歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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26日(日)、表題の講演に出かける。

4時起きでのぞみに乗り、名古屋でこだまに乗り換えて米原まで行く。
主催者である長浜城歴史博物館の太田浩司さんが迎えに来てくれた。
太田さんとは昨夏、種子島で会って以来である。

たまたま、佐和山城跡の発掘調査の現地説明会とぶつかったので、太田さんから早めに出てくれば、現説も案内できると言われたので、4時起きになった次第。

現地に行くと、三成会で旧知のN井さんやT附さんたちの顔も見えた。
佐和山城の大手口の内濠の中が発掘され、いろんな遺跡や遺物が出土していた。短冊状の武家屋敷がそれぞれ堀や溝によって区画されているのがよくわかった。

それと、佐和山城は火にかかった跡がほとんど検出されていないそうな。
私はてっきり、関ヶ原合戦の翌日、焼失したのかと思っていた。

現説のことが多くの新聞に載ったので、参加者が多く、午前と午後の部に分けられたという。
私は午後の講演のため、当然、午前の部に参加したが、幸いなことに雨にたたられず、現説が終わった頃から、ポツポツ降り出した。

最悪だったのは、デジカメのメモリーを忘れたこと。
だから、現説の写真を載せられません。
代わりに、ここをご参照下さい。

佐和山近くの彦根インターから高速で木之本に向かう途中から、猛烈な雨になった。
路面がプール状態で、車は水飛沫を左右にあげて走る。
前を行く車が辛うじて見えるくらいで、視界が悪い。
午後の部の現説は悲惨だったか、あるいは中止になったのか、よくわかりません。
とにかく集中豪雨といってもよいくらいの雨でした。

この雨の中、果たして参加者がいるのか、正直不安だったが、会場に行くと、かなりの人出。
受付の人たちが忙しそうにしている。心配が少し解消した。
控室で、主催者の長浜城歴史博物館のN島館長や同友の会のY川会長とご挨拶。館長の父上とは同郷だと知る。

壇上脇の幕の陰で待機していたが、まだ客席の様子は見えなかった。
司会の太田さんに紹介されて、初めて表に出て、客席が見えた。
席は9割方埋まっていて、安堵する。
あとで聞いたら、250名の参加者だったとか。
西は大阪、東は名古屋からもお見えだったとか。

あんな雨の中、しかも、交通の便も決してよくないのに、本当に有難うございます。感謝、感謝です。

講演にもかかわらず、またレジュメをたくさん作ってしまって……。
B4で7頁もありました。それでも、だいぶ抑えたほうなのですが……。

テーマは三成と兼続の共闘はどのようなものだったか、とくに東西挟撃策はあったのかどうかというもの。
江戸期の軍記物に見える慶長4年(1599)秋の会津帰国の途次、兼続が佐和山城にひそかに立ち寄って、三成と東西挟撃策を打ち合わせたという逸話はありえない。
ただ、上杉家が家康と一戦を決意したときに、その判断材料として、家康支持派や三成など反家康派の動向を当然織り込んでいたことはたしかだと思われること。

偽文書とされる三成書状2点について、『続武者物語』所収ではなく、それより先行する『東国太平記』所収のものを使って検討し、三成と兼続のひそかな交流がどこまで遡るかを検討。
内容的には、他の史料と付き合わせて、まったく荒唐無稽とはいえないけれど、真正なものといってよいか断定はできず、今後の検討課題だという旨述べた。

個人的には、慶長5年6月上旬の時点で、毛利輝元や宇喜多秀家が反家康の立場だという噂が上方に流れていたのはたしかで、三成書状に2人の名前が出てくるのは必ずしも時期尚早ではないのではないかというあたりは、強調したかったところである。

最後、三成と上杉景勝の覚悟のほどを示す2点の文書を読んで締め括った。
三成のは『歴代古案』所収で、増田長盛と連署した条書(11カ条)。有名な「内府違ひの条々」(13カ条)とほぼ同趣旨だが、中身がより過激であり、家康を呼び捨てにし、「逆心」と規定しており、これこそ三成の宣戦布告というべきだと強調した。
景勝書状は関ヶ原合戦時のものではなく、20年近く前の天正10年(1582)5月のもの。
織田軍に包囲され、新発田重家の反乱を抱えた四面楚歌状態での景勝の覚悟のほどがよく示されている。佐竹家の所蔵文書で、あまり知られていない。
景勝がそれから20年後もそれほど変わっていないことを強調した。

終了後、分不相応にサイン会などしたが、「レキジョ」らしき方々を初めて近くで見た。
でも、とても勉強熱心で、景勝書状に非常に関心があったらしく、中身を教えてほしいとのことで、少し説明してあげた。

何とか務めを果たせてホッとした。

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【2009/07/29 19:16】 | イベント
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ありがとうございました
Y
サンライズ出版のYです。
当日は貴重なお話を拝聴でき、誠に光栄でした。当方ブログでも少しご紹介させていただきましたが、
http://www.sunrise-pub.co.jp/category/staff/
お話を正確にまとめる時間がなかったので、他のブログにリンクしてごまかしてしまいました。誠に申し訳ありません。
もしよろしければ先生のブログにともリンクさせていただければ考えておりますが、ご都合いかがでしょうか。

有難うございます
桐野
Yさん、こんにちは。

佐和山ではお世話になりました。

ブログに紹介いただき、有難うございます。

リンクは張っていただいてかまいません。
こちらもそのうちやっておきます。

感謝感激
Y
ありがとうございます。
早速リンクさせていただきました。
今後ともよろしくお願いいたします。

景勝書状
TOZAKI
ご無沙汰しています。前も「TOZAKI」でコメントしたと思いますが、違ってましたらご容赦を。

景勝が佐竹義重に宛てた書状が、岳宏一郎氏の小説『群雲、関ヶ原へ』の中で取り上げられていました。
「六十余州の敵を越後一国で相支え」というものでしたが、同じものなのでしょうか?

ちなみに『群雲』の作中、関ヶ原前夜の義重は、その景勝書状の凛としたところに感銘を受けたと述懐するが、肝心の景勝は「そんな書状、書いたかな?」などと言い出しています……?


再来年の大河ドラマ
市野澤
こんばんわ。 「江~姫たちの戦国~」の主要キャストが決まりましたね。個人的には茶々 松嶋菜々子 初 木村佳乃 江 松たか子 を期待してて、物語前半は市、後半は三姉妹を主役として、それぞれの立場・思いを描いて欲しかったんですが、ドラマは桐野さんが危惧する展開になると私も思ってます。 いずれにせよ、大河ドラマの影響で滋賀県や関連書籍を出版されてるサンライズ出版に経済効果がもたらされると良いですね!勿論、桐野さんにも。

それです
桐野
TOZAKIさん、こんにちは。

ご指摘の本にある景勝書状、まさにそれですね。
その小説読んでいないもので、気づきませんでした。

ご紹介、有難うございます。


主要キャスト?
桐野
市野澤さん、こんにちは。

再来年の大河ドラマ「江」の主要キャストが発表されたんですか?
知りませんでした。NHKのリリース資料などを見ましたが、見つけられませんでした。
よろしかったら、教えて下さいませ。

来年の大河については、幕末史のとらえ方に不安があるとは書きましたが、「江」については白紙で、今のところ何も考えておりませぬ。
考えてみれば、お江は自分の意志ではありませんが、3度か4度結婚しており、むしろ現代風かもしれません。そのあたりを押し出して女性の共感や支持を得ようという作戦かもしれませんね(笑)。

東スポに載ったようですが…
Y
横レス失礼します。Yです。
 
私も気になって調べてみたら、東京スポーツに載った「噂」のようです。
当方ブログでも8月1日午前0時以降に発表(?)します。
http://www.sunrise-pub.co.jp/category/staff/
 
市野澤様にいただいたエールに深く感謝いたします。

サインありがとうございました
尾山晴紀
木ノ本の講演・サイン会お疲れ様でした。

書状から景勝や三成の人物像を紹介された内容が、とても面白かったです。
一次史料の書状というと、ついつい物事の事実にしか目がいかず、人物像にまで考えがなかったです。一次史料の深みの一端に触れた気がします。


ありがとうございます
どんつき瓦版の増田です
ブログにお邪魔しましたら、先日の佐和山での報告会の話をリンクで貼って下さってありがとうございます。

木ノ本での講演を拝聴できなかったのは残念ですが、拝聴させていただけるチャンスがある事を願っております。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第116回
―イメージと違う老け顔―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回のタイトルにある「再発見」の意味ですが、「新発見」ではなく、以前から一部では知られていたけれど、小松帯刀が写った写真だとは認識されていなかったので、新たに提示したという意味です。

森重和雄氏(幕末古写真研究者)のご教示によれば、この写真は40年前に刊行された『幕末の素顔』(毎日新聞社、1970年)にもすでに掲載されています。管見のかぎりでは、これが世間に知られるようになった最初かなと思います。もっとも、このときも小松が写っているとは認識されていません。
つまり、早くから知られた写真であったにもかかわらず、小松だとわからないままでいたということでしょう。

出処はあくまで推測ですが、写真にも写っている英国艦隊の司令官だったキング提督所蔵の写真か、あるいは、英国公使パークスの鹿児島訪問のとき、久光や茂久らと写った写真がほどなく長崎で出回ったという話もありますので、その一枚かなという気もします。

そして、私がこの写真の存在を知った「井関コレクション」の一枚は、かつて紹介しましたが、ここにあります。

今回の写真と同一だということはすぐ理解していただけると思いますが、鮮明度に雲泥の差があることもおわかりかと思います。

では、この写真の小松と一番有名な小松の写真とでは、あまりに落差があるため、別人ではないのかという疑問も出てくるかもしれません。
この写真の後ろに写っている人物を小松帯刀だと比定してあるのは井関コレクションの一枚だけです。
コレクションの主の井関盛艮(いぜき・もりとめ)は旧宇和島藩士で、明治初年、外国事務局判事を勤めています。つまり、小松の同役、同僚です。
また同コレクションの中にあるもう一枚の写真にも小松が写っていますが、それは外国事務局のメンバーである山口尚芳・田中静州・中井弘・上野景範が写っています。
そのことから考えて、当然、井関は小松と面識があり、同じ仕事をしていたわけですから、同コレクションがこの写真の後方の人物を小松と比定したのは相当確度が高いと思われます。

そして、記事にも書いたように、この写真と一番有名な小松の写真から、顔のパーツを比べてみると、とてもよく似ていると思います。

以上から、小松だと認定してよいのではないかと思っています。
もし、まだ論証不足だといったご意見や疑問があれば、後学のためにうかがいたいと存じます。

次回もまた、小松帯刀関連の記事を書く予定です。

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【2009/07/27 22:28】 | さつま人国誌
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森重和雄
こんにちは!
井関コレクションの写真鑑定については当時、小沢健志先生が中心となって行われたようですが、当時の古写真情報、古写真比較などで鑑定の一部に誤りもあります。
例えば勝海舟とされたヒゲの人物の古写真は、勝海舟の写真ではありません。
そのため、東京大学の馬場研究室が中心となって井関コレクションの再鑑定作業を行いました。
今回の三人の集合写真についても当然、人物鑑定を行いましたが、『幕末の素顔』(毎日新聞社、1970年)にも掲載されているとおり、元の写真はアメリカの公文書館に保管されているため、まだこちらは直接、原本を確認できていない状況です。
しかしながら、他の小松帯刀が写った写真と比較しても、同一人物と思われます。
(つまりこの写真も小松帯刀が写った写真でいいと思います)

井関コレクションの人物比定について
桐野
森重和雄さん、こんにちは。

わざわざコメント寄せていただき、有難うございます。
小松と考えてよいとのご指摘、心強い限りです。

なお、気になっているのは井関コレクションの人物比定です。
現物を見たことがない私は、てっきり井関か誰かが写真裏に記載しているのが元になっているのかと思っていましたが、小沢健志氏がやられたのですか。
となると、小松に限らず、人物比定は要注意で、慎重にしないといけないかもしれませんね。

また例の小松の写真はアメリカの公文書館に保管されているのですか。イギリスならともかくどういう経緯があるのでしょうね。それもまた興味深いです。

今後ともよろしくご教示のほどを。


森重
桐野先生 こんにちは!
井関コレクションにある山口尚芳・田中静州・中井弘・上野景範などと小松帯刀が写っている集合写真と全く同じ集合写真で小松帯刀の人物名が書き込まれている集合写真も見たことがあります。
件の写真の人物が小松帯刀であることを証明するためには、小松帯刀が写っている確実な写真(ベンチマークになる写真)をまずは提示して、その写真の小松帯刀と件の写真の人物の顔とを並べて比較、表示すれば断定できると思います。




森重
桐野先生 こんにちは!
肝心なことを書き忘れました。
今年、東京神保町の古書店で「薩摩藩士初代埼玉県知事野村宗七鶏卵写真」が一括で出品されました。
この写真は元々は差し込み式の古い写真アルバムの収納されていた名刺判写真で、この写真群の中に件の写真と同じ名刺判写真があったと記憶しています。
これらの写真群は現在、東京都写真美術館が購入し、管理しているそうです。


野村宗七写真
桐野
森重さん、こんにちは。

野村宗七の写真も出ていましたか。
私は井関コレクションの1点は知っていますが、「一括」ということだと、複数枚あったんですね。どこから出てきたのか? いずれにしろ、公共機関の所蔵になったので安心です。もし公開されるようなことがあったら、教えて下さい。

ベンチマークというのは古写真研究の専門用語なんでしょうね。
小松の写真で言えば、いちばん有名な写真が小松だとした根拠は何なのかもよくわかりませんが……。


森重
桐野先生 こんにちは!
「薩摩藩士初代埼玉県知事野村宗七鶏卵写真」は、古書店の目録にその一部が掲載されていましたので、別途メールでお送りしておきました。
現所蔵は東京都写真美術館なので、一般公開などは当分先になりそうですね。

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歴史読本9月号の見本誌が送られてきた。

「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」

連載ももう21回目。
単純計算でも、400枚近く書いていることになる。
というか、20回以上かけてまだ元亀元年(1570)。
信長の死まであと13年もある(遠い目)。
果たして辿りつけるのだろうか?

さて、今回のテーマは「野田・福島の陣と本願寺挙兵」。
いよいよ本願寺の登場です。
野田・福島の戦いを両サイドから、やや詳しく取り上げました。
三好三人衆側からは、野田・福島の両砦以外での戦いも押さえました。
織田方・幕府軍方では、陣参公家衆のことも書きました。
戦争に出陣する異例な公家衆のことです。

わからなかったのは、細川藤賢は三好三人衆方なのか、あるいは幕府方なのか。
本願寺挙兵の理由や背景についても書きました。神田千里氏の所説を参考にさせていただきました。個人的には、朝倉義景の一女と教如の婚約の意味が大きいかなという気がします。

最後は、浅井・朝倉軍の湖西を南下してくるところで終わりました。
次回は、志賀の陣を書くのと、奥野高広氏が公表された信長と浅井長政との和睦文書とされる史料を再検討したいと思っています。比叡山焼き打ちまで書けるかどうか。

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【2009/07/25 23:08】 | 信長
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面白かったです
伊ヶ内

池田の内紛が三好を呼び寄せたあたりのお話は、
とても興味深かったです。
信長と浅井長政との和睦文書は興味深いですね。
来月も目がはなせません。

またよろしく
桐野
伊ヶ内さん、こんにちは。

連載の拙稿を読んでいただき、有難うございます。
次回は少し新説を出したいと思っていますので、お楽しみに。



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本日は世紀の大イベントのようですが、あいにく天候が悪く、見えない所が多いようですね。

3月、奄美大島を訪れたとき、西郷流謫地としても知られる北部の龍郷町は、皆既日蝕が見られるゾーンで、地元の方からぜひおいでと言われましたが……。
下の写真は、奄美北部のあやまる岬です。海の奧の岬がそれです。新聞記事などによれば、ここでは日蝕が観察できたそうです。
あやまる岬





中近世の史料では、「日食」ではなく「日蝕」と書かれています。
日蝕は旧暦の朔日に現象します。
本日も旧暦の6月1日なのです。

拙著『真説本能寺』や『だれが信長を殺したのか』でも書きましたが、本能寺の変の前日、天正10年(1582)6月1日は、じつは日蝕でした。
蝕分は6(皆既日蝕を10として)だったそうで、おそらく雨ではなかった京都でも見られたと思います。
まさに日蝕のその日、信長が本能寺に祗候した公家衆に、京暦の不十分さを指摘しました。
私はそのことは当日、日蝕だったことと無関係なのかと問題提起したことがあります。
もしかしたら、「王」である信長は自分の身体が日蝕の妖しい光を浴びるのが我慢できなかったのでしょうか? だとすれば、信長は迷信深かったことになるのでしょうか。

中世、天皇も将軍(鎌倉・室町)も日蝕の光を不吉なものとして忌避しました。
宮中女官の日記『御湯殿の上の日記』には、日蝕当日、禁裏御所を菰で巻いたとか、正月節会が日蝕とぶつかったときには、節会を中止したという記事が散見されます。
黒田日出男『王の身体 王の肖像』(平凡社、1993年)に、日蝕と「王」の身体のことが詳しく書かれています。興味のある方はご覧下さい。

信長時代の事例をあげますと、天正3年(1575)4月1日、長篠合戦の50日ほど前のことですが、日蝕が起こりました。宮廷女官の日記『御湯殿の上の日記』には次のように書かれています。

「日しよくにて、ひつしさるまでの時也、御所つゝみあり」
(日蝕にて、未・申までの時也、御所裹(包)みあり)

日蝕が午後2時から4時まで続いたので、禁裏御所の御簾を下ろし、菰で包んだというわけです。

さて、日蝕を忌む習俗はその後もずっと続きました。
幕末宮廷のあれこれを綴った、下橋敬長『幕末の宮廷』(東洋文庫、平凡社)のなかにも、日蝕のとき、御所の庇を巻いたという証言があり、幕末期までこの習俗が続いていたことがわかります。

幕末薩摩藩の史料にもあります。
『忠義公史料一』362号「日蝕参賀被停」には、文久元年(1861)6月1日に日蝕が現象したことが書かれています。

「一、蝕により参賀止めらる」

とあり、朝廷の朔日参賀が中止になっています。
この日の日蝕は蝕分「三分」で、巳の刻(午前10時頃)から巳の半刻まで続いたとありますから、1時間ほど現象したようです。
翌2年11月1日も日蝕で参賀停止になっています。

中世から幕末まで、日蝕は朝廷にとって重要な忌み事だったわけですね。
さて、現代は?

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【2009/07/22 12:51】 | 雑記
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日蝕
伊ヶ内
ひょっとして明智光秀は、日蝕があることが、
織田の世から明智の世に代わる転換点だと
考えて、日蝕の次の日を襲撃の日に選んだかとも
思ったんですが、「だれが信長を殺したのか」
の214ページには挙兵の三日前に至っても
明智光秀が挙兵の決断ができなかった
事実が書いてありますもんね。
結局、突発的行動だったのかなあ、と思ったりします。


光秀と日蝕
桐野
伊ヶ内さん、はじめましてだったでしょうか?

日蝕は意外と起こっていますから、このときだけとくにどうということもないのではと思います。
朝廷はともかく、武家はあまり気にしなかったかもしれませんし。

拙著を読んでいただき、有難うございます。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第115回
―島津家が石材運んだ堤―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

昨日朝刊に掲載されましたが、Web上での更新は今日にずれ込みました。
鹿児島はいま皆既日食で盛り上がっているのと、高校野球県予選が終盤なので、人手が足りなかったようです。

前回で3カ月にわたった島津氏の琉球侵攻を終えて、新しいテーマに取り組んでいます。
といっても、先日、静岡に取材に行ったときのネタなんですが。

静岡市の駿府城の近くに「薩摩土手」があります。
以前から知ってはいたのですが、実際に見たことがなかったので、なかなか書けずにおりました。

『静岡市史』などに、史蹟案内の形で少し記述がありますが、いつどのような形で普請されたのかよくわからなかったので、やはり薩摩側の資料で調べるしかないと思いました。

『旧記雑録後編四』にそれらしき記事が断片的にいくつかありましたので、それらをつなげて書いてみました。
当初は徳川秀忠の将軍補任に伴う江戸城拡張の天下普請に島津家も動員され、石材の運搬を命じられた。それが何らかの理由で、同時期に進行していた大御所家康の駿府城普請のほうに転用されたというのが真相ではないかと感じました。

薩摩土手」の由来は、島津家で堤防普請をしたのではなく、石材運搬までだろうと思います。
もし普請までしていたら、もっと関連史料が残っているはずだと思うからです。

それでも、「薩摩土手」の名前が残ったのは、よほど現地の人々に印象が強かったのでしょうか。
安倍川の洪水に泣かされていたので、喜びもひとしおだったのだと思っておきましょう。

なお、当時、「薩摩土手」は長さ4キロもありましたが、現在、残っているのは「薩摩緑地」と呼ばれる一角だけで、長さ100メートルほどでしょうか。
記事では載せられなかったので、その断面写真を載せておきます。一部コンクリートで固められていますが、原形は裾野の広い台形状だったことがイメージできると思います。
薩摩土手





それで、この「薩摩土手」の背景ですが、記事には分量の関係で書き切れませんでしたが、やはり島津家久の徳川幕府への接近と無関係ではないと思います。
薩摩土手」のための石材を運搬したのが、家久が家康から「家」の一字を拝領した直後のこと。
家久が必死になって徳川幕府への奉公に励んでいる時期と重なります。

さて、記事にも書いた赤崎左近という薩摩武士。
何か不始末をしでかしたようです。家康の側近山口直友の書状には、成敗するところを助命すると書かれています。
ところが、赤崎左近らしき人物の喧嘩沙汰を書いている『当代記』には、池田輝政の家来たちに捕らえられ、成敗されたとあります。

さて、赤崎左近は助命されたのか、成敗されたのか?
『当代記』の記事には、赤崎の名前はなく、薩摩の使者とありますから、赤崎とは別人の可能性もあります。もしそうだったら、少なくとも二人が喧嘩や刃傷沙汰を起こしていたわけですから、薩摩人の喧嘩早さがうかがわれます(笑)。

次回は、小松帯刀の写真について書きます。
いちばん有名な美青年風に写っている小松とまったくイメージの違う小松らしき人物の写真があります。従来から一部では知られていた写真ですが、ピンボケというか、コピーのコピーだったせいか、ぼやけてよくわかりませんでした。
でも、原版に近い鮮明な写真があるのがわかって、それを入手し、よく観察してみたら、いろいろ意外なことがわかりました。
お楽しみに。

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【2009/07/21 20:51】 | さつま人国誌
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少し時間が空いたが、14日(火)夜、小学館アカデミー「てらこや」の講座に出講したことをば。

今回から「小松帯刀と幕末薩摩藩7」の新たなクールが始まりました。

前回まで「四侯会議」のプロセスと結末をしつこくやったので、受講者のみなさんには多少食傷気味だったかもしれませんが、今回から新展開になります。

四侯会議の結末に対して、もっとも顕著な反応を示したのは薩摩藩と一部公家衆です。
とくに、あまり知られていない公家衆の動向に注意を払いました。

四侯会議とセットになって、議奏と武家伝奏の選任という朝廷人事問題がありましたが、そのとき、薩摩藩が候補者として推薦したのが大原重徳と中御門経之、そして正親町三条実愛です。
三者とも、文久年間は親長州の激派公家として鳴らした連中です。
とくに前二者については、そのあまりの過激ぶりに孝明天皇が激しく忌避したことでも知られています。
朝廷の事実上のトップである二条摂政も、孝明天皇の遺勅を理由に2人を拒否し、正親町三条の議奏就任だけは認めました。

今回は『岩倉具視関係文書』三や『朝彦親王日記』二から、中御門と正親町三条の発言を取り上げました。
中御門は四侯会議の結果を「幕暴の極み」と慶喜を痛罵し、このうえは「内奸誅戮断然 朝敵の名を以て討幕の外これなく候」と、はっきりと「討幕」を口にして、岩倉具視に同調を求めています。

正親町三条についても、朝彦親王が聞いた話として、「長防は寛大、兵庫開港は止めさせ候」とし、いかにも親長州で攘夷派らしい主張をしています。薩摩藩さえ兵庫開港はやむなしと見ていましたから、正親町三条はさらにその上をいきます。さらに彼は「大樹」(慶喜)がこの方針を採用しないと、将軍職など辞めさせてしまえばよいと言い放っています。

このように、四侯会議は、朝廷内に討幕派を形成させることになったのです。
慶喜はこうした公家の動きを軽視したのではないでしょうか。
のちに、中御門も正親町三条も討幕の密勅を作成した中心人物になります。

公家衆と呼応した形で、ほぼ同時期に薩摩藩でも、ひそかに討幕派が形成されます。これについて、講座では『修訂 防長回天史』を使いました。というか、おそらくこれしかありません。
四侯会議直後の慶応3年(1867)5月末か6月初旬、ひそかに入京していた山県狂介と品川弥二郎は、島津久光との対面を許されたあと、小松帯刀邸に招かれます。

同席したのは西郷吉之助・大久保一蔵・伊知地正治です。
その席で、小松が2人に語った話は有名です。

「小松曰く、(中略)幕府の譎詐・奸謀、尋常の尽力にてはとても挽回の期これあるまじき、就いては長薩連合同心戮力致し、大義を天下に鳴らしたし」

討幕」という言葉こそ使っていませんが、「尋常の尽力」ではもはや不十分で、別の手段をとることを小松は示唆しています。
そして通説では、これをもって薩摩藩の討幕派の形成だと評されています。
討幕」という言葉の定義にもよりますが、薩摩藩が言論による国事周旋では限界があると痛感したことだけは間違いありません。

昨年、大河ドラマ「篤姫」の感想を書いてきましたが、私は小松の描き方が不十分だと何度も力説しました。
それはとくにこの史料を念頭に置いてのことでした。
薩摩半島爆破、もとい薩摩藩討幕派の口火を切ったのは、ほかならぬ小松だからです。
ドラマはこれとは逆の小松像を描こうとしていましたね。
おそらく来年の大河ドラマもそうなるだろうという予想というか、予感があり、じつをいうと、あまり期待していないのです。むしろ、また的外れな言説が広がることを懸念さえしています……。

それはさておき、当講座も佳境に入りつつあります。
次回は少し趣向を変えまして、小松帯刀の新出文書を検討したいと思います。

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【2009/07/19 16:46】 | てらこや
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武蔵野大学生涯学習講座
大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康

この講座も先週の11日(土)で最終回(10回目)だった。
毎週土曜日開催で、一気に駆け抜けた感じです。

最終回のテーマは表題のとおり。
関ヶ原敗戦後の戦後処理と米沢転封の過程を追い、さらに兼続の2人の子ども、大和守勝吉と平八景明のことを主に触れました。

とくに勝吉は本多正信の二男であり、兼続の婿養子という形になっています。
勝吉の存在が幕藩体制初期における上杉家の安全保障に役立ったことなどを話す。
勝吉はのち、加賀前田家に仕官して本多政重と名乗るのは周知のこと。

とにかく興味深い人物ですね。
まず、その仕官歴です。
将軍秀忠の乳母の子を斬って出奔してから、

大谷吉継→宇喜多秀家→前田利長→小早川秀秋(中止)→福島正則→直江兼続(養子)→前田利長・利常

という具合に、転々と主家を変えています。
いかにも、戦国期の武将らしい処世ですね。

次に、勝吉が上杉景勝の養子になったかもしれないという説があること。
典拠は『加賀藩史稿』にある本多政重譜です。

「初め景勝子無し、政重の名冑たるを以て養いて子と為し、其れをして後を承けしめんと欲す、是に於て先づ兼続の女を養ひ、之を政重に配す」

これを読むかぎり、勝吉が景勝の養子となり、兼続の一女(於松)を景勝の養女にして政重に娶せるつもりだったと読めます。しかし、その後に次のような記述があります。

「勝吉乃ち直江氏を冒し、大和と称し、又安房と改称し、名を勝吉と更む」

景勝の養子になるはずだったのに、いつの間にか直江名字になってしまいます。その間に景勝の養子話が解消されたのでしょうか? そのきっかけは喜平次定勝の誕生でしょうか。

勝吉の「勝」は景勝からの一字拝領だと思われること、兼続には幼少で病弱とはいえ、すでに実子平八がいたことを考えると、兼続が屋上屋を重ねるように勝吉を養子にする必要はないように思われることなどから、景勝の養子入りはそれなりに現実味のあった話なのでしょうか?

なお、勝吉と於松の間に生まれた子を景勝の養子にするという説もあるようですが、上記からはそのようには読み取りにくいように思われます。もっとも、於松を景勝の養女とするならありえるかもしれません。
果たして、どこまで信憑性のある話なんでしょうね?
誇り高い上杉家が、家康の子ならともかく、本多家の庶子を跡継ぎにするとは考えにくい気もしますが……。

これで今期講座は終了しましたが、秋期講座として、以下の講座をやる予定でいます。
よろしかったら、受講してみませんか。

【1】講座名
太田牛一『信長記』を読む

【2】講義概要
 織田信長の伝記として有名な『信長記』(別名:信長公記)をテキストにして読みながら、信長の人間像や事績を探ります。今期は信長の上洛以前の青年期を叙述した「首巻」を読みます。「大うつけ」と呼ばれた少年時代から、弟信勝や他の織田一門との闘争を通じて尾張統一をなし遂げるまで、関連史料を使いながら読みます。父信秀の葬儀、斎藤道三との出会い、桶狭間合戦など有名な出来事も取り上げます。

【3】開講日・時間(15:00~16:30)、各回の講義内容
1 10/14(水) 織田氏と父信秀の時代
2 10/27(水) 「大うつけ」信長
3 11/11(水) 斎藤道三との出会い
4 11/25(水) 初陣・赤塚合戦
5 12/09(水) 弟信勝との戦い
6 01/13(水) 信長、初めての上洛
7 01/27(水) 桶狭間合戦
8 02/10(水) 松平元康との同盟
9 02/24(水) 稲葉山落城
10 03/10(水) 足利義昭を迎える

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【2009/07/15 17:26】 | 武蔵野大学社会連携センター
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御高著に対する雑感&質問
惟宗
はじめまして!偶然、このブログサイトを発見?して、改めて桐野さんの博学ぶりに驚嘆しております。
さて、ご高著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)を拝見し、個人的興味のある長宗我部氏と土佐一條氏について、織田権力との関係性を論じられた箇所について、雑感を…。桐野さんは、秋澤繁氏論文を活用され、大津御所体制説を肯定的に捉えておられますが、桐野さんも指摘されている通り、「戦国大名長宗我部氏に対していささか過小評価ではないかという気がする」(同書75頁)のです。土佐一條氏については、朝倉慶景氏の研究を始め、市村高男氏、石野弥栄氏等の研究がありますが、権威としての存在である土佐一條氏=京都一條内基の影響力が、中央の政治的思惑があるとはいえ、権力たる長宗我部元親にとって、実質的な土佐及び四国統一過程において、どれだけ影響があったのでしょうか?
これは関東の古河公方足利氏と後北条氏の擬制的主従関係にとても類似しています。信長が果して大津御所体制を内包、利用することで、元親を統制する必要があったのか?なぜ、直接的な上位権力として、元親を統制するだけの実力がありながら、兼定以降、幡多郡を中心とする領域支配権を失い、伝統的権威にすきない土佐一條氏を梃子にしなければならなかったのか、大津御所体制の必要性が、いまひとつ理解できませんので、桐野さんのお考えをお聞かせ願えればと思い、重箱の隅をつついた雑感を寄せさせて頂きました。
今後さらなるご健筆をお祈りします。長々と失礼しました。

大津御所体制と長宗我部氏
桐野
惟宗さん、はじめまして。

ハンドルかご本名か存じませんが、島津氏ゆかりの方でしょうか?

さて、拙著を詳しく読んでいただき、有難うございます。
大津御所体制と長宗我部氏の評価は難しいところですが、拙著でも触れていますが、天正5年頃、土佐幡多郡にある妙顕寺の末寺の寺領に長宗我部氏が替地を与えるという一件が、妙顕寺を通じて織田政権に訴えられています。結局、元親は織田政権の奉行人の裁定に従って、寺領を返還せざるを得ませんでした(拙著177~78頁)。

この一件などを見ると、土佐国の寺社の訴訟が本寺を通じて織田政権に持ち込まれて解決が図られ、長宗我部氏がその裁定に従わざるを得ないという構図がうかがえます。
となると、公家とくに摂関家も同様ではないかと思われます。
摂関家自体はそれほど力はありませんが、信長に庇護される存在であり、その訴訟があれば、信長は動きます。
大津御所体制も一条氏が織田政権を背後にしていたからこそ、長宗我部氏の上位たりえたのだと思います。

ですから、元親が大津御所体制を解体したことは、土佐一条氏の否定であり、それはひいては摂関家一条氏の否定につながり、織田政権が定めた秩序体制への反抗ととられてもおかしくないと思います。
もっとも、反抗から叛逆まではまだ距離があるように思いますが……。
史料上では、一条氏が信長に訴え出たという確たる証拠は見出せておりません。そのあたりがはっきりすると、大津御所体制への評価も定まるような気がします。


大津御所体制雑感、質問への回答御礼
惟宗
桐野さん、拙い質問に対するご丁寧な回答ありがとうございます。
惟宗は私の本姓ですが、分家の一族が熊野別当につながる系譜らしいです。
さて、お説理解致しました。ただ、真静寺所蔵文書の理解は、桐野さんも指摘なされているように、大津御所体制の背後に存在した、一條内基を通じて信長に裁定を願い出たものか否か、史料的裏付けがほしい所ですね。当時の幡多郡支配は元親実弟の吉良親貞であり、幡多郡の土地割譲元親に降った旧一條系の土豪にあつく、その他は元親の直轄領に編入されていたにもかかわらず、織田権力の直接介入が散見されないのは不明です。この、大津御所問題の深化は、一條と長宗我部の問題に止まらない意義あるものと考えております。この問題については、土佐一條氏を戦国公家大名と捉えるか否かという問題も含め、いずれ文章化を考えておりますので、勉強になりました。ありがとうございます。

ご健闘を
桐野
惟宗さん、こんにちは。

大津御所体制と長宗我部氏の関係を本格的に研究されているのですね。
よい成果があがることをお祈りします。

ありがとうございます!
惟宗
桐野さん、こんばんは!

大津御所体制と長宗我部氏ひいては、中央の織豊権力との問題は荷の重いテーマですが…(笑)
桐野さんのご教示を活かす事ができたらと思います。色々ありがとうございました!

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南日本新聞7月12日付の記事

薩藩留学生の遺徳しのぶ
歴史公園と資料館整備
[英国出発の地]いちき串木野・羽島

というのが掲載されました。
比較的大きい記事なのに、同紙のネット版には記事がないようで残念です(探し方が足りないかも)。

それによれば、発注主体は鹿児島県といちき串木野市で、すでに公園と駐車場約1200平方メートルの楔形を発注済みとか。本年度末完成予定。

資料館のほうは予算を計上して、資料収集を行い、その結果を見て、資料館の規模などを検討するという。2012年度までに資料館の完成をめざすそうです。

資料館完成まで何とか漕ぎ着けてもらいたいもの。

その際、お願いしたいのは、薩摩出身ではないという理由で、「若き薩摩の群像」から除外された高見弥一(土佐出身)と堀孝之(長崎出身)の資料を充実させてほしいものです。

2人については、こちらをご参照下さい。

できれば、小さくてもいいですから、留学生群像をこちらでも作り、それに高見・堀の2人を加えてもらいたいものです。もう鹿児島市には金輪際期待しておりませんから。

さらにいえば、幕末の留学生はこのときだけではないので、その後の留学生の資料も展示してもらえたらと思います。

何年か前に同地に行ったことがありますので、そのときの写真を載せておきます。
串木野1
串木野2





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【2009/07/13 15:53】 | 信長
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世間では、ドラクエの新作が発売され、東京では明日都議選ですが、いかがお過ごしでしょうか?

滋賀県の長浜歴史博物館の友の会主催の「北近江歴史講座」第2回講座が、あと半月後に迫ってきました。
初回講師が小和田哲男氏だっただけに、動員面などで非常にプレッシャーを感じています。
なので、及ばずながら、当ブログで再告知します。

主催者のWeb上の告知があります。
PDFファイルになっているようですから、ここをご覧下さい。
よかったら、プリントアウトして下さいませ。

簡単に講座の概略を書いておきます。
全体のテーマが、

石田三成と直江兼続
―大河ドラマ「天地人」を楽しむために―


そのうち、私の担当は、

2、関ヶ原合戦と石田三成の共闘
―家康東西挟撃説をめぐって―

日時は7月26日(日)13:30~
会場:木之本町スティックホール
会場は木之本町役場に隣接しています。地図はここです。

木之本町は賤ヶ岳の戦いの史跡があるところでも知られています。

受講料:1講座につき500円(友の会会員の方は無料)
申込方法:事前申し込みは不要。受講料は当日、会場でお支払い下さい。

石田三成と上杉家の盟約は果たしてあったのかどうか。あったとすれば、いつ頃から成立したのかというのは、関ヶ原合戦のドラマなどでは必ず登場するテーマですが、あまり知られていない史料も使って、その真相にアプローチしてみたいと思っています。
とくに関西・東海方面からのご参加をお待ちしています。

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【2009/07/11 10:33】 | イベント
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講演会楽しみにしています
桐野さん、ご無沙汰しております。

講演会、楽しみにしています。
会の仲間と是非拝聴しに行きたいと思っています。


よろしく
桐野
応援有難うございます。

どこまで迫れるかわかりませんが、最近、考えていることを披露できればと思っています。


びわこ
及ばずながら、オンライン三成会も徒党を組んで参ります。
楽しみにしてます!
(あ、サラダパン、忘れてませんから~)

よろしく
桐野
びわこさん、こんにちは。

徒党を組んで出席していただけるとは有難い限りです。
サラダパンも楽しみにしております。

当日、よろしくお願いします。

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今年も半分過ぎました。

例年そうですが、私たちの業界では、そろそろ来年の大河ドラマの仕込みが始まります。

すでに、龍馬本の原稿を書きましたし、別件の雑誌でも数本原稿依頼が来ています。

秋期講座でも龍馬をテーマにしたものが開催されますが、ほぼ輪郭が決まりました。某大学の市民講座で、全10回です。
一応、主宰講師になっている関係で、そのうちの3回分を担当します。
①龍馬と薩摩藩の関係、②薩長同盟論、③龍馬暗殺、です。
ほかにも、よくご存じの論者に協力していただきました。
正式の告知がそのうち出来ると思います。

個人的には龍馬関係の単行本も書かないといけません。

しか~し、その前に積み残した宿題があります。
何が何でもやり抜かないといけませぬ。
今年こそやらないと年が越せません。関係者に顔向けができません(汗汗)。

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【2009/07/09 02:06】 | 雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第114回
―家康にハイビスカス献上―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

このタイトルでの連載も13回目で、いよいよ最後となりました。
重いテーマを取り上げましたが、私も知らないことが多くて、手探り状態で書き始めました。
その間、奄美と徳之島に取材に行けたのがよい思い出です。
また、現地の方々との交流で、知見ばかりではなく、400年間の思いの丈も知ることができました。
奄美諸島では、いまでもこの問題が影を落としていると感じました。沖縄県も同様でしょう。

一方、連載では紙幅の関係で触れられませんでしたが、島津軍の総大将となった樺山久高の子孫家では、琉球の尚寧王の霊を400年にわたって「内神」として祀っている事実があります。樺山家も大きな重荷を背負っていることを感じさせます。

口はばったいことをいわせていただければ、この問題は鹿児島県そして県民にとって、400年来の宿題だと思います。
そのためには、400年前の歴史を知ることから、その第一歩を始めるしかありませんが、まず鹿児島県本土(大和)から何らかのアクションを起こすべき時が来ているのではないかと思います。

島津家現当主も奄美・徳之島を訪問されました。それなりに400年の課題を感じられてのことだと思います。
県民レベルでも、そのような動きが出ることを祈っています。そうでなければ、奄美・沖縄県との近くて遠い関係がずっと続くような気がしており、それは双方にとって不幸なことだと思います。

次回からまた別のテーマでやりたいと思っています。

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【2009/07/07 00:01】 | さつま人国誌
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そう願います
喜山
はじめまして、喜山といいます。

「口はばったいことをいわせていただければ、この問題は鹿児島県そして県民にとって、400年来の宿題だと思います。
そのためには、400年前の歴史を知ることから、その第一歩を始めるしかありませんが、まず鹿児島県本土(大和)から何らかのアクションを起こすべき時が来ているのではないかと思います。」

鹿児島出身の方から、こういう発言が出てきたことがとても嬉しいです。ぼくも双方の対話が始まることを願ってやみません。





はじめまして
桐野
喜山さん、はじめまして。

御著読ませていただいています。

現今の状況が主に大和側(私を含めて)の無知・無関心によるものだと思っていますから、まずその現況に風穴を開ける必要があるのではないかと思います。

今後ともよろしく。

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NHK大河ドラマ「天地人」第27回「与六と与七」

ドラマは天正15年から翌16年の聚楽第行幸あたりをやっていましたね。

前回、小早川隆景が登場して、秀吉のそば近くにいましたが、なぜ隆景が出てきたのか、脚本家の意図がわかりません。横内正が演じていましたので、今後も登場するのでしょうか? ちなみに、あの時期、隆景は在京していません。念のため。

さて、今回、聚楽第のCGが出ていましたね。
聚楽第の全貌があれほど、しかも俯瞰で見られたのは初めてです。
復元のしかたが正しいのかどうか、私には判断がつきかねますが、ちゃんと奧に天守閣があり、手前に池のある庭園とともに西本願寺にある飛雲閣そっくりの建物がありました。もっとも、飛雲閣は聚楽第の遺構ではないという説が最近は有力だったと思いますが。

今回は小国与七こと、大国実頼が主役といってもよかったですね。
小国家は出羽小国城主で、実頼は小国三河守真将の養子となり、家督を継いでいます。

実頼が聚楽第落成と秀吉の九州攻めからの凱旋を祝すため、上洛したのは天正15年(1587)11月。
実際は、上杉家の人質としての上京だったといわれています。だから、兼続から離れるため、あるいは上杉屋敷造営のために在京したわけではありません。

ドラマでは在京中、秀吉から従五位下叙位、すなわち諸大夫成(しょだいぶなり)をし、さらに小国から大国へ改姓していました。
大国に改姓したのは事実ですが、果たしてこの時期だったのか、また秀吉の命だったのかは不明です。上杉家臣団の系譜を収録した「御家中諸士略系譜」(『上杉御年譜』23所収)の大国但馬守実頼の部分には次のように書かれています。

「小国氏家督後に故有り、大国に改め、天正十五年十一月諸大夫に任ぜらる」

これを見るかぎり、大国氏への改姓は上洛以前のようにも見えます。
また実頼が諸大夫成したと書かれているのは、おそらくこの系譜だけで、それを裏づける史料はほかにないと思われますので、詳細は不明です。

豊臣政権時代、大名や陪臣の公家成・諸大夫成の事例を網羅してあるのは、下村效「天正 文禄 慶長年間の公家成・諸大夫成一覧」(『栃木史学』7号、1993年)です。
これによると、天正15年の諸大夫成には大国実頼の名前は見えません。翌16年、上杉景勝が聚楽第行幸のために上洛したとき、景勝が三位(参議もか)に叙せられ、清華成したのに伴い、兼続・色部長真・荻田長繁の3人が諸大夫成したことは書かれていますし、実際に兼続の口宣案も現存していますから間違いありません。

それに比べて、実頼の諸大夫成は裏付けとなる史料に欠けています。
本来、諸大夫とは、親王・摂関家・清華家など上流公家の家司のことです。
それにならって、武家陪臣の諸大夫成という先例をつくったのは秀吉で、天正13年(1585)7月、関白に任官したとき、十数人の家臣を率いて参内しました。この家臣たちが秀吉への供奉のため、諸大夫成しています。石田三成・大谷吉継などです。
兼続ら陪臣の諸大夫成は、その先例にならったもので、徳川・前田・毛利・宇喜多など五大老クラスの大諸侯が清華成したのに伴い、その参内に諸大夫として供奉するために、少数の重臣たちが諸大夫成を認められるようになりました。
したがって、景勝の清華成以前に、その家臣が諸大夫成するのは原則的にありえないと思います。

上杉家と同格の大名である中国の毛利氏の場合も、輝元が景勝に少し遅れて上洛します。そして従四位下参議に叙任され、清華成するとともに、一門・重臣の堅田元慶・渡辺長・粟屋元貞・国司元蔵・穂田元清・口羽春長・福原元俊・林就長・三浦元忠の9人が諸大夫成をしています。

このような事例を見れば、実頼の諸大夫成は疑問符が付きますね。
もっとも、別の事例もあります。諸大名は豊臣政権への服属のしるしに、親族や重臣の子女を人質に差し出しています。
たとえば、真田信繁もそうで、在京している間に秀吉の近習となって諸大夫成し、左衛門佐と名乗っています。
実頼のケースはむしろこの事例に該当するでしょうか。でも、実頼は秀吉の近習になった形跡はありません。う~ん。

兼続とお船の間にどうやら子どもができたみたいですね。
縁組してから7年目です。
これはのちの「お松」でしょうね。
『兼見卿記』文禄4年(1595)8月条にお船が子女と吉田社を訪れていますが、それにある「十一歳息女」がお松だと思われます(今福匡『直江兼続』)。
逆算すると、生年は天正13年(1585)ですね。ドラマより3年前に生まれたことになります。

次回は独眼竜政宗登場ですね。
すでに真田幸村(信繁)は登場済みですし、今後は前田慶次や大谷吉継も出てくるでしょうから、ますます歴女好みのドラマになりそうな(爆)。

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【2009/07/05 23:35】 | 天地人
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石ころ
隆景を出したのは、いずれ「ワシが死んだら是非上杉殿に大老を継いで頂きたい」とか言わせるための布石じゃないでしょうかw

なるほど
桐野
石ころさん、はじめまして。

小早川隆景の役回りをそのように考えられましたか。
おそらく、関白秀次の粛清をある程度描くならば、ありうるかもしれませんね。
秀次の死後、豊臣政権は動揺し、秀吉は諸大名に起請文を出させますが、その際、徳川家康と毛利輝元・隆景を東西の抑えとする意志を示しています。
秀吉は隆景を高く買っていたので、その死に臨んで、自分の代わりに上杉景勝を取り立てられよと、隆景が遺言するという寸法ですね。なるほど、なるほど。


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日次記というほどではないが、備忘のため。

このところ、週2回くらい歯医者通いだが、仕事に熱中しているせいか(ウソウソ)、よく予約時間を忘れてしまう。
先方も業を煮やしたのか、電話を掛けてくるようになった。すみません。
携帯のアラーム機能を使っているのだが、携帯を別の部屋に忘れたりしていて気づかないことも(汗)。

7月に入って、名古屋の栄・中日文化センターの講座「信長公記を読み解く」を紹介するため、中日新聞の記者が来訪。もう3度もお世話になっている。いつも有難うございます。
私の手違いで前講座から3カ月もブランクがあり、熱心な受講生の方から「もう来ないのかと思って、別の講座を入れちゃったよ」と言われて心配していたのだが、おかげさまで、受講者数も予想以上に多く、安堵しているところです。
開講は今月23日で、締切にはまだ時間があります。東海方面で興味ある方はここをご覧下さい。「7月スタートの新講座はこちら」をクリックすると、上から3番目が小生の講座です。

1日(水)
いつぞや話題にした小松帯刀の新出文書。
何と、所蔵者のご子孫から写真版を送っていただいた。
大感激である。まごうことなき小松の真筆だ。
大政奉還後、いったん帰国した小松が持病のため、再上洛できない事情が切々と書かれている。
やはり、自分の使命を忘れてはいけないと再認識。韓流風にファイティン!!

2日(木)、都内某所の霊園墓地に写真撮影に出かける。
小雨だったのが、途中からどしゃ降りに。往生しました。
でも、写真はちゃんと撮れました。

本日4日(土)、午後からJR三鷹駅前のサテライトキャンパスで、武蔵野大学市民講座「大河ドラマ『天地人』と信長・秀吉・家康」に出講。
全10回のうち、もう9回目です。
今日のテーマは「直江兼続と長谷堂合戦」。

伊達政宗や最上義光の書状を読む。前にも読んだことがあったが、改めて熟読すると、新たに気づく点がいくつかある。史料は噛み締めるように吟味すべきだなと感じる。
長谷堂合戦を詳しく記した一次史料が少ないので、軍記物で補強。
『奥羽永慶軍記』や『関原軍記大成』を読む。『最上義光物語』もと思ったが、分量の関係で断念。
『奥羽~』は直江兼続の殿戦での奮戦がよく描かれている。
セリフの部分は少し抑揚を付けて講釈風に読んでみた。
『関原~』は前田慶次の部分だけを読む。
ふへん者」の逸話などを確認。
慶次の背旗に「ふへん者」と書いてあるのを「武篇者」だと読んだ上杉家の武士が大ボラだと詰め寄ると、慶次が「田舎者は言葉の清濁がわからないから困る。これは「不弁者」と読むんだ」と肩すかしをくらわす有名な場面。
ところが、文中には「武へん者」と書かれているから、どう見ても「不弁者」とは読めない。
せっかくの面白い逸話にケチがついたと、ツッコミを入れながら読む。

受講生には、20代、30代とおぼしき男性も何人かおいで。きっと劇画「花の慶次」で育った世代だなと思う。どんな感想を持たれたか聞いてみたかったが……。
いずれにしろ、長谷堂合戦の敗軍での兼続と慶次は、大河ドラマの終盤のハイライト。あまり期待していないが、果たしてどんな風に描かれるのか?
ところで、慶次役の配役は決まっているんですかね?

講座終了後、受講さているご夫妻とお茶。
じつは夫君が郷里の高校の先輩にあたる。
わざわざ受講していただき恐縮している。
お茶とケーキをご馳走になった。これも感謝。

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【2009/07/04 22:42】 | 武蔵野大学社会連携センター
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関西の城郭研究者として著名な福島克彦氏より、表題の新刊をご恵贈いただいた。有難うございます。

かつて、一度講演会でご一緒したことがあったが、出身大学・学科が同じだということもあり、親近感を抱いていた。

本書は吉川弘文館の「戦争の日本史」シリーズ全23巻の最終巻。
シリーズ全体の告知はここにあります。

従来、戦争史においては、戦国時代は一括して取り上げられていて、地域の独自性や個性が全体に埋没しているきらいがあった。
本シリーズはそうした傾向を克服するためか、応仁・文明の乱以降の戦国時代を、東国、畿内近国、西国の3つに分けて、それぞれの特質を論じる方法をとっている。
これは、現在の戦国史研究の発展に即しており、時宜にかなったものだと思う。

なかでも、福島氏が担当された畿内・近国の戦国史を論じるのは、もっとも困難が伴ったのではないかと察せられる。氏もプロローグで、この地域は「英雄」不在で混乱・無秩序のイメージが先行していたと評している。

畿内・近国の通常の戦国史だけを叙述するだけでも大変だと思うが、本書の特徴は、城館や都市に焦点をあてることによって、畿内・近国の戦争史のもつ新たな側面をあぶり出しているように思える。

まだすべてを通読したわけではないが、「城」のイメージにも変遷があることがわかった。小都市の通路を塞ぐだけでも、「用構」という一種の「城」として、記録や文書に記述されていることから、都市集落全体を「城」という空間イメージでとらえているという指摘は、城郭にうとい小生などには、とても新鮮に映る。

とくに、Ⅴ 防御施設の発達 の章が図表を多用してあり、著者の本領がもっとも発揮されたところではないかと感じた。

戦国時代や中世城郭に関心をもつ方にはお勧めしたい。

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【2009/07/01 10:56】 | 新刊
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びわこ
いい本のご紹介、ありがとうございます。

坂本で、桐野さん、福島さんのお話をお聞きしたのは、もう何年前になるのかなぁ・・・

遠い目
桐野
ひわこさん、こんにちは。

そういえば、3人で電車が来るまで長くお茶していたことがありましたね。
もう5年くらい前でしょうか?

今月は久しぶりにお会いできるでしょうか。

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