歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
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今月、新刊の著書や論文をたくさんいただいた。
仕事の関係でなかなか紹介しきれず、申しわけありません。
次の著書は何とか年内にご紹介したほうがよいかと思いました。

上里隆史『琉日戦争一六〇九 ―島津氏の琉球侵攻―』 ボーダーインク刊

詳しくは版元サイトのここをご覧下さい。

上里さんはブログでも有名ですね。人気ブログランキングのベスト10常連さんです。彼のブログはここをご覧下さい。
そういえば、まだ相互リンクをお願いしていなかったな。

今年は島津氏の琉球侵攻からちょうど400年です。
私も南日本新聞の連載「さつま人国誌」で13回にわたって書き綴りました。
琉球や奄美にとってはむろんですが、薩摩にとっても、また我が国(幕藩制国家)にとっても大きな事件でした。
しかし、その割に鹿児島では知られていないというか、まだまだ無関心ですね。

上里さんは古琉球史が専門で、多くの論著を公表しています。
とくに『目からウロコの琉球・沖縄史』は一般向けの解説書で、非常にわかりやすい好著です。

そして今回の新刊はまずタイトルが意欲的ですね。
「琉日戦争」というのは、島津氏の琉球侵攻という狭く限定的な枠組みで考えない、琉球側に視座を据えながら、広く東アジア史的な視点で俯瞰的に展望しようという意気込みが感じられます。

まだ通読したわけでなく、関心のあるところだけをつまみ読みしている状況ですが、それでも、いくつか興味深い指摘があります。
まず、島津氏が渡海を決断するに至る最後の交渉において日明貿易の仲介を琉球側に求めたのに対して、2年前に琉球が独自に明国と交渉したものの、失敗に終わっており、琉球側はすでにカードがなかったので拒否するしかなかったとのこと。このあたりはなかなか興味深いです。一般に謝名親方の傲岸さが強調されますが、それは枝葉だったのではありますまいか。

次に、上里さんの持論であるこの戦争を軍事論的に把握する試みです。島津=獰猛な侵略者、琉球=温和な平和主義者という紋切り型の枠組みを取り払って、限られた史料を徹底的に読み解こうとする姿勢です。とくに琉球側の軍事力分析は上里さんの真骨頂といえるものです。

最後に、これは単に400年前の歴史的事件ではなく、琉球の近世から近現代も展望する視点があることです。
近世の改革政治家・羽地朝秀の「黄金の箍」(くがにぬたが)という言葉は含蓄がありますね。

島津氏から見ている私の立場からも、1,2考えていることがあります。
ひとつは、島津義弘の最後通牒にある、琉球を誅伐せよという家康からの朱印状があるという一節ですが、これは島津側のフィクションというか、ブラフだと思います。
そんな朱印状は少なくとも現存していません。私はもとからなかったのではないかと思っています。徳川幕府は琉球の聘礼と日明貿易の復活が目的で、琉球征服などほとんど望んでいませんでした。ですから、家康のそんな朱印状など存在しないのではないかと思います。もし存在すれば、島津氏にとってこれ以上ない侵攻の大義名分ですから、『島津家文書』に収録されたはずです。少なくとも『旧記雑録』に写しがあってもいいはずです。でも、ありません。

この最後通牒は存在しない家康朱印状を振りかざした島津側の挑発ではないかと思います。
島津氏は琉球だけでなく、家康もだました可能性があります。
その帳尻合わせは高くつくはずで、家康を納得させるには聘礼を力づくで実現すること、しかも使者でなく、中山王尚寧本人なら家康も文句はいわないはずだという読みだったのではないかと思います。
尚寧王の聘礼を実現するには、首里城を占領し、尚寧王を捕虜にする必要がありました。だから、今帰仁での琉球側の講和交渉で、樺山久高は島津家久の軍令にあえて背いてまでも応じなかったのです。応じたら、琉球は体力を温存したままで、尚寧王の聘礼はおそらく実現できません。そこに侵攻が必要以上に暴虐になった必然性が潜んでいる気がしてなりません。

かなり推測入っており、実証したわけではありませんが、そんなことを考えています。
上里さんの指摘する琉球側に島津氏との交渉で有効なカードがすでになかったという点と、島津側の思惑がどのように切り結ぶのかはわかりませんが、決裂→開戦への流れをともに促進する要因であったことだけは間違いないと思います。

ほかにも島津氏の渡海兵力が現存する「法度」の軍役規定よりも多人数になったのには、まだプロセスがあるような気がしています。それも上記の点と関連があるような気がしています。首里城占領のために兵力増強する必要があったのではないかという気がしています。

ともあれ、読みごたえのある本です。ご一読をお勧めします。

何とか年内にご紹介できてよかったです。
本年もご愛読感謝しています。
それでは、みなさん、よいお年を!

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【2009/12/31 21:54】 | 新刊
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とらひこ
明けましておめでとうございます。

お忙しいなか、2009年中に拙著をご紹介していただき恐縮です。

徳川家康の朱印状、たしかにご指摘の通りですね。史料を読んでる時に「こんな朱印状あったかな」とふと思ったのですが、あまり意識せずに忘れてしまって、それ以上考えることはありませんでした。こんなものが存在すれば島津氏にとって格好の大義名分になるわけですから、『島津家文書』ほかになくてはおかしいですよね。島津氏は嘉吉附庸説などありもしない大義名分をふりかざしてそれを根拠とするわけですからね。

動員兵数の問題についても桐野さんの説を参考にさせていただきましたが、聘礼など政治問題と連動するとのお考えは興味深いです。

島津氏については門外漢なので、そこらへんの内情は僕のほうでは思いつきませんので、新知見がありましたらぜひご教示よろしくお願いします。

本年もよろしく
桐野
とらひこさん
本年もよろしくお願いします。

臆測を述べただけで、もっと裏付けをとる必要があると思いますが、なかなか史料の壁は厚いですね。肝心の部分の史料が現存していないように感じます。

何か気づいたことがあったら、また何ら名kの形で書きたいと思います。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第133回
―英国公使を命がけで守る―

連載が更新になりました。
ここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は中井弘の続編です。
有名な縄手事件のことを書きました。

先日、六本木の外交史料館所蔵の坂田諸遠『英仏蘭三公使戊辰京都参朝記聞』に付いている縄手事件の見取図を見て、事件の詳細が手にとるようにわかり、中井の記述も見つけました。大変役に立ちました。

また、少し前ですが、事件現場にも行きました。今回の記事には載せられませんでしたので、関連写真としてここに載せておきます。
左下の写真は、「縄手」の地名が入った住居表示板です。知恩院の参道である新橋通と縄手通が交わる交差点の所にあった標識です。パークスはこの手前(知恩院寄り)まで来た頃、襲撃されました。
右下の写真は、現在の縄手通です。商店街の「祇園縄手繁栄会」という看板から、縄手通であることがおわかりかと思います。これは三条京阪駅側(北側)から縄手通を見た写真です。写真の少し奧が中井と朱雀操が格闘したあたりになりますね。

縄手標示板
縄手通り







記事は中井が主役なので、その立場から書きましたが、考えてみれば、襲撃者の朱雀と三枝の心情もあまりあるものがありますね。2人は高野山挙兵や天誅組挙兵にも加わっています。高野山挙兵は土佐の陸援隊が中心メンバーです。天誅組も土佐が主要メンバーです。
新政府側にも、そのときの仲間が多数いるわけで、その間の考え方の違いで立場を分かち、運命まで変えてしまったことになります。

ところで、この三カ国公使の参朝では、諸藩兵が警備につきましたが、どうやら土佐藩ははずされているようですね。やっぱり直前の堺事件の影響でしょうか。

なお、中井がヴィクトリア女王から拝領した宝剣は現在、京都国立博物館に寄託されています。
とくに来年は龍馬がらみのミニ展示などありそうですから、そのときに展示されるかもしれません。

次回は正月の休載をはさんで、1月11日に掲載となります。
新春第一弾ということで、西郷隆盛の新出書簡を紹介する予定。
乞うご期待!!

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【2009/12/28 13:47】 | さつま人国誌
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すみません。
くわずー@新聞社
ハンドル名、初めてでしたね。
そうです、南●本新聞の桑●です。

帯刀写真の際は、こちらこそお世話になりました。
中井の2回目も楽しく読ませていただきました。

今年もいよいよ残りわずか。
よいお年をお迎えください。
 

よいお年を
桐野
くわずー@新聞社さん、こんばんは。

今年もいろいろお世話になりました。
来年もよろしく。講演などで帰鹿予定もあります。またご一緒できればと思います。
よいお年を!!


森重和雄
桐野先生、こんにちは!
いつも楽しくブログ読ませていただいています。
僕の方も12月は18日から21日までハードスケジュールで
京都、福井、大阪と古写真の調査の旅をしてました。
この縄手通りは昔の「鍵善」があった通りですので、今回もこの通りは歩きました。

今後ともよろしくお願いいたします。
よい年末年始をお迎えくださいませ。

敬具

来年もよろしく
桐野
森重和雄さん、こんばんは。

今年はいろいろ教えていただき、有難うございました。
来年はご本も出るそうで、楽しみにしております。
来年もよろしく。

パークス襲撃の場所のこと
森重和雄
パークス襲撃の場所のことですが、知恩院から新橋通を出て、縄手通を右に曲がり、新門前通を過ぎて(今の「鳥新」の店を通り過ぎた辺り)ですよね。

「鳥新」
森重和雄
ちなみに「鳥新」は今は縄手通にありますが、元は四条通沿いの、四条小橋近くのパチスロ屋のところにありました。
菊屋峯吉が坂本龍馬に命じられて軍鶏肉を買いに行ったところです。
その後、移転して現在の縄手通のところになりました。

鳥新
桐野
森重和雄さん、こんにちは。

パークス襲撃場所についてですが、朱雀や三枝は新橋通りと縄手通りの交差点あたりから飛び出してきたようですが、パークスはまだ縄手通りに入っていなかったと思われます。ですから、直接襲撃は受けていないと思います。
二人がパークス本人を狙っていたなら、ちょっと解せない行動ですね。とくに朱雀はパークスから遠ざかる方向に進んでいますから、よく意図がわかりません。斬るのは異人ならだれでもよかったのでしょうかね?

鳥新は取材に行ったときに写真を取りました。
ただ、峰吉が軍鶏を買いに行った一件は史実かどうか再検討が必要だと思っています。

なるほど
森重和雄
それでパークス襲撃現場は新橋通と縄手通の角辺りというわけですね。
それと言われてみれば、確かに峰吉が軍鶏を買いに行った一件は史実かどうか再検討が必要ですね。
最初に四条小橋の鳥新に軍鶏肉を買いに行ったけど、すぐに出せる肉がなくて、二、三十分手間取ったという話ですね。
(菊屋峰吉談)

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三国志の英雄、曹操の墓が河南省で発見されたとか。
ここにニュースがあります。

すごいですね。まさか遺っているとは思いませんでした。
「魏武王」と刻まれた石牌も発掘されたとのことですから、間違いないのでしょうね?

曹操は後漢王朝からの簒奪を完成させないまま、「魏帝」ではなく「魏王」(諡は武王)として他界しました。三国志のひとつ「魏書」には曹操の埋葬場所が高陵だと書かれています。これらは史実と合致していることになります。

かつて三国志の本を何点か書いたことがあり、曹操を悪役として取り扱ったこともありますので、何というか、感無量ですね。

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【2009/12/27 22:26】 | 雑記
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びっくり!
みらん
桐野さん、こんにちは。

レッドクリフのお陰でこのニューススルーせずに済みました(笑)。
よくぞまぁ出てきてくれたもんだと感心しますね(^O^)
1年前に買った三国誌本はまだ積読状態、早く読まないと!(^_^;)。
来年もブログ楽しみにしてますよん。
良いお年を(^o^)/

レッドクリフ
桐野
みらん隊長、こんばんは。

曹操の墓が見つかったのも、レッドクリフに呼ばれたからでしょうか?

レッドクリフ、私も見ました。
映画化するのは不可能と思っていましたが、さすがジョン・ウーの腕力はすごいですね。もっとも、アクションや戦争シーンはすごかったですけど、人間を描けていたかどうかはやや疑問です。

周瑜の妻小喬の女優さん、井上和香に何となく似てました。

よいお年を!!

墓の写真
ばんない
webで公開されているようですね。「決めて」?になったらしい「魏武王」の石碑写真もあります。
サイト説明は残念ながらオール中国語のみですが、東洋史専攻の方なら大丈夫でしょう(たぶん)

にしても、何故カテゴリーが「信長」なのでしょう?やはり日本の曹操と言えば信長なんでしょうか。

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歴史読本2月号が現在発売中です。
詳しい内容はここをご覧下さい。

私の連載「信長――狂乱と冷徹の軍事カリスマ」第26回も掲載されています。

今回は「三方ヶ原合戦」がテーマでした。
もっとも、合戦の態様についてはほとんど書いていません。
私の関心は、信長と義昭の関係悪化のプロセスから敷衍される武田信玄の動向です。

近年、武田信玄の西上作戦については、鴨川達夫氏や柴裕之氏の論考が公表されています。
そのなかで注目すべきは、これまでの関連文書の年次を再検討、再解釈した点です。

とりわけ、足利義昭が武田信玄に「急度行に及」ぶべきことを命じた御内書の年次が、従来の元亀3年(1572)5月ではなく、翌4年5月だと再解釈しなおしたことです。つまり、信玄死後に発給されたものだとしたわけです。

この御内書が信玄西上の大義名分とされていただけに、これを1年後ろにずらすと、これまでの史実関係は大きく修正を迫られることになります。

私も別の角度から疑問をもっていました。
それは信長と義昭の関係が元亀3年前半までは比較的良好であることでした。その時期、義昭は信長のための京都屋敷の造営を命じたり、信長に「天下の儀」を命じているのです。だから、同時期に信玄に信長との対決を命じる御内書を出しにくいのではないかと思ったのです。
その疑問を解くには、義昭御内書を1年後ろにずらしたほうが、個人的には合点がいきました。

信長と義昭の仲が決裂したのは、やはり元亀3年9月の「異見17カ条」が契機ではないでしょうか。

とまあ、そんな考証に紙数を費やしたため、肝心の三方ヶ原合戦はさほど書けなかったというわけです。

ほかに、信玄の死から義昭の挙兵までを書いています。
よかったら、読んでみて下さい。

なお、次回は元亀争乱の終焉となる浅井・朝倉の滅亡を中心に書いています。

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【2009/12/26 17:13】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第132回
―大久保利通を馭者にする―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここをクリックするか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は前々から書こうと思っていた中井弘のことを書きました。
中井弘は鹿児島でもあまり知られていませんが、一部には熱烈なファンが存在します。あまりにユニークな経歴と破天荒な性格・行状が受けるのではないかと思います。
次回と合わせて2回書く予定です。

中井の逸話は虚実定かならぬものも含めて数え切れないほどたくさんありますが、そのうちで私がいちばん面白いと思ったのを書きました。

字数の関係で記事で書けなかったことを補足しておきます。

さて、この逸話、いつの出来事なのか、どこまで事実なのかどうか、はっきりいってわかりません。
桜洲山人の追憶』には、中井が「内務書記官だった時代」とありますが、少なくとも大久保利通存命中、中井が内務省の役人だった形跡はありません。ですから、役職名は間違っています。
また、私は明治9年(1876)前後ではないかとしましたが、これも内務省創設以後で、築地に精養軒があった時期や、中井が渡米、渡英した期間を除外すれば、同年の工部権少丞だった頃ではないかと推測しました。あくまで推測であり、断定したものではありません。

また、中井が大久保を策略で馭者にするのは、いかにも出来すぎた創作かもしれません。でも、わずかですが、中井が同僚・同輩たちと何らかの賭け事か勝負事をしていた形跡はあります。
鹿児島の黎明館の紀要に、中井に宛てた川村純義書簡(5月19日付)が収録されています(塩満郁夫「中井弘関係文書の紹介(二)」『黎明館調査研究報告』第2集、1988年)。
それには次のような一節があります。

「退省より二字過ぎ、精養軒にてお待ち合わせ致すべく候、同所へ同時比(ころ)、お出なられまじきや、勝負も少々いたし度候、伊集院達へも申し通じ置き申すべく候」

これによれば、川村は中井と午後2時に精養軒で待ち合わせをしていますので、逸話にある「午餐会」とも合致します。またいかにも薩摩出身らしい伊集院などにも声をかけたと書いています。この伊集院は兼寛でしょうか?
何より「勝負も少々いたし度候」という一節が注目ですね。囲碁かもしれませんが、わざわざ精養軒で囲碁をする必要があるのかという気もします。ですから、賭け事の可能性もないとはいえません。

まあ、こうした史料から、この逸話も満更ではないかもしれないと思った次第です。

次回は縄手事件を書く予定です。
なお、前回、島津久章一件を書くと告知しましたが、諸般の事情により来月に延期しました。ご容赦のほど。

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【2009/12/21 12:43】 | さつま人国誌
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クリスマス・プレゼントだぁ~
まいたけ
 わーい! 

 この度は、「さつま人国誌」で、中井弘を取り上げていただき、ありがとうございました~! 中井が登場するまで、何年待ったことか!!(泣)

 しかも、次回も、また、中井を取り上げていただけるなんて! 

 うれしいクリスマス・プレゼント、ありがとうございました~!! 

#中井弘の生家跡を見下ろしている大久保利通像は、きっと、毎日が楽しいに違いありません!(笑) 誰か、中井弘生誕地の碑を、建ててくれませんかね~(ボソリ) 
 
 

 

ようやく
桐野
まいたけさん、こんにちは。

やっと取り上げられました。
いろいろ教えていただき、有難うございました。
次回もお楽しみに。

期待の中井!
くわずー@新聞社
ごぶさたしています。

鹿児島でお話しを聴いて以来、「いつ中井は登場するのかなぁ」と思っておりましたが、やっと連載に、しかも大久保を一杯食わせた話で出てきて、楽しく読ませていただきました。

しかし、天皇陛下がいるところでビール瓶で人の頭を殴るとは、すっ、凄すぎる。豪傑というか、いわゆる「ボッケモン」ですね。

次回も楽しみにしております。


ぼっけもん
桐野
くわずーさん、はじめまして。

おそらく、鹿児島のあのくわずーさんでしょうか?
先日も写真でお世話になった……。

中井弘は鹿児島でもあまり知られていませんね。
じつは、土佐藩と薩摩藩の交渉では重要な役割を果たしています。京都政局ではあちこちを周旋してまわる大事な仕事をしてますね。もっと知られてよい人物です。

ただ、ホラ吹きでもあったので、どこまで本当かウソかわかりません。その辺もまた魅力かも知れませんが。


私の祖先です!
U.N.C.L.E.George
こんにちゎ 初めまして 私は この4代後の 者です。どうぞ 宜しく御願い致します。

はじめまして
桐野
U.N.C.L.E.Georgeさん

はじめまして。
お返事が遅くなりました。

中井弘のご子孫ですか。
私もご先祖に興味がありますので、今後ともよろしくお願いします。



U.N.C.L.E.George
お早う御座います。こちらこそ どうぞ 宜しく御願い致します。私はあまり興味が無かったと言うか
全然知らない事実が沢山出て来ているので 驚いて
おります。なので図書館で借りた 私の叔父さんに
あたる人の本を読みまして なるほどと思った次第です。

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このところ多忙で、出かけることが多く、ブログの更新もままなりません。
また、多くのご著書やご論考をいただいておりながら、御礼やご紹介も思うにまかせません。
隙明き次第、随時ご紹介したいと思います。

さて、本日は坂本龍馬のムックの紹介です。
ビジュアルが多く、楽しめる内容になっています。
詳しくはここここをご覧下さい。
私も何本か書いております。

1,近江屋事件:龍馬襲撃さる
2,日本発のハネムーン:霧島での療養生活
3,薩長同盟:龍馬の周旋が決定打か?
4,龍馬の政権構想:「船中八策」と「新政府綱領八策」


このうち、2,3には新ネタを書いています。
意外な事実を掘り起こしていますので、ぜひご覧下さい。

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【2009/12/19 11:04】 | 新刊
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講座のご案内です。
毎度の小学館アカデミー古文書塾「てらこや」。

来年1月12日(火)から開講で、全5回です。
以下の要領でやります。

■ 特別講座「小松帯刀と幕末薩摩藩」

講師:桐野作人(歴史作家)
日程:全5回(1/12、1/26、2/9、2/23、3/9)火曜日、19:00〜20:30(1回90分)
会場:小学館アカデミー
〒101-0051 東京都千代田区神保町2-14,SP神保町ビル1F
交通:都営地下鉄・東京メトロ半蔵門線「神保町」駅より徒歩約1分、JR「水道橋」駅より徒歩約12分
>>> 会場案内図はこちら(別ウインドウで表示されます)

【講座内容】
小松帯刀と幕末薩摩藩の動向について、史料を中心に検討しています。
とくに今度のクールは龍馬暗殺=近江屋事件と、王政復古政変に至る動きを見ていきます。
ここだけでも関心のある方がおいでではないかと思います。あまり知られていない史料の紹介、既出史料の再検討、再解釈を通して、慶応3年秋冬期というもっとも重要な時期に何があったか、跡づけてみたいと思います。
関東圏の方々が中心になりますが、参加してみませんか。

【予定する各回のテーマ】※変更する場合があります。
(1)討幕の密勅見合わせと薩摩藩の動向
(2)坂本龍馬の新官制擬定書と新政府綱領八策
(3)近江屋事件と幕権維持派の動向
(4)近江屋事件の波紋
(5)王政復古政変断行と小松帯刀


<受講料>13,650円(全5回)

<お問い合わせ・お申込み>
小学館アカデミー古文書塾“てらこや”神保町校受付(専用サイトはここです)
フリーダイヤル:0120-072-465/FAX:03-3515-6783
受付時間:10:00-20:00、(土日・祝日を除く)

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【2009/12/13 22:59】 | てらこや
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毎年開かれている京王文化セミナーの一環(2010年第一弾)として、
龍馬シンポが8日(火)午前11時から、京王プラザホテル5Fコンコードボールルームで開かれた。正式のタイトルは以下の通り。

【シンポジウム】
坂本龍馬――幕末維新を回天させた男
主催:京王電鉄文化探訪事務局

会場は700人近い入場者で満員。
応募してきたのは1000人以上だったという。

私も夏頃から企画に加わって、テーマ設定やパネリストの人選などに関わってきたため、当日はコーディネーターというか、司会役となった。
パネリストは以下の4人の方。

坂本 登(坂本家9代目当主)
山村竜也(幕末史研究家、大河ドラマ「龍馬伝」時代考証)
植松三十里(作家、本年度新田次郎文学賞、中山義秀文学賞受賞)
中村武生(京都女子大講師、歴史地理史学者)


あらかじめ、大ざっぱな台本的なものを私的に作っていたが、結局、時間が足りずに3割は積み残してしまった。
それでも、パネリストのみなさんの、それぞれの立場からの主張やこぼれ話に聴衆も聴き入っているのが、壇上からもよくわかった。とくに集中度が高まったのは寺田屋再建問題だった。
立場の違いのため、話題も多彩になったことが結果としてよかった。
もっとも、議論を戦わせる場面が少なかったかもしれない。まあ、時間の関係で無理だったと思う。

パネリストの経験はあるが、司会役はほとんど初めてだったから、冒頭、少し緊張してかんでしまった(汗)。
ともあれ、パネリストのみなさんのご協力のおかげで、何とか終えることができた。
入場者のみなさん、主催者のみなさんにも感謝。

思い起こせば、同じ会場で、ちょうど2年前、篤姫の講演をしたことがあった。
そのとき、重富島津家の当主島津晴久さんとご一緒した。
晴久さんが自分の割り当て時間を大幅に超過して、私の分が少なくなってしまい、30分も延長したことを懐かしく思い出した。
それだけ精力的だった晴久さんが今秋、物故されたのが信じられない。

2年前、篤姫の知名度はいまいちだったから、入場者も今回より少し少なかった。
今回はその点、龍馬の知名度は抜群なのを実感。
来年の大河ドラマの勢いを予感させる。
もっとも、個人的には一抹の危惧がある、その描き方に……。

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【2009/12/12 09:47】 | イベント
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坂本龍馬関係新史料
御座候
伏見奉行所から京都所司代へ出された「寺田屋事件」に関する報告書の写しが見つかったそうですね。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091215-00000026-maip-soci

いろいろあるようですね
桐野
御座候さん、こんにちは。

コメント遅くなりました。
その史料のことは、だいぶ前から小耳にはさんでおりました。
各紙が大きく取り上げていましたね。

ほかにも岡田以蔵の供述調書などあるそうですね。


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南日本新聞連載「さつま人国誌」第131回
―薩藩が戊辰戦争で依頼―

連載が一昨日すでに更新になっていたのですが、諸事多忙でお知らせするのが遅くなりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックしていただくか、同紙サイトのここをクリックすれば、ご覧になれます。

今回は一風変わった題材を取り上げました。
我が国のビスケットはいつ、どのような形で生まれたのかという話です。

昨秋、鹿児島に帰ったとき、某菓子メーカーの社長さんと同席して雑談していたところ、鹿児島の銘菓「さつまどりサブレ」に代表されるサブレの始まりは島津斉彬にあるんじゃないか、何か知らないかと質問された。
私には答える用意のない難問で、斉彬が乾パンや乾飯(ほしいい)を製造して大量に備蓄していたことは知っているが、それ以上はわからない、帰って調べてみますと答えるしかなかった。

その一件がずっと気になっていたところ、記事にも書いたように、たまたま憲政記念館の展示を見学したとき、明治時代の風月堂のビスケット広告に「薩藩兵粮方」という一節があるのを見て驚いた次第。
それから、風月堂の社史を調べたり、同堂の広報部に電話して尋ねたりした(当時の広告写真をご提供いただき多謝)。

当初、薩摩藩兵粮方が江戸の風月堂に製造を依頼したのなら、てっきり彰義隊と戦った上野戦争で使用されたのではと思い込んでいたのだが、広告の文章には、平潟口の戦闘で使用したと書いてある。
そこで、戊辰戦争の一級史料『復古記』の平潟口戦闘の頁をすべて繰ったが、見つからなかった。
そういえば、大山柏『戊辰役戦史』もあるな、でも、これは大山の分析が多くて、あまり史料は引用されていないがと、あまり期待せずに読んだところ、なんと、大山が取材したと思われる地元の古老の証言があり、そこにビスケットの記事が書かれていた。
しかも、ビスケットを糸に通してあったというから、ドーナツのような中空の形状をしていたこともわかって面白かった。

もっと裏付けの史料もほしかったが、それ以上は手許史料で見つかりそうもなかったので、ひと区切りつける意味で、記事にしたという次第。サブレではなく、ビスケットだったが、何とか1年前の宿題が果たせてホッとしている。

なお、記事で書いた「凮月堂」の「凮」は「風」の異体字です。一応、原文を尊重して異体字を用いました。

次回は、島津久章一件を書く予定。知る人ぞ知る人物です。

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【2009/12/09 19:05】 | さつま人国誌
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風月堂
ばんない
今回のコラム、ビスケットの起源じゃなくて、風月堂の起源が分かって興味深かったです…すいません、意図しているところと違うところに注目してしまって…。松平定信の命名ですか。当初は和菓子屋だったのでしょうか。

関西では風月堂と言えば神戸に本社のあるところが知名度が高いです。なので、東京にも風月堂があるとは知りませんでした。気になって検索してみると、どうも全国に「風月堂」を屋号にしている洋菓子店があり、それらは複雑に関係のあるところが多いようです(先述の神戸の風月堂と東京の風月堂も間接的ながら関係があるようです)

サブレは鎌倉の有名なあそこが明治時代に作り始めたと言うことを主張していたような記憶があります。しかし日本で最初に誰が作り始めたかはちょっと調べた限りでは分かりませんでした。

次回は島津久章ですか。前回の押川強兵衛といいダークサイドストーリーが続いているような気が(汗)

風月堂
桐野
ばんないさん、こんばんは。

風月居士だったか、松平定信の雅号だったようで、それを頂戴したようですね。
風月堂は鹿児島にもありますね。のれん分けで増えたようです。

今回の連載について、京都のそばぼうろは真ん中に穴が空いているけど、あれが「乾蒸餅」と関係ないかという情報がお二人の方から寄せられました。

http://www.kawamitiya.co.jp/branding.html

こんな感じですが、たしかに穴が空いてますね。

島津久章は一回ではなかなか難しそうなのと、年末年始進行と重なるため、垂水家歴代の一人として取り上げようと思います。

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名古屋の栄・中日文化センターで開催中の私の講座「信長公記を読み解く」。
来年1月から新講座スタートです。
月1ペースで全6回。毎月第4木曜日午後1時から開講です。

同センターのサイトにも詳しい案内が出ていますので、関心のある方、継続受講のみなさん、ここをご覧下さい。
上から5番目に私の講座があります。「詳細情報・申し込み」ボタンをクリックすれば、スケジュール・講座内容などが確認できます。そこを押しただけで申し込みにはなりませんので、ご安心のほどを。

今月24日の講座で一応、首巻を終わります。
来月からは、信長が足利義昭を奉じて上洛する巻一以降を扱うことになります。
首巻と『信長記』本巻はやや趣を異にしていますので、来月から受講されても、全然違和感がないと思います。
信長や信長公記に関心のある方、といっても、東海地方にお住まいの方が中心になるでしょうが、受講してみませんか。

ちなみに、カリキュラムは次のようなテーマを考えています。

1/28 将軍義輝殺害と信長の上洛戦
2/25 足利義昭、征夷大将軍となる
3/25 本国寺合戦と二条第の造営
4/22 山科言継とフロイスの岐阜訪問
5/27 五カ条の条書と将軍義昭
6/24 金ヶ崎の退き口と元亀争乱


手前味噌ながら、なかなか面白そうなメニューだと思っています。
今回分は『信長公記』巻一~巻三あたりです。
基本史料はもちろん、一般の歴史ファンにはあまり知られていない史料もふんだんに用意するつもりです。
また基本的な史料の読み方や解釈のコツ、当時の時代背景なども解説します。
受講したら、得した気分になっていただくよう頑張ります。

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【2009/12/07 11:50】 | 信長
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谷口克広氏からだいぶ前に表題の著書(中公新書)をご恵贈いただいた。
副題は「筆頭吏僚 村井貞勝」である。
本書の詳細は中央公論新社のサイトのここをご覧下さい。

御礼申し上げるとともに、ご紹介が遅れたことをお詫びする。

この著書については、以前から谷口氏からいろいろ話を伺っていた。
それから、あまり時日がたっていない。谷口氏の健筆ぶりには脱帽である。否、誰かさんの遅筆のほうが問題か(爆)。

まだすべて読んだわけではないが、やはり今回は構成とアイデアの妙がある。
とくに村井貞勝が所司代になった天正元年(1573)からその死までの10年間を日次記にしたのは、面白い趣向である。
リンク先の泰巌宗安記さんだったか、「貞勝記」と呼んでいたのは、言い得て妙である。
これによって、村井の仕事ぶりや人脈などが一目瞭然である。また何より、それぞれの事項に出典が書かれているのが有難い。これこそ研究者の仕事である。新書でもその点を貫いておられる執筆態度に脱帽。

読んだ範囲で印象に残ったことなど。
まず村井の息子とされる村井清次だが、谷口氏は村井専次と同日人物だとされる。私はてっきり別人かと思っていた。しかし、清次が太田牛一『信長記』の本能寺の変の討死名簿にしか登場せず、ほかに足跡が確認できないとなると、やはり専次と同一人物なのか? ほかに村井清三という人物もいるから紛らわしい。清三は貞勝の所司代時代を通して登場しているが、貞勝の息子ではないかもしれない。

もうひとつ、本論とは関係ないが、信長の父信秀の没年について。
近年、天文21年説で確定的になっている。谷口氏もその立場だし、私も異論はない。
ただ、その論拠のひとつとされる織田信勝の天文20年9月20日付判物(信秀を備後守とする)と、信長の同21年10月21日付判物(信秀を桃岩とする)での信秀呼称の比較については、論拠が弱いのではないかと感じている。
この2点の判物では、信勝のそれが俗名というか官途の備後守になっているのに対して、信長のそれが信秀の法号である桃岩となっているため、2つの判物の間に信秀は他界したという考え方である。つまり、天文21年3月だというわけだ。

じつは、私も自分の講座でこの論法を使ったことがある。
しかし、別の信勝判物の事例を出すと、この論法は通用しなくなる。
それは、信勝が熱田の有力者加藤順盛に宛てた判物で、年次は天文22年10月。そのなかに「信秀先判の旨に任せ、免許舟の事」とある。
すでに信秀が他界しているにもかかわらず、法号の「桃岩」ではなく、俗名の「信秀」を使っている。
先の論法でいけば、この判物の時期、信秀はまだ存命というわけではないが、他界していても俗名を使う事例があるから、同20年9月の信勝判物時点で必ずしも存命だとはいえないことになる。
結論には異議はないが、論証法には再検討の余地があるのではと感じているところだ。まあ、いずれにしろ、同21年10月までに他界しているのは確実だが。

横道にそれたが、本書は織田権力研究の新たな局面を開いたといえよう。

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【2009/12/06 00:43】 | 信長
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読了
市野澤
こんばんわ。

谷口克広氏の新著、読み終えました。

中央公論新社のHPで発売予定を知った際、戦国ブームとはいえ、一般受けしない人物をテーマにするなぁと思いました。
中央公論新社も谷口氏が既に中公新書を4冊も出しているとはいえ、冒険するなぁとも思いました。

しかし、個人的には信長の政権の要であり、先行研究の少ない村井貞勝を谷口氏が執筆するのであれば、是非読まねばと思いました。

まず目を引くのが、京で活躍した貞勝は仕事柄、公家たちとの交流の多いので、一次史料である公家たちの日記から確実な確認が取れることです。
個人的に谷口氏には、未だに時代劇や歴史小説で猪武者のように描かれてしまう柴田勝家を扱って欲しいと思っているのですが、勝家は貞勝のように一次史料から裏付けるのは限界があります。
改めて、貞勝という人物をテーマに持ってきた谷口氏の着眼点に脱帽です。また、出版不況と呼ばれて久しい中、本書を出版された中央公論新社の英断に拍手を贈りたいです。

巻末の貞勝発給文書目録は嬉しいです。
欲を言えば、参考文献の頁が欲しかったです。

谷口氏が、貞勝の先行研究で立花京子氏の論文を「信長の朝廷利用・侵食、さらに公武間の緊張関係を再確認したものである」とし、朝尾直弘・松下浩・久野雅司各氏の先行研究と同列に扱わない評価は我が意を得たりでした。


とらさん
はじめまして。
とても関心をひかれる本が出ましたね。
自分はこの時代を考えるには、前久視点、義昭視点、そういったものも重要だと思ってますので、京都所司代という立場からの内容も非常に重要であろうと思います。
感想など、読んだ後でまた書き込みするかもしれません、その際はよろしくお願いします。

まだ熟読できておりません
桐野
市野澤さん、こんにちは。

谷口さんの本をしっかり読み込まれたようですね。
「天下所司代」とは言い得て妙で、村井貞勝の仕事は天下人信長の京都奉行にふさわしいものでしょう。

もっとも、村井は単なる信長の代理人ではなく、自律的な存在でもあったと思います。とくに三職推任などは、村井が信長の意向を忖度して独自に動いたもので、信長との間に齟齬もあったのではと思います。
しかし、信長は村井を叱責もしていません。村井の仕事ぶりや役割を評価していた証左でしょうね。

前久視点?
桐野
とらさん、はじめまして。
コメント有難うございます。

前久視点というのはどのような意味でしょうか?
前久も在国時期も含めて日記を残していてくれたら、相当面白かったと思いますけどね。


とらさん
レスありがとうございます。
戦国の世で、公家、それもトップクラスの、そういった視点からでは、各武将さんたちの行動などはどのように見えていたのでしょうか、といった感じです。
前久ですと主だった武将にはほとんどからんできますし、直接の敵味方のような利害関係もない、ある意味最もこの時代を冷静にみていたのではないか、とも思うのですよね。

ところで自分は名古屋でして、前回の中日ビルの講座も非常に行きたかったのですよね。
ただどうしても時間がうまく合わなくて・・
家族が別の講座を何十年も受けていて迎えに行ったりすることは毎月のようにあるのですが・・
年明けからの講座もとても行きたいのですが・・

名古屋ですか
桐野
とらさん、こんにちは。

名古屋にお住まいでしたか!
家族の方が何十年も受講されているとはすごいですね。
私の講座は平日の昼間なので、お勤めの方は受講が難しいですね。もし可能なら、お越し下さいませ。



とらさん
ありがとうございます。日曜の中日新聞にも講座が写真付きで紹介されていました。
なんとか時間を作るように努力してみますので、がんばってくださいませ。

中日新聞
桐野
とらさん、こんにちは。

そうそう、先日、中日新聞の記者が取材に来ました。
また紹介していただき、有難いことです。
無理されない程度にご検討下さい。

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関西の歴史研究者、城郭研究者の福島克彦氏(大山崎町歴史資料館)より図録「第17回企画展 豊臣秀吉と大山崎」や資料をご恵贈していただいた。
謹んで御礼申し上げます。
福島氏とその著書については、以前、当ブログのここで紹介したことがあります。ご参照下さい。

大山崎町歴史資料館は、山崎の合戦や幕末の禁門の変の舞台(真木和泉らが自害)にもなった天王山の麓にある。石清水八幡宮もほど近い。京都盆地の南からの玄関口というべき隘路であり、古来から西国街道の要所として知られている。山崎の合戦も明智光秀がこの隘路で秀吉軍を防ごうとして起こった。
そうした立地条件に合った企画「豊臣秀吉と大山崎」という展示会を同館が開催していたが、先月29日で終了していた。
このところ多忙で、外出も多かったため、紹介する時機を失してしまった。あとの祭りで、福島氏と同館に対して申し訳なかったなと思う。

同館では、展示期間中に3回の講演会が開かれ、福島氏も10月18日、

「豊臣権力の京都改造と洛外」

と題して、講演された模様。
そのレジュメもお送りいただきました。こちらも御礼申し上げます。
西国街道と豊臣政権の関係については、以前、同氏から、沿道の史跡から金箔瓦が少なからず出土しており、秀吉が西国街道を金ピカに装飾する荘厳化を意図していたのではないかと伺った記憶がある。そのあたりもレジュメに反映されていた。

また丹波の某旧家の調査報告書も頂戴した。
その所蔵文書のなかに石田三成の過所(関所の通行手形)がある。文禄・慶長の役の時期のもの。写しのようだが、三成の印判が非常に特殊なデザインをしている。馬の鞍の形か? かつて斑鳩の藤ノ木古墳から金の鞍金具が出土したことがあったが、それを連想させる形状。不勉強で知らないが、三成はこんな印判も使っていたのかと驚く。

まったく証文の出し遅れというべき紹介になってしまったが、福島氏に御礼申し上げます。

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【2009/12/03 19:44】 | イベント
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びわこ
>馬の鞍の形か?

鞍の形の中に「石田三成」っていう少々変形文字で描かれてる印判ですか?
このデザインは知ってたのですが、何に使ってたのか知らなかったです。
通行手形だから、鞍の形?だとしたら、ウィットに富んだ三成がますます好きになります(笑)

三成印判
桐野
びわこさん、こんにちは。

この印判を使った三成文書、ほかにもあるんですか。
彦根市史などに載っているのでしょうか?

通行手形ではありますが、水運関係なんですよ。

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日次記です。

遅くなりましたが、先月下旬分から。

24日から講演・講座が4日間連続でした。

24日(火) 小学館古文書講座「てらこや」「幕末薩摩藩と小松帯刀」8-④
25日(水) 武蔵野大学市民講座「信長記を読む」④
26日(木) 栄・中日文化センター講座「信長公記を読み解く」⑤
27日(金) 滋賀県レイカディア大学草津校講演「石田三成と直江兼続の関ヶ原合戦」


これにはレジュメ作成も伴っていますから大変です。他の仕事の空き時間を縫ってレジュメ作成の日々でした。
でも、これだけテーマがバラバラだと、頭の切り換えができましぇ~ん(爆)。

だからというわけじゃないですが、今週はやや脱力状態です。
先週末から昨日にかけて、たまっていた雑用を一気に片づけました。
用件は少なくなりましたが、事務所は本と資料、ファイルの山がさらに増えました。

今月は講座・講演が比較的少ないので、まとまった原稿執筆にあてる予定です。

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【2009/12/02 10:48】 | 信長
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びわこ
桐野さん、こんにちは。

4日連続の講座、日替わりで、移動があって、この年代のまちまちさ・・・
+レジュメ作り・・・

すごいです。神業!





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南日本新聞連載「さつま人国誌」第130回
―関ヶ原で功名、家老狙撃―


連載が更新になりました。
左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックするか、同紙サイトのここをクリックすれば、ご覧になれます。

関ヶ原シリーズは前回で終わるつもりでしたが、もう一人いるのを忘れていました。この人です。
関ヶ原での活躍はもちろんですが、この人の場合は、何といっても平田増宗の狙撃一件が重要ですね。平田増宗は島津義久の家老で、同家久の家督継承に反対し、垂水家に嫁いだ義久二女の子忠仍を義久の後継者にしようという立場でした。
家久にとって、まさに目の上のコブといってよい人物です。

慶長15年(1610)、増宗は家久の上京を久見崎港(現・薩摩川内市)に見送ったあと、入来院清敷の地頭所に立ち寄り、私領の郡山郷に向かう途次、土瀬戸越で強兵衛に狙撃された。
余談だが、このとき強兵衛を道案内したのが桐野九郎右衛門で、のちの桐野利秋の先祖にあたる。

明らかに義弘か家久の密命、とくに後者ではないかと思われる。
家久は上京の途中、増宗暗殺の噂があることを義弘に問い合わせているが、白々しい気がする。

太守義久の家老が白昼堂々、暗殺されるというのは尋常ではない。
まさに島津本宗家の暗闘が決定的局面に立ち至っていたことを示している。義久はこの事件からわずか半年後に他界しているから、事件当時、すでに重病で政務がとれない状態だったことは容易に推察され、義弘・家久父子がその間隙をついたものである。病床の義久が信頼する側近の横死に衝撃を受けたのは想像に難くなく、義弘・家久父子による事実上の政権奪取クーデタといってよい。

この事件は、島津本宗家の系統が移動する、もっといえば、日新斎以降三代の正統が断絶し、庶流が本宗家に取って代わったともいえる。それほど重大事件だが、あまりその意義が注目されていない。島津家の陰惨な面が赤裸々に表出しているせいか。

それにしても、強兵衛は生涯で160人も殺害したと『本藩人物誌』にあります。朝鮮陣や関ヶ原合戦などいくさ働きが多いのでしょうが、それでも凄まじい数字ですね。事実だとすれば、まさに薩摩の怪物だといっても過言ではありません。

ひとつ知りたいことがあります。
ひとえに私の不勉強ゆえですが、増宗が暗殺された土瀬戸越というのはどこにあるのでしょうか? 現在の地図には掲載されていないように思います。入来と郡山の境界にある峠ではないかと思いますが、ご存じの方がおいでなら、ご教示下さい。

次回はまた一時、幕末・明治に戻ります。

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【2009/12/01 01:14】 | さつま人国誌
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かじやちょう
かじやちょうです。

土瀬戸越ですが、入来峠の北西にあるようですね。
土瀬戸は鹿児島訛りでつっせとと呼ばれていたようです。
今の入来峠の道は江戸時代の道ではなく旧道がそれに沿うように
あります。峠から少し入来側に行ったところに旧道と交わるところがありますので、そちらに行ったあたりが土瀬戸越だと思います。この辺りは太郎左衛門坂とも呼ばれていたようです。



源太
義弘が暗殺を指示した側だとしたらショックです。

大正七年に谷山初七郎氏が著された『島津義弘公記』の中に以下のような文がありまして、

家久公嘗て義弘公に訴えて曰く「當國の諸士は横肆にして往往布告に背くことあり。
頃屢京師に上り他國の風を聞く 福島左衛門大夫等は、背く者あれば處するに死刑を以てす。
故に威令能く國中に行はる。當國に於ても彼二三者を戮して之を懲さば如何」と。
義弘公答へて曰く「誠に此の如き者あり、然れども我には不良を摘發する如き横目なからん
少将自ら能く視察して之を挙げよ 我も亦此に留意すべし。
福島の如きは範とするに足らず、彼は必ず一代にして滅びん
死罪を以て家衆を畏服せしめんよりは、先づ我身の行ひを正し、憐愍を以て之に臨み、
自ら耻ぢ且つ格らしめんに若かざるなり」と。

谷山氏がどの史料から引用されたのかまでは記述されていませんが、これで私の義弘に対するイメージが出来あがっているせいか、個人的には忠恒の独断であると思いたいです。

ご教示御礼
桐野
かじやちょうさん、お久しぶりです。

土瀬戸の場所、教えていただき有難うございます。
鹿児島弁でのご紹介も感謝です。「つっせ」ですか(笑)。

それで入来峠の北西といえば、入来の中心地からだいぶ南になりますね。
太郎左衛門坂とは、まさしく平田増宗にちなんだ命名ですね。そんな名前が残っているとは知りませんでした。
機会があれば、ぜひ訪ねてみたいと思います。
有難うございました。


義弘か家久か
桐野
源太さん、はじめましてでしょうか?

ご意見興味深く拝聴しました。
『島津義弘公記』はよくできた伝記ですが、義弘を顕彰するために書かれたもので、つまり、義弘や島津家にとって都合の悪いことは書いてないので、基本的に鵜呑みにはできませんね。
ご紹介の個所も、信頼できる一次史料で裏づけがとれないと思います。

押川強兵衛に密命を下したのが誰だかわかりませんが、立場的には義弘か家久しかいないでしょう。
源太さんはお認めになりたくないでしょうが、義弘説もかなり有力だと思います。
その第一の根拠は平田暗殺の時点で、強兵衛は義弘の家来だということです。強兵衛が義弘の頭越しに家久の命令を受けるというのは、当時の主従関係からは考えにくいですね。

ご存じかと思いますが、この時期、島津家は「三殿体制」です。

義久:国分
義弘:帖佐
家久:鹿児島

家臣団も「三殿」ごとに編成されていました。
『本藩人物誌』の押川強兵衛譜によれば、強兵衛が義弘に「二世之御供」を願い出ました。つまり、この世とあの世での家来、要するに殉死するという意味でしょう。
ところが、家久が義弘に強兵衛を家来にしたいと申し出、義弘もそれを認めたので、強兵衛は主替えをすることになりました。
それが慶長19年(1614)のことです。増宗暗殺から4年後ですから、暗殺時点では強兵衛は義弘の家来だったことになります。
義弘説が捨てがたいこと、ご理解いただけるでしょうか?


源太
源太です。

御挨拶もなく書き込みを投降致しまして、大変失礼致しました。
おっしゃられる通り初めて書き込みさせて頂きました。

また、私の稚拙な書き込みに御多忙の中、ご高説賜り誠に有難う御座います。
大変勉強になりました。
やはり家中の統率を図るためには、清濁併せ飲まなければならないという事ですね。
有難う御座いました。

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