歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

南日本新聞連載「さつま人国誌」第113回
―尚寧王、苦難の大和抑留―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、首里城占領後の尚寧王について書きました。
大和に連行され、薩摩→駿府→江戸と、あちこち引き回されます。

徳川幕府からは異国の王として遇されますが、その実態は、琉球が島津氏の領国に組み入れられたばかりか、奄美諸島は島津氏に割譲させられるなど、屈辱的なものでした。
尚寧王の無念さが察せられます。

なお、分量の関係で書けませんでしたが、三司官の一人、謝名親方の動向は興味深いですね。
謝名は福建人の血を引き、明国にも留学したことがあることから、親明派であり、対島津強硬派でもありました。ですから、島津軍の侵攻に対しては、主戦派として戦い、捕虜になってしまいます。
謝名の名は薩摩でも有名だったようで、「喜安日記」によれば、色の黒い6尺の大男で、謝名を見ようと見物人が押しかけたといいます。
もっとも、薩摩側から見たら、謝名は悪名として残っており、それは史料での表記にも示されています。たとえば、

琉球入ノ記:「虫+也」那
西藩野史:蛇名


という具合で、謝名の名前に「蛇」の付く字を当てています。
蛇が何を表象するかは明らかですから、島津側は謝名を「琉球征伐」に反抗した悪逆の人物と位置づけているわけですね。

薩摩に連行された謝名ですが、それでもまだ島津氏に抵抗する気概を失っていませんでした。
謝名は尚寧王主従とは別に、城下に監禁されたようです。「琉球入ノ記」には城下の下納屋町の桶屋折田嘉兵衛宅に押し込められたとあります。
その謝名はひそかに「反間」の密書を長崎の唐人に預けました。その内容は不明ですが、島津氏の琉球侵略の様子を詳細に書いたものではなかったかと推定されています。あるいは明軍の琉球来航を要請していたかもしれません。
監禁状態の謝名になぜそのようなことが可能だったのかよくわかりませんが、謝名がまだ抵抗精神を失っていなかったことはたしかです。

「反間」の密書が島津方にも知られると、島津家久は先手を打つべく、尚寧王の弟具志上王子尚宏らに急遽、帰国を命じ、謝名の密書が明側に渡らないよう手配させました。結果として、明側に渡るのを阻止したようです。

その後、尚寧王の帰国に際して、琉球王府側は島津側から起請文を強制されます(『旧記雑録後編四』862号)。それは、

①琉球が往古から島津氏の「附庸」(属国)であったこと
②豊臣秀吉の軍令に従わなかったから、島津氏の征伐を招いたのであり、その非は琉球側にあること
③帰国を許されたうえ、知行を与えられることは家久公の「御厚恩」であること

この3カ条を認めよという屈辱的な条件でした。
尚寧王はじめ、王族・三司官や廷臣たちはしかたなく、これに署名しましたが、謝名だけは頑として署名を拒否し、ついに斬首されてしまいます。

謝名の評価は現在の沖縄でも難しい面があるようですが、個人的には、筋を通した愛国者ではないかと思います。

一方、島津方が琉球側に強制した起請文が、その後既成事実化し、それが島津家の正史にまで反映しました。さらにいえば、そうした歴史観が鹿児島にはいまなお残っているように思います。
歴史は勝者のそれであることを痛感させられます。

ところで、謝名はどこで処刑され、その墓はどこにあるのでしょうか?
先日、徳之島に行ったとき、同島に謝名の供養墓があると仄聞しましたが……。
もし何かご存じの方がおいでなら、ご教示のほどを。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

スポンサーサイト

【2009/06/29 12:21】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
歴史読本8月号が発売になったようです。

今回は連載20回目で、

姉川合戦の実態を探る

と題して書きました。

合戦の具体相、たとえば、真柄十郎左衛門の奮戦と最期とか、徳川勢の活躍とかはまったく書いていません(笑)。

その代わり、この合戦がなぜ起こったのかという点についてこだわって書いてみました。

藤本正行、河合秀郎、太田浩司の諸氏の先行研究も大いに参考にさせてもらいました。
信長の顔面受けなのか、信長の巧妙な罠なのか、あるいは浅井・朝倉両軍の奇襲なのか、まことに興味深いですね。

従来よりは少し変わった分析をしたかなと思っています。

興味のある方は読んでみて下さい。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/26 16:38】 | 信長
トラックバック(0) |

管理人のみ閲覧できます
-


アドレスを
桐野
管理人しか見られないコメントを寄せられた方

できれば、お返事をしたいので、アドレスをお教え願えたら幸いです。
返事不要ということであれば、そのままでかまいません。

初めまして!
澤田
桐野さまは説明不要に存じ上げております。

谷口さんを検索してHITしました。
谷口克広さんは誠実な方で、明智光秀と「消えた信長の家臣たち」を読みました。
その中で桐野さんの光秀に関する視点を分析されてましたよ。

「姉川の合戦」のこの呼称は徳川が付けた呼称であって織田、浅井、朝倉では呼び方が違うんですよね。
実相は織田軍が大勝したのではなく負けたのではないかと言われてますね。とっても興味深いです。

管理人のみ閲覧できます
-


姉川合戦の呼び名
桐野
澤田さん、はじめまして。

ご紹介の谷口克広さんの著作は読んでおりますので、大丈夫です。

姉川合戦はたしかに立場によって呼び方が違いますね。

浅井・朝倉方は野村合戦とか、辰鼻表合戦とか呼んでいますね。
ただ、織田軍が負けたというのはどうでしょうか?
十三段の陣立てのうち、十一段まで破られたというのは『浅井三代記』の記事ですから、にわかに信じられませんね。
最初、信長の馬廻と美濃三人衆だけで戦っていた時期はほぼ互角の戦いだったかもしれませんが、その後、横山城を囲んでいた諸将の軍勢が戦場に駆けつけてから、浅井・朝倉方は敗走したと思いますよ。
最後まで戦場に残ったのは、織田・徳川軍ですし、横山城だけでなく、佐和山城まで攻略しましたからね。
勝敗のほどは明らかだと思います。

情報、ご意見有難うございました。

コメントを閉じる▲
ネットでも見られるようです。

ここです。

私のコメント、少しニュアンスが違っていますが(笑)。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/25 22:36】 | 幕末維新
トラックバック(0) |

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
に、小松帯刀の京都邸についての記事が出る予定です。

小生のコメントも載る予定。

関西方面の方、よかったら読んで下さいませ。
全国版ではないので、他地域の方には悪しからず。

もっとも、掲載日変更や記事不掲載などがないとも限りません。
その際はお許しを。

【追記】
すみません。本日朝刊ではなく、夕刊掲載だそうです。
朝刊を買われた方、すみません。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/24 23:32】 | 幕末維新
トラックバック(0) |
うっかりしてました。
先週16日(火)で、小学館アカデミー「てらこや」の講座第6クールが終了しました。

最終回は、四侯会議の最終段階と結末をやりました。やはり越前藩の史料『続再夢紀事』がいちばん詳しいので、これを中心に見ていく。
とくに慶応3年(1867)5月23日から翌日にかけての朝議の経過が面白かった。これには、朝廷側から二条摂政はじめ、親王・摂関家・大臣・両役、幕府側から将軍慶喜はじめ、松平容保・同定敬と老中2人、それに四侯側からは松平春嶽だけが出席した。春嶽も当初欠席するといっていたが、慶喜からのたび重なる督促により、渋々参内した。

最終局面で面目躍如だったのは慶喜である。朝廷よりの沙汰書をもらうまでは帰らないと徹夜で粘り、ついに沙汰書を手に入れた。当面、慶喜が四侯を制したのである。

しかし、四侯側も勅許と勅命の違いにこだわり、大成委任論による幕府主導の勅許を否定し、あくまで朝廷主導の朝議に基づく勅命という形を実現したのは、その後の公議政体に発展する足がかりになったのではないかと思う。

また公家の間からも、重要な議題なので、惣参内すべきだという意見が出され、実際にそうなったようである。一時期の列参運動を想起させるが、二条摂政が参内を認めただけで、発言権はないと制止したために大きな動きにはならかった。

あとで、受講生の方から、『嵯峨実愛日記』を送っていただき、この惣参内を提案したのが、記主で議奏の正親町三条実愛だったことがわかる。
正親町三条はのちに討幕の密勅を作成した一人。このとき、薩摩藩と示し合わせたかどうか不明だが、明らかに慶喜をはじめとする幕府勢力を牽制する動きだろう。

一方、四侯の申し合わせをはぐらかした慶喜に対して、島津久光は抗議の意味で欠席戦術を採用した。薩摩藩は周旋活動に限界を感じはじめていた。
すでに四侯会議のうちに、江戸から登ってきた土佐藩討幕派の代表である乾退助(のち板垣~)をひそかに小松帯刀邸に招き入れて、討幕的な薩土盟約を結んでいた。

次クールは、2つの薩土盟約あたりから入り、薩摩藩討幕派の形成を中心に検討することになりそう。
興味のある方はおいで下さい。


再掲ですが、告知しておきます。

小学館アカデミー「てらこや」
特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」7月講座受講生募集中。


このシリーズも第7クールに突入。全5回です。
時期は慶応3年(1867)半ば、四侯会議の挫折から薩摩藩討幕派の形成へという重要な時期に入ります。
薩摩藩内の路線闘争、2つの薩土盟約、そして大政奉還へと進む時期を取り上げます。

主催者のサイトはここです。申込方法や問い合わせなど、確認できます。
ただし、まだ更新されていません。

日時:7/14,7/28,8/25,9/8,9/15の午後7時から
    原則として隔週開催ですが、今期はお盆を挟むため、多少変則的です。
最寄り駅:都営新宿線・半蔵門線「神保町」駅、JR「御茶の水」「水道橋」駅
    地図はここにあります。

東京、関東方面で関心のある方は受講してみませんか。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/24 19:28】 | てらこや
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第112回
―尚寧王の降伏と「無人衆」―

先週は休載でしたが、本日付で連載が更新されました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただければ、ご覧になれます。

今回は、いよいよ琉球王朝の尚寧王の降伏です。
島津軍が首里城を占領したわけですが、それまで今帰仁から那覇、首里城周辺では放火や略奪が横行していましたが、首里城中に関しては意外にも秩序が守られました。

兵士たちの略奪を許さず、あくまで王府の財宝を一括して島津軍で没収してしまうために、目録を作成するなど、丁寧な作業が行われました。
城に出入りする者は身体検査までされる厳重さでした。
考えてみれば、首里城の財宝略取こそ、この侵攻の最大の目的だったのかもしれません。
「琉球渡海日々記」は没収した財宝を「薩摩御物」と表現しています。
薩摩人が見たこともないような唐物など、眩いばかりの財宝が大量にあったはずで、おそらくいまも鹿児島のどこかにその一部が伝来・保存されているかもしれません。

もし現存するのなら、400年を機に沖縄県に返還すれば、恩讐を超えて薩琉の和解の一歩になるかもしれませんが、いかがでしょうか?

ところで、分量の関係で記事に書けなかったことを補足します。
今回のキーワードである「無人衆」についてです。
これは、島津軍が渡海する直前、島津家久・惟新(義弘)・龍伯(義久)の三人連署による「琉球渡海之軍衆法度之条々」に出てくる言葉です(『旧記雑録後編四』544号)。その第8条に、

一、相働くべき時、海陸共に惣人数を待ち合わせず、無人衆にて先懸りいたすまじき事

とあります。

無人衆」って何だと、最初思ったのですが、「先懸り」(あるいは「先懸け」)するなと書かれているところを見ると、雑兵や足軽の類だと推測されますが、島津氏の軍制や家臣団編成に即して考えると、「無足衆」が該当するのではないかと思われます。
無足衆」については、記事に書いたとおりです。
無足衆」は知行高が低いために、遠征となると、兵糧自弁に耐えきれません。そのため、一定期間以上の出征になれば、大名蔵入から給付するという軍令が出されています。たとえば、天正4年(1576)の日向高原城攻めや同11年の肥後攻めなどです。

ただ、「無足衆」も知行地五反を境に、五反以上と以下とで軍役や処遇の差がありました。
たとえば、五反に付き、「武用」に役立つ家子・郎党一人を養うことを義務づけています。
となると、五反未満の「無足衆」は従者が一人もおらず、自分だけで従軍することになります。
無人衆」とはまさにそのことで、従者(家子・郎党)が「無人」であることを意味するのではないかと思った次第。

また「無足衆」といえども、手火矢すなわち鉄炮(六匁玉以上)を携行することが義務づけられています。ですから、「足軽衆」が鉄炮を放ちながら、あちこちに放火して回ったという記事は、五反未満の「無足衆」の仕業だと考えられます。

また以前、ブログで島津軍の渡海人数が当初の1500人から3000人に倍増したのはなぜかという疑問を書いたことがありました。ここです。

その回答こそ、「無足衆」の参陣だろうと思っています。
一所衆の参陣だけでは人数が足らないからです。
無足衆」はおそらく志願兵であり、数百人から千人近い人数がいたものと思われます。
彼らの暴走を防ぐため、わざわざ法度で軍紀厳守を定めたのでしょうが、何の役にも立たなかったようです。

次回は、尚寧王の大和連行とその後の琉球・奄美の仕置について書きます。
そろそろ、このテーマも終わりが見えてきました。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/22 13:23】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


ばんない
こんにちは。つらつらと感じたことを。

>「琉球渡海日々記」は没収した財宝を「薩摩御物」と表現しています。
(中略)
>もし現存するのなら、400年を機に沖縄県に返還すれば、恩讐を超えて薩琉の和解の一歩になるかもしれませんが、いかがでしょうか?
廃仏毀釈でのあの有様を見ていると、鹿児島にある可能性は期待薄だと思いました。その後西南戦争もありましたしね。でも案外と東京辺りのコレクターが持っていそうな感じもしますが。

>「無足衆」
>彼らの暴走を防ぐため、わざわざ法度で軍紀厳守を定めたのでしょうが、何の役にも立たなかったようです。
前回から「(島津)家久が(軍記厳守を命ずる)法度を何度も出した」と言う記述が出ていますが、当の家久自体が、自軍がその法規を守れる可能性をどれくらい信じていたんだろうか?という疑問はあります。朝鮮半島での日本勢の軍紀が乱れていたのを自分の目で見ているはずですし。

軍紀と家久
桐野
ばんないさん、こんにちは。

琉球王朝の財宝は量が膨大なだけに、残っている可能性はあると思うんですけどね。黎明館や尚古集成館なんかどうなんでしょうか?
また廃仏毀釈の対象になるとも思えません。戦災や火災の可能性はありますね。

島津氏については、中納言家久と同名の中務大輔家久は豊後府内のキリシタン施設を徹底的に破壊したという「前科」がありますしねえ。朝鮮半島でも相当の狼藉があったと思います。

ただ、家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実です。



”薩摩御物”
ばんない
こんばんは。コメントへの返答ありがとうございます。

”薩摩御物”の行方なんですが、尚古集成館の公式HPにこう書いてあるのが気になります
「島津家に伝わっていた古文書以外の美術品や工芸品などの資料も、厖大な数にのぼると推測されますが、やはり、人災・天災などで失われた資料も少なくありません。さらに、昭和3年に東京美術倶楽部で行われた公爵島津家蔵品の売り立てによって多くの資料が全国各地に散逸してしまいました。」
http://www.shuseikan.jp/shuseikan/shuShimadzu.htm
この昭和3年売り立て会の目録は現在所有しているので見たのですが、パッと見た感じ沖縄産とおぼしき物品は皆無でした。ただ何点か中国の書画があるのでそのうちの何点かが”薩摩御物”だった可能性はあるかと思いますが。
琉球王朝の研究(特に文化面)ははっきり言って島津氏に関する物より進んでそうな印象がありますので、”薩摩御物”に関してもすでに先行研究がありそうにも思いますが…。
あとは歴代当主が亡くなるたびにその遺品として寺社に寄贈されて、廃仏毀釈の時にともに消滅、というパターンかな、と考えました。

ところで、先行研究とも関わる話かと思うのですが”薩摩御物”の目録は存在しているのでしょうか?寡聞にしてみたことがないのですが…。

蛇足ですが
>家久が侵攻後、軍紀を守った家臣をわざわざ嘉賞しているのは事実
当然人道的な物ではなくて、自分の命令を聞いたかどうかで褒賞の基準となったと考えられますが、無足衆を押さえられなかった?と桐野さんのコラムでさんざん指摘されている樺山久高のその後の扱いとも関係があるのか気になるところです。



とらひこ
こんにちは。無足衆の話、大変興味深く拝読させていただきました。これまでの研究でも指摘されていなかった新しい知見だと思います。僕も恥ずかしながら「無人衆」という語句にまったく注目していませんでした。侵攻軍の規定人数と実際の人数のギャップについての長年の疑問が氷解しました。

首里城から略奪された宝物ですが、薩摩経由で徳川家に流れたものは確認されています。たとえば徳川美術館蔵の「花鳥七宝繋文密陀絵沈金御供飯」は、島津軍が首里城で略奪し、後に家康へ献上した品であった可能性がきわめて高いとのことです。

御供飯についてはこちらをご参照ください。
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-31401-storytopic-6.html

鹿児島での琉球の宝物も見つかるといいですね。実は加世田の資料館に所蔵されている島津忠良の使用品のなかに琉球漆器の椀があるのですが、地元の方はそれが琉球製だと誰も気づいてませんでした。こうした事例がまだまだあるのではないかと思っています。



薩摩御物の目録?
桐野
ばんばいさん、こんにちは。

目録は見たことありませんね。
かなり綿密に作ったはずですが、どうしたことでしょう。

軍令を守った連中ですが、伊地知季安の『南聘紀考』に次のようにあります。

「此役将士頗る律令を犯す、ただ本田親政・市来家繁よく其の令を守る、故にこれを褒賞す」

樺山については、「薩摩御物」をあれだけ持ち帰れば、覚書違反はチャラになったのではないでしょうか。少なくとも罰せられてはいないはずです。


無人衆
桐野
とらひこさん、こんにちは。

琉球史のご専門の方からわざわざコメントいただき恐縮です。

「薩摩御物」はやはり徳川家には残っているのですね。
加世田の資料館にある琉球漆器は、以前、とらひこさんの新聞記事で拝読しました。
日新斎忠良の頃だとすれば、1609年のときではないですね。
でも、由来がわからなくなっているものを含めて、鹿児島にはまだ残っているような気もします。

「無人衆」については、まだ思いつきですので、あまり持ち上げないで下さいませ。
ある特定の集団を指す言葉ではなくて、まず「人」と「足」で用語が違いますし、単に人数が少ないという意味かも知れず(それでも法度の意味は通るような)、まだまだ裏付けをとる必要があります。

いずれにしろ、島津軍が1500人→3000人となった事情が探れたらいいですね。
参戦した門閥層の家譜や書上などをもっと調べたほうがいいかもしれませんね。


ばんない
こんにちは。ばんばいです(爆)冗談です。
”薩摩御物”の目録みたいなもの、桐野さんでもご存じ無いですか…。それが分かれば四散した宝物の研究はもっと進んでたかも知れませんね。しかしそれほど執着したような宝物の目録が無いというのは謎ですね。
あと軍令はやっぱりほとんど守られてなかったようですね…。

とらひこさん、補足ありがとうございます。”薩摩御物”御三家関係にはわずかですが残っているようですね。取りあえず徳川美術館から沖縄に返してもらうのが先でしょうか(苦笑)
ともあれ、島津家から何かある毎に徳川家にかなりの物を献上してますから、そういうところから”薩摩御物”につながるヒントがあるかも知れませんね…私は無理ですが。


無人衆
御座候
藤木久志さんの『雑兵たちの戦場』を彷彿とさせますね。
藤木さんは、雑兵たちは最初から乱取り(略奪)目当てで参戦しており、大名たちも手を焼いていた、と書いていますね。

ただ藤木さんによれば、大名公認の略奪や作戦としての放火もあったようですから、略奪・放火そのものというよりも「勝手に」略奪・放火を行うという命令無視が問題視されたのかもしれませんが。

雑兵たちの戦場
桐野
御座候さん、こんにちは。

ご紹介の藤木久志さんの本には、戦国島津氏の乱取りの記事が多かった印象があります。とくに人取りが。
さすがに海路の奄美・琉球では人取りは難しかったと思いますが、乱取りは相当あったことと思います。

島津氏の軍法規定も狼藉禁止の項目はありますが、中途半端な感じで、現地司令官の裁量に任せられていたかもしれません。司令官公認もしくは黙認・追認の乱取りはかなりあったのでしょうね。

琉球側にも島津側にも史料が少ないのが惜しまれます。


コメントを閉じる▲
昨20日午後から、武蔵野大学生涯学習講座に出講。
場所は三鷹のサテライトキャンパスである。

大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康」というタイトルの講座(全10回)も、もう7回目となった。
今回は「直江状」を検討した。

すでに拙稿でも書いたが、「直江状」の原本は現存しないものの、それとおぼしき直江兼続の書状があったことは疑いえない。
写本・版本や軍記物への転載という形で、多数の「直江状」が伝来している。それらを子細に見てみると、少なくない異同がある。そのため、「直江状」=偽文書説が説得力をもった時期もあった。
しかし、後世の意図的な加筆もないわけではないが、それを割り引いても、「直江状」のコアな部分がもつ迫真性と、当時の状況を的確に描写している点は否定しがたい。

レジュメでは、歴代古案本、承応三年版本(東京大学総合図書館蔵)、関原軍記大成本という性格の異なる3点の「直江状」を用意し、上杉家の歴代古案本を中心に読みながら、3点の相互の異同を確認して、なぜそれが生じたのか考察した。

直江状」は16カ条で構成されるのが正本ではないかと思うが、なかには14カ条、15カ条のものもある。そのなかで大きな異同は、歴代古案本や上杉御年譜本など上杉家所蔵のものに共通している第11条の欠落である。
これは、「直江状」が書かれるきっかけとなった相国寺長老の西笑承兌書状の一条と対応した部分であり、本来は存在したと見た方がよい。上杉家諸本でそれが欠落しているのは、条末尾にある「一笑々々」という文言に嘲笑のニュアンスが感じられ、のちに上杉家が徳川将軍家を慮って削除したのではないかと推定しておいた。妥当かどうかはわからない。

もうひとつは、関原軍記大成本など軍記物に共通して、追而書(追伸)があることをどう考えるかである。これも軍記物によって多少文言が異なるが、兼続が「会津に下って来れるなら来てご覧なさい」という挑発的な態度を示しているのは不自然で、後世、面白おかしく創作されたのではないかと述べた。これは先行研究でもすでに指摘されている。

直江状」の実在を傍証するもののひとつとして、上杉景勝が安田能元ら重臣5人に宛てた書状を取り上げた。
これもじつは、文案は兼続が作成したのではないかと述べた。「直江状」にある第一何々、第二何々という表記のしかたが同じだからである。

「直江状」で、私が個人的に注目しているのは、家康の重臣・榊原康政に言及している点である。これは承兌書状にも、康政を通じて家康に釈明するようにという一節がある。それに対して、兼続が康政は上杉家に対する「御取次」であるにもかかわらず、上杉家に何の「異見」もしないばかりか、堀直政の讒言のみを取り上げるばかりで、取次としての役目を果たしておらず「侍の筋目」を通していないと痛烈に批判している一節が興味深い。

秀吉死後、家康が「天下殿」(豊臣政権執政)となったため、その重臣たちも五奉行同様、諸大名に対する取次役をつとめることになったようである。とくに康政は東国や奥州の大名に対する取次だった形跡がある。たとえば、秋田氏に対しても取次になっている。
豊臣政権における諸大名統制において取次が重要な役割を果たしたことはすでに明らかにされているが、秀吉死後、従来の奉行人・取次のほか、家康の家臣も政権の取次をつとめていることは豊臣政権の取次制が変容し、複雑な経路になっているのではないだろうか。
また、同じ大老同士のはずなのに、上杉家が家康の取次の指導・指南を受けるという関係性があるのなら、家康が豊臣政権において、他の大老と異なる上位の地位にあったことになる。その契機はおそらく前田利家の死だろうが。

またこの書状でわかることとして、もうひとつ重要なのは、「直江状」に激怒した家康が会津出陣を決断したということになっているが、必ずしもそうではなく、双方の間にもう一度、それも複数のルートによる交渉があったこと。それが家康方から上杉方への最後通牒であり、景勝がそれを拒絶したことによって、家康が会津出陣を決断したのではないかと述べた。

直江状」が派手で爽快なために、家康の会津出陣、ひいては関ヶ原合戦の発端として評価されることが多いが、過大評価してはいけないのではないかという私見を述べて、講座を終えた。

次回は、いよいよ関ヶ原合戦に入る予定。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/21 19:19】 | 武蔵野大学社会連携センター
トラックバック(0) |

榊原康政
橋場
康政の件は、「直江状」には「景勝表向の取次」と記されていますね。「表向」は『日葡辞書』によれば「形式上の、名目上の」というニュアンスの様ですが、上杉家はわざわざこういう文言を使っている事で微妙な心境を吐露しており、その心境の上で康政という「取次」役との折衝を主体的に拒否したのではないか、と小生は考えています。その背景につきましては、長くなりますのでまた別の折りに。

背景?
桐野
橋場殿下、こんにちは。

コメント有難うございます。

「表向」について補足していただき、有難うございました。
歴代古案本にはその部分、「景勝衆向之取次」云々とあって、他本と対校して、「景勝表向之取次」と読むべきだろうと注釈したところでした。

この時期における康政の役割はあまり言及されませんが、意外と重要かもしれませんね。私は、康政が東国・奥州方面の取次だろうと書いてしまいましたが、宇喜多家中の内紛を調停したのも康政でした。
考えてみれば、このとき、大谷吉継も奉行として調停していますから、やはり、豊臣政権奉行衆と家康重臣衆という2つのルートで政務が行われていたようですね。

さらにいえば、島津家中の内紛である庄内の乱でも、豊臣奉行衆としては寺沢広高、家康方からは山口直友、また重臣では本多正純だったかも和睦調停に関与していますね。

上杉問題もその例外ではないということでしょうか。

で、「その背景」とやらを聞かねば、殿下の思し召しが伺い知れぬのですが……。

コメントを閉じる▲
先日、京都で血天井を見学したことを書いた。ここです。

見学したのは養源院と源光庵の2つだけだったが、じつは京都近辺に血天井は5カ所もあるらしい。

それはさておき、寺院側から「これが鳥居元忠が自害した場所。腕がここ、足がここ」などと、かなり生々しく説明してもらったのだが、違和感が拭いきれなかった。疑問を感じたのは、

まず、誰がどこでどんな形で自害したかなど特定できるはずがないだろうということ。
次いで、5カ寺に使われるほど、よく床板が大量に残っていたなということ。

本日、調べ物をしていて、石田三成が真田昌幸・信繁父子に上方情勢を知らせた書状を読んだ。日付は8月5日だから、伏見落城から数日後である。そのなかに次の一節があった。

「(伏見)城中御殿、此間雑人原(輩)踏み荒し候間、悉く(ことごとく)火を掛け、一宇も残さず、焼き払い候事」

ひとつの建物も残さず、城中の御殿を全部焼き払ったと、三成は書いている。
鳥居たちはどこで自害したんだろうか? 常識的には本丸御殿だろう。
どうも血天井が残る余地はないように思うのだが……。

何かご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/20 00:46】 | 戦国織豊
トラックバック(0) |

血天井がいっぱい
ばんない
こんにちは。

ちょっと気になって調べてみたのですが、今まで「血天井=伏見城の残骸」とばかり思いこんでいたのですが、実はそうじゃないことがネットの検索で分かりました。たぶんネットに載ってない血天井もあるんじゃないかと思います。
奈良の長岳寺には松永久秀に関連した血天井があるそうです。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~toukondankon/b-toukonn.html
岐阜城の血天井もあるようです。いろいろ伝承内容につっこみたいですが(苦笑)
http://www.uoo.ne.jp/archives/2008/12/post_234.html
また、既に桐野さんはご存じと思いますが、安土城の血天井もあるそうです。
http://www.oumi-castle.net/aduti/doq/titenjyou.html

胡散臭さも含めて(苦笑)、こういうものが誕生する思想的背景があったように思われますが…すべて戦国時代末期の出来事に関係しているのも気になります。ざっと調べた限りでは源平合戦とか南北朝関係とか幕末の血天井はないようですね。

血天井の「血痕」は人間の血液?
頓馬な鮟鱇
はじめまして。

興味深い話題なので自分のブログのネタにさせていただきました。正伝寺の血天井は古畑種基という学者の鑑定により人間の血液だと証明されたのだそうです(それでも疑問が残りますけど)。
http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20090814/1250249956

あと、ネットで検索したところでは、伏見城遺構の血天井は「養源院」「正伝寺」「源光庵」「宝泉院」「興聖寺」の5ヵ寺の他に「栄春寺」「妙心寺天球院」「神応寺」にも伝えられているそうです。

はじめまして
桐野
頓馬な鮟鱇さん、はじめまして。

方広寺鐘銘にちなんだハンドルには思わず笑ってしまいました。

血天井の情報有難うございます。
どれも同工異曲の伝承でしょうが、ああいう形での供養は興味深いですし、背景にどんな精神世界があるのか気になりますね。
また何かあったら教えて下さい。

コメントを閉じる▲
再来月刊行予定の新刊のお知らせです。

足かけ3年にわたり、科研費による太田牛一『信長記』諸本の調査があり、小生もその末席に加わっていたことは、このブログでも何度か書きました。

その調査の集大成のひとつというべき著書が8月に刊行される予定です。
著者の金子拓氏は東京大学史料編纂所に勤務し、この調査の代表者でもあります。
調査を通じて、『信長記』諸本を有する関係方面に熱心に働きかけ、おそらくほとんどすべての『信長記』を網羅できたのは彼の努力によるところが大きいです。
また、調査やその報告会でも、熱心に探究され、精密な調査報告や所見をまとめられていました。今度の新刊も、おそらく『信長記』研究の転回点というか、新基準となる内容だと思います。

その成果が公表されることになって、共同研究の仲間として慶賀に堪えません。
詳しくは版元のサイトにあります。ここです。
版元のメルマガのなかで、金子氏の「源氏千年、信長記四百年」というエッセイも掲載されています。この調査の一端が伺い知れますので、興味のある方はお読み下さい。

なお、メルマガにも告知がありますが、新刊の惹句や目次なども紹介しておきます。

織田信長という歴史 『信長記』の彼方へ
金子 拓 著 四六判上製・予価3.940円(税込)

信長の生涯は、いかに記録され伝わったか―信長の家臣太田牛一が著した『信長記』。複数残る自筆本や写本の系統分類と比較検討をとおして、成立・伝来に関わった中世末から近世にかけての人びとの歴史に対する向きあいかたに迫る。

◆◆目次◆◆
序章  『信長記』とは何か
  一 歴史叙述としての『信長記』/二 『信長記』研究の歴史
第一章 『信長記』の諸伝本と系統
第二章 軍記作者太田牛一
  一 信長以前・信長時代の牛一/二 秀吉時代の牛一/三 記録作者としての太田牛一
第三章 池田家本系『信長記』の諸本
  一 自筆本池田家本/二 池田家本系の写本(一)―聖藩文庫本系/
  三 池田家本系の写本(二)―非聖藩文庫本系
第四章 『信長記』を求めた人びと
  一 池田家と『信長記』/二 『信長記』の評判
第五章 建勲神社本系『信長記』の諸本
  一 自筆本建勲神社本について/二 建勲神社本系の写本について
第六章 ふたつの太田家とその伝本
  一 個人蔵本/二 太田家本/三 加賀太田家に伝来された本
第七章 『信長記』と織田家
  一 織田長清と牛一自筆本の出会い/二 佐々宗淳と『信長記』/
  三 『織田真紀』と織田長清
終章  『信長記』の彼方へ
  一 『信長記』の成立/二 『信長記』に関わった人びと

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/19 00:25】 | 信長
トラックバック(0) |

読了
市野澤
こんばんわ。

桐野さんから出版の話を伺っていたので、発売が待ち遠しくて仕方ありませんでした。

確かに価格は少々高価ですが、この内容ならば納得です。400頁もありますが、内容の面白さに一気に読んでしまいました。

『信長記』の研究は、これでスタート地点に立ったんだなぁと感慨深く、読み終えました。

今まで織田長清は織田一族でノーマークの人物だったので俄然関心を持ちました。長清宛の佐々宗淳の書状は興味深いものでした。
特に信長に拝謁したことがある老僧衆が「あれほど似たものはない」と言っていたという伝承がある龍安寺泰西源院に所蔵されていた信長肖像画は見てみたいですね~。
改めて、田村英恵氏の「信長画像・木像については解明が進んでいない」という言葉を思い出しました。

著者の金子拓氏が文中でお礼を述べられていた、和田裕弘氏の自身の成果を惜しげもなく提供する姿勢は素晴らしいですね。

今後、同じ版元から共同研究メンバーによる論文集が出版予定とのこと。
桐野さん・和田氏の出筆を楽しみにしています。
願わくは、そろそろ和田氏の単著での出版を望みます。

和田さん
桐野
市野澤さん、こんばんは。

金子さんの新刊、一気に読破された由。
また読後感も充実されていたようで、紹介された甲斐がありましたね。
本日、金子さんや和田さんに会いました。
和田さんには単著を望む声があると伝えておきました。
私も彼の上梓を望んでいる一人です。

感想を書いていただき、有難うございました。


コメントを閉じる▲
再来年の大河ドラマが決まったようですね。
ここです。

淀殿の妹お江(おごう)が主役のようです。
となると、だいぶ前の大河「春日局」とは合わせ鏡のようなドラマになるんでしょうか?
春日局はきっと悪役なんでしょうな。脚本が「篤姫」担当者ですから、さしずめ、本寿院の位置になるんでしょうかね?

お江」といえば、最近は「真田太平記」に登場するくの一を思い出してしまいますね。
こっちは「おこう」でしたけど。引退した遥くららさんはお元気なんでしょうか?

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/17 23:03】 | 信長
トラックバック(0) |

2匹目? 3匹目?
武藤 臼
こんばんわ

お江岩下志麻ですねえ
それなりにインパクトありました

戦国地方史希望の自分にとっては
またも振られたということになります

また、長野県が少し後の保科正之を推進してましたが
これまら袖にされたことになりますね

今年も既に大河は見ていませんが
11年といえば地上は終了の年
ますます大河ドラマが遠くなりまそう予感です^^;

主人公が珍しくても
おわい
時代も場所も今までの戦国大河ともろ被りだからなぁ
見飽きる……

地方史としての大河
桐野
コメント有難うございます。

再来年の大河も愛知県、滋賀県、福井県の地方史といえないこともありませんが、きっと地方史再発見という視点でのドラマにはならないでしょうね。
「篤姫」の脚本家ですから、だいたいどんな内容になるか、予想が付くというものです。


びわこ
長浜、頑張ってましたからね。
「浅井三姉妹」の漫画とか作って、無料配布とかしてましたもん。
「昼ドラよりも凄い」とか、そんなキャッチだったなぁ。

「地方史再発見」的なら、浅井長政あたりをやって欲しいと願う滋賀県民です。
(兼続よりずっとドラマティックかも)

浅井長政
桐野
びわこさん、こんばんは。

滋賀県はいろいろTVや映画のネタがあって、羨ましいですね。
浅井長政のドラマは私も観てみたいですが、いかんせん、大河ドラマにするには尺が足りないような気がします。
まあ、「武蔵」ができるなら、脇役を充実させれば、もしかしたら可能ですかね?

コメントを閉じる▲
信長像






JR安土駅前の信長像

近江八幡市との合併により、安土町が消滅するという。
この記事です。

住民の民意を代表する議会で決めたことですから、致し方ありません。
近江八幡市も歴史と伝統をもつ町であることは認めます。

しかし、当時の安土は信長の城下町としてヨーロッパにも知られ、日本史の時代区分でも「安土桃山時代」と称されるほど、町名以上の存在価値があります。

合併後も、安土は地名としては残るでしょうが、自治体名であるか否かでは、かなり知名度や影響力が違うと思うのは私だけではないでしょう。
いかにも惜しいですね。
もしバチカンで、信長がヴァリニャーノ(イエズス会東アジア巡察師)に贈った安土城屏風絵が発見されていたら、果たして民意がかくなる結果になったかどうか? なかなか見つからないのが、返す返すも残念です。

参道
天守入口
礎石




(左)大手道、(中)天主入口、(右)天主の礎石跡

本能寺の変なかりせば、安土は江戸に代わる日本の首都だったかもしれないと思うと、うたた感慨に堪えません。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/16 08:52】 | 信長
トラックバック(0) |

まったくです
びわこ
新聞を読んでても、まだピンと来ません。
今まで、何度も合併の話が出ましたが、自治体名をどうするかで立ち消えてたように記憶してます。

近江八幡市安土町になるのかなぁ・・・
いっそ、安土八幡市にしたらいいのに。


潤湖
はじめまして。
私もニュースを見て衝撃を受けた一人です。
たしか安土八幡市は候補にも上がってましたよね。
でも、結局近江八幡市に……。
残念でなりません。

町おこしの最大の武器
桐野
びわこさん、こんばんは。
潤湖さん、はじめましてでしょうか。

仰せの通りですね。
町おこしや村おこしで、どこも苦労しているようですが、「安土」という地名そのものが最大の武器であり、そのイメージの喚起力が人を呼び寄せるということの自覚がなかったようですね。言霊とまではいいませんが。


真相
島国
合併の原因は安土町が将来赤字団体に陥るのを危惧して安土町が合併を申し込んだのが真相だ。
町の規模に分不相応な箱物が赤字の原因であり安土駅の改修、駅周辺の整備など安土町単独では不可能と判断した為である。
観光も安土城址の観光客ままばらで人気は無く、近江八幡市の観光客は年間約300万人前後であり安土はその恩恵にあずかおらず、合併をすれば西の湖をはさんで安土町の観光資源も活用できると判断した為。
安土町民の一部には安土の名前に固執しただけの反対運動であり、単独で町政を続ける具体的な指針を示していない。
安土の名前て価値があるのですか?
飛鳥、室町、桃山て行政名はありますか?
江戸もかわりましたね・・・・



コメントを閉じる▲
大河ドラマ「天地人」第24回「戸惑いの上洛」

上杉景勝の初めての上洛、先週の講座で「天正十四年上洛日帳」を読んだばかりだったので、我慢して観た。

日帳によれば、景勝主従が上京したのが天正14年(1586)6月7日夜。
本来はこの日、近江坂本に宿泊する予定だったが、石田三成の「御異見」により急遽予定を変更して、逢坂の関を越えて入京、夜8時頃、六条本国寺に入っている。旅程を変更させるくらいだから、最初からこの上洛を三成が仕切っていたのだろう。
そういえば、このとき、三成は加賀・越中国境の森本まで、景勝主従を迎えに出ている。景勝・兼続と三成の対面は本当はこのときが初めてだといわれる。
ドラマではすでに両者は対面していることになっているから、もはや対面シーンは不要だったのだろうな。

さて、京都から大坂に下ったのが12日。再び大坂から上京するのが18日。
大坂滞在は6日間である。

そのうち、秀吉と大坂城で対面したのは14日と16日。
14日、景勝が天守閣に登って見学したことはちゃんと書かれている。
そのほか、「小金(黄金か)之御座敷」を秀吉から見せられている。これはおそらく惣金造りの茶室だろう。「宗易手前」があったというから、すでに景勝はこの日に千利休に会っているが、描かれていない。惣金の茶室といい、描いたほうが効果的なものがなぜかスルーされていて、妙な作り話ばかりだった。

何より、日帳によれば、景勝らは北政所にも福島正則にも会ったとは書かれていない。ましてや、30以上の大名家に挨拶回りしたなんて、どこにも書いてない。
大名として会ったと書かれているのは、14日、秀吉との対面のとき、陪席者として織田長益、前田利勝(のち利長)、石川数正、榊原康政。家康の重臣2人が来ているのは、家康の上洛の段取りがすでに決まっていたからだろう。前田利家も来ていない。
そのほか、16日、秀吉が茶湯朝会を開いている。このとき、大名も何人か陪席していたかもしれないが、名前が書かれていない。
同日、景勝は豊臣秀長の屋敷に茶湯に招かれている。

日帳に書かれている大名の人名はこれだけである。大名家への挨拶回りは豊臣秀長だけ。

またドラマでは、景勝が偏頭痛のような病気で倒れたが、日帳には景勝が病気になったという記事はない。ただ、17日、秀吉から堺見物を勧められたが、断っている。理由は高野への物詣のためで病気ではなさそうだ。

あと、千利休の娘「お涼」。
利休には系図上、6人の娘が確認できるが、もちろん「お涼」という名前の娘はいない。
6人を挙げてみると、

1,石橋良叱の妻 お吟か
2,万代屋宗安の妻 お三(お亀とも)
3,千紹二の妻
4,本能寺円乗坊宗円の妻
5,魚屋渡辺与兵衛の妻
6,亀 おちやう(千少庵の妻)

有名なのは1。今東光の「お吟さま」のヒロインで、映画化もされた。吟子という名前だったというが、果たして定かであろうか。

「涼」という名の娘はいない。お吟の夫が良叱で、唯一音が「りょう」だが、これから採ったか。
とすれば、「お涼」はお吟をモデルにしているのか?

番組最後の天地人紀行は、景勝主従の宿舎となった六条本国寺だった。
この寺は別の事件のほうが有名である。
永禄12年(1569)、上洛したばかりの将軍義昭がこの寺にいたが、三好三人衆に襲撃されている。
あと、幕末には水戸藩の宿舎となり、同藩佐幕派は本圀寺党と呼ばれた。

寺名は義昭、景勝の頃は「本国寺」、江戸時代中期、「本圀寺」に改称している。水戸光圀の一字をもらったものとか。たしか中国の武則天がつくった漢字でしたね。

日蓮宗の有力な門流寺院だったが、戦後になってから郊外の山科に移転しています。
紀行で流れていた映像も山科のもの。以前、行ったことがあるので、参考までに写真を掲げておきます。
関白秀次の母日秀尼や加藤清正ゆかりの遺跡もあります。

梵鐘
bosho
墓所







よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング




【2009/06/15 00:28】 | 天地人
トラックバック(1) |

もののふのあわれ
市川
桐野先生、こんにちは。
話題は尽きない大河ドラマ「天地人」でありますね。
「我慢して観た」……心中、お察しします。
とことん強調したい愛の兜。もはやお笑いと化した福島正則。必要ない兼続の恋愛劇。無口(無礼者)・軟弱・病人となった上杉景勝。
私も歴史には詳しいほうではありませんが、これはもう歴史がどうこうの話ではありません。国営といってもやはり時代の流れ、運営する人材の質が昔とは違うのでしょうか。残念なことです。
愚痴ばかりとなりましたが、来週のさつま人国誌を楽しみにしています。これからも頑張ってください。


k2
桐野様
久しぶりに、我慢して、見て頂きありがとうございます。
私的にウケたのは、大坂城天守閣で、小栗三成が一回目とはうって変わり、ちゃんとひざまついて頭を下げていました。
桐野様の指摘で、今回は変えたのかも知れません(笑


時代の流れ
桐野
コメント有難うございます。

「時代の流れ」が的確な批評かもしれませんね。
視聴率を見ると、「篤姫」ほどではないですが、高率をキープしています。
ということは、あれで満足している視聴者が多数いるということですね。
私のまわりの人からの話でも、家族や知人などが史実だと思い込んで見ている人が多いとか。
春日山城に行った観光客が、謙信がこもった岩窟はどこだと、ガイドに真顔で聞いたという笑い話もありますし。

もう、国民の大多数が支持しているのなら、それでよいのではないでしょうか。

コメントを閉じる▲
terakoya




「てらこや」の次期講座のお知らせです。

小学館アカデミー「てらこや」
特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」7月講座受講生募集中。


このシリーズも第7クールに突入。全5回です。
時期は慶応3年(1867)半ば、四侯会議の挫折から薩摩藩討幕派の形成へという重要な時期に入ります。
薩摩藩内の路線闘争、2つの薩土盟約、そして大政奉還へと進む時期を取り上げます。

主催者のサイトはここです。申込方法や問い合わせなど、確認できます。
ただし、まだ更新されていません。

日時:7/14,7/28,8/25,9/8,9/15の午後7時から
    原則として隔週開催ですが、今期はお盆を挟むため、多少変則的です。
最寄り駅:都営新宿線・半蔵門線「神保町」駅、JR「御茶の水」「水道橋」駅
    地図はここにあります。

東京、関東方面で関心のある方は受講してみませんか。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/14 19:23】 | てらこや
トラックバック(0) |
お知らせです。

明15日(月)の南日本新聞連載「さつま人国誌」は、新聞休刊日のため休載です。
次回は22日(月)掲載になります。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/14 11:42】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
友人から、こんなお土産をいただきました。

小豆





歴史読本連載「信長」の先月号で、お市の方の有名な逸話を取り上げたのですが、それをご覧になったのでしょうか? ウィットに富んだお土産、有難うございます。

お市の方ゆかりの地、小谷に近い長浜のお土産です。
両端が結んであるのには、思わず笑ってしまいました。
落花生に小豆粉がまぶしてある、上品な味わいですね。

そういえば、今月25日頃発売の歴史読本の連載では、姉川合戦を少し詳しく書きました。
興味のある方はどうぞ。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/13 23:49】 | 信長
トラックバック(0) |
京都から帰ってきたら、通知が送られていた。

拙著『島津義久』(PHP文庫)がまた重版になるらしい。これで四刷である。
前回の重版は今年の2月だから、わずか4カ月しかたっていない。
刊行してから4年もたつ本にしては、増刷のペースが速いのではないか。

ふつう、本は時間が経過するたびに賞味期限が切れていくものだが、この拙著に限ってはそうでもないらしい。4年たっても、読者の関心が衰えていないのは、著者にとっては意外だけど、同時にまことに喜ばしい。

とくに販促につとめたわけではないのに、なぜ重版ペースが上がったのか、その原因がわからない。
版元が書店に依頼する常備品目(売れ筋本のセット販売)に加えてくれたとか、いろんなブックフェアで取り扱ってくれたとか、版元の努力に負うところが大きいかもしれない。

あるいは、最近、戦国武将ブーム。比較的地味な武将にも光りが当たっているから、そのせいか?

なお、拙著の詳細はこちらです。
中古商品が定価に近いことは喜ばしい。以前、1円という拙著を見つけて悲しくなったことがあったから。
それと、たくさんのカスタマーレビューが付いているのもうれしい。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/12 09:27】 | 雑記
トラックバック(0) |

おめでとうございます!
まなべすと
増刷、おめでとうございます!(^^)。
先生の書の内容も素晴らしい事が勿論第一でしょうが、
それに加えて「BASARA」ブームも後押ししているのかも
しれないですね(私は未見ですが、深夜アニメでやっていて、
島津義久も登場したらしいとのことです)。今後も増刷が
重なりますようにお祈り申し上げます。
先生が本書の後書きで、
「今後は忠恒(DQN家久)からの視点でも書いてみたい」と
ありましたのを、義久ファンの私としては、おっかなビックリ
期待しております。忠恒サイドからすれば、不器量な姉さん女房を押し付けるわ,好きにやらせてくれないわで、義久はかなり煙たいおじさんなんでしょうね(^^;;;;;)

有難うございます
桐野
まなべすとさん、こんばんは。

わざわざのお言葉、有難うございます。
そうですか、「BASARA」の影響ですか。
私はゲームに疎いもので、さっぱりわかりませんでした。

>「今後は忠恒(DQN家久)からの視点でも書いてみたい」

私は「DQN家久」とは書いていないので念のため。
むしろ、義弘=惟新の視点からといったほうがいいかもしれませんね。そのほうが売れ筋でしょう(笑)。


コメントを閉じる▲
9、10の両日、上洛した。

某紙が小松帯刀の京都邸について記事にしたいというので、その取材に応じるのが目的だった。
記者はつい最近まで同社の鹿児島支局に勤務していたそうで、私が小松の京都邸について書いているのを見たらしい。

小松の京都邸「御花畑」をどこに比定すべきか、薩長同盟が小松邸で結ばれたかどうか、どのように考えたらよいのかなどを説明したのち、旧近衛殿(同志社大学新町校舎)と近衛家堀川屋敷跡(堀川一条東入ル)を記者と共に回った。

堀川屋敷跡は昨夏建碑したこともあり、私たちが来訪したときも見学者がいた。家主のMさんとも久しぶりにお会いする。

夜は三条木屋町の居酒屋龍馬で、中村武生氏らと久しぶりに旧交を温めた。

今回、養源院にある有名な血天井を見たいと思っていた。
血天井は関ヶ原合戦の前哨戦である伏見城攻防戦で亡くなった鳥居元忠ら徳川方の将兵の血潮が床板に染み込んでいたのを供養のため、天井板にしたもの。
じつをいうと、初めての拝観だった。前から一度訪れたいと思っていたので、ようやく念願がかなった。
養源院





でも、写真撮影禁止だったので、がっかり。
お寺の人にテープによる案内と、鳥居元忠が切腹したとされる場所の血潮のあたりを説明してもらった。ただ、どうして鳥居元忠のものだとわかるのか不思議だった……。

ほかにも、俵屋宗達の象の絵なども鑑賞。
ここに、徳川秀忠だけでなく、十五代の徳川将軍の位牌も安置されていたとは知らなかった。

翌日は鷹峯に出かけた。
前夜、中村氏から鷹峯の御土居堀がかなりよく見えるようになったと聞いたから、少し予定を変更した。じつをいうと、ここの御土居堀は10年ほど前だったか、一度見たことがある。
鷹峯の御土居堀はその北西端の角地にあたる。
隣接した飲食店が撤去されたので、眺望がよくなった。
工事関係者がいたので、許可を得ようとしたが、工事中という理由で、いちばん奧まで入れてもらえず、肝心のL字部分が見えずじまいだった。
下の写真は御土居の断面が見えるところ。
御土居





消化不良のまま、せっかくなので、近隣の史跡を見学。
鷹峯といえば、何といっても本阿弥光悦である。光悦の屋敷跡がお寺になっていたが、拝観できず。
茶屋四郎次郎清次の屋敷跡もあると案内板にあったが、標石も立っておらず、どこだかわからなかった。

すぐ近くに源光庵というお寺があるのを見つけた。
何げに案内板を見ると、何と、ここにも血天井があるではないか。
さっそく見学させてもらう。
ここは撮影OKだった。
本堂のすべての天井が血天井で作られていた。
足跡が鮮明に残っていたのが印象的だった。
源光庵






また、同庵の近くには、寛永の三名妓の一人、島原の二代目吉野太夫ゆかりの常照寺があった。
何年か前の大河ドラマ「武蔵」で、キョンキョンが演じていた。
太夫は天下随一の名妓と呼ばれるほど、あらゆる芸事に通じていたという。
京都の豪商灰屋紹益が吉野大夫に惚れて身請けし、夫婦となった。
お寺の入り口に、紹益が彼女に先立たれて世を儚んだ歌碑がある。

都をば花なき里になしにけり 吉野を死出の山にうつして

ほかにも、境内には彼女の墓、彼女が寄進した朱塗りの吉野門、紹益が彼女を偲んで建てた比翼塚などがある。
また遺芳庵という茶室もあった。その窓が太夫にちなんで吉野窓と呼ばれていて、円形の下部が横に切られていて完全な円ではないのが特徴という。完全ではない、まだ悟りを開いていないという意味とか。
吉野大夫墓
吉野窓




その後、東山に取って返し、阿弥陀ヶ峰の豊国廟を参拝する予定でいたが、折から大粒の雨となった。そのため、あの500段を超える階段を登る覚悟が萎えてしまい、今回は断念した。

それにしても、偶然とはいえ、血天井を2軒も見られたのは僥倖だったかも。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/11 21:44】 | 歴史紀行
トラックバック(0) |

血天井
ばんない
今晩は。中村先生のブログで先に知ったのですが、上洛されていたのですね。光悦寺工事中とは残念でしたね。でもあそこは御庭はともかく建物は余り面白くな(以下自粛)

で、源光庵の近く?にもう一つ正伝寺というお寺がありまして、そこも伏見城の血天井で有名です。一度拝観したのですが、遂この間のように思っていても既にそれから○○年…。

5つの血天井
桐野
ばんないさん、こんばんは。

血天井はなんと、5カ所もあるんですね。
ほかには大原の宝泉院、宇治の興聖寺も。

伏見城はこのときの籠城戦で焼失したはずなんですが、鳥居元忠らが最期を遂げた場所は燃えなかったのでしょうかね? 素朴な疑問です。

血天井
びわこ
桐野さん、こんにちは。

血しぶきの飛んだ材を使いまわしするのは、何か意味があるのでしょうか?
お寺に使われるのは、供養の意味もあってなんでしょうか?

お寺の朱塗りの山門が、実は血しぶきの跡があるから、朱に塗ってわからなくした・・・という話を聞いたことがあるのですが。(もともとは、城門だったのを)

供養?
桐野
びわこさん、こんばんは。

さて、血天井が供養になるのかどうか。
養源院などでは、そのように説明していました。

遺骸がないので、血というか血天井というゆかりのもので代替するのでしょうか?

雑誌記事、拝読しました。
地元だけに、さすがに詳しいですね。
勉強になりました。
よくわかりません。

あやしい血天井
さ〜しゃ
桐野さん、こんにちは。
先日私も養源院へ行ってきました。
鳥居元忠の血潮の跡の説明を聞きましたが、
なぜ彼のものだとわかるのか私も疑問を感じました。
それと伏見城は焼失したと何かの本で読んだ記憶があるのですが、実際はどうなのでしょう。
・・・となると血天井もあやしくなるのでしょうか?

豊国廟も参拝してきました。
天下人だったのに、あんな場所にひっそりと廟があるのかと思うと少し寂しい気持ちになりました。
片道500段以上の階段は間違いなく翌日筋肉痛になりますので
次回お出かけの際はお気をつけ下さいませ。






血天井
桐野
さ〜しゃさん、初めましてだったでしょうか。

養源院を拝観されたのですね。
血天井の真偽はともかく、京都周辺に5カ所も血天井があり、しかも、みな伏見城のものというのが興味深いです。

供養のためだと思いますが、伏見落城はよほど庶民にとっては哀しい出来事だったのでしょうか。その共通する心情は何なのでしょうかね。

ちなみに、別のエントリーで、石田三成の書状を引用しましたが、そのなかに「雑人原踏み荒し」云々という文言があったのが気になっています。
これは籠城方が自害して果てたのち、攻城方の雑兵たちが金目の物を略奪したりしたことを指していると思います。

さ〜しゃさんも養源院で、鮮明な足跡をご覧になったかと思いますが、あれは必ずしも自害した人ではなく、鵜の目鷹の目で獲物を探しまわる攻城方の雑兵のものもあるかもしれませんね。自害した人々の血が床に流れ出ていたでしょうから、素足の雑兵たちがそれを踏んで、足跡をつけた可能性もないとはいいきれません。

豊国廟も登られたんですね。
私も前に登ったことがあるのですが、今回、ちゃんと撮影しようと思っておりました。でも、あいにくの雨で足許が不安だったので断念しました。
筋肉痛が軽くなるように登りたいと思います(笑)。

コメントを閉じる▲
別冊宝島」1632、石田三成の特集が刊行されました。
詳しくはここにあります。

私も次のタイトルで少し書いています。

どこで三成は失敗したのか
対東軍迎撃構想のたび重なる誤算


ほかに、三成会の田附清子さんや中井俊一郎さんも書いています。
興味のある方は読んでみて下さい。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/09 00:20】 | 新刊
トラックバック(0) |
南日本新聞連載「さつま人国誌」第111回
―島津軍、首里城に迫る―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックするとご覧になれます。

このテーマも連載が10回目になりました。
当初、5、6回のつもりでいたのですが、奄美、徳之島と取材を重ねたこともあり、情報が格段に増えたことが長くなった一因です。

考えてみれば、近世初期のこの一件が最終的な島津氏の領国形成となり、その後、77万石という代名詞(実際は72万余石ですが)の発祥にもなっています。
77万石のなかに奄美や琉球分の知行高が含まれていることを知る人はそれほどいないのではないか、また知っていても、なぜそうなったか経緯を知る人は少ないのではないでしょうか。

今回は島津軍がついに首里城に迫ったところを書きました。
戦闘が激しかったのは那覇周辺で、首里城はそれほどではなかったかもしれません。ただ、史料があまり残っていないので、詳しいことはわかりません。

那覇港口で、琉球側の石火矢が火を噴き、島津軍の軍船を沈没させたことが「琉球入ノ記」に書かれています。これはトカラ列島の七島衆の影佐という人物によって書かれたといわれていますから、ほぼ史実だと思います。
ただ、この記録は時系列の混乱があるのかと、私は思い込んでいました。というのは、このとき、王府側の砲撃を避けようとしたのか、島津軍は那覇港ではなく、運天から上陸したと書かれていたからです。

運天といえば、今帰仁の近くにある港がいちばん有名です。
私はてっきりそこだと思い込んでしまったのですが、それなら、島津軍は最初から那覇に押し寄せてきたことになり、通説と食い違います。
それで考えたのですが、どうも今帰仁の近くではなく、那覇の近くに同名の運天という地名がある、あるいはあったのではないかという気がするのですが、現在のところ、発見できていません。
もしご存じの方がおいでなら、ご教示いただければ幸いです。

前回、島津軍の総大将樺山久高が今帰仁で、琉球王府側との和睦交渉に応じず、会談は那覇でやると告げました。そのことは那覇まで戦闘がつづくということを意味します。
なぜ樺山が交渉に応じなかったのか、その理由がよくわかりません。

渡海直前、島津家久が樺山に琉球侵攻の基本方針を定めた五カ条の「」を与えています(『旧記雑録後編四』545号)。
その第一条には次のように書かれています。

「一、琉球よりあつかいを入れ候はば、異儀(異議)なくその筋に談合あるべき事」

家久は琉球側が「あつかい」(口+愛)、つまり和睦を申し入れてきたら、すぐさま応じて談合するように命じています。これは、家久がもともと短期間の作戦を想定していたので、長期戦にしないための措置でした。
ところが、樺山は家久の命に背いています。
琉球王府側の使節には、三司官の一人、名護親方や高僧がいました。交渉相手としての資格を十分備えています。
樺山が主命に逆らってまで和平を拒絶した理由がよくわかりません。

・琉球側が時間稼ぎをするように見えた。
・那覇・首里に近づかないと、有利な形での和平が結べない。たとえば、首里城を開城させられないと意味がない。
・今後のためにも、島津軍の武威を示して、琉球王府や人民を威圧しておくべきだ。

いろいろ考えられますが、そんな事情でもあったのでしょうかね?

そのあたりの答えが見えるのが、島津軍の首里城占領のような気がします。
それは次回に書く予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/08 13:03】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |


-
>これはトカラ列島の七島衆の影佐という人物によって書かれたといわれていますから、ほぼ史実だと思います。

(爆笑)影佐ってのをそこまで信用する理由はなんですか?喜安日記、渡海日々記、肝付兼篤書状と矛盾しまくりじゃないですかwww
まあ琉球入ノ記がデタラメってのを認めちゃったら、奄美の3000人とか、久米村城の3000人とか、那覇港の石火矢とか、琉球軍(失笑)の見せ場が一切合財なくなっちゃいますからねぇ。ほぼ史実(笑)と信じたい気持ちは分かりますがねぇwwwでもそんなのがいたら喜安や肝付兼篤や市来孫兵衛が揃いも揃って見逃すなんてありえませんからwww

>樺山が主命に逆らってまで和平を拒絶した理由がよくわかりません。

おいおいwww「那覇で談合しよう」って返答してるじゃないですかwww樺山譜中には「信用できなかったが、命じられたとおりに許容させた」と明記してあるしwww
今帰仁で停止しなきゃあなた的には和平にならないんですかぁ~?そんな条件は家久は一切つけてませんよねぇ。今帰仁で止まったら飯はどうするんですかぁ?北部なんて木の葉しかありませんよ?

よっぽど薩摩を戦争大好きな事にしたいんですねぇ。実際には数年にわたる平和維持の努力を完全無視して実力行使を招いたのは琉球側でしょ?

コメントを閉じる▲
先月、京都の友人が下向してきたので、久しぶりに会いました。
「居酒屋龍馬」のマスターとママさんです。ブログはここです。

坂本龍馬の妻お龍の縁者のお墓にお詣りしたいとのことで案内しました。
その墓は拙宅の近くのお寺にあります。

二人はお墓を洗って、お線香とお花を手向けられました。
満足されたご様子でした。

そしたら、最近、そのときの御礼でしょうか、二人から素敵なものをいただきました。

「復刻 信長の金平糖」

というお菓子です。
おいしくいただいております。でも、ちょっと固いです(笑)。
珍しいものなので、写真をアップしておきます。
金平糖1
金平糖2






私が信長を専門にしているので、気を遣っていただき、有難うございます。
製造元はここです。ほかにも素敵な和菓子や漬物などがあるようですね。


さて、信長がイエズス会の宣教師ルイス・フロイスから金平糖などを贈られたことは、私も知っておりました。が、いつ、どこでだったか、記憶が定かでなかったので、おそらく永禄12年(1569)の二条第造営のときだろうと見当をつけて調べてみたら、案の定でした。

将軍義昭の御所である二条第を造営するにあたり、信長は陣頭指揮をとりました。雑兵の一人が婦人の被り物を取ろうとしたのを目撃した信長がその雑兵の首をたちどころに刎ねたという有名な場面があります。

じつは、フロイス一行はそのとき、初めて信長に会うために普請現場を訪れましたが、信長のその行為をじかに目撃して驚き、さっそく日記につけました。

フロイスはその事件の直後、信長と対面します。
信長は堀の橋の上でフロイス一行を出迎えました。このとき、フロイスが信長に贈り物をするシーンが『耶蘇会士日本通信』に次のように書かれています。

「予(フロイス)はコンフエイトス入のフラスコ一つ及び蝋燭数本を贈りたり。彼は約一時間半又は二時間予と共に在りき」

コンフエイトス」がポルトガル語です。それが日本で訛って金平糖となりました。
フラスコ」はガラス瓶の意味です。

フロイスのこの記事から「コンフエイトス」と「フラスコ」を復元したんですねえ。

ちょっとした蘊蓄でした。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/07 18:45】 | 信長
トラックバック(0) |

「キング オブ ジパング」
ばんない
信長が食べたのを再現した金平糖ですが、写真で見ると今の金平糖よりかなりサイズが大きいように思います。

さて、フロイスと信長の初対面ですが、大河ドラマの「信長 king of zipangu」ではかなり正確に再現されてました。首が宙を舞うシーンといい、緒方直人の意外にも(失礼)鬼気迫るエキセントリックな信長が怖かったです。信長の首ちょんぱのエピソードはかなり有名な話ですが、最近の大河ではやはり放送コードに引っかかるのか無視されてますね。


そんなに大きくないです
桐野
ばんないさん、こんばんは。

写真は大きな瓶に見えるかもしれませんが、一辺が45ミリ程度の小さな角瓶です。
金平糖も直径10ミリくらいです。

緒方直人の例の場面は、私もよく覚えています。彼の信長は少し迫力不足でしたが、たしかにあの場面は鬼気迫るものがありましたね。

アテブレーベ、オブリガード

コメントを閉じる▲
しばらくお休みしていた中日文化センターの講座を来月から再開します。

今回から、太田牛一畢竟のライフワーク『信長公記』を読むことにしました。
関心のある方、受講してみたいという方は、同センターのサイトのここをご覧下さい。
表紙下にある「7月スタートの新講座はこちら」をクリックすると、3番目が私の講座です。
7月23日(木)から開講です。

簡単な概要は以下のとおりです。

『信長公記』を読み解く
織田信長の伝記『信長公記』のうち、信長上洛以前を扱った首巻(「泰岩事旧記」)を読み解き、尾張統一までの足跡や、上洛以前の主な出来事を学びます。6ヵ月講座。
歴史作家 桐野作人
第4木曜日 13:00~14:30
6ヵ月分/12,600円


近年、『信長記』諸本の調査にも参加したので、そのなかで得た知見の一端も還元できればと思っています。
とりあえず、今シリーズは信長の上洛以前(永禄11年以前)を描いた、いわゆる首巻の面白い部分を取り上げてみたいと思っています。
「大うつけ」といわれた悪ガキ時代、弟信勝との闘争、斎藤道三との出会い、美濃攻め、そして桶狭間合戦などははずせませんね。

東海地方の方のご参加をお待ちしております。
もちろん、それ以外の地方の方も歓迎です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/05 22:17】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |
このところ、講座関係の記事が書けなかったので、日記風に書き留めておきます。

5月30日(土)天晴れ

昼前、JR三鷹駅前の武蔵野大学生涯学習講座に出講のため外出。
某線に乗ったが、うっかりしていたのか、反対側のホームから乗車したみたいで、下北でようやく逆方向に乗ったことに気づく。
いかん、いかん。
時間に余裕をもって出てきたからよかったけど、危ないところだった。

講座は早、4回目。
今回のタイトルは「上杉家滅亡の危機―織田信長の侵攻―」
全10回のうち、いちばん守備範囲に近いところだと思う。

天正10年(1582)、上杉景勝と直江兼続が四面楚歌、内憂外患の状態にあったことを、いろんな史料で解説。
個人的には、滅亡直前の武田氏との同盟も、じつはギクシャクしていたというあたりが売りだったのだけど。上杉方がひそかに安土に使者を送って、和睦を模索していたことがわかる。そして、武田勝頼側近の跡部勝資がそれを察知していて、上杉方に皮肉を述べているのが面白い。

いちばん力を入れたのは、明智光秀が使者を送ってきたことを記した、河隅忠清書状。
拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)でも触れたことがある。
先日の大河ドラマでも、この書状が取り上げられていて、兼続が「誰に馳走すればいいんだ」と訳のわからないことを口走っていたが、この書状にある文言をほぼ忠実にしゃべっていたのが印象的だった。
もちろん、誰が誰に馳走するかわからないような手紙を光秀が書くはずがないだろうと、内心、ツッコミを入れていたけど……。

しかし、ドラマではこの書状が本能寺の変の前に到着していたという説を採用していた。
今回の講座では、そういう見方が成立しないことを詳しく説明した。
この書状は原本がなく、写しが2種類ある。それが収録されている『歴代古案』と『覚上公御書集』を示して、両者の間で、宛所、日付、文言の違いがあることなどを解説した。
まあ、光秀の使者が織田軍に囲まれている魚津城に着いたとすること自体、不自然だし、さらに、天神山に在陣して魚津城にいない須田満親がその知らせを受けたということがもっとおかしい。常識的に考えたら、本能寺の変以前に光秀の使者が来るはずがないんだけどね。

講座終了後、そのまま電車に乗れば、明治大学で開かれる明治維新史学会の例会に間に合うのがわかっていた。しかも、今回の報告が有馬新七あたりだったので、拝聴したかったが、下記のレジュメ作りのため、泣く泣く断念。
あとで、参加した方に聞くと、二次会がなかなか面白かったそうだ。


6月2日(火)天晴れ

岡山空港を15:00前に飛び、羽田から神保町の「てらこや」教室まで直行。
レジュメは事前にPDFファイルで送付しておいたから、すでに机の上に並べてあった。

今シリーズは「小松帯刀と幕末薩摩藩」第6クール。
今回は4回目で、慶応3年(1867)5月の四侯会議のつづき。

二条城での徳川慶喜と四侯の一度目の会議が物別れに終わってから、仕切り直しと第2回会議のあたりについて、越前藩の史料である『続再夢紀事』と『越前藩幕末維新公用日記』を中心に読む。

今回は土佐の山内容堂の動きが焦点だった。
病中の容堂は松平春嶽を呼び出して「一の密事」を打ち明ける。
容堂は朝廷と幕府が別々に会議を開くと、その間を周旋するときに「姦人」が策動する余地があるので、朝幕が一緒に会議を開けばよいと主張して、春嶽の合意を取りつける。
四侯会議が慶喜との対立ばかりではなく、公議政体を公家と諸侯で仕切り、陪臣とくに激派の藩士を排除しようとする側面をもっていることも強調する。

四侯のなかで、いちばん損な役回りになったのは島津久光。
容堂と春嶽が「一の密事」を媒介にひそかに結託したが、そのことを久光と伊達宗城には打ち明けていない。すでに四侯の間でも綻びと色分けの違いが生じていた。
西郷吉之助が久光に建言書を提出している。西郷は、長州処分と兵庫開港の順番が大事であること、また長州寛典こそが世論の趨勢であることを説き、その重要性を噛んでふくめるように久光にレクチャーしている。それも読んだ。かつて久光が西郷を忌避していた様子はうかがえない。久光は西郷のアドバイスに従っている。

実際、『続再夢紀事』のなかで、久光の話した内容が詳しく書かれていたが、西郷の建言書と同一の文言がいくつか出てくることから、久光は西郷のレクチャーに忠実に話したことがわかる。このあたり、面白い。

慶喜との会見では、彼と四侯の対立を調整しようと、春嶽が長州処分と兵庫開港を同時に取り組んだらよいのではと提案すると、久光と宗城が思わず賛成してしまった部分に思わず笑ってしまった。

四侯のなかでも、久光が次第に孤立していく趨勢が読み取れた。
次回は四侯会議の空中分解と、それを受けた薩摩藩の動向を押さえるつもり。

なお、『越前藩幕末維新公用日記』に、京都御所の清涼殿の一角にある公卿の間(あるいは諸大夫の間)の「仮建」が出てきたので、京都御所の略図と近年京都御所見学したときの写真を提示して、解説する。
公卿・公家・諸大夫が控える三間(虎の間・鶴の間・桜の間)が畳の間で、壁や屏風があるのに対して、陪臣(藩士層)の控えの間である「仮建」は狭い板の間で、吹きさらしの粗末な部屋であることを説明。
京都御所空間における厳然たる身分格差が視覚的に表現されており、王政復古政変はこの差別的な身分構造をも解体する意図があったのである。

講座終了後、いつも二次会をやるが、今回は岡山調査の疲れもあったので遠慮した。受講生のみなさん同士で行かれたようである。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/04 23:08】 | 日次記
トラックバック(0) |
先月の話で恐縮ですが……。

5月12日の「開運! なんでも鑑定団」で、小松帯刀書状が登場したそうです。
番組での紹介はここにあります。

大政奉還後の書状らしいですが、写真版が小さくて見えません(泣)。
もしご覧になった方がおいでなら、情報をいただけると有難いです。
コメントや左のカラン下にあるメールフォームを使っていただければ。
よろしくお願いします。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/03 19:38】 | 幕末維新
トラックバック(0) |


-
>なんでも鑑定団
地方の局では、数週間遅れで放送しているところが、
多いようです。
wikiの通りだと、26日遅れで大分が一番近いようですが、
伝手がお有りでしたら、録画を依頼されては?

日曜再放送
NAO4@吟遊詩人
こんにちは
日曜の12時54分(つまり日中です。)に再放送してますよね。ゲストから推察すると、この回は、7月26日に再放送されるんじゃないかと推測されます。
この付近の放送にビデオ予約しておく手もあるのではないかと考えます。(気が長い話ですが。)

有難うございます
桐野
みなさん

さっそくのご教示、有難うございます。
再放送を見るという手もありましたが、別の方からも貴重な情報を寄せていただき、見ることができました。

御礼まで。

コメントを閉じる▲
ひとつ忘れていました。

南日本新聞連載「さつま人国誌」が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/06/02 00:06】 | 信長
トラックバック(0) |
本日、5時半起きで、羽田から岡山に飛びました。

前からやっている「信長記」科研の調査です。

岡山大学・池田家文庫の信長史料といえば、もちろん、あれです。

午後からじっくり見ました。
ホンモノを見られた感激があるのはもちろんですが、今回は「信長記」研究について、既成概念を壊されそうな経験がありました。

今回、古文書学の大家、F本さんや史料保存・修復の専門家、T島さんなども参加されたのですが、いろんなことを教えてもらいました。紙質とか筆跡とか修復の有無とか……。

しかも、何よりすごかったのは、F本さんのお話によって、有名な池田家本、あるいは太田牛一自筆本についての既成観念が壊されそうになったことです。
頭の整理ができていないので詳しく書けませんが、とにかくショックでした。

そのほか、同じくF本さんから、信長文書ですごく変わったものがあると教えてもらいました。
信長文書をたくさん見ている仲間のO田さんやY田さんも知らなかったことで、とにかく驚くことばかりです。

作業終了後の二次会でも、いろんな蘊蓄を拝聴。
室町殿御判御教書や和歌の短冊がどのように作成されるのかとか、もちろん、池田家本の作成過程も……。
もともと古文書など詳しくないのですが、その奥の深さに、ただただ驚くばかりでした。
貴重な体験をした一日でした。

明日午前中は調査の続き。
それから飛行機で東京にとんぼ返りで、「てらこや」の講座です。
ある原稿もできていない。資料持参しているけど、どこまで書けるか? ふう~。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/06/01 23:31】 | 信長
トラックバック(0) |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。