歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
週刊朝日






表題・写真の雑誌(関東圏は本日発売)で、「今こそ、幕末・維新に学べ!」という特集記事があり、幕末維新の有名人が13名取り上げられています。

詳しくはここをご覧下さい。

そのうち、大久保利通について、私が少しまとまってコメントしています。
よかったら、ご覧下さい。

実際は、現代の世相や民主党政権の課題とも関わる事柄をほかにもいろいろ話したのですが、紙数の制約もあり、割愛されたようです。たとえば、

・大久保外交はハト派外交
・自己責任論を否定(大久保の武士救済政策)
・大久保ビジョンはイギリス流立憲君主制(伊藤博文のプロシア流とは断絶)
・大久保独裁論は誤り(大久保の主張や政策は意外と採用されていない事例)

などです。
またの機会があればと思います。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング
スポンサーサイト

【2009/09/29 11:12】 | 新刊
トラックバック(0) |

拝見しました
市野澤
こんばんわ。
大分、割愛されてましたね。
担当さんが桐野さんの話に関心を持ってくれて、朝日選書辺りで出版化して欲しいです。
別冊歴史読本の龍馬、読みましたよ。

記事を読みました。
おな
大久保利通の記事、読みました。

私の好きな「山田方谷」も取り上げられていました!

講読御礼
桐野
市野澤さん、こんにちは。

お読みいただき、有難うございます。
ちょっと舌足らずで申し訳なかったです。

別冊歴史読本のほうは、これまでとは異なる龍馬像を書いたつもりですが、いかがだったでしょうか?


桐野
おなさん、こんにちは。

山田方谷も登場していましたね。
今度ともよろしく。

管理人のみ閲覧できます
-


コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第122回
―逆臣の子、無二の忠臣へ―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は久しぶりに戦国の話題を取り上げました。
なんか、懐かしい感じです。

山田有信については、戦国島津氏をご存じの方なら、ご存じだと思います。
彼は島津貴久・義久父子に重用されます。
とくに義久時代には御使役や老中に抜擢されています。

それほど義久の信任厚かった有信ですが、じつは一度、義久の意向に逆らったことがあります。
今回は紙数の関係で書けませんでした。
それは、天正14年(1586)のことで、義久の末弟家久が独断で豊後攻めを計画したときのことです。
義久は一度豊後攻めを決定するのですが、情勢変化を見て、筑前攻めに切り換えます。有名な岩屋城攻めです。
家久など日向衆は豊後攻めの支度をしていたのに、急に筑前攻めを命じられたのが不満で、ひそかに豊後攻めをしようとし、義弘もそれに巻き込もうとしました。義弘が自重したので、結局、計画は頓挫してしまいます。

このとき、有信は義久の命で、家久など日向衆に筑前攻めの下命を伝えにいく使者となりましたが、自身も日向衆(高城地頭)の一員なので、家久を中心とした謀議に加わってしまいました。

義久は有信の行動を叱責したと思いますが、あまり史料には表れません。あるいは、末弟家久への怒りが大きかったのでしょうか。

この話はまた別の機会にでも書こうと思います。
次回は、有信の子・有栄、というより山田昌巌といったほうが有名ですが、彼について書こうと思います。とくに関ヶ原の退き口を中心に書く予定です。
なお、昌巌は私の郷里出水の有名人でもあります。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/28 22:40】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
栄・中日文化センター講座「『信長公記』を読み解く」第3回

24日(木)朝、名古屋へ出張。
表題の講座も3回目となる。

今回は弟信勝との抗争の様子や兄弟の対比を試みた。
とくに通称官名について、信勝が弾正忠→武蔵守→弾正忠と、何度も変えている意味を考えた。
信勝が弾正忠、信長が上総介を名乗ったのはほぼ同時期で、天文23年(1554)前後。
信勝の信長への対抗心が見える。
信勝はこのとき、諱も達成に改名している。「達」は守護代の大和守織田家の通字であることから、守護代家とつながっているという意識もあり、信長に優越しようとしたのだろう。

そこで、両者の名乗りのきっかけを考えてみるとき、守護代の大和守家が織田信光(信長叔父)によって清洲城を乗っ取られ、当主彦五郎が自害に追い込まれて滅亡したことと無関係なのだろうかという疑問を前々から抱いていた。

角川本で、奥野高広氏は清洲乗っ取りと彦五郎自害を弘治元年(1555)だとしている。
しかし、『定光寺誌』には、彦五郎自害と信光の不慮の死を天文23年だとしている。『定光寺誌』は信頼できる史料だと思われる。
とすれば、信長の上総介名乗りは清洲入城の直後となる。
信長が事実上の尾張守護代になったことにちなむ名乗りではないのだろうか。

それに対して、ほぼ同時期に信勝が達成と名乗っているのは、逆に守護代家を継承しているのは自分だと主張して、信長に対抗したのかもしれない。

首巻の記事は年次が書かれていないことが多く、たまに書かれていても間違っていることがあるので、年次比定に神経を使わされるのが難儀である。

村木城の戦いにも触れたが、私が少し誤解していたかもしれないことがあった。
信長が攻撃を担当した村木城南面の堀について、首巻では、

「大堀霞むばかりかめ腹にほり上げ」

と書かれている。
私は「かめ腹」を「亀腹」だとばかり思い込んで、後北条氏がつくった山中城の障子堀のようなもので、四角ではなく六角形(亀甲形)ではなかったのか、あるいは堀ののり面が亀のお腹のように膨らんでいるのではないかと説明してしまったが、城郭門外漢の浅知恵だったかもしれない。

受講者の方のご指摘によれば、「甕腹」ではないかとのこと。
『日本戦国史国語辞典』に次のようにあるとか。

かめばら【甕腹】 堀などを甕のように深く掘り下げること。

ご指摘感謝です。

ただ、日国(『日本国語大辞典』)には「甕腹」は立項してなくて、その代わりに「亀腹」はあります。
城郭の専門用語なら、さすがの日国にも掲載されていないかもしれませんが。
参考までに「亀腹」には次のような意味があります。

「妊婦の腹のこと」
「建築物の基礎の部分や、鳥居の柱下などを丸く漆喰などで固めた、まんじゅう形の部分」


う~ん。城郭の用語に転用していいのか微妙な意味あいですね。

次回はいよいよ桶狭間合戦がテーマです。
受講者のみなさんの関心も高いので、やり甲斐がありそうです。

よろしかったら、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/27 11:51】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |

かめ腹
かぎや散人
新編東浦町誌p198の復元図では、北は入江・東は衣浦湾であり南は湿地に推定しています。
これは明治期・大正期の地形図にも相当し、江戸期の村絵図を見ても干拓新田になっています。
ですから、当時は遠浅の砂浜などであり、堅い地盤ではなかったものと思われますから、作りたくても障子堀などにはできないだろうと思われます。
また、そのような場所を掘り下げたならば、1mも掘り下げないうちに、水が出てくるでしょうから、それ程深くは掘れなくても、泥状にして敵を足止めさせるには効果的であったと考えられます。

御礼
桐野
かぎや散人さん、こんにちは。

村木城周辺の地質について、ご教示有難うございます。
それほど低湿地なら、空壕じゃなかったかもしれませんが、『信長記』首巻にはそれ以上の記述がありません。残念です。

コメントを閉じる▲
なにも、ここまでしなくても、十分人気と知名度のある人だと思います。

少し時流に迎合しすぎではないかと……。

ちなみに、頭の上の扇らしきもの。
永禄11年(1568)、足利義昭を奉じて上洛したとき、里村紹巴との掛け合いで、二本の扇が出てきて、紹巴が「日本(二本)手にいる今日の喜び」と詠んだのに対して、信長が「舞い遊ぶ千世万代の扇にて」と詠んだ故事と関係あるのでしょうか? 
でも一本ですね(爆)。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/26 00:46】 | 信長
トラックバック(0) |


k2
桐野様
前の記事で、送り火について西山とありましたが、老の坂の手前で成章高校の上の山は西山です。ここなら、四条から西向きになります。ちなみに、親に聞きましたら、知らなかったです。両祖父は既に鬼籍に入ってるので、聞けませんが。

軍事カリスマは、二年になるのですね。お忙しいなかお疲れ様です、次回も楽しみにしてます。今回は、陣頭のカリスマではなく、外交のカリスマと言ったところでしょうか。

のぶさまは、、、、上の扇に目がいかれたのは、さすがですね。
私は、腰の瓢箪に目がいきました(笑
来週岐阜祭りで本物見てきます。



あと1年
桐野
k2さん、こんにちは。

西山は老ノ坂の近くでしたか。遠景でしか見ていないのでわかりませんでした。

歴読連載はあと1年やることになりました。

腰の瓢箪はいかにもですね(笑)。

これからも、いろいろ教えて下さい。

岐阜城も・・・
木暮兼人
観光客が減っていると、こちらの新聞に報道されたことがあります。
岐阜城天守閣その他も展示の方向性を変えるつもりと
そこには書かれていましたが
今回の「のぶさま」もそのてこ入れの一環なのか、と感じました。

地元の方々も、盛り上げようと必死なのは理解できるのですが・・・
今のブームに乗るだけでは、かえって一過性のてこ入れになりそうで、
そういう意味で気になっています

岐阜城も、設備が老朽化しているので観光地としては
あまり人気がないのかもしれませんが
いまどきリスの放し飼いというのも?でしょうが・・・
中高生にはまだまだ人気のスポットのはずですし




文化センターの講座ですが・・・
↑の桶狭間の講座だけでも受講したい気分でいっぱいです(涙)
文化センターの方にレジュメをお願いするのも手かもしれませんが
やはりお話を聞かないことには(涙)

岐阜市
桐野
木暮兼人さん、お久しぶりです。

岐阜市も大変なんですね。
ひこにゃんブームを見て、ワラにもすがる思いなんでしょうか?

桶狭間については、そのうち詳しくまとめると思いますので、ご覧下さいませ。



コメントを閉じる▲
『歴史読本』連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第23回

同誌11月号、現在発売中のようです。

連載も2年間でひと区切りということで、いよいよ大詰めとなりました。

今回の焦点は、志賀の陣での信長と浅井・朝倉の講和についてです。
少し立ち入って検討しました。
「勅命講和」というのは限定的なのもので、将軍義昭の主導により関白二条晴良が奔走したので、当初講和を渋っていた信長もこれに応じたものと思われます。
最近の研究動向を見ても、「袞龍の袖にすがる」(天皇に泣きつく)という評価は過去のものだと思います。

講和にあたって、信長は当然強気に出た。江北の支配に関して、浅井方が3分の1、信長方が3分の2知行するという条件を突きつけている。浅井方は内心不満だったと思われるが、とくに表立って異論を唱えた形跡はないため、渋々その条件を飲んだと思われる。

一方、今回もっとも強調したかったのは、かつて奥野高広氏が紹介した信長の朱印状形式の起請文である(「血は水より濃い」『日本歴史』524号、1992年)。

この起請文は残念ながら、宛所が切れていて存在しない。そのため、奥野氏は文中に「江州・濃州境目番手の儀」云々とあることから、これを浅井父子か長政宛てだと推定した。奥野説は現在も継承されている。

しかし、私見ではそうではないと述べた。
同じく文中に「両国の勢」とあり、宛所は明らかに国持大名である。
詳しくは拙稿をご覧下さい。

もうひとつは、起請文冒頭に「勅宣により今度かくのごとく和談」云々とある。
しかし、この起請文の日付11月28日以前に「勅宣」か、それに類する綸旨のようなものが発給された形跡はない。
現存する綸旨は12月9日付の山門衆徒中宛てだけである。
これは現存する史料では解釈できない謎である。

もっとも、片山正彦氏はこの綸旨の下書があったらしいことを指摘している(「『江濃越一和』と関白二条晴良」『戦国史研究』53号、2007年)。
あるいは、これに該当するのだろうか?

いずれにしろ、評価が難しい史料であることは変わらない。

次回は第24回です。
比叡山延暦寺焼き打ちあたりになりそうです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/22 23:49】 | 信長
トラックバック(0) |

どうも。
さわだ
信長記か何かでは「信長は土下座してこれからの天下は朝倉氏が持ち給え。
我は二度と望まぬ.]と言ったとか。

信様のいい部分ですよね(笑。

天下は朝倉殿
桐野
さわださん、こんにちは。

お示しのセリフは『三河物語』の逸話ですね。
よく引用されるのですが、フィクション入ってると思います。

もっとも、私が連載で紹介した宛所不明の信長起請文と、無関係とはいえないかもしれません。この起請文で、信長は珍しく、相手に対して謙譲的な言葉を使っていますから。

『三河物語』はこの信長起請文を見聞きして、かなり誇大に表現したのかも知れませんね。


コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第121回
―身請け話、もつれた果てに―

連載が更新になりました。
左下のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前回の続きです。
五人斬りをした早田八右衛門の供述から、惨劇に至るきっかけや動機を探りました。
記事に書いたような、八右衛門の供述が真実かどうかわかりません。
関係者がすべて殺されているので、「死人に口なし」です。
ただ、八右衛門が錯乱したわけではないようです。アリバイ工作や偽装工作をしているので、むしろ、冷静さ、冷酷さが見てとれます。

八右衛門は菊野を身請けして国に連れて帰るつもりだったようです。
だから、必死に金の工面に奔走したのでしょう。
記事には書く余裕がなかったのですが、ちょうど八右衛門の亡母の25年忌にあたっており、菊野と祝言を挙げれば、追善供養になると思ったと語っています。

しかし、その一方で、これも紙数の関係で書けませんでしたが、菊野の友人の女性は、八右衛門が思うようにならないと刀を振り回すので恐いと、菊野がこぼしていたとも語っており、果たして、菊野が鹿児島行きを承諾したかどうか微妙なところです。

どちらにしろ、身請け話が行きづまり、八右衛門は帰国が迫っていました。二人とも追いつめられていたことはたしかでしょう。
しかし、2人の当事者の刃傷沙汰ならともかく、巻き添えになった4人はたまりませんね。

この一件について、薩摩側の史料がないのか少し調べてみましたが、手許史料では見つかりませんでした。ほかにあるかもしれません。
あるいは、大坂の町奉行所関係史料が残っていれば、それにあるかもしれませんが、門外漢のため、史料の所在がつかめません。

次回からは、久しぶりに戦国に戻る予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/21 12:24】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
新型インフルにはくれぐれも気をつけたい今日この頃。
ふと思いあたったことがある。

文禄慶長の役。
島津義弘にとっても、惨憺たる敗戦でした。

戦争が始まって一年数カ月たった文禄2年(1593)9月。
義弘の縁者が相次いで陣没します。

9月8日、長男の久保(ひさやす)

9月12日、娘婿の朝久(ともひさ、豊州島津家)。

久保は21歳、朝久も30歳前後ではないかと思われます。
わずか4日間で、義弘は2人の若い縁者を失ったわけです。
病名は「瘴癘」(しょうれい)とあります。
ふつう、地元特有の風土病を意味しますが、さてどうなのでしょうか?
熱病とも解説されることがあるので、高熱を発する病気のようですね。
2人が亡くなったのは、新暦に直せば、10月2日と6日。
秋ですね。

でも、最近の新型インフルは必ずしも冬だけが流行期ではありません。
また免疫のあまりない若年層が重症化する傾向も指摘されています。

久保と朝久。
日をおかずに亡くなっているところをみると、もしかして陣中でインフルエンザがまん延し、感染してしまったんじゃないですかね?

2人のほか、時期は少しずれますが、島津義久の女婿彰久も29歳。
分家の北郷忠虎も39歳で、それぞれ朝鮮で陣没しています。

しかし、50代以上の義弘や島津忠長など年長者で、病気により陣没した人はほとんどいません。

インフルエンザを疑いたくなりますが、どうなんでしょうか。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/19 10:20】 | 戦国島津
トラックバック(0) |
17日(木)
午後から外出。
神田の某出版社で、企画の打ち合わせ。
最初聞いていた話と少し違っていて、戸惑う。

同社で古い友人(アウトドアライター)と久しぶりに再会。
彼とアウトドア関係で、沖縄や西表島に行ったことが懐かしかった。

帰路、電車の中で携帯が鳴る。
あわてて降りる。
取材の申し出。
現在の政局に合わせたタイムリーな歴史企画だったので受けることにした。

夕刊を開いて、これまた懐かしい人の訃報を知る。
表題の人だが、旧ソ連邦の元首相ではありません。

新宿のゴールデン街で知らぬ人はいないギターの流しのおじさんです。
流し歴、じつに60年。
享年82歳だったとか。

あれは、バブル全盛期の頃だった。
私もまだ若かった。
ゴールデン街で飲んでいると、ふらりとギター抱えたマレンコフ氏がやってくる。
すると、それまで口角泡を飛ばしていた連中が急になごんで、合唱、斉唱と相成る。
戦前の歌謡曲から軍歌、東映仁侠映画の主題歌、果ては革命歌やロシア民謡まで、知らぬ曲はひとつとしてないという人で、どんなリクエストにもこたえて、ギターを弾いてくれたものだ。
訃報記事を読んだら、レパートリーは3000曲だったそうな。
私もその頃、旧ソ満国境まで旅したせいか、「国境の町」とか唄ったものです。

議論が口論になり、最後は喧嘩となる。
狭いスペースでの殴り合いの果て、階段から転げ落ちる人もいたっけ。

あの頃は終電のあと、新宿ではタクシーがなかなか拾えなかった。
ものすごい行列だった。
よほど景気がよかったんだろうな。
こちとらも諦めて、始発待ちで店に戻ってまた飲んだものだ。
もうそんな元気はとてもありません。

今晩あたり、歌舞伎町の一角ではマレンコフを偲んで、多くの酔客が唄っていることでしょう。

合掌

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング



【2009/09/18 00:21】 | 日次記
トラックバック(0) |

こんばんは。
NANTEI
初めまして。

突然でご無礼します。

私は今度、私が体験した60年代新宿のことを、
ブログに投稿しようと思っている者ですが、
残念ながらマレンコフさんのことを知らずに、
おりました。
以前書いた新宿に関する記事にある方から、
マレンコフさんの存在をお聞きして、
いろいろ検索しましたが、
桐野さまの記事にいたく感銘を受けたものです。

よろしければ、拙ブログの中で取り上げさせていただくこと、切に願うものです。

まだ下書き中なのですが、マレンコフさんのところで苦悩しております。

取り急ぎで申し訳ありませんが、もし事後になるようなことになりましたら、ひらにご容赦くださいますようお願いいたします。

コメント拝見
桐野
NANTEIさん

マレンコフ氏の古い記事、お目にとまったようで。

引用する分にはかまいません。
ただし、出典を以下のように付して下さい。

桐野作人ブログ「膏肓記」 2009年9月18日付

以上よろしく。


こんにちは。
NANTEI
さっそく快諾してくださり、

心からお礼申しあげます。

おっしゃるように、記載いたします。

明日23日に、ブログ「南亭雑記」で発表しますので、
ご面倒でなければ覗いてやってください。

ありがとうございました。

コメントを閉じる▲
小学館アカデミー「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩7」第5回

昨15日夜、上記講座に出講。
今期の最終回。
タイトルは表題のとおり。

前から一度きちんとやっておきたかったテーマだったので、史料も揃えた。
四侯会議解体後、久光の意向もあって、小松・西郷・大久保(ほかに伊地知正治・吉井幸輔ら)を中心に、武力挙兵派(いわゆる討幕派)が成立する。

それに対して、反対派や自重派も自然と形成された。土佐藩の寺村左膳は、薩摩藩の内情を「国論二分」と書いている。
家老の関山糺、もと精忠組の高崎左京、奈良原繁などが中心的人物。
それらは島津家一門、家老や大目付など藩三役、精忠組、京都留守居役など幅広く構成されていた。

なかでも、高崎左京(正風)は土佐の後藤象二郎と連携して、薩摩藩の武力挙兵派の説得や切り崩しにあたり、そのターゲットを小松に定めて、連日の訪問攻勢をかけたため、小松は音をあげて「妾宅」に引きこもる。
八・一八政変でも活躍した高崎の政治力はなかなかのものだったと思われる。

また西郷を刺し殺すと豪語する奈良原とか、「小松を討て討て」と叫ぶ関山とか、個性的な人物がそろっているのも面白い。

史料は『寺村左膳手記』『道島家記』『高崎正風先生伝記』『新納立夫日記』『野村盛秀日記』などを読み込む。活字化されていないのがほとんどだったが、なかなか面白い内容だった。
討幕の密勅は、藩内で無視できない勢力になっていた討幕反対派・自重派の鎮撫のために必要だったことがよく理解できる。

なお、反対派・自重派といっても、土佐藩の大政奉還路線を支持する勢力や旧来の保守派などが混在しているように思われる。
高崎は後藤象二郎との連携や将軍慶喜の大政奉還を聞いて「よろこびにたへず」という感想を述べていることから、大政奉還支持派だと思われる。ほかにも町田久成、中井弘なども同派だろう。

また、京都留守居役の内田仲之助と新納立夫は、とくに新納が大久保の親戚であることから、反対派というより自重派だと思われる。また小松との関係も深く、趣意書(おそらく挙兵の自重を求めるもの)を提出して、あくまで議論によって結論を出そうという穏健派である。
彼らは小松から「主人本意」(久光の真意の意か)を聞かされている。小松の話しぶりでは長州藩と連携しての挙兵を久光が容認していた節があり、それを聞かされて、小松らに傾斜した可能性がありそうだ。

先に書いた小松が「妾宅」に逃げ込んだ一件。
ふつうは京都妻・お琴がいる「御花畑」だと想定されるだろうが、そうではなく、もうひとつの別邸の可能性に触れた。そちらにはもう一人の京都妻・祢政(於政か)がいたのではないかという話をした。

その別宅に小松が逃げ込んだ理由のひとつに、お琴が妊娠中で実家に戻っていた可能性を指摘したけれど、ほかにも別の理由があるかもしれないと、あとで思いあたった。
その時期、久光三男の島津珍彦(重富家当主)も在京している。珍彦は久光の名代。その格式にふさわしい宿所が必要だから、小松が自分の宿舎である「御花畑」を珍彦に譲っていたかもしれない。
同年暮れの王政復古政変の頃、小松が病気のため、国許にいたとき、珍彦が「御花畑」に滞在している事例もある。

反対派・自重派の動きや考え方がもっとよくわかる史料があればと感じた。

次期シリーズは10月20日(火)から始まります(全5回)。
次いで、11/10,11/17,11/24,12/15
が開講日。すべて火曜日です。
メニューは次のテーマを予定しています。

①薩長芸挙兵計画の挫折(失機改図)
②大政奉還と小松帯刀
③討幕の密勅見合わせ
④龍馬暗殺(近江屋事件)とその波紋
⑤王政復古政変


あと、赤松小三郎暗殺事件も取り上げたいですが……。

幕末維新のハイライトを取り上げます。
興味のある方は参加してみませんか。
問い合わせ・申し込みなどは、ここです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/09/16 16:46】 | てらこや
トラックバック(0) |
先々月、滋賀に講演に行った折に、地元のサンライズ出版のYさんと知り合った。そのとき、石田三成を研究しているオンライン三成会の方々による本が刊行されることを聞いていた。

本日、その見本をお送りいただいた。多謝。
書名は表題のとおりで、「現代に残る石田三成の足跡」という副題が付いている。15日発売とのこと。

出版社の口上はこちらをご覧下さい。

オンライン三成会には、古い友人である中井俊一郎さんや田附清子さんらがおられる。
先々月の滋賀でも久しぶりにお会いして旧交を温めた。また、小生の拙話についても忌憚ない批評をいただいた。有難い友人たちである。

三成や関ヶ原合戦についての論説も興味深いし、とくに地元の強みを生かした佐和山城をはじめとする三成関連史跡紹介の充実ぶりは目を見張る。
これは三成ファン必見・必携のガイドブックにもなりうるだろう。

地方の出版社のこうした意欲的で元気な活動を見ると、非常に頼もしい。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/09/13 22:45】 | 新刊
トラックバック(0) |

三成伝説、読んでいただきありがとうございます!
SHUN
桐野さん、こんばんは!

「三成伝説」読んでいただき、ありがとうございます!
(「伝説」というタイトルには、正直議論があったのですが・・・)
素人の書いた本なので、プロの方からみると稚拙な内容も数多いかと思います。また是非ご批判ご意見お願いします。

ご紹介いただき、ありがとうございます
Y
SHUNさんらオンライン三成会会員さん入魂の一冊となりました。小和田哲男先生からもお褒めの言葉をいただき、本づくりのお手伝いができたことを光栄に思っています。桐野先生の小社に対するエールに深く感謝いたします。

頑張って下さい
桐野
Yさん、こんばんは。

本日、関ヶ原決戦日に発売とは凝っていますね。
ご健闘お祈りします。


伝説
桐野
SHUNさん、こんばんは。

「~伝説」といいながら、かなり実証的ですから、少し気にはなりますね。
韓国の倭城にはどなたが行かれたのでしょうか?


SHUN
桐野さん、こんばんは!

韓国の倭城には私は4,5回行っています。
オンライン三成会でも、過去一回「韓国オフ」をやりまして、その際に会員5,6名と一緒に行ってます。
その辺の理由もあって、韓国語を習い始めたのですが、最近は全く頓挫しています(^^;)


4,5回!
桐野
SHUNさん、こんばんは。

倭城はそんなに見学されてますか。
私は1回しかありません。
それも蔚山と順天だけで、泗川など島津氏ゆかりの倭城も見ていません。
ハングルは、私は韓流ドラマで聴いていますが、いくつかの単語以外、さっぱりですね(笑)。


コメントを閉じる▲
またすごいお宝が出てきましたね。
ここです。

上越市で見つかったとのこと。
記事では所蔵者がわかりません。
秀吉死後に描かれたらしいですが、上杉家でなければ、堀家か松平忠輝あたりが所蔵していたのでしょうかね?
作者は誰でしょう? やはり狩野派系なんでしょうか?

何より、一見して構図の妙に感じ入りました。
左隻は聚楽第を出て禁裏に向かう秀吉の行列、
右隻は禁裏を出て聚楽第に向かう後陽成天皇の鳳輦。

聚楽第と禁裏御所の実際の位置とも対応していて興味深いですね。
また秀吉の牛車が天皇の鳳輦より大きくて立派なのも、当時の力関係の反映か、なかなか面白いです。

素朴な疑問ですけど、これで完形品というか完全な姿なんでしょうか?
もしかして、秀吉の行列はもう一隻あって左双、
天皇側ももう一隻あって右双、
なんてことはないでしょうか?
サイト記事ではわかりにくいですが、新聞記事のほうでは左右の隻を横に並べてあります。
それを見ると、左隻と右隻の境目がつながらない気もするのですが……。

記事にもありますが、謎が多い聚楽第の解明にも役立つのかもしれません。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/11 23:03】 | 戦国織豊
トラックバック(0) |


みながわ
公開予定が、コチラに書かれていましたよ~。
http://www.city.joetsu.niigata.jp/sisetu/museum/event/jurakutei/index.htm



有難うございます
桐野
みながわさん、こんにちは。

展示の案内、有難うございます。
上越市には春日山城もありますし、行けたらいいですがね。


大発見
御座候
新聞報道で見ましたが、私も驚きました。
「洛中洛外図屏風」上杉本みたいに、作者探し等で盛り上がることになりそうですね。

国宝級?
桐野
御座候さん、こんばんは。

現物を見ていないので、何ともいえませんが、出来がよければ、洛中洛外図屏風上杉本と同等の価値があるのかもしれませんね。
一度観てみたいものです。

コメントを閉じる▲
昨8日夜、小学館アカデミー「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩7」第4回に出講。

前回、薩土盟約の中身を「船中八策」との対比で検討したが、今回は薩土盟約の背景や意義についてまず検討した。西郷吉之助が土佐藩から薩土盟約を呼びかけられて「渡りに船の心地がした」という感想を洩らしていることから、薩摩藩は積極的に薩土盟約に賛成していたことなどを述べる。
またその理由として、薩摩藩は土佐藩の大政奉還建白を幕府が拒絶すると確信しており、その拒絶を契機に、すでに固めていた武力挙兵方針の大義名分を得るためだったことも確認。

とくに薩摩藩が路線の異なる土佐藩と提携した理由について、従来の通説だった二股論(武力倒幕と平和的大政奉還)が批判されていることなどを、家近良樹氏の著書を紹介する形で見ていった。

それから、西郷が長州藩の柏村数馬・御堀耕助に披露した「三都一時事を挙げ候策略」=三都同時挙兵計画について、柏村の日記を読む。
西郷は三都同時挙兵して、京都と大坂城を制圧しても、「討幕は仕らず」と述べていることから、西郷の考える「討幕」とは何なのかを述べる。

また、「討幕」「倒幕」といった用語のもつイメージがじつは誤解や混乱を与えているのではないかとか、史料用語と研究者の概念規定の違いなどにも言及。
倒幕」が平和的大政奉還も含む、幕府制度一般の廃止と定義するなら、「」の字が武力行使をイメージさせるから、研究用語してはあまりふさわしくないのではないかという話をした。
そしたら、受講者から「廃幕」ならどうかという提案があり、なるほどと思った。この用語なら、土佐藩の大政奉還路線も薩摩藩の武力挙兵路線もともに「廃幕」論として括ることができ、大政奉還論と武力倒幕の対立といった、不毛で誤解に満ちた俗流歴史観からも解放されるかもしれない。

まったくの余談だが、紹介した越前藩の『続再夢紀事』慶応3年7月16日条に、五山の送り火を見物した記事があって興味深かった。
越前藩邸はおそらく賀茂川の東、聖護院村の熊野神社南にある屋敷が該当するだろうか? ほかにもあるかもしれないが。しかも、三階から見物したとあるから、越前藩邸は三階建ての建物があったことになる。当時としては珍しいのではないか。

じつは、以前私の新聞連載で紹介したことがあるが、薩摩藩も同日に小松・西郷・大久保・町田久成など在京重役が小松邸二階に集まって、送り火を見物している(ここです)。
薩摩、越前の両藩士たちが期せずして送り火を見上げている光景を想像すれば面白い。ほかにも幕府方とか、土佐藩なども見物していたかもしれない。

それで、肝心の送り火だが、次のように記されている。

「今夜は如意ヶ嶽に大の字、加茂山に船、西山にきせる、左の字等を顕はせるゆゑ、三階にて御見物」

東山の如意ヶ嶽の大文字が一番有名だが、加茂山は西賀茂船山の船形だろう。
西山は「きせる」とある。西山は「妙」の松ヶ崎西山(同東山の「法」と合わせて「妙法」)のことだろうが、「きせる」って何だ。意味がよくわからないが、当時は煙管の火形でも浮かび上がったのだろうか?
また鳥居形のことが書かれていないのは、当時はなかったということか?
「左の字」とは大北山の左大文字のことか?

京都の夏の風物詩は幕末でもほぼ同様だったことがわかるが、多少形には変遷があるのかもしれないと感じた。詳しい方がおいでなら、教えて下さい。

次回は今期の最終回です。
薩摩藩内討幕反対派の動向を中心に見ていく予定です。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/09 15:16】 | てらこや
トラックバック(0) |

きせる
中村武生
いつもお世話になっております。

お役にたつか、わかりませんが。ひとつ知っていることがあったので。

 京都の郷土史家にして、おそらくいま京都の俗話のほとんどを現代人に周知させたといっていい田中緑紅(1891-1969)の著書に、関連の記載がありました。
 
 「大文字」の文字には、現存するもの以外にもいくつかあったと紹介した部分で、人から聞いた話として、

「もう一つ「竹の先きの鈴」を見たと云う人がありますが、或は煙管ではなかったかとも云はれ、西山だ、四条、五条から真西に見えたと云う方もありますが、どの地図にも記録もありませず全く夢の様な話で松尾辺の人も知らぬと云い、最近老ノ坂だと云う人がありますが真偽不明であります」
(『京の送火 大文字』緑紅叢書4、京を語る会、1957年、26ページ)

 田中緑紅も『続再夢紀事』の記事を知っていたら、喜んだと思います。

田中緑紅
桐野
中村武生さん、こんばんは。

やはり、「きせる」の送り火もあったんですね。
どんな形なのか、気になります。
送り火はそれぞれ仏教にちなんだ意味があるんでしょうね。
「大」は大日如来?
「妙法」は法華経。
「船形」は西方浄土をめざす船でしょうか?
「鳥居形」は神仏混淆の名残か?

でも、「きせる」に宗教的な意味はあるんでしょうかね?

田中緑紅なる人物、不勉強で知りませんでした。
ご教示感謝です。
今後、注意しておきます。

取り急ぎ御礼まで。



コメントを閉じる▲
南日本新聞連載「さつま人国誌」第120回
―薩摩藩士・早田某の犯行―

連載が更新になりました。
左のリンク欄にある「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は一風変わった題材を取り上げました。
こういう人情物というか、刃傷沙汰を扱うのは、この連載では初めてかもしれません。
江戸中期に起きた大量殺人で、しかも薩摩藩士の犯行です。

今年の3月、大阪龍馬会の史跡探訪に参加したとき、回った史跡のひとつで、前々から面白いネタなので、何とか書けないかと思っていました。
しかし、『旧記雑録追録』など薩摩藩側の史料にはまったく記事がなく、諦めかけていましたが、ひょんなことから、下手人や関係者の供述調書を翻刻してある近世文学関係の本を見つけることができました。

ほんとに詳細な記録で、関係者20人以上の調書ですから、読むだけでひと苦労でしたが、おかげで、事件の輪郭はかなりつかめました。

それでも、薩摩側の事情は相変わらずわかりません。
まず下手人の早田某にしてからが、薩摩藩でもどの地域の出身なのか、身分・禄高・役職などはどのようなものなのか、また薩摩藩大坂蔵屋敷がこの事件にどのような対応をしたのか。当然、大坂の町奉行所から照会その他交渉があったはずですが、どのような応対がなされたか、さっぱりわかりません。

わからないなりに、事件の真相というか、殺した側の釈明と、殺された側周辺の供述とが微妙にすれ違っているあたり、時代は変わっても、状況は同じだなと感じた次第です。

なお、早田という名字は鹿児島にはあまりないように思います。
鹿児島の名字を網羅した『鹿児島県姓氏家系大辞典』(角川書店)には、早田名字は立項されていません。
ただ、巻末の電話帳の名字一覧には掲載されているようです。まったくないわけではないと思いますが、鹿児島では珍しい名字の部類ではないでしょうか。もしかして変名、偽名かなとも感じましたが……。

次週は月一の休載日です。
先週は総選挙特集でつぶれましたから、ちょっと間延びした感じになりますが、懲りずに読んでいただければ幸いです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/07 21:37】 | さつま人国誌
トラックバック(0) |
いささか旧聞に属する話柄ですが、南日本新聞9月4日社会面に、表題の記事が掲載されました。
同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
*↑私の調査不足でした。同紙サイトに記事があります。ただし、紙面の抄録のようです。ここです。

篤姫の初名が通説の「一(かつ)」ではなく、「一、市(いち)」ではないかという点については、すでに中村武生氏も指摘しており、小生も同意したことがありました。中村氏のブログのここです。

今回、崎山健文氏(黎明館学芸専門員)によって明らかにされた史料は、尚古集成館所蔵の「典姫様日記 寶印御方」。
典姫は島津斉彬の娘で、嘉永5年(1852)生まれ。のちに重富島津家の珍彦(忠鑑)に嫁いだ人でしょう。
その嘉永6年4月5日条に次のように書かれているそうです。

「今和泉於市様事、今日篤姫様と被仰出候」

篤姫の幼名を「於市」と書いてあります。これを「おかつ」とは読まないでしょう。
なお、典姫はこの日記時点で2歳ですから、日記を書けるはずがなく、傅役や乳人など周辺の人間が付けていた日記でしょうね。

さらに「日記 表方御右筆間」という史料には、天保7年(1836)8月5日付に、篤姫の義理の叔母にあたる女性が勝姫(かつ・ひめ)と改名したので、以後、「勝」の字と「かつ」の呼び名を遠慮するよう通達があったと書かれているそうです。

この改名は篤姫が生誕した翌年です。
篤姫が生まれてから、この改名通達までのおよそ8カ月間だけ、篤姫は「おかつ」だったかもしれないと、崎山氏はコメントしています。
これで一応、通説と新説を整合させたわけですね。

なお、勝姫は斉彬の妹ということになっていますが、じつは斉彬の祖父・斉宣の娘です。
藩主だった斉宣が父重豪に勘当されたために、その娘たちは兄である斉興の養女となりました。
関白近衛忠煕の夫人である郁君も斉興の娘ということになっていますが、じつは先代斉宣の娘です。

この「日記 表方御右筆間」には、篤姫の江戸行きの記事もあるそうです。
昨年、中村氏が血まなこになって探していた史料のひとつが出てきたことになりますね。
大坂・住吉神社や鎌倉・鶴岡八幡宮など、島津家ゆかりの地にも参詣しているなど、新たな足取りも判明したとか。
肝心なのは、京都滞在の数日間なんですけどね。
さて、その記述はあるのでしょうか? 
新聞記事には書かれていません。

なお、私が以前気づいた史料は、斉彬の側用人日記「竪山利武公用控」(『鹿児島県史料 斉彬公史料四』)の安政2年(1855)条末尾に備忘的に書かれている「嶋津安芸家大凡」です。
史料名のとおり、篤姫の実家である今和泉家の系譜が簡単に書かれています。その十代忠剛、つまり篤姫の実父の項に、

「嫡女 お市 寅十九歳、母同断」

とあります。
これが篤姫であることは明らかで、名前が「お市」だったことがわかります。

もっとも、これには通説と異なる記述もあります。安政2年時点で数え19歳ということは、天保8年(1837)生まれということになり、通説より2歳年下になります。また「寅」が生まれの干支だとすれば、まったく合いません。まさか名前ではないと思いますが……。

今回の発見や中村氏が見つけた『仙波市左衛門日記』の記事などと合わせると、篤姫を名乗る直前に「いち」「おいち」という名乗りだったことは確実だといえそうですね。

それにしても、尚古集成館には『鹿児島県史料』に収録漏れの、未見の史料がまだまだ眠っている可能性がありそうです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/05 18:30】 | 篤姫
トラックバック(0) |


松裕堂
>同紙ネット記事には掲載されていないようですね。
【篤姫は「おいち」? 黎明館学芸専門員が新史料発見】
http://373news.com/modules/pickup/index.php?storyid=19109
上件の記事ではないでしょうか。
とりあえずご報告まで。

ありましたね
桐野
松裕堂さん、こんにちは。

私の探し方が足りなかったようです。
ご教示有難うございました。

コメントを閉じる▲
小学館アカデミー「てらこや」特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩
秋期講座のご案内です。

一昨年から続けている講座で、もう第8クールになるでしょうか。
原則隔週の全5回です。

今期は、慶応3年(1867)後半を取り上げます。

大政奉還
討幕の密勅
近江屋事件=坂本龍馬暗殺
王政復古政変
鳥羽伏見の戦い


など、幕末維新のクライマックスといえる大事件が目白押しです。
あまり知られていない史料を使ったり、新説を提示したりする予定です。

幕末維新史に興味のある方で、関東在住の方、一度参加してみませんか。
問い合わせ・申込先はここです。

開講日は、10/20,11/10,11/17,11/24,12/15の火曜日。
開始時刻はそれぞれ、午後7時~8時半です。

原則隔週といいながら、今期は毎週が3回つづく変則的な日程ですね。

ご参加をお待ちしています。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/04 18:42】 | てらこや
トラックバック(0) |
歴史読本連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第22回
―志賀陣の持久戦―

すっかり忘れておりましたが、すでに発売中です。

今回は表題のとおり、比叡山に陣取った浅井・朝倉軍と対決した志賀の陣について書きました。

宇佐山城合戦で、森可成らが討死したことはよく知られています。じつはちょっと前まで、私は城内で玉砕したとばかり思い込んでいたのですが、城外に打って出て討死しています。
その後、城は可成の与力や家来で死守しています。
このことはあまり強調されていませんが、浅井・朝倉方にとっては小さくない失態ではなかったかという気がします。
その後、信長がこの城に本陣を置いて、浅井・朝倉両軍に圧迫を加えることが可能になりましたし、いわゆる山中越(今道越)のルートを押さえなかったことが、のちのちに響いたような気もしています。

浅井・朝倉方の最大の誤算は、三好三人衆や六角承禎父子が個別に信長と和睦してしまったことでしょうね。
前者に関しては、『大日本史料』10-5あたりに、阿波から渡海してきた篠原長房との和睦と綱文が立ててありますが、あまり正確ではないと思います。
これは阿波三好氏との和睦を意味すると考えたほうがいいと思います。そのなかに三好三人衆も篠原長房も含まれるかと。
三好宗家は当主義継がすでに信長=義昭に味方しています。
阿波三好氏は実休以来、宗家とは独自の立場になっていると思います。
このあたりは、三好氏に詳しい天野忠幸氏の論文から学びました。

もともと三好三人衆が始めたいくさに本願寺や浅井・朝倉氏が乗ったという構図でしたが、言い出しっぺが先に和睦してしまっては格好がつきませんね。
もしかすると、三好三人衆と篠原長房らとの間に温度差というか、路線の違いがあったのでしょうか?
単に三好三人衆も野田・福島の対陣で消耗して厭戦気分にあふれていただけかもしれませんが。

いずれにしろ、阿波三好と六角の両氏の戦線離脱によって、浅井・朝倉方に勝つ目はなくなりました。あとは退き際をどうするかという段階になります。

有名な勅命講和だということになっていますが、さて、そう呼んでいいのか、私は以前から疑問に思っていましたし、書いたこともあります。
信長が「袞龍の袖にすがった」(天皇に泣きついた)という説もかつてありましたが、史料に忠実ではない偏った見方だと思います。この時点で信長が形勢不利だったとは思えません。もちろん、圧倒的有利だったわけではなく、相対的なものですが。

そのあたりのことも書きたかったのですが、分量の関係で次回まわしとなりました(すでに入稿済みです)。
次回は勅命講和の当否について、それと信長が浅井長政に宛てたとされる起請文を再検討してみました。

それにしても、宇佐山城に取材調査に行っていなかったことが悔やまれます。過去に何度も機会はあったのですが……。
三井寺とともに、ぜひ一度訪れたいものです。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング

【2009/09/02 23:35】 | 信長
トラックバック(0) |
中日文化センター講座「信長公記を読み解く」第2回

27日(木)午前、新幹線で名古屋へ。
上記講座に出講。

今回は表題のテーマでやる。
主に、①織田信秀の没年諸説の検討、
②信長と斎藤道三の出会いに関連して、美濃支配が道三一人ではなく、親子二代の事業であったことを、「六角承禎条書」などから解説。

この2点で、ほぼ時間が尽き、予定していた赤塚合戦には入れず、残念ながら次回まわしとなった。

受講者のみなさんからたくさん質問が出た。
信秀の没年は天文18年でもいいのではないかというご意見も。3年間喪を秘したから21年説があるのではということらしいが、何となく武田信玄の逸話からの流用ではないかと感じたが、そのような説があるのだろうか?

なお、気になったのは天文21年説の典拠になっている「万松寺過去帳」。
信秀の菩提寺の過去帳で、その没年に関して引用されることが多い有名な史料だが、その中身をよく知らない。
私の不勉強のせいだと思って、友人の信長研究者に聞いてみた。古い愛知県史など思いつく史料集をあたってみたけど、翻刻が掲載されていないとの回答。
探してもらったのはわずかな時間だったから、見つからなかっただけかもしれず、戦前の古い史書などに掲載されているのかもしれないが、最近刊行されたばかりの愛知県史・資料編の信秀他界の記事にも同史料が引用されていない。天文21年説を証明する重要な史料なのだが……。
諸書によく出てくる史料なのに、その中味がわからないとは不思議である。

前回、池田家本『信長記』写真版(福武書店)2冊をみなさんに回覧してもらったが、そのうちの巻八(長篠合戦部分)がみなさんに回り切らなかったので、改めて提示。
そしたら、『信長公記』のある現代語訳本に「鉄炮千挺計」の一節が「鉄炮百挺」と書いているけど、真偽のほどはどうなのかという質問があった。
それで、その本を見せてもらったところ、たしかにそう書いてある。誤植か編者の勘違いではないかと答えておいた。
底本は我自刊我本、史籍集覧本だと書いてあったので、帰宅してから見たところ、「鉄炮千挺計」とはっきり書いてある。

明らかに誤植か誤記であることがわかったが、論争にもなった重要な一節なのに、この間違いは看過できないのではないか。すでに絶版になった本だが、後世の読者が誤認する可能性が大きい。千挺か三千挺かではなく、千挺か百挺かでは不出来なジョークというしかない。

それと気になったのは、受講生のみなさんのほとんどが角川文庫版『信長公記』をお持ちではないこと。もちろん、同書が絶版になって久しいからである。だから、しかたなく現代語訳本を購入されたという事情らしい。

私がネット古書でも購入できるのではと話したところ、ほとんど商品がなく、あっても大変高価なんだそうだ。
試しに、ネット古書店「日本の古本屋」で検索してみたら、たしかに角川文庫版は1点もなかった。
あったのは新人物往来社版か現代語訳本だけである。
角川文庫版は初版以来、40年もたち、何回も重版されていて、延べ数万部は刊行されているはずだが、ほとんど市場に出回らないらしい。よほど大事にされているということか。

なお、私は同書を2冊もっている。1冊は書き込み用で、もう1冊は保存用にしている。
数年前だったか、輪読会仲間の研究者Hさんは10冊もっていると言っていた。絶版になったと聞いて、あちこちで買いまくったらしい。私とは思いの丈が違うなと感心したことを思い出した。

『信長記』の研究仲間であるOさんが現在、同書の全面改訂版を校訂中なのを知っている。読者や受講者のみなさんのためにも、なるべく早く刊行されることを期待したい。

講座終了後、たまには史跡の取材に行こうと思い立ち、この日の講座でやった信秀の菩提寺、万松寺と、清洲城跡に行った。

清洲城
万松寺の信秀墓前
万松寺
清洲城模擬天守






どちらも十数年ぶりのような気がする。
清洲城跡に立つ信長銅像は移動されたのか?
私のおぼろげな記憶では、かつて新幹線高架の反対側にあったような気がするが……。

よろしければ、下記をクリックして下さい。
人気ブログランキング


【2009/09/01 00:13】 | 中日文化センター
トラックバック(0) |

角川版
k2
桐野様
こんにちは、現代訳の件見直しましたら確かに百ちょうとなってました。これは、一番間違ってはいけないところですね。

それと、角川版ですが、去年にブックオフの小説コーナーで、五百円で入手しました(二冊目ですが)平成八年の九版ものでしたが、粘り強く通うと、見つかるかも知れませんよ。

総見院
桐野
k2さん、こんにちは。

信長公記現代語訳本はちょっとひどいですね。
角川本はネットよりもブックオフなどで見つけるのが早いかもしれませんが、これも運不運がありそうで。

それはそうと、
清洲城址の近くに信雄が建てた総見院があるんですか?
知りませんでした。歩いていける距離なんでしょうか?
次回チャレンジしてみたいものです。


コメントを閉じる▲