、撮影した写真があるので載せておきます。
仮建




右奧が公卿の間で、左端の白い案内板の裏側の板間が「仮建」である。
慶応3年暮れ、王政復古政府が樹立されたものの、諸藩士身分が出入りできるのは仮建までだから、当初、政府は否が応でも公家たちが主導権を握っていた。
禁裏御所における伝統と空間秩序を打破しようとしたのが大久保利通で、大坂遷都論はその弊習打破が目的だったとされる。
故・高橋秀直氏の論考「禁裏御所の政治空間と大坂遷都問題」(『幕末維新の政治と天皇』吉川弘文館)に仮建の説明があります。ご参考までに。

今回もレジュメが多かったが、あまり時間を超過せずに終えることができた。
次回は四侯会議を本格的に見ていく予定です。

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【2009/04/18 00:02】 | てらこや
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こんにちは
黒田裕樹
「四侯会議」についてはあまり存じ上げませんので、今回のブログ上のご講義でしっかり勉強させていただきたいと思います。
宜しくお願い致します。

クリックさせていただきます!

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仕事柄、史跡の撮影をすることが多いです。
とくに墓石、墓所を撮影することが多いのですが、ときには少し変わった写真や失敗した写真も撮れたりします。

たとえば、鎌倉に行ったとき、撮影したもの。
護良親王廟と畠山重忠屋敷跡では、
護良親王
畠山重忠





護良親王廟は少し逆光気味かもしれないし、畠山重忠も少しもやがかかっていただけですよね? 昼間の晴天でしたけど。
もっとも、その前後の写真はちゃんとクリアに撮れています。

伏見の大黒寺に寺田屋事件の殉難者の墓を拝観したときには、
大黒寺1
大黒寺2





ひとつは殉難者の顕彰碑、もうひとつは九烈士の墓です。
何かぼんやりとした丸いものが見えます。
縦・横の違いがありますが、顕彰碑の写真を横にすれば、九烈士の墓とほぼ同じ位置にあるようですから、きっとレンズの曇りか何かですよね?
もっとも、その前後の写真はクリアに撮れています。

鹿児島の西郷家墓所を訪れたとき。
これは南日本新聞連載「さつま人国誌」でも記事にした西郷隆盛の孫で神宮で活躍した西郷準の眠る場所を訪れたときです。父菊次郎の墓に合葬されていました。
撮影した墓石は菊次郎の名前が彫ってあり、何と吉田茂の揮毫です。
菊次郎の墓を撮影した2点はどれもこんな風に撮れました。
西郷準






お墓を水で洗って掃除したので、そのとき、きっと水滴がレンズに付いたんですよね?
もっとも、その前後の写真はクリアに撮れています。
同じ墓所にある隆盛の父吉兵衛や次弟吉二郎の墓なども撮影しましたが、そんな水滴は写っていません。


護良親王畠山重忠有馬新七など西郷準……。
みんな時代も場所も違いすぎます。
共通点があるとすれば、非業の死を遂げたか、戦争で亡くなったことくらいしかありませんよね。

もともとカメラの腕が未熟ですから、いろんな失敗もあるということでしょうか。

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【2009/04/15 11:08】 | 雑記
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確か
木暮兼人
以前、設楽が原の山県昌景のお墓も撮影に失敗されたと
おっしゃっていませんでしたか?

桐野先生、亡くなられた方の無念の想いに
同調されてしまわれるのでしょうか?

私自身は心霊写真は1枚しか撮ったことがありませんが
怖気のたつものでしたので、2度とゴメンです・・・(-_-;;


ばんない
こんばんは。

この手の写真を出すにはまだ季節が早いと思われますが…。
ちょっと肩こりと頭痛がひどいです。この写真が原因かどうかわかりませんが。

偶然か狙われたのかわかりませんが、今日の時代劇専門チャンネルでの『太平記』は護良親王鎌倉流罪のシーンがありましたね。

こんばんは
黒田裕樹
ご返信下さって有難うございました。

単なる偶然だとも思いますが、先生が撮影された写真は、いずれも非業の死を遂げた方々ですから、何らかの無念の思いが込められているのでしょうか…。
日本史を勉強していると、長屋王や菅原道真のような、非科学的な怨念を意識せずにはいられなくなるときがあります。

本日もクリックさせていただきます。

心霊?
桐野作人
木暮兼人さん、お久しぶりです。

あの~、心霊写真のつもりではなく、きっと科学的に説明がつくだろうなと思って(笑)。

そうそう、長篠の山県昌景の墓、以前撮影したときに全体にもやがかかったような写真でした。
すっかり忘れていたので、追加で載せようと思って探してみたのですが、なぜか忽然と消えておりました(泣)。

太平記
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

時代劇チャンネルの「太平記」、ときどき見ています。
前回見たのは、護良親王がこもっていた信貴山から下りて征夷大将軍職を後醍醐帝に要求するところでした。また新田義貞が鎌倉から上洛してきて、匂当内侍(懐かしい宮崎ますみ)が陰からのぞいているところもありました(笑)。

もう護良親王が鎌倉に幽閉されるところまで進んだのですね。いえ、まったくドラマ進行とは関係なく、偶然に載せただけです。たしかに護良は凄まじい最期でしたしね。

怨霊
桐野作人
黒田裕樹さん、こんばんは。

非科学的な現象というか、科学では説明できない現象もあるんじゃないかという気もしますね。

もっとも、以前、京都の上下の御霊神社を取材して撮影しましたが、まったく問題なくきれいに写っておりました(爆)。



調所
今晩は。私も先祖の墓や仏事、刀絡みの時に限って普段は全く写らない丸くて白い発光体が、よく写真に写ったりするんです。なんなんでしょうかね~?

白い発光体
桐野作人
調所さん、おはようございます。

最近は「飛翔体」というのも飛んでいましたが、「発光体」というのは文字どおり光っているのが写るんでしょうか?

摩訶不可思議な現象はあるものですね。

失礼いたしました(笑)
木暮兼人
ミもフタもない説でよければ・・・

空気中のホコリが光を反射して
写真内に写りこむんだそうです
知り合いが撮影した写真はなんでもないところで発光体が写りこんでいて、
その方はそういう説明をしていました

それともノーベル化学賞でネタになったオワンクラゲがその辺りにいたのかも?

山県さんは桐野先生になにか訴えたかったのかもですよね
確か2回失敗されたとかおっしゃってましたよね

ふむふむ
桐野作人
木暮兼人さん、こんにちは。

そのみもふたもない話、なかなか合理的ですね。
きっとその可能性もあると思います。

山県昌景の墓は彼が亡くなった場所でもなさそうですし、首級や亡骸が埋められた場所でもなさそうですから、さて、彼から呼ばれたかどうかわかりませんけどね。

ただ、山県昌景は名前といい、生き様といい、戦国武将のなかではかなり好きなほうです。


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日次記です。

4月8日(水)天晴
先日、選評した歴史群像大賞の講評原稿を書く。
他人の作品を評価するのはやはり難しい。
他人より自分はどうなんだという、もう一人の自分の声も聞こえてくる(爆)。

9日(木)天晴
夕方から内輪の研究会に出席。
近刊の『信長公記を読む』(吉川弘文館)の合評会。
拙稿の件はさておいて、『信長記』か『信長公記』かという基本的なところから議論になった。
個人的な定見は持ちあわせていなかったが、とても面白かった。

10日(金)天晴
数日前から刊行したばかりの拙著を恵贈したが、ぼちぼちと反響や礼状が返ってくる。
まあ、こういう場合、批判めいたことを書いてくる人はまずいないが、ひとつだけ注文があった。
索引を付けてほしかったと。
おそらく人名索引だろうが、今度の拙著は索引が必要なほど多くの人物に触れているわけではないし、コラムの延長上というか評論なので、とくに必要ないのではないかと思ったが、それでも、自分が目当ての人物が書かれているかどうかが購入の動機になったりするかもしれないので、なるほどなとも思った。

それより、個人的な反省点は末尾に参考史料のリストを挙げなかったこと。
たとえば、本文に論文名を注記しても、その掲載誌までは書いていないケースが多い。本来なら、掲載誌や発行年まで載せたほうが親切だと思う。
心の余裕がなかったので、そこまでやれなかった。
続編では、それらのことを少し考えてみたい。

11日(土)天晴
近くのスーパーの店頭に、奄美の島ラッキョが出ていた。
とても珍しいうえに、先月奄美に行ったばかり。また居酒屋で食べた島ラッキョはおいしかった。
だから、ほとんど衝動的に買ってしまった。

料理法は簡単。
適当な長さに切り、根のひげを切り、皮を剥いて、あとは粗塩を振って、1時間ほど寝かせるだけ。
写真は食べ残し。
今回は粗塩の量が少し多かったのが反省点。
素材だけでもピリッと辛いから、塩はほとんど要らない感じ。
ビールのつまみに最高。
最近、ほとんどビールを飲まないのだけど、つい1本飲んでしまった。
島ラッキョ





12日(日)天晴
夜、久しぶりに大河ドラマ「天地人」を見る。
景虎の一子道満丸が景虎方の主戦派に殺されるという設定になっていたが、おかしい。
何より、道満丸は前関東管領で謙信の養父にあたる上杉憲政と一緒に殺されたのに、憲政はまったく出てこなかった。
憲政は景勝にとっては養祖父にあたる。それを討ったとあっては、「義」が立たないというか、重大な不孝である。それでは都合が悪いから、存在しなかったことにしたのか。
御都合主義とうわべだけ取り繕うから、こんな無様な仕儀になるのである。

存在しなかったことにされたのはもう一人いる。
北条景広である。
神社に参詣した北条高広が景勝方の刺客たちに闇討ちにされるシーンがあったが、あれは息子の景広のほうである。
このブログでも、何度か書いたように、高広は上州厩橋を守っているはず。御館の乱後も生き延びて、武田勝頼の仲介で、再び景勝に仕えている。
どうせなら、最初から景広にしておけばよかったのに。
この父子とり違えは意図的なんだろうか? だとしたら、どんな意味があるというのか?

景虎の側近、遠山康光は一貫して策謀家に描かれていたが、最後は景虎を見棄てて小田原に帰るというとんでもない設定になっていた。
すでに橋場殿下のブログでも指摘してあったが、康光は景虎と一緒に鮫ヶ尾城で自刃している。康光は北条氏政に命じられた景虎の後見人だから、当然の身の処し方である。
なぜ、当時の主従関係の基本中の基本を無視するのかね。
なお、康光の子直次は景虎と父の自刃を見届けると、再び御館に取って返し、景虎の妻子を殺してから自刃したという。
これが事実であれば、華姫は景虎に同道せず、御館で最期を遂げたことになる。あと妻子とあるが、道満丸のほかにも景虎には子どもがいたのか?
この大河には開いた口がふさがりませぬ。

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【2009/04/13 23:52】 | 日次記
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調所
今晩は。一月しか経ってないのに、初めて訪れた奄美が懐かしいです。島尾敏雄の言うジャポネシアの魅力に満ち溢れている感じです。私も首都圏で奄美の食材が手に入る所を探してみます。

はじめまして
黒田裕樹
私のブログにご訪問下さいまして有難うございます。
まさか桐野先生にお越し頂けるとは思ってもいませんでした。
先生の作品で一番印象深いのはやはり「破・三国志」でしょうか。この作品で歴史if小説に目覚めましたので、私にとっては非常に思い出深い作品です。
先生と比較するのもおこがましいほどの拙いレベルのブログですが、もしお気に召しましたら、また機会がございましたら私のブログにご訪問いただければ幸甚です。
長文失礼しました。

ジャポネシア
桐野作人
調所さん、こんにちは。

その後、奄美の余韻がまだ残っていますね。
島尾敏雄の作品を読まれたようで。
私は特攻関係しか読んでいません。

先日、南日本新聞に、笠利の津代で慰霊祭があったという記事が載っていました。写真を見ると、私たちが登った丘の上のようです。
何でも、10年ほど前、あの周辺で多数の人骨が出土したそうですね。島津軍との戦争のものなのかどうかわかりませんが、その慰霊祭でもあったようです。
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=16328
奄美の食材は有楽町の遊楽館には売っていないのでしょうか?

破・三国志
桐野作人
黒田裕樹さん、はじめまして。

たまたま貴兄のブログをのぞかせてもらいました。
頑張って書いておられますね。

また拙著もいろいろ読んでいただいたようで、有難うございます。
「破・三国志」は私にとっても思い出深い作品ですね。
現在はすっかり三国志世界からも遠ざかってしまいましたが、先日、「レッドクリフ」1を見たときには、正史どころか演義からもはずれた、まさに「破・三国志」だと感じた次第です(笑)。

またたまにのぞかせてもらいます。
ご健筆お祈りします。

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織豊期の研究者である尾下成敏氏から表題の論文をご恵贈いただいた。感謝。
論文名、掲載誌などは以下の通りである。

「羽柴秀吉勢の淡路・阿波出兵―信長・秀吉の四国進出過程をめぐって―」 『ヒストリア』214号 大阪歴史学会 2009年3月

尾下氏は信長死後、信雄が織田家の家督を継いだことを明らかにするなど、織田から羽柴への政権移行期の実態解明に関心を持っている研究者である。

尾下論文はタイトル通り、秀吉の淡路・阿波への進出のプロセスを検討したもので、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)も批判されている。

それは、天正9年(1581)の秀吉の淡路出兵が阿波まで進出したものかどうか、関連の秀吉文書数点の年次を検討したもので、『黒田家文書』の同9年説を否定し、同10年と結論づけるものである。

私や藤田達生氏は『黒田家文書』に従って、同9年として議論していたが、その前提を根底から覆されたことになる。

じつをいえば、『黒田家文書』の年次比定を疑ってかかったほうがよいのではないかと、以前、このブログでも指摘したことはあった。ここです。
私は黒田孝高が当該時期に鳥取城攻めに出陣していることが証明できれば、天正9年説は成立しないという感触をもっていたが、そのままにしていた。尾下論文は私の素朴な疑問(だから、天正13年という誤解もあり)と異なり、秀吉関連文書を実証的に検討したものであり、一本取られたという感じである。

拙著での記述が尾下論文によって批判されたわけだが、じつはむしろ有難く、拙論を主張するにあたって、かえって状況はクリアになったと感じている。

それはどういうことかといえば、尾下論文によって天正9年に秀吉の阿波進出がなかったことが明らかになったわけで、それにより、四国をめぐる秀吉と光秀の対立・抗争が本能寺の変の背景にあるという見方が否定されることになったからである。
つまり、阿波の帰属を中心とする四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった、別の言い方をすれば、秀吉という「夾雑物」が除去されてクリアになったと感じている。

同時に、このことは派生的に三好秀次の養子入りの時期にも影響を与えるはずである。秀次の養子入りは信長存命中にはありえない可能性が非常に高くなったと思われる。尾下論文によれば、天正10年9月頃から秀吉が阿波に出兵し、三好と長宗我部の抗争に三好支援という形で介入していることが明らかになったわけで、秀次の養子入りもこれと関連していると見るべきだろう。

批判とともに、多くの示唆やヒントを与えていただいた尾下氏に改めて御礼申し上げる。

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【2009/04/11 13:19】 | 信長
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尾下論文
板倉丈浩
こんばんは。
この論文、私も興味深く読みました。

>阿波の帰属を中心とする四国問題に関しては、信長の政策転換と明智家中のそれへの反発という構図がはっきりと浮き彫りになった

尾下氏は結論部分で「この出来事が惟任光秀の政治的立場を悪くし、彼をして本能寺の変に駆り立てさせたとも考えられない」とわざわざ書いているところから見ると、四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的ですね。
天正8年の織田政権が長宗我部氏と伊予西園寺氏の停戦を試みた可能性を指摘し、かかる政策が長宗我部氏の反発を招いたのではないかと考えておられるようです。

>秀次の養子入りは信長存命中にはありえない可能性が非常に高くなった

尾下論文のもう一つの重要な指摘として、天正8年段階で秀吉が既に淡路に進出しており、天正9年の出兵前に三好一族の安宅氏を支配下に置いていたということがあります。
となると、羽柴・三好の密接な関係は本能寺前にそうであってもおかしくないのではないでしょうか?

私見
桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは、

忙しくて返事が遅くなりました。

尾下氏が「四国問題と本能寺をリンクさせる考え方には否定的」というご指摘の部分ですが、秀吉の阿波進出が天正9年とする前提を否定する趣旨で書かれたもので、光秀VS秀吉という構図では、光秀の政治的立場が悪くなったという結論は導けないという意味で、間接的ながら、藤田説への批判ではないかと考えています。

次に秀次の養子入りの件ですが、天正8年に秀吉が淡路に進出したと断定できるか疑問ですね。淡路の野口某が秀吉に従ったということとと、秀吉が淡路に進出したというのは必ずしもイコールではないと思います。
また天正8年、教如派の牢人衆が勝瑞城を占拠しており、どうやら三好存保らはこれに加担しているようです。彼らを元親が撃退しているということは、元親は織田方として行動しており、このとき、秀吉が三好方と通じるというのは、元親への利敵行為になりますから、不自然ではないでしょうか。
翌9年、秀吉が淡路に進出しますが、その後、淡路に駐屯したのはどうやら池田元助の軍勢のようで、秀吉は淡路の領国化に積極的ではなく、制海権の確保に主要な関心が向けられており、領国化を志向するのは信長死後ではないでしょうか。
また安宅氏を支配下に置いたことが阿波三好氏と密接な関係になるというわけでもないと思います。
同9年から、三好康長の阿波進出、元親の反織田化の傾向が表れまるのはたしかですが、かといって、秀吉が三好を積極的に支援したという史料は見出せないように思えますが。
まあ、秀次がその時期に三好の養子になったというのがその根拠ということであれば、循環論法であり、私には手がつけられません。

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うっかりしておりました。
来週14日(火)から、古文書塾「てらこや」の新規講座が始まります。
まだ小松帯刀にこだわっています。
慶応3年(1867)4月の四侯会議のあたりから入ります。
薩土盟約、大政奉還、討幕の密勅、龍馬暗殺、王政復古という大事件目白押しです。
関東方面で関心のある方、受講してみませんか。

「小松帯刀と幕末薩摩藩」
〜4月開校講座 受講生募集中〜

小学館アカデミー古文書塾「てらこや」では、平成19年7月開講の特別講座から、平成20年の大河ドラマ「篤姫」に関する講座を開講していますが、今回は関連シリーズ8回目です。
講師は、歴史作家桐野作人。
現在、下記の要領により受講者を募集しています。多くの皆様のご参加をお待ちしていますので、ぜひ、お気軽にお申し込みください。

<参考>平成18年4月開講「幕末の手紙を読む1」
平成18年7月開講「幕末の手紙を読む2」
平成18年10月開講「幕末の手紙を読む3」
平成19年1月開講「幕末の日記を読む」
平成19年4月開講「幕末の日記を読む」
平成19年10月開講「大河ドラマ「篤姫」の見方2〜」
平成20年1月開講「天璋院篤姫と小松帯刀」
平成20年4月開講「小松帯刀と幕末薩摩藩」
平成20年7月開講「小松帯刀と幕末薩摩藩」
平成20年10月開講「小松帯刀と幕末薩摩藩」
平成21年1月開講「小松帯刀と幕末薩摩藩」

古文書塾「てらこや」では、古文書入門者から経験者までが楽しみながら学習をすすめており、4月開講のコースは、上記をはじめ、以下の入門コース、本科コース6講座、特別講座(短期)6講座を予定しています。

入門コース:「古文書のいろは」(6ヶ月間、全10回、月曜夜、火曜午前、木曜午後、土曜午前の4コース)
本科コース:「古文書に見る江戸のくらし」「武家文書を読むー幕末拝借金事情ー」「古文書にみる幕末維新ー村の情報ネットワークー」「江戸のコミック(黄表紙)と滑稽本を読む」
特別講座(6講座):「文人画と碑文ー掛軸を読むー」「小松帯刀と幕末薩摩藩」「浮世絵を読む」「香道を版本で楽しむ」「小咄で江戸をみる」「絵と文字で楽しむ歌舞伎入門」
小学館アカデミーのサイトはこちらです。
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■ 特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩ー大河ドラマ「篤姫」シリーズ8ー

講師 桐野作人氏(歴史作家、東京龍馬会会員)
日程 全5回(4/14、4/28、5/19、6/2、6/16)火曜日、19:00〜20:30(1回90分)
会場 小学館アカデミー
〒101-0051 東京都千代田区神保町2-14,SP神保町ビル1F
交通:都営地下鉄・東京メトロ半蔵門線「神保町」駅より徒歩約1分、JR「水道橋」駅より徒歩約12分
>> 会場案内図はこちら

【講座内容】
大河ドラマ「篤姫」の関連シリーズ8回目です。引きつづいて、薩摩藩家老小松帯刀が大久保利通に宛てた書簡を中心に、薩摩藩の幕末政局への関わりを理解します。
小松は西郷隆盛・大久保利通と並び称された人でしたが、あまり知られておらず、知名度も低いです。
ここでは、昨年の大河ドラマ「篤姫」の相手役として、今回はじめて大きくクローズアップされた小松の事績を詳しく見ていきます。
小松のわずかに残っている日記や、200点以上は現存する小松文書を中心に進めていき、小松のことだけでなく幕末薩摩藩や幕末政局への理解を深めたいと思います。

<受講料>13,650円(全5回)

<お問い合わせ・お申込み>

小学館アカデミー古文書塾“てらこや”神保町校受付
フリーダイヤル:0120-072-465/FAX:03-3515-6783
受付時間:10:00-20:00、(土日・祝日を除く)

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【2009/04/08 09:54】 | てらこや
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日次記です。
ここんとこ、個人的なイベントも多かったのですが、かなり古くなってしまったので、まとめ書きです。

3月27日(金)
午後から自宅近くの喫茶店で、某編集者と打ち合わせ。
恒例のムック企画や書籍企画など。
どこまでやれるかわからない。

28日(土)
東海地方某所に取材敢行。
思わぬ収穫があった。

29日(日)
大阪龍馬会の史跡探訪に参加のため、早朝新幹線に乗る。
集合場所に集まると、同会幹事のOさんと会う。
会うのは初めてだったが、メールで何度かやりとりしたことがある。
本日の分厚い資料をいただいた。その厚さと内容の濃さに驚く。
午前12時から出発。参加者は30人以上。
じつに70カ所以上のポイントを半日で回るというハードスケジュール。

参加した理由は、薩摩藩関係の史跡が多かったため。
上・中・下・浜のそれぞれの屋敷を回った。
土佐堀川、立売堀、安治川、木津川、尻無川などを渡ったが、大阪はやはり水の都だと実感した。
もっとも、どれがどの川だったか、撮影した写真だけではわからないが(笑)。

当日は好天だったが、風が強く、とくにビル陰の史跡では寒くて往生した。
参加者の万歩計は20.000歩くらいだったので、おそらく15キロくらいは歩いたはず。足が棒のようになった。
いくつか写真をあげておきます。
大村益次郎
大村益次郎寓居跡
薩摩藩蔵屋敷
薩摩藩蔵屋敷跡

土佐堀川
越中橋から見た土佐堀川
ダイビル
今秋に取り壊されるダイビル




30日(月)
前日の史跡探訪ののち、友人の橋場殿下の邸宅に泊めてもらった。
拙宅よりとてもきれいで感心する。
早朝、周辺の史跡めぐりに案内してもらう。
ここでも薩摩ゆかりの史跡を見ることができた。
あとは天誅組とか、千利休とか、鉄砲鍛冶とか、三好氏とか。

帰宅してみたら、最新刊の拙著『さつま人国誌 幕末・明治編』が届いていた。
よかったら、ここを見て下さい。

31日(火)
小学館古文書講座「てらこや」体験講座。
受講者はやや少なかった。
今回は実験的に、幕末越前藩の史料を読んだ。
本命は『続再夢紀事』だが長いので、今回は短くて面白そうな『丁卯日記』を読む。
丁卯は慶応3年(1867)の干支。筆者は中根雪江。
ちょうど徳川慶喜の大政奉還あたりから始まっており、坂本龍馬も出てくるし、体験講座にふさわしいテキストではないかと思った。
でも、案外と手ごわい。大政奉還後の幕府、越前藩、薩摩藩などの駆け引きが細かく書かれている。とくに書簡の写しが多数転載されていて、それを読むだけでも骨が折れた。
でも、龍馬と岡本健三郎の福井行きまで何とか辿りつけてよかった。

4月1日(水)
たび重なる出張などの疲れが出て、背中の筋肉が凝りに凝って痛かった。
整体に行って、たっぷり90分もみほぐしてもらったが、焼石に水だった。

2日(木)
原稿2本がたまってしまい、それを片づけるのが精いっぱい。
そのため、『兼見卿記』輪読会は欠席。申し訳ない。

3日(金)
本日は相楽祭。信州下諏訪の魁塚前で開かれる。
昨年参加し、今年も参加する予定で、チケットまで購入していたが、残念ながら欠席。
摘み残し原稿の仕上げと、学研歴史群像大賞講評のため、最終候補作品4点を一気に読む。今年はどれも短い作品でよかった(爆)。
午後からチケット解約のため、新宿に出る。空しかった。
体調(背中の筋肉痛)相変わらず悪し。

4日(土)
体調少し戻る。
拙著の贈呈分の発送作業をする。
貧乏性のため、これまで冊子小包の厚紙の包装ケースをたくさん溜め込んでいたのが、こんなときに役立った。再利用のため、少し見映えが悪いですが、リサイクル、資源節約の趣旨をご理解いただきたく>宛所の方々。

5日(日)
朝から青山墓地に花見に出かける。
ごく親しい友人たち数人とメインストリートや外人墓地あたりを観桜する。
見事に満開である。
2年前、早めの開花予想を信じて出かけたら、ほとんど咲いていなかったから、今回はきっちりリベンジできた。
大久保利通、野津兄弟、黒田清隆、川路利良、忠犬ハチ公、牧野伸顕、犬養毅、吉田茂、小村寿太郎、池田勇人、佐藤政養、志賀直哉、斎藤茂吉など、定番のところを案内した。
青山墓地桜




夜、前から楽しみにしていたBSのドラマを観るも、字幕じゃなかったし、やや期待外れ。シリアス感が足りない。

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【2009/04/07 20:44】 | 日次記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第103回
―「隣好」から「与力」へ―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

なお、今回から月曜日連載になります。
月曜日は第2週が休刊になることが多いですが、そのときは連載も休載になります。今後ともご愛顧のほどを。

今回は島津氏の琉球侵攻の2回目です。
前回から後ろに戻った感じで、多少ぐだぐだ感がありますが、個人的にこだわりがあるところでして、複雑でわかりにくいですが、あえて書きました。

それは、豊臣政権服属以前の島津義久時代の薩琉関係はどのようなものだったのかを確認しておきたかったからです。
ひとつわかったことは、旧来の島津本宗家(奥州家)と日新斎以降貴久までの島津家では、薩琉関係は対等だったことです。嘉吉附庸説が否定されるのはもちろんですが、紋船(あやぶね)の派遣も、島津氏当主の代替わりのための派遣というより、足利将軍家への入貢のためだったという説もあります(黒嶋敏「印判・あや船―島津氏関連史料を読む―」 『青山史学』26号)。
貴久以前の島津氏にとって、琉球を服属させることは守護権力の脆弱さや地理的な条件から困難だったと思われます。

ただ、琉球渡航朱印状については、越前の朝倉義景が島津氏の仲介を求めている史料もあることから、ある程度琉球貿易の既得権を保持しているというのが、島津家側の認識だったかもしれません。
しかし、一方で、豊後大友氏が島津氏ではなく、種子島氏を介して琉球貿易をしている形跡もあり、島津氏の排他的な権益というわけではなかったようです。

そして、義久の時代になると、三州統一をなし遂げますが、この島津氏の権力増大が薩琉関係にも次第に影響を与えるようになったと思われます。
それでも儀礼上の上下関係を押し付けるだけでしたが、秀吉に降伏してからは、琉球への豊臣政権の介入を阻止するために、薩琉関係の緊密化、琉球の「与力」化に否応なしに突き進まざるをえなくなります。
今回はそのあたりを書きました。

次回は義久から家久への代替わりと薩琉関係について書くことになりそうです。

なお、次週13日は休刊日ですので休載です。次回掲載は20日(月)になります。お気をつけ下さい。

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【2009/04/06 19:24】 | さつま人国誌
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朝倉氏の件
NAO4@吟遊詩人
いつも、さつま人国誌、ブログ楽しく拝読させていただいております。

>琉球渡航朱印状については、越前の朝倉義景が島津氏の仲介を求めている史料もある

朝倉氏が、「琉球と交易していた」あるいは「しようとしていた」というのは、面白いお話ですね。

朝倉義景と琉球貿易
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

朝倉義景と琉球貿易については、過去にも論じたことがあります。以下をご参照下さい。

http://dangodazo.blog83.fc2.com/blog-entry-63.html

いつも、お教えくださり、ありがとうございます。
NAO4@吟遊詩人
桐野先生
過去ブログお教えくださり、ありがとうございます。
本当は、先のコメントで、出典をお聞きしたかったのですが、これで分かりました。
ありがとうございました。

さつま人国誌、ブログとも、自分が読み始めた時期(恐らく昨年中盤頃)以前を読んでおりませんで、大変失礼いたしました。

朝倉氏の一乗谷遺跡は、20年近く前に行ったことはあるのですが、当時資料館は出来たてて、大変立派な建物だったのを覚えております。(今では大分古びてしまったでしょうか?) しかし、学術的には良い仕事をしているのですね。

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さつま人国誌






昨3日付の南日本新聞に紹介記事が載ったようです。
よかったら、ご覧下さい。
ここです。

購入方法などはここにあります。

なお、先日お伝えしたように、新聞連載は今月から掲載曜日が月曜日に変更になりました。
次回は6日に載ります。

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【2009/04/04 20:41】 | さつま人国誌
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先週から、激ジョブと出張、体調不良(自業自得によるストレス発症)など、もろもろありまして、更新が滞っておりました。

せめて、近況だけでも書こうと思います。
少し旧聞に属しますが、先月23日(木)の

栄・中日文化センター講座「本能寺の変を読み解く」第6回

このシリーズも最終回でした。
本能寺の変が実際にどのように実行されたのか、戦闘の様子を明智方、織田方、公家や寺社の立場などから見ていきました。

とくに時間を取ったのは、次の2点。

1,福屋彦太郎宛て明智光秀書状(5月28日付)
  年次がおそらく天正10年で、本能寺の変の3日前であること。
2,本城惣右衛門覚書
  明智軍の下級兵士の60年後の回想

またご多分にもれず、レジュメが多すぎて時間が足りなくなった。
それでも、終了後、たくさんの質問があった。
みなさんがいろいろな関心や疑問をお持ちだということがわかった。
ひとつひとつ丁寧に答えたつもりだが、納得していただけたかどうかはわからない。

あと、次の講座のテーマについてアンケートをお願いした。
私の守備範囲でやりやすいもの、旬のテーマなどをあらかじめ5つほど提示しておいた。
そしたら、終了後、多数回答をいただいた。
いろいろな要望が寄せられていたが、そのなかで、一番多かったのが『信長公記』を読みたいというものだった。
受講者の要望に応えたいと思っているので、7月からの講座は、

『信長公記』を読み解く

にしたいと思います。
また受講していただければ有難いです。

それと、今シリーズの講座の総仕上げとして、同センターと中日旅行社による日帰り史跡探訪を催します。

4月23日
本能寺の変を読み解く旅


不肖、桐野が同行します。
明智光秀の行軍ルートを辿りながら、丹波亀山城、老ノ坂、七条口、本能寺、二条御所、小栗栖などをめぐります。
その場で、関連史料を読んだりして、在りし日の出来事を感じてもらおうという趣旨です。
本能寺の変だけでなく、信長や光秀のことその他、どんな疑問や質問でもかまいません。
私が知っている範囲でお答えします。お気軽に声をかけて下さい。

詳しくは、ここここをご覧下さい。
おそらくこれが最後の告知になると思います。
すでにツアーとして成立しておりますが、まだ若干空席があります。
条件の許す方で、関心のある方はご検討下さい。

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【2009/04/03 23:21】 | 中日文化センター
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残念無念
木暮兼人
よりによって、このタイミングなのですね・・・
ぜひとも参加したいので、実家にも打診してみたのですが
「自信がない」といわれてそれっきりです。

間近になればまた状況も変わることもあるかと
多少期待はしているのですが。

難しいですね
桐野作人
木暮兼人さん、こんばんは。

本能寺ツアーまであと一週間になりました。
参加するには大きな問題をクリアしないといけないので大変ですね。
参加していただければ有難いし、無理されるのは心配でもありますし……。

万事がうまくいけばいいですが……。

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