歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第129回
―捕虜となり、和睦に奔走―

少し遅れましたが、連載が更新になりました。
同紙サイトのここをクリックすれば、ご覧になれます。

今回も「島津の退き口」の続きです。
新納旅庵を取り上げました。
島津義弘の家老です。重要な人物ですが、退き口の途中、義弘とははぐれ、東軍の捕虜となりました。
捕まえたのは、家康の側近で、島津家の取次だった山口直友です。
なぜ山口だったのか、偶然にしては都合がよい気がします。
間に近衛信尹あたりが立って仲介したのかもしれません。

その後、旅庵は家康と島津家の和睦のために奔走しました。
旅庵関係の史料を読むと、義弘の罪なきを強力にプッシュしてくれたのは福島正則のようですね。
東軍最大の功労者で豊家恩顧の大名の代表格である正則の進言となると、家康も無視できなかったのでしょう。

そして和睦成立直後に、大坂で急病を発して帰らぬ人となりました。
ただ、旅庵の死には多少の疑念がないわけではありません。
旅庵は死の10日前に、国許の同僚伊勢貞成に宛てて島津家久が上京してきた上方の状況を知らせています。家久が豊臣秀頼に対面したこととか、正則の島津家への好意などです。
とても、元気そうで、急死するようにはみえません。

まあ、急死なら、それから10日後に亡くなっても不思議ではないのですが、上方に家久が滞在しているときの死となれば、家久と無関係なのかどうか、少し引っかかります。

というのは、家久はこの上京途次、随従していた伊集院忠真を日向野尻で謀殺し、その一族を皆殺しにしています。伊集院忠真はもちろん庄内の乱を引き起こした張本です。

旅庵の急死は、家久から死を賜った可能性はないのでしょうかね?
あくまでタイミングがピッタリすぎるので、臆測かも知れませんが。

次回は、押川強兵衛を書きました。
稀代の殺人マシーンですね、この人。

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【2009/11/28 15:50】 | さつま人国誌
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ばんない
おひさしぶりです。

新納旅庵暗殺説は初めて聞きました。暗殺説の根拠は徳川家との内通を疑われたことでしょうか?
そういえば徳川氏との交渉に立っていて、やはり畿内で客死した人物がいますね。今後のネタにされるかと思いますので名前は伏せておきますが。

妄想
桐野
ばんないさん、こんばんは。

新納旅庵の死についての臆測は、暗殺ではなく、家久に死を命じられたのではないか、あるいは家久に罵倒されて憤死したかもとか考えてみましたが、まあ、タイミングの一致だけで、証拠となる史料もありませんから、妄想の類です。

本日夜、NHK教育で、秀吉の朝鮮出兵を特集していましたが、忠恒=家久が陣所に蹴鞠場や茶室を普請したので、それに怒った島津軍の兵士が朝鮮側に投降して「降倭」となったという話を紹介していました。よほど腹を立てたんでしょうね。


ばんない
こんばんは。

「暗殺」ではないということですね。まあタイミング的にあれですし、何しろあの忠恒(家久)がらみですから(苦笑)穿ちたくなるのも道理かと。

ご指摘の番組は見ていませんでしたが、その話は早稲田大学の北島万治氏の本で紹介されてますね。ネットでもくだけた文体ですがこの辺(URL参照)で紹介されてます。これは酷い

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歴史読本2010年新年号がもう発売になりました。
案内はここにあります。

私の連載「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」も25回目とあいなりました。
最後の1年の始まりです。

今回は表題もむろんですが、その前段にも頁を割きました。
光秀が義昭を見限って信長に接近したこととか、三好義継・松永久秀がなぜこの時期に信長・義昭から離反したのかとかも書きました。

あまり知られていない意外な史実としては、信長と義昭の決裂時期とも関わりますが、元亀3年(1572)3月、義昭が信長の京都屋敷の造営について何度も上意を示し、信長が再三固辞したうえ、それを受諾したことです。
これは義昭の信長への好意でもあり、同年前半まで、少なくとも両者の決裂はなかったという証左ではないかと思っています。むろん、水面下ではいろいろあったでしょうが。

両者の決裂の時期がいつなのかは、武田信玄の三河・遠江侵攻の時期とも深く関わっているように思います。
最近、信玄の三河・遠江侵攻が元亀2年にあったという通説を否定する動きがあります。鴨川達夫氏や柴裕之氏などの論考・著書がそれです。

信玄と義昭の連携はいつから始まり、表面化するのか。どうも同3年後半のような気がします。
表立っては、信長の異見17カ条が大きな契機だと思います。
この問題は難しくて、私も十分詰めきれていません。

次回は信玄の雄図挫折と浅井・朝倉の滅亡あたりになりそうです。

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【2009/11/25 23:19】 | 信長
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中世史、赤松氏を専門とされている渡邊大門氏より、近刊2点拝受。
謹んで、御礼申し上げます。。


1.『奪われた「三種の神器」―皇位継承の中世史―』講談社現代新書

三種の神器といえば、壇ノ浦で安徳天皇とともに海のもくずと消えたことを想起します。
しかし、そのような単純な話ではありません。むしろ、神器がなくとも、どのように王朝の正統性を主張する論理を組み立てるのか。北朝関係者などの「知恵」を見る思いがします。
本書の独自性は南北朝統一後の種々の事件に対する考察にあろう。
嘉吉の乱での赤松氏の没落、禁闕の変での後南朝勢力による神器(神璽)の強奪、長禄の乱での神璽奪還による赤松氏の再興など、神器をめぐる出来事はまことに興味深い。

詳しくは、ここをご覧下さい。


2.『「アラサー」が変えた幕末―時代を動かした若き志士たち―』マイコミ新書、毎日コミュニケーションズ

中世史が専門の渡邊氏が幕末も書けるとは知らなかった。意外な驚きである。
本書は専門的な知識を提供するというより、肩の凝らない読み物になっている。
しかし、時代を超えて、専門家の鋭い史眼が光っているように思える。
ただ、大久保利通が囲碁によって島津久光に接近しようとしたとき、精忠組の同志である税所篤の兄吉祥院に囲碁の手ほどきを受けたという逸話だが、大久保の十代後半の日記が新たに発見され、吉祥院と接する前から、大久保は相当の囲碁の腕前だったと、佐々木克氏は指摘している。
これは小さな瑕疵にすぎない。簡潔ながらも、維新の志士たちの行動の要諦が学べる気がする。
流行りの「アラサー」を幕末に置きかえれば、たしかにその世代が時代を動かしたことは間違いない。

詳しくは、ここをご覧下さい。

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【2009/11/24 17:07】 | 新刊
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安田
大門さんの本をご紹介いただき、まことにありがとうございます。実に「うまく」褒めていただき、嬉しい限りです。いろいろとご批判もあるかと思いますが、大門さんも必死でがんばっております。ぜひ、ご指導ください。

こちらこそ
桐野
安田さん、こんにちは。

渡邊さんの著作について、安田さんのプロデュースだったんですね。相変わらずのご活躍、ご同慶の限りです。
こちらこそ、また何かあったら、よろしくお願いします。


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このところ、忙しくてなかなか更新できません。

今週は2つの講座に出講。

ひとつは17日(火)、小学館古文書講座「てらこや」で、「幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第4回講座。
テーマは「『失機改図』と坂本龍馬の動向」。

失機改図」とは、慶応3年(1867)9月、薩摩藩の呼びかけにより、薩長芸三藩出兵協定が結ばれましたが、薩摩藩と芸州藩の事情により頓挫してしまいます。
これを長州藩側が「失機改図」と呼びました。捲土重来とか新規巻き直しといった意味でしょうが、どうも長州藩側の冷たい視線も感じられます。

それもそのはず。大久保一蔵が島津久光の密命を帯びて長州に乗り込み、山口の藩庁で毛利父子や重役勢ぞろいのなか、一席ぶった自信満々の構想でした。そのため、大久保はこれで名誉回復できると感激した毛利父子から来国俊の銘刀を与えられる栄誉にも浴しました。
にもかかわらず、薩摩藩兵が期限までに三田尻港までやってきませんでした。薩摩藩の面目丸潰れです。

講座では、このときの薩摩藩の事情とは何なのか、薩摩藩側の史料ではよくわからない、おそらく藩内の倒幕反対派、自重派の抵抗によるものではないかと思うと話しました。一応、薩摩藩士の手記『道島家記』には、このとき動員された諸郷の兵から大砲なしでいくさをするのかと、家老の桂久武に詰め寄ったため、大砲の調達に手間取ったという記述がありますが、これが遅延の理由にはなりえないのではないかとも付け加えました。

そしたら、『史談会速記録』に、その頃の記事があるという受講者からのご指摘。いやはやすごいものです。教えられました。

次回はいよいよ大政奉還です。この講座、8クールめ(約40回)にして、ようやくたどり着きました。
今度は小松帯刀が主役です。


19日(木)は午後から駿河台の明治大学リバティアカデミー講座「坂本龍馬の生涯と死」の第5回講座に出講。
テーマは「薩長同盟論の現在」。
この間、報告や講座で何度か取り上げたテーマ。
いつもと少し構成を変えてみたり、いくつかあまり知られていない史料を紹介した。とくに木戸孝允宛て品川弥二郎書簡。これは薩長同盟がいつ結ばれたか決定的な史料だと思う。すでに三宅紹宣氏も触れていたが、全文紹介という形で紹介できたのは、『木戸孝允関係文書』が公刊されたことが大きい。

あと、今回の趣向としては、薩長同盟が軍事同盟であるという点を、坂本龍馬宛て木戸孝允書簡にある六カ条の約定が第二次長州戦争でどの程度履行されたかという観点から、史料で少し実証を試みた。
とくに薩摩藩が約定の第一条(薩摩藩兵2000人が京坂を固める)をほぼ忠実に履行し、さらに約定にはない長州藩本国まで援軍を派遣しようと考えていたことを指摘。
これらから、軍事同盟としか考えられないのではないかと、一応の結論を示してみた。
いろいろ考え方があるだろうが、約定の第五条(一会桑の妨害があれば決戦する)まで履行する覚悟もあったと見るべきか否か。これは仮定のことなのでわからないが、約定した以上、薩摩側にその覚悟はあったと見るべきだろう。もっとも、双方で明文化していないから、薩摩側が口実を設けて履行しない可能性もないわけではないが、それでは双方の信義に関わろう。薩長も龍馬もそうした信義こそをいちばん大事にしたと思うから。

講座終了後、近くの神保町で久しぶりに兼見卿記輪読会に参加。
先月休んでしまっていた。
幕末から織豊期に、すぐさま頭を切り換えないといけないわけで、それなりに大変だ。
次回は私が報告担当になった。

今週もいろいろありましたが、とりあえずこの辺で。

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【2009/11/21 21:53】 | 明治大学リバティアカデミー
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14日(土)午前中、表題の大会に出席するため、横浜方面に出かける。
会場は神奈川県立公文書館(横浜市旭区)。

相鉄線二俣川駅が最寄り駅だった。駅から徒歩17分とある。
バスが出たばかりだったので、歩いていったが、これがとても遠かった。
折から暖かい日だったので、着いたら汗ビッショリになった。

ほんとは午前11時頃に着きたかったが、雑用をしているうちに遅くなってしまい、12時過ぎになってしまった。
お昼休みだったせいか、所蔵史料の展示室が閉まっており、職員の方に無理をいって開けてもらう。申し訳ない。
同館所蔵の膨大な山口八十八コレクションの一部を展示してあった。
坂本龍馬や西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允など垂涎の書簡が並べてある。
とくに以前から関心のあったアーネスト・サトウの吉井幸輔宛て書簡を初めて実見。写真版では見ていたが、本物は初めて。
サトウがくずし字で書いた手紙なのだ。当時のイギリス人が日本語を解するだけでなく、くずし字まで書いていたのには、素直に驚く。しかも、くずし字のお手本のような基本に忠実なくずし字。
サトウの語学能力は改めてすごいと感じ入る。

さて、午後から3本の報告があった。

1 岸本覚氏:大名家の先祖顕彰と政治改革
2 白石烈氏:幕末政治と対外危機認識の変遷
3 天野嘉子氏:井上毅と参事院―フランスの諸規定と「参事院章程」の比較を中心に―


どれも興味深かったが、1は以前、歴研大会でも藩祖顕彰における長州本藩と長府藩の確執として聴いた覚えがあった。『陰徳太平記』もその文脈で理解すべきだと知らされ、これまた素直に驚いた覚えがある。いわゆる長州藩の天保改革の立役者である村田清風がこうした顕彰事業に関わっていたことを知る。

個人的に面白かったのは2である。
幕末期において、欧米列強の干渉を受けないために、幕府や諸藩などの間で、いわゆる「内乱回避」が共通理解になっていたか、従来の学説を批判・検討する趣旨。
結論的には、薩摩藩などが内乱をむしろ政治的手段として活用することを考えていたというもので、非常に納得した。私も以前からそのように考えていたが、その裏付けをしてもらった感じ。

終了後、近くの中華料理店で懇親会。
出席者の3分の2が参加するという歩留まりのよさ。大所帯の宴会となり、盛り上がる。
旧知のM川さん、M田さん、N村さん、T野さんらと同じ卓を囲んで話もはずんだが、中途で同会事務局長の勝田先生から、挨拶するようにと耳打ちされる。
「聞いてないよ」
という感じだったが、致し方なく最近の雑感を話した。おそらく支離滅裂だったことだろう。

少し話した内容と関わるが、個人的には幕末維新期の重要人物たちの居所論に関心あり。
何より、ある人物がいつ、どこで、なにをしていたのかという基本的な事実を知るのに都合がよいだけでなく、幕府や諸藩の在京重役たちが京都と国許の往復に何らかのローテーションがあるのかどうか、また在京重役の構成の違いによって、意志決定のあり方に変化が生じるのかどうか。また周旋の相手や頻度により、当該勢力の政治方針の変遷を定量的に析出できるのではと思っている。
すでに織豊期や近世初期においては研究が進んでいる。この居所論はむしろ幕末維新期こそ必要ではないかという気がしている。

帰路、N村さんを神田のホテルまで見送る。
電車の中でT野さんから貴重なお話をうかがう。

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【2009/11/17 16:45】 | イベント
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先日はありがとうございました
小林 哲也
桐野先生、こんにちは!はじめてコメントします。東京龍馬会の小林哲也(車椅子)です。先日は久しぶりにお会いできて本当に嬉しかったです。先生に触発されて小松や木戸・龍馬の記録などを読み自分なりに勉強しております。毎回このブログも楽しくよまさせていただいております。

今後ともよろしくお願い致します。
                 小林 哲也

瑞山の書状
市野澤
こんばんわ。
本日は書き込みが多く、ご迷惑をお掛けします。

幕末は専門外の私ですが、桐野さんの提起にはなるほどと考えさせられました。

以下、題目から外れますが、11月13日(金)の読売新聞に掲載された高知市の土佐山内家博物資料館で見つかった武市瑞山が切腹直前に獄中から仲間に送ったと見られる書状の内容は久々に心に響きました。
武市が「実に」を4度重ねているのには、私も無念だったろうなと思いました。

来年は大河の効果から、このような発見が多いと嬉しいです。

ちなみに13日から同館の特別展で公開されるそうです。

頑張って下さい
桐野
小林哲也さま、こんばんは。

維新史学会でおめにかかるとは思いませんでした。
勉強熱心ですね。
ぜひテーマを決めて、論文をものして下さい。
楽しみにしています。

実に実に実に実に
桐野
市野澤さん、こんばんは。

ご紹介の武市書簡、私もネット記事で読んでおりました。
たしかに、無念さが伝わってきますね。
来年の大河でどんな風に描かれるか楽しみです。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第128回
―「今弁慶」義弘に殉死す―

連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回も関ヶ原の続きです。
木脇祐秀は前から紹介したかった人物でした。
ようやく果たせてよかったです。

分量の関係で書けませんでしたが、木脇は殉死したとき、他の殉死者すべてを介錯してから、最後、一人になって、岩のはざまに刀の柄を差し(つまり、刃を上向きにして)、そこに自分の体を突き刺して果てたそうです(『薩藩旧伝集』)。凄絶な最期ですね。

もうひとつ。義弘への殉死については、島津家久が禁止する旨をあらかじめ布告していたそうですが、木脇らはそれを無視して決行したため、殉死者はすべて知行を剥奪されました。家久の怒りのほどが知れます。名誉回復にはだいぶ時間がかかったようです。

なお、記事では木脇の墓しか紹介できませんでしたが、旧妙円寺(現・徳重神社)にある13人の殉死者の墓を載せておきます。木脇のはいちばん右奧です。
木脇





次回は、関ヶ原シリーズの最後として、新納旅庵を取り上げます。
旅庵は義弘主従とはぐれて東軍方の捕虜となってしまいました。
次回はこのはぐれ組の代表として、旅庵を紹介したいと思います。

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【2009/11/16 22:33】 | さつま人国誌
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木脇祐秀のヨミのご訂正願います
木脇祐秀 本系末裔 ひろみ
はじめまして、木脇祐秀の末裔のひろみと申します。
今年は先祖の祐秀没後390年になります。
その折に、こうしてご紹介いただけることは有り難いと思っております。
ただ1点ご指摘申し上げます。
木脇祐秀のヨミは「ノ」が入ります。
土地の字から木脇(きわき)と名乗られておいでの方々とは異なります。故に「ノ」を入れていただきたくご指摘申し上げます。
【正】キノワキ スケヒデ
【誤】キワキ  スケヒデ

私は、東京に在住ですが、今年9月には、加治木町の椿窓寺の祐秀の墓参りと、同町の文化財課と資料館にも訪問しました。そして鹿児島大学の先生方に除籍謄本や各文献から木脇祐秀の末裔であることは、既にご確認いただいております。
10月には再訪鹿をして、妙円寺詣りを学舎の方々にお加えいただき、雨ですが参加しました。私も祐秀の地蔵塔に手を合わせてきました。
現在、当家の木脇家の調査をしておりますが、幕末の先祖も、小松帯刀と海軍の専門家として交流をしておりました。
その時代を興味深く追っているところです。

「膏肓記」管理人様のますますのご活躍をお祈りしております。

本日は1点ヨミのご指摘申し上げました。

御礼
桐野
ひろみさん、はじめまして。

木脇祐秀のご子孫から、わざわざコメントいただき有難うございます。

「きのわき」読みのご指摘、有難うございました。
私も以前、何かの史料で、その読みを見た覚えがあるのですが、探せ出せずにおりました。

拙稿は単行本予定になっております。
そのときには「きのわき」と訂正して掲載したいと思います。

鹿児島大学の丹羽先生は存じ上げております。
先生が刊行された「薩摩藩文化官僚の幕末・明治」のなかの木脇啓四郎は祐秀の子孫で、ひろみさんのご先祖にあたるのでしょうか?

今後とも、祐秀について、ご教示いただければ幸いです。

桐野作人

木脇祐秀の先祖について
木脇祐秀 本系末裔 ひろみ
桐野作人様

早速に、ヨミのご指摘に応じてくださり有難うございます。
木脇祐秀の末裔のひろみです。
ご質問の件について説明申し上げます。

鹿大の先生については、おっしゃる方です。
結論から申します。
啓四郎さんは木脇祐秀の子孫ではありません。
故に私の先祖でもありません。
『本藩人物誌』をご覧いただければ、ご理解いただけると思いますが、木脇の祖の祐頼の嫡流である木脇祐利からの流れが、木脇祐秀となります。それが私の先祖です。
啓四郎さんの本家の方について本藩人物誌において、祐兄という人物がはじめに出てきます。「薩摩藩文化官僚の幕末・明治」の略系図P278~279をご覧くださると、啓四郎さんは、祐兄系の本家から分かれる二男家となります。
祐兄系は途中、伊東家に養子に入っておりますから、啓四郎さんの先祖の途中は伊東となります。
詳しくは、『本藩人物誌』、『薩摩藩文化官僚の幕末・明治』をご覧いただくほうが分かりやすいでしょう。
ここでは、こみいる話ができませんので、文献のお知らせまでとなります。
また、木脇祐秀の父は、肥後の花山城で討ち死にした木脇祐昌ですが、啓四郎さんの先祖にも同じ名前が出てきますが、別人です。
ここはしっかり押さえてておく必要があります。
間違えやすいところですので、要注意です。

まとまりない回答となってしまいました。
影響力のある方と拝察いたします。
是非、本藩人物誌や諸家大概をご覧いただいて、正確な史実、文献に基づいた上で、木脇祐秀についてご紹介いただけますよう、お願い申し上げます。

現在、木脇家の先祖調査のために、東京大学史料編纂所の先生とも、新たにコンタクトをとっているところです。



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このところ、やけに外出が多く、忙しい。
それも、何となく腰の落ちつかないことばかりのような気がして、充実感があまり感じられない。

本日、簡易の人間ドックに行ったけど、運動不足だったし、きっと血液検査の数値が悪いだろうなと、今から予測できる。

さて、今週は表題の2つの講座が火、水と連チャンでした。
というか、来年の3月まで、ずっと連チャンになりそう。
週がずれてくれたら、ひと息つけるんだけどなあ。めぐり合わせだからしょうがないけど。

まず、10日(火)の「てらこや」講座「幕末薩摩藩と小松帯刀8」の第2回。

今回は、薩土盟約の破約から、薩長芸三藩出兵協定の成立と破算について検討しました。
薩土盟約の破約理由については、家近良樹、佐々木克、高橋秀直の諸氏の学説を紹介。
それぞれ説が異なるが、やはり、後藤象二郎が土佐藩兵を引き連れてこなかったことが、薩摩藩を一番がっかりさせたのではないかと、私見を述べた。あえていえば、高橋説に近いか。

この破約により、薩摩藩は薩長との軍事的連携、これに芸州藩を巻き込んでの三藩による共同出兵計画に傾斜する。
それに関する『大久保利通日記』を読みながら、長州の薩摩への期待が高いことがよくわかった。
とくに毛利父子が「玉」の動座の件を、大久保に確認しているいきさつが面白かった。
大久保は形勢不利な場合、天皇を「浪華」=大坂に移すつもりだと答えたが、毛利父子はさらにたたみかけて、幕府が外国(フランスのことだろう)と結んだ場合、大坂では危ないのではないかと質す。すると、大久保は地理的な理由もあり、勤王の有力藩に移ってもらうことも考えていると答えた。これは暗に長州を想定しているようにも感じられた。中国地方の勤王藩といっても、岡山、鳥取、芸州といった諸藩では、薩長とも安心できないだろう。やはり長州なのではないか……。

それに、毛利父子は挙兵にあたって、くれぐれも幕府側に「奪玉」されないよう、二度も念押ししている。これは禁門の変の悲惨な敗北がトラウマになっていて、前の轍を踏まないようにしてほしいという懇願に近いものではなかったか。

ほかにも、土佐藩の大政奉還建白が、この三藩挙兵計画とどのようにからむのか、からまないのかも少し話した。

次回は、この三藩挙兵計画の失敗=「失機改図」について。それとの関連で坂本龍馬の動向を見る予定。

終了後、毎度の二次会はパスさせていただき、某社の編集者と打ち合わせ。龍馬関連。


11日(水)、午後3時から、三鷹のサテライトキャンパスで「信長記を読む」第3回講座。
今回は、斎藤道三との正徳寺の会見、赤塚・萱津両合戦について検討。
赤塚合戦については、名古屋の講座の受講生の方からいただいた発掘調査報告書が大変役に立った。記して謝意を述べたい。
終了後、思わぬ熱心な質問あり。時間が長引いたのと、桶狭間合戦にも関係した質問だったので、そのときに検討しましょうと答える。
なぜか、このあたりは、東京も名古屋も受講生の皆さんが熱心なのは共通している。

帰宅後、送付を約束したものを送り忘れていたのが発覚。急ぎ送る。
某企画立案に頭を悩ませた。
トイレで関連史料を読んでいたら、あれこれ夢中になり、30分以上も居つづけだった。
一番集中できる場所かも(爆)。

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【2009/11/13 22:31】 | てらこや
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最近、某古書目録から戦国武将についての明治・大正期に書かれた伝記を数点まとめて入手しました。
珍しい古書ではないかと思っています。参考までに書名をあげておきます。

吉川広家卿略伝 井原豊著 秀英舎 1926年

浅野長政公伝 浅野忠純著 広島市饒津神社三百年祭祭典事務所 1910年

浅野幸長公 小松原要作著 饒津神社社務所 1916年

木村長門守重成 西山全太郎著 大阪府友松会中河内郡部会 1925年


それほど大部ではありませんし、史料的価値がそれほどあるとも思えませんが、あまり個人伝記がない人物たちなので、それなりに役立つのではないかと思っているところです。
なかでも、『浅野幸長公』がいちばんよくまとまっており、文書類も多数引用されていて実証的な伝記ではないかと思います。浅野幸長は早死にしただけに、伝記が存在していること自体、知りませんでした。まあ、広島藩浅野家が存続した故でしょうが。

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【2009/11/08 22:36】 | 古書
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木村長門守重成
NAO4@吟遊詩人
佐々木六角氏と同族で、近江源氏の木村氏と重成の関係が知りたくて、現在色々調べているところでした。少し参考にさせていただきたく思います。

木村重成の出自
桐野
NAO4@吟遊詩人さん、お久しぶりです。

木村重成を調べているんですか。
この本には、その母の2説書いてあります。

ひとつは、紀州那賀郡猪ノ垣村の郷士の子で、秀頼の乳母でもあったとか。

もうひとつは、近江の住人佐々木五郎右衛門の子で、木村常陸介が木村姓を与えて、自分の子にしたとか。←これって生母ではなく重成のことですよね?

木村常陸介が関白秀次に連座したことを考えると、その係累が豊臣家で生き残れるのかどうかいう気もしますが……。
あるいは秀吉の死後、可能になったということでしょうかね。



NAO4@吟遊詩人
桐野先生、お忙しいところ、お時間を割いていただきありがとうございます。

私が最寄りの図書館で検索をかけたところ、
「日本史の研究 ; 第2輯 三浦周行 著 /  東京 岩波書店 1930 」
があって、この842~843ページに、木村重成の母は、豊臣秀頼の乳母であり、

大和吉野の城主木村隼人の子常陸介重玆の養子とし、木村の苗字及び名乗の一字を与えて木村重成といはせたのである。

という記述(もちろん確証を持って行っているわけでなく、そういう説もあるという展開です。)がありました。

微妙に常陸介と関係していそうなのですが、血縁関係はないように見えます。常陸介の出自がもう少し分かると面白いんですが、そこは中断しております。

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風邪気味で体調がいちまちですが、頑張っております。
外出の際はマスクが手放せなくなりました。

このところ、新刊をご恵贈いただきましたので、御礼を兼ねてご紹介します。

柴辻俊六『信玄と謙信』 高志書院、2009年11月刊

高志書院選書の3点目です。
まだ見本段階でいただいたようで、版元のサイト(ここです)には案内が掲載されていません。数日のうちに書店に並ぶと思いますので、その頃にはサイトにも紹介があるでしょう。

柴辻氏はいうまでもなく、武田氏や真田氏研究の大家です。
いつも、著書や論文などをお送りいただき、有難い限りです。
まだ少ししか読んでおりませんが、信玄の西上作戦について、個人的な関心から「第6章 西上作戦の挫折」を読んでみました。
元亀2年(1571)春に、信玄の遠江・三河侵攻があったのかどうかについて、近年、否定的な説がいくつか出されています。柴辻氏は通説どおり、同年の侵攻はあったという従来のお立場のようです。
その根拠のひとつとなっている松永久秀家来の岡周防守宛て信玄書状ですが、その年次が同年でいいのかどうか、再検討の余地はないのかなとも感じました。
個人的には同年段階では、信長と将軍義昭の関係はまだ比較的良好ではないかと思われますが……。

また信玄の侵攻が「上洛」か「局地戦」かという論点もまだ決着がつきそうもありません。柴辻氏は従来どおり、上洛説のお立場のようです。
最近では、二者択一で割りきれないのではないかという説も出てきています。
まだまだこの論争は決着がつかないのでしょうね。

もう1点、彦根の出版社、サンライズ出版の編集者Yさんから、

豊島昭彦『井伊直弼と黒船物語―幕末・黎明の光芒を歩く―』 サンライズ出版、2009年10月刊

をいただきました。
同社は私のブログでのリンク先でもありますが、本書の案内はここにあります。
Yさんとは、先日、滋賀の木之本で関ヶ原合戦の講演をしたとき、佐和山城の発掘調査報告会で知り合いました。

井伊直弼はいうまでもなくご当地、彦根の人ですね。
近年、直弼の再評価の動きがありますが、本書は直弼ゆかりの史跡を丹念に歩いて調べた歴史紀行になっています。
とくに写真が豊富で、見ていて楽しいです。個人的には、村山たかの史跡写真が初めて見るものばかりで興味深かったです。

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【2009/11/07 21:28】 | 新刊
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中の人
>サンライズ出版
ご存知かもしれませんが、最近、
「安土城 信長の城と城下町」
というのも、出されてますね。


安土城 信長の城と城下町
桐野
中の人さん、こんばんは。

その本もあればいいですね。
ご紹介有難うございます。

三成さんと直弼さん
Y
桐野先生、『三成伝説』に引き続き、ありがとうございます。
方や西軍武将、方や東軍武将の末裔ですが、
ともに時代の転換期に己の道を歩んだ末に斬首されるなど
共通点も多く、なんだか不思議な縁を感じています。
 
横レスすみません。中の人さんご紹介の本は
正しくは『安土 信長の城と城下町』ですが、
中の人さん、ありがとうございます。

直政と直弼
桐野
Yさん、こんにちは。

彦根の有名人では、個人的に薩摩との縁を感じる2人がいます。
直政と直弼で、ともに薩摩人により落命していますね。
これも不思議な縁かと。

で、『安土 信長の城と城下町』は調査の新たな成果が盛り込まれているのでしょうか?


和解が必要?
Y
桐野先生、たびたび恐縮です。
 
なるほど薩摩ですか。水戸と彦根は“和解”したようですが、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20091113/CK2009111302000105.html
鹿児島との“和解”も必要なのかもしれませんね。
 
安土城の本は発掘調査20年間の記録ですので、
最新の情報がオールカラーで紹介されています。
詳しくは滋賀県サイトをご覧いただければ幸いです。
http://www.pref.shiga.jp/hodo/e-shinbun/ma07/20091013_1.html

和解
桐野
Yさん、こんにちは。

薩摩は水戸と彦根ほど因縁があるように思われていませんね。
だから、和解という話にもならないのでしょうけど。
会津と長州の因縁でも、薩摩はあまり話題に上がらないのと似た構図かもしれません。

安土 信長の城と城下町
市野澤
桐野さん、こんばんわ。

件名の書籍、拝見しました。
カラーで見やすく、図版も多く、最新の研究成果が盛り込まれており、個人的には安土城・城下町関連文献目録は嬉しい限りです。

今後もサンライズ出版の地域に根ざした良い書籍が出版されることを望みます。

読了しました
市野澤
こんにちわ。

桐野さんのブログで柴辻俊六氏の新著を知り、高志書院のHPで確認し、先程読み終えました。

柴辻氏の井上鋭夫氏のオマージュを感じました。
昨年、高橋昌明氏が岩波書店から『平家の群像』を出版されましたが、安田元久氏へのオマージュを感じました。

武田氏研究の大家である柴辻氏から見て、上杉氏の研究の立ち後れの指摘は重いです。

私も桐野さんの指摘される松永久秀の家臣・岡周防守に宛てた信玄書状は気になりました。

一点残念だったのが、下総結城氏が常陸結城氏になっていました(173頁)。188頁では下総結城氏と正しくなっています。些細な点ですが、よく間違いが見られる記述です。

柴辻俊六氏著書
桐野
市野澤さん、こんにちは。

柴辻さんの著書を読了されたのですね。
私も少しだけ売り上げに貢献できて。いただいて紹介した甲斐がありました。

ただ、ご指摘のとおり、信玄と家康、信玄と信長の外交関係はもっと精査する必要があるだろうと思っています。

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昨5日、午前中から半蔵門にある表題の博物館に行く。
多少風邪気味で、少し寒気がしたので厚着して、マスク着用。
マスクなんて何年ぶりだろうか。
じつは、新型インフルに備えて、マスクを大量に買い込んであったが、初めて使った。
マスクのガーゼの間にメントール剤を入れる形式で、着けてみたら、鼻腔の通りがよく、何よりメントールの香りが心地よい。なんか癖になりそうだ(笑)。

同館前で古写真研究者のMさんと待ち合わせ。あとでもう一人のKさんもおいで。

今回、ある幕末薩摩藩士の子孫旧蔵品を同館で購入したとのことで、それを見学させていただいた。古写真について造詣の深いY理事やI研究員のご好意によるもの。

予想以上のもので、長崎や京都や江戸やロンドンやパリで撮影された古写真がたくさんあった。
もちろん、よく知られた有名人の写真もある。

私以外のみなさんで、幕末明治期の写真家の名前や写真場、またコロタイプとかダゲレオとか鶏卵紙とかゼラチンなんとかとか、古写真の専門用語が飛び交うが、私はほとんど理解できず、上野彦馬とか内田九一とか堀真澄とかいった、比較的有名な写真家の名前が何とかわかっただけだった。

売店で、同館刊行の古写真集やI研究員が執筆された大判で分厚い写真コレクションを購入した。
思わぬ散財だったが、古写真についての基本的知識が得られる有難い本とのこと。とくに写真家のリストが膨大で、履歴や営業場所などが詳しく載っているうえ、出身都道府県別の索引もあり、いろいろ役に立ちそうだ。

同館を辞去したのち、お二人と喫茶店でかなり長時間話し込む。
話題は多岐にわたったが、私が古写真で経験したことを話したら、大変悔やまれる出来事だと教えてもらった。
それは、私が南日本新聞連載のある記事で紹介した人物の分家の子孫という方から電話をいただき、そのお宅に古いガラス原版が先祖代々伝えられており、お姫さまが写っているという。その方は安政年間のもので、有名な島津斉彬写真より古いものだと仰せになった。

私はまさかそんな……と思い、それならとても私の手には負えないから、専門的な公共機関で調べてもらったほうがいいとアドバイスしたが、その方はそれには気乗り薄で、私に見てもらいたいような口ぶりのまま、電話を切られた。

という話をしたら、お二人が「それはもったいない。我が国にはガラス原版はほとんど残っていない。もしかしたら、写っているのは島津家の姫で、すごく貴重なものだったかもしれないよ」と教えられた。
当時は古写真にはほとんど興味がなかったからなあ、見せて下さいと一言いえばよかったと、後悔先に立たずと思うことしきり。
そのときのメモがどこかないか探しているが、まだ見つかっていない(泣)。

その後、お二人と別れ、新宿に行く。
新都心の高層ビルのティ-ルームで、某社の編集者と某企画の打ち合わせ。
うまくやれるかどうか、時間的な面で多少不安である。
でも、やるっきゃない。

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【2009/11/05 22:30】 | 幕末維新
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第127回
―重傷負うも、和睦に尽力―

連載が本日、更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回の話はよく知られていることです。
それでも、あえて書いたのは、直政が本当に島津勢を追撃したのかどうか、ある従軍兵士の覚書を読んで疑問に感じたからです。
どうも直政は追撃していないのではないか、と思いました。
もともと、直政は女婿の松平忠吉に初陣を飾らせるため、抜け駆け発砲事件を起こしています。
発砲した相手は島津氏とも宇喜多氏ともいわれますが、いずれにせよ、先手衆の一角にいたわけで、退き口を敢行した島津勢を追撃する態勢と準備はないのではないか、追撃するとすれば、後方に待機している予備兵力が行うのが戦術的に妥当だと思うからです。

では、直政がどこで、どのような形で島津勢と接触して負傷するに至ったのか、それは本文をお読み下さい。

次回もまだ退き口にこだわります。
義弘のある馬廻について書きます。
中馬大蔵(もう書きました)でも、横山休内でもありません。
お楽しみに。

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【2009/11/02 23:19】 | さつま人国誌
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