歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
講演のご案内です。
大河ドラマ「天地人」にちなんだ講座が、滋賀県の長浜城歴史博物館で企画されています。
その友の会が開催する「北近江歴史大学」講座全4回のうちの2回目を担当することになりました。

Web上の告知はここにあります。

全体テーマは、石田三成の地元ということもあって、次のとおりです。

石田三成と直江兼続
―大河ドラマ「天地人」を楽しむために―

そのうち、私の担当は、

2、関ヶ原合戦と石田三成の共闘
―家康東西挟撃説をめぐって―


日時は7月26日(日)13:30~
会場:木之本町スティックホール
会場は木之本町役場に隣接しています。地図はここです。

木之本町は賤ヶ岳の戦いの史跡があるところでも知られています。
以下に講座の概要をパンフレットから案内します。

講座のパンフレット表紙
表紙

講座の日時・会場・内容など
北近江歴史大学1





受講料:1講座につき500円
申込方法:事前申し込みは不要。受講料は当日、会場でお支払い下さい。


石田三成と上杉家の盟約は果たしてあったのかどうか。あったとすれば、いつ頃から成立したのかというのは、関ヶ原合戦のドラマなどでは必ず登場するテーマですが、あまり知られていない史料も使って、その真相にアプローチしてみたいと思っています。
とくに関西・東海方面からのご参加をお待ちしています。

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【2009/05/28 12:07】 | イベント
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行きま~す!
びわこ
一応、友の会のメンバーなんで行きま~す!!
久しぶりに桐野さんにお会いできるの楽しみにしてます。

また会いましょう
桐野作人
びわこさん、こんばんは。

当日、ご出席される予定、有難うございます。
会場が広いようなので、心配しています。
個人的な集客力があればいいんですけどね(笑)。
長浜より奥まっていて、少し交通の便に難がありそうで。
三成会などお友だちを誘って下さいませ。

了解!
びわこ
そうだ!
桐野さんに木之本名物「サラダパン」を差し入れしますね!!

サラダパン
桐野
びわこさん、こんにちは。

それでは楽しみにしています。

木之本を訪れるのは、もう10年以上前だったか、内中尾城を攻めたとき以来でしょうか。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第109回
―奄美諸島を17日間で制圧―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回から、いよいよ琉球本島への侵攻が始まります。
ただ、前回の徳之島や沖永良部島のことを追加で書きたかったので、内容的には両者が混在しています。
タイトルは奄美諸島、掲載写真は山北の今帰仁城、と分裂してしまいました。統一するとすれば、

島津軍、今帰仁城を占拠

といったタイトルのほうがよかったかもしれません。

沖永良部島は徳之島よりさらに南にある島で、西郷隆盛の流刑地でも知られています。
当時、まわりはサンゴ礁だらけだったのか、軍船からの上陸は非常に難しいと思われていたのが、意外とあっさりと上陸してしまったため、島民は戦わずして降伏してしまいました。

このときの有名な逸話があります。
島津軍総大将の樺山久高が「一戦にも及ばず馬鹿者共」と罵倒したそうで、その後、上陸地点を「馬鹿尻」と名づけたとか(「琉球入ノ記」)

なお、伊地知季安『南聘紀考』では「馬鹿港」になっています。
これは当地「島尻」の地名が「バー」(粟のできる畑作地帯という意味)と呼ばれていたのをもじったもので、「琉球入ノ記」の脚色だといわれています。
いかにも侮蔑的なこの地名がようやく改められたのは、明治30年(1897)のこと。辺境の冒険家でも知られる笹森儀助が大島島司だったとき、農政家で知られる前田正名の名を取って「正名」と改めたとか。

今帰仁城はかつて訪れたことがあり、今回、そのとき撮影した写真を使いました。来訪当時は世界遺産登録に向けて修復中で、あちこちに青いシートがかかっていたため、撮影に苦労しました。現在の景観は当時と違っているかも知れません。

このときは2日間にわたって、沖縄のグスクめぐりをしました。今帰仁のほか、中城、勝連、具志川、浦添、座喜味、知念、南山、糸数、安慶名、玉城、名護など、たくさんのグスクを見学したのを思い出します。なかでも、今帰仁と名護がいちばん北にあったグスクでした。

とくに今帰仁グスクは、周囲をめぐる城壁が波打つように連なっており、あたかも万里の長城を小さくしたような感じで印象的でした。

次回は首里城が占領されるあたりを書くことになりそうです。

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【2009/05/25 16:48】 | さつま人国誌
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表題の雑誌、そろそろ書店に並んでいる頃だと思います。

私の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」も19回になりました。

今回は「元亀争乱の幕開け」という副題を付けました。
信長の有名な「金ヶ崎の退き口」や千草越えでの杉谷善住坊の狙撃一件など、よく知られた話について書きました。

今回注目したのは、浅井長政の離反後、朝倉景鏡の軍勢が江北に進出して、江濃国境の長比・苅安の両城に詰めたことです。
このことは近年知られるようになりましたが、意外に重要な事実だと思います。朝倉氏が他領の、しかも信長領国との境目に詰めているのをどう考えるかということです。これは朝倉氏と浅井氏の関係にも関わってくることで、両者は対等の同盟関係ではなく、浅井氏が従属的な同盟もしくは主従関係に近かったといえるかもしれません。

次回はいよいよ姉川合戦を書く予定です。

なお、今月号は大谷吉継の特集号ですね。最近、刑部が人気だからでしょうか。単独で取り上げられるのは珍しいですね。

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【2009/05/23 10:56】 | 信長
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大谷吉継
ばんない
こんにちは。

最近の大谷吉継ブームはゲームの影響が強いような気がしますね。ゲームでは大概いかにも今流行の「歴女」が”萌え”そうな美形キャラにされてますし。

大谷吉継の肖像画は残ってなかったんでしたっけ?

大谷吉継
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

最近、某ゲーム誌の取材を請けました。雑誌をもらいましたが、武将のイラストがたくさんあるなかで、もちろん刑部のかっこいい絵もありました。

刑部の肖像画は比較的新しいのはあったように思います。白い頭巾を被ったやつ。
もう少し古いのはおこそ頭巾のようなものを被って駕籠のそばに杖をついて坐っているのもあったような。


ばんない
こんばんは。
>某ゲーム誌
また一体何の取材だったんでしょうか、気になりますねぇ(苦笑)。

それと、大谷吉継の肖像画、後世の作成と言うことですがあるようですね。御教示ありがとうございました。それに比べて島津義久…(涙)

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昨夜、小学館古文書講座「てらこや」に出講。

特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」第6シリーズの第3回。
今回のテーマは表題のとおり。

この間、数度にわたって、四侯会議の前段のいきさつを見てきたが、今回ようやく本番に入る。
それでも、その前に朝廷の人事問題に触れざるをえなかった。
これは英国公使パークス一行の京師近辺の通行をきっかけに、攘夷派の少壮公家の脅迫に屈した摂政二条斉敬が通行を黙認した佐幕派の両役(議奏、武家伝奏)4人を罷免したのに伴い、その後任を誰にするかという、朝廷、幕府、薩摩の駆け引きである。

とくに薩摩藩では、この一件を四侯会議の成否に関わる重要な案件だと位置づけて、大久保一蔵が中心となり、朝廷筋(二条摂政や近衛家、有栖川宮など)へ猛烈な運動を展開していた。

今回、強調したかったのは、それまで薩摩藩と一心同体といってよかった近衛忠煕・忠房父子が薩摩藩強硬派(小松・西郷・大久保)に反発し、距離を置きはじめたことである。
近衛父子は大久保の強烈な働きかけに弱り果て、越前藩の松平春嶽や中根雪江に泣きつき、薩摩藩を説得してくれるよう依頼するほどだった。
薩摩藩では一会桑寄りの二条摂政を忌避しており、その更迭が無理なら、関白同等の内覧に近衛忠房をあてようとしていたようである。
しかし、忠房は一種の「恐怖体質」、性格的に弱い人で、もし内覧になったら、薩摩藩の要求に耐えきれなくなり、パニックを起こすのが明らかだったから、内覧就任を回避したいと考えていたという。

大久保あたりが策定した新しい両役人事案は旧長州系尊攘派、のち討幕の密勅に署名する王政復古派で固めた、あまりに露骨なものだった。とくに中御門経之・大原重徳という激派公家を両役に押しこもうとしていた。近衛家は、この人事案を受け容れれば、逆に徳川慶喜が罷免された4人の復職を要求してくるから、幕府と薩摩の板挟みになるのは目に見えている。
それに、中御門・大原の2人は故・孝明天皇からも激しく忌避された人物であり、到底この人事案は受け容れられないとして拒んだ。
二条摂政もまた、2人の排除は孝明天皇の「御遺勅」であるとして、近衛父子と同じ意見だった。

そのため、薩摩藩もごり押しできず、結局、正親町三条実愛・徳大寺実則・長谷信篤の3人という穏当な人事で妥協した。このうち、正親町三条はのちの討幕の密勅の署名者の1人である。

人事問題が決着したところで、慶応3年(1867)5月14日、二条城に四侯(久光・春嶽・容堂・宗城)が登城して、慶喜との間で会議を開く。
議題は兵庫開港と長州処分の2点。
慶喜は兵庫開港を重視し、四侯は長州処分を先にすべきだと主張する。

慶喜はすでに4カ国の公使に兵庫開港(1868年1月1日を期して)を約束してしまっており、何としてもこの件で四侯から同意を取りつけたうえで、勅許を得ようという目論見だった。

対する四侯側は、長州処分を解決して国内統一を果たしたうえで、兵庫開港に臨むべきだという意見で、優先順位が重要だという立場だった。
これは長州寛典によって、長州藩の復権を実現すると同時に、重要政策における最終的な意志決定を幕府から四侯を初めとする諸侯会議に移そうという試みでもあった。

要は、来るべき新政体のありようとその主導権の争奪戦だったのである。

今回は四侯会議のいきさつを、いちばん詳しい越前藩の『続再夢紀事』を中心に見ていった。
これによれば、慶喜と四侯の間で、春嶽がコーディネーターというか、議事進行役的な立場にあることがわかる。四侯の他の3人が外様なのに対して、春嶽は親藩で慶喜に近いことから当然の役回りにみえる。
もっとも、四侯会議の行く末は春嶽の胸先三寸にかかっていたように思える。つまり、優先順位で対立する両者の間で、春嶽が妥協点を提起し、事実上、慶喜に味方するのである。

次回はそのあたりを見ていきたいと思う。

今回は『続再夢紀事』のなかに面白い記述があった。
ひとつは、久光の性格のことで、久光は酒を呑まず「寡言」(無口)であること。慶喜が久光とサシで会談するのは気詰まりだと告白しているのが面白い。

もうひとつは、のちの薩摩藩討幕派の台頭の徴候がすでに表れていること。近衛忠煕は「昔の長は今の薩なり」と述べ、いまの薩摩藩はまるで文久年間の長州藩のようだと忌避している。とくに「薩の市蔵輩(大久保)」。
また、中根雪江と原市之進(慶喜側近)の会談でも、小松と大久保が「姦雄」として警戒されている。しかも、2人の性格の違いまで評されている。面白いので紹介する。

「原云う、薩藩中、小松帯刀は能く世とともに変化する所あれども、大久保一蔵は頑然動かず、ついには天下の害を惹き起すべし、中根云う、いかにも帯刀・一蔵は姦雄なり、故にこの姦雄をして手を空しくせしめられざれば、天下は治まらざるべし」

小松と大久保はともに「姦雄」だけど、性向は異なる。
小松は融通無碍、大久保は頑固一徹という評価らしい(笑)。
同時代人の人物評として無視できない。

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【2009/05/20 10:07】 | てらこや
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お公家さん達
ばんない
去年は大河関連かこちらのブログも維新ネタが多かったのですが、今年は琉球侵攻という重くてきついネタが続いているので、たまに出てくる維新ネタが新鮮に感じられます。特に今回のような「会議で揉めている」とかのレベルは、本当に和やかでほんわかするように感じられます(違)

それにしても、お話を聞いている限りでは、近衛家と鹿児島藩主導部(いわゆる強硬派)との不和とか、久光と慶喜の性格の不一致とか、結構個人的な感情がこれからの歴史を動かしていったようにも見えますね。

>近衛親子
近衛忠熙の筆跡というのを数年前に黄檗の木幡神社で見たことがあるのですが、そんな繊細な人というイメージではなかったですね。東京遷都後もなかなか京都から動かなかった人でしたっけ。後にアジア派の頭として台頭する近衛篤麿や徳川家達夫人になった泰子の養育は忠熙によるもののようですね。泰子は後に息子の夫人になった正子(島津忠義の娘)との折り合いが悪かったことが関係者の本に出てきますが、祖父と鹿児島藩の折り合いが悪くなったこととかが影を落としているのかなとも感じました。
忠房の方は早くに死んでしまったためか、なかなか情報が乏しい人で、性格の弱い人という話は関心を持って読ませていただきました。

>大原重徳
大河ドラマ『翔ぶが如く』でちょっとだけ出てきてましたね。ドラマの好々爺のイメージが強すぎて、そんな過激派公家とは知りませんでした(爆)

>徳大寺実則
西園寺公望の実兄ですね。この人の娘が後に島津忠重の夫人になってますが、こういうところからの縁だったんでしょうか。

>長谷信篤
19代島津家当主・島津光久の後妻を出した平松家の親戚ですね。この人選とは全く関係なさそうですが。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第108回
―徳之島島民、激しく抵抗―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

琉球侵攻一件の連載ももう7回目になります。
ようやく徳之島の戦いまで漕ぎ着けましたが、まだ琉球本島での戦い、尚寧王の大和連行やその後の琉球仕置などがまだ残っています。最終的には10回を超えるかもしれません。

今回は、先日訪れた徳之島での戦いを書きました。
実際に現地を踏査したので、少しは地に足が着いたレポートになっているのではと思っていますが。

とくに、講演会での弓削政己氏の講演資料には教えてもらうところが大でした。
徳之島の戦いについての新史料は、琉球遠征に参陣した肝付家の史料「肝付家文書」(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺家わけ二』所収)です。

この史料によって、遠征軍の一翼だった肝付兼篤の出兵の様子がある程度わかります。とくに従来、秋徳湊の戦いが強調されてきましたが、肝付勢が先行して徳之島東北端と西岸に着岸し、とくに西岸の湾屋で戦闘をしていることはあまり知られていませんでした。

【以下の4行は後筆の追加です】
そうそう、この湾屋の港は徳之島空港のすぐ近く(南)だったので、折良く撮影してきました。
島津軍の侵攻から250年後、一人の大男がここから上陸しました。西郷吉之助です。西郷が上陸したという痕跡が写真にわずかに残っています。ご覧下さい。
西郷橋





もっとも、このとき、肝付勢は兼篤の本船1艘と従者の軍船7艘(これは西岸湾屋に着岸)だと書かれていますが、山川を出航した時点では、兼篤の本船を含めて3艘のはずですから、数が合いません。七島衆などの船も紛れ込んでいたのでしょうか。

島津軍を迎え撃った徳之島島民ですが、その指導者の「佐武良兼」(さぶらかね)が「粟粥」を敵の膝に撒けと叫んでいるのが興味深いですね。
粟粥は奄美諸島においては、悪霊退散の儀式に使われる呪術的な意味あいがありました。ユタかノロが使ったものでしょうか?

東アジアにその武勇が知られた「鬼石曼子」は名前からして「悪鬼」のようですが、やっぱり粟粥では勝てなかったですねえ。
でも、彼らが大真面目に粟粥で島津軍を撃退しようと考えた、その精神世界には興味があります。

次回はいよいよ沖縄本島の戦いになりそうです。

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【2009/05/18 17:51】 | さつま人国誌
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粟粥
ばんない
こんにちは。
粥かけは一種のまじないだったということですが、熱い粥を足にぶっかけたら、やけどしてそれなりに戦闘妨害にはなるかも知れませんね。効かなかったようですが。

古代日本に類似の習慣がないかと思ってちょっと調べたのですが、パッと出てこないですね。もしかしたら中国など大陸から伝来の風習でしょうか。それとも東南アジアなど南方渡来の風習なんでしょうか?

粟粥
桐野作人
ばんないさん、こんばんは。

遅レスですみません。

粟粥については、徳之島で近年紹介された史料に興味深いことが書かれているそうです。
それによれば、このとき、島津軍将兵の膝に粟粥を浴びせて火傷させようとしたのではなく、島津軍が来襲したとき、ちょうど朝食時間帯で、島民が粟粥の食べかけを残したまま、あわてて逃げたので、島津軍が残っていた粟粥を食べて元気になったという、現実的な話になっています。

この史料、「三家録」といい、幕末期に成立した史料らしいです。まあ、この説明のほうが納得しやすいですけどね。


ばんない
こんばんは。
なるほどそちらの方が現実味がありますね。当時の徳之島はそんなに豊かな島でもなかったでしょうし、貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。
でも徳之島が一番激戦だったという事実とあまりにそぐわないので脚色されたんでしょうか?それはそれで興味深いものが背景にありそうですね。




-
>やっぱり粟粥では勝てなかったですねえ。

じゃあ何なら勝てるんですかねぇ。数は薩摩の方が上。離れても近づいても薩摩の方が上。私は機関銃持たせたら勝てると思いますねぇ。でもそんなもの17世紀にはありませんしねぇ。
使えるものは何でも使うのは当たり前だと思いますがねぇ。もしくは速攻土下座するか。王府みたいに(笑)

>まあ、この説明のほうが納得しやすい

あなたの思考回路に納得できませんねぇ。琉球入ノ記とは全然別の話になっちゃってるじゃないですか?熱した粥をかけるのは上田城攻防戦でやってるらしいですねぇ。あと熱した油をかけるのは世界中でやってますねぇ。ユダヤ戦記には、かけた本人による詳しい記述がありますねぇ。
ま、薩摩兵が熱した粥をかけられても火傷しない鉄の皮膚をもっているというなら話は別ですがねぇ。


-
>貴重な食料を武器に使うというのはちょっと考えにくいです。

あれ?貴重な農耕器具を武器に使うのは考えられるんですか?ここで使わなかったらどうせ敵に食われるorこっちが死んで食う必要もなくなるってわかってます?もっと真剣に考えましょうよ。

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昨16日午後、表題の講座に出講。
場所はJR三鷹駅前の同大学のサテライト教室です。

テーマは「大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康」。
毎週土曜日開催の全10回講座です。

先週9日が第1回でした。今回は、

第2回:御館の乱―景勝と景虎の抗争―

謙信の死による家督問題で、景勝と景虎の双方が何を大義名分にしたのかを見て、どちらかといえば、景虎が後継者に擬せられていた可能性があり、その意味では、景勝の春日山城本丸占拠は一種のクーデターであり、家督継承者としての正統性が景虎より欠落していたゆえの行動ではないかと指摘しました。

天正3年(1575)正月、上杉謙信が長尾喜平次に宛てた2点の書状があります。これは、謙信が喜平次に、上杉名字・弾正少弼の官途・景勝の名乗りという三点セットを与えたものです。
これは謙信の文書原本ではなく、写しだというのが曲者で、景勝が自分の家督継承の正統性を主張するために、自分で作成したものだという説もあります。
もっとも、景虎自身が御館の乱のはじめに、景勝のことを「少弼」と呼んでいるので、景勝がその頃までに弾正少弼の官途を名乗っていたのはほぼ間違いなく、となると、この三点セットは謙信存命中に実際に景勝に与えられていたのではないかと思われます。

講座終了後、受講者の方から、この写真版の写しと、景勝がのちに嫡男定勝(通称:喜平次)に宛てた書状の写真版を持参されていて、ともに「喜平次」の字がそっくりなので、謙信書状は景勝自身が写したものではないかと指摘されました。わざわざ持参していただき、有難うございました。

講座のなかで、春日山と御館をめぐる合戦がどこで戦われたのかについて、春日山・御館周辺の地図を示して、景勝の感状に見える大場・八幡・居多浜などの地名がいずれも御館に近いことから、景勝方優勢、景虎方劣勢だったのはないかと説明しました。
その典拠となる感状もレジュメに掲載しておけばよかったというのが反省点でした。

これは個人的な疑問ですが、前関東管領の上杉憲政と景虎一子道満丸が景勝方に殺害された一件は一次史料では確認できないのでしょうかね? 勉強不足のためか、管見のかぎり見当たりませんでした。
『越佐史料』には記事があるようですが未見です。一次史料なんでしょうかね? また景勝の伝記史料『景勝公一代略記』にも記事があるようですが、これは米沢市立図書館所蔵の謄写本のようです。
一次史料が残っていなかったとしたら、やはり勝者の景勝側に都合が悪い事件だったせいでしょうね。
この一件について、詳しい情報をご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

あと、解説の補足です。
レジュメに載せた、河田禅忠(長親)が栗林某(政頼か)に宛てた書状(7月27日付)。景虎が武田勝頼の和睦仲介を不承不承受け容れたのではないかとする一節ですが、

仍 三郎殿御和睦之儀、従甲陣被取候、併依難題被仰放旨、尤無御余儀奉存候、雖然、入眼之筋目被聞召届、御国御安全奉念候、(後略)

このうち、「」の字、東国戦国史の史料によく出てくる言葉であることは承知していたのですが、「する」ではなく「つくろう」と読んだほうがいいと思います。読みがとっさに思い浮かばず、失礼しました。
「取り刷う」=「取り繕う」と、ほとんど同じ意味だと思いますが、この場合は斡旋するとか、取り計らうというニュアンスでしょうか。

次回は、いよいよ直江兼続の登場です。
あと2回くらいでドラマの進行に追いつくかも知れません。

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【2009/05/17 10:28】 | 武蔵野大学社会連携センター
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上杉憲政
板倉丈浩
こんばんは。
憲政・道満丸の最期ですが、一次史料はなさそうですね。
『景勝公一代略記』以外では『越後古実聞書』『米沢地名選』等に記述があるようですが、これらは憲政を殺害した2人の武士が不幸な末路を遂げたというエピソードがメインです。

参考文献:冨田勝治「上杉憲政の発給文書について」(『関東中心戦国史論集』名著出版)

あと、「刷」の字は「あつかふ」と読むので、取刷=取扱=仲裁でいいんじゃないでしょうか。


桐野作人
板倉丈浩さん、こんにちは。

いろいろご教示感謝です。

「刷」ですが、以前、東国の戦国史に関する論文か何かで「つくろう」と解説したのを見た覚えがあったのですが、「あつかう」もありましたか。
意味的にはこちらのほうがよさそうですね。
有難うございます。

あつかう? つくろう?
御座候
山田邦明『戦国のコミュニケーション』によると、『色葉字類抄』では「ツクロウ」、『温故知新書』では「アツカウ」と読んでいるとのことです。戦国時代の書状では「調停」の意味で用いることが多いようです。

御礼
桐野作人
御座候さん、こんにちは。

「刷」についてのご教示感謝です。
「つくろう」の読みも間違いではなかったわけですね。
意味としては「扱」「口愛」と同じのようですね。
日国にも立項されていないので、どうしたものかと思っていました。
山田さんの著作は購入した覚えがあるのですが、見当たりません(泣)。
『色葉字類抄』『温故知新書』は中世の辞書のようですね。影印本はあっても活字にはなっていないようで。『節用集』などど似たような辞書でしょうか。
このあたりまで調べる必要があるとは、奥が深いですね。


いろは
御座候
『伊呂波字類抄』なら『復刻日本古典全集』で活字化されていますけどね・・・

御礼
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

遅くなりましたが、ご教示多謝です。
活字になっているんですね。勉強不足で知りませんでした。

家督
御館
「伊呂波手本」から「手紙の書き方」(意訳)、
二番目の兵力保持の景勝に対し、
兵力もほとんど無く役付きも不明な三郎影虎が、なぜ景勝と家督を争う対等な相手なのかという疑問をいつも持ちます。
景勝に同情します。
 人質からの養子で謙信の姪をめとる身分となったのは上条政繁だっていますし、
信濃から庇護を求めて来た村上義清の子息・国清(後の山浦景国)も謙信は養子にしている。
それら養子の中でも三郎景虎は保護された形で一番権力が低い。
 本当にいつも疑問です。
上杉家中内での上田長尾家臣団の数と力の台頭に危機感や不満を持っていた家臣達が、
三郎景虎を担ぎ上げたにすぎないと思いますが。
だからこそ「不慮の事」という他大名宛ての景勝書状が残るのではないですか。
直江信綱などの謙信の側近は景勝側に付きましたよね。

景虎
桐野
御館さん、初めましてでしょうか?

景虎と景勝の抗争については、ご指摘のとおりでしょうね。
やはり上田衆が実権を握るのを容認できない勢力、古志上田衆や揚北衆が多い気がしますが、彼らが景虎を担いだのは間違いないところでしょうね。

ただ、景虎の権力は小さいかもしれませんが、地位は高いと思いますし、バックに北条氏がおり、しかも上野衆の多くが景虎の味方だったことを考えると、なかなか侮れない勢力だったと思います。

しかし、北条氏が三国峠を越えられなかったのと対照的に、川中島口から武田勝頼が景勝の味方をしたために、勢力バランスが崩れたんでしょうね。



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拙著『さつま人国誌 幕末・明治編』の重版分が版元から送られてきた。

人国誌







地元であるジュンク堂鹿児島店の売上ランキングが毎週、南日本新聞に掲載されるが、

先々週:4位
先週:4位
今週10位


だった。少し落ち気味なので、重版をきっかけに再浮上できればと思っている。
また、鹿児島の友人からの情報によれば、NHK鹿児島のローカルニュースでも取り上げてくれたらしく、ランキングは3位だったという。詳細は不明だが、きっと別の書店のデータだと思う。

拙著については、以下をご覧下さい。
南日本新聞開発センター出版案内
ネットでの直販もやっています(ただし、送料かかります)。

鹿児島県外でももちろん、購入できます。
紀伊國屋書店ジュンク堂など大手書店でも取り扱っています。
またセブンアンドワイなど、主なネット書店からも購入できます。

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【2009/05/15 22:29】 | 新刊
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徳之島紀行のつづきです。

講演とシンポの翌5月3日。
伊仙町の東目手久(ひがしめてぐ)の闘牛場で、全島一と中量級のチャンピオン決定戦があったので、町役場のSさんの案内で観戦しました。

徳之島の闘牛は、島随一のイベントです。年に何度か島の各地で開催されますが、この日の大会が一番多くの観衆が集まる最大のイベントだそうです。あとで新聞記事を見たら、4000人の観客だったとか(主催者発表)。
これを見るのを楽しみに、島外に出た島民も毎年帰郷する人が多いそうです。

闘牛場の由来も面白いです。奇特な建設業者が自分の死後も好きな闘牛を見たいと、高台の墓地から見下ろせる場所に私財をなげうってつくったそうです。よほど好きだったんだしょうね(笑)。

大会は10:00から始まりますが、大勢の観客が予想されるから駐車場が確保できないと困るので、1時間前には到着。
まず雰囲気をたしかめようと会場周辺をうろつき、続々とやってくる牛たちの様子を見て回りました。
牛を下ろす





入場料を払って会場に入ります。そのとき、本日の取組表をもらいました。せっかくなので、写真を載せておきます。取り組みは全部で10番。
取組表





徳之島台風
コウダ技電龍王丸
強襲作田號
戦闘チャネル


とかいかにも強そうなしこ名が並んでいます。「号」が旧字の「號」になって画数が増えると、いかにも強そうに見えるから不思議です(笑)。でも、なかには、

大阪の美波ちゃん

といった、いわくありげなしこ名も。
競馬と同じで血統も重要らしく、かつてのチャンピオン牛の子どももいます。

今回のトリというか千秋楽は、全島一と中量級のタイトルマッチで、前年度チャンピオンにチャレンジャーが挑戦するという形をとります。
中量級といっても、900キロ未満で堂々たるもの。
重量級は何と、1トン以上!!
ただし、全島一決定戦は無差別級で、強ければ中量級からも参加できるとか。

全10番を観戦しましたが、長いのは20分以上の長期戦、短いのは20秒程度で決着するのもあります。勝敗の基準はどちらかが一度相手に尻を見せて逃げたのち、もう一度仕切りに戻ってこないと、その時点で負けになります。その間、やや時間があるので、負けそうなほうは懸命に戻そうとしますが、その見切りが難しくて、判定が微妙になることもあるようです。
判定は大会審査員がやることになっています。
闘牛をあまり知らない観光客もわかるように、また場内を盛りあげるために、主催者側のアナウンスと解説がありました。解説者は琉球大学の生物か何かの先生でした(笑)。
満員の会場
満員になった会場
入場
いよいよ「戦士」たちの入場





大観衆の見守るなか、取り組みが進むにつれて、会場のボルテージが上がります。
1トンを超える重量級の激突はまさに龍虎相撃つ決戦。
角と角がぶつかり合う「ガシッ」という音が会場に響きます。
激突
決戦





闘牛といっても、単なる力勝負ではなく、いろいろな技があると教えてもらいました。
相手の角の下に角を入れて、すくい上げるようにして相手の角を反対側に押さえつけ、相手の顔を地面につけるようにする「かけおし」(掛け押しか)とか。これは相手の体力を奪う技だそうです。
鋭い角と角がぶつかり合いますから、当然無傷ではすみません。
赤味を帯びた顔面は、あたかもアブドゥーラ・ブッチャーの額のようです。
血しぶき迫力





勝負がつけば、勝ち名乗りがあげられ、オーナーには賞金や優勝カップが贈られ、牛には相撲の化粧まわしのようなものが与えられます。
また子どもたちを勝った牛の背中に乗せるのは、子どもたちのつつがない成長を祈る縁かつぎのようでもあり、闘牛の次代を担うための動機づけでもありましょう。
勝った
子どもを背中に




一方、負けた牛は恐怖のために目も充血して、興奮がなかなか収まらず危険な状態です。角にロープをかけて動かないように固定し、興奮を鎮めます。
負けた






とくにねじり合いの好勝負となったのは中量級のタイトルマッチ。

強襲作田號 VS 神港花形全真號

30分近い持久戦になりましたが、決して見飽きませんでした。
お互いが技を繰り出す応酬はなかなか見ごたえがありました。
どちらかといえば、「全真號」が押していましたが、攻めあぐんだせいか、体力の消耗が激しく、最後は、褐色の肌に白のまだら模様の顔をしている「作田號」が逆転勝ちしました。
中量級優勝






全島一タイトルマッチは、チャンピオンの徳之島台風が防衛に成功しました。
その瞬間、会場全体の盛り上がりが最高潮に達し、応援団だけでなく一般観衆までなだれ込み、踊り出しました。私も下の闘牛場に下りて熱狂のほどを味わいました。
桐野






この日は雲ひとつない晴天で、気温も室外は30度を超えていたでしょう。
島民はみな長袖で帽子を被り、タオルを首筋に巻いて防暑対策をしているのに、あとで気づきました。
私はといえば、半袖シャツに帽子もタオルもなし。
この格好で真昼の炎天下に3時間もいたらどうなるか……。
その日、拙宅に帰ってみると、腕はこんなありさまでした。
日焼け
鬼巻
おまけ/昼食で食べた「ばくだんおにぎり」、なかに海老フライが入ってます


闘牛を堪能したのち、Sさんにお願いして、積み残していた史跡を見学した。
とくに、西郷吉之助の流謫跡。文久2年(1862)、西郷が島津久光の激怒を買い、沖永良部島に流されますが、最初の配流先は徳之島でした。そこには愛加那も来ております。
西郷の徳之島での流謫生活は2カ月余りで、その後、再命あって、さらに南の沖永良部島に流されることになります。徳之島での流謫先を訪れ、撮影しました。
西郷流謫跡
西郷流謫案内板






徳之島は本当にいいところでした。また行きたいものです。

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【2009/05/13 13:26】 | 雑記
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日本にも闘牛あるんですね。
NAO4@吟遊詩人
知ってはいたのですが、日本にも闘牛あるんですね。改めて認識した次第。スペインまでわざわざ見に行かなくても。

闘牛でも
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんばんは。

お久しぶりです。
ハンドルのアルファベット、前から全角でしたっけ?

闘牛といっても、スペインは人間対牛ですが、徳之島や沖縄では牛対牛で、少し違いますね。
それと、スペインの闘牛では、牛はその後、殺されるのでは?
徳之島では負傷することはありますが、負けた牛でも再戦可能です。徳之島の方が生命尊重ですね。

日本の闘牛
NAO4@吟遊詩人
日本の闘牛と言うと、徳之島以外では、隠岐と宇和島が記憶の片隅にあるのですが、検索してみると、↓6ヵ所あるんですね。それぞれの起源と関わり合いを調べてみると面白いような気がします。(そのうち、調べてみます。)
http://nawobe.up.seesaa.net/image/Oki20in20rekisi.pdf

>ハンドルのアルファベット、前から全角でしたっけ?
先生、よくお気づきですね。先のコメントは携帯電話で電車の中からさせていただきました。ブログの方は、携帯とパソコンで1日2回以上は拝見させていただいております。



ばんない
こんにちは。

徳之島の闘牛と沖縄の闘牛は関係がありそうですが、外の所とのつながりがよく分かりませんね。新潟と隠岐島は日本海側でつながりがあるのでしょうが…。牛の飼育が盛んだからある物でもないようですね>闘牛。但馬牛で有名な兵庫県ですが聞いたことがありません。

スペインの闘牛は、牛を見るんじゃなくてイケメンの闘牛士を見ることに主な目的があるのでは(爆)。でも、動物愛護運動との関わりで、人気はなくなってきているようですね。

蛇足ですが
>大阪の美波ちゃん
新地のホステスさんのお名前ではなさそうな感じですね。何となく。イメージですが。

闘牛って
寛永寺幼卒人
昔ですが八丈島で見ました。闘志満々の雄叫びに一歩引き
ましたが、あの見つめ合う真剣な目にドキンとしました
目的に向かって荒まじい勢いの心を持って何事にもぶつかって行ける燃える男の大和男を今の日本に欲しいです
  

有難うございます
桐野作人
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

一日に二度ものぞいていただき、有難うございます。
NAO4@吟遊詩人さんの熱心さには脱帽です。
今後ともご期待に添えるようなことを書きたいと思っていますので、よろしく。

八丈島
桐野作人
寛永寺幼卒人さん、こんにちは。

八丈島でも闘牛をやっているんですね。
徳之島・沖縄や隠岐と離島が多いですね。
何か共通点があるような気がします。

山古志
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

新潟は数年前、震災に遭った山古志村でしたね。
同村(現・長岡市か)の復興で、闘牛が村民を勇気づけたというニュースを見たような記憶があります。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第107回
―奄美本島を数日で制圧―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回からいよいよ島津軍が海路南下します。
以前から疑問に思っていたのは、記事にも書いたように、島津の軍勢の数が前年の法度のときとくらべて倍増している点です。
半年ほどの間に、1500人から3000人に増えたのはなぜなのか?
ちなみに、3000人は信頼できるいくつかの史料が一致していますから、間違いないところだと思います。
『旧記雑録後編』などを見ても、必ずしも納得できる理由が見出せません。
家久もしくは義弘あたりから、その種の指示が出ていないからです。

ひとつの可能性として考えられるのは、記事でも書いたように、一所衆の参陣です。これは当初、構想になかったのではないかと思います。
一所衆は藩政時代のいわゆる「一所持」(いっしょもち)につながる有力な一門や外様衆のことです。
参陣した一所衆として、肝付、北郷(ほんごう、のち都城島津家)、種子島の三家の家譜によって、その兵数まで概算で確認できます。

念のためにいえば、この肝付氏は衰退した本家ではなく、戦国期、加治木のあたりを領し、島津宗家の老中もつとめた肝付兼演の系統です。出征した兼篤は兼演の孫にあたります。ちなみに、幕末期の肝付尚五郎はこの家の人で、のちの小松帯刀です。
肝付家は伊集院幸侃の三男を養子に迎えて跡継ぎにする予定でしたが、幸侃上意討ち、庄内の乱のため、養子縁組を解消し、当主兼寛の庶弟だった兼篤が家督を相続したといういきさつがあります。

ほかにも、一所衆では禰寝、喜入、町田、伊集院などがいますが、どうだったのかよくわかりません。

考えてみれば、豊臣政権時代から関ヶ原合戦までの変動で、一所衆も①別家・絶家、②衰退したり、③当主が幼少だったりする家が多いですね。
たとえば、①だと、垂水家は以久の系統が佐土原島津家となって独立していますし、権勢を振るった伊集院幸侃家は滅亡しています。②は当主が関ヶ原で討死した入来院家、有信が義久の老中となった山田家、③は秀吉の命で自害した歳久の日置家は孫の常久は幼少です。
ですから、まとまった兵を動員できる一所衆は決して多くないことがわかります。

それで、次の疑問はこれらの一所衆やトカラ列島の七島衆を合わせても、数字上は3000人にとても届かないことです。せいぜい2000人ちょっとです。
当初の1500人の軍役を課せられた諸家では、1~2割程度人数を上乗せして出陣していますが、それを加算しても、3000人には届きません。

私は兵数の倍増をもたらした理由のひとつとして、これまで指摘されていない点があると思っています。それは新知や恩賞を目当てに参陣した下級武士たちが加わっているからだと思っています。断片的ですが、そのことを裏づけるのではないかと思われる史料的な根拠もあります。
この点については、琉球本島への侵攻あたりで書こうかと思っています。しかも、彼らの存在が琉球本島での掠奪・狼藉をひどくした一因ではないかと考えています。

次回は、先日訪問した徳之島での戦いや島民たちの動向について書いてみたいと思います。

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【2009/05/11 22:30】 | さつま人国誌
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ばんない
連載拝見しましたが、いよいよ山にかかってきたという感じですね。また、前回までこちらのコラムで話題になっていた話を更に深く解説して下さったような内容で興味深く読みました。

>「琉球入ノ記」には、副将の平田増宗が樺山に加勢を申し出たが、樺山は適当に追い払うから必要ないと断わったという。
こちらのコラムを見ていたせいもあるのでしょうが、この一行をニヤニヤしながら読んでしまいました。この平田が後に暗殺されて、それに中村半次郎の先祖が関わっていると言う話があって、「さつま人国志」の最初のころに戻る…のですが、最初の頃の連載、webからは削除されてしまったんですね…。

Re: 削除されてますね
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

平田増宗はご存じのとおり、非業の最期を遂げたため、家の史料が残っていません。
彼が日記を書いていたら、上井覚兼日記に優るとも劣らない史料だったと思いますし、琉球侵攻についても何か記録を遺していたかもしれませんね。

拙コラム、私も改めて確認してみましたが、前半部分はもう載っていないようですね。
やはり100回を超えると、容量的に難しいのでしょうか。
あるいは、読みたかったら、刊本を読めということかもしれません(爆)。


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徳之島レポートのつづきです。

5月2日午前中、講演・シンポジウムの前に伊仙町の史跡めぐりをしました。

徳之島には、天城・徳之島・伊仙という3つの自治体(いずれも町)があります。
伊仙町は島の南端にある町で、闘牛と選挙で燃える町としても有名です。
それとは別に、いろいろな時代の史跡もありますので、訪れてみたいと思っていました。

徳之島町の中心街である亀津の町から南に海岸沿いに行きました。
まず、伊仙町の歴史民俗資料館に行き、戦艦大和関係とカムィヤキ関係の展示を見学。

近くの伊仙小学校に巨大なガジュマルの樹があるというので、立ち寄りました。
それは校庭の真ん中に鎮座ましましています。
横に広がっていて、大きな日陰になっています。
夏の暑い太陽から子どもたちを守ってくれそうです。
「この木何の木~」という某電機メーカーの歌が思わず口をついて出ました。
ガジュマル2
ガジュマル1







本道から右折して山道に入る。
カムィヤキ遺跡は近年、国指定史跡にもなりました。
平安時代末から鎌倉時代にかけて400年ほど続いた陶器窯跡です。
名称は「亀焼」を地元の言葉で発音したものです。
25年ほど前、工事中に偶然発見されました。
ヒラスク山の山腹にたくさんの窯跡があり、発掘済みです。
山一帯に繁茂しているリュウキュウマツの火力が強くて、窯の燃料になりました。
リュウキュウマツの群落ごとに窯があったようです。

山道を登っていく。途中、道の両側はサトウキビ畑で刈り入れが終わって、次の植え付け前だった。キビの根株などを焼いたあとが、いかにも焼畑のように見えます。
焼畑




すると、途中にかつてギネスブックにも登録された長寿世界一の泉重千代さんの銅像があってびっくり。
銅像の奧に窯跡がありました。あとで資料館でいただいた資料で確かめると、阿三亀焼支群に属する窯跡でした。
丘陵の山腹に横穴を掘って、登り窯を築いたのでしょう。
重千代
カムィヤキ





カムィヤキは南九州から奄美、沖縄、先島諸島まで広く分布しています。
琉球王朝(尚氏王統)に先行する広域文化圏。中世初期に、徳之島を中心として南九州から西南諸島一帯で交易が盛んだったことを物語っています。朝鮮半島や大陸とも関係があったようです。
資料館でカムィヤキの実物を見ましたが、須恵器にそっくりで、朝鮮の影響も見られるということです。

その後、本道に戻り、鹿浦小学校に行く。
地図で見たら、その傍らに奉安殿があると記されていたからである。
奉安殿といっても、若い人はわからないでしょうが(私も戦後生まれですから知りません)、戦前・戦中、教育勅語とともに皇民化教育を推進する有力な手段となった。現在はほとんど残っていないといわれている。
建物の中に御真影(天皇・皇后の写真)が納めてあり、児童生徒は朝礼など機会あるごとに拝礼させられた。
奄美の加計呂麻島にも残っていると聞いていたが、実物は見られなかった。
ここで初めて見た。堅牢なコンクリート製である。
側面に穴が空いている。どうも戦争中、米軍機の機銃掃射の痕跡らしい。
天皇制国家から決して恩恵を受けたとは言い難い奄美諸島に奉安殿が残っているのも、歴史の皮肉かもしれない。ともあれ、歴史遺産として残していく意義はあると思う。
奉安殿






空港方面に向かう本道から海岸沿いの脇道に入る。
その先に犬田布岬(いぬたぶ~)があるが、その途中に犬田布一揆の石碑があるのを知っていたので、立ち寄りました。
幕末に起きた百姓一揆です。薩摩藩領での数少ない百姓一揆。もっと知られてよいですね。詳しくはここを参照して下さい。
この日の午後のシンポジウムで、原口泉氏が「犬田布騒動」ではなく、島民は誇りをもって「犬田布一揆」と呼んではどうかという趣旨のコメントがあった。
たしかに「~騒動」ではよそ事のようで主体性も感じられませんから、「~一揆」と明確に定義したほうがいいという気がします。
犬田布一揆






そして犬田布岬には戦艦大和の慰霊塔が立っています。
大和のマストをかたどったものとか。
大和は徳之島沖というより、その北方海域(坊ノ岬沖とも)で沈没しました。
毎年4月、ここで慰霊祭が開かれているようです。
この日訪れた史跡で、もっとも観光客らしき人が多かったです。
岬の横に大きな断崖があります。
名前がわからないのですが、ミヤトバル海岸というのはこれのことか?
宮古島にある有名なムイガーの断崖にそっくりです。
岬は芝が植わっていて歩きやすい。
ちらほらと盛りを過ぎかけているエラブユリが咲いていました。
大和慰霊塔
ミヤトバル海岸
エラブユリ






闘牛大会も書こうかと思いましたが、けっこうな分量になったのと、翌日のイベントだったので、次回まわしにします。

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【2009/05/08 21:09】 | 雑記
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道之島(奄美諸島)のひとつ、徳之島行きのレポートです。

今回の旅行の主な目的は、次の催し物に参加のためです。

【薩摩藩奄美琉球侵攻400年記念事業】
未来への道しるべ

5月2日午後1時半から、徳之島町の文化会館で開かれました。
収容人員は600名。前夜の打ち合わせ会では、主催者側としては半分集まるかと、かなり心配げでしたが、杞憂に終わりました。
立ち見も出るほどたくさんの島民が集まりました。
写真は開演直後のものですが、その後も参加者は増えて、もっと盛況でした。
満員の会場





今回の催しは、表題の趣旨のとおりだが、島津軍の琉球侵攻のなかで、もっとも激戦となった徳之島で開催されたことに意義があり、しかも、奄美・徳之島、琉球、薩摩の三者が集ったことである。

開演は創作舞踊の演舞から始まった。
徳之島の島民が島津軍を迎え撃った秋徳湊の戦いをテーマにしたものである。
創作舞踊





今回の来賓で、もっとも注目を浴びたのは、島津家第32代当主、島津修久(のぶひさ)氏が参加され、挨拶したことでしょう。何といっても、侵攻した側の直系子孫ですから。
ロータリークラブや茶道の裏千家の徳之島会員との交流を兼ねての来島で、挨拶されたときには、会場がどよめき、ストロボがあちこちでたかれました。

基調講演は、弓削政己氏(奄美郷土研究会)。
3月に奄美本島に行ったとき、弓削氏にはいろいろ教えていただき、有難かった。彼とは大学の学部・専攻の先輩・後輩でもある。
弓削氏





弓削氏の講演の中で興味深かったのは、
①徳之島の戦いについて、島津側の史料発掘により、従来の通説の修正が迫られていることがわかったこと。
②島津氏による奄美直轄支配に冊封体制の影響があること。
③奄美諸島の代官支配は少人数であり、それが可能になったのには、奄美の島役人(与人など)を郷士格取り立てによって体制内化したことであり、債務奴隷の家人(ヤンチュ)発生などとも合わせて、島津氏の支配システムを奄美内部の階層構造の変化と関連づけて分析することが不可欠であること。
④近世の黒糖収奪システムの特質として、とくに島民の窮乏化はモノカルチャー経済における著しい不等価交換に基づくものだったこと。たとえば、酒の値段は大坂市場の24倍とか、等々。

ほかにも、調所広郷と島津斉彬の施策の違いとか、明治初年の大島商社についての通説の誤りとか、なかなか面白かったが、時間の関係で、一字名字政策などは割愛されたのが残念だった。

シンポは旧知の吉満庄司氏(徳之島高校教諭、前黎明館学芸員)の司会で、5人のパネリストがそれぞれの立場と視点を述べ、会場からの質問に回答するという形で行われた。
シンポ演壇





シンポ終了後、近くのホテルで懇親会。
こちらも島外、島内からたくさん集まった。
楽しかったのは、何といっても余興である。琉球舞踊や徳之島の踊り、そして最後はみんなで踊った。島津修久さんも踊りの輪に加わっていた。
主催者代表の徳之島町長はアマチュアバンドでサックスを担当していて、その生演奏もあった。
バンド

琉球舞踊





パネリストで琉球側代表だった金城正篤・高良倉吉の琉球大学のお二人。とくに高良氏の著作はよく読んでいた。お二人が三線を弾きながら、楽しく唄ったのには、さすがウチナーの人たちだと感じ入った。
金城・高良





懇親会の二次会もあったが、少々疲れたので、先にホテルに帰った。
長くて濃い一日が過ぎていった。

次回は島内史跡めぐりと闘牛大会を書きます。

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【2009/05/06 23:14】 | 戦国島津
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電羊斎
はじめてコメントさせていただきます。
今回のイベントは本当に感慨深いものがあります。
特に島津さんの来訪は本当にうれしく思いました。

実は私の父も徳之島出身で、私自身は大阪育ちですが、小さなころから島の話を聞いたり、闘牛のビデオを見て育ちました。成長してからはおやじと二人で黒糖焼酎をちびりちびりやっていました。
徳之島は十数年前に一度訪れたきりですが、きれいな海や風景は忘れられません。

今は中国の大連に在住していますが、徳之島人、奄美人の一人として、島のみなさんの健闘を祈りたいと思います。

お疲れさまでした
tsubu
桐野先生、こんにちは。そして、おかえりなさい。
徳之島まで本当にお疲れさまでした。

徳之島での催し物は大変盛況だったようですね。
吉満さんのお名前なども拝見し、とても懐かしく感じました。(鹿児島では随分お世話になりましたので)
弓削政己氏の基調講演で話された、調所広郷と島津斉彬の施策の違いや明治初年の大島商社についての通説の誤り等、とても興味があるテーマですので私も聴きたかったです。

実は私自身奄美諸島には行ったことがなく(実は沖縄も行ったことがありません>_<)、宮崎に住んでいた頃に一度離島巡りをしたいと計画を立てていたのですが、未だ果たせずにおります。
いつも来年こそは! と思っているんですが……。
私事ばかりになりましたが、次回の島内史跡めぐりと闘牛大会のレポを楽しみにしております。

「未来の~」行きたかったです。
中村太郎
シンポジウム大盛況だったとのことで、喜んでおります。
実は、シンポジウム一週間前のお忙しい時に、吉満氏に徳之島島内を案内していただいたのです。
鹿児島では私がお世話になり、お会いしたのも二回だけのお付き合いなんですが。
出席できないので、会場と横幕だけ写真に撮り、チラシをもらって徳之島を離れました。(笑)

斉彬と調所
無名戦士
最近の研究では一般のイメージと違って実は調所よりも斉彬の時代になってからの方が搾取がきつくなっており、西郷も士族の為には他へ犠牲が及ぶことを黙認している資料が出たりしています。しかし砂糖惣買入制を厳しくシステム化するための三島方という役所を作り徹底した管理体制を敷いた調所が、その気になればいくらでも厳しくできる制度を構築したわけで、免罪にはならないと考えます。

大連
桐野作人
電羊斎さん、こんばんは。

大連からのコメント有難うございます。
御父様が徳之島のご出身なのですね。
思い入れもひとしおのことと存じます。

私も大連には行ったことがあります。
中心街のロータリーやヤマトホテルなども見た覚えが。
近くの旅順要塞跡も見学しました。


刊行
桐野作人
tsubuさん、お久しぶりです。

tsubuさんのサイトはとても充実していますから、奄美にも行かれたとばかり思っていました。
吉満さんが異動する前に行かれたほうがいいかも。

講演会とシンポはあとで本にまとめられるそうです。
共催の沖縄大学地域研究所から刊行だと思います。
私も少し書くように言われています(笑)。

よかったですね
桐野作人
中村太郎さん、こんばんは。

吉満さんに島内を案内してもらったようですか。
それは頼もしかったことでしょう。

もしかしたら、どこかでお会いするかもしれませんね。

調所と斉彬
桐野作人
無名戦士さん、はじめまして。

弓削さんも斉彬時代のほうが調所広郷の時代より収奪が激しかったといわれていますね。斉彬の評価も再検討すべきで、「明君」像だけで語るのは一面的だと個人的には思っています。

たしかに三島方のシステムをつくったのは調所ですし、いわゆる天保の財政改革が三島の犠牲の上に成り立っているのも事実だと思います。

ただ、ここでは「免罪」云々の評価はしておりません。念のため、申し添えておきます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第106回
―島津軍船、山川湊に集結―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、渡海する島津軍の編成の特徴と、出航時の様子などを書いてみました。
ひとつ疑問なのは、渡海前年の9月、島津家久が定めた掟書では、渡海軍の総数は1.500人でした。ところが、実際は3.000人が渡海しています。

総大将の樺山久高は課せられた軍役より1、2割増しの兵員を動員しています。また、南下途中で種子島氏や七島衆(トカラ列島)なども加わっていますが、それを含めても倍増まではいかないと思います。
考えられるのは、一所衆(外様門閥家)の肝付兼篤が副将として新たに加わっていることが確認できるので、一所衆の何家かの参陣があったとすれば、数が合うかもしれませんが、それでも具体的な数字は不明です。

あと、島津家中が「三殿」(義久・義弘・家久)ごとに家臣団が別々に編成されていることのよそよそしさを反映した逸話として、「新納忠元勲功記」の記事があります。
それによれば、総大将樺山以下主だった武将たちが祇園洲から出航するとき、惜別の宴が張られたようです。そのとき、総大将の樺山が遠慮して、副将ながら年長の平田増宗に主座を譲ったところ、老将新納忠元が、樺山に「あなたが年少でも総大将なのだから、真ん中に坐られよ」と、わざわざ樺山を主座に坐らせたという一件です。

国分方(義久)と鹿児島方(家久)の間の微妙な関係を表していて、とても面白い逸話なのですが、残念ながら、今回採用しませんでした。
なぜなら、樺山の方が平田より6歳年長だからです。

でも、この勲功記は比較的正確な史料ですから、わざわざ書いたのには何らかの理由があるかもしれません。考えられるとしたら、国分方の老中のほうが鹿児島方や加治木方(義弘)の老中より、格式が高かったのかもしれません。だから、樺山が年少の平田に気を遣ったのかもしれないですね。

今回使った写真は鹿児島市の春日神社の境内にある水軍港跡の石碑です。
3月の鹿児島取材の折、撮影したものです。岩剣石塁さんにはお世話になりました。
春日神社のある場所はやや内陸で、稲荷川からも少し離れていますが、それでも、戸柱橋には近いので、石碑はこの神社に建てられたのかもしれません。

次回は、島津軍と奄美方との戦闘を書く予定です。

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【2009/05/04 19:50】 | さつま人国誌
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ばんない
こんにちは。先日は込み入った質問に御回答下さり誠にありがとうございました。

今回の指摘で初めて気が付いたのですが、確かに平田増宗の方が樺山久高より年下ですね…(『本藩人物誌』参照)。ちょっと意外でした。

琉球侵攻の派兵は、なんやかんやドタバタしながらも家久(忠恒)の予想以上の兵が集まったんですね。たしかこの6年後の大坂の陣ではうまく集まらずに派兵に至れなかったようですが。この両戦争の間に何か差でもあったんでしょうか。

モチベーションの違い?
桐野作人
ばんないさん、こんにちは。

琉球出兵の兵数が増えたのは、やはり所領獲得と掠奪のうまみがあったからではないでしょうか。

その点、大坂の陣は所領獲得が望めませんしね。
夏の陣は、外様大名は出陣免除ですし、冬の陣も形だけの出陣でよかったはずです。

海岸線
岩剣石塁
 江戸時代前期の海岸線は、今の石橋公園~祇園之洲公園
ラインよりさらに陸地側の、10号線側や日豊本線付近
だったのではないでしょうか?
http://kokomail.mapfan.com/receivew.cgi?MAP=E130.34.15.3N31.36.5.0&ZM=11&CI=R
 あの時U氏もおっしゃっていましたが、昔の稲荷川は、
今の稲荷川の水位より高かったらしいです。
滑川も以前そうだとおっしゃっていました。
 そうすると、春日神社の場所でも実際に水軍基地が
あった可能性が出てきます。
 U氏から稲荷川河口へ先生をお連れしようという
提案がありましたが、後のお約束の時間もありましたし、
あの大雨でしたので、実現できず、心残りでした。

現金
ばんない
こんばんは。即答ありがとうございました。
やっぱりそうでしょうね…なんとなく予想してはいましたが…その範囲内でした(トホホ)。略奪はともかくとして、所領獲得はどうなったのでしょう。それは今後の連載の中で触れられることになるのでしょうか。

大坂の陣は出陣免除だったんですか?山本博文氏の『島津義弘の賭け』では動員が遅れたことから家康には謀反の疑いはかけられ、細川氏には監視されると、まあさんざんな書きようだったのでそう思いこんでいたのですが。違ったのですね。御回答ありがとうございました。

春日神社と稲荷川
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

当時、稲荷川の水位が高いというか、川幅が広かったというのはありえたかもしれませんね。そうであれば、春日神社は稲荷川沿いに立地していたかもしれません。
そもそも、祇園洲は稲荷川河口に自然に形成された中州だと思うのですが、幕末までに埋め立てが進んだと思われ、当時と比べてだいぶ姿を変えているかもしれませんね。

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徳之島から今夕帰京しました。

NHK大河ドラマ「天地人」第18回「義の戦士たち」を観ました。
今さら感想を書くのも何なのですが、看過できない点があったもので。

どうなんでしょうか、何回も出てきた魚津城攻めのCG。
決して出来がいいとは思えないものを何度もやる必然性が感じられませんが。
その分の経費を実写の戦闘シーンに回してもよかったのでは。
魚津城の孤立無援ぶりは実写でも表現できると思うのですが。

家老の兼続が単身、織田軍に包囲されている魚津城に使者となるなんて、論外ですね。もちろん、史実ではありません。
老将吉江に「立場を弁えろ」と叱られていましたが、それなら、そんな軽はずみな行動をとるなと叱るべきでしょうに。もし織田軍に見つかって死んだらどうするんでしょう(笑)。
また、魚津籠城の諸将が、自分も残ると言い出した兼続に「情に流されてどうするのだ」と叱っておりましたが、その彼らも降伏せよという景勝の上意に従わず、越後武士の意地を通すと言っておりましたが、これも主君の命に従わない感情論ではないんですかね。
相変わらず、ツッコミどころ満載の脚本です。

兼続が景勝との密談で、越中に出ると見せかけ、北信の織田軍を越後領内に引き入れてから、反転して叩くという「秘策」を決めていましたが、上杉軍にそんな器用な作戦ができるとはとても思えません。
一応、魚津城が落ちると、遠からず境目を突破されてしまうので、景勝は救援に向かわざるをえなかったというのが真相に近く、天神山に滞陣しているとき、北信から森長可の侵入を知らされて、春日山城防衛のために撤退したと見るべきでしょう。このとき、北信に景勝・兼続が出陣した形跡は見られません。実際、北信に出陣したのは信長死後の6月中旬頃ですね。


それより、一番奇異だったのは、備中高松城を水攻めしている秀吉が信長に宛てた書状です。
包紙の宛所がな、なんと、

織田殿

となっておりましたぞ。
これは謙信や信玄など同格の大名の書き方で、家臣の秀吉が書けるものではありません。
何より、秀吉は「上様」である信長に直接書状を出せません。それは主従関係の鉄則といってよい常識です。
もし信長に書状で何か伝えたいとしたら、その側近に宛てます。
このときも実際は、菅屋長頼に宛てたといわれています(『甫庵太閤記』)。

自分が謙信か信玄になったかのように傲岸不遜に振る舞う秀吉がどうして「可愛い奴」なんですかね? 信長って、そんなに寛容でしたっけ?
いやはや、このあたりは書札礼の基本だと思うのですが、目配りが足りませんね。当時の身分秩序や身分意識は丁寧に描いてほしいものです。

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【2009/05/03 23:28】 | 天地人
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お、織田殿・・・
御座候
「披露」だの書札礼などという専門知識がなくても、「織田殿」はあり得ないと脚本家は考えないんですかね?

書状ではなくセリフで用いてみたら、その奇異さに思い至るはずです。

まあ兼続と信長がテーブルを挟んで向かい合って椅子に座っているシーンを描くぐらいですから、不自然とは感じないのかもしれませんが・・・「刀を差した現代劇」ぶりが著しいですね。

様と殿
桐野作人
御座候さん、こんばんは。

仰せの通りで、専門知識はなくても疑問を感じるはずですがねえ。
「上様」とか「上」とでも書いてあったら、まだしもだと思いますが……。

昨今、ある市民がお役所から送られてくる文書類の宛名が「○○様」となっているのはけしからん、「○○殿」とせよと怒ったとかいうエピソードがありますが、現代日本人の感覚として、「様」より「殿」が格上という通念的誤解があることが、斯様な現象を生じさせているのかなという気もしました。
だとすれば、文字どおり、現代的な解釈なんでしょうね(笑)。


じろー三郎
初めまして。いつも拝見させていただいております。
誰も「これおかしいだろ」って気づかなかったんでしょうか。さすがにこれは、細かい考証ミスとは言えない気がします。そもそもが、ラストで取り上げられた魚津の諸将が決死の覚悟を披瀝した書状も兼続宛で、その旨を景勝に披露するように頼んでいるのに・・・・・

考証ミス?
桐野作人
じろー三郎さん、こんばんは。

例の「織田殿」宛て秀吉書状のお粗末ですが、そこまで時代考証の責任ではないのではという気もします。
制作側が単なる美術のアイテムとして勝手に作り、時代考証の先生が関知していなかったかもしれませんしね。

もっとも、時代考証の先生によって、脚本をどの程度チェックするか、精粗があるようにも感じます。
今年は昨年よりも粗っぽいことはたしかだと思いますが。

兼続宛て書状の件はご指摘のとおりだと思います。
魚津籠城衆は主君景勝に直接書状を出せないことは、これからも明らかですね。
そこから、類推すれば、さほど難しくないというのもそのとおりです。
今年のドラマは、とくに軍事や合戦に関して、現代人の素人感覚で製作している印象が拭いきれません。

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朝5時起き、羽田から鹿児島経由で、お昼頃、徳之島空港に着陸。
鹿児島からの便はプロペラ機かと思ったら、150人は乗れるジェット機だった。
しかも、満員。どうやら3日の闘牛大会に合わせて帰省する人が多いらしい。

徳之島空港は島の西北、天城町にあり、ホテルとシンポ会場は反対の東南の徳之島町にある。
町役場の課長さんに出迎えていただき、ホテルまで運んでもらった。約40分の道のり。
空港で名前の紙を出して待っていますという留守電が入っていたが、着いてみると、長さ5メートルくらいの紙に名前が大書してあって、恥ずかしいやら冷や汗が出るやら。

じつをいうと、徳之島は初めてです。
先月訪問した奄美も初めてでした。
昨夏は種子島を訪れており、最近、南づいています。
こちらに来ると、例外なく開放的になるというか、血が騒ぎますね。
遺伝子的には、こちらに先祖がいたのかもしれません。
島の西側と東側では海の景観が少し違う。
東側=太平洋側に珊瑚礁が多い。
同じ島でも風土や自然の多様性を感じる。

最初に撮影した写真がこれ。
昭和の有名な横綱、朝潮太郎(初代)の銅像というのが何とも。
横綱はこちらの出身でした。
背後の山は井之川岳。
徳之島一の高峰(標高645メートル)です。
朝潮太郎






ホテルに行く途中、亀徳の港に寄ってもらう。
ここが400年前、島津軍と現地島民との間で激戦が展開された秋徳湊である。
近年、大きな案内板が立てられた。
戦いの様子は、案内板をご覧下さい。この戦いが明日のシンポのテーマの一つです。
地名が秋徳から亀徳に変わったのは、奄美に同名の地名があったので、混同を避けるためと、懇親会で教えてもらった。こういう情報は現地でないと、なかなかわからないから、有難い。
秋徳




すぐ近くの高台に秋津神社があるというので、連れて行ってもらった。
現在の亀徳はだいぶ埋め立てられていて、当時はこの神社の下あたりまでが湊だったという。
そして、この神社のあたりに琉球王朝の役所があったという。
もちろん、現在は何の痕跡もない。
秋津神社




徳之島の歴史は恥ずかしながら、ほとんど知らないが、第二次大戦関連の史跡も多い。
一番有名なのが戦艦大和の慰霊碑。
大和は徳之島沖で沈没した。慰霊碑から沈没地点あたりが見えるそうである。
御真影を奉じた奉安殿も残っているそうで驚く。
先月、奄美本島南の加計呂麻島に行ったときも奉安殿が残っていると聞いた。
ほかにも沖永良部島に流される西郷吉之助が一時上陸した史跡もある。

滞在中、これらの史跡が回れるかどうか。

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【2009/05/01 22:08】 | 戦国島津
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いよいよ明日なんですね。
中村太郎
こんばんは。ご無沙汰しております。
4/25~27に徳之島を訪問してきました。
その折、シンポジウムに桐野氏がいらっしゃることを、コーディネーターのY氏からお聞きしました。
Y氏は桐野氏がいらっしゃることを、とても感謝していらっしゃいました。

徳之島(というか、鹿児島の離島へ行ったのは初めてでしたが)は、どこも、とても素晴らしかったです。
桐野氏もいろいろ見学できるとよろしいのですが。

戦艦大和について詳しくないのですが、沈没地点は「徳之島沖」というより、今では「坊の岬沖」というのではないでしょうか。

え、えっ
桐野作人
中村太郎さん、こんばんは。

私より少し前に徳之島に行かれたのですか?
もう、びっくりです。
Y氏にもお会いになったとは……。

はて、中村太郎さんは私の存じ上げている方でしょうか?
もしかして沖永良部島や喜界島にも足を伸ばされたとか。

大和の沈没地点は坊ノ岬沖としているみたいですね。
有難うございます。


ボケてまして、すみません。
中村太郎
旅行ボケが治っていないうえに、連休ボケも重なりまして、失礼いたしました。
「ご無沙汰」は言葉が足りませんで、「コメントが久し振りです。」の意味です。
残念ながら、桐野さまのお姿も「生」で拝見したことはございません。
紛らわしい書き方をいたしまして、誠に申し訳ございませんでした。
しかも2日なのに、1日と勘違いして「明日」などと書き込みしております。本当に失礼申し上げましたが、お許し下さい。
沖永良部島などへは、今回行けませんでしたが、いつか行きたいと思っております。
徳之島の翌日は大口・高熊山などを見学しましたが、帰り道の薩摩永野で西郷菊次郎頌徳碑を、偶然見つけまして、びっくりしました。

大和沈没地点
岩剣石塁
http://waiwai.map.yahoo.co.jp/map?mid=7pPwyd3Em92WodMX.X3tQn4o9bM8_2cCqu4-

 大和沈没地点につきましては、長崎県男女群島の地名が出てくる事もありますね。地図上で見てみると、ここらしいです。
 いろんな方が沈没地点を記されていて
いらっしゃいますが、同じ緯度経度であるのに
陸地名が諸説あるのがおもしろいですね。

見えませんでした
桐野作人
岩剣石塁さん、こんにちは。

サイトの紹介、有難うございます。
クリックしてみましたが、表示されませんでした。

縮尺
岩剣石塁
すみません。地図の縮尺を変えてみられてください(^^;)

見えました
桐野作人
岩剣石塁さん、こんばんは。

単純な操作をしないでいたようです。
ちゃんと見られました。

たしかに徳之島沖というより、坊ノ岬沖、あるいは五島列島沖といったほうがよいかもしれませんね。

徳之島の慰霊碑に行ったのですが、大きな慰霊の塔が立っているはるか向こうが沈没地点かと思ったのですが、少しずれているかもしれません。

同じ便
4パパ
僕ら夫婦も同じ便で徳之島へ上陸しました。

子供4人連れていたんで もう疲れましたわ。

高熊山
桐野作人
中村太郎さん、こんにちは。

もしかしたらと思っていましたが、お会いしたことはないのですね。
ハンドル名は桐野利秋の従者か、大久保利通の御者か、どちらからか取られたのでしょうね。察するところ、前者か。

高熊山は、私も20年くらい前に取材で行ったことがあります。大河ドラマ「翔ぶが如く」のときでした。
大きな岩にたくさんの弾痕があったのを覚えています。きっとこれもご覧になったようですね。辺見十郎太の石碑があったように記憶しています。
もっとも、ここで一番奮戦したのは熊本隊で、隊長池辺吉十郎などは、薩軍は我らを弾よけに使っていると、辺見の用兵に怒り心頭ですが(笑)。

地元紙によれば、桐野利秋の映画「半次郎」のスタッフも同所にロケハンに行ったようですね。主演の榎木氏の実家の近くですしね。

おお
桐野作人
4パパ さん、はじめまして。

徳之島のご出身でしょうか?
その後、シンポ会場の文化会館か、闘牛会場の東目手久でもすれ違ったかもしれませんね。

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