歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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歴史読本の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第25回

現在、発売中です。
今回が2年間の集大成のはずでしたが、比叡山延暦寺焼き打ちで終わっています。これではいけません。

叡山焼き打ちについては、文化人の明智光秀が信長を諫止したけれど、信長がそれを振り切って断行したという俗説があります。

しかし、史実は俗説と逆で、光秀は叡山焼き打ちの先兵だったことがうかがわれます。
だからこそ、破格の出世をしたと見るべきでしょう。

先日お伝えしたように、次回から、というか現在執筆中ですが、少しペースを速めます。
次回はいよいよ武田信玄の登場ですね。乞うご期待。

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【2009/10/30 17:19】 | 信長
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ノリノリ明智光秀
楠乃小玉
おおー!ものすごく納得できるお話です。
比叡山焼き討ちに対して、一番積極的で
あったからこそ、明智光秀が坂本を
拝領したという側面があるのですよね。
私も明智光秀が比叡山焼き討ちに反対したという
説に昔から疑問をもってました。
発掘調査によると織田軍はそれほど
積極的に比叡山の伽藍を焼き払った形跡はなく、
むしろ、坂本が重点的に放火されている
形跡があるというお話をお聞きしたことがあります。
当時、比叡山は荒廃し、僧侶も
山から降りてその多くが坂本に
居住してたみたいですね。
当時、比叡山や一向宗は金貸しによって収入を
得ていましたので、比叡山に借金のある
土地の国人領主たちがどさくさにまぎれて、
借金の証文が収められた蔵に放火して回ったんじゃ
ないだろうかと想像をふくらませております。

追伸
連載の延長おめでとうございます。
私も連載延長して!ってメール便で2回お手紙送りました!

御礼
桐野
楠乃小玉さん、こんにちは。

コメント有難うございます。
光秀については、あまり史料が残っていないので、その足跡や考え方を明らかにするのは難しいですね。

また延長のメールもしていただいたそうで、有難うございます。私の所にも編集部から転送されてきましたけど、それが楠乃小玉さんのものだったのでしょうか。


メール便で要望させていただきました。
楠乃小玉
言い方がややこしくて申し訳ございません。
クロネコヤマトのメール便ですからお手紙です。
お手紙で2回、あと電話で編集部に1回
お電話しちゃいました(汗)
編集部におかれましては、
お忙しい中、その節は大変ご親切に対応して
いただき、ありがとうございました!

やはりそうでなくては
かわい
久しぶりにコメントさせていただきます。
比叡山焼き討ちだけでなく、越前・加賀での一揆殲滅でも大活躍ですから、光秀の「温厚で保守的な文化人」という冠が外されるのは非常によいことだと思います。ついでに、次回は「戦国最強の名将」という信玄の冠も外していただけるとうれしいです。
私は「歴群ライター中最低の遅筆」という自分の冠をなんとか外したいです(^_^;。

緻密
桐野
かわいさん、お久しぶりです。

遅筆については、最近私もいえたものではありません。
それより「歴群ライター中最高の緻密」という冠もありそうですよ。

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日次記です。

10月28日(水)天晴れ
午後から三鷹のサテライトキャンパスで、武蔵野大学市民講座「信長記を読む」に出講。
第2回で、演題は「『器用の仁』織田信秀の活躍と死、『大うつけ』信長の登場」

今回から、本文に入る。テキストは角川文庫(陽明本)。
信秀の「憑み勢」の意味とか、美濃や三河での戦い、斎藤道三との和睦と信長・帰蝶の縁組など、関連史料を使いながら話す。
最後に、信秀の没年についての諸説を検討し、天文21年(1552)でよいのではないかと結論した。
先日紹介した金子拓氏の新刊も受講者のみなさんに紹介した。

帰路、少し遠い駅で降りて、歩いて帰宅。2キロ近く歩いたが、少しも汗ばまなかった。涼しくなったものである。


29日(木)天晴れ
午後から明治大学駿河台キャンパスで、リバティ講座「歴史を動かした男 坂本龍馬の生涯と死」を受講。
先日、京都でお会いした宮川禎一さん(京都国立博物館)が講師だったので、ぜひに聴講したいと、事務局にお願いしていた。
中央線に人身事故があり、だいぶ混乱していたので、総武線の各停で向かう。

演題は「薩長同盟前夜に書かれた龍馬書簡を読み解く

これまで慶応3年(1867)に年次比定されていた姪っ子春猪宛て龍馬書簡を同2年に比定しなおしたところに独自性がある。
これにより、この書簡に強くにじみ出ている龍馬の異様なテンションの高さが、薩長同盟締結前夜の昂揚感やもろもろのストレス、風邪などによるものだという解釈を成立させた。

冒頭に、龍馬の手紙の解読は「歴史の問題」ではあるが、その前に「国語の問題」だと強調された。とくに土佐の方言などが使われており、その難解さは目立つ。
また、末尾に遺書めいた一節があり、これを書くのが大きな目的だったが、それを正面に据えて書くわけにいかず、「いじられ」キャラの春猪を思い切りいじったあと、最後に付け加えたのではないかという説明も面白かった。

当時の交通事情、郵便事情とも関わるが、書簡が目的地に届けられるにあたって、船便などの都合で、龍馬は一族縁者や友人などにまとめて手紙を書いていたという説明は、個人的に面白かった。
私も小松帯刀の書簡を読んでいて、同様のことを感じたからである。小松も限られた船便を有効に活用するため、藩の重役や大久保宛ての公務の書簡を何通も書き、妻お近宛ての書簡も一緒に送るということをしている。

講座終了後、構内のピロティや外の喫茶店で、共通の友人であるM川さんと3人で長く談じ込んだ。とても楽しい一時だった。

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【2009/10/29 23:19】 | 日次記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第126回
―不仲より親密さ目立つ―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も関ヶ原シリーズで、石田三成について書きました。
三成と島津家は不仲だったという通説がありますが、どうもそうではないと前々から書いたことがあります。
今回もその線に沿っていますが、とくに三成が島津勢を単騎迎えに来た一件を強調しました。

あと、大垣城の軍議で、島津豊久の建議を島佐近が拒絶するというおなじみの場面がありますけど、今回は紙数の関係で割愛せざるをえませんでした。あれも嘘くさい話です。

次回も関ヶ原シリーズで、井伊直政を書く予定です。

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【2009/10/28 08:50】 | さつま人国誌
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お知らせです。

現在発売中の表題の雑誌に私の記事が掲載されています。
詳しくは版元サイトのここをご覧下さい。

「戦国武将の生き様と戦い」という特集がありますが、じつは戦国武将を書いたのではなく、その関連記事として、末尾で幕末維新の政治家を2人取り上げています。先日の「週刊朝日」と同様、民主党政権誕生を明治維新とアナロジーした企画です。

「政権交代ならぬ政権転覆 いまもっとも見習うべき二人の英傑」

と題して、大久保利通勝海舟を書きました。
とくに、大久保に関しては週刊朝日のコメントとなるべく重複しないように、別の話題を取り上げました。

興味のある方はご覧になって下さい。

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【2009/10/27 11:24】 | 信長
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前回エントリー日次記と日にちが前後しましたが、20日(火)はてらこや講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」8の第1回の開講でした。

今回のテーマは表題のとおり。
赤松小三郎は信州上田藩の下級藩士で、洋式軍学者。
海外渡航経験はありませんが、長崎の海軍伝習所で学び、勝海舟の弟子であり、佐久間象山とも交流がありました。

そして、慶応2年(1866)には、薩摩藩の依頼で「重訂英国歩兵練法」を編纂・刊行しています。
赤松が京都に開いた私塾には薩摩藩士だけでなく、会津・大垣・肥後など諸藩(佐幕系多し)の藩士も学びました。

ところが、赤松は慶応3年(1867)9月3日、薩摩藩の中村半次郎(のち桐野利秋)らによって暗殺されます。
今回は暗殺がどのように行われたのか、実行者である桐野の日記『京在日記』を読みながら、洛中地図を見て赤松や桐野の動きを追いました。また遺体検案書である「赤松小三郎遭難容躰書」と『京在日記』を見くらべました。桐野の記述と容躰書で、赤松の刀創は必ずしも一致していないように感じられました。

また暗殺の背景となった赤松の思想と行動についても、『続再夢紀事』六所収の赤松の意見書や、赤松が兄芦田柔太郎に宛てた書簡も詳しく検討しました。

赤松にとっては不運な面もありましたが、赤松の「幕薩一和」という政治方針は現実から遊離しており、とくに薩摩藩側の反発を買ったであろうことは想像に難くありません。
また意見書にある新政体構想も上下議政局を設けるという船中八策のような主張もありますが、構成的に幕府重視であり、薩摩藩はむろん、四侯会議の雄藩諸侯も受け容れられないものだったのではないかという感触がありました。

この点については、西周や松平乗謨などの大君制国家構想との類似を見ていったほうがいいのかもしれません。これも機会があれば、大政奉還と関連して取り上げてみたいものです。

次回は薩長芸三藩挙兵計画、いわゆる失機改図について考えてみたいと思います。

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【2009/10/26 00:33】 | てらこや
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日次記です。

昨22日(木)朝、名古屋の中日文化センター講座「信長公記を読み解く」出講のため、新幹線に乗る。
今回で4回目。
しかも、テーマが桶狭間合戦である。
レジュメもB4で11枚とふんだんに用意した。

首巻における桶狭間合戦の特色をまず確認する。
年次の不正確さ、方位・方角への疑問、肝心の信長の義元本陣急襲に至る経緯が不明なこと、義元の最終的な本陣がどこにあったか不明なこと、などなど、いろいろな限界はあるものの、一番の信頼できる基本史料であることを説明。

また同じ『信長公記』でも、テキストに使っている陽明本(角川文庫版)と天理本(天理大学附属図書館所蔵)では、桶狭間合戦の記事に小さくない異同があることを、両者を読みくらべることで確認する。

最後に参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』が提唱した奇襲説が現在否定され、藤本正行氏の正面攻撃説がおおかたの支持を得ていることも説明。
とくに江戸期の俗流軍記物を排除して、より信頼できる史料に依拠するという方法論は歴史学の常道であり、合理的なやり方であることを説明。

もっとも、藤本説にも疑問があることも付け加える。
とくに、正面攻撃説の根拠となっている今川軍の進路(「戌亥」)を近世東海道に比定するのは妥当なのかどうかという解説も加える。

講義時間はほぼ予定どおりに終わったが、その後、質問タイムが30分以上も続き、多くの受講者のみなさんが残られて、熱い応答があった。みなさん、大変熱心なのと、独自のお考えをお持ちであることがわかって、こちらも勉強になった。

その足で京都に飛ぶ。
京都国立博物館の宮川さんから、現在開催中の「日蓮と法華の名宝」展のお誘いをうけていたのが最大の理由。
展示の詳細はここをご覧下さい。
『信長記』の自筆本「建勲神社」本が展示されていますよという宮川さんの言葉が殺し文句だった(笑)。つまり、天正7年の安土宗論の部分が公開されているのである。
京博は翌日行くことにしてあり、その前にある気になったポイントを調査したいと思っていた。
秋も深まり、陽もだいぶ短くなるなかで、辛うじて撮影ができた。
でも、もう一度行ったほうがいいかもしれない。

夜は居酒屋「龍馬」にて、前出の宮川さん、それに中村武生氏らと旧交を温める。
TVでおなじみの某政治評論家さんご一行もおいでになった。
現在の民主党政権の生みの親ともいうべき人物。
いろいろ龍馬の話で盛り上がる。
そのほかにも重要な情報交換もあり。

23日(木)。
午前中は京博の日蓮展見学。
会場のなかで宮川さんと遭遇。
来館したら電話するようにと昨日言われていたが、こちらが展示の見学に夢中で、いつの間にか時間が過ぎていたのを忘れていたから、向こうから探しに来られたのだろう。
館内は、日蓮宗の僧侶や在家信者と思われる方々がたくさんおいでで、なかなか前に進めなかった。
「立正安国論」の本物を見られて感激した。
もちろん「建勲神社」本も見ました。
狩野山楽も唐獅子図屏風を書いているとは知らなかった。
狩野派の永徳一家とそのライバル長谷川等伯がともに法華の在家信者だったのはとても面白い。

午後から三井寺まで足を伸ばす。
じつは初めての参詣。
目的は東京国立博物館をつくった町田久成(幕末薩摩藩大目付、英国留学生の一人)が晩年出家して、三井寺光浄院の住職となるという隠遁生活を送ったことに興味があり、足を運んだ次第。

光浄院は、個人的には信長関連史跡。
信長が元亀争乱の志賀の陣のとき宿泊したこともあるし、当時の住職は勢多・甲賀の豪族、山岡兄弟の四男暹慶(俗名景友)だった。暹慶は信長と将軍義昭が決裂したとき、一度は義昭に味方し、のち降伏した。
その後、秀吉・家康に仕えて同朋衆となり、山岡道阿弥の名前で知られる。家康の謀臣となり、関ヶ原合戦でも暗躍。それから、甲賀衆を与力とする棟梁となった。

光浄院は現在、無住状態のようだったが、庭園や方丈が美しいらしい。
その隣にある三井寺の寺務所で、町田久成の墓の場所を尋ねる。
塔頭法明院にあるフェノロサの墓の近くにあると聞き、山奥に分け入る。
すごい山道だった。
でも、途中で新羅三郎義光のお墓も見つけて感激。
そこから道に迷って、あちこち探しまわり、ようやく見つけることができた。
汗ビッショリかいたが、そこまでした値打ちがあった。
感激に浸る間もなく、帰路を急いだが、京阪線の駅に着いた頃にはふくらはぎに乳酸がたまっていることを自覚できるくらい足が疲れていた。
山中を2時間近く歩いたせいである。

でも、目的を果たし、達成感を抱いたまま帰路に着いた。

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【2009/10/24 00:17】 | 日次記
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日蓮展
びわこ
桐野さんは、もう行ってこられたのですね。
友人が日蓮宗のお寺さん(佐和山城の法華丸を移したといういわれのある)なので、この日蓮展に誘われています。

>「立正安国論」の本物を見られて感激した

実は私もこれが一番気になるところです。


日蓮展
桐野
びわこさん、こんばんは。

日蓮展は平日にもかかわらず、大変込んでいました。
僧侶や信者の方が多い感じでした。

いろいろ興味深い展示品があります。
分厚い充実した図録もありますよ。


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新刊案内です。

友人の研究者・金子拓氏(東大史料編纂所)から、表題の本を恵贈されました。
金子さんに謹んで感謝。

以前からブログでもよく書いていた太田牛一『信長記』の科研費調査の成果がふんだんに盛り込まれた待望の著書。

詳しくは版元サイトのここをご覧下さい。

とにかく力作です。
『信長記』研究の一大画期となるのは間違いないでしょう。

恥ずかしながら、拙稿も取り上げていただいておりますので、ご覧下さい。
少々高いですが(3.800円+税)、それだけの値打ちのある本です。とくに信長に関心ある人には。

まだ見本段階だと思います。
近日中に書店に並ぶと思います。

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【2009/10/21 19:23】 | 新刊
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待望の書籍
市野澤
こんにちわ。

出版の日を待っていました。

既にお持ちの桐野さんが羨ましい限りです。

勉誠出版といえば、高橋恵美子氏の書籍が一年以上も出版が遅れているので年内に発売して欲しいです。

よろしく
桐野
市野澤さん、こんばんは。

決して期待を裏切らない本だと思いますので、ぜひ御購入下さいませ。
高橋恵美子さんのことは存じ上げませんでした。早く刊行されればいいですね。私も人に言える資格はないのですが(汗)。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第125回
―義弘の身代わりで戦死―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も「関ヶ原の退き口」の続きです。
主役は長寿院盛淳といっても、知らない方が多いと思います。
島津義久に還俗を命じられて仕え、のち義弘の家老に転じています。

記事でも書いたように、盛淳は老中筆頭の伊集院幸侃とともに、太閤検地に伴う知行配分に関わりました。その方法をめぐって幸侃とも不仲になりました。2人の違いは何なのか、単に知行配分のやり方の違いなのか、あるいは豊臣政権との距離の違いなのか、まだ検討の余地があります。
また家臣団からも不満が出て突き上げられ、そのため、知行の奉行を辞退したほどです。そのまま辞めたか、思い直して再び従事したかも不明。

伊集院幸侃と同様の仕事をしたわけですから、盛淳も老中だったと思われますが、どうも幸侃より一段下の老中と評されるなど、その地位に曖昧さが残ります。
それというのも、豊臣政権服属以前の老中制は変質もしくは崩壊してしまったからでしょう。数人の老中による連署状もこの時期少なくなります。
それもそのはず。老中のなかには義弘に従って朝鮮陣に従軍していたり、上方の留守居をつとめていたり、義久・義弘・忠恒のいずれかに専属する形で奉公する者も出てきてバラバラだったからです。
ですから、盛淳の地位を計るのは難しいですね。

盛淳はどうやら関ヶ原の義弘本陣周辺で討死を遂げたのではないかと思われます。

その墓はだいぶ離れた伊勢街道筋の琳光寺にあります。
かつて、その近くの小学校だったかの裏庭に盛淳の慰霊碑が立っていて、それを撮影した記憶があるのですが、そのポジフィルムがどこに仕舞い込んだのか出てきません。琳光寺近くの小学校だったかな? ご存じの方がおいでなら教えて下さいませ。

次回も「退き口」関連で、石田三成を書く予定。
乞うご期待!

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【2009/10/19 12:26】 | さつま人国誌
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一昨14日(水)午後3時から表題の講座に出講。
場所は三鷹のサテライトキャンパス。

今回が第1回目。全10回もある。
前クールで直江兼続の講座をしたときの受講者も何人かいらっしゃる。

あらかじめお伝えしていた講義内容を若干変更した。
最初から本文に入るつもりだったが、やはり太田牛一『信長記』って何ぞやという、そもそも論をやっておいたほうがいいと思った次第。
池田家本や『安土日記』の影印、我自刊我本、それに角川文庫本を持参して、実際に受講者に見てもらい、雰囲気をつかんでもらった。もっとも、我自刊我本は持参したのに、見てもらうのを忘れてしまったけど。

太田牛一が池田家本巻13奥書で述べた「曽て私作・私語にあらず、ただ有ることを除かず、無きことを添えず」の一節に、その厳格な執筆態度が表されていることを強調した。

本文はほんのさわりだけやった。
首巻の冒頭、尾張国八郡と伊勢守・大和守の両織田家や弾正忠家の説明をしたところで時間となった。

次回から信秀時代を本格的にやる予定。

講師控室で、他の先生方とも少し交流した。
会津出身の先生がおられて、幕末維新の話題で弾んだ。

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【2009/10/16 12:35】 | 武蔵野大学社会連携センター
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毎度の小学館アカデミー「てらこや」の特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」が来週20日(火)から開講されます。全5回講座です。
もう何クール目か忘れてしまいましたが、篤姫から入れると、10クール目になるようです。
講座の詳しい内容は東京龍馬会サイトのなかのトピックスをご覧下さい(ここです)。
また問い合わせ・申し込みなどはこちらをご覧下さい。

今回は慶応3年(1867)後半のヤマ場である大政奉還、近江屋事件、王政復古政変など重要事件を詳しく見ていく予定です。
以下のようなスケジュールを考えていましたが、

【予定する各回のテーマ】※変更する場合があります。
(1)薩長芸挙兵計画の挫折(失機改図)
(2)大政奉還と小松帯刀
(3)討幕の密勅見合わせ
(4)龍馬暗殺(近江屋事件)とその波紋
(5)王政復古政変

さっそく若干変更するかもしれません。
第1回は、「赤松小三郎と遭難事件」を取り上げようかと考えてきます。

変更点があったので、再告知しました。
これまでのいきさつと関係なく、途中受講でもまったくかまいません。
それほど戸惑いなく、なじんでいただけると思いますので、初めての方も大歓迎です。
申し込みは直前まで受け付けていますので、関心のある方はおいでになってみませんか。

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【2009/10/15 10:56】 | てらこや
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「さつま人国誌」で島津豊久を書きました。

そしたら、豊久ゆかりの佐土原で、特別企画展「島津家久・豊久父子と佐土原」が開催されているという情報をいただきました。
詳しくはここをご覧下さい。
島津中務大輔家久の佐土原入城430年を記念しての企画だそうです。

豊久後裔の永吉島津家からも貴重な史料が出品されているようです。
同家は豊臣秀吉朱印状や朝鮮出兵の陣立書を所蔵していますね。
とても楽しみですね。
私も機会があったら観に行きたいです。

佐土原も市町村合併で宮崎市になったのですね。

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【2009/10/14 11:12】 | イベント
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第124回
―関ケ原で壮烈な戦死―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

本来は掲載日の昨日中に更新されるはずでしたが、本日が新聞休刊日のため、担当部署がお休みだったかもしれません。

今回も関ヶ原合戦関連の記事です。
関ヶ原合戦は旧暦9月15日ですが、鹿児島では10月の第4日曜日にそれにちなんだ妙円寺参りが行われます。まあ、それを多少意識した記事作りです。

島津豊久は関ヶ原盆地から伊勢街道に至る途次の烏頭坂あたりで討死したと伝えられています。
一方、そうではなく、重傷を負った豊久は戦場からやや離れた上石津町(現・岐阜県大垣市)まで逃げのび、瑠璃光寺あたりの樫原で息絶えたという伝承も残っています。
瑠璃光寺には、豊久の墓とされるものが現在も保存されています。
真偽のほどはわかりませんが、参考までにその写真を載せておきます。
案内板1
案内板2
島津豊久墓




記事にも少し書きましたが、豊久死後の佐土原島津家は家康によって改易され、所領は一時、徳川領となりました。
しかし、島津本家の和睦交渉の過程で返還され、垂水島津家の島津以久が入部し、新たな佐土原島津家となり、幕末から現在まで至っています。
一方、豊久の跡は喜入氏から入った養子の忠栄が継ぎ、島津本家家中に復帰し、永吉島津家(日置郡永吉4.400余石)となって幕末に至りました。

次回もしつこく関ヶ原関連を書く予定です。

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【2009/10/13 11:56】 | さつま人国誌
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ばんない
お久しぶりです

本文、この箇所が気になりました
> 豊久ははじめ忠豊と名乗ったが、豊臣政権に服属したの
>ち、豊久と改めた。秀吉の姓の一字を下にするのは不敬とい
>う理由からである。
『旧記雑録後編』所収の文書を見ると、朝鮮出兵中の文書でも「島津忠豊」と書かれている物が散見されますが…

取り急ぎ質問のみにて、失礼します。

忠豊
桐野
ばんないさん、こんにちは。

忠豊から豊久への改名時期はよくわかりませんね。
私の書き方も大ざっぱだったかもしれません。

朝鮮出兵中に「忠豊」名乗りがあるということですが、それは発給文書ですか? 私は忠豊=豊久の発給文書をほとんど見た記憶がなかったもので。
もし『旧記雑録後編』のなかで、ご存じのものがあれば、教えて下さい。
豊臣政権からの朱印状はすべて「又七郎」宛てになっていた記憶があります。

これから、豊久が父と同じ中務大輔の官途を名乗ったのもだいぶあと、朝鮮陣が終わってからでしょうかね?

島津「忠豊」
ばんない
こんにちは。早速のご返答ありがとうございます。

本文を書くと長くなるので番号のみにて申し訳ありません。
以前拙ブログで取り上げた物で、他家文書になりますが
「相良家文書」813(嶋津又七郎忠<花押>→相良宮内大輔、十二月廿二日)
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/IMG/850/8500/05/0502/0238.tif
は朝鮮出兵中に書かれた物かと思います。実物の写真はwebでは見あたりませんでした。

また朝鮮出兵中ではなくその後の庄内の乱の頃に書かれた物かと思われますが、パッと目に付いた物だけ挙げてみますと
「旧記雑録後編」3-961(又七忠豊→伊勢弥九郎、(慶長4年)十一月二十六日)
「旧記雑録後編」3-964(中務大輔忠豊→伊勢兵部少輔殿、(慶長4年)雪月朔日)
があります。

取り急ぎ用件のみにて失礼します。

侍従任官
桐野
ばんないさん、こんにちは。

『相良家文書』『旧記雑録後編』所収の「忠豊」文書のご紹介有難うございました。

慶長4年まで忠豊だったとすれば、豊久名乗りはほんの1年もなかったことになりますね。

となると、「不敬」云々はまったくの的外れだったことになります。
それと同時に改名のきっかけは何なんでしょうね?

ひとつ関連が考えられるのは、豊久が慶長4年頃か、又七郎をやめて中務大輔を名乗り、同時に侍従に任官しています。これは佐土原島津家が公家成したことを意味します。
「豊久」名乗りは侍従任官=公家成とセットかもしれません。
中務大輔の通称官名だと、父家久と似たような豊久名乗りのほうが据わりがよかったとか、個人的な好みもありそうですが(笑)。

貴重なご教示有難うございました。


『以久』の読みについて
西海の虎
はじめまして、西海の虎と申します。
『島津義久』や今回の『さつま人国誌』を拝読しまして、1つ気になった点があります。
島津以久の読みですが、別名幸久、征久とあるためか、一般には『ゆきひさ』と読まれているようです。
御著書では『もちひさ』で統一されているようですが、何か理由があるのでしょうか。

忠豊名乗り
桐野
ばんないさん、こんにちは。

修正・補足です。
『旧記雑録後編三』を見るかぎり、忠豊名乗りは慶長5年2月まで確認できますね(1032号)。

あまり豊久は調べたことがなかったので、驚きました。
豊久名乗りはほんの数カ月しかないことになりますね。
大変勉強になりました。有難うございます。

以久
桐野
西海の虎さん、はじめまして。

コメント有難うございます。

「以久」については悩ましいですね。
『島津氏正統系図』や『旧記雑録拾遺 諸士系譜三』忠将流などには、

「以久
 初幸久 征久」

と書かれていることが多いですね。
これは初名が幸久で、最終の名乗りが以久だったことを意味するのでしょう。

読みに関しては正直わかりません。
「ゆきひさ」か「もちひさ」のどれが正しいか、よほど確たる史料に明記されていない限り、判断できないと思います。

「以」を何と読むかですが、漢和辞典の人名読みとして、

これ/さね/しげ/とも/もち/ゆき

とありますから、「もちひさ」でも「ゆきひさ」でもいいことになりますね。あるいは、それ以外の可能性もあります。
私が「もちひさ」読みを多用するのは、常識的な読み方であることと、「幸久」「征久」とむしろ別の読み方をするのではというまったく主観的な感触からです。

ですから、とくに根拠や基準はありません。

追伸
ハンドル名は島津貴久にちなむものでしょうか?
もしそうなら、貴久を「西海の虎」と異称するのはどんな史料に基づいているのでしょうか?

ありがとうございました
西海の虎
丁寧な解説ありがとうございました。
実はこの質問は、以前から以久の読みに疑問をもっていた友人がきっかけで私も興味を持ち、先に質問をしてしまった次第です。
そのため、友人と出会った掲示板の一部を拝借してハンドル名とさせていただきました。
ですから、『西海の虎』自体に特に意味はありません。
ハンドル名が適当ではなかったかもしれませんね。申し訳ありません。

今後ともよろしく
桐野
西海の虎さん、こんばんは。

いろいろ事情を書いていただき、有難うございます。
また遊びに来て下さいませ。

連載「さつま人国誌」はしばらく関ヶ原シリーズです。
よかったら、ご覧下さい。

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戦国三好氏研究で知られる天野忠幸氏から表題の論文をお送りいただいた。
正式な論文名・媒体・発行年は、

天野忠幸「三好氏と武家の権力秩序」 『歴史科学』198号 大阪歴史科学協議会 2009年9月

天野氏には以前、三好宗家と阿波三好氏の違いについて学恩を蒙り、拙著『だれが信長を殺したのか』(PHP新書)に少し反映できた。

今回の論文は、現在の戦国史研究の二大潮流である①「地域国家」論(戦国大名の分権性、自律性を重視する考え方)と、②室町幕府-守護体制という旧来の枠組みが変質しながらも、なお全国的な規定性を有しているという考え方があるなかで、肝心の畿内において形成された三好政権の性格をどのようにとらえるかという問題意識を有している。

天野論文は②の考え方に対して、三好政権が幕府の権力秩序を変質させ掘り崩したという画期性を重視し、それが次の織田政権の倒幕思想につながっていくと結論している。

つまり、統一政権の形成過程のなかに、三好政権を積極的に位置づけようという試みではないかと思われる。従来、統一政権の創出については朝尾直弘氏をはじめとして、信長を起点とする考え方があったが、それにも修正を加える意向があるのかもしれない。今後の進展に期待。
ともあれ、三好政権が織田政権の先駆的形態というべき意味あいをもつという指摘は新鮮である。それは両政権が幕府-将軍権力に依存せず、むしろそれを逸脱して成立した点を評価していることでもある。

個人的には、三好長慶がなぜ追放した将軍義輝と和睦し、その還京を認めてしまったのか、その理由や背景をもっと突っ込んで知りたかった。この和睦によって、三好氏が相伴衆となり、長慶の官途も修理大夫になるなど、三好家の家格上昇をもたらしたという評価はあるが、将軍抜きの政権形成という画期的路線がなぜ不徹底に終わってしまったのか、もっと知りたいと思う。これは三好政権の限界で、それを突破するには信長の登場を待たねばならなかったということなのか。

本稿は通常の論文より分量がやや少ないように感じた。媒体の事情によるものだろう。今後、上記の点をさらに展開してもらえば有難い。

新たな視野をひらいてもらった天野氏に感謝。

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【2009/10/12 12:35】 | 戦国織豊
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興味を惹かれます。
NAO4@吟遊詩人
こんにちは。
>天野忠幸「三好氏と武家の権力秩序」 『歴史科学』198号 大阪歴史科学協議会 2009年9月

結構惹かれるものがあります。しかし、この雑誌その辺の図書館には無さそうですね。国会図書館にはありそうですが。

三好氏というと、「戦国三好一族(今谷明著)」しか知らないので、どういう政権であったのか分類・詳述されているとしたら、面白そうです。

三好氏
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、こんにちは。

三好氏に関心がおありでしたか。
天野論文はやはり国会図書館や大学図書館などでないと入手できないかもしれないですね。

ご指摘のとおり、現状では今谷明さんのご本が戦国三好氏について、もっともよくまとまった著作だろうと思います。

天野さんは三好氏の論文をすでに何本も書かれていますが、まだ単行本化には至っていませんね。そのうち、本になることを期待しましょう。


海部氏の方が早い
天鳥船
突然失礼いたします。

三好長慶・天野忠幸と検索してきて、こちらを見つけました。

徳島県海部郡海陽町の出身者です。

阿波海部氏のことで、皆様に認識を改めていただきたく、

できれば天野忠幸先生にもご連絡ください。

海部氏は、1352年・1392年・1420年と、京都で政権中枢部の根本史料に名を残しています。

1352年国宝東寺百合文書、1392年相国寺供養記、1420年『満済准后日記』、

原文も、リンク先に掲示しております。

http://1st.geocities.jp/rekisironnsyuu/kaifusitotyuuouseikai.html

三好氏より海部氏の方が、京都での活動は、早いのです。

皆様にご紹介ください。

そして、もし、すでにご存知でしたら、失礼をおわびいたします。


海部氏
桐野
天鳥船さん、はじめまして。

コメント有難うございます。

阿波の海部氏についてはまったく不勉強で、ご教示感謝です。
天野さんもこちらをのぞいていらっしゃるかもしれませんので、お目に止まるかもしれません。

今後ともよろしく。

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以前も少しお知らせしましたが、年末、東京・新宿で坂本龍馬のシンポジウムが開催されます。
不肖、私が企画・コーディネーターを仰せつかりました。
詳しいことは以下の告知をご覧下さい。画像を左クリックすれば、拡大画面がご覧になれます。
これは「京王ニュース」から転載しました。同ニュースは京王電鉄(井の頭線も)の各駅に置いてありますので、沿線の方は手にとってご覧下さい。
京王文化セミナー






京王文化セミナーは毎年開催されており、年末のイベントが初回で、来年にはツアーや講演会、史跡探訪などが開かれます。
私も昨年の大河ドラマ「篤姫」で、鹿児島、京都、江戸をめぐりました。

今年は大河ドラマ「龍馬伝」にちなんだものになりそうです。
高知、長崎、京都などゆかりの地を訪れることになるのでしょう。

今回はシンポジウムで、まず龍馬の人間像を知ってもらおうという趣旨です。
パネリストのみなさんも、坂本家9代目当主坂本登氏をはじめ、多彩な方々をお迎えしました。
一応、要領を書いておきます。
関東方面で興味のある方は参加してみませんか。

テーマ:「坂本龍馬――幕末維新を回天させた男」
講  師:坂本登/山村竜也/植松三十里/中村武生/桐野作人(敬称略)
日  時:12月8日(火)11:00~13:00
会  場:京王プラザホテル(新宿)5F「コンコードボールルーム」
参 加 費:お一人様1.000円
募集人員:600名様(応募者多数の場合は抽選)
申込締切:11/12(必着)
申込方法:往復ハガキに申込者全員の住所、氏名(フリガナ)、年齢、電話番号を明記のうえ、
〒206-8502 多摩市関戸1-9-1 京王電鉄文化探訪事務局「文化セミナー」係
までお送り下さい。
(1枚につき2名様までお申し込みいただけます。返信用ハガキにも送付先をご記入下さい)

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【2009/10/11 12:51】 | イベント
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今月1日(木)から坂本龍馬をテーマにした表題の市民講座が始まっている。
詳しくは、ここをご覧下さい。

決して安くはない受講料のうえ、初めての人は入会金も必要という講座だが、予想を上回る多くの方々においでいただいた。これも来年の大河ドラマという話題性とともに、多彩な講師陣にご協力いただいた賜物だと思う。

第1回は私の担当で、「坂本龍馬と薩摩藩―小松帯刀・西郷隆盛・吉井幸輔―」というタイトルでお話した。薩摩藩士の3人のなかで、私がとくに取り上げたかったのは吉井幸輔である。

坂本龍馬に接触した最初の薩摩人が吉井ではないかと思われること(私は最近別の意見を抱いているが)。
また寺田屋事件が起きたとき、まっ先に京都から伏見に駆けつけたのも吉井、負傷した龍馬を京都の藩邸に護送するときの警固隊長も吉井である。
霧島での龍馬とお龍の、いわゆる新婚旅行に同行したのも吉井である。
さらに龍馬の死の直前、幕吏に不穏な動きがあることを知らせ、薩摩藩邸に龍馬を保護しようと動いたのも吉井である。

わずか4年間だが、薩摩藩のなかで、龍馬ともっとも親密で親身になって世話してくれたのは吉井である。
おそらく来年の大河ドラマには登場しないだろうけど、龍馬の人間関係において、決して忘れてはならない人物だと強調した。

最後のまとめとして、龍馬や中岡慎太郎など脱藩浪士集団が維新変革に果たした役割を論じて終えた。


そして、第2回が台風が関東を通過した8日にあった。
講師は高知県北川村の中岡慎太郎館学芸員の豊田満広氏。
折からの台風のため、講師が上京できるのか、受講者のみなさんは出席できるのか気を揉んだが、杞憂に終わった。
豊田氏招聘については、企画段階で、私がぜひにと事務局のI氏に頼み込んでお願いしていた。
タイトルは「中岡慎太郎から見た坂本龍馬」。

中岡慎太郎の日記「海西雑記」「行行筆記」などを使って、龍馬との関係を説明された。
もっとも、中岡の日記は簡略すぎて、多弁な龍馬の手紙などとは非対称的で、両者の関係をなかなか比較しにくいという史料上の制約もあるというお話もあった。

中岡と龍馬の関係はお互いに信頼するタッグパートナーであったことを力説された。もちろん、考え方の違いは少しあるが、基本的な政治姿勢などは変わらないとも。
受講者から中岡が龍馬を暗殺したという説もあるがという質問に関連して、佐佐木高行の『保古飛呂比』を引いて、龍馬も「砲撃芝居」=武力倒幕を決して否定しておらず、中岡の倒幕路線とは基本的に同じであり。暗殺は考えにくいとの回答で、私も同感だった。

終了後、豊田氏と以前からの知友であるMさんを交えて、飛行機の時間まで歓談した。
私は十数年前、中岡の生家を訪れたことがあるが、その頃はまだ記念館はできていなかった。だから、豊田氏とも初めてお会いしたが、予想したとおりの好青年だった。

第3回は10月29日。
薩長同盟前夜に書かれた龍馬書簡を読み解く」というテーマで、宮川禎一氏(京都国立博物館)が講師です。

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【2009/10/10 10:16】 | 明治大学リバティアカデミー
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今朝、歴史読本の連載「信長」第24回分のゲラを戻しました。
これで、2年間の務めを何とか果たしたことになります。
後半の1年は締切も遅れがちで、S編集長には最後まで気を揉ませてしまいました。

ゴメンなさい。

にもかかわらず、S編集長より、あと1年続けよとの、有難いお言葉。

何せ、第24回が元亀2年(1571)の比叡山延暦寺焼き打ちで終わったのだ。
本能寺の変まで、あと11年もあるわけで!!

それで、あと1年間12回分は心機一転、新たな決意で臨むことにしました。
各回、ほぼ1年分ずつ書きます。そうすると、終わるはずですよね?
12回分のテーマ・内容をあらかじめ決めて、断固貫徹します。
多少こぼれることもあるでしょうが、致し方ありません。

どうか、ご理解、ご海容いただきたく>読者のみなさま。

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【2009/10/08 20:48】 | 信長
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続投おめでとうございます。
NAO4@吟遊詩人
御無沙汰いたしております。
先日ブログで、そろそろ終わりと書かれていたので、「本能寺の変までまだまだじゃないか。」と残念に思っていたのですが、続行されるとのことで、ほっとしております。
おめでとうございます。
ということは、歴史読本あと1年は買わなければならないということなんですね?(笑)

よろしくお願いします
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

励ましのお言葉、有難うございます。
あと1年つづきますが、完結後、おそらく単行本になると思いますので、そのときに講読されてもかまいません。
もっとも、連載記事と単行本とでは内容が異なるというか、単行本では省略が多くなるかもしれませんが。

今後ともよろしく。


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現在発売中の新刊紹介です。
表紙など案内はここをご覧下さい。

私は、「徹底検証 龍馬の三大焦点」というテーマで、

1,薩長同盟――盟約か? 軍事同盟か?
2,船中八策と大政奉還――「十一箇条」だった「八策」
3,新官制擬定書――消された龍馬の名前


という3本を書いています。

龍馬の国事周旋の中核的部分です。
とくに「新官制擬定書」については、フィクションである「世界の海援隊」 の逸話の培養基になったいきさつを書きました。

興味のある方はご覧下さい。

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【2009/10/07 08:26】 | 新刊
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遅れ馳せながら
市野澤
こんばんわ。

桐野さんから本書の感想をお尋ね頂きながら、返信が遅れましたことを、まずはお詫びさせて頂きます。

三大争点、いずれも最新の研究成果を取り入れながら、自説を述べられていらっしゃいますね。
これに『歴史読本』第51巻第10号2006年7月号に掲載された「龍馬遭難事件の新視覚」が本書に再録されていたら、言うことなしでした。

近年、桐野さんは信長・島津氏・薩摩藩とテーマを絞られた印象を勝手に持っていたのですが、本書を読むと、やはり広い視野と知識を持たれた方と改めて実感します。

いえいえ
桐野
市野澤さん、こんにちは。

対象テーマを絞っているのはその通りです。
非才の身としては、もうこれ以上手を広げられませんから。

歴読の短期連載記事などはまた別の形でまとめたいと思っています。

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昨夜、雨の中、通夜に行って来ました。

島津晴久氏は島津一門四家のひとつ、重富島津家の当主でした。

私も講演・講座で何度か、ご一緒したことがあります。
若僧にも親しく話しかけて下さり、その気さくさ、優しさには心温まる思いがしました。
昨年倒れられ、長く闘病中でしたが、つい先日帰らぬ人となられました。

永らく文科省関係で博物館行政に携わられ、博物館の充実や情報公開の必要を強調しておられました。
佐倉の歴博にお勤めのときは、今谷明さんとも仲がよかったとお聞きしました。

いつぞや、雑談の中で、私が重富島津家の幕末維新期の先祖、珍彦(忠鑑、久光三男)に関心がありますと話すと、数日後には珍彦の珍しい史料をたくさん送って下さいました。私はその場限りの雑談のつもりだったので、とても驚いた覚えがあります。
その史料をまだ十分活用したとはいえないので、それを使いこなすことが供養のひとつかなと思っているところです。

ご冥福を祈ります。合掌

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【2009/10/06 08:26】 | 雑記
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重富住民として
岩剣石塁
 当の重富住民ですが、氏の話題は全く耳にしませんでした。
お住まいが遠く離れていたにしても、残念なことです。
 ご冥福をお祈り申し上げます。

重富
桐野
岩剣石塁さん、こんにちは。

島津晴久さんはお仕事が関東でしたし、お住まいもそうでしたから、重富にはそう帰ってはおられないでしょうね。

でも、いつぞや地元に帰って墓参りしてきたと仰せでした。
晴久さんのお墓は、重富にできると聞きました。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第123回
―関ヶ原で勇名をはせる―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は山田昌巌を取り上げました。
私の郷里では一番の有名人です。

子どもの頃は名前だけはよく知っていましたが、どういう経歴をもち、何をした人なのか、当然ながらよく知りませんでした。
ただ、ある逸話だけはよく覚えています。
昌巌が地頭として出水に赴任してきたとき、地元の武士団(衆中)が歓迎の宴席で、吸物の椀を出したので、蓋を取ると、カエル煮が入っていたそうな。でも、昌巌はあわてず騒がず、平然とそのカエルを食べてしまったので、地頭の驚く顔を見たかった衆中たちのあてがはずれてしまったという。

その話には後日談があります。
後日、昌巌がお返しの宴席を設けた。すると、吸物の椀がある。
衆中たちが仕返しをされるのかと恐々と蓋を開けると、何と、汁の中に針が沈んでいる。
カエルと違って食べるわけにはいかない。衆中たちは昌巌の仕返しに降参したというような話……。

この逸話は昌巌の「偉さ」を述べたものだと聞かされたが、私は子ども心に違和感があった。
カエルなら、おふざけか座興で済むが、針はそうはいかない。
もし恐いもの知らずで負けず嫌いの衆中がいて、針を飲み込んでしまったなら、昌巌はどうするつもりだったのか?
あっぱれと褒めるのか、たとえ死んでも……。
それとも、あわてて針を喉から取り出せば、もはや座興ではなくなってしまう。

私はとても「偉い」人のやることじゃないと思った。むしろ、大人気ないのではと……。

とまあ、そんな昔のことを思い出しながら、書きました。
とくに関ヶ原合戦での昌巌の武功はあまり知られていないと思います。

昌巌が他界したのは寛文8年(1668)。
じつに、関ヶ原合戦から70年近く経っています。すでに4代将軍家綱の治世です。
関ヶ原合戦に参陣した将兵で、昌巌はほとんど最後の一人だったかもしれないですね。
関ヶ原合戦の参陣者で生き残り長生きした人で、たとえば、島津家中の中馬大蔵、あるいは細川忠興などが後世の人々から体験談を語るよう依頼されたという逸話は残っていますが、昌巌ほど長生きした人はさすがに聞いたことがありません。

昌巌は義久―義弘―家久―光久という主君に仕えたわけですが、一度も失脚していません。
そして老中にまで上りつめています。いわば不倒翁といっても過言ではありません。豪放磊落に見えて、戦国大名から近世大名へと変身する過渡期の島津家中で、複雑かつ熾烈な内部闘争を生き抜いたことになり、なかなか怜悧な処世術をもっていたともいえそうです。
もっとも、紙面の関係でそのようなことは書けませんでした。

次回も戦国方面の話題を書く予定です。

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【2009/10/05 21:27】 | さつま人国誌
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今夜、空路帰京しました。
鹿児島に二泊三日の滞在でした。

今回の最大の目的は、このイベントへの参加です(ここです)。

基調報告という、分不相応の大任を果たさねばならなかったが、あとで何人かの参加者からの感想を聞いたら、おおむねわかりやすかったという評価をいただいた。
薩摩側、島津側からの視点での話でいいのかと、内心思っていただけに安堵した次第。
また、主催者の予想を上回る参加者があったようで、会場はぎっしり満員だった。

前夜祭や当日イベント終了後の懇親会、三次会まで付き合い、最近としては珍しく、したたかに焼酎を飲みすぎた。

今回も友人の調所一郎氏(広郷七代目子孫)とご一緒した。あちこち付き合っていただき、大変有難かった。

限られた時間だったが、史跡見学もできたので、おいおい報告します。

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【2009/10/04 22:56】 | 雑記
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みらん
桐野さん、こんにちは☆ご無沙汰してます。
2chのニュース速報板をロムってたら、昨日のイベの記事のスレが出来てて、
ほ~う、イベとはこのことだったのかと思いました(^O^)。
滞在中に桜島も噴火したのでは?

最近は華流・韓流から引き上げ、龍馬シフトに戻りつつあります(笑)。


龍馬
桐野
みらん隊長、こんにちは。

わざわざチェックされたのですね。
まあ、そういう会でした。

私はまだ韓流はそれなりに観ていますよ。

龍馬といえば、発売中の別冊歴史読本「坂本龍馬伝」に、私も「龍馬の三大焦点」という記事でかなりまとまって書いています。
よかったら、ご覧下さい。


お帰りなさい
寛永寺幼卒人
御無沙汰を致して居ります相変わらずのお出掛けにお体をお大事に~ 肝臓にご注意の事!是非充分な休養日を作って下さい   週刊朝日を読ませて頂ました11月の鹿児島へのご予定は有りませんか?今年も10日間を予定してます折角の命を使って後悔の無い時間を持ちたいのです主人と長男の法事も済ませて今は安堵して居ます腰は益々弱って来ましたが老犬のオスカーはお医者に預けて出掛けます 10日間は使えないかも知れませんがとても止められませんので二人で車で出掛けます城山からの眺めは忘れられません 桐野さんのご活躍を祈ります


お気をつけて
桐野
寛永寺幼卒人さん、こんにちは。

来月にまた鹿児島に行かれるんですね。
どうかお気をつけておいで下さい。
オスカーくんは寂しいかもしれませんね。

桜島の眺めは、鹿児島市の西の高台にある長島美術館が隠れた穴場です。余裕がありましたら、おでかけ下さい。

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本日昼過ぎ、鹿児島に着きました。
午前中は強い雨だったようですが、ほとんど止んでよかったです。

とあるイベントのため、帰鹿しました。

今回は久しぶりに郷里にも寄ってみようと思います。

そういいつつ、現在、ホテルにカンヅメで原稿執筆中です(汗)。

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【2009/10/02 14:51】 | 雑記
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明日の・・・
おひげ
明日のイベントの基調楽しみにしています


トホホ
岩剣石塁
 今朝の南日本新聞朝刊で、シンポジウムがあったことを
知りました。
時既に遅し。


どうも
桐野
おひげさん、初めまして。

存じ上げている方でしょうか?
無事終わりました。
基調報告、いかがだったでしょうか?

すみません
桐野
岩剣石塁さん、お久しぶりです。

事前にお知らせせず、すみませんでした。
またの機会によろしくお願いします。

ありがとうございました
岩剣石塁
 わざわざ気を遣っていただいてありがとうございました。
この場をお借りして御礼申し上げます。

 今月末に奄美大島に行ってきます。
戴いた資料の中にある地名の場所にも行けるかもしれません。
 また11月3日には地元小学校の主催で岩剣城址登山が
あるので、それにも参加したいと思っています。


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