歴史作家桐野作人のブログ                                      織田信長と島津氏・薩摩藩・幕末維新を中心に歴史にまつわる身辺雑記
現在、発売中の『歴史読本』3月号。
目次の紹介などはここにあります。

表題のタイトルで記事を書きました。サブタイトルもあります。
―小松帯刀の京都邸「御花畑」を探す―

一昨年来、ずっと探索を続けていたテーマで、南日本新聞連載「さつま人国誌」などでも中間報告してきましたが、今回こそはほぼ確実に町名レベルまで明らかにできたと思います。

詳しくは同誌の拙稿をご覧いただくとして、これまで摂関家の近衛家は京都に本邸、別邸合わせて5つの邸宅があるとされてきましたが、どうやら6つ目がありました。それが小松帯刀が京都邸とした「御花畑」です。

今回の結論に辿りつくまで試行錯誤がありました。
とくに近衛基熈の隠居屋敷で幕末まで存在した堀川邸(堀川一条上ル)に比定できるのではないかという考えに一時傾いたことがありましたが、結果としてこれも否定せざるをえなくなりました。私の未熟の致すところです。

そんなこんなの試行錯誤のプロセスを書きましたので、興味のある方はご覧下さい。

なお、薩長同盟が締結された場所も、『桂久武日記』や木戸孝允、品川弥二郎など当事者の伝記や証言から、おそらくこの「御花畑」ではないかと結論しました。
この点も強調しておきたいところです。

ついでながら、同誌には、私の連載「信長―狂乱と冷徹の軍事カリスマ―」第27回も掲載されています。
今回は「足利義昭の追放と浅井・朝倉の滅亡」というテーマで書きました。
そのとおり、元亀争乱の終結について詳しく述べたものです。
こちらもよかったら、ご覧下さい。

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【2010/01/29 22:39】 | 新刊
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南日本新聞連載「さつま人国誌」第135回
―最前線の勇将、廻城で死す―

連載が月曜日に更新されていました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

前回、カタリナ夫人=永俊尼のことを書くと告知しましたが、諸般の事情がありまして、また変更しました。

島津忠将は戦国島津氏を語るうえで欠かせない人物です。
常に最前線に立った武将ですね。
廻城の戦いでは、かなり不利な態勢のまま戦って、ついに討死してしまいました。
以前、取材に行ったことがあるので、関連写真を載せておきます。

馬立
忠将がいた馬立の陣。ここから出陣して討死した。
廻城案内板
廻城近くの案内板。島津・肝付両軍の対陣状況がわかる。
廻城跡
廻城本丸跡の石碑。近くに廻氏の供養塔もある。


次回はなんとかカタリナ夫人を書きたいと思っています。

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【2010/01/27 00:19】 | さつま人国誌
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hirots
こんばんは~はじめまして^^

戦国時代は好きな時代の一つです☆これから読ませていただきますね!応援ぽち

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「龍馬伝」第4回「江戸の鬼小町」

いよいよ貫地谷しほりちゃんの千葉佐那が登場しました。
演技はうまいし、凛々しくていいですねえ。

しほりちゃんといえば、個人的には数年前の大河ドラマ「風林火山」初回が今でも鮮烈な印象を残しています。
それから、映画「スウィングガールズ」の三の線の演技もよかったですねえ。朝の連ドラ「ちりとてちん」も熱演で知られています。

ドラマ進行時点は嘉永6年(1853)4~6月頃です。
ペリー艦隊が初めて浦賀に来たときです。龍馬が19歳、佐那は天保9年(1838)生まれだから16歳。今の中三か高一ですね。
里見浩太朗演じる千葉定吉には3人の娘があったそうで、佐那はどうやら長女ではないかと思われます。
もっとも、兄の千葉重太郎は文政7年(1824)生まれの30歳ですから、佐那とは14歳も齢が離れています。その間にほかの子女がいた可能性もありますね。

で、龍馬が乙女ねえさんに宛てた手紙で、佐那のことに触れています。もっとも、ドラマの進行より10年後の文久3年(1863)です。手紙のなかに佐那が26歳になったと書いてあるからです。
面白いのは、龍馬が佐那と加尾の容貌を比較している部分、

かほかたち、平井より少しよし。

佐那のほうが加尾より少し美人だというわけです。
今なら、恐くてとても書けないことですが、開けっ広げな龍馬らしいといえば、らしいですね。

これは龍馬の個人的な好みだと思われていましたが、最近、佐那が美人で、武術全般の達人だったと書かれた史料が宮川禎一氏(京都国立博物館)によって紹介されました(「千葉佐那の面影」『歴史読本』2010年2月号)。宇和島藩主伊達宗城の伝記「藍山公記」安政3年(1856)5月9日条にあります。佐那は当時、宇和島伊達家に奉公していたようです。

「御側女中さな(佐那)と申す者の、剣術・槍・薙刀等の技を御覧あり、女子にては達者なりとて、御感心遊ばさる」

佐那は伊達家の世子(宗徳)の剣術の相手もしたとか。
そして、容貌についても次のように書かれています。

「左那(佐那)は容色も、両御殿中、第一にて」

伊達家の上屋敷と中屋敷に勤務している女性のなかで、佐那の容貌が一番だというわけです。

佐那が武術に秀でた美人だったわけで、龍馬が見惚れたのも当然かもしれません。
なお、佐那は生涯独身を通しましたが、山梨にあるその墓石には、

「坂本龍馬室」

と刻まれていますね。
佐那は龍馬と言い交わした仲だったかもしれませんね。

しほりちゃん贔屓なもんで、佐那のことばかりになってしまいました。

あと道場風景で気になった点があります。
重太郎が百姓や町人の子弟も剣術修業に来ていると龍馬に告げ、相当数の小さい弟子たちがいました。
非武士身分の門弟がまったくいなかったとまではいいませんが、彼らの剣術修業が著しく増えるのは黒船来航以後のことだと思います。幕府や諸藩が海防強化に乗り出し、非武士身分に対しても剣術などを奨励し、場合によっては召し抱える政策を実施したからです。
だから、時期的にちょっと早いのではないでしょうか。

次回は龍馬が浦賀に黒船を見に行くのでしょうか?
すでに桂小五郎も登場していましたから、同伴するんでしょうかね?
思い出すのは、数年前の大河「新選組」です。
また呉越同舟をやるんですかね。もっとも、今回は近藤勇は出ないでしょうが……。

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【2010/01/25 00:57】 | 龍馬伝
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佐那子のお墓
森重和雄
桐野先生 こんにちは!

佐那子のお墓は最初は谷中霊園に埋葬されましたが、無縁となり現在は八柱霊園に合葬されました。
甲府の清運寺の墓碑は自由民権運動家の小田切謙明の妻・豊次によって分骨されたものです。

何でそうなったのかは
森重和雄
佐那子が学習院の舎監を辞職した後、「千葉灸治院」を北千住に開業し、その当時の通院者に自由民権運動家の小田切謙明がいたため、小田切謙明が佐那子と懇意にしていたからです。

補足
森重和雄
佐那子を不憫に思い、身寄りの無い佐那の死後も自家の墓所に分骨埋葬し、自分の死後も家族同様に供養するよう子孫に言い遺したそうです。
だから甲府の小田切家の墓域に佐那子の墓碑がありわけです。

補足2
森重和雄
北辰一刀流開祖・千葉周作のお墓は東京の本妙寺にあります。北辰一刀流門下生一同は今でも12月18日に集まりお墓参りをしているそうです。


追伸
森重和雄
桐野先生、おりょうさんについては下記もぜひご覧下さいませ。

http://yoppa.blog2.fc2.com/blog-entry-590.html

楢崎家
森重和雄
楢崎家の方は、横須賀市大津の信楽寺の住職・新原桂浄師によれば、昭和十一年頃に楢崎某と名乗る者がお龍さんを展墓し回向したそうです。
その人は永く朝鮮にいたとのことで、或はお龍さんの弟の子孫かもしれません。



千葉定吉と千葉重太郎のお墓
森重和雄
佐那子の父・千葉定吉と兄・千葉重太郎のお墓は雑司が谷霊園にあります。

千住中組の千葉灸治院
森重和雄
千葉佐那と千住中組の千葉灸治院については、下記をご覧くださいませ。

http://www.city.adachi.tokyo.jp/003/d10100169.html?ref=rss

http://www.senjumonogatari.com/ryoumatosana.html



残念な展開
市野澤
おはようございます。

「江戸の鬼小町」、見ました。
佐那が龍馬に惹かれていく過程を丁寧に描くかと思いきや、唐突で拍子抜けしました。

谷原章介さん演じる桂小五郎はミスキャストに感じました。
振り返ると、「新選組!」での伊東甲子太郎役も馴染めませんでした。中村武生氏がおっしゃるような伊東に魅力や興味を感じるので余計に残念でした。
『風林火山』では今川義元を演じるより、氏真を演じた方が適任に感じました。
好きな俳優なのに、大河では合わない役を演じたり・脚本が悪いので残念です。

昨年12月に教えて頂き、楽しみにしていた『歴史読本』3月号の小松帯刀邸「御花畑」を読みました。参考文献から桐野さんが如何に史料を読み込んでいるかが伺えます。
益々、出版が予定されている小松の本が楽しみです。

千葉灸治院の補足
森重和雄
中風症に悩む甲府の小田切謙明は、板垣退助の紹介で千葉灸治院を訪れたそうです。

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名古屋の栄・中日文化センター講座「信長公記を読み解く
最後の告知です。

いよいよ来週28日から新講座スタートです。
月1ペースで全6回。毎月第4木曜日午後1時から開講です。

同センターのサイトにも詳しい案内が出ていますので、関心のある方、継続受講のみなさん、ここをクリック下さい。
上から5番目に私の講座があります。「募集していません」という表示が出ますが、まだ駆け込みで大丈夫だと思います。フリーダイヤルをご利用下さい。

カリキュラムは次のようなテーマを考えています。

1/28 将軍義輝殺害と信長の上洛戦
2/25 足利義昭、征夷大将軍となる
3/25 本国寺合戦と二条第の造営
4/22 山科言継とフロイスの岐阜訪問
5/27 五カ条の条書と将軍義昭
6/24 金ヶ崎の退き口と元亀争乱


手前味噌ながら、なかなか面白そうなメニューだと思っています。
今回分は『信長公記』巻1~巻3あたりです。
基本史料はもちろん、一般の歴史ファンにはあまり知られていない史料もふんだんに用意するつもりです。
また基本的な史料の読み方や解釈のコツ、当時の時代背景なども解説します。
受講したら、得した気分になっていただくよう頑張ります。
関心があって条件が合えば、受講してみませんか。

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【2010/01/19 20:01】 | 中日文化センター
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こんにちわ
とらさん
そうなんですね「募集してません」になってしまうのですよね・・駆け込み・・う~ん、行きたいです・・

こちらは今「ノドが痛くなる風邪」が流行しています。どうぞ体調には十分お気をつけて来名くださいませ。

申しわけありません
桐野
とらさん、こんばんは。

講座の件で、お悩みのようで申しわけありません。どうか無理をなされませぬように。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第134回
―島津家家督への未練か―

連載が更新になりました。
同紙サイトのここか、左のリンク欄「さつま人国誌」をクリックすれば、ご覧になれます。

今回は、近世初期における島津氏の御家騒動といってよい島津久章の死について取り上げました。
久章は記事にも書いたように、垂水島津家から分立して新城島津家の初代となった人物です。
新城は現在の垂水市にありますが、島津義久の二女がこの地を化粧料としてもらって以来、「新城様」と呼ばれるようになりました。久章はこの「新城様」の所領を受け継いだものです。

垂水島津家は相州家から初めて島津本宗家を継いだ貴久の次弟忠将から始まる家で、もともと本宗家にもっとも近い家であったのに加えて、義久の二女「新城様」が忠将の孫彰久に嫁いで以来、男子のない義久の血統を伝える家として、三女亀寿の婿となった忠恒(のち家久)と、家柄的にはほぼ同等といえる格式の高い家になりました。

垂水島津家の悲劇はここにあったように思います。
とくに「新城様」の子忠仍(ただなお、のち信久)は忠恒の対抗馬に擬せられ、一度は義久が家督を譲ろうとしたいきさつもあり、義久の家老平田増宗が忠仍を担いで、忠恒の家督相続に反対したこともあります。増宗はその一件がもとで暗殺されたことは、すでに「さつま人国誌」130回で紹介しました。

忠仍(信久)自身も相当血の気の多い性格だったらしく、家老をお手討ちにした挙句、毒殺されるという非業の死を遂げています。

垂水島津家は初代忠将が討死、二代以久は佐土原島津家を継承、三代彰久は朝鮮で病死、四代忠仍は毒殺、そしてその二男久章は斬死と、二代以久以外は天寿を全うできずに非業の死を遂げています。

垂水島津家=新城島津家の家柄の高さから来る悲劇といえるかもしれません。

次回は、鶴丸城から出土したキリシタン瓦についてのこの記事に登場するカタリナ夫人(永俊尼)について書く予定です。

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【2010/01/18 22:38】 | さつま人国誌
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ばんない
こんばんは。前に予告があったネタですね。遂に登場しましたか。

島津義久の娘の縁から人生が破たんしてしまったと言うことで、島津久章という人物には前から関心があるのですが、彼の顛末は、なかなか謎が多いですね。京都から脱走し高野山の蓮金院(島津氏菩提寺)に逃げたのも、先代藩主・島津家久(忠恒)の納骨式というタイミングであり、第三者の目から見るとそこにいた島津家中の者に捕らえられて鹿児島に引きずり戻されるのは見えてます。久章は何故敢えて「飛んで火にいる夏の虫」になったのか?
そもそも脱走のきっかけになった「年頭お礼の使者」についても史料(タイトルは失念)によっては「久章が紀州徳川家へ使者に行ったときに駕籠から下りなかったのを光久が怒って厳罰に処した」と書いてあるものもあり、久章押し込めにいたる理由が一定してないのも気になります。

ところで
>二代以久以外は天寿を全うできずに非業の死を遂げています。
ということですが、佐土原藩の史料では以久も非業の死だったと書いてある物があるようなのです。確か『宮崎県史』だったと思いますが、細川忠興が以久をなじって自害したとか云々…元になった史料が明示されてなかったのですが、かなり珍しいお話なので引っかかっています。

二代以久
桐野
ばんないさん、こんばんは。

高野山の蓮金院ですが、当時、島津家の人間は詰めていなかったんじゃないかと思います。
久章のことを知らせたのはお寺側のようで。久章がただならぬ様子だったみたいです。

以久にもそんな逸話がありましたか。
宮崎県史はもっていますが、見落としてました。
通史編ですかね?


佐多
お久しぶりです。佐土原藩史ではないでしょうかね?私もコピーしていないのではっきりとは断言出来ませんが。私の読んだものは家臣が毒殺したと記載していたような気がします。どうしても武士としての面目が立たないと諫言しても聴かなかったようですね。本家への影響も考えての処置だとしたらあり得ない話でもなさそうな。これが真実だとしたら垂水家は本当に運が悪い家ですよね。


ばんない
こんばんは。

確かに「薩藩旧記雑録」後編6-528などをみると蓮金院から連絡があったと書いてあります。ただ、「末川家文書 家譜」の久章の項を見ると「琴月様(=島津家久)御骨高野山ニ御納ニ付、御家老川上因幡守殿、御用人平田狩野之介御供二而高野御仏事之御作法御取仕廻二而(以下略)」(『鹿児島県史料』「薩藩旧記雑録家分け11」p.119)ともあり、故・島津家久の納骨のために高野山に薩摩藩の関係者が詰めているようにも読み取れたのですが…。

以久の話ですが、copyを取っておらずうろ覚えなのでハズレだったら申し訳ありません。載っているとしたら『宮崎県史』「通史編」だと思います。もしかしたら『垂水市史』かと思ってcopy見直してみましたがこっちには当該の記載はありませんでした。
で、先ほどの久章の件で「末川家文書 家譜」を見ると以久は[病死]としっかり書いてあったりします。うーん、真相は?

佐多さん、フォロー有り難うございます。元ネタは『佐土原藩史』でしょうか?鹿児島県立図書館には所蔵があるようですが(URL参照)…。禁帯出では鹿児島県在住者以外は見るのはかなり難しそうな本ですね(涙)

Re:以久
佐多
こんばんわ。
昨日、国会図書館へ行きました。やはり佐土原藩史に記載してありました。復刊した新しい方が詳しいですね。佐土原士(足軽)が細川家との喧嘩で殺害されたようで、その報復をしようとしていたようで。遺言を兼ねた最後の宴で泥酔したところを家臣が弑したとのことです。君臣にもとる行為だったので文書には残っておらず、弑逆の罪科におそれおののいてそれを忘れないように口伝で伝承されていたようです。
戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。

佐土原藩史
桐野
佐多さん、こんばんは。

たびたびのご指摘、ありがとうございます。
やはり「佐土原藩史」に記事があったのですね。
大変参考になりました。

>戦中にも清水の忠将公夫妻と彰久公の墓所に爆弾が直撃したのが運のなさを物語っていますよね。

この話も知りませんでした。
垂水家はつくづく運が悪いんですね。

蓮金院
桐野
ばんないさん、こんばんは。

ご教示、ありがとうございます。
家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
もし藩士が詰めていたら、すぐわかるはずですから。



ばんない
こんばんは。どうもコメント欄から探す癖が付いていて、お返事があるのに気が付きませんでした。失礼しました。
>家久遺骨の蓮金院への納骨と、久章の出奔時期はタイムラグがある可能性はないでしょうか?
「末川家文書 家譜」ではそのあたりの日時が明言されてないので、ちょっとはっきりとは分からないです。他の史料も丹念に見ていくしかないようですね。お力になれず申し訳ございません。

>以久殺害?
細川家がらみというのがひっかかります。佐多さんご紹介の話では偶発的な事件のようですが、島津家は細川家とはこの当時は関係も深いですし、何よりメール魔(苦笑)の細川忠興がこの話を書いた手紙を残してない(少なくとも私の管見では記憶にないです)のが気になります。

メール魔
桐野
ばんないさん、こんばんは。

細川忠興はたしかにメール魔ですね。
息子の忠利宛ての膨大な書状、手取り足取りという感じですものね。

忠興と以久の間に確執があったか否か、検証するのはなかなか難しそうですね。
小藩の佐土原側が泣き寝入りだったんでしょうかね?

佐土原藩史
桐野
ばんないさん、佐多さん

うっかりしていたのですが、私、『佐土原藩史』もっていました。今日、別件で本棚を探していたらありました(汗)。

その征久(以久)の譜に次のようにありました(14頁)。

「伝に曰く、この時以久大阪より川舟にて伏見に上る。細川忠興の舟も共に上った。彼の従士大々名なるを誇り以久の従士を侮辱した。以久怒って忠興を殺さんことを決意し、伏見着ののち後事を樺山久成に托した。久成諌めたがきかず私かに(ひそかに)謂えらく、今天下はじめて治まる。万一我主の慾する所を実現せんか、或は主家の滅絶を招くに至であろうと。その夜以久に酒を勧め、その熟酔するをまち、私かに殉死の四人に旨を含め、涙を呑んで以久を害せしめたのであると」

いやあ、以久は自害というより、家臣たちにお家安泰のためにひそかに殺害されたことになりますね。
真偽のほどは不明ながら、もし事実なら、垂水家当主は不運つづきとしかいいようがありません。


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「龍馬伝」第3回「偽手形の旅」

前回は忙しくてスルーしてしまいました。
タイトルがなぜ「大器晩成?」だったのか、ずっと気になっていたのですが、どうも第1回にチラリと登場した坂崎紫瀾が書いた『維新土佐勤王史』の龍馬の子供時代の記事に「彼が所謂大器晩成の事実なりとす」という一節から採ったのでしょうか? まあ、33歳の生涯であれだけのことを成しえたのは大器晩成ではないような気もしますが。

第1回から感じていたのですが、このドラマが採用したカメラは緑の表現、発色が印象的ですね。非常に深みのある色が出ています。
それと、土佐の植物生態系をどこまで意識しているのかわかりませんが、またロケ地がどこなのか知りませんが、蘇鉄がよく出てきます。いかにも南国土佐の風情を示していますが、個人的にはとても懐かしい感じがします。私の郷里薩摩も蘇鉄がたくさんあったからです。

さて、ドラマは龍馬が江戸に剣術修行に行くことになりました。
郷士の坂本家は家老福岡家の支配下にあったので、江戸行きの願書は福岡家に提出し、同家から道中手形などが支給されています。
願書を提出したのが嘉永6年(1853)3月4日で、許可が出たのが同16日。出発が翌17日です。

父八平が龍馬に与えた修行心得三カ条の書付は「守」と題して『維新土佐勤王史』などに収録されていますね。それらしいものがあったのでしょう。

龍馬が出立するとき、見送ってくれたのはドラマでは平井加尾だけでしたが、家族親族が多数、城下郊外の領石村まで見送ったそうです。
ところが、途中で龍馬が行方不明になり、親戚の山本琢磨が探したところ、途中、知り合いの家で錦絵を見ていたそうです。

偽手形で一緒について行った岩崎弥太郎ですが、これはフィクションですね。
弥太郎が学問修行のため江戸に出るのはもう少しあとです。
それと、龍馬と弥太郎の関係ですが、おそらく慶応3年(1867)に長崎で出会うまで、接点はないのではないかと思います。詳しく調べたわけではありませんが。
接点があるとすれば、弥太郎が吉田東洋の塾に入った頃ですが、門弟はほとんど上士ですし、ほどなく龍馬も脱藩しますから、接点があったかどうか微妙なところですね。
その代わり、池内蔵太や近藤長次郎は弥太郎から漢学を学んでいます。

第1回から弥太郎と父弥次郎が竹製の鳥かごを背中に背負っている場面がよく出てきます。あれは弥次郎がのちに庄屋との紛争で体が不自由になってから、内職でヒゴ削りをして鳥かごを作ったことに基づいているのでしょう(『岩崎弥太郎伝』上)

龍馬と弥太郎の呉越同舟はフィクションですけど、ドラマの構成上、なかなか面白いプロットだったかもしれません。

次回は江戸ですね。
千葉佐那の登場が楽しみです。

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【2010/01/17 22:02】 | 龍馬伝
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映像の件
忍っこ
桐野先生が気にしておられた龍馬伝の映像の件ですが
今回の「龍馬伝」の撮影では、大河ドラマでは初めての
「プログレッシブカメラ(通称30Pカメラ)」という機材を
使用し従来の映像に比べて、深みのある映像に仕上げているそうです。
詳しくはURLに入れときました。その6に撮影カメラの
詳細があります。
それと、よくベアトの写真に出てくるような人物が登場しますが、
これにもこだわりがあるそうでして、リアルさが増しているようです。
たとえばこんな写真↓
http://lib.u-air.ac.jp/koshashin/HSD10163.JPG


プログレッシブカメラ
桐野
忍っこさん、こんばんは。

ご教示有難うございます。
私も第1回のコメント部分で書いておきましたが、詳しい説明がありましたね。

ベアトの写真を参考にしたというのも面白いですね。
たしか生麦村の風景もベアトだったような。


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今年初めての講座に立てつづけに出講。

12日(火)が小学館アカデミー「てらこや」。
13日(水)が武蔵野大学市民講座。

「てらこや」のほうは「小松帯刀と幕末薩摩藩」シリーズの第9クール。
第1回のテーマは表題のとおりです。

慶応3年(1868)10月の大政奉還以降の京都政局を見ていく予定ですが、今回は将軍慶喜の大政奉還が各方面にどのような波紋を投げかけたのか、とくに討幕派公家と薩摩藩に与えた影響を見ていきました。

西郷・大久保らと盟友で薩摩藩討幕派の代表的な人物である伊地知正治や吉井幸輔が慶喜の大政奉還を高く評価していることを確認しました。とくに伊地知は慶喜を内大臣として諸侯の上に置くことを主張しています。また再上京してきた大久保が討幕の密勅見合わせ沙汰書を見せられて、武力挙兵を当面棚上げにし、大政奉還を前提に王政復古を平和的に進めることを承認して、条件付きながら対幕協調路線に回帰したことも確認しました。
このあたりの政治過程は一般にほとんど知られておらず、薩摩藩は一直線に倒幕挙兵に突き進んだと見られていますが、決してそんなことはありません。この点は強調してもしすぎることはありません。
薩摩藩は武力討幕派、坂本龍馬や土佐藩・越前藩などは平和的大政奉還派といった紋切り型の決めつけは史実にそぐわないですから、認識を改めたほうがいいでしょう。
次回は坂本龍馬の新官制擬定書と新政府綱領八策について検討する予定です。


武蔵野大学の市民講座は昨秋から続けている「太田牛一『信長記』を読む」の第6回。
「桶狭間合戦前夜」と題して、鳴海・大高両城周辺における織田・今川双方の動きを追いました。
とくに天理本「信長記」を紹介して、テキストに使っている陽明本(史籍集覧本)との叙述の違いを見ていき、新しい情報が得られることを確認して、桶狭間合戦の解明にも有効であることを強調しました。
次回はいよいよ桶狭間合戦の本番をやります。

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【2010/01/16 13:15】 | てらこや
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何故でしょう?
市野澤
こんにちわ。

>薩摩藩は一直線に倒幕挙兵に突き進んだと見られていますが、決してそんなことはありません。

この点は、大河ドラマ「龍馬伝」も従来の史観に沿った描かれ方になりそうな気がします。昨年から巷に「龍馬伝」のあやかり本が書店に並んでいますが、高橋裕文氏の「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」(『もう一つの明治維新』)といった論文の成果が反映されていないのが大半ですね。不思議で仕方がありません。
不勉強の一言では片づけられない問題を感じます。

>薩摩藩は武力倒幕派、坂本龍馬や土佐藩・越前藩などは平和的大政奉還派といった紋切り型の決めつけは史実にそぐわない
同感です。
時代は違いますがは関ヶ原合戦における東西に分かれた両軍を武断派VS吏僚派、尾張派VS近江派という形で分類されるのに類似していますね。
話は変わりますが、ご懸案の小松帯刀の新書はまだ先になりそうでしょうか?
楽しみにしています。

関心はただ一点
桐野
市野澤さん、こんばんは。

私もじつは「龍馬伝」で興味があるのは、慶応三年後半の政局とそれへの龍馬の関わり、そして近江屋事件をどう描くか、にしかないといっても過言ではありません。

高橋裕文氏の「武力倒幕方針をめぐる薩摩藩内反対派の動向」については、私も少しやりとりしたことがあります。まことに興味深い論考ですが、見解を異にしている部分が大きいです。とくに小松帯刀の評価に関して。
小松帯刀本については、各方面から問い合わせがあります。私の未熟の致すところでして、申しわけありませんが、もう少しお待ち下さい。

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南日本新聞連載「さつま人国誌」第134回
―斉彬への拝謁遅延を謝罪―

お知らせするのが遅くなりましたが、昨日のうちに連載が更新されました。
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新春特別編」ということで、通常より1段余分にスペースをいただきました。
文化部デスクのT井さんに感謝です。

西郷書簡の中身や背景は記事のとおりです。
越前藩士の村田巳三郎が薩摩を訪問したとき、西郷が会いに行き意気投合して、この書簡を書いたものです。
村田巳三郎は坂本龍馬とも非常に親しい間柄でしたね。

西郷の新出書簡はたまに出てきますね。
じつをいうと、私はもう1点、西郷書簡と思われるものをもっています。
ただ保存状態があまりよくなく、文意がとれないところがあります。
解読できたら、またご紹介したいと思います。
内容的にはこちらのほうがもっと面白いかも。

今回、西郷書簡の写真の下に釈文全文も付けてもらいました。
新聞記事ではあまり見かけない構成になりました。
もっとも、解読に自信がない部分もあります。
もしお気づきの点があったら、ご教示いただければ幸いです。

次回は以前予告した島津久章について書く予定です。

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【2010/01/12 16:49】 | さつま人国誌
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まいたけ
 あけましておめでとうございます。
 村田ちがいで、がっかりしてる人が、日野の方にいそうですね(にっ!)  

村田違い
桐野
まいたけさん、こんにちは。

西郷書簡、私も最初は別の村田に宛てたのかと思いました。
もうひとつの関連書簡と合わせて考えないと、年次も宛所もよくわからない書簡でしたね。

村田違い
いの
桐野先生、まいたけ様、こんばんは。お邪魔致します。

確かに、「村田違いかぁ」と溜息をついておりました。ご名答です!
安政四年ですか。私の追い求めている「別の村田」(新八ですが)は、数え年22歳。そろそろ結婚?といったところでしょうか。この頃はまだ高橋姓です(村田家への養子入りは万延2年です)。

村田違い
桐野
いのさん、こんばんは。

村田違いは残念でした。
でも、別の史料は頑張って下さいませ。


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ご縁があって、坂本龍馬の故郷、高知で来月講演をやることになりました。
以前、鹿児島で桐野利秋にちなんだ焼酎「桐野」を造っている方々との交流がきっかけになったものです。

演題が「坂本龍馬と桐野利秋の謎を解く」という、恐れを知らぬものになりました(汗)。
まあ、二人が実際、知り合いだったことは桐野の日記「京在日記」にも書かれているところです。
また鹿児島出身の友人で薬丸自顕流の達人でもある和田博温氏も特別参加して下さる。薬丸自顕流の鋭い型を披露して下さるのだろう。
ちなみに、桐野利秋も薬丸自顕流だったといわれています。

高知ご在住の方、あるいは来月高知に旅行・観光される方、よろしかったら参加してみませんか。

以下、イベントの要領です。

四国版・高知「日本侍士の会」
「謎とロマンと憧れ」本格焼酎で平成の交流

演題:坂本龍馬と桐野利秋の謎を解く

講師:桐野作人

特別参加:焼酎応援サイト「ひるね蔵」主宰 和田博温氏

期日:2010年2月14日(日)
開場:17:30~スタート18:00終宴20:00
会場:高知パレスホテル 高知県高知市廿代町1-18(担当者吉村)
TEL:088-825-2010
参加費:6000円(講演・飲食代込み)
参加人数:100名限定
主催:喜咲酒家(有)西森俊一酒店
 チケット販売等連絡先 088-883-1537
  担当:吉田
協賛:天世味酒販株式会社、中俣合名会社、太久保酒造、アサヒビール高知支店 他
後援:日本侍士の会・桐野同志会

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【2010/01/11 10:57】 | イベント
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アウトドア雑誌として知られている表題の雑誌。サイトはここです。
畑違いですが、龍馬特集を組んでいて、私のインタビュー記事が少しあります。

「冬こそ気持ちいい 歴史の道トレッキングのすすめ」と題した特集で、
「幕末編 龍馬を追いかけて土佐・伊予国境へ―坂本龍馬「脱藩の道」をあるく―」

龍馬の脱藩の道をアウトドアしようという企画です。

この雑誌では、もう10年くらい前でしょうか、「戦国アウトドア」と題して、兵粮丸を作ったりしたことを思い出しました。
近年はけっこう歴史寄りの企画が多いことに気づきました。龍馬以外でも、

「戦国編 雲海の彼方にそびえ建つ天空の城・但馬竹田城へ」

というのもあり、中井均氏が登場してますね。

竹田城を「日本のマチュピチュ」と呼んでいる個所で思わず笑ってしまいました。

アウトドア雑誌ですが、龍馬や山城の好きな方でも楽しめます。

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【2010/01/09 10:24】 | 新刊
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びわこ
BE-PAL
懐かしい~
まだ、花もはじらう女子大生(?)だった頃、北海道の大沼付近を旅してた時にキャンプセットのモデルで登場!

花もはじらう女子大生が、バックパッカーなわけないか(笑)


モデル
桐野
びわこさん、こんにちは。

花も恥じらう女子大生だった頃、BE-PAL誌のモデルになったのですか!
たまたま撮影されただけなのか、それとも、モデルとして選ばれて出たのですか?

最近、同誌では、北川えりというモデルさんが人気みたいですね。



びわこ
たまたま、大沼付近にいたので、「ここに座って」「ここに立って」って感じで撮られました。
こういうの、選ばれたっていうより、現地調達されたってことですよね(笑)

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拙宅では年末年始、ネット環境にまつわるトラブルが発生するのが恒例になっている。

今回も例外ではなかった。
まず、わずか10日間ほどでインターネットがつながらなくなったことが2回。
一度目は、机周辺に高く積み上げた史料本の重圧でコンセントがはずれるという単純事故。
二度目は、長く電源を入れすぎていたのか、光のモデムがフリーズしてしまった。
当初原因がわからなかったので、三が日にあわててサポートセンターに電話したら、モデムだと判明。
しかも、光電話もつながらなくなっており、通常の固定で電話することになった。
いったん電源を落としてから入れ直したら、正常に戻ってホッと一息。

ネットがつながらなくなると、陸の孤島に取り残されたような感覚になってしまう。
幸い、近年はイーモバイルの端末もあるので、万が一のトラブルでも、これをつなげば何とかなるが……。

つづいて、昨日から物書きにとって最悪のトラブルが発生。
何と、デスクトップPCのワープロソフトのトラブル。
私は守旧派で、20年使い慣れた「一太郎」で今もって入力しているのだが、一昨日、突如として入力不能となる。
たとえば、「興味深い」と打とうとして、「きょうm」まで打てても、「i」が打てず、なぜか「きょうm い」となってしまう。しまいには入力不能となった。
仕方なく使い慣れぬwordを開いたが、これも途中から同様の状態に。
どうも、特定のキー入力がダメになっていると判断して、翌朝、近くの家電量販店でキーボードを購入して取り替えてみたところ、これでも同様で改善しない。
よくよく考えてみれば、一太郎もwordも辞書はATOKを使っている。原因はこれか?

結局、今日現在でも完全に直っていない。
最初は入力できても、途中からハングアップとなる。
現在もノートPCから入力している始末。

一昨日かその前日、マイクロソフトの自動更新があり、それがあまりに時間がかかりすぎるので、未了のままキャンセルした。どうも残り少ないHDDの容量を超える大きな更新だったんじゃないかと思う。
思い当たるのはこれだけ。この一件が悪さをしてるんじゃないかと思うが、素人なので原因は不明のまま。

いま大事な、しかも大量に入力しなければならない原稿を抱えており、ノートPCでの入力は正直いってつらい。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」と、昨年末に終わった某ドラマで何度も強調していたから、それを信じて、しこしこ入力するしかない。

しかし、何かに取り憑かれているんだろうか?

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【2010/01/08 11:09】 | 雑記
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新しい大河ドラマが始まりましたね。

映像表現が「坂の上の雲」と同じ手法を使っているように見えました。
何というシステムなんでしょうか?
通常の画面よりきれいで深みと陰影があり、リアリズムが増す効果があるような気がします。

脚本は昨年の大河ドラマより数等上に感じました。
ツボをよく押さえていて、さすが売れっ子脚本家ですね。
ドラマとしては楽しめるものになっていると思います。

導入部分、予想は当たらずとも遠からずだったです。
おそらく功成り名を遂げた弥太郎が過去を回想するシーンから始まると思っていました。
ここは当たりましたが、坂崎紫瀾が登場したのはサプライズでしたね。
なかなかの着想です。

この段階で史実云々は言いますまい。

私としては、脚本家の時代のとらえ方に、そしてそれの龍馬への投影のしかたに少し違和感を覚えました。
土佐藩独得の身分制度である上士と下士の対立について、

憎しみからは何も生まれない

と龍馬に言わせました。
単に個人的な憎しみだけならそうかもしれませんが、描かれる舞台は個人の憎しみでないことは明らかです。
身分や階級という集団的な問題です。
今後、この考え方を全編に貫徹するなら、それを龍馬に体現させるなら、果たして幕末期の時代相を描けるものだろうかという疑問です。杞憂であればよいですが……。

土佐藩においては、天保庄屋同盟、そして土佐勤王党の結成をみればわかるように、身分差別の憎しみや憤激のなかから改革の炎が、そして維新変革への主体が創出されたのではないかと思います。

他藩もそうでしょう。

下級城下士の結社精忠組を生んだ薩摩藩
松下村塾や奇兵隊など諸隊を生んだ長州藩
天狗党を生んだ水戸藩などなど。

いずれも徒党や結社を結んでの、下からの上に対する、ときには流血を伴う異議申し立てや実力行使が藩政を変え、さらには日本全体を変える原動力になったのではないかと思います。
その根底にあるのは、集団的な憎しみないしは憤激であり、それが対外的危機と結びついて時代を動かしたのだと思います。

そこのところを踏み違えると、何か違うドラマになるような気がします。
龍馬だって、れっきとした土佐勤王党の一員ですから。

今年の大河は昨年とは打って変わって出来がよさそうですから、そこのところを注目していきたいです。

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【2010/01/03 22:12】 | 龍馬伝
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新年快楽
みらん
桐野さん、こんばんは。
今年もブログ、楽しみにしてます!

ついに始まりましたね~(^O^)。
坂の上の雲と龍馬伝は何とかという新しいカメラで撮影しているので、映像がやたら綺麗なんだそうです。
ハンディカメラ風な撮り方はさすがハゲタカスタッフだなと思いました。

憎しみからは何も生まれない~は、桐野さんのご意見に賛同です。
脱藩なんかもどう絡めて行くのでしょうね!?
個人的には弥太郎のぼさんに一票でした(笑)。

ところでBS‐hiで始まった『蒼窮の昴』はご覧になってますか?


木暮兼人
おひさしぶりです
今年の大河の今のところの出来にちょっと
ほっとした一人です

個人的には・・・
イデオロギーの対立となるはずの幕末の話を
そんなきれいごとではじめちゃっていいのかなあ・・・
と思わないでもないのですが
福山リョウマの全体像がまだ曖昧模糊としているので
このまま様子を見たいと思います

本年もよろしくお願いいたします

本年もよろしくお願いします。
ぶるぼん
先生、あけましておめでとうございます。
とうとう始まっちゃいましたね。大河ドラマ。
本年からは旅じゃBLOGでもなく、
shugoro日記のほうになりますが、
コバンザメ商法でしつこくトラバ貼らせていただきますね。
お互い頑張って批評を完走できるといいですが。



とらさん
あけましておめでとうございます。
竜馬を、「戦いは何も生まない」とか平和を愛する人物のように描くのかもしれませんが、武器の仲介、とかそのあたりもどうするのでしょうね。
たぶん、「刀は自分の愛するものを守るためにある」とかそういったセリフも出そうな気が・・

今年もよろしくお願いします。

プロレグッシブカメラ
桐野
みらん隊長、こんにちは。

あの画質、調べてみたら、プロレグッシブカメラっていうらしいですね。

弥太郎については、正岡子規の残像がまだこびりついています。短期間でどちらも印象的ですね。

あいや、『蒼窮の昴』は地上波放映じゃなかったのですか!
たしか田中裕子が西太后を演じているんですよね。予告か番宣は見ました。唯一の日本人俳優で、他はすべて中国人とか。
故宮もどこかにほぼ原寸大のセットが出来ていると聞いて驚きました。中国はスケールが違います。

龍馬像
桐野
木暮兼人さん、こんにちは。
ご無沙汰しておりました。

龍馬像については、何となく想像できる気がしています。
争いごとを好まない平和主義者で、左右の対立を調停する周旋家として描くんだろうと思います。

龍馬は薩長同盟など周旋に真価を発揮しますが、それは単に相対する両者を妥協させるという底の浅いものじゃなく、時代のうねりを自覚したうえでの真剣勝負だと思うのですが、果たしてそこまで描ききれるか。
近年の大河ドラマの傾向を見ていると、そんな面倒ことはスルーする可能性が高いのではと思っています。

ともあれ、本年もよろしく。



コバンザメ
桐野
ぶるぼんさん、こんにちは。

トラックバックの件、了解です。
そちらのブログも私がスルーした土佐藩内の内訌の史実を指摘されていて、なかなかの時代考証だと思いました。

本年もよろしく。

平和主義者?
桐野
とらさん、こんにちは。

ご指摘のとおりですね。
どうも近年は、龍馬を底の浅い平和主義者の枠に押し込めがちですね。
私は大政奉還の直前まで、龍馬は武力倒幕論者だったと思っていますが。ご指摘のとおり、土佐藩に小銃1000挺を運び込んだのも、土佐藩に倒幕をやらせるためでしたからね。

こんな明々白々の史実をスルーして、心地よい小市民的な龍馬像に自己満足して何が面白いのかと思っていますが、所詮、年寄りの冷や水のようで(爆)。

はじめまして。
うなきち
いつも、歴史の疑問を調べる参考にさせていただいております。ありがとうございます。

今回の大河は、私の故郷土佐の話なので、つい、初書き込みいたしました。

私も去年の大河よりは、脚本を含め演出、全体の構成など数段上やな~と思いました。それと、方言の指導が、かなり行き届いていて、土佐弁ネイティブ(笑)の人間が聞いてても不快感がかなり少ない。(広末さん、島崎さんは土佐人なので別格として。)なかでも、寺島しのぶさんのニュアンスの捉え方には、驚きました。すごいうまい!!香川さん、宮サコさんも上手。見習ってよ~!?、福山クン!(^^;)

あと、土佐人の気質もよく表現されてましたよ。
女子衆の気が強いが、世話好きでおしゃべりなところ。
男衆の酒好きで、声がでかくて短気な人が多いところ等、これまたニュアンスの捉え方がうまい!!
幼少時に、親に土佐弁で叱られた事などを思い出されて、見てて気分が悪くなったほどでした。(汗)

後は、みなさんご心配の様に、竜馬をしっかり描いてほしい。一昨年の小松帯刀のように「そんなはずはないやろ~!!」ってとこに、持って行かないでほしい。。。
(あれは、見ててとても残念でした。)

ついでに、高知に観光客の方にたくさん来ていただければ、言う事ないんですけどね。(^^)貧乏~ですから、高知県は。(汗汗。。。)

ともあれ、今年もよろしくお願いします。


とらさん
おはようございます。
竜馬は決して、武力否定論者、ではなかったでしょうか。
ただ、あくまでドラマはドラマなので、これをたたき台にして、こっそり?、竜馬を語らないと、居酒屋なんかでは後ろからバッサリ・・

田中裕子の西大后、写真とものすごく似てますよね。そっくりを越えて影武者レベルのよう。

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謹賀新年
旧年中のご愛読、ご支援ありがとうございます。
本年もよろしく。

さて、昨年暮れ、鹿児島で大きな発見がありました。
鶴丸城の発掘での出土物にキリシタン瓦が含まれていたとのこと。
詳しくはここに記事があります。

花十字文」の瓦は明らかにキリスト教の表象とのこと。わが国では、島原の乱の舞台になった原城跡など長崎県だけから見つかっており、長崎県以外では初めてとのこと。

鹿児島はフランシスコ・ザビエル(シャビエル)の最初の上陸地ですが、その後、島津氏は貴久の代からキリシタン排撃に転じました。
ですから、慶長7年(1602)に築城された鶴丸城からキリシタンの遺物が出てくることは通常ありえないのですが、唯一の例外があります。
それは記事にもあるように、永俊尼ことカタリナ夫人の存在です。
カタリナ夫人はキリシタン大名で著名な小西行長の家来の娘で、洗礼名がカタリナ。
薩州島津家の最後の当主忠辰(ただとき、釜山で病死)が豊臣秀吉に軍役懈怠の科で改易されたのち、その一族は小西行長預かりとなりました。忠辰の弟、忠清がカタリナと縁組し、その娘が島津家久の側室となり、二代目薩摩藩主光久を生みました。なお、忠清は島津義久の外孫(長女於平の子)にあたります。

カタリナ夫人も島津家に引き取られましたが、島津家久から棄教するよう迫られました。しかし、その迫害に屈せず、あくまで信仰を捨てなかったため、寛永11年(1634)、種子島に配流となりました。
ふつうなら、幕府のキリシタン禁制に背くわけですから処刑されてもおかしくなかったのですが、藩主の祖母とあってはそういうわけにいかず、配流となったわけです。
一昨年夏、種子島を訪れたとき、種子島家の墓所を参拝し、カタリナ夫人の墓も撮影してきましたので、その写真を載せておきます。
永俊尼墓
永俊尼案内板





それで、花十字文の瓦が出土したのは鶴丸城の二の丸跡とのこと。
二の丸は現在の鹿児島県立図書館や鹿児島市美術館のある所です。
鶴丸城築城直後には、二の丸は世子(江戸時代初期は光久)の居住する空間だったと思われますから、祖母のカタリナ夫人も同居していた可能性が高いです。茶室とか四阿とか、カタリナ夫人の意向で建てられた建築物にこの瓦がのっていたのかもしれませんね。
ちなみに、幕末期、篤姫は現在の黎明館駐車場のあたりに住んでいたようです。大奥がそのあたりにありました。
寛永年間は大奥がそこまで拡張されていたかどうかはわかりません。

個人的に気になっていることがあります。
それは永俊尼という名称です。
本人は生涯キリシタンの信仰を捨てなかったわけですから、仏教の尼僧の名前はいかがかと。本人の意向を尊重した名称がいいのではないかと思います。
細川ガラシャ(本当は明智ガラシャか惟任ガラシャかもしれませんが)にならえば、島津カタリナとでも呼んでもいいですし、あるいは文中で使ったカタリナ夫人あたりがいいかもしれないですね。
新聞記事が「カタリナ永俊」、種子島家の墓所の案内板が「カタリナ永俊尼」としているのは、比較的好ましいです。
お墓が宝篋印塔形式なのも可哀想ですが、こればっかりはご禁制の時代ですからねえ。

じつはカタリナ夫人とその周辺のことを南日本新聞の連載「さつま人国誌」で記事にする機会をうかがっておりました。
まさに絶好のきっかけができました。近々書きたいと思います。

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【2010/01/01 19:02】 | 戦国島津
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ばんない
あけましておめでとうございます。本年も更なるご活躍をお祈り申し上げます。

さて、鹿児島城から何か怪しげな物(失礼)が出土していたようですね。カタリナ(永俊尼)とのつながりが既に指摘されているようですが、カタリナの娘が島津家久の側室になったのが慶長16年頃(「家久公御養子御一件」)、元和6(1620年)には夫・島津忠清の死去により竪野に転居(「旧記雑録後編」5-884、それ以前の居所は史料では不明)してますから、問題の瓦葺き建物がカタリナの命によって建てられたとしても存在していたのはかなり限定された期間なのではないか、と思いました。

ところで、この調子だと去年の年末に予告があった島津久章の話はかなり先になりそうですね。まあ縁起でもない話(ネタバレ失礼)なんで正月外すのは正しい選択のような気がします。

カタリナ夫人
桐野
ばんないさん、おめでとうございます。

カタリナ夫人の動向について書いていただき、有難うございます。鶴丸城に滞在していた時期は短そうですね。
鶴丸城がちゃんと機能するようになったのは慶長15年(1610)くらいからだと思いますので、最大限に見積もっても10年間あるかないかというところでしょうか。
まあ、国分様こと亀寿が国分に追いやられていますから、二の丸御殿は光久生母が主人だった可能性は高いですけどね。カタリナ夫人だけでなく、一族や周辺にもキリシタンがいたようですから、何らかの建築物が建てられた可能性は十分ありそうですね。

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